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自己の感情コントロール その4 資料編20回目 心理学も脳科学も神道もアンパンマン考も同じことを説いている

 自己の感情コントロール その4 資料編20回目 「心理学も脳科学も神道もアンパンマン考も同じことを説いている」

さて、今回は「自己の感情コントロール」のまとめです。
自己の感情コントロール その1 アンパンマン考の続きから」でまとめたように、脳の中にある攻撃性を抑える力は、動物が高度になるとより強くなるということでした。
攻撃性と抑制について検索するといい記事が結構出てくるので引用していきます。
http://www.toshiba.co.jp/elekitel/special/2003/05/sp_02_c.htmから。

攻撃と抑制の脳内メカニズム 上田秀一・獨協医科大学 教授
攻撃性を抑制する回路
マウスのような前頭葉が発達していない動物では、攻撃に対して、脳幹にあるセロトニンニューロンなどの回路に抑制系があると考えられます。攻撃は動物の本能でもあるわけですが、その本能的な部分さえも、脳幹からのセロトニンなどによって制御されているわけです。一方、動物が高等になってくると、むしろ大脳皮質、前頭葉が抑制をかけるということになります。人間の脳は簡単にいうと、進化的には古い脳であり生存に必要な機能を司る脳幹、情動と関係があると考えられている大脳辺縁系、学習、思考、認知などと関係する新しい脳である大脳皮質の三つの階層構造になっています。脳幹、辺縁系の本能的、情動的な働きを大脳皮質が抑制して、そのバランスで成り立っているというのが、ちょっと単純化しすぎですがわかりやすい説明です。確かに人間の場合は、大脳皮質の前頭葉が非常に発達していますので、攻撃性についてもその関与は大きいと思います。
 人間の場合、攻撃性に対して、上位、つまり前頭葉からの抑制系と、下位、脳幹からの抑制系と、二つのブレーキの機構があると考えられるわけです。(中略)
 下等動物では、セロトニンが、ある意味、怒りのベースラインを下げているのですが、人間で、攻撃性が異常に高い人は、学習などの欠如だけでなく、セロトニンニューロン自体が現代の生活環境の中、あるいは発育環境の中で機能が低下しているのかもしれません。前頭葉も、セロトニンニューロンも二重に抑制機能が落ちている可能性があるわけです。
攻撃性、暴力の問題は、精神と脳をめぐる議論、行動に対する遺伝と環境、宗教観や政治的課題までふくむことになります。この問題の解決には、生物的な問題だけでなく、社会環境的影響や、心理環境的影響までも理解した上で、取り組まなければならないと考えています。

脳 抑制

またこういう記述もある。「大脳皮質の場合は、認知、つまり学習して獲得し、こういう状況ではこんなことをしてはいけないという判断がすり込まれないと、抑制がかかりません。人間の異常な攻撃性を抑制するには、そのための教育などによる、前頭葉からの抑制の強化が必要かもしれません」
なるほど、攻撃性の抑制には経験や学習が必要だということだろう。
自我の確立、アイデンティティの獲得、道徳的価値判断なども年齢とともに発達していくあたりは、これまでの引用でみてきた通りです。
これらとともに、人間として重要となってくるのが、攻撃性とその抑止力のバランスだ。http://www.fuanclinic.com/kazoku/kazoku06.htmから。

イギリスの精神分析学者アンソニー・ストーの古典的名著“人間の攻撃心”をベースに、どんな人の心にもある“攻撃性”の根源的な意味とその為せるものについて述べるとともに、誰しもが自らの心に潜む攻撃性や残虐性に気づき直視することの大切さを特に強調しました。アンソニー・ストーは暴力や残虐な行為をもたらすことの多い攻撃性が、実は私ども人間にとって絶対欠かすことのできない、極めて広範囲な人間行動の基礎をなすものだと述べております。攻撃的というと相手に危害を与えるようなイメージを抱きやすいのですが、“攻撃性”には知的な努力を傾けるという肯定的な意味があるのです。難問に取り組み悪戦苦闘しながらもついに解き明かすことができたとか、様々な困難や課題に直面し、めげることなく立ち向かい克服しようとしたとかの類のものは、まさに攻撃的でアグレッシブな知的活動というわけです。その一方で相手を痛めつける“いじめ”や“嫌がらせ”、“暴力虐待”がいまわしい攻撃性の為せるものであることはいうまでもありません。またスポーツ競技から攻撃性を取り去ってしまったら気の抜けたビールのようなものになってしまいます。
 このように私ども人間は誰しもが、多かれ少なかれ、かかる両面性のある攻撃性や残虐性を持っていると考えるべきで、それゆえにこそ己の心と行動への監視や見直しを怠るべきではないと思うのです。
 特に子どもに対して、将来いまわしい攻撃性を爆発させるようなことなく、本人にとっても、またまわりの人たちにとっても益となる行動を生み出させる自己統制力を身につけさせるためには、親子、兄弟など、家族関係の在り方や親の子育ての仕方がどうあるべきかがまず問われることになります。

そして今、子供たちにとって一層重要性が増してきていると思われるのが、時には危険な遊びや冒険もいとわず、喧嘩もできるような遊び仲間や悪友たちとの関係であります。仲間やライバルとの生身のぶつかり合いによって喧嘩のルールや攻撃行動の手加減を自ら体得していくのです。親たちは子供たちの遊びや仲間関係にもっと関心を持ち、仲間たちとの、よりアグレッシブ(攻撃的)でしかも自立を早める活動を積極的に進めるべきだと思うのです。もともと人間の行動の原動力として欠かせない攻撃性は、生まれて間もない乳幼児にいち早く見出すことができるのです、たとえば、よちよち歩きの赤ん坊がまわりへの好奇心からいろんな物に触れたり動きまわったりする“探索行動”は、攻撃性の正常発達と自立心の育成に欠かせないものなので、危ないからといって抑えるべきではないとされているのです。そういえば親への対立や反抗が許されないまま親の思いどおりに育ってしまった結果、自ら為すべき課題に自力で取り組み克服しようとする攻撃心に欠けた、頼りない青年が最近増えてきているという指摘があります。思い当たる方は決して少なくないのではないでしょうか。 

さて、ここで重要なのは、人間が持つ好奇心や積極性は攻撃性の中にあるということです。人間の行動の原動力となる攻撃性がなければ、人は成長しないということです。
恋するドキンちゃん(好奇心旺盛なドキンちゃんは恋もします。つまり性欲も秘めている)
アンパンマン考的にいえば、ドキンちゃんの持つ好奇心や行動力が人間の心(脳)の中では大いに必要であるということなのだ。(この暴走を抑えるのがアンパンマンとなる。)

さてさて、ここで、安岡正篤の「日本精神通義」から引いてみましょう。
安岡正篤
ここに、日本の神や魂に関する記述がある。
脳科学や発達心理学といった科学的なものとは全く関係がないように見えるが、、面白いことに、ここに関連性があるのだ。表現する言葉は違えど、言っていることは同じ意味なのではないか、と思えてならない。

さてこのように生じた多くの神々、いわゆる八百万神を通常、天神(あまつかみ)と地神(くにつかみ)、あるいは天津神と国津神とに分けております。天神は文字通り天上に居住せられる日本民族の祖先、およびその系統中に包摂せられている神々であります。一方、地神はこの国土に住みして、天神に従属しておられる神々であります。
これらの神々をして神たらしめている奇しき霊魂の作用について、すでに造化三神(別天神・ことあまつかみ)の「たかむすびの神」「かみむすびの神」の表し方によっても明らかなように、「あらみたま」(荒魂)と「にぎみたま」(和魂)とを観(かん)じております。
「あらみたま」すなわち荒神は霊魂の活動派生、猛進、奮闘のはたらきであり、「にぎみたま」すなわち和魂はその守静、調節、平和、交歓のいとなみであります。両者は相待不二(そうたいふじ)のものとすると同時に、また自ずから分かち、別々にこれを祭っております。有名な長門の住吉神は荒魂の方であり、摂津の方は和魂だそうであります。概して荒魂の方が多く祭られていることは当然でありましょう。
どうかすると、荒神を悪神、和魂を善神と考える人もありますが、江戸末期の国学者・鈴木重胤も『書紀伝』に明言しているように、それは誤りです。善悪は作用の過不及に生ずるものでありますが、しかし、実在が絶えざる生成化育をに明言しているように、それは誤りです。善悪は作用の過不及に生ずるものでありますが、しかし、実在が絶えざる生成化育を建てまえとする道理上、多く悪は「過ぐる」に生じます。病も食い過ぎ、飲み過ぎ、争いも出過ぎから起こりますように、「荒ぶる」ことはともすると「過ぐる」こととなりやすく、そこから悪に傾きやすいということは認めなければなりません。なお、この荒魂に相応して奇魂(くしみたま)和魂に相応して幸魂(さきみたま)の信仰もありますが、荒魂、和魂ほど一般的になっていませんし、結局、同じことでありますから、ここでは省略いたします。

具象的な思惟による「鎮魂」
民族に信仰心とともに反省が深くなり、道義心が高まってくるにつれて、神への関心はやがて神への精進にならざるを得ません。すなわち、荒魂、和魂の祭りとともに、自分そのものに荒魂を奮い起こし、和魂を厚く養うことにならなければなりません。前者は「みたまふり」といい、後者を「みたましずめ」といって、一緒に「鎮魂」と称します。もっともこれは、その始め、荒ぶる神の心を鎮めるために多くに行われたことも無理のないことですが、後世になるほど自修的になってゆきました。
人は「みたまふり」によってよく勇を鼓舞し、生活を打開向上せしめ、「みたましずめ」によってよく優情や叡智を養って、人生をまっとうし、神ながら(惟神、神髄)に進めるのであります。抽象的思惟のまだ発達しない、そして本来、あまり抽象的思惟を重んじていなかった古代日本人はこの「鎮魂」にも外国宗教の同様な事例に較べますと、ずっと具象的でありまして、……。


「荒神」とはつまり、発達心理学的にいうところの「攻撃性」であり、アンパンマン考で唱えるところの「ドキンちゃん」だ。
そして、「和魂」とは、発達心理学的にいうところの「抑制力」であり、アンパンマン考で唱えるところの「アンパンマン」なのだ。
本文に「悪は「過ぐる」に生じる」とあるように、欲望の暴走(バイキンマン)があることを意味している。
まさに、私の唱える「アンパンマン考」そのものを言っていることになる。

Wikipediaの説明では、「荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。」
荒魂

そして、人の心(脳)の中にもこの相反する二つのものを持っていることになる。
この二つの均衡によって、心の平穏が保たれることになるのだ。
まさに、これまで脳科学や発達心理学などで引用してきたものと同じことを説明していることになる。

発達心理学や脳科学といった難しいもので人の心の内面を語らずとも、日本人はこれらを「魂」という概念で説明してきたのである。

そう「魂」だ!!


結局ここに戻る。資料編は「魂」の説明なのです。

長々と引用を続けてきた「自己の感情コントロール」編も、結局言いたかったのは、心理学も脳科学も神道もアンパンマン考と同じことを説いているということでした。
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自己の感情コントロール その1 アンパンマン考の続きから

むかし書いた「アンパンマン考」の久々の続きで、これは資料編16回目になります。
直接的には、
アンパンマン考 2 フロイト心理学から。「アンパンマンの世界」は人間の心の中を表している。
アンパンマン考 3 ドキンちゃんはリビドー(本能的欲望)である。
の続きとなります。

まず「アンパンマン考」の要点を簡単にまとめてみましょう。
常に好奇心旺盛なドキンちゃんはリビドーであり、その欲望を満たそうとするバイキンマンはエスである。ただ悪意や欲望は際限がなく、これを表現したものがカビルンルンだ。確かに欲望や悪意はカビのように増殖していく。この欲望の暴走を食い止める自制心がアンパンマンだということ。
ただ、このアンパンマンは最強というわけではない。物語「アンパンマン」を見れば分かるが、必ず一回は負ける。そして自制心は何度も作り直され、欲望に打ち勝つのだ。負けるというのが心の鍛錬ということになる。欲望を遠ざける自制心を育てるには、努力が必要なのだ。これはジャムおじさんが丹念にアンパンマンの顔を作る場面でもわかる。欲望は常に沸き起こり、必要以上に欲望を満たそうとし、時には悪意をともなって暴走を始め、心の中を欲望でみたそうとする。(これには快楽原則があるので、心は欲望の暴走に引きずられていく。)これに打ち勝つのが「アンパンマン」である。欲望は次々と新しく起り、新たな要因が続々と入ってくるので、その度に「自制心」を作り出さなければならない。よって「アンパンマン」の顔を前もって作り置きすることはできないのだ。必要以上の欲望を満たそうとするバイキンマンの暴走があって、それに打ち勝つことのできないアンパンマンがあって、初めてそこであたらしい顔(自制心)が必要となるわけだ。
それが繰り返し行われる。心の中では、生きている限り、欲望と自制心の戦いは行われているので限りがない。だからこそ物語「アンパンマン」はワンパターンといわれるものがずっと続くのだ。
 「欲望の抑制」「攻撃性の抑止力」「悪意の増殖を抑えること」など心のコントロールがアンパンマンの役目となる。

では、なぜ、欲望であるドキンちゃんはバイキンマンとともに行動するのか。過去記事にもあるように、欲望と攻撃性は脳の中で結びついているからだろう。

キーワードでわかる最新・心理学 成田毅・編(洋泉社新書)から。
動物としての攻撃性と文化的抑止力
哺乳動物は脳の深いところで性欲と攻撃欲、食欲の中枢が接近しているため、これらの興奮は互いに他の中枢と関連し、性欲動は攻撃欲動と結合しやすい。このことは動物としてのヒトが本来持っているものであり、とくにオスの場合には性行動は攻撃性が高い。他のオスを縄張りから排除し、メスの抵抗を殺いだうえで性行為が営まれるからだ。
ただし人間の場合、子供が社会の中で育っていくにつれて、大脳皮質に“文化” がインプリントされてゆくことで抑止力が機能し、ヒトは次第に残酷なことができにくい生き物に成長してゆく。ヒトは、狩猟段階にあったときに濃厚に宿していた攻撃性を、農耕や牧畜を始めることによって、共同体のモラルのなかで次第にブレーキが効くものへと昇華させていった。
しかし、本能や衝動をコントロールすることができあがっている“人間”が、壊れてしまうことがある。こうして快楽殺人は起こされる。原因は、脳の障害や精神病、そして乳幼児期体験などだ。
欠陥のある社会的環境で育った子どもは、愛を得られずに途方に暮れるようになり、情性(他者を思いやり、その苦痛に共感できる力)を育むことができない。愛のない家庭はしばしば精神的肉体的な虐待を子どもに与え、こころに傷をつける。そんな悲惨な記憶は、子どもに、性的暴力や破壊を空想する心理的人格的な特徴を発達させてしまいやすい。そういった空想は、次第に現実の世界での破壊的な行為へと結びついていきかねない。

好奇心や欲望(ドキンちゃん)は、攻撃性(バイキンマン)を伴う。、そして、その抑止力としてアンパンマンがいる。物語「アンパンマン」は、心の中で行われる心の葛藤を描いている。
この二つは対立しているようで、どちらも人間の活動には不可欠なもの。要はこれらのバランスが必要なのだ。(情動のコントロール、自律性が重要となる)

ただ欲望は暴走する。悪意の攻撃性も歯止めがなければ止まることなく、限りはない。
人は常に心の中でこの戦いを繰り広げている。欲望を、悪意を、抑えながら生きている。各々がそうして生きていかなければ世の中の社会秩序は保たれないのだ。
人と獣を分けるものはここにあると思う。
誰だって必要以上の欲望は心の中で沸き起こる。誰しもが自らの攻撃性や残虐性が心の中に潜んでいる。これに気づき、これを抑制する感情のコントロールが必要となるなのだ。
美味そうなものがあればその場で食いたいと思うだろうし、いい女を見れば抱きついてみたい、気に入らない奴がいれば殴りたいと思うこともあるだろう、そんな衝動は常に心の中で沸き起こる。だが普通は、そんな情動を抑えているのだ。

だが昨今の事件を見るにつけ、抑止力よりも欲望を満たそうとする力の方が強くなっているように感じる。しかもそのハードルがどんどん低くなっているようだ。自制心も弱まっているし、またこれらの感情をコントロールする力が衰弱しているようだ。
時に、最初は軽いはずだった悪意も、いつしかカビのように増殖し、心の中を埋め尽くし、取ろうとしても取れないほど強固にへばりつく(執念やこだわり)、その果てには、欲望にその身を任せ凶行を犯してしまうことにもなっていく。
それがいつしか、目に見えるものすべてが疎ましくなり、見るものすべてを壊してしまいたくなっていくのかもしれない。そんな事件が増えた。気に食わなければ刃物を持って無差別に人を殺し、わが子に虐待を加え、幼い少女を誘拐して殺す、同級生をいじめ抜いて自殺にまで追い込む……。
動物には本来、生存のための攻撃本能が備わっているはずだが、人間には攻撃性を抑制する力も備わっているはずだ。
それが保たれなければ「人間社会」は成り立たない。
そのために各々の心に必要なのは、欲望を抑制する力、つまり「アンパンマン力」だということになる。

……続く。

北京五輪ソフトボール金メダル・「上野由岐子選手」と「アンパンマン」と「榛名牛乳」

北京オリンピックのソフトボールで日本が金メダルを獲った翌日、
ソフトボール・北京
群馬県の地元紙「上毛新聞」の一面。
まるでスポーツ新聞のようですが、群馬県と関連する選手が多いことから、連日このように大きく取り上げられていました。
上毛新聞の記事から、
『ソフトボール代表選手4人を送り出しているルネサステクノロジ高崎営業所の社員ら250人は、高崎市横手町の大会議室で米国との決勝戦を観戦。ソフトボール部応援団の掛け声に合わせて、初回から「ニッポン ニッポン」と大合唱、悲願の金メダル獲得を後押しした。<中略> 太陽誘電の留守番応援部隊は、同日に引き続き同市栄町の江木工場食堂の大型スクリーンで観戦。約130人が一球の行方を固唾を飲んで見守り、ヒットや得点のたびに地鳴りのような歓声を上げた。』
群馬県の企業に所属する選手は、
ルネサス高崎」から、上野由岐子(投手)、乾絵美(捕手)、峰絵美(捕手)、三科真澄(内野手)
太陽誘電」(群馬高崎江木工場)からは、広瀬芽(内野手)、坂井寛子(投手)
そして、ルネサス高崎の総監督は、宇津木妙子(シドニー・アテネオリンピックの日本代表監督)
ということで、群馬県高崎市はソフトボールのメッカなんですね。
ルネサス高崎ソフトボール部のホームページ

さて、日本テレビ・朝のテレビ番組「スッキリ」では、上野由岐子投手の特集があって、見ていてビックリした。
上野選手と榛名牛乳

上野選手の食事風景に「榛名3.6牛乳」が映っている!
まあ考えてみれば、群馬県企業の所属選手なので、群馬の牛乳を飲んでいるなんてことは当たり前なことなんですけど(榛名酪農は高崎市が本社)、見慣れているものがテレビに突然出たので驚いた。
私、ちょっと前までこの辺りの店舗にいたので、もしかしたらこれ俺が並べた「牛乳」だったかも…、もしかしたらお客さんとして見ていたかも……。
ということで意外な接点を見つけて喜んでました。

そして、上野選手は大の「アンパンマン」ファンだという。
上野由岐子
前出のテレビ番組「スッキリ」によれば、
上野選手の部屋はアンパンマングッツで飾られているが、これもソフトボールのおける「大事な精神を象徴」しているということで、「自分を犠牲にして何かを助けようとするじゃないですか。話の中でも自分の顔をちぎってあげたりとか、そういった優しさっていうか、人のためにって働けることがすごいと思うし、いいですよねこのキャラクター、好きです」と語ってました。
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こういったところが好きなんですかね。

物語「アンパンマン」は、「心の中の葛藤」を描いていると私は思っているので、3連投を投げ切った責任感の強い上野選手が「アンパンマン」が好きだというのはよく分かります。「アンパンマン」は子供だけが見るただの幼児アニメではなく、奥深い話なんですよ。詳しくは「アンパンマン考」で。
(他にアンパンマンが好きだという有名人、女優の柴崎コウ、力士の雅山などがいます。)

アンパンマンが好きで、群馬の牛乳を飲んで、オリンピックで日本に金メダルをもたらした上野由岐子選手、もうただ尊敬します。
あと、私、思うんですけど上野投手の球を受け続けた捕手の峰選手もスゴイと思うんですけど…、もっと取り上げて…。

アンパンマン考 10 将来の娘と私へのメッセージ

アンパンマン考10回目にして、最終回。

娘の何気ない質問から始まった「アンパンマン考」ですが、幼稚園児の娘に分かるような内容ではないですね。
でもそのことは自分でもよく分かっています。
しかし、だれかのために、時間を掛けて、努力をし、何かを残す、という事をしてみたかったのです。
これは手編みのセーターを編んだり、手作りケーキを作ったりすることと同じことで、私には書くことしかできないので、こういった形になっただけなのです。
絵が上手ければ、似顔絵を描いていたし、詩が書ければ、歌でも作っていたでしょう。
まあ、時期もクリスマスシーズンなので、クリスマスプレゼントということにしたのです。
でも、こんなクリスマスプレゼントは喜ばないだろうけど……。
勿論、ケーキも買うし、クリスマスブーツやプレゼントは他にも用意はしてあります。
でもモノではない、「何か」形に残るものを娘のためにしたかったのです。
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そして、娘からは絵をもらいました。
ひらがなとカタカナがあやふやですが、そこがまたいいんです。

手作りっていうのはいいですね。
やはり、お返しは何か自分で作ったもの(今回は書いたもの)がいいと思った。
そして切っ掛けは、「アンパンマン考の1」に書いたように、5歳の娘からのフトした疑問。
これは、いい。子供の疑問に答えるというプレゼントがあってもいいのでは、と思いついて書き始めました。
思い立ってからは、いろいろ調べて、書き綴ってみました。ただいつものようにどんどん膨らんでまとまりのないものに。
でもそれでもいいと思っているんです。
時間をかけて、頑張った、というのが重要なんですから。

それに、クリスマスまでにというのにも少々訳があります。
クリスマスから年末年始にかけては、どっぷりと仕事に浸かってしまいます。
娘が寝ている早朝には家を出て、娘が熟睡している夜に帰ってきます。だから、この時期は起きている娘の顔を見ることはあまりなのです。
それが毎年続くのです。
だからクリスマス、年末年始のイベントの日は、家族とはほとんど一緒に過ごせないのです。
そんな私に娘は何も言わないですが、きっと寂しい思いをしているはずです。(というか自分が寂しいんですけどね)
クリスマスに家族と過ごすなんて、子供が小さいうちだけでしょうから、(年頃になったら彼氏や友達と過ごすでしょう)いまのうちにそれができないのですから、一生、自分の娘と聖夜を祝えないということになるのでしょうか。
しかも12月24日は私の誕生日!
私の人生にとっても、娘の人生にとっても「5歳のときのクリスマス」というのは、もう二度とないんですよ。
あとになってから「聖夜の楽しい思い出」がないというのは寂しいことです。

そして、いま何気なく送っている月日は、実は「かけがえのない黄金の日々」なのかもしれない。
そんなことを最近思っていたのです。
そんなとき、娘が私のヒザの上に座って「アンパンマン」を見るながらいったのが、あの質問だったのです。
これは、書くしかない。自分の出来る限りの労力を使って、という思いで書いたのです。
だから「アンパンマン考」はある意味娘への手紙みたいなものです。
「じゃー、ブログなんかに書かないで、内々でやってろよ」って言われそうですね。
でも、ブログはただの日記でない、新しい記憶貯蔵装置みたいなものだと思っています。
いま家族や子供の写真を載せ、家族の出来事をブログに載せている方かなり多いですよね。あれは、きっと後になって読み返したときに、きっといい思い出となっているはずです。
それは、家族にとってものすごい価値のあるものとなるはずです。
そして、そのときになって、「あーあの時こんなことを考えていたんだ」と思い起こすことになるんです。

だから、「アンパンマン考」はいま幼稚園児である娘には分からなくてもいいんです。将来、娘が大きくなり、ここに書かれている内容が分かるようになったら、そのときに「そんなこと考えていたんだ」と分かってくれればいいということなのです。
映画「マディソン郡の橋」では、死んだ親の手紙と日記を、成人した子供達が見つける、というところから物語が始まります。そのときに初めて、親に起こった出来事を知ってゆくという話の設定でした。
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(趣向としてはこんなものにしたかった)

そして、いつかは、娘も「アンパンマン」を卒業していく。
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(画像は、お気に入りのアンパンマンの茶碗。きれいに食べると、底からアンパンマンが見える、そんなことでも喜んでいました。)

そんな娘も小学校に入ったら、アンパンマンも見なくなってしまうでしょう。

それは成長したという証でもあるわけです。
嬉しくもあり、ちょっと寂しいような気もします。

でも、将来いつの日にか、娘も結婚して、子供ができたときに、その子と一緒に「アンパンマン」を見ることになるでしょう。
そう、いまの私と同じように。

そのときに「アンパンマン考」の真の意味が伝わればいいんです。





では、最後に「アンパンマンのテーマ」の歌詞を掲載して終わります。
アンパンマンは自分の心の中の善と悪の戦いである、というのを思いながら読むと、かなり心に響きます。
女優の柴咲コウさんが、ある番組で辛い時に勇気づけられた曲として「アンパンマン」の曲を紹介していました。
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この歌詞の深い内容に共感できるということは、彼女の感性は鋭いということですかね。


「アンパンマンのマーチ」

【作詞】やなせたかし
【作曲】三木たかし
『 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも
 なんのために 生まれて
 なにをして 生きるのか
 こたえられない なんて
 そんなのは いやだ!
 今を生きる ことで
 熱い こころ 燃える
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで
 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ 胸の傷がいたんでも
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため

 なにが君の しあわせ
 なにをして よろこぶ
 わからないまま おわる
 そんなのは いやだ!
 忘れないで 夢を
 こぼさないで 涙
 だから 君は とぶんだ
 どこまでも
 そうだ おそれないで
 みんなのために
 愛と 勇気だけが ともだちさ
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため

 時は はやく すぎる
 光る 星は 消える
 だから 君は いくんだ
 ほほえんで
 そうだ うれしいんだ
 生きる よろこび
 たとえ どんな敵が あいてでも
 ああ アンパンマン
 やさしい 君は
 いけ! みんなの夢 まもるため 』

実に「深い」歌詞です。
歌詞の中にある「アンパンマン」を自分や自分の子供、または大切な人などに置き換えてみてください。そうすると、わたしたちへの「応援歌」のように聞こえてくるから不思議です。

ということで、これで「アンパンマン考」はおわり。

以上が、2007年のクリスマスに考え、思ったことでした。 

アンパンマン考 9 人はなぜ悪を成すのか

アンパンマンについての9回目ですが、今回は善と悪について。

一連の記事を書いているときに、長崎佐世保で銃の乱射事件が起こった。

「散弾銃乱射事件の現場となったスポーツクラブ「ルネサンス佐世保」前の献花台には、16日も親子連れなどが相次いで訪れ、花を手向けて倉本舞衣さん(26)と藤本勇司さん(36)の死を悼んだ。
 「今までありがとうございました」「天国からスイミング見ててね」。献花台には、メッセージを添えた花束が次々に供えられた。
 佐世保市の早田佳代子さん(44)と圭志君(11)は親子そろって同クラブの会員。倉本さんの教え子だった圭志君は「(事件を知って)びっくりした。優しい先生だった」。佳代子さんは「事件の前日もあいさつしたばかりでした。あってはならない悲惨な事件で、今でも信じられません」と涙をぬぐった。  毎日新聞12月22日の記事

また、香川では祖母・孫姉妹の殺人事件も起こった。
 「香川県坂出市のパート従業員三浦啓子さん(58)と孫の姉妹計3人が遺体で見つかった事件で、三浦さんの義弟の川崎政則容疑者(61)=死体遺棄容疑で逮捕=が、闘病中の妻(今年4月に死亡)への見舞金を病室から無断で持ち帰ったり、「治療費がかかる」と妻に嫌みを言ったりしていたことが、関係者の話でわかった。県警の坂出署捜査本部は同容疑者が金銭に異常に執着する性格だったとみて、動機解明のため、近親者から事情聴取を進めている。」
残虐な犯罪は後を絶たない。しかも犯人は短絡的な思考で犯行に及んでいる。
なぜ人はこうも簡単に残忍な犯罪を起こすことができるのか、と考えさせられた。

そんなとき、一連の「アンパンマン」の記事で「善と悪」について書こうとした際に、『人はなぜ悪をなすのか』(ブライアン・マスターズ著、草思社)という本を見つけた。題名に惹かれて読んでみた。
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なかなか読みごたえのある本だった。
古今の連続殺人鬼や猟奇事件をおこした犯罪者、それにナチスのユダヤ人虐殺を取り上げ、人間はなぜ悪を行うのかを考察している。その犯行が詳細かつ冷静に書かれているので、読んでいて辛いところもある。しかしこの本は、残虐趣味で書かれたものではなく、彼らの「人間性」や「心の中にある善悪」を言及しているのである。著者がもし日本人だったらきっと「神戸小学生殺傷事件」や「女子高生コンクリート殺人事件」などを取り上げているだろう。また悪人とは正反対の善人たちも取り上げていて、人間の悪と善について論考している。


では、すこし抜粋してみましょう。
『人間は本性的に善であり、学習によって悪をおこなうようになると主張する人もいれば、これと正反対のことで、悪とはわれわれ人間の生まれた宿命であり、たえずそれに対処することによってしか悪に打ち勝つことはできない、と固く主張する人もいる。」「悪とは、城壁の外から都市を包囲する軍隊ではない。悪とはもともとその町に住みついていたものである。悪は守備範囲内の反乱であり、飲み水の中の毒であり、パンの中の灰である」(英国作家チャールズ・モーガン)。悪は内部にあるものだと認めながらもモーガンは、悪とは、まさにこの認識という行為をもって立ち向かい、武装解除しうる相手だということをわれわれに納得させようとしている』
善と悪は同居している。善に関するものをアンパンマン、悪に関するものをバイキンマンと置き換えてみれば分かり易くなります。
また『人間には二面性あって、善人が悪鬼となる危険性が常にある』と言っています。『一人の人間がいい性格あるいは悪い性格のいずれか一方を独占的にもっている、などといいはる人はいないはずである。
妻殺しのクリッペン博士は、あらゆる人間関係においてつねに暖かい、思いやりのある、無私の心を持って行動していたという。その彼が情婦と駆け落ちするために、自分の妻を情け容赦なく殺して遺体をバラバラにした。人間の二面性を持ったクリッペンの公判記録の序文にはこう書かれていたという。「人間の道徳性という領域は平坦な平野ではない。そこには山もあれば谷もあり、低地もあれば高地もある。また、ある種の荒々しい岩もそびえ立ち、恐ろしいほど荒涼としている」人間性の複雑さ、すなわち、いかなる人間の中にも善の力と悪の力が共存しており、それが、しばしば、あい反する性格を引き起こす』
『万人の胸の中にはたえず二つの衝動が同時に存在する。一つは神に向かう衝動、いま一つは悪魔に向かう衝動だ』とボードレールを引用していました。やはり、人の心の中では善と悪とが戦っていることになる。

『哲学の専門家でもないかぎり、自分の影についてじっくりと考えるなどということはだれもしたがらないものだし、そのしたくないという気持ちの根底にあるのは恐怖心である。われわれは自分の中にある悪魔を恐れている。というのは、ひとたびこの悪魔の欲求に気付き、それに耳を傾けたとき、それを制する能力が自分にあるかどうかを疑っているからである。だからこそ、そうした悪魔的な力について、あたかもそれが自分の外にあって客観的に見ることができるかのように語る方が容易なのである。パブやクラブの夕食の席で、最近起こった恐ろしい殺人事件について延々と語り合ったりするのは、この悪魔の存在を認識するかわりの代替行為の一つである。実際われわれは、偽装された内省、自分自身にもわからないように偽装された内省への逃げ道として、また一つ新たに起こった殺人事件を歓迎しているのである。
意識下においてわれわれは、抑制と放縦、常態と変態、拘束と解放とのあいだの衝突がたえず自分の内部で起こっていることに完全に気付いている。(この「たえず」というのは日常的にという意味ではなく、人生におけるさまざまな危機に際してという意味である)極端な抑制は機能停止につながり、放縦は過剰につながる。また。このわれわれの二重性を構成しているあい反する要素間の緊張の度合いがあまりにもわずらわしいものとなり、そのため、われわれはそれを押し殺そうとし、また、たいていの場合、うまい具合に押し殺してしまう。新顔の大量殺人犯がマスコミに登場すると、そのおかげで、抑えつけられていたわれわれの内なる論争に比較的危険性の少ない、客観的公開討論の体裁が与えられるのである。』
と今のマスコミ報道に群がる大衆心理も書いてありました。

この本には、悪に屈伏した殺人鬼たちが次々登場します。欲望の暴走を抑えることが出来ずに、獣的行為を行った連続殺人鬼の悪行を読むと、背筋が寒くなります。その残虐者の多くの者たちに欠如しているのが、「欲望を抑える自我」です。この抑制を育てるのが「子供のころの教育」にある、というのです。この本に限らず、「アンパンマン考」を書くにあたり、読んでみた本には必ず「幼児期の教育」の重要性を説いています。やはり「幼児期の情操教育」は重要だということでしょうか。
では「人はなぜ悪をなすのか」からその辺りを抜粋してみましょう。
『人に優しくしたり、愛他的になろうとするには情緒的技術を身につける必要がある。他人との生産的かつ温かい関係を築く、情操の形成。人格を形成し思いやりのある気質を身に付けるうえで、友愛とこころの結びつきである「共感」が重要である。』
『自分が愛される存在だと自覚することによって、人は慈悲深い人間になる可能性を伸ばし、道徳的な人間に成長する自由を手にすることができるが、そうした自覚がもてなければ、慈悲深い人間にもなるチャンスはまずない。とはいえ、自分が愛される人間だと自覚するだけでは不十分である。その一つがものごとを達成しようという欲求で、たとえそれが親密な家族内においてであろうと、何かをうまくやりたい、人に認められる人間になりたいという欲求が満たされることによって、自尊心の種がまかれるのである。情愛や共感と同様に、こうした力の相互関係はほぼ循環的ものである。他人を尊重しようという情動的意欲を身につけるにはまず自分自身を尊重しなければならないし、また、他人にたいする配慮なしには、自分自身について十分に考えるということもまずありえない。しかし、それでもなお、道徳的に均衡のとれた性格に向けて成長するかどうかは親の責任だ。』
『子供は、愛されているかぎりにおいては安心感を抱いていられるものであるが、自分が評価されていないように思われるときには、あたかも受けるに値しない愛を受けているかのように失望することがある。自分のもっている能力と得られた結果とのあいだにこうした食い違いが生じた場合、それによっては、何年にもわたって憤懣がくすぶり続け、まったく予想もしていなかった状況において突発的にその報復が起こることがあるからである。過小評価されている子供は、一般に、自分は父親や教師や学校の友達から絶えず不当に扱われているが、それについて腹を立てたりしてはいけないと思っている。というのは、いずれにしても自分はある種の愛を与えられているのだし、それで満足すべきだ、と考えているからである。そうした欲求と満足感を明確に意識するようになるにつれて初期的な罪悪感を生じ、子供は、恩知らずと思われることを恐れ、その恨みをまったくの他人に向けるようになる。』

と、親として耳の痛い話もありますが、自分の子供が凶悪犯人にならないためには肝に銘じておかなければならない話ではないでしょうか。
人間には善と悪の二面性があって、どちらに転ぶかは、その精神力にかかっているからです。

今度は善に関するものを抜粋してみます。
『道徳的規定は、善行と悪行のあいだに優位を競う争いを解決してくれるものであり、したがって人間の幸福には必要なものである。これがなければ、われわれは、自分自身との戦いの中でたえず動揺する自我を解体しまうはずである」「よいおこないをするということは容易なことではない。それには、努力と戦いと熟練が必要である。聖パウロは「悪に屈してはならない、善をもって悪を打ち破るのだ」といった。」
『安らかな安定した心の持ち主、自己抑制がある。』
『人間の善に境界があるわけでもなく、また地位も関係ない。人間の善は、予想外の場所、意外な人に姿を見せるものである。』
『英知とは、人間の価値を認識し、人間の邪悪性をはねつけることである。それは、明晰な頭脳と勇気をもち、人間の特性につきものの危険性に気付きながらも、決然として、喜びをもたらす仕事に身を挺することである。英知とは、何ら英雄的なことを成しとげないこともありうるのである。英知とは、往々にしてもの静かで人目につかないものである。』
『明確な思考にもとずき、積極的に愛を与える行為の中に善があるというのであれば、人類の歴史を飾る真の聖人の数は、悪行を成す人々の数をはるかに上回るはずである。しかし、必ずしもそうは見えないかもしれない。というのは、悪人の行状のほうが、平凡な善行のともなう静かなつつましやかさにくらべて、意気盛んで人目につきやすいからであり、また、その及ぼす影響もより劇的なものになるからである。さらに、悪人のおこなう行為は人の心を不安にするものを生み出し、人間の特質を開花させる善は、気づかれることもなく、探られることもなく、われわれの身近にひっそりと流れているものなのである。』
いい言葉の数々が心に沁みます。善を成すことは難しい、しかし、心の中で善は悪に屈しないようにしたい、それが願いです。

ユングは「人間は、だれもが、罪深さと高潔さというあい反するものをもっており、この両者のあいだの緊張感から精神をはたらかせるエネルギーの全体が生まれる」と説いている。
欲望は人にとって生きていくための活力となっているのも事実です。
しかし暴走する欲望を抑えるものも必要なのです。
それが自我=アンパンマンなのです。
善と悪の戦いは常に心の中で行われています。人間の中には消すことのできない悪の側面もあるのです。重要なのは、善が悪を飼いならしている状態にしておくこと。

要はこういうことです。
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画像はアンパンマンがバイキンマンを背負って飛んでいます。

一番最初に戻って「なぜアンパンマンとバイキンマンは戦い続けるのか」という娘への疑問には「(娘が)生きている限り戦い続けるんだよ。バイキンマンに負けないように、心の中のアンパンマンを応援しょう」と答えました。
娘は分かったような、分らないような顔をしていました。それでも、「アンパンマンのクリスマススペシャル」を見て喜んでましたね。
もうそんなことはどうでもいいことだったのかもしれません。
ただ、物語を楽しめばそれでいいということなんです。



さて、「アンパンマン考」も次でやっと最終回です。
次回は「将来の娘と自分に宛てたメッセージ」です。

アンパンマン考 8 なぜ子供たちは、アンパンマンを見て声援を送るのか

「物語としてのアンパンマン」について考察の8回目。

アニメ「アンパンマン」には、象徴的な場面が多くありますが、中でも「自分の顔を腹のすいている人に分け与える」というシーンがありますね。これ結構インパクトがあります。
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コントのネタなどにも使われるような有名な場面となっていますね。
ある人は、「自分の顔なんかちぎってあげないで、腹のすいた人がいるのが分かっているんなら、いつも食べ物を用意しておけよ」とケチをつけていました。
でもそれは見当違いの意見でしょう。「自分のものを分け与える」、ここがとても重要であり、「物語としてのアンパンマン」にはとても必要なことなんです。
この場面を見て、真っ先に思い出したのが「捨身飼虎図」。「お釈迦様の前世である王子が、飢えた虎の親子の為に身を投げたという説話」これは自己犠牲の精神を伝えています。
画像はそれをもとにした絵。
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あとは、キリストの処刑前夜に、自らの血と肉として、信徒にパンとぶどう酒を勧めたことに由来する儀式である聖餐式の場面を思い浮かべました。
supper.jpg
画像は最後の晩餐。
ともに、自分の身体を与えるという意味合いが「アンパンマン」とどこか似ている。アンパンマンの行為には「自己犠牲」「他者への愛」が秘められていると思う。(これは以下につながります)
さて、「アンパンマン考」では、簡単な物語の中に多くのメッセージが秘められていて、そこに惹きつけられた子供たちは、(そんなことは知らず知らずのうち)この物語を繰り返して見ている」、という考えのもとに書き進めてきました。
その隠されたメッセージの一つは「自我=アンパンマン」ということ。
まず『図解雑学 フロイトの精神分析』から
「自我は、どろどろの海の中にある崩れやすい島と同じように、もともと非常に不安定なものである。動物は本能をもっていて、それに従っていれば生きていけるため、自我を持たない。これに対して、人間は本能が壊れて正常に機能しないので、生きていくために自我を持つようになったのである。だから自我は本能(すなわち自然)に根ざしていない。自我は、その存在の生物学的根拠を持たない、砂上の楼閣のようなものである。」
自我とは元々強いものではない。それをいかに強くしていけばよいのか。貪欲な欲望はいつしか反社会的行動につながっていく。それを抑えるにはどうすればいいのだろうか。
その欲望の暴走に負けない「自我」の形成は、幼児期から5歳ころまでに形成されていくというのだ。その辺りが詳しく書かれた本からいくつか抜粋してみましょう。

「自己抑制と自己実現」礒貝芳郎、福島修美著(講談社現代新書)から、
「我慢強さには自我の強さ、あるいは自律性が絡んでいる。その自我とか自律性の形成を見ていく。」「乳児期に、社会的愛着といわれるポジティブな情動的関係を、養育者との間に形成するのである。養育者とはかならずしも母親に限らない。父親であってもいいし、そのほかの人であってもいい。常に自分の世話をしてくれ、暖かさと愛情を示してくれる者であるならば誰でもいい。そいう特定の養育者との深い社会的愛着を形成しておくことが、次の段階での我慢(欲望の抑制)の心を形成するための基礎になる。」
親子の信頼関係が自我を作るということ。
「乳幼児に十分に甘えられたかどうか、つまり親と子の間に本当の愛情・信頼関係ができたかどうかが、自我の形成に大きく影響してくるのだ。トイレのしつけが進行していく過程で子供は自分を抑制することを学習する。」
「フラストレーションをコントロールする。
トイレトレーニングの時期は歩行期ともよばれる。この時期は好奇心と自己主張が芽生え、活動が活発となる。しかし他人から行動の制限と制約が加わり、自分自身で自分の行動をコントロールすることを学ばなければならない。しかしこの時期の子供の情動的反応は非常に激しいもので、子供は自分の欲求が即座に充足されることを望んでいる。欲求が充足されなければ、強いフラストレーションや怒りを生じるし、それがかんしゃくなのである。」
こういうことか。
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ドキンちゃんかなり怒ってます。(欲望が満たされない状態)

「感情あるいは情動というのはコントロールしにくいものなのである。この時期にちょうどトイレット・トレーニングが行われることになる。だからこのトレーニングは、ただ排泄訓練ということだけではなく、子供の情動や行動全般についてのセルフ・コントロールについての訓練でもある。」
さて、大体このあたりからテレビを見たり、本の読み聞かせで、お話を楽しむようになる。つまりこの時期くらいから「アンパンマン」を見始める子供が多くなるだろう。
茂木健一郎著の本の中で「人間は、四歳くらいで、自分が意識を持つ存在であるということ、他人には心があることという二つの事実にほぼ同時に気付くことが知られている」と書かれている。
つまり、「他人と自分の違い」、「自我形成」は幼稚園児のころに理解され始めるということになる。

そう私の娘が「アンパンマンとバイキンマンはなぜ戦いつづけるの?」という疑問が湧いてきたということは、私の娘にも「自我の形成」が始まり「他者と自分との関係」が分り始めたということになるのだ。

今まで書いてきたように「アンパンマン」は自我であり、「バイキンマン」はエス(欲動)であり、「ドキンちゃん」はリビドーである。自我が形成されるころから「アンパンマン」を見始めるのはとても意味があることなのである。
だから物語を理解できるようになる幼児たちは、「アンパンマン」に夢中になる。そして無意識の内に欲望を抑えることを学んでいるのだ。
知的発達してくる3~5歳児たちは、「時間と言葉」を獲得し、自我を形成していく。
『自己抑制と自己実現』から「耐えるとか根気強く努力するとかいうのは、単に情動の問題だけではなくて、子供の知的発達にも関係している。つまり、時間的にも空間的にも子供の認知範囲が広がって、ある程度の展望が持てるからである。現在、今その瞬間の間だけ生きていた子供が、時間的つながりの中で生活できるようになる。いま手に入らなくてもしばらく待てばいいのだとか、今はしたくないけどしておかないと後で困るとかいう、時間感覚が身についてくる。また言葉を獲得するということが、我慢(抑制)に大きな役割を果たしている。例えば、口にできない感情をコントロールするよりは、感情を口に出してコントロールすることのほうが容易である。子供が時には独り言を言って自分自身に語りかけ、自分を慰めたり、なだめたり、苦痛や悲しみに耐えようとする。あるいは言葉で自分を励ましながら、砂遊びや積み木遊びを続けている。子供は自分の気持ちを言葉にすることによって、自分を一生懸命にコントロールしようとしているのである。」
私と娘が映画版アンパンマンを劇場へ見に行ったとき、アンパンマンが魔物(バイキンマンより強い)に捕まった場面などで、小さな子供たちが「アンパンマンがんばれ」「負けるなアンパンマン」と一生懸命に声を掛けていた。
そのときは微笑ましい光景だと思ったが、いま考えてみれば、あれは子供たちの自分自身への声援だったと思い至った。見ていた子供たちは、すでに自分とアンパンマンが同化している。そして無意識の内にも、暴走する欲望が自我を悪へ引きこんでいくのを恐怖したのではないか。
欲望の闇に飲み込まれないように、子供たちは必死になって「自分の心の中の自我」へ「がんばれ」と声援しているのではないか。

そして自我の発達は「他者との関係」におおいに必要となってくる。
再び『自己抑制と自己実現』から
「子供はトイレトレーニングを経て、次第に自律性を獲得する。ということは、自分に対してまわりの人たちが何を望み。それにどう応じていけばいいのかという、他者の立場に立つことを学習することであり、ただ自分のしたいことをするだけではなく、他者との相互依存の関係の中で、自分の置かれた立場を理解し、自分の言動を調整することを学んでいくのである。 中略 そういう現象が(ごっこ遊びが減っている)ということは、それだけ他人の立場に立つ、あるいは他人の役割をとってみるという経験が少なくなっているのであり、自我の発達させる機会に乏しいということになる。他者の立場に立つという心理は難しいもので、自分の欲求がただちに満たされない経験を積めば積むほど、そういう面での自我は育っていく。」

「他人の立場に立つということにも順序がある。最初は、同じ光景を自分が立っている所とは違った場所から見ている人には、違って見えるということを理解することができること。少し進歩すると、他の人々の考えや動機などが同じではない、違っているということに気づくようになる段階である。もっと進めば、他の人々の感情や情緒が自分とは違っているのだということを感じるようになるし、それがどんなものであるかを判断できるようになる。こういう順序を順当に踏んでいけば、やがて他者との共感性が高くなるし、それは向社会的行動と呼ばれる、他者への思いやりや援助行動に結びついていくはずである。

これがアンパンマンでいう「自分の顔を腹のすいた人にあげるという」ことにつながるのではないか。
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茂木健一郎著『欲望する脳』から、欲望と他者の関係について書かれた箇所を抜き出してみた。
「欲望」に負けないように、こころに刻まれていくことになる。「子供は、しばしば、自分の欲望をむき出しに主張する。しかし「心の欲する所に従って」いる子供は、決して倫理的な存在ではない。自らの欲望に従うのではなく、それを必要に応じて抑制し、調節することを学ぶことこそが、人間にとっての倫理の始まりである。」
「私たちの脳は、欲望が必ずしも満たされないという条件の下で進化してきた。とりわけ衣食住のために必要な最低限の条件は、ほぼ満たされるようになってきた。生産力は常に需要を上回る危険をはらみ、経済システムを維持するためにも、欲望を解放し、消費を奨励することが求められた。その結果、欲望を我慢しないという点において、現代の成人は、むしろ子供に近づいてきている。」
「その立場に自分を置いて来し方行く末を想像してみることによって、初めて見ることがある。「他者への無関心」
「他者への真摯な関心を持ち続けることは、心をしっとりと柔らかに保つための処方箋である」

物語というは、「登場人物に立場になってみる」「ストーリーの中に入って登場人物の心境になってみる」ということを楽しむことができる。そして、物語の登場人物と同じように、泣いたり、笑ったり、怒ったりすることができる。そのとき出会ったのが「いい物語」だったなら、人はそこから何かを学ぶこともできるし、人間的成長をすることもできる。
となれば、知識を最大限吸収することのできる幼児期の子供たちにとって、欲望を抑制し自我を育てるのに最適な物語は「アンパンマン」となるだろう。この物語に秘められたメッセージは、幼児たちを成長させ、自我を形成させることに役立っていくことになるのではないだろうか。

いま現代に求められているのは「自我の欠乏」「欲望の抑制」ではないかと思う。現在起こっている残虐な事件の数々は、犯罪者たちの「心の中」に問題があると思う。
では、次回は自我を育てることが出来なかった人々が犯した罪を書いていきたいと思います。

追記  「アンパンマン考」の終わりが見えてきました。あと2回ほどで終わる予定です。どうにかクリスマスまでには間に合いそうです。



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消えた二十二巻

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