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二十歳の三島由紀夫 その6 無意識的記憶とホットケーキ

二十歳の三島由紀夫 その6 無意識的記憶とホットケーキ
前回からの続き。
さて、このシリーズも佳境に入ってきました。
前回、前々回と、三島由紀夫が「二十歳」という年齢に異常なまでにこだわっていた、というところをまとめてみました。
なぜ二十歳なのか。なぜ二十歳の人物を登場させ、それを主体に据えるのか。
結論から言えば、三島はこれらの登場人物に自分自身を投影しているからだろう。この年に、終戦、失恋、妹の死…、次々と悲劇が三島を襲って、彼は「精神的な死」を迎える。これが人生の転換点になるほどの衝撃となった。これは本人が後に幾度も回想しているところだ。
つまり二十歳前のどこか夢見がちな青年期は終わりを告げ、衝撃的な出来事に遭遇することによって、現実的な成年になった、いや成らざるをえなかった。(それが後に、終戦や失恋による「文学」への強い志へつながる)
その境界線が「二十歳」なのだ。
となれば、三島由紀夫こと平岡公威が「二十歳の誕生日」の一月十四日に何をしていたのかというのが問題となろう。
なにしろ、彼の遺作「豊饒の海」では主人公が二十歳になれば死ぬ(そして生まれ変わる)ほどの最重要事項だからだ。
このとき、彼は群馬県太田市の中島飛行機製作所へと学徒動員されていながらも事務所の机で小説「中世」を書いていたということと、たまたま東京に帰省していて、母親の作ったホットケーキを食ったということだ。(このあたりは過去記事で)
これはまだ召集検査を受け遺書を書く直前であり、この時期こそ、彼にとっての最後の青春の日々だったともいえる。
私はここに着目してみた。
三島に関する論述はいくらでもあるが、本人の二十歳の誕生日に目を向けた人はいまい。
そして、ここに何かある、そう直感しているのだ。(ただし私の勘はよく外れるが)

さてさて、本題に入る前に、プルーストを。
マルセル・プルーストの小説「失われた時を求めて」では、主人公がマドレーヌを紅茶に浸し、その香りをきっかけとして幼年時代を思い出が蘇るといった場面がある。これは食べ物と記憶の関連性としてよく取り上げられることなので有名でしょう。
プルースト
安直だがWikipediaの説明がいいので、そのままコペピしてみた。

『失われた時を求めて』は記憶をめぐる物語であり、その全体は語り手が回想しつつ書くというふうに記憶に基づく形式で書かれている。プルーストは意志を働かせて引き出される想起に対して、ふとした瞬間にわれしらず甦る鮮明な記憶を「無意志的記憶」と呼んで区別した。作品の冒頭で、語り手は紅茶に浸したマドレーヌの味をきっかけに、コンブレーに滞在していた頃にまったく同じ経験をしたことをふいに思い出して、そこから強烈な幸福感とともに鮮明な記憶と印象が次々に甦ってくる。「無意志的記憶」の要素はそれ以降物語の中にしばしば類似の例がちりばめられており、例えば『ソドムとゴモラ』の巻で「心の間歇」と題された断章では、語り手はバルベックのホテルに着いて疲労を感じながらブーツを脱ごうとした瞬間、不意に亡くなったばかりの祖母の顔を思い出して、それまで実感できないままだったその死をまざまざと感じさせられるという経験をする。

このような「無意志的記憶」の現象は最終巻『見出された時』において、マドレーヌのときと同じような経験をふたたびすることによって、その幸福感の秘密が解明される。それは、同じ感覚を「現在の瞬間に感じるとともに、遠い過去においても感じていた結果」「過去を現在に食い込ませることになり、自分のいるのが過去なのか現在なのか判然としなくなった」 ためであった。この瞬間〈私〉は超時間的な存在となり、将来の不安からも死の不安からも免れることができていたのである。そしてこうした認識とともに、語り手は自分の人生において経験した瞬間瞬間の印象を文学作品のうえに表現する決意を固めていく。このような「無意志的記憶」を文学作品において登場させたのはプルーストが最初というわけではないが、こうした現象はしばしば「プルースト現象」あるいは「プルースト効果」という言い方で知られるようになっている。


さてさて長い引用だが、これを踏まえる。

では、度々書いている三島由紀夫のホットケーキとは何かといえば、プルーストのマドレーヌにあたるのだ。
まず、中島飛行機製作所から父母に宛てた手紙。


昭和20年1月17日
……思いがけなく帰京でき、時ならぬ正月を致し候。後で思えば、十四日はわが誕生日、――寮へかへりて、速達及び御手紙拝見、殊に御母上様の御文章、感銘深く、ゆかりも深き廿一歳の一月十四日、御母上様の御廿一にて、小生を生ませ玉ひし記念の日に、わが家へかへれしも何かの縁。思えば思ふほど、御心づくしのホット・ケーキの美味しさ、忘れがたく候。――豆、乾パンなどハ同室の諸君とわけ合ひ、けふすでに一缶、消費致候。

誕生日に母親の作ったホットケーキを食べたというのが分かる。かなり美味しかったに違いない。彼にとって特別な「二十歳」の誕生日の思い出がホットケーキなのだから。そしてその二日後の手紙。

昭和20年1月19日 
……そう毎々わが家へかへりては、次第に歓迎されざるに至るべし、そのたびたびにホット・ケーキ二切れというわけにはゆくまじ、……

ここでもホットケーキのことが出てくる。戦中なので、ホットケーキは贅沢品だろうが、何度も手紙に書くほど美味かったというのか。それだけではあるまい。味覚以上のものが、三島の心に深く刻まれたのだ。

三島由紀夫の最後の作品は「豊饒の海」である。その最終巻が「天人五衰」だ。この本が三島にとって特別な意味を持っていることは周知のごとく。三島の自死直後、ドナルド・キーンのコメントに「ことしの夏、「豊饒の海」についていろいろ話された。「この小説に自分のすべてを書き入れたので、完成したら死ぬことしかできない」といった。」(朝日新聞 昭和45年11月26日)とある。
自分のすべてとは「自分自身」のすべてをこの小説の中に投じたということだろう。
三島由紀夫 天人五衰
そこにこんな文章がある。

目をさましてから永いあいだ、床の中で夢想に身を漂わせるのが、いつか本多の習慣になった。見た夢を牛のように、永いこと反芻しているのである。
夢のようが愉しく、光彩に充ち、人生よりもはるかに生きる喜びに溢れていた。だんだん幼時の夢や少年時代の夢を見ることが多くなった。若かったころの母が、或る雪の日に、作ってくれたホット・ケーキの味をも、夢が思い出させた。
あんなつまらない挿話がどうしてこんなに執拗に思い出されるのだろう。思えばこの記憶は、半世紀もの間、何百回となく折りに触れて思い出され、何の意味もない挿話であるだけに、その想起の深い力が本多自身にもつかめないのである。
改築を重ねたこの邸には、もはや古い茶の間は残っていない。ともあれ、学習院中等科五年生の本多は、その日が土曜日で、学校かえりに、校内の官舎にいる或る先生のところへ友達と二人で話をききに行ったあと、ふりしきる雪の中を、傘もなしに、腹を空かせて帰って来たのである。
いつもは内玄関から入るが庭の雪の積もり具合を見に、庭へ廻った。松の薦巻きが白く斑らになっている。石燈籠が綿帽子をかぶっている。靴底をきしませて庭を渡り、茶の間の雪見障子の中に動く母の着物の裾を、遠くから見ると心が弾んだ。
「おや、おかえり。お腹がお空きだろう。雪をよく払ってお入り」
と立ってきた母は寒そうに袂を胸に合わせて言った。外套を脱いで、炬燵に辷り込むと、母は長火鉢の火を、何か考え深そうな目つきで吹き立てて、おくれ毛を火の粉から守ってかいやりながら、吹く息の合間にこう言った。
「ちょいとお待ち。おいしいものを作って上げるから」
そして母は、小ぶりのフライパンを火鉢にかけ、新聞紙に浸した油で隅々まで潤した末、彼の帰宅を待って作っていたらしいホット・ケーキの白い粒立った乳液を、はや煮立っている油の上へ、巧みな丸を描いて注いだ。
本多が夢にたびたび想起するのは、そのとき食べたホット・ケーキの忘られぬ旨さである。雪の中を帰ってきて、炬燵にあたたまりながら食べたその蜜とバターが融け込んだ美味である。生涯本多はあんな美味しいものを食べた記憶がない。
しかし何故そんな詰まらぬことが、一生を貫く夢の酵母になったのであろう。その雪の午後、日ごろは厳しい母の突然のやさしさが、ホット・ケーキの美味を大いに増したことはたしかである。そしてこの思い出すべてにまつわる何か得体の知れぬ哀感、炭火を吹く母の横顔と、節倹を尊ぶ家風で決して昼間から灯をつけないで、雪明りはあっても仄暗いその茶の間に、母が息を吹きつのる毎に火の反映が頬を赤らめ、息を継ぐごとに忍びやかな影が頬に昇ってくる、その明暗を見守っていたときの少年の気持、……更には、いまだに本多の知らない、母の一生言わずに通した憂悶が心の裡に在って、それがそのときの母の妙に一心でひたむきな挙措や、常ならぬやさしさにひそんでいたのかもしれない。それがホット・ケーキのふくふくした旨さを通じて、愛のうれしさを通じて、突然透明に直視されたのかもしれない。そう考えなくては、夢にまつわる哀感が説明されないのである。
それにしてもその日から六十年が絶った。何という須臾の間であろう。或る感覚が胸中に湧き起って、自分が老爺であることも忘れて、母の温かい胸に顔を埋めて訴えたいような気持ちが切にする。
六十年を貫いてきた何かが、雪の日のホット・ケーキの味という形で、本多に思い知らせるものは、人生が認識からは何ものをも得させず、遠いつかのまの感覚の喜びによって、あたかも夜の広野の一点の焚火の火明りが万斛の闇を打ち砕くように、少くなくとも火のあるあいだ、生きることの闇を崩壊させるということなのだ。
何という須臾だろう。十六歳の本多と、七十六歳の本多との間には、何も起こらなかったとか感じられない。それはほんの一またぎで、石蹴り遊びをしている子供が小さな溝を跳び越すほどのつかのままだった。

まさしくこれは三島由紀夫の二十歳の誕生日の経験を基にしている。となればこの本多は三島由紀夫自身だと言えるだろう。(ちなみに昭和20年は大雪の年であり、同年の手紙や文章に雪の日のことが書かれている)
そして本文ではこの後、自らの死を予感した本多が月修寺にいる綾倉聡子に会いに行こうと思い立つ描写へと続く。
ホットケーキという一つの「記憶」から、「豊饒の海」ではすべてを覆すようなあのラストにつながり、三島本人としてはあの壮絶な最期を迎えることになる。(三島にとっては25年前の記憶)
「半世紀もの間、何百回となく折りに触れて思い出され……」と書いているほどだから、二十歳の誕生日の記憶が三島本人にとっても繰り返される思い出だったのだろう。そしてそのホットケーキとともにその時の心情や言動も思い出されたのではなかろうか。
死を前にして思い出されるのはやはり幸福な日々だったのだろうか。実際、三島はこの後自死するのだから。戦中ではあったが、三島にとっては中島飛行機製作時代はいい思い出だったのだろう。(戦時の中の青春という意味で碇シンジと同じだというはこういう点だ。)
となれば、自身の遺作となる「豊饒の海」のラストシーンの聡子のセリフも意味が深い。
『記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いようもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかい』

「豊饒の海・天人五衰」のホットケーキの記憶とともに語られるのは「時間の跳躍」だろうか。三島はここで「須臾」という言葉を二回使っている。「短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間」といった意味の仏教用語だが、この短い文章で同じ言葉を二回使う意図はなんであろうか。
こう考えると、上記のプルーストの無意識的記憶の説明が、ここでもそのまま「豊饒の海」の説明にそのまま使えるだろう。「無意識的記憶」「プルースト現象」によってこの小説が書かれているようにさえ思えてくる。
小説のラストの場面とホットケーキの場面を何度か続けて読むと、案外つながっているように読めてくるのは、私だけだろうか。

何かここにこの小説の謎を解くカギが、三島自死の意図を読み解く手がかりがあるような気がしてならないのだ。
となれば、問題となってくるのは、二十歳の誕生日に書いていた小説となるだろう。

それが「中世」だ。
中島飛行機製作所の机で書いたあの小説……

……次回に続く。
(ただし次回がいつになるかは不明)
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二十歳の三島由紀夫 その5 資料編2

二十歳の三島由紀夫 その5 資料編2
前回二十歳の三島由紀夫 その4 資料編からの続き。

三島由紀夫の書いたものを読むと、かなり「二十歳」という年齢にこだわっているのが分かる。
なにしろ遺作となる「豊饒の海」四部作は、二十歳で生死を繰り返す人物を主体にした小説であるから、その「二十歳」への執着心はある種、異常だと言えるだろう。

いくつか拾ってみた。
「午後の曳航」の本文から。

二十歳の彼は熱烈に思ったものだ。
「栄光を! 栄光を! 栄光を! 俺をそいつにだけふさわしくは生まれついている」
どんな栄光がほしいのか、又、どんな種類の栄光が自分にはふさわしいのか、彼にはまるでわかっていなかった。ただ世界の闇の奥底に一点の光りがあって、それが彼のためにだけ用意されており、彼を照らすだけために近寄ってくることを信じていた。
考えれば考えるほど、かれが栄光を獲るためには、世界のひっくりかえることが必要だった。世界の顛倒か、栄光か、二つに一つなのだ。彼は嵐をのぞんだ。しかるに船の生活は、整然たる自然の法則と、ゆれうごく世界の復原力とを教えてくれたにすぎなかった。

「午後の曳航」について日沼倫太郎の書評にこうあるそうだ。「龍二を殺すことによって、三島は青春を失った自分を殺した。殺される寸前に、龍二は呟いている。『……暗い沖からいつも彼を呼んでいた未知の栄光は、死と、又、女とまざり合って、彼の運命を別誂へのものに仕立てていた筈だった。世界の闇の奥底に一点の光りがあって、それが彼のためだけ用意されており、彼を照らすためだけ近づいてくることを、二十歳の彼は頑なに信じていた。』これは明らかに、二十歳の三島自身の肖像だろう。」(村松剛「三島由紀夫の世界」(新潮社)から)

「金閣寺」本文から

京都では空襲に見舞われなかったが、一度工場から出張を命ぜられ、飛行機部品の発注書を持って、大阪の親工場へ行ったとき、たまたま空襲があって、腸の露出した行員が担架で運ばれてゆく様を見たことがある。
なぜ露出した腸が凄惨なのであろう。何故人間の内側を見て、悄然として、目を覆ったりしなければならないのであろう。
(中略)
それから終戦までの一年間が、私が金閣と最も親しみ、その安否を気づかい、その美に溺れた時期である。どちらかといえば、金閣を私と同じ高さにまで引き下げ、そういう仮定の下に、怖(おそ)れげもなく金閣を愛することのできた時期である。私はまだ金閣から、悪しき影響、あるいはその毒を受けていなかった。
この世に私と金閣との共通の危難のあることが私をはげました。美と私とを結ぶ媒立が見つかったのだ。私を拒絶し、私を疎外して」いるように思えたものとの間に、橋が懸け等れたと私は感じた。
私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。そう思うと、時あって、逃走する賊が高貴な宝石を飲み込んで隠匿するように、私の組織のなかに、金閣を隠し持って逃げ延びることもできるような気がした。
その一年間、私は経も習わず、本も読まず、来る日も来る日も、修身と教練と武道と、工場や強制疎開の手つだいとで、明け暮れていたことを考えてもらいたい。私の夢みがちな性格は助長され、戦争のおかげで、人生は私から遠のいていた。戦争とはわれわれ少年にとって、一個の夢のような実質なき慌ただしい体験であり、人生の意味から遮断された隔離病室のようなものであった。

戦争中の飛行機工場という場面は、まさに三島の経験を基にしている。中島飛行機時代は短い期間であったが、三島の心に深く刻まれているのだ。

「絹と明察」本文から。

(駒沢とその夫人の息子が戦争で戦死している。)
「昔やったら、二十歳や二十一、徴兵の年やな。ふふ、ひょっとしたら善雄はんの亡霊かもしれん。あのくらいの年……。

労働組合のリーダーとなってストライキを起こす若きリーダーが大槻という人物で、この青年も20歳という設定である。三島の作品には年長者(父)と若者(子)という設定がかなり多い。そのとき若者となるのは二十歳前後の青年であり、これは三島自身を投影しているのだろう。


西尾幹二「三島由紀夫の死と私」 (PHP)にちょっと面白いのが載っていたので引いてみた。


東大教授の三好行雄氏が最初に戦争体験の話題を出します。「三島さんの敗戦の受け止め方というのは、どうなのですか。“時代に裏切られた”という感じは、おもちになりませんでしたか」という質問に、次のような三島氏の答えが用意されています。

三島由紀夫・三好行雄「三島文学の背景」「國文学」昭和四十五年五月臨時増刊号から
三島 さあ……。ぼくは、それほどつきつめてなかったのだと思いますね。とにかく肌が合わないというか。とにかく感覚的にいやだ。それはいまだに続いている。戦後の現象にしても、それでは、戦争中はそんな肌があっていなかったといえば、これも合わない。だからやはり、一種のロマンティケルというのは、どの時代にしたって、感覚的な嫌悪をもつでしょうね。まあ戦争中は、自分は、ある意味で無資格の人間ですわ。からだは弱いし、兵隊にはあまり向かない人間だし。ですけども、無責任でいられるというか、勤労動員先にいても、だれも就職の心配するやつなんかいない。ある意味では完全雇用の時代ですから。そして、明日のこと、何も考えなくていい。そのなかで文学をやっていたというのが、忘れられない。けっきょく、それだけではないでしょうか。

おそらく、あとになっての感じでしょうけれども、「終わりだ」と思っていたほうが、自分のほんとうの生き方で、「先があるんだぞ」という生き方は自分の生き方ではないんだ、という思いがずうっと続いています。

それは、作家は、人生でいろいろ変貌していきますから、いろんな形が現象的に変わりますけれども、「明日がない」という生き方をしたい気持ちだけは、今も昔も、ちっとも変わらない。ただ、現れ方が違うだけで、「明日がない」という生き方をしたいという気持ちは、変わりはない。それをどういうふうに正当化するか、という問題ですよね。「金閣寺」的な正当化のしかたもある。それをやり尽くしたのですから、また別の方向で正当化しなければならない。だけれども、自分には明日がないということは、確実である、と。確実というのは、そう信じたいわけでしょ。「明日がある」という生き方をするのだったら、うそをついたことになるから。いやだ。今でも、ぼくはそう思っています。

それはヴァレリイもいっているように、作家というのは、作品の原因ではなくて、結果ですね。ですけれどもそういう結果は、ぼくはむしろ、自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんかするよりも、むしろ、自分の望んだことなんでから……。生活が芸術の原理によって規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしく見えようとも、気違いじみてみえようと、それはけっきょく、自分の作品が累積されたことからくる、必然的な結果でしょう。ところがそれは、太宰治のような意味とは違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を完全に分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活にある必然を命ずれば、それは実に芸術の結果ではなくて、運命なのだ、というふうに考える。それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。つまり、運命を精算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。運命を感じていない人間なんて、ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。



これは「天人五衰」の新聞インタビュー記事から。

三島さんが仏教を作品背景に意識したのは昭和二十一、二年のころ、たまたま見つけたノートに「生まれ変わりをもとにした物語を書いてみたい」とメモしてあったそうである。「時期的には最初の長編“盗賊”の後あたりでしょう。すっかり忘れていたのですが、作家にとって一番大事なのはデッサンでも文章のスタイルでもなく、自分の人生とテーマとのぶつかり合いの時だと思う」


昭和20年の1月に中島飛行機にいた三島は、2月に東京へ帰り、2月15日に徴兵検査を受け合格すし、軍隊への入隊命令を受けた晩に三島は遺書を書いた。

「遺書」 
一、御父上様  御母上様   
  恩師清水先生ハジメ 學習院並二東京帝國大學在學中薫陶ヲ受ケタル諸先生方ノ御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ友情マタ忘ジ難キモノ有リ 諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ル
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ 御父上、御母上二孝養ヲ尽シ 殊二千之ハ兄二績キ  一日モ早  ク皇軍ノ貔貅トナリ     皇恩ノ万一二報ゼヨ  天皇陛下萬歳

といくらでも「二十歳」にこだわったものは出てくる。何にそんなに三島は「二十歳」に執着するのか。

さてさて、では三島由紀夫が二十歳になった日、つまり昭和二十年一月十四日は本人は何をしていたのかといえば……。
それが、母親の作ったホットケーキを食っていたんですね。
q_hotcakes_l.jpg

ホットケーキ!!って

……続く。

二十歳の三島由紀夫 その4 資料編

二十歳の三島由紀夫 その4」 資料編
二十歳の三島由紀夫 その3 戦時下の最後の青春
からの続き。
今回は前回の「中島飛行機製作所」時代から広げて、二十歳の三島由紀夫が残したものを全集の中から拾っていきます。
まずは出した手紙から。

三谷信
昭和20年1月6日 「日本文化を馬鹿にするアメリカ人」のこと。
1月27日  「豊饒の海」の基となる「輪廻、記憶」といった内容がある。
2月4日 少しオトナになった気持ち 
4月21日 特攻隊 日本文化の記述 
8月22日 日本文化の世界化 

清水文雄
8月16日 伝統護持を誓う 

中河与一
6月27日 新しい世紀、輪廻、運命 

神崎陽
8月16日 戦後の戦い宣言

野田宇太郎
9月2日 日本文化の復興 

野津甫 
10月8日 文士の話 


昭和20年作の小説(数字は収録されている全集の巻数)

1月 空襲の記 26
2月 中世 16 、備忘録 26
6月 エスガイの狩 16、黒島の王の物語の一場面 16
   二千六百五年に於ける詩論 36
7月 別れ 26、後記 26
8月 昭和二十年八月の記念に 26
9月 戦後語録 26
10月 菖蒲前 16
その他は、長柄堤の春 26、米人鏖殺 36


以下、二十歳ころの自分を振り返って書いているところを抜き出してみました。

20年でプッツリ切れている――最長の元号「昭和」
私は大正十四年生まれですから、満年齢でいいますと昭和と同じ年なんです。だから自分のゼネレーションという感じは強いが、私の昭和は二十年でプッツリと切れている。
二十年以降はもう昭和と思っていないから何年続いても関係ありません。二十年で切れた理由?いわぬが花ではないでしょうか。ははは。よろしゅうござんすか。
(初出 朝日新聞 昭和四十五年七月二十九日 全集36巻)


学生の分際で小説を書いたの記
終戦まで私は一種の末世思想のうちに反現実的な豪奢と華麗をくりひろげようというエリット意識に酔っていた。
そこで私はたびたびの空襲に退避を余儀なくされる。中島飛行機小泉工場の事務所で公然と原稿をひろげて、小説「中世」を書いていた。
大学の勤労動員先のその工場では、私は病弱を口実に事務のほうへまわされていたので、そういう芸当ができたのである。
(全集28巻)


三島由紀夫 中世
「三島由紀夫 中世」(講談社文芸文庫)、アマゾンのレビューにいいのがありました。

私の十代
私の十代は戦争にはじまり、戦争におわった。一年一年、徴兵検査の年が近づく気味の悪さというのは、今の十代にはわかるまい。(全集28巻)

「盗賊」ノートについて
私の作品集のあとがきの中で、……その年の十月に妹は死ぬ。私は満二十歳、東大法学部の学生である。そのころの私の生活体験から、この小説の構想が生じた。しかし作品の書かれる動機は純粋なものだけはありえない。それまでせいぜい百八十枚程度の作品しか書けなかった私は、終戦を機会に人をおどろかすような一篇のかなり長い小説を書こうという野心を起こしたのである。


空襲の記
中島飛行機小泉工場
一九四五年一月十九日午後三時半
昭和二十年一月十九日の午後二時というところ、工場の警笛つとああしき音色に鳴りて警報を知らす。事務室は色めきて、所長室附女の子の言によれば、敵数編隊なりなどといいて挺身隊の女子どもは家や身支度にいそがしければ我も持物とりまとめ外套をなどす。防護団の勤怠簿を恰もつけおわりしなれば、其れを副分団長なり山崎義道君に渡すに、折よしとて同君は勇んで外へ走りゆく。――たちまち拡声器なりひびきて、女子学徒国民学校児童の待機を命ず。われらは未だ退避したくもしえざるなり。されど東部軍情報によれば敵わずか二機、中部軍管区より侵入して東進し、帝都に入ることなく、相模灘上空を旋回中とあり、数編隊など大嘘なりと、はや手袋を脱ぎなどして、火にあたりゐるに、事務員はなお書類の片付けなどに忙し。救護係の米丸氏、万一の場合にしらすべき場所、住所、氏名、本籍などをわれら四人に書かせ、また「止血 時 分」としるしたる赤刷の荷札の如きものを示す。血止まりし時これを胸に下ぐるなんめり。皆笑いて、今日は大したことなし、など語りゐるに、突如拡声器は鳴りひびきて、全員待避を告ぐ。挺身隊の女子たちは、重要書類の箱をあつめ、待避のまえにこれをしまうはざるべからずと急ぐありさま、われも共につきて戸外に出でしに、人の流れ、正門をめざして奔流す。
われもまじりて走る打ち、同じ帝大の学生を見出、共に走るに、われは工務課なり、共に来たまえという。
正門の外は漠々たる荒野にて、黄塵は、風あらばさぞ激しからんと偲ばざる。されど今日は風一つなき早春の佳日、日はうららかに空は青々たり。
門外に出づれば、ただ見る黄土の緩丘に群衆二筋にわかれてただ疾走す。ややゆけば走り疲れてしとみえ、群衆みな歩み、ただ気ぜはやしき人々のみなん走りける。七、八百米ほど隔たる丘上の松林に、無数の小穴を穿ちて待避壕とせり。ここまで来れば安心、まだ敵機も来らねば、調査課の壕を探さんと歩むに、知れず。人多くこの松林をすぎ、職員受託の近傍をめざしてゆくにぞ、彼処ならんと後につきて、三、四百米ほど歩みしか、同じく松繁るれる丘上に一団の人あり、図書係の人なりという、こおにゐたまえと親切にいはるるにぞ、落ち着くことしばし。人々手をかざして、あれは敵機にや、なんどと揣摩す。
ややありて米丸氏自転車を以ってここに来る。懐かしさに歩み寄れば、我を探して来れり、という。陳謝して、わが粗忽を恥づ。米丸氏云う、「外の壕ならば入れてくれぬもはかりがたし、探しに来れり、帝大の高橋君のみは課の壕へ来りしも、朝倉君、臼井君はゆくへしれず」と云う。自転車につきそいて、調査課の壕へ歩みつつ、米丸氏の話をきく。
「中島飛行場は、待避命令を出すが、早すぎるととて非難あり。よって慎重を期し、ラジオ以外の特別の情報によりて危険を判断し、待避命令を出すなり。(以下省略)(巻26)


終末感からの出発
また夏がやってきた。このヒリヒリする日光、この目くるような光の中を歩いてゆくと、妙に戦後の一時期がいきいきとした感銘を以てよみがえってくる。あの破壊のあとの頽廃、死ととなり合わせになったグロテスクな生、あれはまさに夏であった。かがやかしい腐敗と新生の季節、夏であった。昭和二十年から、二十二、三年にかけて私にはいつも真夏が続いていたような気がする。
あれは凶暴きわまる抒情の一時期だったのである。
しかし私の私生活は殆どあの季節の中を泳がなかった。私はようするに小説ばかり書いて暮らしていた。しかしあの時代の毒は私の皮膚の中から、十分に滲透していたと思われる。
昭和二十年の早春、大学の勤務動員で群馬県の中島飛行機小泉工場に行っており、やがて神奈川県の高座工廠へ移った。終戦を迎えたとき、私は後者の動員学徒であった。日本の敗戦は、私にとって、あんまり痛恨事ではなかった。
それよりも数ヵ月後、妹が急死した事件のほうがよほど痛恨事である。
私は妹を愛していた。ふしぎなくらい愛していた。当時妹は聖心女子学院にいて終戦後しばらくは学校の授業も勤労動員のつづきのようで疎開されていた図書館の本の運搬などを手伝わされたりしていたようである。ある日、妹は発熱し、医師は風邪だと言ったが、熱は去らず、最初から高熱が続き、食欲が失くなった。慶応病院に入院したが、すぐに人事不省に陥りやっとチフスと診断が確定すると、当時隔離病室が焼けていたので、そのまま避難病院へ移された。体の弱い母と私が交代で看病したが、妹は腸出血のあげく死んだ。死の数時間前、意識が全くないのに、「お兄ちゃま、どうもありがたう」とはっきり言ったのを聞いて、私は号泣した。
戦後にもう一つ、私の個人的事件があった。
戦争中交際していた一女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になった。妹の死とこの女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になったように思われる。
種々の事情からして、私の生活の荒涼たる空白感は、今に思い出してもゾッとせずにはおれない。年齢的に最も溌剌としている筈の昭和二十年から二、三年の間というもの、私は最も死の近くにいた。未来の希望もなく、過去の喚起はすべて醜かった。私は何とかして、自分及自分の人生をまるごと肯定していまわなければならぬと思った。しかし、敗戦後の否定と破滅の風潮の中で、こんな自己肯定は、一見、時代に逆行するものとしか思われなかった。それが今になってみると私の全く個性的事実だけを追いかけた生き方にも時代の影が色濃くさしていたのがわかる。そして十年後、私は堕落したか、いくらか向上したかは、私自身もわからない、おそらく堕落したであろう。ゲーテの「エグモント」の言葉ではないが「我々がどどこへ行くかを誰が知ろう。どこから来たかさえ、ほとんどわからないのだから」
しかし省みて後悔しないことが一つある。私はあらゆる場合に、私の「現在の」思考を最も大事にして来た。私は一度も錯覚に陥ることを怖れなかったのである。(昭和三十年八月 28巻)


実は、この時代の平岡公威である三島の手紙や小説などを研究することで、後年の三島の精神心理が、または自決の謎が解けるのではないかとにらんでいる。
昭和20年の終戦前まであった陽気さは、東京大空襲以来ガラリと変わり、「8月15日の終戦」と、この後に続く「妹の死」と「失恋」によって、三島の青年期は終わったと見ていいだろう。そしてこれがあの最後の自決につながっていった、と思う。(読めば読むほどあの死にダイレクトにつながっている。)
「二十歳の三島由紀夫にすべての謎がある。」そう思えてならない。(なんか安っぽいミステリー小説の惹句みたいになっていますが……)
そして、どこに三島の精神的ターニングポイントがあったのか、なぜ三島は「二十歳」というものにこだわったのか、その謎に迫りたいと思う。(と言いつつもかなり苦戦中)

続く。

二十歳の三島由紀夫 その3 戦時下の最後の青春

11月25日なので「二十歳の三島由紀夫 その3」を書きます。

過去記事 
1、二十歳の三島由紀夫 その1 三島は二十歳のとき群馬県太田市(新田)にいた!
2、二十歳の三島由紀夫 その2
の続きとなっています。
ということで、今回は三島由紀夫こと平岡公威が群馬県太田市にいた1カ月間に的を絞って資料を列挙していきますが、その前に画像をいくつか載せておきましょう。
西小泉駅2
昭和20年の1月、平岡公威はこの駅を降りた。それから66年経った現在の「西小泉駅」はこんな感じ。
三洋電機 正面
そして、「中島飛行機小泉製作所」の跡地は、現在の「三洋電機 東京製作所」となっている。
三洋電機 看板
だがこの「サンヨー」の名称も「パナソニック」に吸収合併して消えることになる。そして、あろうことか家電販売事業を中国企業の「ハイアール」へ売却してしまった。となるとここはどうなるのか?
それにしても歴史とは分からないものだ。日本の主要軍事産業拠点から、戦後は世界有数の家電メーカーとなり、それが今では中国企業に買収されてしまうとは……。それにしても「中国」って、三島由紀夫もあの世で嘆いているに違いない。
道路標識これは道路標識。「大泉町」の位置が分かるでしょうか。
館林には、この時期、正田美智子さま(現皇后陛下)が疎開されていた。北を目指せば大泉から足利、佐野へと続く、その佐野には学徒出陣して駐屯していた司馬遼太郎が昭和20年6月から9月半ばまでの4ヶ月間いた。狭い地域に、後に有名となる人物が集中していたことの奇妙さ、前に少しふれましたね。

さて、では三島由紀夫全集から、年表を抜き出すと、 

昭和20年1月10日 学徒動員として中島飛行機小泉製作所に行く。原稿用紙に書かれたメモには「○交通 浅草雷門より東武電車、伊勢崎行又ハ大間々行、普通二時間、急行なら一時間半にして館林着。ここで西小泉線に乗り換え(この乗り換え頗る面倒)約廿分にして終点西小泉着。この間最短三時間、最長五時間 切符の入手頗る困難」とある。勤労動員の正式名称は「東京帝国大学勤労報国隊」。群馬県新田郡太田町小泉製作所東矢島寮11寮35号室が住所。
1月11日 両親宛葉書・第2信(工場での郵便物の扱いについて、明日から工場で組み立て教育があり、その後で部署が決まること)
1月12日 14日まで工場で教育を受ける。
2月4日 夜8時に動員先から東京の帰宅

とある。まさに一ヶ月間だった。
約一カ月の間に出した手紙は、
平岡梓 倭文重 宛は21通 (父・母)
平岡美津子 千之 宛 1通 (妹・弟)
三谷信 宛 3通 (学習院の同級生・前橋予備士官学校)
中河与一 宛 1通 (小説家・「中世」を〈文芸世紀〉に掲載するときの恩人)
清水文雄 宛1通 (学習院の教師・「三島由紀夫」のペンネームを決める)
となっている。

いくつか引いてみましょう。

1月12日 中河宛 「中世」の原稿を工場から帰寮してから書いているといった内容である。
「…尤も工場の中へ入ると、「工場」というよりIndustryという輝かしい言葉の誘惑を思うことがあります。あの轟音にはどこか哀切なものが溢れ、強い悲劇的効果があると存じました。……」


1月13日、1月20日、1月27日 三谷宛
「君も吹かるる赤城颪(おろし)に、僕も朝夕吹かれ居り候。これなん、常套句にて、実際は朝と夕は嘘のように凪ぎ申候。昼すぎから紅塵を巻き上げ目もあてられず候。さても聞きしにまさるものに有之候。」「朝は霜白き野道を工員の群にまじりて曙の横雲にほふ東を指して歩み候。耳もちぎれむ寒さなれども……」

このころは中世に関心があったようで「世阿弥の生涯」「能楽全書」室町の御伽草子などが出てくる。また午後は空襲警報で待機などといったものも見られる。

1月22日 清水宛 
「…総務部調査課文書係という机を与えられ、さて馴れぬ身にてこれという仕事もなく、朝は七時半より、夕べは五時範まで、消閑に心をいたす情無さ。……」
「やや、暇あれば書きかけて未だ果さぬ小説「中世」の構想に幻を追ひ、顔美き巫子綾織が面影、容貌魁偉なる東山殿義政公の姿、禅師霊海、能楽師菊阿弥など、つれなき作者に捨ておかれて影はおぼろにうすれてゆく絵姿をば偲び候。六十五枚を重ねて、完成なほ行末の緒覚束なく、書きては消し、消しては書きつつ、ただすぎし世の金光まばゆき幻影に我を忘れ居り候。あるいは仏臭き中世のお伽草子を弄び、物語の晦渋、構想の破調、とらえがたき話の筋、辿りがたき作意の韜晦、文章の錯綜。模糊として織糸もほころび果てし曼荼羅を目のあたりみる心地して、「面白し」といふにあらず、「巧みなり」といふにあらず、ただ「ありがたき」心地のするにぞ、これぞ文学の忘るべからざる源流なりと感銘仕候。……」

三島が工場の机で小説「中世」を書いていたというのが友人の手紙でも分かります。

昭和20年1月30日 三谷信宛
土曜通信の番外として今、鹿島の部屋で書いています。鹿島から今八度の熱で遠い法科の寮から体温器と薬とそれに「つけたり」としてこれら体温器並びに薬の所有者にして漫才の相棒たる僕とを取り寄せし我儘三昧。
やれ流行性脳炎じゃないか、やれ急性肺炎じゃないか、やれ東京へかえりたい、やれ例の人が東京で待っている、やれ君から借りた本はつまらない、やれ二、三日内に又出張する。などとしきりに御託をならべているところです。僕はその枕許で、五分間の体温計を十分間とらせ、二粒服用の薬を三粒のませ、早く寝ないと流行性腹炎になると脅かし、まるで女学生みたいだとからかい、おのろけを言わないように口止めをし、大童の最中です。この男始末に負えません。
さてこの男が何を喋り出しそうですから傾聴傾聴。因果なのはこの子であります。口から先に生まれまして、喋りはじめると口をひねっても、くすぐっても、とまりません。おのろけ病という奇病にかかっており、帝都の人々を悩まし、今また小泉の地元にまみれまして土地の御面々を悩ましまァす。東西、とうざーい。
(全集 補巻から)

面白い文章ですね。これが戦時中とは思えないほど朗らかした内容だ。
そして、東京都渋谷区大山町一五の自宅の 平岡御父上 御母上宛にはほぼ毎日出していることになる。
その内容は「荷物が届いた。髭剃道具を忘れた。戦況の話。「演劇界」の雑誌を送ってくれ。新聞を送ってくれ」といった日常生活に関する内容のものが多い。
長期間、親元を離れて暮らすという経験は彼にとって初めてのことであったようだ。戦時下ではあったが、どこか実家を離れるという解放感もあるせいか、文面は妙にウキウキしている。
その中でもいくつか引いてみれば以下の通り。

昭和20年1月17日
……思いがけなく帰京でき、時ならぬ正月を致し候。後で思えば、十四日はわが誕生日、――寮へかへりて、速達及び御手紙拝見、殊に御母上様の御文章、感銘深く、ゆかりも深き廿一歳の一月十四日、御母上様の御廿一にて、小生を生ませ玉ひし記念の日に、わが家へかへれしも何かの縁。思えば思ふほど、御心づくしのホット・ケーキの美味しさ、忘れがたく候。――豆、乾パンなどハ同室の諸君とわけ合ひ、けふすでに一缶、消費致候。

昭和20年1月19日 
……そう毎々わが家へかへりては、次第に歓迎されざるに至るべし、そのたびたびにホット・ケーキ二切れというわけにはゆくまじ、……


昭和20年1月24日
相不変御便り申上げ候、相不変の毎日に有之、きのうは机上にシンチンガア氏が著書「文化の省察」を繙き、百頁がほど読み進み候。こちらの事務室は仕事がなく困り居るていに有之、のべつ火に当たって馬鹿話をし居り候。その一つを紹介せんに、「それどこで買ったんべえ、ハアずいぶん高いだべなア、……ホウ一円五十銭で買ったか。おしいことしたなア」(おいしいトハ「ウマイコトヲシタ」ナドノ意ナリ)
手紙を書いたり、本を読んだりしていると、すぐ「平岡さん、火に当たりませんか」といふ声があり、ふと顔をあげれば、どこの机も、勤務時間中といふにガラ空きにて、みな火に当たってタバコを吹かし候。かかる処世法を「中島式」という由、聞きて候。
こちらへ来ても帝大の学生は不可思議なる尊敬の目を以って見られ、小学生などはゾロゾロついてまゐり候。
「ハア帝国大学だんべえ」と人の顔をのぞくにぞ、黙阿弥全集抱えあるくは恥ずかしく候。

昭和20年1月31日
……事務所というところは面白い。人臭い所です。戦争がすんでから書く風俗小説の材料ができます。課長が席を外すと、皆火に当つたり、おしゃべりをしたりしてゐます。僕が本をよんでゐると、急に眩しくなった。オヤと思うと、遠くの机から女の子が鏡でいたづらをしてゐるのです。この女の子には、今年兵隊にゆく事務員山崎君が悩んでゐて、僕はしきりに聞かされ、同情させられ、「世話好の親友」の役どころをふられそうになって閉口してゐます。田舎の人たちは精神年齢が低いのでしょうか。好い年をしてゐてまるで子供ですねえ。


また、昭和20年2月2日付けには「友人と部屋でスルメを焼いて火事になりそうになったこと」といった内容のものも送られている。
群馬から1カ月で23通も出していた手紙ですが、5月に神奈川県高座海軍工蔽寄宿舎へ入ると、そこからは3通しか出していない。しかも短文である。これは検閲が入り滅多なことは書けないという理由があるが、今までの量を見るとかなり少ない。
戦況が悪化したのはこのときからだろうか。三島が出した手紙の内容をたどっていくと、東京大空襲があってそこから状況ががらりと変わっているのがわかる。
つまりその前の平岡公威くんにとって、太田市で過ごした一カ月間が最後の青春の1ページのような経験だったのかもしれない。
そして、この後に「終戦」「妹の死」「失恋」と立て続けに彼に衝撃を与える事件が起こる。これが人生の転機(「精神的な死」と本人は言っている)となったのだ。
そう考えると、太田にいた期間が、平岡公威の最後の青年期だったといえるのではないか。
三島由紀夫 十代書簡集画像は「三島由紀夫 十代書簡集」の表紙。15歳ころの平岡公威。
だれかに似ていると思ったら、エヴァの「碇シンジ」だった。
シンジ
そういえば、戦時下における青春、思春期の不安定さ、繊細なハート、そういうのも似ている。

次回に続く。

二十歳の三島由紀夫 その2

11月25日なので三島由紀夫の言葉を引いてみます。
師・清水文雄への手紙」(新潮社)から
恩師・清水文雄へ宛てた書簡

……それはさうと、昨今の政治状勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら気が狂ふだろうと、思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失つたら二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思われてゐました。良人(おっと)といふ権威に去られ、よるべなく身をひそめて生きてゐる未亡人のように。下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上がれば、彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取つてゆきます。彼女は老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。
このごろ外人に会うたびに、すぐ「日本はどうなつて行くのだ? 日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢやないか、結構ぢやないか、角を立てずに、まあまあ」さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。
スウェーデンはロシアに敗れて百五十年、つひに国民精神の回復することなく、いやらしい、富んだ、文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。この間もベトナム残虐行為諮問会(ストックホルム)で、繃帯(包帯)をした汚いベトナム農民が証言台に立ち、犬をつれた、いい洋服の中年のスウェーデン人たちがこれを傾聴してゐる人がゐましたが、日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す『良心的』な男」の道です。
どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。烈しい精神は時代おくれになり、このごろのサラリーマンは、ライスカレーさへ辛くて喰べられず、「お子様用ライスカレー」と注文するさうです。……」

日付が昭和45年11月17日になっていますので、この1週間ほど後に「あの事件」が起こるわけです。

三島由紀夫の書簡や対談や評論を読むと、激しい舌鋒と鋭い論説に吐胸を突かれたような衝撃を受けることがある。
そして、没後40年経つが、三島が主張していたことは、今や予言のようにことごとく当てはまっており、それに対して、日本の抱える問題(憲法改正、沖縄基地、中国・アメリカの関係などなど)は何一つ改善されていないということに、驚かされる。
三島がいま生きていたら、この日本の状況を何と嘆いただろうか。

三島由紀夫の父・平岡梓著「倅・三島由紀夫」(文春文庫)にこんな記事がありました。

(三島死後)……北京詣での日本政界界のお歴々が口を揃えて周恩来閣下に、「ミシマは消えてしまいました。したがって軍国主義の御懸念はなく、御安心ください」と揉み手でエヘラエヘラと御追従を並べ立てたからでしょう。ことにニヤニヤ笑いの美濃部知事が出かけていって二、三日して、急に周恩来が「ミシマはもう消えたそうだ」と発言したことを伝えて日本の新聞記事は印象的でした。かくて日本はついにかくなりき、の日本の歴史が作られなければ幸いです。

左翼や進歩派のみならず中国や朝鮮にも、三島という人物の存在自体が脅威だったというのが分かります。それにしても現政権の腰ぬけ外交を見ていると、いま日本に必要なのはこんな「口うるさい右派・保守」じゃないだろうか。(まあ「頭でっかちな左翼」もバランス的に必要ですが……)

では、三島は「日本」の未来を嘆いているばかりいるかというと、そうでもない。
実は、三島は日本の若者に希望を託している。
上記、平岡梓著「倅・三島由紀夫」から

公威はあるときわたしに、いつになく真顔で、
「今どきの若い人を、決して馬鹿にしてはいけませんよ。身なりや言葉遣いで判断するのはもっての外です。あとで臍を噛むことになりますよ。彼らは、おかあさんの想像しているような人間ではありません。僕の言っていることを、胸に刻み込んでおいてください。彼ら以外に、日本を守り、日本を立ち直せる実力のあるものは、どこにもいないのです。いったん国難が来たら、彼らはたちまち毅然として国を守り、毅然として敵に立ち向かい、ものの見事にこの日本を立ち直らせてくれますよ。おかあさん北ベトナムをご覧なさい。あの艱難を歯を食いしばって、あくまで耐え、国を支えているのは、他ならぬ彼ら若者なんですよ」
<中略>
ある晩、事件の年の春ころでしたか、倅は、茶の間で、「日本は変なことになりますよ。ある日突然米国は日本の頭ごなしに中国に接触しますよ、日本はその谷間の底から上を見上げて、わずかに話あいを盗み聞きできるにとどまるでしょう。わが友台湾はもはやたのむに足らずと、どこかに行ってしまうでしょう。日本は東洋の孤児となって、やがて人買い商人の商品に転落するのではないでしょうか。いまや日本の将来を託すに足るのは、実に十代の若者の他はないのです」と申しました。

三島は信じている。若者を。
何よりも、若いときに固めた信念が、己を突き動かすことを誰よりも三島はよく知っているから。
三島は20歳のとき、終戦を向かえた。
そのとき恩師・清水文雄に手紙を出している。(昭和20年8月16日)

……玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられたる使命なることを確信しました。気高く、美しく、優美に生き且つ書くことこそ神意であります。ただ黙して行ずるのみ。今後の重且つ大なる
時代のため、御奮闘切に祈り上げます。
 たわやめぶりを みがきにみがかむ 

「たわやめぶり」とは「ますらお・益荒男」のことで、りっぱな男、勇気のある強い男、武人。兵士という意味だ。
三島由紀夫が「日本文化」を守ることが日本の国や民族を守ることにつながるという考え(「文化防衛論」など)は、二十歳のときにすでに出来あがっていたのだ。それは他の書簡などを読むとよく分かる。
二十歳に作られた自身の強い信念が、晩年のあの言動につながっていく。
これは「日本」を思えばこそのことだ。

三島の予言はいま現実となっている。
ならば日本の若者が奮起するという予言も当たることになる。

ただ、喚起を促すといっても武器を持って立ち上がれと言っているのはない。
三島が第一に挙げたのは「自国の文化と歴史と伝統を守ることであり、その根本は皇室にある」ということだ。

若者よ! 三島の言葉を聴け!

二十歳の三島由紀夫 その1 三島は二十歳のとき群馬県太田市(新田)にいた!

最初のきっかけは、文藝別冊「総特集 三島由紀夫」(河出書房新社)の中の一文だった。

松本健一、安彦良和の対談の部分から。

松本健一「……(三島由紀夫)が戦争中に学徒動員で私の育った中島飛行機の飛行場に行ったというのは意外でしたね。というのは中島飛行機というのは群馬県の太田市に本社と工場があったんだけど、そのほかにも三鷹とか宇都宮とかいろいろなところにあるから、学徒動員で必ずしもそこに行くとは限らないんです。」
安彦良和「結構レアな遭遇なわけですね。」
松本健一「そうなんです。(笑)。彼がちょうどそこに来た直後に私が生まれたという形になるわけで、あんなところにいたのかという感じはあるんですが、そこは戦後体制の一種のエアポケットみたいな場所で、中島飛行場があった場所に米軍司令部が置かれたために、私が大学に入った昭和三十九年の東京オリンピックの年まで町の真ん中に星条旗が翻っていたんです。……」

何と、三島由紀夫は、終戦の年に学徒動員で群馬県太田市(新田)にいたというのだ。

「三島由紀夫全集 巻42」の年譜によると以下のようにある。

昭和20年1月10日 
学徒動員として中島飛行機小泉製作所に行く。原稿用紙に書かれたメモには「○交通 浅草雷門より東武電車、伊勢崎行又ハ大間々行、普通二時間、急行なら一時間半にして館林着。ここで西小泉線に乗り換え(この乗り換え頗る面倒)約廿分にして終点西小泉着。この間最短三時間、最長五時間 切符の入手頗る困難」とある。勤労動員の正式名称は「東京帝国大学勤労報国隊」。群馬県新田郡太田町小泉製作所東矢島寮11寮35号室が住所。

確かに住所が群馬県新田郡太田町とある。(余談、やはり大泉町を含めこの周辺は「新田市」がふさわしい。)

さてさて、この事実を知ってからが大変だった。
というのも、三島由紀夫こと平岡公威が、群馬県太田市(大泉町)にいたということになれば、新田氏に関連する神社仏閣や場所を訪れたことはないか、新田義貞や児島高徳に新田一族に関した記述はないか、太平記や南北朝時代に関して記したものはないかと、全集を読み、書簡を読んで、三島由紀夫関連本を渉猟していくことなった。
そんな話が一つでもあればいい。そこから付会して、斎藤佑樹と関係させたり(富士重工・スバルの前身が中島飛行機製作所)、児島高徳の薫陶を受けた(大泉町に高徳関連の社寺がある)とかいった話にして、いつものように膨らまして無理やりにでも三島由紀夫も「新田一族」の一員にしようとした。
だが残念なことに、そういった記述は何一つ出てこない。

しかし、三島由紀夫の書簡や小説・評論をいろいろと読んでいくと、思った以上に中島飛行場の話は出てくることが分かった。
そしてこの時期が、三島由紀夫の人生にとって大きな転機になっていて、短い「中島飛行場の時代」が一つの分岐点になっていのではないか、と思えてしかたならなくなった。

と話を進める前に、とりあえず「中島飛行製作所」の説明。
 群馬県百科事典(上毛新聞社)から。

中島飛行製作所
1917年(大正6年)末から1945年(昭和20年)8月までの29年間、新田郡太田町(太田市)を本拠に発展した民間軍需航空機制作会社。戦前、本県最大の軍需工業で、重工業発展の先駆け。1917年12月、中島知久平が設立。大光院東側の旧博物館を借り、10人足らずの同志が知久平とともに「飛行機研究所」の看板をかけ、飛行機の設計や製図、試作業務を始めたのが最初。〈中略〉
1931年12月に、株式会社「中島飛行機製作所」となる。
1920年、太田町東端に工場(現富士重工)を新築、主力工場とし本社を置き、1923年、日中戦争勃発後は国の指定管理工場となり、軍事景気の波に乗り増資を重ね、前橋、小泉(大泉)、尾島、桐生、堤ヶ岡、本庄、大宮、田沼、足利、宇都宮、武蔵野、田無、多摩、半田、浜松、三島、黒沢尻など各地に工場を建て、研究所や飛行場を建設した。1941年以降は太田は陸軍機専用工場(海軍機は小泉)となり、全国から徴用工・動員学徒・女子挺身隊などが集まり、終戦時5万人が働く一大軍需産業に発展した。生産機数は陸・海軍・民間機を合わせて126機種、約3万機を数え、我が国総生産機の約3割を占め、太田工場だけでその半数1万5000機に達した。
隼・鍾馗・呑龍・疾風・月光・零戦など陸海軍の重爆撃機・艦載機・戦闘機と寿・光・栄・護・誉などの発動機は有名。
戦局が重大化した1945年4月、中島飛行機は国家管理下に置かれ「第一軍需工廠」と名称を変え、工場疎開や地下工場の建設までして生産に努めたが、資材不足や激しい空襲のため生産はマヒし、8月17日、軍需工廠機能は停止した。紆余曲折の後、1946年7月、財閥解体指令によって12の会社に分割。1953年、5社合併し現在の富士重工業株式会社が設立された。

他に「富士重工、スバル、中島飛行場」で検索すればいくらでも説明があります。
ついでに大泉町の説明は、「1941年に中島飛行製作所が作られ、太田・尾島と合わせて一大軍需工業地帯となる。 第二次大戦後、工場は米軍に管理され、1959年に返還された。1961年旧中島工場跡に東京三洋電機を誘致した。」とあり、三島由紀夫がいた工場は、今は三洋電機になっている。

大きな地図で見る
これを見れば周辺に「新田氏史跡」が多いというのが分かる。(ちなみに大泉町は「ブラジル人」の街として全国的に有名。サッカーワールドカップ時期になると、テレビでよくここが中継される。)

さて、「中島飛行場」時代の三島がどのようであったか、今回は自伝的小説「仮面の告白」から引いてみます。
(M市近傍のM市というのは、前橋市のこと。N飛行機工場が中島飛行場のこと。二十一歳とあるが、当時は数え年なので、満二十歳ということになる。)

戦争の最後の年が来て私は二十一歳になった。新年早々われわれの大学はM市近傍のN飛行機工場へ動員された。八割の学生は工員になり、あと二割、虚弱な学生は事務に携わった。私は後者であった。それでいて去年の検査で第二乙種合格を申し渡されていた私には今日明日にも令状の来る心配があった。
黄塵の湧き立つ荒涼としたこの地方に、横切るだけで三十分もかかる巨大な工場が、数千人の工員を動かして活動していた。私もその一人、四四〇九番、仮従業員九五三号であった。この大工場は資金の回収を考えない神秘的な生産費の上にたうちたてられ、巨大な虚無へ捧げられていた。毎朝に神秘な宣誓がとなえられているのも故あることだった。私はこんなふしぎな工場を見たことがない。近代的な経営法、多くのすぐれた頭脳の精密な合理的な思惟、それらが挙げて一つのもの、すなわち「死」へささげられているのであった。
〈中略〉
(空襲サイレンが鳴って)……事務員たちは重要書類の箱を抱えて、地下の金庫へいそぐのだった。それらをしまいおわると我がちに地上へ駆け出し、広場を横切って駈けてゆく鉄兜や防空頭巾の群衆に加わった。群衆は正面をめざして奔流していた。正面の外は荒涼とした黄いろい裸の平野であった。七八百米へだたった緩丘の松林に無数の待避壕が穿たれていた。それへ向かって砂塵のなかを、二筋の道にわかれた無言の・苛立たしい・盲目的な群衆が、ともかくも「死」でないもの、よしそれが崩れやすい赤土の小穴であっても、ともかくも「死」でないほうへ駆けるのであった。
〈中略〉
(召集令状を受け取り、即日帰郷を命ぜられて) ……営門をあとにすると私は駆け出した。荒涼とした冬の坂が村のほうへ降りていた。あの飛行機工場でのように、ともかくも「死」でないもの、何かまれ「死」でないものほうへと、私は足が駈けた。

つまり、三島由紀夫の歴史の中でも重要で、よく話題になる「召集令状」を受けて兵庫県に行くエピソードの直前、そのときに「中島飛行場」にいたのだ。
ユーチューブにこの時代のものがあったので載せておきます。

中島飛行機製作所での学徒動員の生活の印象がよほど強かったのか、「仮面の告白」でも何度かその名は登場する。
「……肺病やみの大学生ばかりが抵抗感のない表情で固まり合っているあの飛行機工場の寮」とか「まだ二十一歳で、学生で、飛行機工場へ行っていて、その上また、戦争の連続のなかで育ったなかでも……」といった表現で、「中島飛行場」が、「死」としてメタファー、「生と死を分けるもの」を印象付けさせるものとして比喩的に使われているようだ。
肉体的な生死のみならず、「精神的な生と死」としての分岐点として「中島飛行場」時代があると思われるのだ。

終戦の年である昭和20年、三島由紀夫の二十歳の年は、彼にとって激動の年であった。
その年の初頭、昭和二十年の冬に、群馬県太田市(当時は新田市)で過ごした日々は何であったのか。
その後、三島由紀夫こと平岡公威はどう変わったのか……。

これを解くカギは「ホット・ケーキ」です。

これを次回から続けていくことにします。



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