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新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第27回目 家康が名乗ったのは、なぜ新田源氏だったのか編 その1

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第27回目
家康が名乗ったのは、なぜ新田源氏だったのか編 その1
このシリーズ、前回の「中島知久平と新田義貞」から約2年半ぶりですね。

早速ですが、今回はこんな話から入ります。(いわゆる落語でいうところの「まくら」)
「群馬伝説集成5 伊勢崎・佐波の伝説」(あかぎ出版)から。

栗観音と浄蓮寺
境町の上矢島字西浦に、浄蓮寺という新義真言宗の寺があります。
栗観音の話は、この寺にまつわる伝説、または史話として伝えられています。
今から六百年余り前の、延元三年(1338)のこと。新田義貞は、足利尊氏方の軍勢と、越前国藤島(福井県藤島市)地方で戦っていました。このとき、義貞とともに戦っていた武将の中に今井惟義(これよし)とその子の清義がいました。惟義父子は新田氏の一族で、矢島郷(上矢島)の東隣りの今井郷(西今井)の領主でした。
しかし、戦いは新田方の苦戦となり、ついに総大将の義貞は、藤島の燈明寺畷で討死してしまったのです。だが、その後も新田方は戦いをつづけていましたが、すでに勝利は足利方のものとなっていたのです。
ある日、今井惟義はその子の清義を呼び、「お前は、わが領地の今井郷に帰れ。そして、討死した義貞公をはじめ、新田一族の菩提を弔うのだ」と命じました。清義は足利勢と最後の戦いを挑み、潔く討死したかったのです。しかし、父の命令とあらば、仕方ありません。(父はその後、討死したという)
そこで清義は旅僧の姿となり、名も浄蓮と名乗って、越前国を後にしました。ここから、上野国(群馬県)の今井郷までは、はるか、いく百里と離れた遠い道のりです。しかも、あたりに目を光らせている足利勢の将兵に見つからないよう、身を隠しての忍びの旅です。もし見つかり、新田方の今井清義と分かれば、殺されてしまいます。清義は用心して、苦難の旅を続けました。時には深い山中に迷いこみ、栗の実を採って食べ、命をつないだこともありました。でも浄蓮(清義)は道中、かつて合戦したあとを訪ね、戦死者の霊を弔うことを忘れませんでした。
こうして浄蓮は、やっとの思いで故郷の今井郷にたどり着いたのです。だが、ここもすでに足利氏の勢力下に入っていて、浄蓮は何もすることもできず、ただ身を潜めているよりほかはありませんでした。だが、幸いにも、その姿を今井の村人たちがみつけたのです。「あの方は、今井様の若棟梁、清義様ではないか」「なんと、おいたわしい姿で。でも、よくご無事で」「だがこのままでは、足利方の落武者狩りに捕らえられてしまう」駆け寄った村人たちは、急いで浄蓮を矢島郷西浦の山中に隠しました。当時はまだこの辺りは深い山林で、人目の届かない所でした。
やがて、時は過ぎ、村人は山中の中(現浄蓮寺境内地)に小さなお堂を建て、浄蓮を住まわせてやりました。
浄蓮はこのお堂の中に、観音様を祀り、日夜拝んで戦死した新田一族の菩提を弔う、生活を続けました。藤島で別れた、父の志を浄蓮は固く守ったのです。
また、浄蓮は世話になった村人たちに、恩返しをしたいと考えました。そこで栗の木を育てることを思いたったのです。浄蓮は藤島からの苦しい旅の道中で、栗の実を食べ、命をつないだことを忘れなかったのです。浄蓮の育てたいく本もの栗の木には、毎年秋になると、たくさんの実がなりました。その実を浄蓮は村人たちに分けてやったのです。村人たちは大喜びです。当時の人たちにとって、栗の実は米や麦とともに、大事な食糧だったのです。それに保存ができるので、食糧難の時には貴重な食べ物となったのです。村人たちは、浄蓮への感謝の気持ちでいっぱいでした。「浄蓮様は、栗の実をならせる不思議な力をお持ちだ」「きっと、浄蓮様には観音様がのり移っているに違いない」
こうして、いつしか村人たちは、浄蓮の信仰している観音様を「栗観音」と呼ぶようになったとのことです。
やがて時は移り、室町時代の応永年間(1394~1428)のこと。新田氏にゆかりのある総持寺(旧新田郡尾島町世良田)から、秀範上人がきて、この地に立派なお寺を開山しました。寺の名は、今井清義の法名「浄蓮」をとって、浄蓮寺と名付けました。これが、今の浄蓮寺の起こりと伝えています。(後略)

その浄蓮寺に行ってみました。
場所はここ

大きな地図で見る

浄蓮寺 1

浄蓮寺 4
寺は建て替えられたばかりで真新しい。だが本堂のみで無住寺のようだ。
石碑を読んでみると、上記と同じようなことが刻銘されている。
浄蓮寺 2
「新田一族 今井清義隠遁の地」とあり、「清義は新田頭領家の第四代政氏の六男にあたる今井惟氏から三代目の人である惟義といって代々新田庄上今居郷(現 西今井)を領していた」という説明もあった。
浄蓮寺 3
新田一族であるので家紋を大中黒にしたということも書かれているので、あちこちに新田の紋を見ることができる。
浄蓮寺 5

浄蓮寺がある境町(いまは伊勢崎市と合併)は、かつて利根川を利用した川運で栄えた地域だった。「島村渡船」がいまでもあるというし、ネット上でもその手の話は多く上がっている。(ここが良記事、新田一族の話もあり)
鉄道も自動車もない時代、河川を利用した水運は重要な交通手段だった。大きな河川沿いに船着場ができ、人や物が集まりひとつの町として栄えた。河岸と呼ばれ、大きな問屋や蔵ができ商業集落を成した場所もある。それが、利根川沿いにも連なっている。
それは、現代でいえば、幹線道路沿いに同一のコンビニが作られる「ドミナント戦略」にどこか似てているかもしれない。

さてさて、ここで登場する浄蓮寺や総持寺も利根川は遠くなく、近くに河川もある。ほかに新田伝承を持つ神社・寺は利根川沿いに密集しているのだ。
「新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ」のキーワードは「「川(利根川)」です。
つまり、言いたいことは、この川に沿って新田伝承が点在しているということだ。
これまで見てきたように、大泉町の児島高徳、深谷市の渋沢栄一、尾島町の中島知久平、勾当内侍(そして高山彦九郎)、太田市の新井白石、館林市の正田氏(美智子皇后陛下)、世良田町の天海……などなど。

重要なので繰り返す。この河川に沿っていくと、新田伝承をたどっていくとが出来るということだ。(詳しくは、過去記事「新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ」で。説明するは面倒なので、確認してください)

実はそんなことを感知した人物がいたのだ。
これをネタに次回以降「家康が名乗ったのは、なぜ新田源氏だったのか編」を開始します。

では、最後にもう一度地図を確認。
この境町は、利根川と広瀬川の合流地点となっている。広瀬川の説明では、「群馬県渋川市(旧北橘村)で利根川から分かれ前橋市街を南へ流れる。概ねJR両毛線に沿った形で流れ、伊勢崎市(旧境町)で利根川に合流する。」とある。
そしてこの広瀬川をたどっていくと、次のお題である場所へ行く。
それが「退魔寺」!
えっ、そこに新田伝承や家康と何の関係があるって……、
それは次回の話。

次へ続く……。

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中島知久平と新田義貞  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回
中島知久平と新田義貞 


久々の「新田義貞伝承を追う!」シリーズ。
日本に危機が訪れると、新田一族の伝承(児島高徳も含む)を持つ者が必ず現れ、陰で活躍するといったことを追ったものが、このシリーズのテーマです。ほんとうにこれが不思議なもので、必ず新田伝承を持った人物が出てくる。なぜでしょうか。
当サイトでは、これまで、天海、明智光秀・明智秀満、井上馨、渋沢栄一、新井白石、正田家(美智子皇后陛下)と書いてきて、今回が中島知久平です。(高山彦九郎、徳川水戸家、坂本龍馬、と続く予定)
戦前・戦中においては中島知久平がその役割を負っているかのようです。
中島知久平 新田神社金山の頂上にある中島知久平像。 ここに新田義貞及び一族を祀った新田神社がある。
新田義貞願文 中島源太郎 
その脇には中島知久平の息子・中島源太郎(衆議院・元文部大臣)による「新田義貞願文」の碑がある。そうあの願文ですよ。太平記巻十七 義貞北国落ち前に日吉大社を詣でたときに奉った願文。
『願ワクバ往路万里ノ末マデモ擁護ノ御眦ヲ巡ラサレ、再度大軍ヲ起コシテ朝敵ヲ滅ボス力ヲ加エ給エ、我レ、タトエ不幸ニシテ命ノウチニ此ノ望ミヲ達セズトユウトモ、子孫ノ中ニ必ズ大軍ヲ起ス者アッテ、父祖ノ屍ヲ清メン事ヲ請ウ』のこと。詳しくは「東毛奇談」で。

中島知久平 銅像 尾島尾島役場にある「中島知久平の銅像」 

中島知久平像 岸信介中島知久平像には「元内閣総理大臣 岸信介」の名がある。

また経歴や中島飛行場については、過去記事において軽く触れているので、そちらをまずは参照してください。
二十歳の三島由紀夫 その1 三島は二十歳のとき群馬県太田市(新田)にいた!
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その5 シリーズ第25回
「富士重工・スバル」と「新田義貞せんべい」と「新田一族」

また中島飛行機については長島芳明さんのブログに詳しく、また本にも書かれる予定なのでそちらを。

スバル 矢島工場とりあえず、「富士重工・矢島工場」の写真を。スバル・レガシーとともに飛行機が展示されている。

さてさて、ここでは、中島知久平と新田義貞の関係についてのみ、手島仁著「中島知久平と国政研究会」(みやま文庫) から抜き出しておきます。

新田公挙兵六百年祭
新田神社と葉住利蔵
福井県福井市には新田義貞を主神とする藤島神社がある。同社は義貞が延元三年(1338)に戦死したと伝えられる燈明寺畷に、万治3年(1660)、福井藩主松平光通が石碑を建て、明治三年(1870)に同茂昭が小祠を建立したものを、同九年に別格官弊社に指定し、地名の藤島を社名としたものであった。
群馬県では、明治元年に幕末の新田勤王党を結成し、金井之恭とともに太政官へ出仕した橋本多賀之助が、新田神社と高山神社造営の建議書を太政官へ提出した。同三年に新田郡の荒牧孫三郎らが金山城本丸跡(山頂)に創建することを岩鼻県に、同六年には「新田神社創建願」を当時所管であった栃木県に、それぞれ提出した。同年許可がおり翌年に井上馨らの協賛を得て着工、同八年新田俊純ら新田義貞の末裔が社号を「新田神社」としたい許可願を提出し、許可となり社殿も完成。翌九年県社、同十二年に県社兼郷社となった。
新田郡では、新田神社を藤島神社と同じ別格官弊社に昇格させようという運動が起こった。その中心は葉住利蔵であった。衆議院議員となった葉住は、明治四十四年に新田家の縁戚にあたる井上馨を介して宮内省へ誓願書を提出したり、原敬内務大臣にも談判に及んだ。誓願書には三上参次に監修者になってもらい、岡野精一に「新田氏勤王事蹟」を纂述させたが、実現しなかった。武藤金吉も大正十年三月二十二日、横田千之助・鳩山一郎らを賛成議員に「県社新田神社合祀昇格に関する建議」を第四四帝国議会に提出した。同建議は採択されたものの実現には至らなかった。豊国覚堂によれば、葉住は新田神社昇格運動を勤王の念から行ったのに対して、武藤は新田郡の選挙民のために建議書を提出しただけであった(「上毛及上毛人」一九五号)。
皇太子裕仁が大正十年(1921)にヨーロッパ諸国を視察すると、葉住は、「摂政宮御渡欧記念」として翌年五月に太田町へ金山図書館を建設し、皇室中心主義の鼓舞と思想善導に役立てようとした。皇太子にならって同十二年に長男利次と義兄渋沢直一(金蔵)を伴い、ヨーロッパ21ヵ国を視察、帰国後に東京と群馬県内で20回に及ぶ講演会を開いた。講演会は、「世界中で唯一の崇敬賛美すべきの国体を有して、日本人が世界のすべての国民より幸福な国民である。それは忠孝の大義を有するからである。帝国々体が一般国民に反映して生活が安全を得ているからである。そして治国天下の大策は、政争をさけ妥協交譲による政治である」とする「愛国的大宣伝」であった。「上毛及上毛人」一一五号。
知久平は武藤金吉の後継者であったが、その政治的な活動を見ると、皇室主義、国家主義、非政争主義など葉住の遺訓を受け継いだといえる。

ここで登場する井上馨の新田神社創建などは「上州遷都論」のときにまとめてあります。
高山神社 正面 高山彦九郎高山彦九郎を祀る「高山神社」。閑散としていますが、社殿は立派です。吉田松陰を知るにはまず高山彦九郎を知らねばならないのに、現在では忘れ去られた存在となっています。 
高山神社 中島飛行機高山神社境内の手水舎をよく見ると「六百五十年祭 中島飛行機」とあります。
高山神社 中島知久平高山彦九郎を祭神とする「高山神社」にある碑。ここに協賛者筆頭として中島知久平の名が見える。
高山彦九郎の生誕地は細谷村で、中島知久平の出身地・尾島の押切はすぐ近くである。地元の偉人として中島は高山彦九郎を尊崇していた。

群馬会館の新田義貞像
昭和天皇の御大典を記念して群馬県では、県庁舎と群馬会館を建設し、同会館は昭和五年に完成した。同会館は「産業の殿堂」として建設され、当時、群馬の実業界を代表する知久平と上毛新聞社長・篠原秀吉は、「群馬県の三大先覚の像」を寄贈した。知久平は「勤王の忠臣新田義貞」の銅像、篠原は「勤王の志士高山彦九郎」と「幕臣・小栗上野介忠順」のレリーフで、制作者は佐波郡連取村(伊勢崎市)出身の鋳金工芸家・森村酉三であった。(森村は高崎の白衣大観音の原型製作者として知られる)
新田義貞の銅像(像の高さ四尺五寸、台座の高さ五尺)は群馬会館一階の広間に安置され、高山彦九郎と小栗忠順のレリーフは二階広間休憩室の壁にはめ込まれた。銅像は戦争で供出されたが、レリーフは現在も同会館にある。制作にあたり森村は各方面から資料を収集し、新田義貞は勤王の義気に燃える義貞を理想化するため、台座の上を洗う波、稲村ケ崎の劈頭から剣を投じようとする姿とした。高山彦九郎は京都三條大橋から皇居を遥拝して悲憤の涙に咽ぶ姿、小栗忠順は羽織袴の上半身で、徳川幕府の産業経済金融を一身にになったその手腕を偲ぶ姿となった。(『上毛』昭和5年2月10日・5月11日・6月19日、『上毛及上毛人』155号・158号)。
<中略>
昭和三年十一月に知久平は、井上理三郎(元館林税務署長)らが尾島町武蔵島の花見塚神社境内の新田義貞の首塚・勾当内侍(義貞婦人)の墓と伝える五輪塔のそばに、「勾当内侍遺墳碑」を建てると、最高額の百円を寄贈した。題額は金子堅太郎によるものであった。


勾当内侍の碑 花見塚神社勾当内侍遺墳碑。
碑の背面には「中島知久平」の名がある。
新田氏関連の寺社を巡って、昭和初期に建てられた碑を見れば必ずといっていいほど「中島知久平」の名前を見つけることができる。

挙兵六百年祭
知久平が幼少期から育んできた天皇主義・皇室中心主義を国民教化運動としたのが、「新田義貞公挙兵六百年祭」をはじめとする新田義貞の顕彰事業であった。第六四議会(昭和七年十二月十六日~八年三月二十六日)では思想問題が政治問題化し、斎藤実首相は施政方針演説で、「今後モ益々政治、教育其他各方面ニ於テ思想ノ善導ニ努力シ、不祥事ノ根絶ヲ期シタイト思ヒマス」と述べた。
挙兵六百年祭は昭和八年五月八日が挙兵から六百年にあたることから計画され、知久平は委員長に就任し、市政会館事務所内と太田町役場内に「新田公挙兵六百年記念碑建設会」を設け、国政研究会理事長中村藤兵衛を発起人総代とした。同会は金沢正雄県知事や各郡市教育会関係者、県出身の衆議院・貴族院議員、岡田啓介首相をはじめ内相・文相・衆貴両院議長、県内の旧藩主、野間清治らを賛助員とする大規模な組織であった。
事業内容は、①挙兵の地・生品神社と新田家累代の菩提寺・金龍寺に「新田公挙兵六百年記念碑」を建設。②群馬県出身で東京帝国大学史料編纂官兼助教授・中村孝也が執筆の「新田義貞公」(一万部)、「鎌倉攻」(六万部)、「笠懸野」(五千部)を作成配布。③中村作詞で群馬県出身の井上武士作曲の記念歌「五月の空」(小学児童合唱歌)と薩摩琵琶歌「新田義貞公」・筑前琵琶歌「天竜川」、中村作の児童劇「鎌倉攻」の制作などであった。「新田義貞公」などの書籍は、小学校尋常五年生以上と中学生に配布され、中村と鈴木孝雄陸軍大将の講演会や記念歌と児童劇が太田町で上演されたほか、東京中央放送局で「新田公の夕」という特別番組が編成された。また、野間の経営する講談社発行の「雄弁」「少年倶楽部」「幼年倶楽部」などの雑誌でも取り上げ、メディアを動員した国民教化運動となった。(「上毛」昭和八年四月三十日・五月一日・七日・九日)。

中島知久平の政治家としての力の凄さが、「新田公挙兵六百年記念会」これ一点をみただけでも分かります。衆議院・貴族院議員、岡田啓介首相をはじめ内相・文相・衆貴両院議長、県内の旧藩主を動かすほどだったんですから。
それに講談社創業者の野間清治(群馬県出身)をも巻き込んで、これって、今でいうメディアミックスじゃないの。
お~、新田義貞でメディアミックス! 夢のようです。(歌舞伎・芝居でも新田義貞及び一族は取り上げられることも多かったので、当時は本当に人気があったんですね。今では考えられませんが……)


金龍寺の碑は徳川家達が「左中将 新田公 誠忠碑」と揮毫し、撰書は碓井郡出身で学習院長の荒木寅三郎が担当。生品神社の碑は徳川家達が「新田公挙兵六百年記念碑」と揮毫し、国分青崖の漢詩が刻まれた。知久平は祭典の意義を「我が新田公は忠臣であり、寡兵よく逆臣の大軍に向った大勇こそ大いに学ぶべきことと思ふ。今年は丁度六百年に当るので精神教育に資したい意味で記念碑を建設した訳である。新田公を思ひ起こす度毎に今後の青年も奮起して来るであろうことを信じて居る」と語った。(「上毛及上毛人」一九四号)
祭典に皇室から金百円の祭粢料が下賜され、関係者は歓喜した。委員長の知久平が五月六日に宮内省に出向き、湯浅倉平宮内大臣から祭粢料を拝領した(「上毛」昭和八年五月六日)。
知久平は生品神社境内に、次の文字を刻んだ石碑を建てた。「昭和八年五月八日ハ新田義貞公挙兵六百年ニ相当スルヲ以テ記念碑ヲ建設シ祭典ヲ執行スルニ当リ事、天聴ニ達シ畏クモ祭粢料御下賜ノ御沙汰ヲ拝シ光栄アル式典ヲ終レリ 爰ニ御沙汰書ヲ刻シ後世ニ傳フ云爾 昭和八年十月 新田公挙兵六百年挙兵六百年記念碑建設委員長 中島知久平」
昭和九年十月十日、「非常時国民の精神作興」に役立てることを目的に、「新田公会」が金沢県知事によって建設され、総裁に徳川家達、会長に金沢正雄、副会長に星子県学務部長と中村藤兵衛、顧問に新田俊純、評議員に知久平、野間らが就任した。同会は新田一族の遺蹟・遺物の調査保存、史料の収集・編纂刊行、「帝都に義貞公の銅像」建設、講演会のほかに、同十三年の戦没六百年祭と新田神社に子孫・一族・郎党を合祀し、同社の社格を別格官弊社とすることを課題とした(「上毛」昭和九年十月七日・十一日、「上毛及上毛人」二一〇号)


金龍寺 新田義貞公誠忠碑金龍寺 新田義貞公誠忠碑

金龍寺・案内板 2金龍寺・案内板 2

金龍寺 案内板金龍寺 案内板

金龍寺・扁額金龍寺・扁額

戦没六百年祭
昭和十二年四月十八・十九日、東京から松平頼壽伯爵・酒井忠正伯爵・奈良武次陸軍大将・深井英五前日本銀行総裁・中島知久平・峰岸米造東京高等師範学校教授・新田公会副会長中村藤兵衛らを貫前神社隣の東国敬神道場に迎え、新田公戦没六百年祭の打合会が行われ、その後、長楽寺・総持寺・生品神社・新田神社などの遺蹟を視察した。七月六日には君島清吉県知事が東京で新田公会幹部会を開催し、本格的な準備が始まった。幹部会には鉄道大臣に就任したばかりの知久平や文部大臣安井英二、徳川圀順・松平頼壽・新田義美・徳川家達・中村藤兵衛などが集まった。
福井県の藤島神社では「新田義貞公六百年大祭」が昭和十三年五月二十二日から二十四日まで営まれた。群馬県これに呼応し、知久平が中心となり、奉賛会を結成して祭事にあたることにした。事業は新田神社での大祭、金龍寺・大光院・正法寺・照明寺・円福寺・安養寺・長楽寺・総持寺で大供養を行い、国民精神総動員運動を兼ね各種の教化行事を行った。五月二十三日には、知久平が「新田公殉節六百年記念碑 鉄道大臣 中島知久平書」と揮毫した碑が、金龍寺に建立された。撰分は中村孝也であった。(「上毛及上毛人」二五三・二五四号)。
新田郡世良田村では、村内有力者二三〇名を網羅して「新田公奉賛会」(会長・粕川宗造村長)をつくり、事業計画を立て、新田館址としてゆかりのある総持寺に記念碑(新田館址碑)を建て、小学校には新田義貞の銅像を建立した。記念碑の篆額は政友会総裁となった知久平で、碑文は中村孝也であった。「新田館址」の石標は、川岸文三郎陸軍中将が書いた(「上毛及上毛人」二七七号)。これは、紀元二千六百年(昭和十五年)を記念する事業でもあった。
さらに、昭和十六年には同村の村長・粕川宗造、村議・大野道衛、長楽寺住職鹽入良善らが「新田一族竝従臣忠霊供養塔建設会」を組織し、中島知久平・川岸文三郎・新田俊純・薄田美朝県知事らの支援を得て、「新田一族竝従臣忠霊供養塔」(花崗岩の十三重塔)を建設し、義貞の挙兵日の五月七日に「忠霊供養法会」と中村孝也による講演会が行われた(「上毛及上毛人」二八七号)。
自己顕示や売名行為が嫌いで、揮毫を頼まれても断るか、「―」という文字きり書かなかった知久平が、猛烈な天皇主義者であったゆえ、新田義貞挙兵六百年祭をはじめとする事業では、石碑への揮毫に応じた。これらの石碑は、書嫌いに知久平の文字を見ることの出来る数少ない遺蹟となった。刻まれた文字を見ると、知久平は達筆であった。

それにしても義貞戦没六百年祭に参加したメンバーがスゴイですね。日銀総裁や大臣、知事、学習院長などなど。いま義貞に関する式典を行っても市長クラスしか来ないでしょうね。
長楽寺 新田一族供養塔画像は、長楽寺にある「新田一族供養塔」

さて中島知久平の生家は、尾島町押切(合併し、太田市に編入)にある。
中島知久平 新邸中島知久平 新邸。外からしか中の様子は窺えないが、建物や蔵、車寄せの玄関など、かつての栄華がわかる。ただいまは屋根も朽ち果てていてかなりボロボロだ。太田市が改修するという話もあるようだが、反対派がうるさいらしい。文化財・歴史建造物・歴史的価値のあるものをすべて放置してきた太田市のことだから、また捨て置かれることだろう。ほんと市民に何の利益のない英語学校なんかに金を使うなら、こういうところに使って欲しい、と思う。
中島知久平 新邸 門中島知久平 新邸 門

この一帯は、新田氏関連の遺跡に溢れている。
満徳寺、勾当内侍関連の儀源寺や花見塚神社、そして利根川の川向うが埼玉県深谷になる。(渋沢栄一の菩提寺は新田氏関連の華蔵寺)
市内へ向かえば金山、呑龍さんの大光院、金龍寺。旧新田町方面へは斎藤佑樹とも縁が深い生品神社、反町薬師。
そして、この川を上がっていけば世良田東照宮や長楽寺へ、そして、幕末の志士に影響を与えた高山彦九郎の生家があり、下っていくと大泉町にある児島高徳の墓・高徳寺へ、さらに下ると館林へ行き美智子妃陛下を生む正田家へ続くことになる。

大きな地図で見る

中島知久平がこの地に生まれた意味は大きい。

続く。

美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その5 シリーズ第25回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第25回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その5

前回の続き
さて、ここまで、「正田氏と新田氏」の関係をただひたすら引用してきました。それもこれも「正田氏」のルーツをさかのぼっていくと「新田一族」にたどり着く、という結論のためです。
この点においてはこれくらいで大体は分かって頂けたかと思います。(それでも、一部のアンチ皇室の輩は納得が行かないでしょうけど……。)

ただ、正田氏が「新田一族」「新田源氏」「新田一門」だから何んなんだ、と言う人もいるでしょう。
新田氏の末裔だからどうした、という人もいるでしょう。
しかし、「正田氏の祖先は新田一族だった」という事実が肝要なことなのです。
それは、このシリーズのテーマは“「新田氏」に関連した人々は、それを自覚するとたちまち「尊皇家」になって、「新田源氏の使命は皇室を、国を守ることにある」と悟る”ことだ。
よく美智子皇后は平民の出だから云々と言った話をよく聞くが、正田家はただの家ではない、その系譜は、新田一族の末裔である。
新田一族の末裔である美智子皇后は御自ら皇室の中に入って、天皇陛下を支え、国(国体)を守っているのだ。

地縁や血縁の結び付きは、本人が思っている以上にその影響下にある。そんなことは意識もしていないという人もいるだろうが、そんなことはない、それは当人が気がつかないほど自身の内部にしみ込んでいるものなのだ。だれもここから逃れられない。
「自分の祖先が○○だった」「○○と同じ出身校だ」「おらが村の英雄は○○だ」ということに影響され、自ら行動指針というか行動規範の基を作っていくことになる。
そこを意識することによって、祖先(あるいは地元の英雄とかいったもの)の持っていたイデオロギーまでも背負っていき、その後の行動・活動に影響を及ぼす。

例えは悪いが、政治家の鳩山邦夫が「俺の親戚は坂本龍馬だ」と言ったことがありました。本当かどうかは分かりませんし、どうでもいいことなのですが、ここで重要なのは、「みんなが一緒にやれるように(幕末に薩長連合を仲介した)坂本龍馬(の役割)をやりたい」と連携に意欲を示した、といったところにある。
血がつながっているから、その人と同じ考えのもとに同じような行動するというのは、本来脈絡のない話である。しかし世間一般では、血縁者だから同郷だからその人の考えを引く継いで同じ行為をするというのは、大いに賛同される話である。
ただ、ここでは本人の資質によるものなのか鳩山邦夫の件は大衆に受け入れませんでしたが、本来、先人の遺命を引き継ぐ、先祖の遺訓を受け継ぐというのは美談の類になるべきものである。

これは自分が思っている以上にその人の心や思考までも形づくってしまうので、歴史上の人物でもこういった逸話は多いだろう。
例えば、草莽の臣である高山彦九郎は、新田郡細谷村の5月8日生まれたが、この日が新田義貞の挙兵の日であることや、高山氏が新田一門であったため、同郷の英雄である義貞の生涯に共鳴していったという。そして、新田一族の使命を自覚したのだ。それが「尊王思想」である。後の破天荒な行動は幕末の志士たちに多大な影響を与えた。『松陰』の号が高山彦九郎の戒名『松陰以白居士』からとったいう説や、中岡慎太郎、細谷村にある高山彦九郎の墓を訪ねているなどといったことだけでも分かる。(その他は歴史ミステリー小説「東毛奇談」第6章 12で)
高山彦九郎にとって、生まれ育った場所や祖先が「新田義貞及びその一族」に関連したことが、後々までの行動指針となった。
高山彦九郎が引き継いだのは「新田源氏の末裔は皇室(国)を守る」という使命感だった。

一つ「新田氏」関連の話を。
手島仁著「中島知久平と国政研究会」(みやま文庫) から。 

琴子(小川平吉の二女)は宮沢裕との間に、喜一・弘・泰をもうけた。喜一は第78代内閣総理大臣で、金井之恭の曾孫にあたる。岩見隆夫「再見戦後政治」によれば、岸信介・福田赳夫・宮沢喜一は戦後政治の三秀才で、頭脳明晰さは世界的な水準であるという。岸は福田を後継者とした。福田も宮沢が政敵の池田勇人―大平正芳系の人物であったにも関わらず、福田内閣の経済企画庁長官に抜擢し、OBサミット(インターアクション カウンシル)の後継者とした。これは戦後政治を彩る秀才の系譜であるが、福田が宮沢に目をかけたのは、上州人の血が流れていたことも、その理由であったと思われる。新聞記者などが、保守陣営のリベラリストの代表格である宮沢が熱烈な天皇主義者であることに驚きの反応を示したが、宮沢の皇室主義は、新田源氏の末裔である勤王金井家の血筋から来る筋金入りの正統なものであった。

宮沢喜一が金井之恭の曾孫に当たるとは思いもよらなかったが、(金井之恭は新田岩松家の支流。これは後で)
いま、ここで重要なのは、太字の部分で「新田源氏の末裔は皇室・天皇主義になる」ということだ。
こういう認識はみんな持っているようで、戦前では特に感じていたようだ。

この「新田氏=尊皇家」というのは新井白石にもある。
宮崎道生著「人物叢書 新井白石」から
「白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」「白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。」とある。
つまり、新井白石は幕内にあって珍しく尊王家であり、朝廷・皇室も世継ぎ確保のために備えをすべきであるとして宮家の増設を提言し、これが閑院宮家であり、今の皇室の系譜となっている。(関連記事 シリーズ 新井白石編その2 新井白石が皇室の系統を守ったのは、彼が新田源氏だったからだ。)

また、水戸徳川家は「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓をもつほどの南朝びいきの尊皇家だが、新田源氏の末裔であることを一番強く打ち出していたのが水戸徳川家だった。
同じ新田源氏末裔を称していた徳川の他家との特異性はどこにあったのか、これは後に書く。(「新田肩衝はなぜ水戸家にあるのか」)

ここでの要諦な点は「新田一族の末裔の使命は、この国を、皇室を守る」ということにあるのだ。

ならば、ここまで見てきたように、新田一門である「正田氏」もその使命を背負っていることにある。
だからこそ、「その1」で書いたように美智子皇后の使命感にあふれたお姿の意味も分かるというものである。
内側から皇室を支えている。
いま思うと、戦後の「サヨク」思想全盛の中で、皇室が倒されなかったのも、この国柄(天皇制)が壊されなかったのも、国民的人気を得られた美智子皇后の影響は大きかったのではないか。
「週刊誌的皇室」と揶揄されながらも、いま現在、「平成の皇室」が国民から支持されているのは、美智子皇后陛下の献身的お姿にある。

時代々々で皇室の在り方は変化している。現代において皇室の在り方として、いまは現状しかないのではないのではないのか。(「開かれ過ぎている」という懸念もあり、これについては問題も多いが……)

そうなれば、美智子皇后の血を受け継ぐ皇太子殿下や秋篠宮殿下、そして悠仁親王、敬宮愛子内親王、眞子内親王、佳子内親王もこの系譜にあり、この「使命」を受け継いでいることになる。


歴史的に新田義貞はその名を残したが、その生涯は余りにも短く、歴史上で大きな業績を残したとは言い難いかもしれない。しかし俯瞰して長いスパンで、目を凝らしていくと、そこに「新田氏」(児島高徳を含む)の末裔やら関係した人物が現れていることに気づく。(鎌倉時代末期・南北朝時代だけを見て「新田氏」を語ってはいけない)
そして彼らは、この国を守るためにどうすればいいのかを考え、行動した。

新田一族の末裔がこの国で果した役割は決して少なくないのだ!

このシリーズ「新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編」では、まだまだそういった人物を掘り起こしていきます。

美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている! その4 シリーズ第24回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第24回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その4

前回からの続き
前回は、「尾島町誌」と新井白石の「新田三家考」から、正田氏に関する記述を抜き出しました。
今回は「新田一門史」から引いてみます。

新田一門史
まず「徳川と太田の正田氏」の部分から。

新田郡尾島町徳川・正田秀二氏と太田市八幡町・正田政次郎氏からの史料「正田史」と「新田氏古記録」を参考にして編集した。
新田義重の五男経義が、新田庄の北方を守るために「額戸」に住んでその地名を姓とした。(今は強戸という) ―当時、義重は、義範に山名郷、義俊に竹林郷(のちに里見郷へ)、義季に得川郷(徳川郷)というように新田庄の東西南北に所領を与えて分族させた。
1、額戸経義の長男氏綱は額戸氏を継いだ。
2、次男経氏は、西長岡を与えて長岡氏の祖となった。この孫長岡源瑜は鎌倉攻めの功績で大蔵卿となったが、中先代の乱で武州女影で戦死した。
3、三男の孫三郎時綱に金山の西方にある鶴生田を与えてその地名を姓名として、鶴生田氏の祖となった。 この時綱の曽孫・松田与一政重は新田義興と従軍して矢口渡しで戦死した。
鶴生田孫三郎時綱の子は「庄田姓」で庄田彦三郎政綱である。舎弟は「勝田姓」で勝田彦五郎頼持で、その子頼政の3名は、義貞鎌倉攻めの旗頭として従軍した。
庄田政綱、勝田頼持、政綱の三名の子孫は世良田政義に属し、上州寺尾城、信州浪合の戦いに従軍した。
「波合記」とは、1385年(元中二年)世良田政義は上州から尹良親王を報じて、信州下伊那郡浪合で賊軍と合戦をした。当時越後から新田義宗の子新田貞方が従軍したが、賊軍の勢力があって遂に敗北戦となった。世良田政義は、得川四郎義季の子孫で世良田に屋敷があった。その世良田に属した庄田氏・勝田氏が当時得川に住居したと(古記録)に記載している。

ここから、正田氏一族の遠い祖先は、庄田―勝田―松田と称したというのが分かる。
また、強戸、鶴生田の地名は今も太田市に残っている。
(この鶴生田氏、額戸氏が鳥山氏と関係があるのだが、これはまた別の時に。関連記事「新田一族の話題3つ」となぜか「鳥山明」)

またさらに詳しく説明を加えている。

現在、館林市に正田氏が大多数在住しているが、正田貞次郎の系図に「延享から寛政年間に世良田より館林宿に移住す」の記録がある。館林在住の正田氏の旧墓地は世良田にあるが、宝暦・延享・寛政年代の石塔は全部「庄田」である。太田の正田政次郎氏は尾島町出身であるが、尾島町の墓地に石塔が二十余基あるが「勝田」である。この双方の石塔が庄田・勝田であったことは、正田氏の祖先が庄田・勝田姓であったと証明する。
苗字は、いつ頃から称しただろうか。その歴史を記しておく。
天文七年(1538年)に新田氏十五代(岩松)昌純の忠臣、正田対馬助義繁がいた。新田(岩松)昌純は逆臣横瀬に殺されて事件があった。(註・横瀬氏による下剋上。実権は岩松氏から横瀬氏に移る。横瀬氏はこの後に、新田義貞の孫・貞方を祖として由良氏を名乗る。) この時、長楽寺の住職真西堂が仲裁に入って昌純の舎弟氏純を「館様」と称し横瀬成繁が金山城主となった。城主となった横瀬氏は、勢力が益々盛んになって天正元年頃は、佐野宗綱を殺した。更に桐生城を攻め取ろうとした。正田対馬介が、新田家は無理な戦いはしない氏である、と忠告したが、横瀬氏は怒って正田対馬介を殺した。(この時代に正田氏系は、勝田氏、庄田氏、正田氏の三家があったようだ。)
天正十二年、新田金山城籠城の頃(北条氏の攻撃)は、庄田寅之介、勝田刑部介が仕えていたが、正田家は横瀬氏の勘気を受けていたので、このときは隠れ住んでいたという。
この七年後の天正十八年八月には金山城は取り壊しとなって家臣らは浪人した。当時関東八州は徳川家康の支配となって、家康は関八州を調べて自分の住む城をどこへ定めようようかと、川越へやってきたときに、重臣の本多佐渡守正信が家康の命令で新田(岩松)守純を迎えに来たので、守純は息子の豊純と家臣数名と川越城で家康に会ったが、家康は、新田氏の古事を尋問し、徳川氏の系図を参考にするから新田岩松系図を一夜だけ借用したいといったが、守純は(家純の遺言)があるので貸せないといった。家康は貸せば新田荘は守純に与える心でいたが、貸さないので怒って市野井の荒れ地を20石だけ与えた。
本多佐渡守正信は守純らを新田荘に送って来たが、無駄足はしなかった。彼は得川(徳川)郷へやってきた。当時得川村に正田隼人が住んでいた。隼人の父対馬介義繁が殺されたときは子供で、一事家族とともに潜んでいたが、天正十八年に横瀬由良氏は牛久へ蟄居したので、得川村に住んでも平気であった。隼人は青年となっていた。(註 徳川の正田秀二氏の伝承を参考とする)
本多正信は隼人に正田系図を聞き糺した。隼人は「庄田」「勝田」「正田」の三氏に分かれている。また鶴生田の子孫なぞと遠い系図は当てにならぬ、人間は正しく生きることが大事だ勝田、庄田は今後使わずに正田の苗字とせよ。今日から苗字帯刀を許し、得川を徳川村と称せ、徳川村の年貢は、今後無税とする。さらに江戸城へ年賀に登城を許可する。
正田隼人は本多正信に、丸めこまれた訳ではないが関東八州を支配する徳川家康に反対すれば殺されるだけである。
それに徳川村の百姓らが年貢を納めなくてもいいのなら、勝田、庄田の苗字を止めても、正田という苗字で結構だと思って以後、正田とした。
この話を聞いた勝田、庄田の人々も正田としたが、それは表向きだけで、石塔には勝田、庄田を刻んで供養をした。徳川家康も尾島や世良田の墓地まで調べる暇はない。それより天下を取るために日夜懸命だった。当時の歴史が示すように関ヶ原の合戦の後、慶長八年(1603)には、系図はどう繕ったのか一応、(新田殿)で征夷大将軍となった。

家康と正田隼人の会見が「尾島町誌」よりもさらに詳しくなっていて、本多正信がまとめ役となった、としている。多少、創作風にはなっているが、実際にはこういった流れではなかったかと思われる。
また、尾島にあるという正田氏の祖先の墓がどこにあるのかの細かい記述がないので、実際に見ることができなかった。これはもう少し調査してみたいと思う。
それにもうひとつ重要なのは、正田隼人とともに家康に呼び出された新田(岩松)守純であるが、この末裔が幕末・明治のときの岩松満次郎こと新田俊純であり、この娘が井上馨の妻となる。

次は「新田一門史」の「館林の正田家」の部分。

群馬県館林市に正田氏が多数存在している。徳川の正田氏の項を参考にして正田貞次郎翁の祖先の歴史を書いたが、貞次郎翁の祖先は、得川村から世良田へ移住して「庄田」を名乗った。今世良田の墓地にある石塔を調べると、延享、宝暦、明和、安永、天明まで「庄田」と刻んである。寛政年間に館林へ移住して大商人になった。以上で昔は庄田姓であったことを確証する。
太田市に住んでいる正田政次郎氏の祖先の墓は尾島町にあるが「勝田」と刻んである。この確証で正田氏の遠い祖先であった庄田彦三郎政綱とその弟・勝田彦五郎頼持が、元弘三年五月八日に、新田義貞軍の一方の大将として鎌倉攻めに従軍した歴史は創作ではなく、古記録にある史料と「庄田」「勝田」の両家の石塔を調べて、正しい歴史を記載した。
正田文右衛門は代々世襲で旧家である。旧屋号は「米屋」と称した。現在栄町で亀甲正醤油の醸造元である。この旧家、正田文右衛門の弟・貞一郎が分家して現在の日清製粉KKの創立者である。現当主は東京に在住している。
〈中略〉
徳川の正田家が保存している系図がある。ここでは旧家と書くが、「本家」と書かない。本家と称するのは、今から642年前に鎌倉攻めに従軍した遠い祖先を「本家」とした。各地に在住する正田一族は、鎌倉攻めに従軍した総本家から流れた分家である。

まさに正田氏の祖先は新田義貞の鎌倉攻めに参加したと書いてある。ただもっと詳しく書いてあればいいのだが、ここももう少し調べます。
ただ、「正田氏」の系譜をさかのぼっていけば、必ず「新田一族」に行く着く。これは間違いない。
新田義貞と桜「新田義貞と満開の桜」(世良田町)、鎌倉攻め・稲村ケ崎投刀の場面。このとき「正田氏」は新田義貞に付き従っていた。

次が「新田一門史」の「高島・中瀬の正田氏」です。

埼玉県深谷市大字中瀬、高島の正田氏
正田姓は徳川初期ころから同族が書くようになったが、遠い祖先が鎌倉攻めに従軍した時は“庄田”“勝田”であった。それが“正田”となったのは徳川郷の正田氏と同じ事情であった。
中瀬正田史料天正十九年に屋敷縄入の時(内匠正田)記名がある古文書があるが、その図面は正田家の本村徳川郷と利根川を中に境として中瀬村となっている。(中瀬という地名)遠い昔は徳川と地続きだったが利根川の流れが変わって利根川南となった土地である。
今の中瀬と隣村の新戒は遠い昔利根川であったこの古利根の堆積地なので(しんがい牛蒡)の産地である。
正田喜一郎氏(深谷在住の郷土史家、史料提供者)の祖父が、大正十年十二月五日に宮内大臣牧野伸顕氏を通じて牛蒡五貫目桐の箱に納めて天皇・皇后両陛下に献納された。
<中略>
天正十九年に縄入れした内匠正田と称する祖先は(法名・一窓善棟居士)で文禄三年(1594年)に没している。この祖先は天正十八年に金山城に仕官していたが、豊臣秀吉命令で金山城取り壊し後浪人した。翌年に中瀬へ移住して屋敷の縄入れをした。当時金山城に庄田新四郎、勝田刑部介、庄田寅之介、正田平左衛門の四名が仕官していた。平左衛門は高島へ定着したから、他の三名もそれぞれ定着したが、当時庄田・勝田姓があった。また正田姓もあった。
高島の正田氏の家紋は「蔦」で、中瀬の正田氏は「丸に蔦」。徳川の祖先も「丸に蔦」である。

新田一族・一門が埼玉の深谷や妻沼など北埼玉地方まで進出していたことということだ。
関連記事渋沢栄一と「上州遷都論」  「新田義貞伝承を追うシリーズ」10回目。
渋沢栄一 生家画像は「渋沢栄一 生家」
この一帯はかつては「新田荘」であったのだ。
また、渋沢栄一記念館の展示物を見ても「正田姓」のものを多く見るし、実際このあたりに「正田姓」はかなり多い。
実際に地図を見れば、利根川を挟んで両隣りだ。

大きな地図で見る

「正田氏」を新田氏の視点で見て行くと面白いことなる。
徳川家康がからんでいるというのは前にも書いたが、ここに井上馨と渋沢栄一も出てくるのだ。
みな「新田一族」と関係がある。

「上州遷都論」のとき井上馨と渋沢栄一が新田の地に帝都を作ろうとしたが、まさかその土地の名家であり、新田一門の「正田家」から皇后を出すとは、このときは思いもしなかったであろう。

さて、次回はこれらを踏まえて「美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!」大まとめをします。

追記 「新田一門史」には、「正田氏」はこの他は、世良田、出塚、尾島、堀口、押切、高林、花香塚、東矢島などが紹介されている。各家の写真、経歴、家族の名前なども掲載されているので、「正田姓」の方はを一度見てみるとよい。祖父・祖母・親戚が載っているかもしませんよ。
ほかに「新田氏」に関連した家臣・一族の末裔の方々が詳しく載っています。新田氏伝承を持つ家の方は一読することをお勧めします。意外なルーツを探れます。(とはいっても群馬の図書館くらいにしかありませんが……)

美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その3  シリーズ第23回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第23回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その3

前回の続き  

館林の正田家が、世良田郷(徳川郷)から分家したものであるというのが、前回までの説明。
今回は世良田・徳川郷の「正田氏」。
旧尾島町・徳川氏発祥の地

旧尾島町・徳川氏発祥の地「徳川氏発祥の地・太田市」とありますが、元は「尾島町」。合併したために案内板の尾島町の部分に無理やり「太田市」と上から張り付けてあります。
この案内板を見ると、世良田東照宮、長楽寺、満徳寺、総持寺、明王院……まさにここは「新田氏関連遺跡の宝庫」だと分かる。そして、私的には新田氏と徳川家と天海が結び付く場所だ。
東毛奇談

美智子皇后の祖先である「正田氏」はここにいたのだ。

まずは、「上州及び上州人」 大正11年・64号にあった新井白石の「新田三家考」から「正田(庄田)氏」の記述を拾ってみる。
「…又新田家の老臣に庄田隼人と云う者あり、御入国(徳川家康の関東入国のこと)の時分御尋有りけども、隼人は死去いたし其子百姓になりて有りしを刀御免被成、二百石被下、庄屋の上に立てられるが是も毎年正月、今に於て出府すとなり…」
新井白石が「新田源氏の末裔」を名乗っていたことは、以前書いた。
徳川家が新田源氏の末裔を称していたことにより、新井白石はその調査のため世良田郷・徳川郷に赴いていた。
関連記事

また「尾島町誌」では更にその状況が詳しく書いてある。

江戸幕府と尾島町
……こうして徳川氏は清和源氏系統である新田氏の後裔であるとの系図を作り、ここに徳川郷は徳川家発祥の地になるわけである。
ところで、親氏は徳川郷を出立するに際し、その領地を残らず正田隼人に預け、以後は正田家が支配したという。天正十八年(1590)徳川家康の関東入国にあたって、正田隼人は召されて川越まで祝のため罷り出るが、家康から直々に徳川郷の由来を尋ねられて、委細を申し上げ、このとき親氏の旧例にしたがって、祝儀として小判壱両を進物したという。そのとき、家康は新田徳川の旧臣は正田隼人だけであり、正田が子々孫々に継承され、めでたいことであるといい、その上で「新田徳川家之系図」を差し出すように命ずる。この上意によって、正田隼人義豊は急ぎ写しを出したが、正田の苗字はいずれの文字を用いるかとの下問があったので、「生田」あるいは「庄田」としたためている旨、言上したところ、紛らわしいので、「正」の文字に改めるようにとの上意があり、これより以後「正田」と改めて用いるようになったという。さらに家康は、この系図は他見致さざるように大切に保管すること、また御館跡で子孫末代まで居屋敷として所持してよいとの仰せであったと伝えられている。こうして、その翌年に徳川郷は直筆の御書判で三〇〇石の御朱印地とされ、諸事格別な厚遇を得たのである。以後正田家は代々正田隼人を称し、実名には「義」の一文字を襲用している。
これらの記録は、いずれも満徳寺および正田家側に残存したものであり、「徳川実紀」では、「正田」の文字はかなりのちまで「庄田」を用いていることなど、事実と相違するところもある。しかし、徳川家康が正田隼人に先祖新田氏の廟所と徳川郷を管理させることにしたことの理由は、徳川氏が新田義季の孫教氏の末裔であり、また正田氏も新田義季のもう一人の孫満氏の末で、ともに義季(の孫)を祖とする同族意識に由来する。そして徳川郷三〇〇石を家康直筆の朱印状で与えたこともまた、徳川家が新田氏の末裔であるという系図に付会したものといえよう。
したがって、江戸時代を通じて、正田家は徳川家から特別な待遇をうけることになるのである。すなわち、享和三年(1803)正月の「徳川郷明細帳」(満徳寺文書)によれば、御朱印地徳川郷三〇〇石は正田隼人支配とし、そのうち六三石は世良田長楽寺寄附料、六〇石余を正田隼人が、一七〇石は惣百姓配当地とある。さらに郷内の満徳寺は一〇〇石、「義季公御祈願寺 天台宗永徳寺」は五〇石の朱印地とされた。正田隼人は徳川家の先祖の地である御朱印地徳川郷を支配する御役人で、徳川家との特別な関係から年頭御礼などで江戸城に赴き、時服拝領を許されるほどの人物であった。


「庄田」から「正田」に変わった経緯がよく分かる。

その徳川郷にあるのが「徳川義季館跡」「徳川東照宮」である。
徳川義季館跡
徳川義季館跡徳川義季館跡
徳川東照宮
徳川東照宮徳川東照宮
徳川東照宮は満徳寺のすぐ近くにある。

縁切寺である満徳寺は今は縁切寺満徳寺遺跡公園となっている。
縁切寺満徳寺遺跡公園案内図
縁切寺満徳寺遺跡公園案内図
満徳寺
満徳寺
寺の中は博物館となっていて、展示物の一つとして「正田家」が使用した「駕籠」がある。

そしてこの周辺の石碑や墓地を覗くと「正田」姓が多いことが分かる。
庚申塔・正田氏
満徳寺向かいにある永徳寺にあった庚申塔には、「正田」の銘がある。
墓地 正田家
墓碑銘はほとんどが「正田」姓だった。

正田氏が新田一族と関係が深かったというは、ここだけを見ても疑いようがない。

さて、次回は「新田一門史」から「正田氏」の記述を引いていきます。

美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その2 

前回の続き
新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第22回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その2 

正田家が新田一族の末裔であるという説明は、簡素ではあるが、ちょっと気のきいた本にも書かれている。
平成皇室辞典(主婦の友社)
「正田家 皇后陛下のご実家は新田義重(源義家の孫)の重臣生田隼人重幸を祖とすると伝えられ、江戸時代に正田姓を名のり……。」
大体は、このくらいの説明であり、新田氏の家臣、新田一門だったといった記述も見られる。

で、正田氏の系譜を遡るには、実のところ日清製粉よりも正田醤油を見た方が分かりやすい。
正田醤油の本社は群馬県館林市にある。
正田醤油 正田醤油株式会社正面
正田醤油本社正田醤油本社社屋
そしてこの敷地内に「正田記念館」がある。
正田記念館 入口正田記念館 入口

正田本家展示品を見ると「正田本家」の名がある。つまり正田醤油が本家筋にあたる。(美智子皇后陛下の祖父・正田貞一郎が創立した館林製粉後の日清製粉は分家筋にあたる。これは後で説明する)

この正田記念館に入ってすぐに案内板がある。
正田記念館 1
ここにも「正田家の祖先は、平安時代に、源義国に付き従いて上野国新田荘に移り住み、正田(庄田)隼人と称し…徳川家康の命により正田と改名した……」と書かれている。

ではもう少し詳しく書かれているものを引いてみましょう。
群馬姓名辞典から


正田〈館林〉
大手町の正田家の祖は、源義国に従って新田荘尾島(尾島町)に来住した生田(庄田)隼人という。天正十八年徳川家康に関東入部の際に呼び出され、新田徳川系図を提出した時、正田に改めたといい、また、八代将軍吉宗の代に旗本に同姓同名の者がいるので紛らわしいとして正田に改めたという。
江戸中期に館林に分家し、文右衛門を襲名して米穀商を営み、目車名主と新紺屋名主を兼務した。文右衛門(明治二八年没)は安政の大地震の罹災者救済のため、米穀を船に満載して江戸に送った。明治維新後、醤油業醸造業に転じ、「正田醤油」の基をつくった。この文右衛門の次男作次郎は、横浜で外米輸入業を営んだ。その子貞一郎は館林で育ち、祖父の業に従い、明治三三年館林製粉(現日清製粉)を興した。貞一郎の三男英三郎は日清製粉を継ぎ、その長女美智子は昭和三四年皇太子明仁親王の妃となった。四代文右衛門の分家に卯平を襲名する正田卯平商店がある。

正田〈尾島町〉
徳川の正田家の祖先は新田氏の家臣で、新田義重の子世良田(徳川)義季に仕えて徳川郷に居住した正田隼人佐重幸という(正木家文書)。徳川氏が名字の地を去ったのちも当地に残存し、徳川の館跡に居住した。
天正一八年、当主の義豊は徳川家康に呼ばれて、徳川氏発祥地とみられた徳川郷の名主に任じられ、代々世襲した。この時家康の命により生田を正田と改めたという。(境町・川越俊介所蔵江田生田両姓合系図写)
郷民も免租など特別待遇を受けた。代々隼人を襲名し、その一族と称する家が徳川・世良田・出塚・押切などにある。


また「正田記念館」パンフレットには、

正田家は代々現在の新田郡尾島町世良田(現在合併し太田市)に居住していましたが、正田六三郎(1682年没)が館林に移って商人となったのが館林の正田の始まりであります。
その後は代々「米文」の暖簾のもとに米穀商を営み、その名声は江戸から遠く大阪にまで聞こえ、又、かたわら町名主を務める人物も出たと言われます。
明治6年(1873年)3代正田文右衛門が醤油の醸造を創め爾来110有余年、今日に及んでおります。

とある。
つまり正田氏は、新田一族(家臣)→室町・戦国時代は世良田郷にそのまま在住(新田一族の世良田氏は三河に移住。この系譜と家康は結び付けた)→江戸期、本家は徳川郷の名主、分家した正田家は館林へ→米穀商→醤油製造業→明治期に分家した製粉会社を興す、といった流れである。

旧尾島町の世良田郷・徳川郷にいた正田氏が分家し、館林へ移住となっているが、実にこの道程には「新田氏遺跡」が数多く存在している。(大泉町の児島高徳の墓、邑楽町の篠塚伊賀守の寺、館林のつつじが岡公園は新田義貞・勾当内侍の伝説など過去記事)
また利根川の水運を使っての移動も便利であろう。
世界・ふしぎ発見 世良田・地図過去記事
正田氏を遡れば新田氏との結び付きは強いことが分かる。

ここで見てきたように、世良田郷から分家し、現在につながる正田家の流れはこれでつかめたと思う。
ではそれ以前の「正田氏」はどうであったのか、これは次回に詳しく書いてみます。




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