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鏑矢祭の新聞記事

平成25年4月26日付、読売新聞(群馬版「すくーる自慢」)に鏑矢祭についての記事が結構大きく出ていました。
ネットにも出ていたので記録のためにそのままコピペしておきます。ここから

鏑矢祭で弓 6年男子成長
太田市立生品小
 太田市立生品小学校からわずか500メートルの距離に、軍記物語「太平記」でおなじみの武将新田義貞が鎌倉幕府打倒を宣言した生品神社(太田市新田市野井町)がある。
 義貞が挙兵した1333年(元弘3年)5月8日にちなみ、神社では毎年この日に「鏑矢(かぶらや)祭」が開かれる。義貞が吉凶を占うため鎌倉に向けて鏑矢を放ったという伝承に基づき、白鉢巻きにはかま姿で矢を放つのは6年生の男子児童だ。
 学校の公式行事ではなく、総合学習の一環で、児童にとっては地域の歴史の重みを知る大切な日でもある。稽古が始まる新学期早々の4月下旬、校内はいつもと違う緊張感とわくわく感に包まれる。女子児童からも「弓を引きたい」との声が寄せられるという。
「斜め右向け右!」「1、2、3、前へ、4、5で後退!」
 同小体育館で23日放課後、祭りの指南役「式師」を務める茂木晃さん(76)の声が響くと、男子児童36人は「ざっ、ざっ」と体を動かした。氏子も手伝う中、祭りで披露する陣形を整える。次第に児童の動きは「魚鱗(ぎょりん)」と「鶴翼」の2陣形にそろっていった。
「弓は常に水平に持つ!」
 整列時にも、武士らしくきりりとした姿を保っているか、茂木さんの目は厳しい。最初は面白半分に笑っていた児童も、鎌倉を向いて弓に矢をつがえる姿勢になると少し大人びた表情を見せる。
 祭り翌日が誕生日の飯島孝明君(11)は「新田義貞の気持ちになれるし、陣立てを変える時の動きが楽しかった。誕生日前日なのは、まあ、うれしいかな」とはにかんだ。柏原浩孝君(11)は「矢を放つまでわくわくして待っている。当日まではずっと緊張している」と待ち遠しい様子だった。
 稽古は、祭りまでに7~8回、1時間ずつ行われる。弓矢は茂木さんの手作りで、祭り当日は保護者がはかまの着替えを手伝う。多くの見物人も訪れるため、児童らは地域に見守られ、育てられていると肌で感じることになる。
「祭りを体験すると、最上級生に進んだ自覚を持ったという以上に立派になったと感じる」。土屋修校長(54)は、児童が稽古に励む姿に目を細める。茂木さんは、式師の継承者が現れるのを願っている。

 ▽校長 土屋修▽創立 1874年(明治7年)に「笠松学校」、翌年に「成功学校」と「蓬直学校」が開設された。通学地区での分離や分教場の設置などを経て、89年(明治22年)に「生品尋常小学校」となった▽児童数 566人▽学校教育目標 心身ともに健康でたくましく、豊かな感性と共生の精神を持ち、創造性に満ちた自ら学ぶ意欲を具体化する児童を育成する――など▽所在地 太田市新田村田町
(2013年4月26日 読売新聞)


当サイトにおいての「鏑矢祭」の記事はこちらで。
読み返してみて、残念なのは「斎藤佑樹」選手。
やはり、初心に帰るべきなのか。
新田の魂はここにあるぞ。
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新田義貞をゆるキャラ化する太田市の雑な仕事

平成24年7月20日 読売新聞から
新田義貞 ゆるキャラ 読売新聞

新田義貞ゆるキャラに「脇差し必要」
 太田市で12月から原付きバイクなどに取り付けられるご当地ナンバープレートのゆるキャラ「よしさだくん」に、19日の市議会総務企画委員会で、「戦に臨む武士には、脇差しが必要だ」と、市議から注文が付いた。
「よしさだくん」は、現在の同市内から新田義貞が鎌倉幕府攻めへ挙兵したのにちなみ、同市職員がデザインし、市教委文化財課が2009年からゆるキャラとして使用している。太刀を1本帯びた、よろいかぶと姿の三頭身が特徴。市は今年6月、ナンバープレート導入への検討委員会を設けて親しまれるキャラクターを探し、「よしさだくん」に白羽の矢を立てた。
 このキャラクターデザインに「待った」をかけたのは、市川隆康市議(無所属)。「太刀を失った後に命を守るのは脇差し。かぶとへ新田氏の家紋を追加するとともに、脇差しも描いてほしい」と、デザインの一部変更を求めた。
 市側は「ほかの場でも使われているキャラクター。変更は難しい」と答えるにとどめたが、市川市議は「間違いを次代に伝えたくはない」と不満が収まらない様子で、重ねて変更を要望した。

なにっ!よしさだくんだと! 許さん!
確かに当サイトで、新田義貞メインで地元を盛り上げようみたいなことは書いてきた。
過去記事 「萌えキャラで盛り上がる足利」と「無策・放置の太田(新田)」。参拝客が少ないのはやはり寂しいよ……。などなど。
だが、「ゆるキャラ」化は許せん。
そして、何だよこのキャラは?
新田義貞 ゆるキャラ
読売新聞のサイトにカラーで拡大画像がある。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20120719-OYT8T01706.htm
可愛くもなければ、かっこよくもない。「萌え」でもなければ「燃え」でもない。
なんなんだ、この表情は? 目が宇宙人みたいで、鳩山由紀夫にしか見えないぞ。それに全体の雰囲気が、昭和の五月人形みたいだ。一体だれがこんなキャラデザにしたのか。
これなんかどうせ市役所の会議室で「いまあちこちでゆるキャラ流行ってるから、うちもやりましょう」「そうだ、そうだ」「で、キャラクターはどんなんにしましょうか」「適当でいいよ、どうせゆるいキャラだから」って、こんな感じで決まったんじゃないの。どうみてもヤッツケ仕事にしかしか見えないのだが。
どうせやるなら、戦国BASARAのようにひたすらカッコよくするか、それとも思い切って、子供にも親しまれるような「きゅんキャラ」のようにしてくれればよかったのに……。

新聞記事を読むと「ほかの場でも使われているキャラクター。変更は難しい」とあるから、このキャラをあちこちで使うことになるのか。
はっきりいって、このキャラで「新田義貞」の名を使われるのは、イヤだな。

新田義貞と儀源寺など

7月2日は、新田義貞公の命日であります。(新暦では8月17日)
毎年、この時期に合わせて義貞についての記事を書いていました。
過去記事
「私本太平記」の新田義貞のカッコいい場面を書き起こしてみた。
「7月2日は新田義貞討ち死にした日。そして、世良田東照宮の向き。」
「7月2日は新田義貞の命日。」
ということで、今年も。(ちょっと過ぎちゃったけど)

群馬県発行「ガイドマップ 上毛かるた」の「れ」の項目に新田義貞が載っていたので引いてみた。
上毛かるた 新田義貞

歴史に名高い新田義貞
新田義貞は、武将の中でも正義を守り誠の心をつらぬいた人として、全国的にも人気の高い人物でした。
後醍醐天皇が、政権を取り戻そうとし武士たちに呼びかけると、それに味方した義貞は、1333(元弘3)年、わずか150騎をひきいて生品神社(太田市)で兵を挙げ鎌倉に攻め入りました。
そいの翌日には、この武将を慕って進軍の道すじの村々から兵が集まり、稲村ヶ崎海岸にたどりついた時には相当な数になっていたそうです。
次の足利尊氏との戦いで、故郷に帰ることなく越前国藤島(福井県)で亡くなってしまいましたが、正々堂々と戦った若き武将は、武士の手本として藤島神社(福井県)や故郷新田神社にまつられています。
当時、『上毛かるた』に武士をよむことはGHQ(連合国軍総指令部)に禁止されていました。日本の歴史に足跡を残した武士を一人でもよみこみたいという強い思いがあり、『上毛かるた』の題材公募でも多く寄せられたことから、交渉を重ねて説得し、よみこむことができた札です。

GHQのご意向を押し切ってまで、義貞公を推した当時の上州人の熱意には頭が下がります。
いまだったら、高山彦九郎や中島知久平も入ってもいいと思う。

つでに「儀源寺」のことを。
儀源寺は、勾当内侍関連の寺。義貞との間にできた山吹姫を連れ新田荘に隠れ住んだ内侍は、出家して「儀源尼」となったという。
儀源寺 石碑
場所は群馬県太田市亀岡町141。中島知久平の旧邸の近くといった方が分かりやすいだろう。

大きな地図で見る
儀源寺 扁額
「曹洞宗儀源寺造営記念碑」にその由来がある。

わが儀源寺は関東の名族新田氏と深い因縁の絆に繋がれている。元弘三年五月新田義貞公は綸旨を奉じて義兵を挙げ忽ちにして鎌倉幕府を討伐した。その勲功を嘉せられ第九十六代後醍醐天皇の側近に仕えた匂当内待を宿の妻として賜った。勤王の志極めて厚かった義貞公は朝敵を亡ぼさんと各地に奮戦したが、武運拙く延元三年七月越前国足羽郡藤島において壮烈な最期を遂げられた。
勾当内侍は義貞公の首級を携えて東国に下り上野国新田郡武蔵島の地にこれを埋葬した。利根川の辺りに庵を結び剃髪して尼となり儀源比丘尼と称し正観世音菩薩の尊像を孰され生涯義貞公の菩提を弔った。次いで義貞公第三子義宗公の末妹覚心比丘尼が庵の第二世となった。更にその遺志を継いだ歴代の各比丘尼は御庵様と敬慕されて孰れも衆生済度に献身したが戦国時代の末葉に遂に廃寺同然となった。元和元年に再興、大洪水にあったが再建された……(以下略)

儀源寺 本堂本堂
儀源寺 大中黒屋根の瓦には新田の家紋「中大黒」がある。
儀源寺 碑記念碑には「当山歴代住職並歿年月日」が刻まれている。
第一世 儀源比丘尼 新田義貞公夫人 勾当内侍吉野山柊堂創建 生涯弔義貞公菩提 正平二十年二月一日逝去 
第二世 覺心比丘尼 新田義宗公末妹 宗良親王内室国良親王生母 終生献身衆生済度之淨業 元中八年七月七日逝去
後継歴代御庵比丘尼 
第三世 秋今比丘尼岩松尚純公室 第四世以降郷人尊称御庵比丘尼 
と続いて、現在が第二十三世となっていた。
この近くに、新田義貞と勾当内侍を祀った「花見塚神社」がある。
詳しくは、「新田遷都」総まとめ  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第11回
中島知久平と新田義貞  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回あたりで。

儀源尼となった内侍は、後醍醐天皇の即位から長慶天皇即位までを記した「儀源秘記」を残し、これを引き継いで覚心尼(山吹姫)が、興国元年の国良親王の時代から永享十三年の将軍・足利義教が赤松満祐に殺されるまでを書き綴った「南北朝新田覚心秘記」を、この寺で書いたことになる。そして、「南北朝新田覚心秘記」の表紙には「此ノ書ハ正平九年ヨリ五百年間禁書也」の添え書きがあったという。南朝側の歴史が書かれているから秘書としたのだろう。500年後といえば江戸時代の幕末期。倒幕運動に新田義貞が注目され、明治維新には南朝研究が盛んとなるから、この500年というのが何らかの不思議な因縁を感じてしまう。
それに、まさか、武家の棟梁となり天下を治める人物(徳川家康)が新田氏の末裔を名乗り、次の時代の日本の政治の中心的人物である井上馨の夫人が新田氏の末裔であり、そして天皇陛下のお妃が新田一門の末裔となろうとは、勾当内侍もこのときは思いもしなかっただろう。

さて、本堂の裏手には墓所があり、ここにも石碑がある。
儀源寺 洪水利根川の近くにあったため何度も付近一帯が洪水被害となったため、治水工事が行われたという記念碑だ。
このあたりの地名は「押切」という。押切とは川の水が押し切ってここまで来たという意味だ。
そう、まさに利根川沿いに内侍はいたのだ。
この川沿いには、新田一族の関連寺社はもちろん、徳川氏と新田氏を結ぶ世良田東照宮や長楽寺や満徳寺が存在し、この川を下れば児島高徳の寺「高徳寺」へ通じ、館林へ移住した新田一門の正田家もこの川を利用している。そしてこの川は江戸に通じるのだ。
関連記事
謎の人物・児島高徳  新田義貞伝承を追う!実は……。シリーズ⑧
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その2 

やはり「ここ」には何かあるんですよ。

新田一族情報

新田一族情報ですよ。
平成24年6月1日 上毛新聞から

新田一族の暮らし 太田・江田館跡発掘調査展 杯や天目茶碗を展示
江田館

太田市の国指定史跡「新田荘遺蹟」の構成遺蹟の一つ、江田館跡(新田上江田町)の発掘調査結果を紹介する「江田館跡展~平成23年度の発掘調査を中心に~」が7月1日まで、太田市史跡金山城跡ガイダンス施設で開かれている。
新田荘は本県を代表する中世の荘園。東照宮(世良田町)や生品神社(新田市野井町)境内など市内11の寺社や館跡などで構成する複合遺蹟として2000年に国史跡に指定された。
江田館(江田城)は鎌倉時代から南北朝時代の建造とされ、鎌倉攻めに従軍し活躍した江田行義の館だったと伝えられている。3度の発掘調査で土塁の構造や建築遺構、溝、土杭などが確認された。
昨年度の調査では、敷地が以前は正方形に近い形だった可能性があり、主郭部が溝によって東西の区画に分けられていたこと、堀立柱建物が17棟あったことが判明した。
会場では全体図や発掘調査の写真パネルのほか、宴会で使われた杯、客人をもてなす際に用いられた天目茶碗など、館での生活を思い浮かばせる約30点を紹介。同市教委は「中世に築かれた荘園の歴史とともに新田一族の活躍に思いをはせてもらえば」と来場を呼び掛けている。


そして、上毛新聞の折り込み「こども新聞」(5月27日付け)の中で、新田義貞を取り上げていました。
新田義貞 新聞
画像で使われていたのは、分倍河原駅前の新田義貞像でした。

新田氏情報のまとめ。最後は強引に「中島知久平邸」は保存すべきだと主張してみる。

勇壮!人形山車巡行、三国祭中日 終日、子ども囃子の音色も熱気

(2012年5月20日午後7時09分)北陸三大祭りの一つで県指定無形民俗文化財の福井県坂井市の「三国祭」は、中日を迎えた20日、呼び物の人形山車(やま)が三国町の市街地を練り歩いた。朝から青空が広がる快晴に恵まれ、日曜日ということもあり勇壮な山車の姿を一目見ようと大勢の見物客でにぎわった。
 今年は6基の山車が登場した。午前中に各区を出発し正午ごろに三國神社前に勢ぞろい。午後1時過ぎに四日市区の「新田義貞」を先頭に巡行を開始した。山車を動かす男衆は力強く巧みなかじさばきを披露。6メートルを超す巨大な山車が露店や見物客であふれる細い路地を縫うようにして練り歩いた。
 各山車には、この日に向けてけいこを積み重ねてきた子どもたちが囃子(はやし)方として乗り込み、「えーいやー」と掛け声を掛けながら演奏。三国の港町は笛や太鼓のお囃子の音色がこだまし、終日熱気に包まれた。(高村友基)


義貞 山車新田義貞の山車(中日新聞から)

新田 山車2祭りを巡行する義貞公の山車
ほんと、立派な山車ですね。「義貞愛」あふれる福井の方々には感謝します。(それに引き換え群馬は……)
過去記事 各地で「新田義貞」「新田一族」を祀る大祭が行われました。しかしその一方で、群馬県太田市は……。

では次、平成24年5月19日 読売新聞 群馬版から
「榊原康政 正室の墓所は?」 館林市史編さんセンター 岡屋紀子さんの記事

ツツジでにぎわった館林は、まもなくハナショウブの季節を迎える。城沼の水面に映える陽の光は早くも夏を感じさせる。
その城沼の東端にある浄土宗の名刹善導寺の境内には、初代館林藩主で、徳川四天王の一人として武勇に名高い榊原康政が眠る。昨年3月の東日本大震災で榊原家墓所でも墓石が倒壊し、1年を費やして修復を行い、このたび善導寺で開眼落成式が行われた。
墓石には、長男の大須賀忠政、二代藩主康勝、康政の側室花房氏の墓もある。榊原家は康政、康勝、忠次と三代にわたって館林を治めた後は、奥州の白河、播州の姫路、越後の村上、高田へ転封した。
このため、榊原家の墓所は館林のほか、姫路、東京など全国に約三十ヶ所あるが、善導寺の榊原家墓所をめぐっては不思議なことがある。
康政と同じ墓所に眠るのは、正室ではなく側室の花房氏なのだ。実は、江戸中期に正室の墓を調べた記録が榊原家に残るものの、そこには「葬所不詳」とだけ、記載されている。
康政の正室となったのは、徳川家康に仕えた大須賀康高の娘であるが、名前は分かっていない。正室との間に生まれた康勝だった。
康勝は大坂夏の陣で患い帰路に亡くなり、榊原家は断絶寸前になったが、家康の命令によって忠政の長男忠次が10歳で榊原家を継ぎ、大須賀家が絶える羽目に。結局は、正室の系統が榊原家を継ぐことになった。
江戸時代、大名家の家系を守るためにはいろいろな方策が取られた。記録には書かれていないが、そこからは当時の女性たちの生きる姿が垣間見え、家名の重さをどんな思いで支えたのかと想像を巡らせてしまう。全国にある榊原家ゆかりの寺院のどこかに正室の墓は今も残っているのではないか。いずれは探し出し、市史に残したいと思う。館林の歴史秘話をこれからも掘り起こしていきたい。

えっ、新田氏と関係ないって、声も聞こえそうですが、そんなことはありません。 過去記事「新田氏関連ニュース。「里見氏」と「榊原康政と俳優・川野太郎とつつじが岡公園」」にあるように、ツツジが関係してくるのです。

では、次 上毛新聞に折り込みで配布されるタウン紙「太田タイムス」のコラムから

先日みた、ある番組で脳裏から離れないものがある。「太」と「大」である。両方とも「おおきい」という意味があるが、聖徳太子は「太」で「お大師様」は「大」である。点があるかないか、が気になるのである。そのきっかけはある寺の山号でのこと。太田市の由緒ある寺で金龍寺がある。武将・新田義貞の菩提寺である。そこは「大田山金龍寺」と書く。秀吉が天下統一の頃、その寺は常陸国の牛久(茨城県)に移転し荒廃したが、江戸時代に復興した。そこの山号は「太田山」である。この点のあるかないかで深い意味があるかもしれない。「画龍点睛を欠く」という言葉があるが点は重い。

これは金龍寺。過去記事でいえば、「新田義貞伝承を追う②  義貞の墓」や「中島知久平と新田義貞  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回」あたりになります。
金龍寺・扁額画像は金龍寺の扁額

上記の過去記事を見ていただければ、新田氏関連の寺社の再建・再興、記念碑の建立など新田氏の顕彰に中島知久平が大きく関わっていること分かるでしょう。その知久平についての新聞記事があったのでコピペしておく。
平成24年年4月9日付け 読売新聞から

「飛行機王」中島知久平邸大修理…群馬・太田市
群馬県太田市教委は、同市押切町に残る市重要文化財「中島知久平邸」について、1億円以上かけた初の大規模修理に乗り出すことになった。ロの字型をした屋敷の西側の玄関棟を耐震補強し、2013年度の公開を目指す。市民行事に貸し出す地域交流センターとしての活用も決めており、同市教委文化財課は「建物の素晴らしさとともに、太田市の歴史に関心を持ってほしい」としている。
 屋敷は、現在の富士重工業の元になる中島飛行機を興し、「飛行機王」と呼ばれた中島知久平(1884~1949年)が、両親のために1930年に建てた大邸宅。玄関棟と客室棟、居間棟、食堂棟が回廊式でつながった計約970平方メートルの一部2階建てで、1万平方メートル以上の敷地に建つ。
 現在の工業都市太田の基礎を築いた人物ゆかりの屋敷としての歴史的な価値を持つほか、和風建築に応接間で洋風を取り入れ、昭和初期の和洋折衷様式を色濃く残している。ヒノキなど高級建築材も使われていることから、2009年5月に市重要文化財に指定された。
 その後、市教委は公開も考えたが、09年度に耐震補強が必要と判断されたため、一度見送っていた。
 今回の修理は事業費が1億1950万円。約40%分は、国土交通省の社会資本整備総合交付金が受けられる見通しとなったため、実現することになった。
 同課によると、いったん壁を取り崩し、中に合板様の補強材を入れたり、天井の目に見えない部分に筋交いを入れるなどの修理が予定されている。玄関棟前の庭には砂利も敷き、南に面した庭に芝を張ることも計画されている。
 ただ、二つの応接間にかかる高級カーテンは「予算的に修理が難しく、取り外し保管する」という。 同課は、昨年行った一般公開の日を今年も設け、市民に屋敷の価値への理解を深めてもらう予定だが、1億円以上をかけても今回の修理は屋敷の西側のみで、残りの4分の3の修理日程は未定という。

新田氏(高山彦九郎も含む)関連の寺社に行って、石碑の碑銘などを見ると、寄付者や発起人などといった形で中島知久平の名を多く見つけることが出来る。新田氏の歴史的功績を最認識させた功労者だといえるのだ。むろん南朝方の武将たちが必要以上に軍国主義に利用されたという面もあるが、それを差し引いてもなお中島知久平が果たした意味は大きい。いま新田氏関連のものを見ることができるのは知久平の力(財力・政治力)の賜物だともいえるからだ。
ならば、新田義貞及び一族・一門の遺蹟を残そうとするなら、中島知久平の功績・遺物もセットで保護すべきではないか、と思う。
何度も書くけど、中島知久平邸の周辺を眺めてみれば、ここが歴史物の宝庫だというのが分かる。
市内へ向かえば金山、呑龍さんの大光院、金龍寺。旧新田町方面へは斎藤佑樹とも縁が深い生品神社、反町薬師。
そして、この川を上がっていけば世良田東照宮や長楽寺へ続き、そこは徳川氏発祥の地だ。そして、幕末の志士に影響を与えた高山彦九郎の生家(記念館)があり、下っていくと大泉町にある児島高徳の墓・高徳寺へ、さらに下ると館林へ行き美智子皇后陛下を生む正田家へ続くことになる。(川向こうの深谷には渋沢栄一の生家(記念館)がある)
実はこの地は、太平記の時代から現代まで綿々と続く歴史的秘史を持つ場所なのだ。
これらを地理的に結ぶ点となるのが、「中島知久平邸」だと思う。
東毛の歴史的遺蹟として残す意味は十分にあると思うのだが、どうだろうか。
理由は、「東毛奇談」で。

新田義貞の銅像再建、しかと見て参りました。

前回の「新田義貞像は5月8日にお披露目!」で書いたように9日に見に行ってきました。
新田義貞像 正面1正面
新田義貞像 正面2「中大黒」の家紋がでかくっていいですね。
新田義貞像 正面3やや離れた場所から。たぶんこの位の位置くらいから新田一門、家臣たちは、義貞さまの凛々しい姿を仰ぎ見たであろう。
新田義貞像 背面いいのは背面だ。なぜかガンダムのようにカッコイイ。日本のロボットアニメの源流がここにあるようだ。
武人埴輪から武将の甲冑姿へ、そしてロボットアニメへと続いているのだ。
過去記事 神社とは。 ガンプラとシュタインズ・ゲートと砂川神社訴訟とか「武人埴輪からガンプラへ。日本人は昔からこういうモノにワクワクしていたんじゃね。」とかで。
新田義貞像 解説板像の台座にはこれまでの来歴が刻まれている。「東日本大震災という厳しい状況の中、多くの寄付金が集まった」云々といったことも刻まれてあった。
新田義貞像 寄付者名碑銅像再建に寄付者した名前が刻まれた碑。これを見てみると、各地から募金が集めっているのが分かる。

さて、新聞各紙も結構大きく取り上げていた。

新田義貞の銅像再建、除幕
新田義貞が鎌倉に向けて挙兵したとされる太田市新田市野井町の生品(いくしな)神社で約2年前に盗まれた義貞の銅像が再建され、8日、除幕式が行われた。
 神社は国指定史跡の新田荘遺跡の一部で、義貞が1333年5月8日に鎌倉幕府倒幕に向けて挙兵した場所と伝えられている。1941年に造られたとされる境内の高さ約80センチの銅像が、2010年2月に台座から切り取られているのが見つかった。地元住民らは再建委員会を結成して約1700万円を集め、義貞の子孫にあたる千葉県野田市の彫刻家脇谷幸正さん(70)が肖像画などの資料を調べ、像を制作した。
 国指定史跡のため、元の場所に復元することはかなわなかったが、神社前の駐車場に、元の2倍以上の高さ1メートル93の像が先月29日に完成した。除幕式には清水聖義・太田市長ら約200人が参加。同委の滝沢弘一会長(82)が「像が若者たちに大きな夢を与えてくれると信じています」とあいさつした。脇谷さんは「ご先祖様の一大事に、自分の手で再建出来たことは感無量」と目を細めていた。(2012年5月9日 読売新聞)

鏑矢祭とともに大きく掲載していたのが朝日新聞。そのほか東京新聞や毎日新聞も写真付きで報道していたようだ。
まあ、生品神社が注目されるなんてことはほとんどないから、これは嬉しい限りです。

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消えた二十二巻

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