スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「歴史のミステリー」第13号

「歴史のミステリー」第13号
rms013.jpg


歴史検証ファイル   西郷隆盛はなぜ自刃に追い込まれたのか?
              幻の中国王朝「夏」は存在したのか?
遺跡に眠る謎     ギザの大ピラミッド
疑惑の真相      モーツアルトは暗殺された!?
芸術の裏側      国宝「稲葉天目」
語り継がれる伝説  仮面の男
人物再発見      宮本武蔵


「西郷隆盛はなぜ自刃に追い込まれたのか?」

「明治維新の最大の功労者といわれる西郷隆盛は、新政府樹立後、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らと対立。西南戦争を起こした反逆者として、鹿児島で自刃した。いったいなぜ、英雄西郷は逆賊とされ、非業の死を遂げたのだろうか」(本文より)
ということで、西郷隆盛が西南戦争に追い込まれた原因を解説している。


「幻の中国王朝「夏」は存在したのか?」
「これまで、中国最古の王朝は「殷」とされてきた。ところが近年、黄河流域から古代の遺構が続々と見つかり、伝説上の王朝「夏」が存在した可能性が高まりつつある。幻の王朝・夏は実在したのか。最新の発掘調査をもとに実像に迫る。」(本文より)

ギザの大ピラミッド
ファラオが築いた古代文明最高峰の建造物。ということでピラミッドの解説。
面白いエピソードは、ナポレオンがピラミッドで過ごした一夜の話。もっと詳しく知りたい。

モーツアルトは暗殺された
1791年12月5日、音楽家のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは35歳で死んだ。その死因は今もって特定されていない。
モーツァルトは、死の床に臥す前に、体調不良を訴えていて、毒を盛られたのではないか、と妻のコンシタンツェに自ら語っていることや、毒殺の際にみられる症状を示していたことなどもあって、毒殺説が今も囁かれている。
本文では、疑われた人物として、①アントニオ・サリエリ ウィーンの宮廷楽長。これは、ロシアの作家プーシキンの書いた戯曲があって、これをもとにした映画「アマデウス」が有名。
D112411046.jpg
②秘密結社フリーメイソン説。モーツァルトがフリーメイソンに加入していて、この秘儀をオペラ「魔笛」で暴露したために暗殺されたという説。首謀者は葬儀を取り仕切ったヴァン・スヴァーテン男爵。
③マグダーレナの夫・ホーフデーメル説。マグダーレナは、モーツアルトのピアノの生徒であり、愛人だった。嫉妬心からだという。ホーフデーメルは、モーツアルトの死の翌日に妻を殺し、自殺した。
④妻のコンスタンツェ説。莫大な借金を抱えていたためとか、姉とモーツアルトの関係を疑っていたとかがいわれる。
⑤妻と内弟子のジュスマイヤーとの共謀説。妻と弟子が不倫関係にあったから。この弟子はモーツァルトの葬儀直後に行方知れずとなる。

また2001年、アメリカのジャン・ハーシュマン博士は「モーツァルトは生焼けの豚肉を食べたことで寄生虫症・旋毛虫症に罹患し死亡した」という説を発表した。本文では「楽聖はドンカツを食べて死んだ!?」と書いてあるけど、これが事実だとしたら、ちょっとイメージダウンとなるかな。

国宝「稲葉天目」

「稲葉天目の通称で知られ、曜変天目茶碗の中でも最高の物とされる。元は徳川将軍家の所蔵で、徳川家光が春日局に下賜したことから、その子孫である淀藩主稲葉家に伝わった。そのため、「稲葉天目」と呼ばれるようになった。その後、三菱財閥総帥の岩崎小弥太が入手したが、岩崎は「天下の名器を私如きが使うべきでない」として、生涯使うことはなかったという。現在は静嘉堂文庫所蔵。国宝。」ウィキペディアから
ほか3点の国宝・天目茶碗の解説。

仮面の男・バスティーユに幽閉された「高貴な囚人」
『フランスでは「太陽王」と称されたルイ14世の時代34年間にわたって監獄に収監されていた仮面で顔を覆った囚人がいた』
ということで「鉄仮面」伝説を解説している。
ルイ14世双子説、異母兄弟説などを紹介。
映画はレオナルド・ディカプリオ主演の「仮面の男」
D112338961.jpg


なおこの件に関しての詳しいサイトは「超本格歴史ミステリー~鉄仮面の男http://www.nazoo.org/misteries/ironmask1.htm です。かなり詳細に書かれてます。

今回は、軽く紹介したのみでした。
スポンサーサイト

「歴史のミステリー」第12号

目次
rms012.jpg

歴史検証ファイル    信長の比叡山焼き討ちは虐殺だったのか?
               リンカーン暗殺事件の真相
遺跡に眠る謎      ナスカの地上絵
疑惑の真相       切り裂きジャックは女だった!?
芸術の裏側       「ミロのビーナス」
語り継がれる伝説   「天女の羽衣」
人物再発見      二宮金次郎



「信長の比叡山焼き討ちは虐殺だったのか?」
Odanobunaga.jpg

織田信長が1571年に行った「比叡山焼き討ち」が是か非かを検証しています。本書では、信長の残虐行為はやもえないこととして「肯定」的にとらえています。信長の目的は「政教分離」にあって、ジュノサイト(組織的大量虐殺)も容認されるということなのでしょう。
この論が詳しく書かれているのは、井沢元彦著「逆説の日本史10 戦国覇王編 天下布武と信長の謎」であり、本書はこれをまとめたものだといってもよいでしょう。全体的に「信長ファン」による「信長擁護」の説が載っている。

①信長は宗教を弾圧したのか?
比叡山焼き討ちで殺した僧侶は3千人、中には女子供もいたが容赦なかった。しかも延暦寺の根本中堂をはじめ三塔十六谷の伽藍は灰燼に帰した。
ここで、信長は宗教弾圧を行ったわけではないということを宗教学者・山折哲雄氏の言葉を引いて書いています。「宗教弾圧を行っていたなら禁止令や追放令などを出して徹底的に取り締まったはずだ」としています。

②「比叡山の僧侶は善人だったのか?」
ということで当時の僧侶の堕落した様子を書いています。

③焼き討ちに踏み切ったのはなぜか?
直接の要因は、延暦寺が朝倉義景・浅井長政らに加担したため、信長が窮地に追い込まれ、これをかなり根に持っていたということ。

④信長は全山を焼き払ったのか?
逃げまどう僧侶は見つけ次第殺され、焼け残った堂塔は3日間放火して回ったといわれている。しかし近年の調査・研究では、それほど徹底的に焼き討ちが行われていたわけではない、という説が言われている。(谷口克広氏)また、「大虐殺は行われず、山火事程度ではないか」という説も載せている。焼き討ちの様子を伝えている「言継卿記」「御湯殿上日記」も伝聞であるゆえ大袈裟に書かれている、としている。本文では、「一級史料といえども、必ずしも信用できない」と書いている。

が、なぜ「信長の焼き討ち」のところだけ信用がないというのか、大いに疑問である。実に都合のいい史料の使い方だ。まさに信長擁護のためだけに史料を利用すべきではない。

「信長公記」についても「他の宗教勢力に対しして大げさに信長の残虐ぶりを伝えることで、「たとえ僧侶といえども、信長に逆らえば容赦なく殺害される」という恐怖心を植えつけようとしたのではないか、との見方もされている。」と本文にある。だが、これはありえない。「信長公記」は江戸時代に書かれてものであって、信長の残虐性、恐怖心を煽る意味など江戸時代にあっては全く必要のないことだ。戦国時代が終わった後年になって「信長」を振り返ったときに、その残虐性が他の武将よりも一段と際立っていたということになるのではないのか。
では延暦寺は焼かれなかったのかとでも言うのだろうか。比叡山の寺院はそのほとんどが焼き払われたことは「事実」なのである。現在ある寺や伽藍は、のちに秀吉や家康によって再建されたものである。それがどうして山火事程度という見解になってしまうのか、実に不思議だ。

⑤蛮行とされた宗教改革
ということで、信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたのは、「宗教改革」であって、「堕落しきった僧侶への鉄槌」「経済の開放」「政教分離」であった、という結論である。

確かに「目的」はそうであろう。しかし、目的のためには手段を選ばないというのでは、払われた代償は余りにも悲惨すぎる。
まあ、これも信長の描いた理想世界を作るためなら仕方なかった、と言われればそれまでなんですが……。

ただ、信長が行ったのは、比叡山焼き討ちだけでないだろう。
伊勢長島一向一揆衆の残虐行為は「根切り」といわれ、2万人を殺した。天正伊賀の乱では、伊賀の国全土が焦土化する大殺戮を行った。また、高野聖千三百人を捕まえて処刑し、高野山を大軍で囲んだ。信長が本能寺の変で死ななければ、真言宗・高野山でも虐殺行為は実行され、寺院はすべて焼き払われることになっただろう。(そうなれば、高野山奥の院にある空海の霊廟も焼き払われることになる)
それに荒木村重一族の虐殺、竹生島詣した侍女をかたっぱしから切り殺した事件(仲裁に入った僧侶まで殺した)、敵方の婦女を見せしめに殺すなど、実に枚挙にいとまがない。

さて、私はここまで、信長の残忍性ばかりを書いてきたが、決して、「信長」すべてを否定しているわけではない。信長の持っているこういった加虐性を含めてすべてが「信長」なのであって、それら功罪が合わさって「信長像」を作っているのであるから、それら「悪」の行為までも全部肯定化する必要はないと思うのだが。

同じ時期に文藝春秋五月号が出ていて、「織田信長 改革と破壊と」といった特集記事が載っていた。本郷和人氏、小和田哲夫氏など「歴史のミステリー」で紹介していた人が、ここでも「信長」について書いている。
まさしく「大転換期に出現した天才政治家」「壮大なヴィジョン、組織、人事」といった内容で、「信長」が偉大な人物であることは間違いない。

当時の血生臭い戦国時代の人々が見ても、やはり信長は残虐だった、というのは事実であって、その点を歪めてしまうと、おかしなことになる。そういった「残虐な面を持つ信長」がいたからこそ光秀がいて、家康がいることになのだから。(この辺りは長くなるので説明は省略。「東毛奇談」で)

では、ここで、明石散人著「二人の天魔王」から引用します。(対談本になっています)

「……信長がついに天下を制することが出来なかった要因の一つに旧仏教、五山(禅宗)、一向宗の抑え込みに失敗してしまったことがあるでしょう」
「それは認めます。元亀元年(1570年)の伊勢長島の一向一揆以来、信長は生涯一向一揆に悩まされたようですし……、本願寺顕如との石山合戦、比叡山延暦寺焼き討ち、日蓮宗弾圧、確かに信長は宗教界に対しての戦術が下手ですね」
「下手というより……、むしろ無策と表現する方が適切ではありませんか。比叡山延暦寺の焼き討ちにみる信長は、無策からなる愚かさを如実に物語っていますよ。笑っちゃうのは、この焼き討ちの後にわざわざ吉田兼和を出頭させて南都(奈良興福寺)、北嶺(延暦寺)を滅ぼしたら祟りがあるかを尋ねていることです。兼和の『先例に無い』との返答を聞いてやっと安心するのですが……」

というわけで、信長の宗教対策に対しては、失敗だったと見てる人もいるということです。

そして、信長が比叡山を焼いたことによって、かなりの文化遺産が失われたことは確かなことなのです。今残っていたらかなりの貴重なものだったに違いない。また日本仏教を伝える文書も、このときかなり失われた。残っていたなら日本文化を知る上で重要なものになっていたはず。宗教改革を行うなら別の方法があったのではないのか。これでは文化を尊重しない「バーミアン遺跡を壊すタリバン」のようだ。
こういったことは、明治維新のとき「上野戦争」で大村益次郎が、上野寛永寺焼き払ったときも同じだことだ。(寛永寺が「東の比叡山」と云われていたから同じような悲運に遭うのは皮肉なものだ。)  軍略の天才と言われた大村だが、果たしてそこまでする必要があったのか。このとき失われた文化遺産はかなりのもので、しかも徳川家の謎を解く鍵もここにあったはずなのだ。(これも説明省略。)
と、どんどん横道にそれていくのでここらやめます。


リンカーン暗殺事件の真相

「1865年4月14日、リンカーン大統領は、ワシントンDCのフォード劇場で観劇中、俳優のジョン・ウィルクス・ブースに拳銃で撃たれ、翌日死亡した。だが、この事件にはあまりにも多くの謎が残されていたのである。」(本文より)
ということで、リンカーン暗殺事件を検証している。アメリカの有名な暗殺事件の3回目となる。一回目は「ケネディ暗殺事件」第5号、二回目は「キング牧師暗殺事件」第9号となっている。
暗殺事件の経緯などはここで、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AE%E6%9A%97%E6%AE%BA
事件から12日後、犯人のブースは仲間とともに隠れているところを発見され、射殺されたという。しかし、誰が撃ったのかも分らず、射殺されたブースの遺体を見た仲間は「これはブースではない」と叫んだというのだ。しかもその遺体は秘密裏に運ばれ、後に旧監獄の地下監房の床下で見つかったということだ。
本書では、陸軍省長官で、本事件の捜査指揮者のエドウィン・スタントンを黒幕としています。

これで思い出すのが、ニコラス・ケイジが主演した作品『ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記』
30000000000110_f.jpg
映画の内容は「リンカーン大統領暗殺事件の犯人、ジョン・ウィルクス・ブースの日記が見つかり、そこにはベンの祖先が暗殺事件にかかわっていたという記録が残されていた。汚名を晴らそうとベンは再び冒険に出る。」ということで、このブースの日記というのが「証拠品として提出された日記は完全なものではなく事件前後の18ページ分が破り取られていた。このことを暴露した秘密警察本部長のラフィエット・ベーカーであり、ベーカーの遺体の場所までばらしたという。」ということです。
映画は未見。
DVDは6月4日に出るというから、そのころ読み返すといいかも。


ナスカの地上絵
nazca-p8.jpg

砂漠に描かれた謎の巨大絵、ペルーのナスカ川とインヘニヨ川に囲まれた乾燥した盆地状の高原の地表面に「描かれた」幾何学図形、動植物の絵。紀元前2世紀から6世紀の間に、「描かれた」と考えられている。
1939年6月22日、考古学者のポール・コソック博士により発見される。ドイツの数学者、マリア・ライヒェがこの地に住み着き、彼女を中心として、地上絵の解明作業と、保護が行われるようになった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t-ohashi/nazca.html このサイトでは地上絵が見易くなっています。


切り裂きジャックは女だった!?

『切り裂きジャック(きりさきジャック、英:Jack the Ripper ジャック・ザ・リッパー)は、1888年8月31日 - 11月9日の2ヶ月間にロンドンのイースト・エンド、ホワイトチャペル地区で少なくとも売春婦5人をバラバラ殺人にした連続猟奇殺人犯。』を解説している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%87%E3%82%8A%E8%A3%82%E3%81%8D%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF

そして本書でいう「女犯人説」の根拠とは
①犯人は被害者の女の服を着て逃走したという証言がある。よって小柄な男か、女ということになる。
②被害者が妊娠3ヶ月だったことから、堕胎のために産婆を呼んで、そこで殺されたのではないかということ。(1936、ウィリアム・スチュアートの説)
③警察が産婆を捜査線上に上がった時点から、殺人事件がなくなった。犯人が警戒したためではないか、という説(コイル・ウィルソン) 
④「犯人は女性堕胎医」と元ロンドン警視庁のアーサー・バトラーが発表した説。堕胎手術に失敗するたびに、表沙汰にならないように殺害したということ。

まあ、説としては新味があるけど、どうも根拠が薄いような気が……。

で、切り裂きジャックの映画
21BXDV3ZSTL__SL210_.jpg

ジョニー・デップ主演映画「フロム・ヘル」監督: アルバート・ヒューズ、アレン・ヒューズ 、出演へザー・グラハム、イアン・ホルム他


ミロのヴィーナス「永遠に失われた両腕の神秘」
x196image_120679_v2_m56577569831180787.jpg

1820年ギリシャのミロス(ミロ)島で発見された大理石のヴィーナス像。古代ギリシャ彫刻の傑作とされたが、紀元前4世紀ころの作品を前2世紀ころ摸刻したものという。現ルーブル美術館所蔵。

本文では、①ミロのヴィーナスがルーブル美術館に所蔵されるまでの経緯と各国の争奪戦を紹介。②欠けた両腕の謎の代表的説を5つ紹介。リンゴを持つ、楽器を持つなどがある。出典はアンリ・ポール・エドゥー著「考古学の啓示」 ③ヴィーナス否定説。この像が「勝利の女神」であったのではないかという説。元々腕は作られていなかったのではないかという説などを解説。 ④究極の美の法則「黄金比」の解説。
参考文献は「古代ギリシャ発掘史」ロラン&フランソワ・エティンヌ著となっている。

さて、語り継がれる伝説「羽衣伝説」は次回ということで。
第11号の「河童伝説」もまだ書いてません。これらはまとめて書きます。「河童伝説」は「おしりかじり虫は河童説」とからめて書こうとして挫折してしまって、全くまとまっておりません。それが遅れている原因。この分だと次週の13号が発売しちゃうよ~。

週刊「歴史のミステリー」第11号

週刊「歴史のミステリー」第11号
rms011.jpg

目次 

歴史検証ファイル   徳川8代「暴れん坊将軍」誕生の真相
              黄金の国「ジパング」はどこに存在したのか?
遺跡に眠る謎     大平山元遺跡
疑惑の真相      「風林火山」の山本勘助は架空の人物だった!?
芸術の裏側      「モナ・リザ」
語り継がれる伝説   「河童伝説」
人物再発見      エリオット・ネス


「徳川8代将軍誕生の真相」

『徳川幕府中興の祖と呼ばれ、時代劇などにも登場することの多い8代将軍吉宗。ところが、徳川宗家の出ではない吉宗が将軍となったのは、本来の継承者の相次ぐ死によるものだったことはあまり知られていない。そこには、何らかの陰謀があったのだろうか。』(本文より)

ということで、徳川吉宗が将軍になるまでの経緯と、その陰で噂されるきな臭い疑惑を検証しています。
①「紀州藩主になったのは偶然だったのか?」
まず吉宗が紀州藩主になるまでの経緯。1684年、吉宗は紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれた。生母は「お由利」で、身分の低い女であったという。(本文では、商家の娘や西国巡礼者の娘などと挙げているが、全く分らない。詳しいことは不明であるとしている。光貞の風呂番をしていたときに手がついたというのは有名な話らしく、他の本に必ず載る逸話のようだ) 公式には巨勢六左右衛門(利清)の娘とされている。(巨勢氏は大和朝廷時代から伝わる名族)
1697年、吉宗は越前・丹生郡3万石の大名になる。5代将軍綱吉に拝謁し、所領を得たという、これだけでも四男坊としては、幸運なことだ。
1705年、紀州3代藩主・綱教(長男)死去、4ヶ月後に4代藩主・頼職(三男)が死去して、吉宗が5代目紀州藩主となる。(二男は早世)
ここで、本文では、父・光貞と3代藩主・綱教の正室・鶴姫(5代将軍綱吉の長女)が同じ時期に死んでいることから見ても、次々と周辺の人物が謎の死を遂げていることから、何らかの陰謀があったのではないかと推理している。
歴史研究家・河合敦氏「徳川御三家の野望」の本から、吉宗が配下に置いていた御庭番などの間諜・隠密による陰謀が陰で動いていたのでは、という説を挙げている。

②「吉宗は将軍争いとは無縁だったのか?」
ここで、江戸での将軍後継争いを説明している。5代将軍綱吉の死後、家宣が6代将軍に就任するが、3年で病没、そして家継は4歳で7代目将軍となる。大奥では、6代将軍家宣の正室・天英院と7代将軍家継の生母・月光院の間で熾烈な権力争いがあったという。
そこに「江島生島事件」が起こり、月光院派は力を失い、天英院派が勢力を伸ばした。のちに天英院が8代将軍に吉宗を推挙することになるので、この事件は吉宗将軍擁立の伏線となっている、とのこと。
200608000001.jpg
このあたりは映画「大奥」で描かれている。
絵島には仲間由紀恵、月光院に井川遥、天英院に高島礼子、間部詮房に及川光博、生島に西島英俊となっている。私は未見。面白いかどうかは分からないが、時代背景を知るにはいいかもしれない。

③「誰が吉宗を将軍にしょうとしたのか?」
1716年、7代将軍・家継が8歳で急逝。「徳川実記」によると、6代将軍家宣が「次期将軍には吉宗を」との遺志があったと天英院が主張し、これを盾にして、吉宗を将軍に擁立したという。
要は、天英院が「将軍選び」で主導権を握って、月光院らを抑え込む好機と考えていたという。
月光院派の新井白石の「折りたく柴の記」によれば、6代将軍家宣が次の将軍にと指名したのは、尾張藩の徳川吉通だという。だが、天英院はそういったものを抑え込み、強引に吉宗を将軍にと推挙した。
この辺りは、人物名、年代が錯綜し、実に分かりづらい。詳しく知るには、「歴史のミステリー」本文か関連本を読んでください。
④「尾張藩主の謎の死の真相」
1713年、尾張藩主の吉通が、謎の死去。まんじゅうを食べて、そのまま死んだというから毒殺に間違いないのだが、医師の手当てもなかったという。そのあとを継いだ長男の五郎太もこの2か月後に謎の死を遂げる。将軍の座に近い尾張藩主の死は余りにもタイミングがよく、すべて吉宗が将軍になるように仕組まれているようだ。
⑤「吉宗と尾張との確執は何を意味するのか?」
尾張藩は五郎太のあとに、吉通の弟・継友が藩主となるが、直系ではなくなったために、将軍就任争いから外れてしまった。この後に継いだ宗春は、吉宗の行った享保の改革に反抗するように、贅沢を奨励し何かと吉宗の政策と対立する施策を行った。これに怒った吉宗は宗春を閉門蟄居にした。
要は、御三家筆頭の尾張家は、将軍就任に一番近い存在であった。それを抑えて、紀州藩の吉宗が将軍になったのであるから、尾張家を相当に敵対視していたということだ。
⑥「将軍誕生に隠された陰謀」
吉宗が将軍に就任するまでに、多くの人物が実にタイミングよくバタバタと死んでいく。しかも将軍となってからも、新井白石ら御用人を罷免し、吉宗擁立を進めた天英院に対しても、大奥のリストラを断行して、その力を削いだ。そして、敵対していた月光院を重用して、味方に付けるなどした。これを見ても吉宗が権謀術数に長けた人物であり、その裏では、町廻り横目、芸目付ら隠密を盛んに使って諜報活動を盛んに行っていたのだ。
こういったことからも、一般的には名君と言われた吉宗も、一方では数多くの黒い噂と疑惑が秘められた将軍だったようである。
本文で使われていた文献、大石学著「吉宗と享保の改革」、神坂次郎著「勝者こそわが主君」「紀州政事草読む」、大石慎三郎著「徳川吉宗と江戸の改革」
「尾張藩」「吉宗擁立」に関しては、他の本では、作家・神坂次郎氏の記事をよく見かけました。たぶんそのあたりが基になっているのか。


黄金の国「ジパング」はどこに存在したのか?

『中世イタリアの旅行家マルコ・ポーロの「東方見聞録」に記された黄金の国「ジパング」は、当然のように日本であると信じられてきた。ところが、近年、この常識に対する強力な異論が唱えられている。果たして、「ジパング」はどこにあったのだろうか?』(本文より)
5175TCW2MBL__SL500_AA240_.jpg
①「東方見聞録」とはどのような書物なのか?
ということで、マルコ・ポーロの経歴と「東方見聞録」の成り立ちを説明。当初の書名は「世界の記述」といい、これが広く読まれるようになったのは、書かれてから250年後のことだったという。その間にオリジナルは散逸し、写本を合わせて作ったために改変、潤色、または新たな書き加えが行われたのではないかという。
②ジャパンの語源は「ジパング」なのか?
どうやら、「ジャパン」の語源は「ニッポン」だということ。よって「ジパング」は違う国ではないかということだ。紹介された説は、海野一隆氏著「地図による日本」、的場節子氏著「ジパングと日本」。
③日本は「黄金の国」だったのか?
日本の「金」は奈良時代から平安時代にかけてが最盛期で、それ以降「金」は枯渇していたという。日本は産銀国となっていたのだ。日本は金の輸入国で、日本は「黄金の国」ではなかったということになる。
ここでは宮崎正勝氏「黄金の国ジパング伝説」から引いていた。
週刊「世界のミステリー」では、『「ジパング」は日本ではなかった』という結論になっている。
理由1、東方見聞録に書かれていることが、日本とあまりにもかけ離れている。(島が7000以上ある。距離が合わない。胡椒が取れる。動物の頭の偶像を奉じる。人食があるなど)
理由2、黄金伝説があるのは、日本だけではない。(長谷川亮一氏著「金銀島」)
理由3、東方見聞録に「元寇」の記述があるが、日本の史実とは食い違っている。(首都を占領され降服した、と記述がある。多賀一史氏著「黄金の国ジパングの謎」)  元に攻められたのは、日本だけではなく、この記述に合うのはフィリピンとなる。(的場節子説)
4、有力視されるのは東南アジアで、他に、ジャワ島やスマトラ島説、ルソン島説がある。(木村鷹太郎氏、加瀬禎子氏)

この記事は面白いです。「ジパング」についてこんなに多くの説があるとは知らなかった。


大平山元遺跡

「縄文の起源を覆した人類初の土器発祥の地」
場所は、青森県津軽半島の北東部、東津軽郡外ヶ浜町、旧蟹田町地区周辺。この地で発見された土器を炭素測定したところ世界最古の1万6500年前のものだ、という結果が出たという。
青森には三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡や二ッ森貝塚、田小屋野貝塚など多くの縄文遺跡が残っている。
これによって、日本人のルーツを探ることができるというのだ。
通説では、日本人は南方(インドネシア)から北上していったといわれてきたが、世界最古の土器が北方で発見されたことにより、日本人は北方から南下していった、ということになる。大坂医科大学教授・松本秀雄氏の研究によると「日本民族は北方型蒙古系民族に属し、その源流はシベリアのバイカル湖畔と推定できる」と書いてある。
ということは、縄文人は北方民族ということになり、弥生人が南方民族という説を裏づけていくのか。


「風林火山」の山本勘助は架空の人物だった!?

山本勘助不在論の検証です。
まず、「甲陽軍艦」は信憑性に乏しいということから、この書物にしか登場しない山本勘助は実在しないのではないか、という説を説明しています。これは週刊「歴史のミステリー」第3号の「川中島の戦いはフィクションだった」というのと同じこと。このとき私も山本勘助不在論を少し書いていました。
昭和44年に北海道で発見された「市川文書」に山本勘助(管助)の名があったというもので、これをもって山本勘助なる人物は存在していた、ということになっている。ただ、この人物が「甲陽軍鑑」に書かれているような活躍をしたのかとなると、かなり不審だということになる。

本文ではここまでだが、「不在論」がいれば、「実在論」があるということで、これ
yamamoto
「山本勘助のすべて」(上野晴朗・萩原三雄編、人物往来社)
ここで、かなり熱く「山本勘助実在論」を語っています。
要点は、①「甲陽軍鑑」批判は、江戸時代元禄期に肥前平戸藩主・松浦鎮信の「武功雑記」によって始まり、このとき山本勘助は創作、架空のものだとした。②これが明治時代になって、東京帝国大学教授の田中義成氏が「武功雑記」の内容をそのまま受けて「甲陽軍鑑」の価値を低めて、山本勘助は架空だといった論文を発表したことが、定説となり、今もこの評価を引きずっているというのだ。③本書によれば、有馬成甫氏、酒井憲二氏の研究により、「甲陽軍鑑」の評価は高いとしている。④また山本勘助は「軍師」というものではなく、「足軽隊将」であり、その真価は城作り・縄張り、築城にあったというのだ。⑤高坂弾正が「甲陽軍鑑」を記した真意は、武田家の衰退を嘆いて書いたものであって、軍記物、戦記物として書いたのではないから、その点を批判しても仕方ない、といったところか。

「モナ・リザ」と「河童伝説」は今読んで、一所懸命まとめているので、次回に続きます。

週刊「歴史のミステリー」第10号

週刊「歴史のミステリー」第10号
rms010.jpg

目次
歴史検証ファイル     「関ヶ原の戦いは天下を二分した決戦だったのか?」
                「カエサルを殺したのはブルートゥスだったのか?」
遺跡に眠る謎      「チチェン・イッツァ」
疑惑の真相       「イエスキリストは日本で死んでいた!?」
語り継がれる伝説   「聖杯伝説」
芸術の裏側       「ピーターとウェンディ」ジェームス・M・バリー
人物再発見      徳川光圀



「関ヶ原の戦いは天下を二分した決戦だったのか?」

「1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、勝利した徳川家康は覇権を握り、一方の豊臣家は急激に衰退した。だが近年、この戦いにまつわる新説が唱えられている。果たして、関ヶ原の戦いは通説通りの天下分け目の決戦だったのか」ということを検証しています。
しかし、読んだところそれほど、新しい説も出てなく、特に目新しいものはない。ただ「関ヶ原の戦い」の前後をまとめたものである。
結論としては、「戦う前から、家康の勝利は決まっていた。それは家康の書状攻勢による勝利であった」「豊臣家を壊滅させた真の天下分け目の戦いは、大坂冬の陣、大坂夏の陣であった」ということが書かれている。
この章で取り上げられたのは、静岡大学教授・小和田哲男氏、歴史家・桑田忠親氏、「真説  関ヶ原合戦」桐野作人氏、「関ヶ原合戦」二木謙一氏、「関ヶ原合戦四百年の謎」笠谷和比古氏、となっています。


「カエサルを殺したのはブルートゥスだったのか?」


「古代ローマ帝国最大の英雄カエサルは、元老院会議の議場で、14人の反逆者の手によって刺殺された。その際にカエサルが発したとされる「ブルートゥス、お前もか」という言葉があまりにも有名だが、この暗殺劇の裏側には何があったのだろうか。」(本文より)
ガイウス・ユリウス・カエサル(前102年~前44年)   古代ローマの将軍・政治家。英語読みはシーザー。
名門の出であるが、平民派を地盤として急速に政界で地位を築いた。前60年ポンペイウス・クラックスと結び、元老院を抑えて第1回三頭政治を行った。ついでコンスルをへて前58年~前51年にはガリア遠征を行い、全土を征服してローマ化し、ブリタニカにも渡った。クラックス戦死ののち政敵のポンペイウスが元老院と結んだのを知り、「骰子(さい)は投げられた」と言ってルビコン川を渡って各地に転戦し、前48年ファルサロスの戦いで彼を倒した。前46年、元老院からインペラントを授けられ、以後、属州政治からの改革や貧困の救済、商工業の奨励、太陽暦(ユリウス歴)の採用などに尽力した。前44年に終身のディクトタトル(独裁官)となり、文武の大権を一身に集めたため、元老院で共和主義者のブルートゥスらに暗殺された。一方、彼はすぐれた文人でもあり、その著「ガリア戦記」「内乱記」は有名。またディオクレイティアヌス帝以降は、正帝をカエサルと呼ぶようになり、インペストラトルという称号とともに「皇帝」の語源となった。  (世界史辞典)

週刊「歴史のミステリー」第10号で、「カエサル暗殺」の謎を検証。項目は6項目。
「カエサルは国賊だったのか?」「元老院とカエサルはなぜ対立したのか?」「ブルートゥスはカエサルを恨んでいたのか?」「暗殺に及んだのはどのような集団だったのか?」「ブルートゥスは首謀者ではなかった」「相続人デキムス・ブルートゥス」
結論としては、カエサル暗殺首謀者はマルクス・ブルートゥスではなく、カッシウス・ロンギヌスではないか、としている。また、「ブルートゥス、お前もか」という言葉は、マルクスではなく、デキムスに向けて発せられた言葉ではないか、としている。
本文で取り上げられた参考文献。「ローマ人の物語 13」 塩野七生氏、「図解 永遠の都・カエサルのローマ」 佐藤幸三氏、「古代ローマ歴史誌」 木村凌二氏、「ローマの歴史」 モンタネッリ、「カエサル」 長谷川博隆氏。ほかにシークスピアの「ジュリアス・シーザー」、プルタルコス「英雄伝」

チチェン・イッツァ
c-photo2.gif

メキシコのユカタン州にある「マヤ文明」の遺跡。「勝者が生贄となった死の競技場」と説明文がある通り、ここで多くの生贄が捧げられたという。ただこれは「16世紀に侵略したスペイン人が同地の植民地化を正当化するために「野蛮で原始的なマヤ人の生贄儀式」を誇張して喧伝し、処女の生贄伝説が広まったとも考えられる」と書かれています。
これを題材にしたのが、メル・ギブソン監督の映画「アポカリプト」。マヤ文明の生贄伝説等をアクション映画にしている。


イエス・キリストは日本で死んでいた。

青森県戸来村(現・三戸郡新郷村)に残る「キリストの墓伝説」を取り扱っています。
いわゆる「竹内文書」の検証。これは検索すると、かなりの数のものが出てきます。まずは、新郷村あたりからhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%83%B7%E6%9D%91
ここで、参考文献として挙げているのは、山根キク著「キリストは日本で死んでいる」、高坂和導著「超図解 竹内文書」、三谷芙沙夫著「奇の日本史 渡来伝説の謎を解く」
キリスト渡来伝説といえばこれでしょう。
諸星大二郎「妖怪ハンター  生命の樹」で、映画化された「奇談」。エヴァンゲリオンとの関係で何度も書きましたね。
D111717387.jpg


大人が存在しない「ネバーランド」の秘密

「ピーター・パンの冒険」を書いたイギリスの作家ジェームス・M・バリーの生涯と誕生秘話を載せています。ほかに、ダン・カイリー著「ピーター・パン・シンドローム」「ウエンディ・ジレンマ」を紹介。また近年出た新説「ピーター・パン殺人鬼説」なども書かれています。
映画ではジョニー・デップ主演「ネバーランド」が、ピーター・パンを書いた経緯や、バリーの生涯を描いています。
102429viewrsz90x.jpg
監督マーク・フォスター、出演ケイト・ウィスレット、ダスティン・ホフマンなど。
ただ実際は、映画のように、美しい話だけではなかったようだ。バリーは子供たちの思い出だけで暮らす老年であり、ピーター・パンと同じ名前をもつピーターは、物語のモデルといわれ続けるた悩みで、精神錯乱状態となり投身自殺したという。
ある意味、今号では一番面白い記事かも。


聖杯伝説

聖杯とは、イエス・キリストが最後の晩餐でワインを飲むときに使用したといわれる杯で、アリマタヤのヨゼフが十字架上のキリストの血をこれで受けた。これによりこの杯は、奇跡を呼び起こすといわれ、数多くの「聖杯伝説」が生まれた。この後、聖杯はエルサレムからブリタニアに渡り、その地のグラストンベリーという町に埋められたという。これが今のイギリス・グランストンベリーの「聖杯の丘」となる。
この聖杯はアーサー王伝説と結びつき、失われた聖杯を探し求めるという物語となって使われる。トマス・マロリ「アーサー王の死」、クレチアン=ド=トロア「聖杯物語」など。聖杯探求の旅に出た円卓の騎士の物語は、19世紀のバイエルン国王・ルードリィッヒ2世のもと、ワーグナーが「パルチヴァル」という神聖歌劇にした。
「歴史のミステリー」では、ダン・ブラウン著「ダ・ヴィンチ・コード」「死海文書」「テンプル騎士団」などを紹介し、現在はセント・クレア礼拝堂に埋蔵されているという説を挙げている。
参考文献は「知られざる聖杯伝説―死海文書と聖杯の謎」クリストファー・ナイト、ロバート・ロマス著。
200px-The_shepherds_of_arcadia.jpg
画像はニコラ・プッサンのアルカディアの牧人たち 

週刊「歴史のミステリー」第9号

rms009.jpg

目次

歴史検証ファイル    日露戦争で日本は本当に勝利したのか?
               キング牧師暗殺事件の首謀者は誰だったのか?
遺跡に眠る謎      ボロブドゥール寺院
疑惑の真相       ヒンデンブルグ号爆破はテロだった!?
芸術の裏側       「裸のマハ」フランシス・デ・ゴヤ
語り継がれる伝説    浦島太郎伝説
人物再発見        二宮忠八



「日露戦争で日本は本当に勝利したのか?」

日露戦争…1904年(明治37年)、日本とロシアが朝鮮・満州支配をめぐる対立から起こした戦争(~05年)
三国干渉後、ロシアは中国から満州における権益を得、北清事変後は、日本の満州撤兵要求を実行せず、満州の支配のみならず韓国進出の野心を示したので、日本と激しく対立した。日本は日英同盟(02年)によるイギリスの支持を背景に、04年2月仁川沖の奇襲で戦争開始。日本軍は有利に戦いをすすめ、05年3月奉天会戦で大勝、海軍も日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した。しかし、日本軍は軍事・財政的に戦争遂行能力が限界に達し、ロシアでは05年1月、血の日曜日事件がおこり、国内の危機が急迫した。日本を援助したアメリカ・イギリスも一方の決定的勝利による満州独占をおそれ、アメリカ大統領セオドア=ルーズベルトの仲介で、同年9月ポーツマス条約が締結された。これにより、日本は韓国を保護国化し、南満州を勢力範囲とした。しかし、死者10万余人、戦費は約20憶円を要したが、賠償金は得られず、民衆の不満は日比谷焼打ち事件などを引き起こした。
(日本史辞典より)

「歴史のミステリー」では  ①日本に勝算はあったのか?  ②日本は破竹の勢いで勝ち続けたのか?  ③両国が講和したのはなぜなのか?  ④講和条約の内容はどのようなものだったのか?  で日露戦争を検証しています。日露戦争そのものよりも、なぜこの戦争が起こったのか、この戦争の背景と、戦後の影響が書かれています。参考資料として、「太平洋戦争」の本を3冊挙げているので、日露戦争を、第一世界大戦時代を経て第二次世界大戦に突入するまでの切っ掛けとらえていて、その経緯が分かるような説明になっています。よって、日露戦争の「203高地」と「日本海海戦」、「乃木希典」「秋山真之」などはほとんど出てきません。

T0212318.jpg
今週発売の「新説・戦乱の日本史」も日露戦争を取り上げていますが、こちらは、戦いの様子そのものを扱っているので、日露戦争の経過が知りたければこちらを見る方がよいでしょう。
似たような2冊の本が、同じ週に「日露戦争」を取り上げているのに、そのとらえ方が全く違い、まさに対照的です。
「歴史のミステリー」では、「日本は形式だけの戦勝国だった」として、「列強諸国の代理戦争」「敗戦を意味した戦争継続」と項目を立てて説明しています。
最後に、「(日露戦争後) いったい何が残ったのか?」ということで、イギリスとアメリカの目論見は「日露双方の一方だけが決定的なダメージを受けず、拮抗する勢力、軍事力を保持して満州や極東地域で緊張状態を保ってくれることが望ましいという考えがあった」ということが書かれています。アメリカの真意は、アジアの主導権を握ることにあったので、日露の講和を進めたのであったという。また欧米列強国に操られたのは日本、ロシアであり、両国の中国大陸進出の勢いを鈍化させる目的であった。結果的に、日露戦争は、第一次世界大戦の火種が新たに作られたに過ぎない、と結論付けています。


「キング牧師暗殺事件の首謀者は誰だったのか?」 

21muueOvV7L__AA115_.jpg

1968年4月4日、公民権運動の指導者マーチィン・ルーサー・キング牧師が、メンフィスで暗殺された。JFK暗殺に次ぐ「アメリカの偉大な損失」といわれるこの事件は、脱獄犯ジェームス・アール・レイの犯行とされているが、暗殺の背後に黒幕がいたという説も囁かれている。(本文より)

「暗殺犯断定の証拠は十分だったのか?」「どのような裁判が行われたのか?」「明確な犯行動機はあったのか?」「レイに背後関係はなかったのか?」ということで、犯人とされているレイが本当に暗殺したのかに疑いの目を向けています。それに人種差別的秘密結社・KKK(クー・クラックス・クラン)や白人至上主義者のアーサー・ヘイニーズ弁護士の動きを追って、レイが実行犯ではないという証拠を示しています。
結論としては、キング牧師が暗殺されたのは「ベトナム反戦運動が原因ではないか?」としていて、首謀者としては、FBI関与説(人種差別主義者のジョン・エドガー・フーバー長官がキング牧師に強い憎悪を抱いていたという)やマフィアや軍事産業が関与したという説を押しています。ノーベル平和賞を受賞した牧師の影響力を警戒し、これ以上ベトナム反戦運動が高まらないようにするために、暗殺したのではないか、と推測しています。
やはりこれも、ケネディ大統領暗殺と同じような陰謀が隠されていると見ている。そして、このあとにロバート・ケネディ大統領候補が暗殺されるわけなので、一連の暗殺事件はすべて関わりがあると見た方が自然ではないか。


ボロブドゥール寺院
brdr.jpg

インドネシアにある巨大仏教遺跡。密林の中にあって発見されたのが19世紀だという。8世紀ころに作られたもので、ヒンドゥー教のシヴァ神寺院から仏教寺院へ変化したので、建築様式が独創的である。


ヒンデンブルク号  爆破はテロだった!?
1937年5月6日、巨大飛行船ヒンデンブルクがアメリカ・ニュージャージー州の飛行場に着陸する寸前に、爆発炎上。乗員・乗客97人のうち35人が死亡した。だが、当初、船体の浮上に使用された水素ガスへの引火といわれた事故原因は、結局、特定されなかったのである。(本文より)
豪華巨大飛行船の爆発は、水素ガスの引火が原因だと言われていたが、1972年にマイケル・ムーニーの本から「テロ説」が提唱された。この説では、爆破予告が事前にあったことや反ナチスによる犯行であったこと、実行犯は乗務員でないかということを挙げている。
また近年言われているのが「ナチスによる自作自演説」だという。ヒンデンブルク号を作ったツェッペリン社はナチスの圧力のもと国策会社に組み込まれてしまい、ヒンデンブルク号をアドルフ・ヒトラー号に改名するように迫ったが、これを会社側が拒否したために、ヒトラーに恨まれていたという。そのためにナチスが仕組んだという説だ。
どちらにしても、この事件後、ツェッペリン社は活動を停止され、飛行船時代は終わりを告げ飛行機の時代となった。
41ZZDDVRWCL__SL500_AA240_.jpg

画像は、ハードロックの名盤、レッド・ツェッペリンのアルバムから。

「浦島太郎伝説」お伽噺に隠された謎のメッセージ


浦島伝説のルーツは「丹後国風土記逸文」にあるという。丹後半島にいた日下部首の子孫ということになっていたという。この浦島の祖先の日下部氏は、農耕技術、養蚕織物、稲作に欠かせない鉄の文化を導入したとされる。これらの文化が地方に伝播されるとともに浦島伝説が広まったのではないかという説を解説している。
全国各地に残る浦島伝説には様々なバリエーションがあり、中国や朝鮮半島にも似たような話がある。神仏信仰である龍神信仰と、仏教思想が結びついたものであり、また稲作文化が雨を司る龍神が結びついてできた伝説だということも書かれている。また徐福伝説のあるところにも浦島伝説がある、というのが興味深い。
今号で紹介されている浦島伝説のある場所、京都の宇良(浦嶋)神社、網野神社、嶋児神社。香川県三島詫間町、岐阜県中津川市、各務原市の市杵島神社、長野県上松町「寝覚の床」神奈川県横浜市の観福寺、慶雲寺など。
また、沖縄の旧国名である「琉球」は「竜宮」から転訛したものといわれる。これはいい説明だ。

200px-Kuniyoshi_Station_38.jpg

画像は江戸時代の浮世絵師・歌川国芳の描いた浦島太郎

源頼朝事故死の真相  週刊「歴史のミステリー」第8号から 

週刊「歴史のミステリー」第8号から 源頼朝事故死の真相  

源頼朝の死については、多くの謎があるという。週刊「歴史のミステリー」8号ではこの謎を検証しています。
item01.jpg


①「幕府の正史に空白があるのはなぜなのか?」
通説では、1198年(建久八年)12月、源頼朝は相模川の橋供養に臨席した帰路に落馬して、それが原因で翌年1月13日に死去した、と伝えられている。
この頼朝の死に関して、不審なことが多いといわれる。
1、「吾妻鏡」には、頼朝の死から前後3年間が欠落している。鎌倉幕府が編纂した正史「吾妻鏡」に、初代将軍の死にまつわる記録がなくなっている(またはもともとない)というのは、あまりにも不自然であるという。
2、頼朝は、落馬が原因で死んだと「吾妻鏡」に書かれたのは、死後13年も経った後のことである。
3、武家棟梁が落馬で死んだとなれば、大変な不名誉となるため記載されなかったという説もあるが、それならば、なぜ13年あとに書かれた記述も削除しなかったのか。
4、頼朝が死んだのは落馬してから、17日もたった後であった。しかもその期日もはっきりしていない。1192年3月2日に「故将軍四十九日の御仏事なり」という記述から計算して、1月13日に死去したことが分かるというもので、その死因についても全くわからない。

②「頼朝は本当に事故死だったのか?」
そこで、頼朝は本当に落馬で死亡したのかという疑問がわく。
そこでは、各説を列挙している。
1、「脳卒中説」 明治時代の医学史家・富士川游氏などの説脳血管の障害により突然意識を失い、手足が麻痺したというもの、突然これに罹り、落馬したのではという説。
2、「糖尿病説」 頼朝の死後5日、関白・近衛実家の日記に『前右大将頼朝卿、飲水に依り重病』とあり、これも脳卒中と同じような症状。
3、「亡霊説」 頼朝に殺された源義広、義経、行家などのほか安徳天皇の亡霊が現れ、その祟りで病気になって死んだ。(保歴間記)
4、「誤認説」 愛人のところへ忍んで行こうとした頼朝が、曲者と間違われ斬られた。
5、「溺死説」 「盛長私記」によれば、橋供養の際に亡霊が現れ、驚いた馬が走りだして川に落ち、落馬して河原の石に頭を打った。また川に落ちて水を飲み溺死した。これは2の「飲水に依り重病」ということにもなる。
6、「刺客説」 橋供養から帰る頼朝を兵士の残党が女装して待ち伏せし、突然斬りかかったため、頼朝が落馬した。
7、「北条政子下手人説」 妻の政子が頼朝の浮気に怒って殺害したという説。「常山紀談」「見聞私記」など。

5、7は本文にはない。いまは、落馬が直接の死因ではなく、病気による死去が、どうやら有力らしい。または、これらの説が合わさった複合説もある。

③「頼朝の朝廷工作は成功したのか?」
ここでは頼朝の朝廷への工作が、自身の死に影響しているのかを考察している。
1185年に頼朝の朝廷改革に着手し、親幕派の九条兼実を関白にする。1190年に上洛した際には、丹後局や土御門通親(ここでは源通親となっている)と接近し、頼朝の娘・大姫を入内させようと、工作する。しかし親幕派の九条兼実は失脚、親幕派の一条能保は死去したため、頼朝の朝廷工作は失敗した。頼朝が不審な死をするのは、この直後であった。
結果として、北条時政や政子は、頼朝の政治能力を見限った。鎌倉幕府の将来を見据え、北条氏にとっても「頼朝不要」となったのではないかと、この本では見ている。

④「将軍をとりまく人々との関係」
頼朝と北条政子との関係を記載。また北条一族が頼朝を利用していたことを記載している。

⑤「相次いだ誅殺事件の真相とは?」
頼朝の死の前後多くの者が死んだ。頼朝の長女・大姫、親幕派の一条能保、高保親子の死。畠山重保、梶原景時、稲毛重成と頼朝を取り巻く人々が死んで行く。この後も頼朝の弟・阿野全成、源頼家、比企一族と次々と滅ぼされていき、実権は北条氏に移っていくことになる。

⑥「鎌倉幕府をわが物にした北条氏」
「週刊歴史のミステリー」では「頼朝暗殺説」を採り『相模川の橋供養に臨席した頼朝は、そこで毒を盛られた。実行犯は稲毛重成。暗殺計画の首謀者は北条時政であり、協力者は北条政子であった。幕府の公式記録「吾妻鏡」にはこのあたりのことが記載できずに3年間の空白期間ができてしまった」と結論つけています。

さて、頼朝暗殺事件などを詳細に書いた本となると、奥富敬之著「源氏三代、死の謎を探る」 (人物往来社)となります。
yoritomo1.jpg

「歴史のミステリー」で書かれていることは、ほとんどここから採っているとみていいでしょう。

少し補足すれば、頼朝の死には、朝廷内の親幕派と反幕派の激しい対立が影響していたという。頼朝の死の3年前に反幕派の土御門通親が、政変を起こして親幕派を一掃してから不可解な事件が頻発しているというのだ。
土御門通親が、頼朝の娘・大姫の病気回復を祈るために験者を鎌倉に派遣した直後、大姫は死んだ。そして親幕派の一条親子が相次いで死ぬと、ここで頼朝が不可解な死を迎えた。この変事に、親幕派が土御門通親を暗殺しようとしたが、失敗。(三左衛門ノ変)。
また、幕府は頼朝の次女・三幡姫を入内させようとしていたが、土御門通親の遣わした医師の薬を飲んで急死してしまった。
また、藤原定家の日記「明月記」には、土御門通親は、頼朝の死去の知らせを聞いていたにも関わらず、天皇、上皇らにそれを報告せず、自分の都合のいい閣僚名簿を作り任命までしてから、そこで初めて頼朝の死の報告を聞いて、驚いたふりをした。そして、自分の邸に引きこもると、門を閉めて閉じこもったというのだ。そこに三左衛門ノ変が起こるのだから、事件をあらかじめ予測していた節があった、と書いているという。
それに鎌倉の梶原景季、大江広元も土御門通親の後押しで出世した人物だった。

これらのことから、頼朝暗殺首謀者は、土御門通親ではないのか、という結論だ。

だが、土御門通親は、頼朝の死んでから、3年後に急死してしまう。頼朝の死後、実権は北条氏に移っていく。やはり「頼朝の死」で最後に得をしたのは北条氏ということになるのか。
作家・楠木誠一郎氏によれば、「吾妻鏡」の欠落した部分を廃棄したのは「大江広元」ではないかと推測している。つまり自分らに都合の悪いところは、正史といえども捨てられて、真実は隠されてしまうということになる。

太平記にも巻二十二がない。これも権力者・足利氏にとって都合の悪いことが書かれているということで、焼却されたというのだ。権力者に不都合なことは、やはり消されてしまう運命だ、ということか。

追記   「歴史のミステリー」の中で「曾我兄弟の仇討は頼朝暗殺未遂だった」という記事も出ていた。曽我兄弟の仇討が「王殺し」「源氏王朝滅亡」の物語であるといったことを書いたのは、丸谷才一の「忠臣蔵とは何か」だ。ここで、これに絡めていこうとしたが、長々となるし、主題から外れていきそうなので、やめました。他にも曽我兄弟仇討の真相を書いたものがあったはずなので、思い出したら、後で書きます。

 | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  └ カテゴリー
        └ 週刊「歴史のミステリー」
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。