スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「アニメは日本文化を救えるか」シリーズ 第9回目 こんな感じでまとめる予定でした。

苦戦中!」からの続き

言霊の幸ふ国
言霊の霊妙な働きによって幸福をもたらす国。わが国のことを指す。万葉集(5)「--と語りつき言いひつがひけり」

言霊
言霊に宿る霊の意。古代の日本人は言葉に宿る霊力が、言語表現の内容を現実に実現することがあると信じていた。言霊の信仰によって言葉を積極的に使って言霊をはたらかせようとする考えと、言葉の使用をつつしんだり避けたりする考えとの二つの面がある。日本では和歌において言霊の思想がうけつがれ、のちの時代にまで影響を与えた。

こんな引用から大まとめを始めるつもりだった。
そして、つかみとして、テレビ東京とかでよくやる「旅番組」や「温泉番組」が、現代の「言霊」であり、「国ほめ」であるという説明をするはずだった。
どういうことかというと、タレントが景勝地に行き「きれいですね」「美しい風景ですね」と感嘆し、「桜がきれい」「紅葉が見事」と四季の美しさを賞賛し、旅館では「地元の山(海、川)で獲れたものですか、美味しい料理ですね」と食材を誉め、温泉に浸かれば「いいお湯だ、日本人に生まれてよかった」とつぶやき心を和ませる。これこそまさに現代の「言霊」であり「国ほめ」であるということ。(ここでいくつか例を入れたかった)
古代から、日本人は、日本各地でその土地々々を褒め、人々の生きる糧となる食物がいずる土地が褒め称えてきたのだ。この「国ほめ」は「言霊」思想とつながり、古来、万葉集や和歌で、現代でも皇室の歌会で、これは今も綿々と行われている。
そして、この説明から、「テレ東の旅番組」も「言霊による国ほめだ」ということにつなげる予定でした。
この「国ほめ」の説明は、過去記事「「銀魂」考 第3回鎮魂とカーニバル その3 「桜は死と再生の樹」と「国ほめ」」でしている。
また、ここから「国ほめ」思想が受け継がれているのがアニメであるという流れで進める予定だった。

ここではそれなりにまとまっていたが、これ以降が「苦戦」した。理由は2つ。一つは和辻哲郎の「風土」を引用しようとして、その量が膨大になってしまったこと。これは、ブルーノ・タウトの「日本文化私観」のときのように何回かに分けないと説明しきれないと分かった。
引きたかったのは「第4章・芸術の風土的性格」。本書は前半に有名な「モンスーン型」「砂漠型」「牧場型」の三つの類型の説明があり、そしてモンスーン型の中から大陸型のシナと島国の日本の対比があって、これらすべてを受けて、第4章の文化・芸術の説明に入っている。ここで日本文化の特殊性(ガラパゴス的発展)と美しさを解説している。和辻は、この章でブルーノ・タウトのように「日本文化の美」を絶賛しているのだ。ここが小説家のような端正な文章で実に素晴らしい。ブルーノ・タウトは日本文化の美を「神道」にその根源を見つけ説明した。和辻哲郎は「風土」によってこれを説明しようとしたのだ。そして三島由紀夫はこれを「天皇・皇室」にその根源を求めた。日本文化を説明する手段は各々違えど、その「美」を絶賛していることに変わりはない。
(過去記事「「コピーのコピーのコピー」も一つの文化だと思う。」ここで「風土・第4章」を一部引用しています)
ということで、和辻哲郎は別項でやります。

「アニメは日本文化を救えるか」シリーズと、ブルーノ・タウト「日本文化私観」シリーズ、また「銀魂」考シリーズは、伝統的日本文化を継承しているもの一つに「アニメ」がある、ということを解説しようとしたものである。
その説明にもある程度の画像が必要となる。そして苦戦の第2の理由は、大和絵、浮世絵、風景画、アニメなどいろいろ探していたのだが、「こっちの方がいいかな」「いやほかにいい画像があるかな」なんてやっているうちに、面倒になってしまったことだ。
和辻哲郎は、日本文化の根源は風土にあり、突き詰めれば「四季」にあるということにあることだ。そこで春夏秋冬が描かれるアニメの場面を例証として挙げていこうしたが、ここに手間がかかってしまい、まとまらなくなっていった。
時間があれば、日本文化が継承されたものを比較・解説したながらやって行きたいのだが、どうにもまとめ切れない。
まあ、ここは途中でも、取りあえず、引例にしようとした画像をランダムに載せていくことにしました。


ちはやふる2
アニメ「ちはやふる」から、札から花鳥風月が浮き上がってくるという場面。
ちはやふる3同じく「ちはやふる」からED。紅葉が素晴らしい。
着物「ちはやふる」から。見よ、この着物の柄の美しさを。
座敷「銀魂」から。銀魂では時折、風景や自然や家屋、着物の柄、和文化の小物といった日本的美が描かれることがあって驚かされることがある。
高杉晋助銀魂から。
酒井抱一「四季花鳥図屏風」これは江戸時代後期の酒井抱一「四季花鳥図屏風」

3_1280_273_273_high.jpgこれは「夏目友人帳」
広重 雪これは浮世絵の広重の「名所江戸百景」。例えば途中にこういうのを挟んでも違和感がないでしょう。

タウトこれは「鳥獣人物戯画」の土瓶。小動物が好んで描かれるのも日本絵画の特徴だ。
蛙銀魂から。「あじさい」と「蛙」。これだけで時期が「梅雨」だと分かる。
風鈴「夏目友人帳」から。風鈴に描かれる金魚。何気ない風景に日本文化が描かれる。
蝉「ちはやふる」から、木にとまる蝉。この一場面で「夏」が表現される。
猫私の好きな広重の「名所江戸百景」から。猫が吉原妓楼から外を眺めている。細部の細かさ、小動物の擬人的描き方。こういうのもマンガ・アニメ的である。

あとは、
竹やぶ「化物語」から、竹林。竹は日本絵画でもよく描かれる題材。結構、アニメでも見かける。

おまけ
img_303623_35667226_7.jpg「けいおん」から。神社に参拝する場面。

と、こんな具合にもっと検証するつもりだったのですが……。

要は、日本文化が意外にもアニメの中にも継承されているということです。こういう視点で見るとアニメも新しい発見がある。
スポンサーサイト

アニメは日本文化を救えるか 第8回 大切なことは何か

読売新聞の特集記事「人物語 異国の風」は以前「日本文化を継承するものが日本人だ、と思う。」のときに触れましたが、そこに日本のアニメに関連した外国人のことが載っていたので書き起こしてみました。

読売新聞 平成23年2月20日 人物語 異国の風
「プリキュア」子供に感動を 元革命闘志「夢のアニメ」
東京・新宿の映画館は、子どもたちの熱気が渦巻いていた。人気アニメシリーズ「プリキュア」劇場版9作目の昨秋の試写会。プロデューサーのギャルマト・ボグダンさん(42)は、スクリーンを見つめる子どもたちの表情を迫った。笑ったり、驚いたり――。胸がギュッと締め付けられた。ルーマニアで過ごした幼い日々、自分が所属する「東映アニメーション」のアニメを夢中で見たことを思い出した。
首都ブカレストに生まれ育った。当時は社会主義国だったが、日本のアニメなど西側の文化が流入した時期があった。熱中したのは、タマゴの殻をかぶった黒いヒヨコが主人公の「カリメロ」。長編アニメ映画「シンドバットの冒険」にも胸を弾ませた物語性の高さが深く心に残った。
1989年12月24日、愛犬バルザックが消えた。一晩中探し回ったが、翌朝、玄関前で冷たくなっていた。「脅しだ」。そう思った。
チャウシェスク大統領が独裁を強めるルーマニアは、民主化運動も激しさを増していた。ボグダンさんも16歳から運動に身を投じ、逮捕されたこともある。革命が始まった同月21日からは、当局側との銃撃戦の中にいた。「命を失うかもしれない。でも自由のためには行動しかない」。25日に大統領が処刑され、革命は実現。だが、その後も当局が迫っていると伝えられ、90年、ハンガリーへ。
ブタペストの大学に通い静かに暮らすうち、日本の文化やアニメに興味があったことを思い出した。日本の留学生制度を利用し、92年春に来日。千葉大で大学院まで7年間、日本文化や工芸を学んだ。
「今度、遊びに来いよ」。2006年に友人を介して食事をした際、そう言ってくれた男性は東映アニメーションの人だった。カリメロを作った会社だ。現在は同社の企画開発スーパーバイザーを務める清水真治さん(58)。すぐ同社を訪れた。
「遊び」ではなく、いきなり履歴書を出して驚かれたが、まずアルバイトとして採用された。少子化で国内市場の先行きは楽観できず、「日本人にないパワーや国際的な感覚が欲しかった」(清水さん)という。
ボグダンさんは電話番をしながら何度も企画書を提出。まもなく採用された企画は、07年秋からのテレビアニメになった。08年、社員に登用された。

プリキュアの劇場版はプロデューサーとして3作目。アニメの作品ながら、物語の舞台となるパリの街に迫真性を持たせるため、スタッフを連れて現地に赴いた。街角の建物を写真やビデオで記録するため、故郷で見についたフランス語を駆使し、現場責任者として様々な交渉に臨んだ。清水さんは「突進力と人なつこさは大きな武器」と話す。
昨年、ルーマニアへ帰省した時、弟のオデビューさん(39)が犬を贈ってくれた。「革命から20年。もう乗り越えないと」。革命の時に殺されたバルザックと同じ黒いコッカースパニエル。ポッキーと名付けた。バルザック以来の愛犬となった。
ポッキーを傍らに、故国を思う夜がある。今、ルーマニアで放映される日本アニメは多い。かつての自分のように、少年少女が胸を弾ませてくれるかな――。
「故郷も忘れらないけれど、日本の人たちは僕を温かく受け入れてくれた。この地でずっと暮らし、子どもたちに感動を伝え続けたい」

「プリキュア」 読売新聞
ギャルマト・ボグダン氏と私はまさに同年代、「カリメロ」は私もよく見てました。
何の接点もないルーマニア人と日本人の私(ともに「おっさん」)、この二人の共通点が、懐かしい日本アニメ「カリメロ」だというのが、考えてみると面白い。
まあ、これも「文化」でつながるっているということになるんだなぁと、しみじみ思う。
それに、うちの娘は小学校低学年なので、まさに「プリキュア世代」。劇場版9作目「ハートキャッチプリキュア!花の都でファッションショー…ですか!?」はフランスでも公開されるというから、将来、プリキュアを見たフランス人の少女と私の娘がどこかで出会えば、共通の思い出として「プリキュア」の話をするかもしれない。
大事なのはこういうことなんじゃないかと、思う。

ここで、前回の記事 アニメは日本文化を救えるか 第7回 これからの「クールジャパン」は、消費される文化を目指すのではなく、日本文化を広め、深める道を進むべきではないのか。とからめてみましょう。

では「プリキュア」はディズニー・ピクサーCGアニメ映画のように大ヒットするだろうか。しないだろう。ヨーロッパ全土を席巻する話題作となるだろうか。決してそんなことにはならない。
それに、昔の日本アニメ「カリメロ」や「シンドバットの冒険」はどうだろうか。大きな収益を得られただろうか。そんな話は聞いたこともないし、まして経済効果という点でいえば、大した儲けにもなっていないだろう。
しかし、どうだろう。経済からみれば大して影響を与えなかったかもしれないが、文化という点から見ればどうなるだろうか。
日本のアニメに強烈な影響を受けた人々がいたという事実があって、これからもそんな体験をする子どもが出てくることになるということだ。これこそが重要であり、まさに本当の意味での「クールジャパン」とはこういうことを言うのではないだろうか。

またこんな記事を読んだ。http://movie.goo.ne.jp/contents/news/NFCN0030350/index.html

実写版「ドラゴンボール」のオファーは断るも「マジンガーZ」へ熱いラブコール!巨匠アレハンドロ・アメナーバル監督新作を語る!
映画『アザーズ』『海を飛ぶ夢』など、多彩なジャンルの力作を送り出してきたアレハンドロ・アメナーバル監督が、新作映画『アレクサンドリア』について熱く語った。『アレクサンドリア』は、4世紀のエジプトを舞台に、女性天文学者のヒュパティアと弟子たちの激動の運命を、壮大なスケールで描いた一作だ。
<中略>
ところでアメナーバル監督といえば、『アレクサンドリア』を撮る前にハリウッドで『ドラゴンボール』を監督するうわさがあったが、その真偽について監督から「確かに『ドラゴンボール』をやりませんかという話はあったけれど、そんなに好きな作品ではなかったんだ。やるとしたら『マジンガーZ』がいいなぁ……。『マジンガーZ』を監督できたら、夢のようなんだけど!」という意外なコメントが飛び出した。アメナーバル監督が『マジンガーZ』!? そんなプロジェクトが実現したら、ぜひ観たいと思う人も多いはず! 日本のプロデューサーは、オファーしてみたらどうだろうか? 2011年2月28日

(「マジンガーZ」とはまた懐かしい。)
「マジンガーZ」にしても海外で大ヒットというわけではないだろう。まして大きな経済効果を上げているわけではない。しかし、日本のアニメに影響を受けた人が世界各地に多くいるということなのだ。
何か言いたいかといえば、目先の「経済効果」ばかりを追って、アニメ・マンガの「文化」としての価値や役割を見失ってはいませんかということ。日本のアニメやマンガが思惑以上に売れていなからといって「クールジャパン」は存在しないといった論理は少し違うんじゃないかということだ。

堀淵清治著「萌えるアメリカ 米国人はいかにMANGAを読むようになったか」(日経BP)から一例。

89年に『うる星やつら』をアメリカで出版したとき、業界では高橋留美子の作品を「Too cultural(日本的過ぎる)」と評する声もあった。彼女の作品には、日本のお祭りやお正月の様子など民族学的な要素が多く盛り込まれているため、ごく一部のファンにしか受け入れられないというのである。
「高橋留美子はアメリカでは売れない」。何度もそんな言葉を耳にした。
実際にフタを開けてみると、彼らの言う通り『うる星やつら』は期待したほどヒットしなかった。絶対に失敗できない大切なタイトルだっただけに、僕らは大きく肩を落とした。
<中略>
しかし、諦めることなく彼女の作品をアメリカファンに届けていくことを決めた。「高橋留美子はアメリカでは売れない」。その言葉を撤回させたかったからだ。
<中略>
そして、ついにリベンジの時がやってきた。92年の6月から、ダイレクトマーケット向けの月刊コミックス「らんま1/2」の出版が始まると、ファンの間ですこしずつ話題になり、翌年リリースしたビデオが、全米のアニメランキングで初登場トップに躍り出たのだ。「ANI-MERICA」での大々的なプロモーションも功を奏し、狙い通りの結果となった。当時の我々にとって、このアニメの成功はまさに救いの雨以外の何ものでもなかった。アニメの売れ行きに乗じて、マンガ「らんま1/2」もまた部数を伸ばして行ったのである。

そして、これが後にアメリカで「犬夜叉」が大ヒットにつながったと、本書では詳しく綴っている。

つまり、必要なのは「種をまくこと」。ヒットという花を咲かすには、種をまいてから水をやって育てていかなければならない。そのためには時間も手間も必要なのだ。何度も繰り返すが、目先の「売り」にとらわれ過ぎるな、ということだろう。だから前回取り上げた論者の意見には大反対だ。
昔の日本のアニメ「カリメロ」や「マジンガーZ」などに影響を受けた世界の子どもたちが、いま大人になって「アニメ=日本文化」の擁護者となっていくのだ。
大切なのはこういうところだ。
前出の堀淵清治著「萌えるアメリカ」から引いてみる。

「OTAKU」現象の最も面白いところは、「japanophile(ジャパノフィル)=日本偏愛」という造語が現れるほど、マンガやアニメを入り口にして日本の文化や歴史、そして言語や政治、時事現象に至るまで並々ならぬ興味を持ってのめり込む「超親日」を生み出しているという点である。極端な例では、白人のアメリカ人であるにも関わらず、とにかく日本に住みたい、日本人になりたい、というような「同一化願望」を抱く日本オタク(とくに白人)を揶揄する「wapaneseka(ホワパニーズ)」などというスラングまで造られ、インターネット上で密かに使われてもいる。
もちろん、こうした嗜好を持っている人々はアメリカではごく少数である。しかし、媒体は何であれ、外国人が日本人の文化や精神性に近寄ってその独特の「世界観」に浸るという現象は、日本のオタクがマンガやアニメ、ゲームなどの「異世界」にハマる現象と、マインドトリップ体験という意味では、さほど変わりはないかもしれない。

マンガやアニメを入り口にして「超親日」を海外で作っていく。つまり、揺るがないガッチリとした日本ファンという名の固定客を増やしていくことがいま必要で、まさにその段階なのだ。それを売れることだけを目的の市場原理に合わせていけば、結果ツマラナイものしか生み出さなくなる。それでは本末転倒となっていくことになる。(この辺りは、このシリーズの過去記事で)

この前、ラジオ・ニッポン放送の茂木健一郎の番組に夏目房之助がゲストで来ていて、マンガの話をしていた。その中で日本マンガの国際化についての話があった。ここで夏目氏は、日本のマンガの海外での経済効果は微々たるものだが、日本文化ファンを増やすことが大事で、引いてはこれが「日本の安全保障となる」といった話をしていた。
正にその通り。要は、その国の文化力(ソフトパワー)がその国の防衛力となるということで、当ブログがいつも説くところの「マンガ・アニメ文化防衛論」そのものだった。
(高い文化力は、中国や朝鮮に対抗する防衛力になると考えていたのは「新井白石」だった。過去記事)

話は少し飛ぶ。
最近アニメ「銀魂」にハマっている。これがすこぶる面白い。
9割ギャグなのだが、ときおり見せる「サムライ魂」にしびれている。
検索して関連した動画(MADやPV)を見ていたら、その中にちょっと面白い動画があった。
なんのことはない素人の投稿動画だが、ここで銀魂に登場するペット的存在のキャラ「定春」のキャプをかぶった少女が、ただ「定春かわいい」と何度も言うだけのものだ。

ここで興味を引くのは、この娘が中国人であり、しかも日本語(日本語イントネーション)で「かわいい」を連発して言っていることだ。
それ自体、別に何のことはないことかもしれない、ただ、私はこういう現象にとても興味が引かれるのだ。
いかにも日本的な文化(下ネタを含めて)が溢れるこのアニメのファンなのだろう。(アニメショップの店員?)
考えてみると不思議なのだ。
この若い中国人娘の名前も知らず、何者かもしれない。国も言葉も文化も違えば、世代も違う。
だが私が見ているものと同じものを、世界各地で見ている人がいるという事実。
それが日本のアニメだということで、妙な感慨さえ得てしまう。(しかも日本的文化の要素が強いものを)

全く知らないルーマニア人が見た「カリメロ」を俺も見ていた。巨匠と言われるような映画監督が見ていた「マジンガーZ」を私も子供のころ見ていた。
娘が見ている「プリキュア」も、フランス人の子どもが見ている。
日本のアニメ・マンガで世界とつながっている。ここが実に面白い。
何度も言う。大切なのはこういうことなのだ。

将来、日本を救うのは「マンガ・アニメ」だったりするかもしれない。
(これ、後でつなげます)

アニメは日本文化を救えるか 第7回 これからの「クールジャパン」は、消費される文化を目指すのではなく、日本文化を広め、深める道を進むべきではないのか。

アニメは日本文化を救えるか 
第7回 これからの「クールジャパン」は、消費される文化を目指すのではなく、日本文化を広め・深める道を進むべきではないのか。

まず、疑問を感じた記事が出ていたので、そのまま転載しておく。
日刊サイゾー http://www.cyzo.com/2011/02/post_6557.html

朝日新聞までもが危惧し始めた「世界に広がるオタク文化」の幻想と危機的状況 もう「世界に広がるオタク文化」の幻想を見る時代は終わった。
2月7日付の朝日新聞の別冊紙面「GLOBE」が「MANGA、宴のあとで」と題して、日本のマンガ・アニメが持て囃されているはずのフランスとアメリカで売り上げが伸び悩んでいる現状をレポートしている。
 秋葉原で外国人観光客を見かけることは珍しくなくなった。世界のあちこちでオタクイベントが開催されていることはニュースにもなる。YouTubeなどの動画投稿サイトでは、世界のあちこちで、コスプレしてダンスするオタクたちの姿を見ることができる。
 それなのに売り上げが伸び悩むとは、どういうことか? 「Nesweek日本版」が「萌える世界」と題して世界に広がる萌え文化を紹介したのは2007年3月のこと。それから4年余りの間に何が起こったのか?
答えは簡単である。最初から日本のマンガ・アニメが世界のあちこちで持て囃されているというのは、幻想に過ぎなかったのだ。
 そもそも、「クールジャポン」なんて言葉が流行した07年頃、アメリカでもヨーロッパでも、アニメ関連の市場は縮小が始まっていた。アメリカで、日本のアニメおよび関連商品の売り上げがピークに達したのは03年頃。テレビでのアニメ放映時間も07年9月をピークに減少を続ける一方だ。
 フランスでは日本のマンガが数多く翻訳出版されているが、とにかく売れない。先の旭の記事では、『デトロイト・メタル・シティ』が5,000部程度しか売れなかったことを記している。もちろん、これはヒドイ例だ。ジャンプ作品はある程度人気を博しているが、それでも08年に発売された『NARUTO』の単行本が22万部売れた程度に過ぎない。
 と、読者の皆さんは「ちょっと、データーが古いのではないか?」と思ったかも知れない。その通りである。
 ところが、そもそもアメリカやヨーロッパにマンガやアニメの市場がどの程度の規模で存在しているのかを知るのは、かなり難しい。こうしたデータを収集している組織としてはJETRO(独立行政法人日本貿易振興機構)が有名だろう。ところが、この記事を書くにあたって久しぶりにサイトを覗いてみたのだが、欧米圏に関しては新しい調査報告が、あまりなされていない。こうした状況を見ても、あたかも日本のマンガ・アニメが巨大なブームを引き起こしているような状況は、幻想としか思えない。
 一方で、日本のマンガ・アニメを求める「濃い」ファンもちゃんと存在する。彼らの存在は大きく見えるが、数は限られたものに過ぎないのだ。
 フランスで開催されたオタク系イベントの日本側窓口となったコーディネーターからは、こんな話も。
「日本のオタク事情に極めて詳しいファンは存在します。例えば、『東方』のファンはフランスにもいるんです。ただ、フランスで『東方』を知っている人は200人程度じゃないでしょうか」
 筆者は一昨年に、ある週刊誌で「日本のマンガ、実は世界でウケてない!」という少々煽り気味のタイトルで日本国内での幻想と海外での現実とをレポートした。しかし、この記事の反響の多くは批判的なものだった。
 だが、今となっては、このレポートは正しかったと言わざるを得ない。
 国内需要が縮小していく中で、海外に活路を見出すのはビジネス上、当たり前のことである。だが、海外には、まだ山と溢れる日本産のマンガやアニメを受け入れるだけのすそ野が出来上がっているとは言えない。
 例えば、日本ではオタクだけでなく幅広い客層を集めるスタジオジブリの作品群も、欧米では、さほど興行収益を上げてはいない。国内ではさまざまな海外映画祭での受賞が派手に報じられているが、それが集客には結びついていないのが現状なのだ。
 だからといって、縮小する一方の国内の需要に頼っていては、マンガ・アニメの壊滅は必至だ。これまで、多くの人は、海外には既に作物が豊富に実る豊かな土壌の楽園があるち勘違いしていた。だが実態は、これから畑を耕してまだ日本のマンガ・アニメを消費する人々を育てていく段階だったのだ。
 カギとなるのは、日本のように子供から大人まで、年齢を重ねてもマンガやアニメを消費するライフスタイルをどうやって普及させていくかということ。サブカルチャーの一分野として、日本のマンガ・アニメを消費する人々だけをアテにしていては、先はない。
 別段、批判するわけではないが『朝日新聞』が、多くのページを割いて、海外のマンガ・アニメの不況を記すということは、状況は更に先に(悪く)進んでいるということだ。日本のマンガ・アニメの未来を考えるならば、もう、夢を見ている暇はない。(文=昼間たかし)

どうでしょうか。確かに後半の部分はいいだろう、『年齢を重ねてもマンガやアニメを消費するライフスタイルをどうやって普及させていくか』という課題を示している点はいい。だが「世界に広がるオタク文化」や「クールジャパン」は幻想であり、それは日本のマスコミが勝手に作っているのだ、というのは煽り過ぎではないのか。
それに、かの大新聞で権威のある(?)朝日新聞が言っているのだから俺の言っていることは間違いない、ということを誇示したいのか、そこが鼻についてイヤな文面だ。
そもそも「売れている」「ヒットしている」「消費」という基準で「文化」を語るべきなのだろうか。
「文化」を「売れる」「売れない」という市場論理に当てはめること自体が間違っているのではないだろうか。
海外で日本のマンガが売れていないから、ジブリ映画の興業成績が悪いから(NARUTOが22万部売れているだけでも凄いと思うが、日本のものでそんなに売れる本はないだろう)という理由でもって、クールジャパンは幻想だという論はおかしい。
まずこの記事を書いた「昼間たかし」を検索してみると……、これが、酷いサヨク。
それに朝日新聞は、日本にも「文化大革命」が起きて中国の属国になることを願っている新聞社ですから、そこが「クールジャパンは幻想だ」という論を張るのはもっともなことでしょう。
この自称ジャーナリストが、俺の考えていることが天下の朝日新聞と同じだ、といったことで舞い上がっているのが笑える。

そもそも「クールジャパン」って、「文化」って、何なのだろうか。

例えば、外国人が思い浮かべる日本を代表する文化「相撲」や「歌舞伎」はどうだろうか。海外で売れるものなのか。そうではないだろう。これらは日本をイメージし象徴する文化である。
浮世絵はどうだろうか。これも日本を象徴する文化だが、元々海外で売り込んで認められたものではない。陶器の包装紙だったものが欧州に渡り、これを見たゴッホやマネやモネらなどが衝撃を受け、その彼らが印象派を生み出し、西洋絵画に大きなの影響を与えることになる。これが欧米の「ジャポニスム」となって、日本文化の愛好家・心酔家が多く作ることなった。
現在でも、海外の美術研究家や絵画ファンは、日本の浮世絵を見れば、そこに特別の感情を抱いている。彼らは日本文化のよき理解者となり、日本そのものに友好的意識を持ってくれることになるのだ。
そういう現象こそが重要なのである。
文化は、「売り」「消費させる」といったことを優先させるのではなく、「広がりや深度」を重視せよということだ。
過去記事(「渡辺千賀の「日本はもう立ち直れない」と忌野清志郎と小室哲哉」)
政府・役人が「ジャパンクール」を推し進めようとすれば、数字や経済効果ばかりを追い(業績を数字で計ることしか役人や企業は考えない)、結果、「文化」を広めるという視点は必ずや見過ごされることなる。
だから「文化」をそういう視点で捉えてはいけないし、ましてジャーナリストや新聞社がその視点のみに立って「文化」を論じるのは大きな間違いである。
詳しくは過去記事「アニメは日本文化を救えるか」シリーズで。
第1回 アニメでカネ儲け主義に走れば、アニメ文化は衰退する。
第2回 アニメと日本語
第3回 ソフト・パワーの時代。中国がパンダなら、日本はアニメだ!
第4回 文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。
第5回 こんな時代だからこそ、海外で日本文化を広めて日本ファンを増やそう。切っ掛けは「タイ焼き」から?……。
第6回 アニメと神社

ソフトパワーを生かして国(民族)のイメージを上げ、その国(民族)のファンを増やす。
当サイトで主張しているソフトパワーによる「文化防衛論」が重要なのだ。
アニメ・マンガそれ自体の売上云々といったことに重点を置くのではなく、「マンガ・アニメの海外への広がり」によって日本文化を知ってもらい、熱狂するような日本ファンを作ることこそが必要なのだ。
それは櫻井孝昌氏や杉山知之氏が主張することである。
だから、マンガやアニメが爆発的に売れて(消費されて)いないから「日本文化は広まっていない」「クールジャパンは幻想」という論理は道を違える元になる。
何でも経済効果で物事を計るとものの本質を見失うことになるのだ。

さて、もう一つ気になった記事を。こちらはいい記事。
朝鮮日報2011年02月12日http://news.livedoor.com/article/detail/5338429/【コラム】誰がチェ・ゴウンさんを殺したのか

昨年5月、映画監督のクァク・ジギュンさんが「仕事がなく、苦しくてつらい」と書かれた遺書を残して自ら命を絶ったというニュースが流れ、世間は非常に驚いた。しかし、そのことはたちまち世間から忘れ去られていった。6カ月後の昨年11月、シンガーソングライターのイ・ジンウォンさんが半地下の部屋で倒れ死亡したときも、殯(ひん)所(出棺まで棺を安置する場所)にはインディーズ・ミュージシャンたちが訪れただけだった。そして今回、シナリオ作家のチェ・ゴウンさんが「残ったご飯とキムチをください」と書いたメモを残し死亡していたことが、十日後の今月8日に分かった。わずか9カ月の間に、芸術家3人が、あまりに寂しい姿でこの世を去った。なぜ、こうした悲劇が繰り返されるのか。

 3人はいずれも「無名の芸術家」ではない。映画『冬の旅人』の監督を務めたクァクさんは、一時は人気の映画監督として活躍したが、2000年代に入ると次第にその存在は忘れ去られていった。イ・ジンウォンさんは、弘益大エリアでは有名だったが、テレビには出演できなかった。チェ・ゴウンさんは、韓国国内の映画祭で受賞した実績はあったが、脚本を買ってくれる人がいなかった。
 3人の共通点は、創作活動以外に仕事がなかったという点だ。3人とも映画や音楽に対する愛情があまりにも強く、芸術家としてのプライドが高すぎたため、本業以外の「お金になる仕事」に取り組むことができなかった。
  3人の死を、(映画や音楽関連の)市場のせいにすることはできない。利益が出る方に流れる資本が、彼らにそっぽを向いたのは事実だが、だからといってすべての責任があるわけではない。売れないシナリオを書き、ヒットしない歌を歌い、ヒット作を生み出せない芸術家は、冷たい市場の片隅に追いやられてしまうのが現実だ。
 だが、彼らの貧しい生活や孤独な死に対し、政府にもある程度の責任はある。芸術家がどれだけカネを稼ぐかは、芸術家自身の仕事次第だ。だが、芸術家たちが三度のご飯をきちんと食べ、健康診断を受け、温かい部屋で冬を過ごせるようにするのは国家の仕事だ。それがすなわち、福祉政策と文化芸術政策の要点の一つだ。
 ところが政府の大衆文化政策は、もっぱら「カネになる方向」に集中している。文化体育観光部(省に相当)の前長官は就任直後、大手芸能プロダクションが運営するカラオケ店で記者会見を開き、「韓流」あるいは「新・韓流」を掲げ、大衆文化を輸出産業であるかのように取り上げた。海外で稼ぐアイドルグループを政府の予算で支援する一方、国内で活動しながら日の目を浴びないミュージシャンからの支援申請は突き返したのだ。
 すべての映画監督が大ヒット作を生み出す国や、すべてのミュージシャンがダンスミュージックをヒットさせる国は、発展途上国だ。先進国とは、芸術映画や実験的な音楽を着実に創り出せる国のことだ。
 クァク・ジギュン監督が部屋で練炭を燃やしながら、「つらい」と遺書をしたためたとき、どんな心情だったのだろうか。イ・ジウォンさんが「どんなに音楽が好きでも/ラーメンだけでは生きていけない」という歌詞を書いたとき、どんな気分だったのだろうか。チェ・ゴウンさんが残したメモに記された「恥ずかしいけれど」という言葉が、とりわけ気になる。チェさんを死に追いやったのは、飢えではなく、恥ずかしさだったのだろう。
 その恥ずかしさの責任は、生きているわれわれが背負うべきものだ。韓国とは、32歳の芸術家が、閉ざされた部屋で孤独死に至るまで放っておく国なのだ。国内総生産(GDP)世界15位の経済協力開発機構(OECD)加盟国に加わり、主要20カ国・地域(G20)首脳会合を開催するまでに成長した大韓民国で、三流映画のような悲劇が相次いで起こったという現実が、恥ずかしく思えてならない。
韓賢祐(ハン・ヒョンウ)大衆文化部次長待遇

何かこれ、日本のアニメ業界の労働環境に似ている。それに日本の政府が掲げるような「経済的効果のクールジャパン」もこれと同じようものだろう。
何よりも「すべての映画監督が大ヒット作を生み出す国や、すべてのミュージシャンがダンスミュージックをヒットさせる国は、発展途上国だ。先進国とは、芸術映画や実験的な音楽を着実に創り出せる国のことだ。」これまさにその通りだ。
ヒットさせる、売れるものを作る、といったことばかりを追求すれば、いつしかツマラナイ平均的なものしか作られなくなる。
「文化」は独自性に価値があるので、経済至上主義に合わせれば、その文化はグローバル化という名の下に呑みこまれてしまうだろう。(日本文化のアメリカ化、中国化)
だから、上記にあるよう「昼間たかし的見方」「朝日新聞的論理」売れていない(消費されない)からクールジャパンは幻想→売れるものを作れ」論理展開は間違いなのだ。

アニメは日本文化を救えるか 第6回 アニメと神社

アニメは日本文化を救えるか 
第6回 アニメと神社

最初に弁明。
日本のアニメには結構「神社」が描かれることが多いということと、それらが動画サイトを通じて中国や韓国で流され多くの人々が見ているということ、これに合わせて「日本植民地時代に中国や韓国で建立された神社の行方」や「日本の国家神道」など、ここでまとめて書いてみようと思いました。しかし、これがなかなか上手くいきません。
なので、さわりだけをちょっとまとめておくだけにします。

さて、まず、http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0513&f=national_0513_004.shtmlの記事から

【韓国ブログ】韓国人の嘆き「神社で反日感情に気づいた」
世界的不況と言われる世の中、それでも日常からしばらく脱出できる旅行は相変わらず人気で、ゴールデンウィークに韓国を訪れた日本人観光客は10万人前後だったという。韓国人にとっても日本旅行の人気は衰えない。
  韓国では、自身の旅行体験を写真とともにブログに載せるネットユーザも多い。多くのブログには「清潔・静粛・整理・整頓」などの見た目や「最高のサービス・勤勉な国民性・すぐれた先進文化」等々短期滞在でも感じられる日本の良さが綴られている。それに、様々な媒体と想像で重ねてきた日本に対する印象が、実際訪日してから変わったというユーザーの声も多い。
 そんな中で、自分の対日観を再認識し驚いたと語るブロガーもいる。ハンドルネーム・ハチュウォンというブロガーは「最近はどこの国に行ってもいつもその土地の風習に沿って香を焚いたり賽銭を入れたりしてお願いことをするが、何故か日本の神社では素直にできない。罪悪感というか・・・」と感想を綴っている。
 さらに、「自称オープンマインドで生きてきたつもりだった。国内のWBCでの過剰反応やキム・ヨナVS浅田真央の過激な報道を見ながら、すべて反日教育のもたらした結果だと批判的だった。しかし、こんな私に反日感情が潜んでいたとは驚きだ」と反嘆きになっている。
 近くて遠い韓国と日本、さまざまな問題を抱えているが、このブロガーのように素直な韓国人がいることは喜ばしいものである。(編集担当:金志秀)

韓国・朝鮮人にとって「神社」は、日本を象徴するものであり、日本による植民地時代の嫌な思い出となっている。また反日教育もあって反射的に敵対意識をむき出しにしてくる。
だから、日本敗戦後、中国・朝鮮にあった神社は徹底的に破却された。
産経新聞 平成21年5月17日「【週刊韓(カラ)から】ソウルの「神社跡」をめぐる」の記事から
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090517/kor0905171300000-n1.htm

日本統治時代、朝鮮半島にたくさんの神社が創建された。当時京城と呼ばれたソウル市内にも数多くの神社があり、古い地図を見ると朝鮮神宮、京城神社、乃木神社、稲荷(いなり)神社…と次々に見つかる。昭和20年、日本の敗戦を受け、ソウル市内にあった神社はすべて壊されたが、その遺物がわずかに残っている。ソウル市立大学国史学科の鄭在貞(チョン・ジェジョン)教授らの案内でソウル市内の神社跡をめぐった。
……
朝鮮神宮の祭神は、天照大神と明治天皇で、1925年(大正14年)に創建されたが、日本の敗戦により廃座。敗戦直後、汚されることを恐れた神主らが昇神祭を開き、拝殿の中にあった御幣などすべてを自分たちで手で燃やしたという。その後、地元住民らによって敗戦から1週間以内に建物も完全に破壊されたようだ。
……
階段を登り切るとまた広場が現れ、右手に伊藤博文を暗殺した安重根の記念館、左手にソウル科学教育館があった。この辺からさらに奥に入った所が朝鮮神宮の境内だったという。記念館辺りには社務所があったようだ。
……
1936年、神社規則の改定により「一邑面一神社主義」(村ごとに1つの神社をつくる政策)が打ち出され、朝鮮全土に国家神道の普及が図られることになった。翌年から大々的に神社参拝の強要が始まったとされる。それまでは朝鮮人への参拝は強制されていなかったが、その後年々朝鮮人の参拝が強化されたようだ。
……
 境内があった場所には、芝生が植えられ、牧師の祈念碑が建てられていた。周辺には、鳥居の台石や当時の石畳とみられるものも残っていた。また、神社への寄進者と思われる日本人名が彫られた石が逆さまになって使われている石段もあった。
 大正12(1923)年と記された句碑もグラウンド横に建てられている。この句碑は、グラウンド工事の際、土の中から出てきたという。
 祟義学園はもともと平壌にあったが、神社参拝を拒否したため廃校にされた。日本の敗戦後、京城神社があった場所をわざわざ選んで学校を再建したそうだ。
加藤神社は、加藤清正ゆかりの神社だった。加藤清正は、文禄の役で南大門から漢城(現・ソウル)に入城し、首都攻略の先陣を切ったとされる。神社があった場所はちょうど再開発の工事中で、神社は跡形も無くなっていた。
……

乃木神社の跡地には児童福祉施設が建ち、灯籠や石段に使われていた石材がテーブルやベンチになっていた。

ここまで徹底的に神社を破壊したのは、ここに深い憎悪を込めていたからに他ならならない。また神社が日本人の心の拠り所だと十分に知っていたからこそ、ここまで解体したのだ。
当サイトの神社関連の記事。
「神社は違憲なので撤去」、そんな日が来るかもしれない。
日本人はなぜ「神社」に行くのか!
「婚活」でも「縁結び」でも「パワースポット」でも何でもいい、とにかく日本人は「神社」に行くことに意味がある。
神社が「日本文化」の集まる場所とみるならば、現代の日本文化の象徴である「アニメキャラ」がそこで隆盛を築いていても何ら不思議なことではない!
日本人にとって神社とは?  日本人度チェック付き

これらでも分かるように神社は日本人にとって切り離せないものである。

そして、韓国では日本文化を排除してきた。
愛知淑徳大学 の論文から、http://www2.aasa.ac.jp/faculty/tagen/thesis/2003/005263/

韓国では第二次世界大戦後、植民地時代の苦い、雪辱的な歴史から日本文化を排除し、政府はそれらの輸入を禁止してきた。1998年のソウルオリンピック前後から国内市場の開放を進められてきた韓国は、中国や旧ソ連など共産主義の国々の映画をも上映するようになった。しかし、日本の文化だけは韓国市場から締め出すことをしていた。
では、なぜ韓国政府は、日本大衆文化を禁止してきたのだろうか。一つ目に、歴史的な外交関係と、そしてそれが元となる韓国人の民族感情がある。1945年以前の日本の占領により形成されたこの民族感情は、朝鮮戦争で日本が取った徹底した第三者的な姿勢などを通じてより一層、強くなっていく。韓国人が、日本の大衆文化に触れることで戦争世代の人々が過去のイメージを取り戻してしまうのではないのか、日本への怒りを沸騰させてしまうのではないのかという恐れがあった。そして、日本文化の流入を防ぐことで、韓国人の民族アイデンティティを守ろうとする狙いがあったのである。戦後も、日韓の間の度重なる外交問題は、民族感情を大きく揺るがす。外交問題が日本大衆文化の開放計画に大きく影響を与えたものとして、 2000年の教科書問題や靖国問題による開放の中断は記憶に新しいことである。それ以前にも、90年代初めの従軍慰安婦の問題などを含め、幾多の問題が日本大衆文化の禁止政策に影響を与えてきた。

ほんの10数年前まで、韓国では日本文化はタブーだった。それが今では……。
さて、中国も韓国と同じように日本文化の流入を制限して、「日本文化による自国のアイデンティティの影響力」を今も警戒している。

「ドラえもん」もダメ…日本のアニメの放映禁止に
 中国政府は13日までに、日本など海外のアニメ番組をゴールデンタイムに放映することを9月1日から禁止する方針を決定し、全国のテレビ局に通知した。中国紙、北京青年報が13日に報じた。
 中国では日本のアニメ番組が圧倒的に人気を集めており「日本文化に若者が感化されてしまう」(国内ウェブサイト書き込み)と警戒感を示す声が高まっている。今回の措置はこうした懸念に応えるとともに、自国の「貧弱」(同紙)なアニメ産業を保護育成する狙いがあるとみられる。
 禁止方針を決めたのは中国国内の映画や放送を管理する国家ラジオ・映画・テレビ総局。同局の「アニメ番組の放送基準に関する通知」は、午後5時から同8時までの間は、海外アニメ番組の紹介なども禁じている。
 しかし、国産アニメは最も視聴率の高い番組でも「『ドラえもん』の4分の1」(同紙)にすぎず、テレビ局関係者から不満の声が上がっている。
 香港の人権団体、中国人権民主化運動ニュースセンターは13日、「中国の青少年に大きな影響を与えている日本アニメ文化の一掃を狙った措置だ」とする見解を発表した。同センターは、「中国で放映された海外アニメ番組のうち日本のアニメが92%を占めており、これを懸念する声が上がっていた」と指摘。さらに、今年3月の全国人民代表大会(全人代=国会)でも日本アニメ規制論が取り上げられたとしている。(共同)ZAKZAK 2006/08/14から

それが、いまでは、日本の文化(アニメ・マンガ・Jポップ・ファッション・ドラマ……)が、韓国、中国の若者に大きな影響を与えている。

そして、韓国・中国政府が、最も日本的であって禁止したいものであったはずの「神社」は、動画サイトを通じて今やバンバン流されている。それを彼の国の若者は見ているのだ。(上記の記事等を踏まえながら下記の画像を見ると面白い)
瀬戸の花嫁 神社
ギャクアニメの傑作「瀬戸の花嫁」から、神社の場面。(デートの場面) ハングル文字の字幕。
けいおん 神社
「けいおん!!」から、神社で合格祈願する憂と梓。中国語の字幕。

けいおん 神社 中国語字幕
同じく「けいおん!!」これも中国語字幕。

らきすた 神社で参拝
「らきすた」 神社で参拝
らきすた 神社で
「らきすた」神社のシーン。主要登場人物が巫女役。
いぬかみっ 巫女
人気アニメ「いぬかみっ」で描かれる巫女。
けいおん 神社 狛犬
「けいおん」で描かれた「神社と狛犬」(上記掲載の神社とは別の神社)
けいおん 鳥居
「けいおん」鳥居
かみちゅ 神社
神社が舞台の人気アニメ「かみちゅ」
かみちゅ 手水
同じく「かみちゅ」の手水。
らきすた 手水のつかいかた
「らきすた」の一場面で出てきた「手水のつかいかた」のカット。
韓国動画サイト かみちゅ
これは韓国動画サイトの「かみちゅ」
中国動画サイト かみちゅ
これは中国動画サイトの「かみちゅ」
上記のアニメはどれもが、中国・韓国においても人気アニメだというから、多くの人が見たでしょう。
(ちょっと探っただけでもこれだけ拾える。他にいくらでも見付けることができるでしょう。)

そして、これらに登場する「神社」が、とてもいいものとして描かれている。
先輩や姉が大学に合格するように祈願するとか、今年がいい年でありますようにと願うとか、恋人がデートの場所としたり(夏祭り)、屋台が出ていて楽しそうとか、あるいは悪い悪霊を退治するとか、巫女さんがかわいいとか……。
日本人はこれを見ても普通のことだと思うが、「神社」を知らない外国人が見たら、きっとあそこは「いい場所」(それこそ「パワースポット」)なのだと思うに違いない。
それを、本来なら中国人や韓国朝鮮人が忌み嫌うはずの神社が描かれたものでも、何の抵抗もなく熱中して見ているのだ。
ちょっと前まで、官民挙げて日本文化流入を恐れていた国がだ……。
憎き日本人の象徴である神社、我等の民族アイデンティティを傷つけた神社、と心に刻んでいた民族が、何を思ってこれらの「日本アニメ」を見ているのか、「神社」をどう思っているのか、一度中国人や韓国朝鮮人に聞いてみたいものだ。


さて、私のアニメの見方は他の人とは少し違うかもしれない。
どのように日本文化が描かれているかという点に注目しながら見ている。つまり、日本をあまりよく知らない外国人が初めて日本アニメを見たら、どう思うかという視点に立っているのだ。
そういった点で注視していくと、結構新しい発見がある。
例えを挙げてみる。
らきすた おみくじ
「らきすた」神社でおみくじを買うという場面。凶が「bad」で、大吉が「Very good」って、面白い。
それに宗教的場所で占い的なものが日本以外にあるのだろうか。
多分ないと思う。こういうのが「神社」の不思議だ。
らきすた 雑煮
「らきすた」新年でお雑煮を食うという場面。見にくいが英語字幕で「雑煮」の説明がある。
Zoni-soup:a broth eaten with rice cakes.New Years meal 成るほど。
この後、親子がコタツに入ってお茶を飲みながらテレビを見るというシーンがある、こういう何気ないシーンも実に日本的。
フルメタル・パニック ハリセン
「フルメタル・パニック」から。ボケた人にハリセンで突っ込みを入れるというシーン。「ハリセン」が外国人に分かるか疑問だが、これを見て「ここは笑うところだ」と理解すればいい。こういうのも実は日本独特なことで、独自性こそが文化なのだ。(ガラパゴス化の回を)
フルメタルパニック ずっこけ
「フルメタルパニック」から。ボケたので全員が倒れるという「吉本新喜劇」のような場面。
ギャクというのは、その国その民族によってかなり違う。笑いのルールが分かるというのが、その国を理解する近道かもしれない。そういった意味で見れば、こういう日本人が見ても何でもないようなシーンも、意味深いということだ。

フルメタルパニック 温泉
「フルメタルパニック」から。「日本人のバケーションには温泉がかかせません」というセリフがあって、みんなで温泉にいくという回。外国人は「なるほど日本人は温泉が好きだな」と納得するだろう。
実際、日本といえば「温泉」を思い浮かべる外国人は多く、温泉目的で日本に来る観光客は多い。
フルメタルパニック 座敷で刺身
「フルメタル・パニック」から。旅館で座敷にみんなで座って、ご飯を食べるという場面。そして「刺身が舟盛り!」。「木で作った舟のミニチュアに、頭を残した魚の切り身が!」なんともファンタステック!と思うかも。
けいおん 「日本人ならコメ食え!」
「けいおん」から。登場人物の一人(律)が叫びます。「日本人ならコメを食え!」と。
動画サイトには英語、スペイン語、中国語など字幕が付いたものがUPされているから、世界中の人がこれを見ます。そして、日本人はコメを食うことは特別なんだ、と思うことでしょう。
けいおん I am Japanese
同じく「けいおん」から。私はご飯が好きと答える理由に、「だって日本人ですから」と答える。「Of course I am Japanese」の字幕が!
けいおん ご飯とみそ汁
女子高生が片手で箸を持ち、もう一方の手で茶碗を持ってご飯を食べる。(ご飯が大盛り!)
そして、ちゃんとお味噌汁を両手(片方の手を添えて)で飲んでいる。
こういう箸と茶碗で食べるという「日本式食事スタイル」も外国人には新鮮に映るかもしれません。
こんな何気ないシーンが好き。

上記で示した何気ないアニメの一場面も、実は「日本文化」を伝えるということに役立っているのです。
この点は、このシリーズでしつこく言っているところ。
日本アニメを世界に広めていくことは、、実は、「日本ファン」「日本贔屓」を海外で増やしているということなのです。
文化=国家、民族。
文化を守ることが、国を守るのです。

さてさて、アニメやサブカルチャーが国の発展に大きく関わると気付いた国があります。
それが中国です。
http://www.infochina.jp/jp/2009/0412/1MMDAwMDAwMDk1Mw.html、
中国のコスプレ大会は国家事業である。5億5000万人が見るコスプレ中継などの記事から。

中国文化部によると「21世紀は『ソフト、コンテンツの時代』。魅力あるコンテンツは国境を越えて影響しあう時代」と証言している。
08年までに中国では450ヶ所以上の高等教育機関でアニメ関連の専門科が設立されたほか、アニメ関連企業は5400社以上、アニメ関係の各種教育機関は1300ヶ所以上ある。またアニメ産業が集積する園区(産業パーク)は中国全国で30を越え、国家級のアニメ産業基地は17ヶ所以上もある。中国政府は民間との協力を積極的に推進したことから、近年中国のアニメは数々の大きな成果を収めたという。また、国内のオリジナル・アニメ作品数も急増、その受け皿となる巨大な放送ネットワークも形成、サブカルチャーの一大産業へと成長しつつある。特にこの3年は急速に技術・制作体制が整い、国内において複数のヒット作品が生まれているといい、こうしたコンテンツの供給側が育ったことから受け入れる視聴者側・市場も急速に成長しているという。
コスプレ大会を開催するようになったのとちょうど同じ時期、中国政府は、中国国産動漫の振興を促すために全国のいくつかの拠点に「中国国家動画産業基地」を建設している。そう、中国は国を挙げて動漫に関するあらゆる産業に対し、一斉に肩入れを始めているのである。
 04年、テレビや映画を管理する国家広播電影電視総局(広電総局)が国産アニメのテレビ放映を60%以上とするなどの目標を掲げ、アニメ産業振興を打ち出す。これを受け、数万平方メートルの敷地を有する生産拠点「動漫産業基地」が全国17カ所に誕生。アニメ企業も5400社以上に急増した。06年、広電総局は外国アニメのゴールデンタイム放映を禁止。日本アニメを締め出した。

映画や音楽やポップカルチャーといったアメリカ文化を世界中に広めたことが米国の発展につながったように、中国は自国の発展拡張(膨張)の手段として「ソフトパワー」に目をつけました。
中国のソフトパワー戦略は「パンダからサブカルチャー」に移ったのです。

それにしても、この規模でやられたら、日本のアニメも力負けして呑み込まれるような気がしてなりません。
実際、いろいろ記事を見るとその傾向はすでにあるようです。
そのうち日本アニメも、中国や韓国にあった神社のように跡形もなく消し去られているようなことにならなければいいですが……。

それにしても日本は何か立ち遅れているような気がします。
「文化」や「科学」を軽視する政府(事業仕分けは最悪)やサブカル・アニメ・マンガに全く理解のない世の中、「アニメの殿堂は税金の無駄使いだ」と喧伝しまくったマスコミ……。
「ソフトパワー」を軽視し過ぎている。

うかうかしていると、領土やカネや技術のみならず、こういった文化面でもそのうち中国に呑み込まれる時がくる。
そう思えてなりませんが……。

そういう危機感は持っていてもいいと思う。


さてさて、「アニメは日本文化を救えるか」はこれで一応終了。
反応薄ですが、どうでしょうか?

またネタが溜まったら続きを書きます。



アニメは日本文化を救えるか  第5回 こんな時代だからこそ、海外で日本文化を広めて日本ファンを増やそう。切っ掛けは「タイ焼き」から?……。

アニメは日本文化を救えるか 
第5回 こんな時代だからこそ、海外で日本文化を広めて日本ファンを増やそう。それが日本を守ることになる。


さて、このシリーズも5回目。
ここまでのまとめ。
日本のアニメの世界的な広がりや、アニメ文化を生かしてビジネスに生かそうといった、櫻井 孝昌 の著作を立て続けに読んだ。アニメ文化外交 (ちくま新書)、ガラパゴス化のススメ(講談社)などで、まさしくこれらの意見に賛同するばかりである。(日本アニメが海外に広く浸透していることが良く分かる)
日本において「ガラパゴス化」ともいうべき形で独自に発展したアニメ文化だが、これをコンテンツ産業として世界に発信していこう、というのがいまの識者の考えていることのようで、実際この流れに沿って進んでいるようだ。
外務省や産業通産省など官僚・国がアニメ産業に関わることを皆が強調しているが、これに対する不安感はどうも拭い切れない。これによって、この文化が衰退していくのではないかという危惧は多くの人が感じているところで、Amazonのレビューにもあった。
こういった点について、杉山知之著「クール・ジャパン 世界が買いたがる日本」(祥伝社)から抜粋してみる。
杉山知之著「クール・ジャパン 世界が買いたがる日本」

一方で、「国が支援・育成するというと業界がダメになる」「サブカルチャーが国に庇護されるのはいかがなものか」という声もある。この意見にも一理あるけれども、国が取り組むことには、金銭面以外での意味が大きい。
イギリス王室は、1965年、わざわざ女王陛下の誕生日にビートルズをバッキンガム宮殿に招いてMBE勲章を贈ったが、ビートルズだって当初はサブカルチャーだったはずだ。
端的に言って、これまでマンガ、ゲームといったオタクの好むものは、個人の進路としても産業としても、メインストリームではなかった。あえて極論すれば日蔭者扱いされていた。中学生くらいの子どもが「マンガ家になりたい」「アニメを作りたい」「ゲームデザイナーになりたい」などと言い出したとき、諸手を挙げて応援する親は少数派だった。
日本の場合「国や政府(お上)が勧めていないことはやらない方がいい」と、影響を受けやすいように思う。
しかし逆に、国が注目して本気で取り組んでいるとなると、人々の意識は確実に変わってくる。2004年、アニメやマンガなどの日本のコンテンツ法(コンテンツ産業の保護・育成及び活用の促進に関する法律案)が成立し、省庁が正面から取り組みはじめたことは、その意味からも大きい。
もちろん「オタクな業界」が、日本の将来を背負って立つという保証を国がしたわけではないし、就職後の安泰を約束したわけでもない。だが、日本にとって大切な産業であることをはっきりと国が認識したことを示している。
国外においては日本ファンを増やし、国内では表舞台の産業の認識を改める。こうした側面からコンテンツ産業を捉えることが欠かせないと思う。

確かに、これはこれでいいことではある。
ただ、私が憂慮するのは、アニメを必要以上に金儲けのためのビジネスとして利用することを第一優先させていいものだろうかという点にある。
市場を睨んで一般受けする無難な作品ばかりが作られようになれば、日本のアニメの独自性がいつしか失われていくことになるだろう。これでは本末転倒となる。
日本のアニメを経済原理に晒せば、例えば、ハリウッド映画のようにいつしか13億人の中国市場を狙ったものが作られ、一般受けの無難な作品ばかりとなるだろう。それが果して「クール・ジャパン」といえるのか、ということで、この辺はこのシリーズの一回目で触れたところだ。

では、私がなぜ日本のアニメを強く推すのかといえば、アニメを通じて日本文化が世界に広まり、それによって海外の日本ファンを増やすことになり、それがひいては「日本」を守るということにつながるからだ。
これはこのシリーズで一貫して訴えているところである。
だから、コンテンツ産業として、経済効果を狙って、といった形でアニメ文化を世界に広げようということとは、根本的に違う点である。

上記、杉山知之著「クール・ジャパン 世界が買いたがる日本」には、「日本アニメファンを日本のサポーターにしょう」といった内容のことが書かれている。その部分を抜粋してみる。

21世紀、国の力量を計る指標は、経済の規模だけではない。文化が発信する面白さや、その影響力が比重を増してくる。地球全体のキャパシティからも経済発展には限界があるが、文化力はそうではない。
コンテンツ産業が日本の強みであるという認識が広まって、注目されているのは喜ばしいことだ。ただ経済的観点からの数字に重きが置かれて、それ以外の価値があまり注目されていないように感じる。
本来なら「海外のアニメファンは日本のサポーターだ」と云えるような政策をとるべきだと思うのだ。国策として「日本のファンを作る」イメージだ。
海外のアニメファンは、日本文化は素晴らしいと感動し、日本に好感を持ってくれているのだから、まぎれもなくサポーターである。彼・彼女たちは、アニメだけでなく、さまざまな日本製品を買ってくれるはずだ。そんな見方があってもいいのではないだろうか。たとえば外務省や経済産業省を挙げて、大々的に「世界オタク大会」を開催するようなことを、なぜ行わないのかと不思議なくらいである。
政治家や官庁の人たちが、コンテンツ産業によって日本の存在感が示せることを認識したことで、振興策がとられるようになったのだから、首尾一貫が望まれる。前章で述べたクリエイター育成分野の問題を含め、このあたりの整合性が今後の課題だろう。

海外の日本アニメのファンが日本文化に好感を持って、日本サポーターになること、ここが重要だ。実際にアニメから日本文化に目覚めたという海外の人はかなり多い、という。こういう市民レベルでの日本文化の普及が、今の日本に必要ではないのか。

こんな新聞記事を読んだ。

中ロ、領土問題で日本けん制 「歴史認識」共有の声明
平成22年9月28日 毎日新聞から
 【北京=池田実】中国を公式訪問中のロシアのメドべージェフ大統領は二十七日、胡錦濤国家主席らと会談した。両首脳は第二次大戦終結六十五周年の共同声明に調印し、対日・対独戦勝の歴史観共有をアピール。資源・エネルギー分野などの協力文書にも調印した。
 大統領の訪中は二〇〇八年五月以来で、両国首脳の会談は今年五度目。沖縄県・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で、日中両国の対立が深まるなか、中ロとしては終結六十五周年の共同声明を出すことにより、領土問題で日本をけん制する狙いもあるとみられる。
 中国国営の新華社通信によると、会談で胡主席は領土問題などでロシア側の協力、支持を求めた。これに対し大統領は「戦略的提携を強化していきたい」と応じた。

領土問題で、中国、ロシアは手を組んで日本に対抗しようとしているようだ。そんな中で、日本の民主党政権の反米政策でアメリカは反発し、韓国は相変わらず反日感情を弱めることなく、オーストラリアは捕鯨・イルカ漁で日本バッシングし、東南アジア諸国は中国漁船衝突事件で日本の対応に呆れ返り、北朝鮮は日本にいつテポドンを撃ち込んでくるかわからない。
世界地図で環太平洋を眺めてみれば、これこそまさに日本は四面楚歌であろう。
反日勢力に囲まれて孤立無援の中にいるようなものだ。
それでもまだ日本に「東アジア共同体」って唱えている人がいるのだから驚いてしまう。
経済力も影響力も弱まり、政治も外交も存在しないような状態で、領土もカネも奪われていく日本。
これから何が日本を守っていくのか。(「憲法9条」って言わないで!)
それは「文化」しかないのではないか。
そう強く思うのだ。
世界中に「日本ファン」(「親日家」「知日家」)を増やすことが必要なのだ。

だから私のアニメの見方は少し違う。
例えば、「フルメタル・パニック!」というアニメがある。(これは「ふもっふ」を含め傑作だと思う。ハリウッドで実写版が制作予定)
これが動画サイトにupされているスペイン語字幕が付いたものに、登場人物のセリフの中に「宮本武蔵」が出てくる。そうすると、画面上には、その宮本武蔵の説明がスペイン語で紹介される。
フルメタル・パニック 宮本武蔵
こういうのが重要。これで、スペイン語圏の人が「宮本武蔵」を知る。もしかしたら、それに興味を持ち「そういえば『バカボンド』っていうマンガも宮本武蔵だったけ」「宮本武蔵のチャンバラ映画っていうのもあるんだって」といって内田吐夢監督の映画に興味を持つかもしれない……。
もう一つ「フルメタルパニック!」から。
今度は、主人公「いい国つくろう鎌倉幕府」と言おうとして「室町幕府」と間違い、他の登場人物が「鎌倉だろ」と突っ込む場面。これは英語字幕版。
フルメタルパニック 「いい国作ろう室町幕府?」
ここで、画面上に「This means make a good country……」と解説が入り、セリフには「muromachi shogunate」と入る。shogun(将軍)+ate(「…の職務」の意の名詞語尾)→将軍職、つまり幕府となるのか。
英語圏の人がこれを理解できるのか分からないが、「shogun(ショーグン)」って「サムライ」で一番偉い人じゃなかったけ、といった感じで「日本の歴史」に興味を持ってもらえればいいわけだ。
こういう一つのアニメからでも、「日本」へますます興味が湧いてくれる可能性があるのだ。

杉山知之著「クール・ジャパン 世界が買いたがる日本」はいい本なので、もう少し面白いなと思ったところを引いてみます。

フランスでは1980年代に日本のアニメからマンガへ広がっていくブームが起こった。きっかけは「めぞん一刻」。多少カットされた部分はあったようだが、基本的にアニメがそのまま放送されて、大変な人気を博した。
今や日本でも廃れてしまったキッチン・風呂なし、玄関とトイレ共同の下宿館を舞台に、若くて美貌の未亡人が管理人としてやってきて、優柔不断な主人公が恋心を抱くところから物語はスタートし、ライバルの登場やささいな事情からのすれ違いをドタバタと繰り返す。
このアニメもやはり日本製とは思われていなかった。古い下宿館が舞台だから、登場人物は靴を脱いで建物に入って行くわけだし、ヒロインは竹箒で下宿館の庭を掃いている。けれども、子どもたちは不思議と思わずに見ていたらしい。
魅力的な作品だったことは間違いない。大人になっても忘れられず、どこに国のものかと興味を持つと日本製だった。そこでオリジナルのビデオを取り寄せて見るというブームが起きたのだ。
私が驚いたのは、フランス人が、描かれた文化の違いをものともせず「面白い!」と受け入れていることだった。多くの日本製アニメは、無国籍だったり、西欧的な雰囲気への憧れが底流にあったりしたので、ヨーロッパで放送されても受け入れられるようにと思っていたが、「めぞん一刻」が受け入れられるとなると話はまったく違ってくる。
色濃く描かれた日本の生活習慣はともかくとして、そんなことよりも注目すべきは、本質的にこの作品が日本人同士の心の機微を背景にした壮大なすれ違いの物語である点だ
浪人生だった主人公は恋心を抱き続けても踏み出せない。別な女性から言い寄られても断れない。ヒロインの「管理人さん」も、主人公の思いに気付きながらも、優柔不断な態度を取り続ける。つまり「めぞん一刻」の世界には、日本文化そのものが凝縮されていた。
原作は青年誌「ビッグコミック・スピリッツ」に連載されたが、キスひとつするまで大騒ぎするような、青年誌よりも牧歌的な物語だった。日本人が見ても「まどろっこしい」と思うエピソードの繰り返しを、驚異的なストーリーテリングの巧みさで引っ張っていた。
それが、アニメとしてテレビで放送されることで、ときに高慢な自国の文化に誇りを持つフランスのような国にもブームが起こる。アニメは文化の違いを超えて、夢中になれる表現形態である可能性を示す好例だと思う。

絵柄や卓越した作画技術で、まず度肝を抜いたわけだが、二十一世紀になると日本的な心性や文化を含めて受け入れられるようになった。この数年、それまでの海外アニメと、注目される日本のアニメのどこが違うのかという分析がなされるようになった。
大勢の結論には、私も賛成するのだが、こういうことになる。
日本のアニメにしてもマンガにしても、まずキャラクターがいる。当然のことながら、このキャラクターたちには性格や個性の違いがあり、それぞれに生い立ちや背景が設定されている。作品中で語られない部分までも徹底的に作り込んでいるのである。そうしたキャラクターが複数登場して、その中で話が構築されてくる。
しかも、日本では、一話完結だけでなく、大河ドラマのように物語の中の時間が流れていくことが多いので、その中でキャラクターの個性や背景が絡み合って、事件が起きたりエピソードが語られたりするわけだ。
それに対して、とくにアメリカのアニメに顕著なのだが、海外のアニメではストーリーに重きが置かれている。主人公が置かれた状況の面白さや突飛さを生かすために、ストーリーが作られることろがあるので、キャラクター自身がそれほど緻密に描かれない。
なおかつ通常は一話完結なのである。
考え方や作り方がまったく違っているわけだが、やはり日本のアニメやマンガのほうが、海外の人もキャラクターに共感できるし、思いを込められるようだ。
感情移入して自分のことのように思い入れたキャラクターが、困難にぶつかったり悩んだりしながら目的を遂げていくのだから、作品の世界に引き込まれるのは当然だ。気が付けばすっかりハマっているということになる。

さらに、杉山知之氏は、これら日本アニメの根底には「日本の文化、伝統や日本の世界観など長い歴史の中で蓄積されたもの」があるからこそ、この隆盛があると書いている。
「日本文化」を守ることが大切である、と改めて思い知らされる。

さて、最後に、もう一つ。今度は「瀬戸の花嫁」という傑作ギャグアニメの英語版から。
瀬戸の花嫁 タイ焼き
「夏祭りの屋台でタイ焼きを買う」という場面(これだけで日本的風景)で、「タイ焼き」の説明が英語で付く。
「A Taiyaki is fish-shaped pancake with bean filling」とある。

次に「けいおん」から。登場人物のあずにゃんが「タイ焼き」を食べて喜色満面の表情を浮かべる場面。
けいおん Do you like taiyaki? 
英語字幕では Do you like taiyaki?と出る。

タイ焼きを見たこともない外国人が、「アニメに出てくるなんだこのタイ焼きという食べ物は?」と思うはず。これで日本の食べ物を知る一つの切っ掛けとなるのだ。(他の日本の食べ物でも英語で解説が付いていた。)
日本のアニメをよく見ると、食べ物を食べるシーンは異常なくらい多く描かれ、それが「日本の独自の食べ物」であることも多い。(例えば「たこ焼き」だったり「タイ焼き」だったり「焼きそば」だったり……。「流しそうめん」をギャグにしたアニメも見た。それに英語やスペイン語、ハングル語、中国語などの字幕が付いて、ネットによって世界中に配信されている)
それを登場人物がウマそうに食う場面を見れば、「あれは何だ、俺も食いたい」と思うはずである。
何度も言うがこう言うことが大事なのではないか、と思う。

大仰に「日本文化」を広めようとするより、こういった身近なことの方が「文化」というものは浸透していくのではないか、最近はアニメを見ながらそんなことばかり考えている。

さて「アニメは日本文化を救えるか」シリーズはあと1回だけ続けます。

アニメは日本文化を救えるか  第4回 文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。

アニメは日本文化を救えるか 
第4回 文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。

前回記事からの続き(少し追記しました。)

ここ近年やたらと「日本はガラパゴス化している」と必要以上に唱える人々が多い。
ただ、吉川尚宏「ガラパゴス化日本」(講談社現代新書)などを読むと、私はどうもこういった説に違和感を覚える。
とりあえず、本書の要点は3つで、挙げてみる。
1、日本製品のガラパゴス化「日本企業が作り出すモノやサービスが海外で通用しないこと」
2、日本という国のガラパゴス化「日本という国が孤立し、鎖国状態になること。地方だけではなく、東京を含め日本全体が鎖国状態となるリスクをはらんでいること」
3、日本人のガラパゴス化「最近の若い人のように、外に出たがらなくておとなしい性向のこと」
まあ、1は改善しなければならないし、こんなことはガラパゴス化なんて言葉を用いなくても、普通に経済・市場を考えれば、需要にあったものを供給しなければ経済的発展など望めないのだから、すぐに分かることだろう。(だから世界市場・世界規格に合ったものを日本が作るといったことに対しては、反対の余地はない。)
ただ、問題なのは2と3だ。
なぜか日本の問題を語るとときに必ず展開される「日本は閉鎖的」「内向き」という考え方、これにはもううんざりする。過去記事
そして本書を読むと、シリコンバレーで働く渡辺千賀の本を引用してました。(そんなにシリコンバレーで働いていることがエライのかね?)
過去記事でも書いたように日本を悪ざまに言いまくるこの人の記事を引くくらいだから、この本の傾向はよく分かるというものだろう。
また、日本人の若者が海外に出ることが減っているといったことで論を進めているが、これについても過去記事で書いたように、全くそんなことはない。それに無理にでも若者が海外に出ていくことを推奨しているが、なにか「外国に出ることがいいことで、日本にいることは悪い」といった思想を振りまくことに、何か意図的なものを感じてしまう。
そして、この本では「柔道をJUDOとして脱ガラパゴス化をしたから、グローバル化に成功した」などといったことが一章にわたって書かれている。
あまりにもバカらしいので、ここでは細かく検証しないが、まったくこの人には「日本の歴史・文化・伝統」の重要性が分かっていないのである。
まあ、気になった人は読んでみるといいでしょう。(この論説が正しいと思う人がいても、それはそれでいいですが……)

さて、では、「日本のガラパゴス化」を声高かに唱え、「日本の閉鎖性」を説く人たちのこの根底には何があるのでしょうか。
どうもその考えの根本には「日本の社会を解体しよう」「日本の国柄を変えてしまおう」といったものが透けて見えるのだ。(本人にその自覚はなくとも、その言説、その論陣は、「日本解体」そのもの。)
だから、いま日本にある問題、「格差がある」「景気が悪い」といったことをすべて「社会が悪い」「国が悪い、政府が悪い、役人が悪い」として、ならば「国のシステムを変えればいい」「今の日本の社会は悪弊そのものなので、すべて壊してしまおう」という思想が根底にある。
そして「日本人は悪だ」「皇室があるから政治が悪い」といったことを無意識のうちに国民に刷り込もうとしている。
だから「日本はガラパゴス化している」といって「改革」を訴える人々に私は警戒心を抱いている。

さてさて、そんな中で、この「ガラパゴス化」はすべていけないのではなく、逆に「ガラパゴス化」こそ日本再生のカギだと唱える本を読んだ。
芦辺洋司著 「超ガラパゴス戦略」(WAVE出版)
超ガラパゴス戦略
この本は良書。
私がこの本に感じた良い点は、「日本文化」の存在価値を大いに認めて、それを経済に、また日本再生に生かせ、と論じているところにある。本文にこうあった。

これまで、日本のビジネスについて各方面から「ガラパゴス化」が論じられてきた。そして、ガラパゴス化により日本の産業が衰退することを危惧するといった論旨のものがその多くを占めてきた。
しかし、本書はそれとは正面から立ち向かう、まったく異なる論を展開している。そして、現状から出発し、いま、国内およびグローバル市場で実際に展開している進化の法則を探りつつ、戦略的フレームワークの設定、戦略的ベクトルを提示した。日本のビジネスが絶滅しないための、さまざまな方法論も提案した。それをもって、戦略的ガラパゴスが目指した…

まさに「日本文化」を否定して「日本は閉鎖的」だと論陣を張る人々とは180度違うのだ。(第2回の「日本語とアニメ」でも触れたように)
それでは、「日本文化」「アニメ」に関する部分もあったので抜き出してみる。

日本人は弱点を補強することから物事を始めようとするクセがある。……弱点を議論する前に「強み」は何だろうかと考える。弱点を克服して戦うのではなくて、強みを生かして戦いに臨むのが戦略の常套手段だからだ。
ここまで、経済環境を取り巻く変化、改革に向けた外貨獲得と投資先国家への転換を述べてきた。この二つのアプローチを実施するにあたって、戦いに勝つ「強み」は日本にはないだろうか。
この問いに答えるためには、現状を客観的よく見据えて分析する知力、歴史に学ぶ姿勢、そして何より、この日本に潜在的に蓄えられた日本本来の強み・底力を再発見する作業が、まず求められる。それにより「ガラパゴスの種」を発見するのだ。
そして、この再発見の上に立って、何を国内に残し、何を外に出すべきかを選別するのである。この「選別」と「集中」を最も的確な方法で行い、最も有効な手段で成果につなげるためのフレームワークが「超ガラパゴス戦略」である。
日本は島国である。そして、日本語というかなり独特の言語を古来、国語としてきた。そのため、ヨーロッパ系の言語とはもちろん、中国や韓国など他のアジア圏の言ともかなり違いがある。これは、良い意味でも悪い意味でも“文化的垣根”になっている。
また島国であることに加え、江戸時代という三〇〇年にわたる時代を通じて、政策的に他の国々とはかなり限定的・選択的な交流しか行ってこなかった。そのため、技術にとどまらず、人々の感性・習慣・思考法など、文化全般に及んで独自性が強く、「ガラパゴス的」ともいえる特徴を数多く備えている。
これらの特徴はまた、モノ作りやサービスを飛躍的に進化させていく原動力である。そう考えれば、隔離されているという意味ではなく、商材やビジネスの競争力を生み出す独特の進化を可能にする環境といえる。これは大変な強みではないだろうか。
そして、これらの強みを縦横に活用し、日本発の製品・サービス・情報・ビジネスが世界を変え、世界をリードしていくことを今、目指そうというのが、戦略のコンセプトである。
つまり「世界を変える島国」となることが目的なのだ。同時に、それこそが、ほとんど唯一残された日本の生き残る道となるだろう。それを達成するためにここで提案するのが、超ガラパゴス戦略なのである。

超ガラパゴス戦略とは、日本の独自の文化や環境を積極的に活用し、世界に通用する産業を戦略的に生み出そうというものである。
その一つとして、真似をされにくい種を見つけて進出する方法である。わかりやすい例でいえば、日本のアニメは世界で高い評価を得ている。と同時にあのテイストそのものは外来種では模倣できない「種」である。

職人気質とサブカルチャー
それでは、独自の進化を育む土壌とは、いったいどのようなものであろうか。どのような環境の中で、それらは生成・発展し、あるいは、進化を遂げるのであろうか。
その問いに答えるカギは、作る側と使う側の両面から眺めると、見えてくる。そのカギとは、「職人気質」と「サブカルチャー」である。
日本のモノ作りを支えてきた価値観は、いわゆる職人気質である。職人は現代のマーケティング活動といった、市場のニーズを推し量り、「売れるものを作ろう」という動機に基づいて仕事をしない。自身がイメージした孤高のゴールにどれだけ近いモノを作ったか、それが彼らのモノを世に出す基準である。そのためには、あらゆる努力や工夫、ひいては修業もいとわないのである。こうして追い求めたモノは、自己満足の欲求に応え、ある意味で過剰品質な製品といえる。しかし、こういった作り手側の文化が、日本の市場や産業に対してさまざまな提案をしてきたのもの事実である。
こうした作り手側の提案によって生まれたモノは、コストや生産性を度外視した製品であり、金融資本主義的な見方をすれば、非常識で玄人ウケしかしないガラパゴス進化の産物と映るかもしれない。グローバル経営を誤解した連中からは、職人などというのは、古臭くて、まずははじめに駆逐すべき敵なのだろう。しかし、そういった表面だけを見て、世界に通用しないといいきるのは理論が飛躍しすぎていないだろうか。
ビジネスのモデルを考える際に、顧客(カスタマー)、競合(コンペティター)、自社(カンパニー)という三つに視点がある。
この中で最初に、かつ謙虚に考え抜かなくてはいけないのは、自社の視点である。つまり、わが社はいったい何を作りたくて、どうどうやって世の中に貢献しようと思うのか。その際に自社が持っている職人気質、つまり孤高のゴールは何なのか、を再認識することは、世界に共通するモノ作りの出発点のはずである。
さて、作り手側の文化の担い手が職人であるとするならば、サブカルチャーは使う側の文化といえる。この国には、すでに江戸時代のころより、サブカルチャーの重厚な蓄積があった。今、世界的な好評を博している東洲斎写楽や葛飾北斎、歌川広重などを代表とする浮世絵をはじめ、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・為永張水などの作者をもって知られる戯作、そして近松門左衛門や竹本義太夫の名で象徴される浄瑠璃、さらには歌舞伎も、みなこの時代の所産である。
これらはおしなべて、庶民の文化の佳日である。朱子学を精神的支柱とする徳川幕藩体制、武家階級による支配体制の文化とは異なる独自の文化、いわゆる、サブカルチャーである。江戸時代は、まさに、サブカルチャー爛漫の時代であった。
さて、「サブカルチャー」を精密に定義し、明確に位置付けすることは至難であるが、ここでは、一応、ほぼ一般的な理解に沿って、「メインカルチャー」(正統的・支配的な文化)の対義語として、「ある社会内で、その社会全般よは価値基準を異にする一部の集団を担い手とする文化。下位文化」と定義しておく。
ヨハン・ホイジンカ(1872~1945 オランダの歴史家にして文明評論家)は、人間を「ホモ・ルーデンス」(「遊ぶ人」を意味)と規定した。猥雑さをも呑み込むサブカルチャーを内に育む文化は、それを許容する雅量も備えているものといえる。それゆえ、そこから、重層的な文化が熟成し、基層文化の裾野も広がり可能性を限りなく保障する。
こうしたサブカルチャーの醸成は、その社会のありようを示す一つの指標である。なぜならば、その社会の所得水準にとどまらないある種の豊かさ、一応の平和、余暇時間などのゆとり、寛容な精神性などがサブカルチャーの発展の条件となるからである。
サブカルチャーが、まさに遊び心のあるところに芽生え、涵養されていくものとするならば、衣食住といった生活に必須の物資を得るだけが精一杯の経済圏では、モノに対する「こだわり」は生まれにくい。現代の日本は、社会インフラも衣食住といった、生活のベースとなるモノはコモディティ化している。したがって、自身が気に入ったモノを求めるとき、コモディティの部分ではなく、そこを超越した感性を満たすものを追求することとなる。
こうして追い求めたモノは、自己満足を満たしてくれる製品となる。こういった使い手側の文化が、日本の市場や産業に対してさまざまな提案をしてきたのも事実である。
ところで、感性を満たすモノ作りを推進する現代日本のサブカルチャーの一つとして、「オタク文化」と呼ばれるものがひそかに大きな意味を持っているのではないかと考えている。
「オタク」とは、特定分野のみに異様なまでの関心を示し、深く通暁した若者を指す言葉として定着した新語である。もともとは、熱烈なアニメ・マンガファンに対して使われ、この言葉で示される対象となる若者たちが、話し相手とお互いに「オタク」と呼び合う習わしがあることから、このように命名されたともいわれる。
そして「鉄道オタク」「アイドル・オタク」といったように、さまざまな分野のマニアに対して使われるようになってきた。現在では、「オタク」はすでに市民権を得て、その裾野を限りなく広げている。
さらには、、この潮流は国境を突き抜け、世界にまで広がりつつある。米国でも、自らを「OTAKU」と称する若者が増えている。また、2004年の「ベネチア・ビエンナーレ(国際展示会)」において、日本は「おたく:人格=空間=都市」というタイトルで、オタク趣味が秋葉原などの都市空間に与えた影響に関する展示を行い、大反響を呼んだ実績もある。
中略
欧米とはかなり様相の異なる文化圏に属する日本の、しかも、かなり閉ざされた世界に芽生えたオタク文化は、今や、インターナショナルとなった。そして、そこからの派生形として生まれたものが、キャクターに恋する「萌え」である。バーチャルで、命を持たず、血も通わない、二次元の世界上にのみ躍動するイリュージョンのような対象しか恋せないという新しい境地に達するオタクが増えてきた。
中略
アニメーション作品でいえば、日本のマーケットに合わせた作品がたくさん制作される。しかしユーザーはそれを受動的に享受するだけではなく、例えば、それに “コスプレ”といったような価値を加えてしまう。そして、それを海外のアニメファンがネット上で知ることによって強い関心を示し、海外に波及していく。そして、そのうちのあるものは、グローバルスタンダードの位置を占めるのである。
中略
このようなベクトルはどのように生まれるのかといえば、やはり、先に挙げた国民性やその国の文化など、不確定で、不可視なさまざまの要因に負うところが多い。そして、それらが複雑に絡み合い展開するところに発するものだ。ただ、そのメカニズムがある程度まで解明でき、把握できれば、戦略敵ガラパゴス化は可能になる。

まさしくこの通りだと思う。「職人気質とサブカルチャー」などなるほどと納得してしまう。

そして、第一回で書いたように 経済原理をアニメに導入すれば、文化性・独自性を失い、その価値を失う、つまり強みである「ガラパゴス化」が消えてしまうということだ。これは第二回の日本語にも通じることである。

文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。
この一言に尽きます。

さて、毎回何かしらアニメの画像を載せているので、今回も載せてみた。
小学校低学年の娘が見ていた「リルぷりっ」
(たまたま一緒に見たといっても、私は新聞を読み、不甲斐ない日中外交をする民主党の悪口をブツブツ言いながらだが……。)

今回は、十五夜が近いというので、「かぐや姫」を基にした話だった。
ユーチューブの動画サイトでは早速、英語の字幕が付いたものがUPされていた。
リルぷり
なるほど字幕では「プリンセス かぐや」とある。
リルぷり かぐや姫
ここで「かぐや姫」つまり「竹取物語」がアニメの主人公らの話と絡まって紹介されている。
リルぷり 月見
また、主人公らが「お月見」をする場面もある。
この回では、色取りの綺麗な「着物」や「扇子」、「日本の庭園」「日本家屋」など和風なモノが多く登場し、そして「十五夜」という日本の風習を通じて、「月」をめでるという日本人の心や精神までも、この愛らしいキャラアニメで何気なく紹介されていることになっていた。
興味深いのは、世界の子ども(大人も)がアニメを通して、これらの「日本文化」を見ることになり、日本最古の物語「竹取物語」も知るということだ。
日本人が見れば何でもない話だろうが、これを動画サイトを通じて世界中の人々が見ることになるのだから、毎回言うが、これが実にスゴイことなのだ。
またこれを、子どもが見るものだからといって馬鹿にしてはいけない。
海外の大人たちが、小さい頃「ドラえもん」や「アルプスの少女ハイジ」「キャンディ・キャンディ」などの「ジャパン・アニメション」を見て育ったと語っている記事はいくつも読んだ。またこれらの子どもが大きくなり、日本のアニメがハリウッド映画として作られたという話も聞いた。(「マッハGO!GO!GO!」や「鉄腕アトム」など)
そして重要なのが、かつて日本のアニメに育った外国の子供たちが、いまや大人になり「日本の伝統・歴史・文化に興味を持ち、「日本」を尊敬しているというのだ。
こんな形で「日本文化」が広まり、「日本ファン」が増えていることになっている。
こういうことが大事なのです。

それが結果、「日本」を守ることになる。
「アニメ文化」で「国・民族」を守る。
これが「アニメ・マンガで文化防衛論」なのです。

このシリーズは、まだまだ続きます。

 | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  └ カテゴリー
        └ 「アニメは日本文化を救えるか」シリーズ
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。