FC2ブログ

「新田源氏研究の最前線」シンポジウムに行きたいけど…行けない

第37回群馬学連続シンポジウムのチラシを発見
20190501230553237.jpg
説明文には、
新田源氏研究の最前線 ぐんま源氏ブランドの潮流
「上毛カルタ」に「歴史に名高い」と詠まれる新田義貞は、群馬県で最も有名な歴史上の人物です。群馬県人は新田義貞のことを、「鎌倉幕府を倒した源氏の嫡流」と顕彰する一方で、「足利の後塵を拝した愚直な武将」と惜しむ心性を少なからず持っていますが、それは歴史の断片を捉えたに過ぎません。そもそも、「歴史に名高い」の意味は、それが詠まれた70年前と現在とでは、果たして同じなのでしょうか。
本シンポジウムでは、「新田源氏の名門意識が700年の武家社会の中で行き続けたのはなぜか」ということについて、一線の研究者から最新の知見を引き出すとともに、新田源氏のブランド力の意味と価値について県民と意見を交わし、群馬の文化的ポテンシャルの発見とその活用を展望します。
 
講師 岡野友彦 田中大喜
パネリスト 須藤聡 森田真一
コーディネーター  簗瀬大輔
とあった。
2019年5月11日か…

行きたいけど仕事で行けない!! 残念

これ、岡野友彦の講演「徳川家康の源氏交渉・改称と新田源氏意識」が気になる。
当ブログでも引用してきた「家康はなぜ江戸を選んだか」は私のバイブルなので。
20190501230616b3e.jpg

東毛奇談では第3章「 家康改称のこと」で書いています。
スポンサーサイト

群馬県立歴史博物館「大新田氏展」

祝!令和ということで、6年ぶりに時代遅れのブログ更新します
群馬歴史博物館「大新田氏展」に行って来ました
201905022354555f0.jpg
201905022352343a5.jpg

20190501215831648.jpg
20190501215516e35.jpg
群馬の長楽寺や円福寺などの所蔵品、福井の藤島神社や称念寺などの所蔵品が見られました

鏑矢祭の新聞記事

平成25年4月26日付、読売新聞(群馬版「すくーる自慢」)に鏑矢祭についての記事が結構大きく出ていました。
ネットにも出ていたので記録のためにそのままコピペしておきます。ここから

鏑矢祭で弓 6年男子成長
太田市立生品小
 太田市立生品小学校からわずか500メートルの距離に、軍記物語「太平記」でおなじみの武将新田義貞が鎌倉幕府打倒を宣言した生品神社(太田市新田市野井町)がある。
 義貞が挙兵した1333年(元弘3年)5月8日にちなみ、神社では毎年この日に「鏑矢(かぶらや)祭」が開かれる。義貞が吉凶を占うため鎌倉に向けて鏑矢を放ったという伝承に基づき、白鉢巻きにはかま姿で矢を放つのは6年生の男子児童だ。
 学校の公式行事ではなく、総合学習の一環で、児童にとっては地域の歴史の重みを知る大切な日でもある。稽古が始まる新学期早々の4月下旬、校内はいつもと違う緊張感とわくわく感に包まれる。女子児童からも「弓を引きたい」との声が寄せられるという。
「斜め右向け右!」「1、2、3、前へ、4、5で後退!」
 同小体育館で23日放課後、祭りの指南役「式師」を務める茂木晃さん(76)の声が響くと、男子児童36人は「ざっ、ざっ」と体を動かした。氏子も手伝う中、祭りで披露する陣形を整える。次第に児童の動きは「魚鱗(ぎょりん)」と「鶴翼」の2陣形にそろっていった。
「弓は常に水平に持つ!」
 整列時にも、武士らしくきりりとした姿を保っているか、茂木さんの目は厳しい。最初は面白半分に笑っていた児童も、鎌倉を向いて弓に矢をつがえる姿勢になると少し大人びた表情を見せる。
 祭り翌日が誕生日の飯島孝明君(11)は「新田義貞の気持ちになれるし、陣立てを変える時の動きが楽しかった。誕生日前日なのは、まあ、うれしいかな」とはにかんだ。柏原浩孝君(11)は「矢を放つまでわくわくして待っている。当日まではずっと緊張している」と待ち遠しい様子だった。
 稽古は、祭りまでに7~8回、1時間ずつ行われる。弓矢は茂木さんの手作りで、祭り当日は保護者がはかまの着替えを手伝う。多くの見物人も訪れるため、児童らは地域に見守られ、育てられていると肌で感じることになる。
「祭りを体験すると、最上級生に進んだ自覚を持ったという以上に立派になったと感じる」。土屋修校長(54)は、児童が稽古に励む姿に目を細める。茂木さんは、式師の継承者が現れるのを願っている。

 ▽校長 土屋修▽創立 1874年(明治7年)に「笠松学校」、翌年に「成功学校」と「蓬直学校」が開設された。通学地区での分離や分教場の設置などを経て、89年(明治22年)に「生品尋常小学校」となった▽児童数 566人▽学校教育目標 心身ともに健康でたくましく、豊かな感性と共生の精神を持ち、創造性に満ちた自ら学ぶ意欲を具体化する児童を育成する――など▽所在地 太田市新田村田町
(2013年4月26日 読売新聞)


当サイトにおいての「鏑矢祭」の記事はこちらで。
読み返してみて、残念なのは「斎藤佑樹」選手。
やはり、初心に帰るべきなのか。
新田の魂はここにあるぞ。

新田義貞をゆるキャラ化する太田市の雑な仕事

平成24年7月20日 読売新聞から
新田義貞 ゆるキャラ 読売新聞

新田義貞ゆるキャラに「脇差し必要」
 太田市で12月から原付きバイクなどに取り付けられるご当地ナンバープレートのゆるキャラ「よしさだくん」に、19日の市議会総務企画委員会で、「戦に臨む武士には、脇差しが必要だ」と、市議から注文が付いた。
「よしさだくん」は、現在の同市内から新田義貞が鎌倉幕府攻めへ挙兵したのにちなみ、同市職員がデザインし、市教委文化財課が2009年からゆるキャラとして使用している。太刀を1本帯びた、よろいかぶと姿の三頭身が特徴。市は今年6月、ナンバープレート導入への検討委員会を設けて親しまれるキャラクターを探し、「よしさだくん」に白羽の矢を立てた。
 このキャラクターデザインに「待った」をかけたのは、市川隆康市議(無所属)。「太刀を失った後に命を守るのは脇差し。かぶとへ新田氏の家紋を追加するとともに、脇差しも描いてほしい」と、デザインの一部変更を求めた。
 市側は「ほかの場でも使われているキャラクター。変更は難しい」と答えるにとどめたが、市川市議は「間違いを次代に伝えたくはない」と不満が収まらない様子で、重ねて変更を要望した。

なにっ!よしさだくんだと! 許さん!
確かに当サイトで、新田義貞メインで地元を盛り上げようみたいなことは書いてきた。
過去記事 「萌えキャラで盛り上がる足利」と「無策・放置の太田(新田)」。参拝客が少ないのはやはり寂しいよ……。などなど。
だが、「ゆるキャラ」化は許せん。
そして、何だよこのキャラは?
新田義貞 ゆるキャラ
読売新聞のサイトにカラーで拡大画像がある。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20120719-OYT8T01706.htm
可愛くもなければ、かっこよくもない。「萌え」でもなければ「燃え」でもない。
なんなんだ、この表情は? 目が宇宙人みたいで、鳩山由紀夫にしか見えないぞ。それに全体の雰囲気が、昭和の五月人形みたいだ。一体だれがこんなキャラデザにしたのか。
これなんかどうせ市役所の会議室で「いまあちこちでゆるキャラ流行ってるから、うちもやりましょう」「そうだ、そうだ」「で、キャラクターはどんなんにしましょうか」「適当でいいよ、どうせゆるいキャラだから」って、こんな感じで決まったんじゃないの。どうみてもヤッツケ仕事にしかしか見えないのだが。
どうせやるなら、戦国BASARAのようにひたすらカッコよくするか、それとも思い切って、子供にも親しまれるような「きゅんキャラ」のようにしてくれればよかったのに……。

新聞記事を読むと「ほかの場でも使われているキャラクター。変更は難しい」とあるから、このキャラをあちこちで使うことになるのか。
はっきりいって、このキャラで「新田義貞」の名を使われるのは、イヤだな。

新田義貞と儀源寺など

7月2日は、新田義貞公の命日であります。(新暦では8月17日)
毎年、この時期に合わせて義貞についての記事を書いていました。
過去記事
「私本太平記」の新田義貞のカッコいい場面を書き起こしてみた。
「7月2日は新田義貞討ち死にした日。そして、世良田東照宮の向き。」
「7月2日は新田義貞の命日。」
ということで、今年も。(ちょっと過ぎちゃったけど)

群馬県発行「ガイドマップ 上毛かるた」の「れ」の項目に新田義貞が載っていたので引いてみた。
上毛かるた 新田義貞

歴史に名高い新田義貞
新田義貞は、武将の中でも正義を守り誠の心をつらぬいた人として、全国的にも人気の高い人物でした。
後醍醐天皇が、政権を取り戻そうとし武士たちに呼びかけると、それに味方した義貞は、1333(元弘3)年、わずか150騎をひきいて生品神社(太田市)で兵を挙げ鎌倉に攻め入りました。
そいの翌日には、この武将を慕って進軍の道すじの村々から兵が集まり、稲村ヶ崎海岸にたどりついた時には相当な数になっていたそうです。
次の足利尊氏との戦いで、故郷に帰ることなく越前国藤島(福井県)で亡くなってしまいましたが、正々堂々と戦った若き武将は、武士の手本として藤島神社(福井県)や故郷新田神社にまつられています。
当時、『上毛かるた』に武士をよむことはGHQ(連合国軍総指令部)に禁止されていました。日本の歴史に足跡を残した武士を一人でもよみこみたいという強い思いがあり、『上毛かるた』の題材公募でも多く寄せられたことから、交渉を重ねて説得し、よみこむことができた札です。

GHQのご意向を押し切ってまで、義貞公を推した当時の上州人の熱意には頭が下がります。
いまだったら、高山彦九郎や中島知久平も入ってもいいと思う。

つでに「儀源寺」のことを。
儀源寺は、勾当内侍関連の寺。義貞との間にできた山吹姫を連れ新田荘に隠れ住んだ内侍は、出家して「儀源尼」となったという。
儀源寺 石碑
場所は群馬県太田市亀岡町141。中島知久平の旧邸の近くといった方が分かりやすいだろう。

大きな地図で見る
儀源寺 扁額
「曹洞宗儀源寺造営記念碑」にその由来がある。

わが儀源寺は関東の名族新田氏と深い因縁の絆に繋がれている。元弘三年五月新田義貞公は綸旨を奉じて義兵を挙げ忽ちにして鎌倉幕府を討伐した。その勲功を嘉せられ第九十六代後醍醐天皇の側近に仕えた匂当内待を宿の妻として賜った。勤王の志極めて厚かった義貞公は朝敵を亡ぼさんと各地に奮戦したが、武運拙く延元三年七月越前国足羽郡藤島において壮烈な最期を遂げられた。
勾当内侍は義貞公の首級を携えて東国に下り上野国新田郡武蔵島の地にこれを埋葬した。利根川の辺りに庵を結び剃髪して尼となり儀源比丘尼と称し正観世音菩薩の尊像を孰され生涯義貞公の菩提を弔った。次いで義貞公第三子義宗公の末妹覚心比丘尼が庵の第二世となった。更にその遺志を継いだ歴代の各比丘尼は御庵様と敬慕されて孰れも衆生済度に献身したが戦国時代の末葉に遂に廃寺同然となった。元和元年に再興、大洪水にあったが再建された……(以下略)

儀源寺 本堂本堂
儀源寺 大中黒屋根の瓦には新田の家紋「中大黒」がある。
儀源寺 碑記念碑には「当山歴代住職並歿年月日」が刻まれている。
第一世 儀源比丘尼 新田義貞公夫人 勾当内侍吉野山柊堂創建 生涯弔義貞公菩提 正平二十年二月一日逝去 
第二世 覺心比丘尼 新田義宗公末妹 宗良親王内室国良親王生母 終生献身衆生済度之淨業 元中八年七月七日逝去
後継歴代御庵比丘尼 
第三世 秋今比丘尼岩松尚純公室 第四世以降郷人尊称御庵比丘尼 
と続いて、現在が第二十三世となっていた。
この近くに、新田義貞と勾当内侍を祀った「花見塚神社」がある。
詳しくは、「新田遷都」総まとめ  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第11回
中島知久平と新田義貞  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回あたりで。

儀源尼となった内侍は、後醍醐天皇の即位から長慶天皇即位までを記した「儀源秘記」を残し、これを引き継いで覚心尼(山吹姫)が、興国元年の国良親王の時代から永享十三年の将軍・足利義教が赤松満祐に殺されるまでを書き綴った「南北朝新田覚心秘記」を、この寺で書いたことになる。そして、「南北朝新田覚心秘記」の表紙には「此ノ書ハ正平九年ヨリ五百年間禁書也」の添え書きがあったという。南朝側の歴史が書かれているから秘書としたのだろう。500年後といえば江戸時代の幕末期。倒幕運動に新田義貞が注目され、明治維新には南朝研究が盛んとなるから、この500年というのが何らかの不思議な因縁を感じてしまう。
それに、まさか、武家の棟梁となり天下を治める人物(徳川家康)が新田氏の末裔を名乗り、次の時代の日本の政治の中心的人物である井上馨の夫人が新田氏の末裔であり、そして天皇陛下のお妃が新田一門の末裔となろうとは、勾当内侍もこのときは思いもしなかっただろう。

さて、本堂の裏手には墓所があり、ここにも石碑がある。
儀源寺 洪水利根川の近くにあったため何度も付近一帯が洪水被害となったため、治水工事が行われたという記念碑だ。
このあたりの地名は「押切」という。押切とは川の水が押し切ってここまで来たという意味だ。
そう、まさに利根川沿いに内侍はいたのだ。
この川沿いには、新田一族の関連寺社はもちろん、徳川氏と新田氏を結ぶ世良田東照宮や長楽寺や満徳寺が存在し、この川を下れば児島高徳の寺「高徳寺」へ通じ、館林へ移住した新田一門の正田家もこの川を利用している。そしてこの川は江戸に通じるのだ。
関連記事
謎の人物・児島高徳  新田義貞伝承を追う!実は……。シリーズ⑧
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その2 

やはり「ここ」には何かあるんですよ。

新田一族情報

新田一族情報ですよ。
平成24年6月1日 上毛新聞から

新田一族の暮らし 太田・江田館跡発掘調査展 杯や天目茶碗を展示
江田館

太田市の国指定史跡「新田荘遺蹟」の構成遺蹟の一つ、江田館跡(新田上江田町)の発掘調査結果を紹介する「江田館跡展~平成23年度の発掘調査を中心に~」が7月1日まで、太田市史跡金山城跡ガイダンス施設で開かれている。
新田荘は本県を代表する中世の荘園。東照宮(世良田町)や生品神社(新田市野井町)境内など市内11の寺社や館跡などで構成する複合遺蹟として2000年に国史跡に指定された。
江田館(江田城)は鎌倉時代から南北朝時代の建造とされ、鎌倉攻めに従軍し活躍した江田行義の館だったと伝えられている。3度の発掘調査で土塁の構造や建築遺構、溝、土杭などが確認された。
昨年度の調査では、敷地が以前は正方形に近い形だった可能性があり、主郭部が溝によって東西の区画に分けられていたこと、堀立柱建物が17棟あったことが判明した。
会場では全体図や発掘調査の写真パネルのほか、宴会で使われた杯、客人をもてなす際に用いられた天目茶碗など、館での生活を思い浮かばせる約30点を紹介。同市教委は「中世に築かれた荘園の歴史とともに新田一族の活躍に思いをはせてもらえば」と来場を呼び掛けている。


そして、上毛新聞の折り込み「こども新聞」(5月27日付け)の中で、新田義貞を取り上げていました。
新田義貞 新聞
画像で使われていたのは、分倍河原駅前の新田義貞像でした。

 | HOME |  »


カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

07 | 2019/08 | 09
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  └ カテゴリー
        └ 新田義貞、新田一族の話
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する