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蔵書の郷土史 復刻支援の記事

平成24年6月1日 日経MJ新聞から

蔵書の郷土史 復刻支援 図書館振興財団
公益財団法人図書館振興財団(東京・文京)は図書館が所有する郷土史関連資料などをデジカル化し、復刻出版物の書店などでの販売を後押しする。今秋から調査を始め、来秋をメドに提言する。古くなった辞書や百科事典などの資料の入れ替え促進も検討していく。蔵書の充実策が地域の書店や地場の出版社の活性化にもつながりそうだ。
具体的には、書籍を個別の受注に応じて制作する「プリントオンデマンド(POD)」やデジタル化を研究し、提言する計画。デジカル化した資料は図書館間での融通を促す。優先してデジタル化すべき郷土史資料などを選ぶほか、復刻出版する事業者を決める。2年目には財団の助成事業として資金を援助する。
郷土資料を手掛ける地方の出版社には、再販や復刻を自前でできる体力がない場合も多い。復刻する出版社を選んで支援することで、図書館で閲覧できる機会がより増えるほか、店頭に並べば出版社や書店の収益にもつながるとみられる。
また発行から時間がたった辞書や百科事典などの資料の更新などのあり方を見直すこと。入れ替えニーズが生まれることで、本を納入する書店の活性化にも効果があるとしている。
学識経験者や博物館や図書館員といった現場経験者、図書館の利用者ら5人程度を集めて調査研究を始める。同財団は国内に3000程度ある図書館を生涯教育の場と位置付けている。蔵書の充実など図書館の改善策を1年かけて練り、有効と判断したプランを2年目に実証実験する。同財団は財団法人図書館振興財団と特定非営利活動法人(NPO法人)図書館の学校の事業を統合し、4月に発足した。
復刻出版

郷土資料のデジタル化は進めるべきで、資料の保護・保存という意味でも重要なことではなかろうか。これは図書館主体となった話だが、本来なら、国・県・各自治体・大学・研究機関が支援すべきことなのではないかと思う。
そしてこの制度が成ったときは、真っ先に「新田氏」関連の資料をお願いしますよ。
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桜と花見と世良田東照宮の向き……。 その他まとめ記事

お花見に行ってきました。
毎年行く場所は決まっています。太田市尾島歴史公園です。
なにしろ「新田義貞公の像に桜」という感涙ものの組み合わせがあるからです。
新田義貞と桜
公園内には「世良田東照宮」や「長楽寺」、「新田荘歴史資料館」などがあり、「徳川氏発祥の地」なので「徳川義季の累代墓」や「新田家一族供養塔」もあります。

では、世良田東照宮の桜の画像を。
世良田東照宮の桜 1「群馬県一太いヨメイヨシノ」といわれる桜。
世良田東照宮の桜 2こんな説明も。
世良田東照宮の桜 3世良田東照宮の桜。
世良田東照宮の桜 4世良田東照宮の桜の正面。
世良田東照宮の桜 5世良田東照宮の桜の正面2。
世良田東照宮は、私の娘のお宮参りの神社なので、とても縁が深い。新田義貞と勾当内侍の出会いの場面(太平記巻二十)から名前を付けた私の娘も、斎藤佑樹が通った小学校へ通学している。元気で何より、参拝しながら家康公に感謝です。
そして、この向きで祈ることは、義貞公を礼拝することと同じことになります。
理由はここで、
7月2日は新田義貞の命日。そして、世良田東照宮の向き。
久能山東照宮が国宝になるなら、世良田東照宮も国宝に!

さてさて、公園内を奥に進むと
太鼓門の桜太鼓門の桜や、
三仏堂の桜三仏堂の桜や、
長楽寺の桜長楽寺の桜も見られます。

そして、奥まった場所に徳川(世良田)義季の累代の墓や新田家供養塔がある。
長楽寺 案内板2

長楽寺 新田家累代の墓新田家累代の墓
長楽寺 新田一族供養塔新田一族供養塔
徳川義季 累代の墓徳川義季 累代の墓

本当にここは、徳川家や天海の謎を解くカギが隠されている場所だと思う。
過去記事
「世界・ふしぎ発見!」の中から天海、光秀、日光東照宮、世良田などが紹介されたものをまとめてみました。
天海と新田一族の接点 新田義貞伝承を追う④
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その3  シリーズ第23回

地元紙・上毛新聞に縁切り寺「満徳寺」の桜の記事が出てました。
この寺も近くにある。
説明の記事  歴史ミステリー小説「東毛奇談」 第3章 4
早速行ってみよう。

木戸孝允の新聞記事が2つ出ていたので書き起こした。

平成24年2月8日の読売新聞に木戸孝允の記事が2つ載っていたので書き起こしてみた。

国立歴史民俗博物館(千葉県・佐倉市)が所蔵する、明治維新の立役者・木戸孝允(1833~77年)を祖とする木戸家の総計1万5000件を超える資料を整理した『旧侯爵木戸家資料目録』が刊行された。一部は公開されたいたが、今回の目録でその全体像が明らかになった。
資料のうち重要なのが、昭和天皇の側近だった、孝允の孫・木戸幸一(1889~1977年)や幸一の父で、木戸家の養子になった孝允の甥・考正(1855~1917年)らの日記。
孝允自身の日記は宮内庁が所蔵している。木戸家では日記をつけるのが習慣だったようで、整理にあたった国学院大栃木短大教授は、日記の習慣は「孝允の教訓」によって始まったと指摘する。
数え14歳でアメリカに留学した孝正は、母親に手紙で「私ハ日本之手紙が一ツもかゝれません」と訴えるほど日本文を書くのが苦手だった。甥の将来を案じた孝允は「必ず一カ月に1、2度手紙を書いて送れ」とノルマを課し、妹である母親とともに厳しく指導した。
しかし上達をみないまま、母親は1875年に死去。孝正は79年1月に日記をつけ始めた。「それは母親や孝允あてに手紙を書くことの延長だったのではないか」というのが田中教授の考えだ。
幸一も孝正の勧めで、12歳から日記を始めており、「日本文の習得に苦労した自分に経験から、子供たちに日記をつけさせたといえる」と田中教授。貴重な資料は、親子愛の産物だった。(早川保夫)

木戸「1872年・岩倉使節団時の木戸孝正と孝允(右側)」(画像は拾いモノ。読売新聞では少し違うものが掲載されているがポーズは同じ)
これを見ると、木戸孝允の体格がかなり大きいことが分かる。
日記をつけることが木戸家の家訓となったと本文にあるが、これがのちの東京裁判の木戸幸一の日記としてつながるのだから、歴史というのは実に面白い。

初の木戸孝允伝を山口の書店が復刊
1896年(明治29年)に読売新聞で掲載された、木戸孝允に関する初めての本格人物伝『松菊餘影(しょうきくよえい)』が山口県のマツノ書店から復刊される。
本紙副社長、編集主幹を務めた足立荒人が執筆したもので、原本は1897年刊。京都・伏見の寺田屋にいた坂本龍馬が奉行の捕り手に囲まれた際、後の妻となるお龍が裸のまま危機を知らせたという有名な寺田屋事件(1866年)の後、木戸が難を逃れた龍馬を「己も一ぺん裸体で御注進と云う様な、有り難い目に遭ってみたいがのう」とからかった話など、関係者に取材して得たエピソードを収録する。明治20年代の幕末維新観を知る上で貴重な一書だ。
限定300部で3月上旬販売開始。7000円。問い合わせはマツノ書店。

やはり木戸孝允・桂小五郎はいいよね。
現代日本が見習うべきは国作りをした「明治の元勲」ではないのか、といつも思う。
過去記事
1、桂小五郎のカッコいいところをどんどん書いていく! 
2、木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1
3、木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その2
4、木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その3。 木戸孝允・桂小五郎は本物の「憂国の士」であり、紛う方なき真の「サムライ」なのだ。

もう坂本龍馬はいいよ、「脱・龍馬」だ!
ゲンダイネットの記事はあまり引くたくはないが、これには同意するのでコピペしてみる。(ただし、橋下市長の教育問題に対する姿勢や愛国的思想には賛同する)

ついに橋下まで…「龍馬」を語る男がウサン臭い理由- ゲンダイネット(2012年2月3日10時00分)
 タレント弁護士崩れの男が、すっかり幕末の志士気取りだ。大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長が、「維新の会の船中八策を作る」と宣言した。船中八策は、大政奉還など、坂本龍馬が起草したとされる新国家方針だ。国政進出に向けた新たな政策づくりを龍馬の偉業になぞらえるとは、時代がかっている。橋下に限らず、龍馬を持ち出す政治家や財界人ほど、ウサン臭く見えるのは気のせいか。
 「二枚舌」の野田首相も「龍馬ラブ」を公言し、菅前首相も国会で龍馬を持ち出して「第三の開国」などと訴えていた。財界では、ソフトバンクの孫正義社長が大の龍馬ファンで知られている。
 「司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』のファンも多い。故・小渕恵三元首相やダイエーの故・中内功元会長などが有名です。政財界で『尊敬する人物』を聞くと、必ず龍馬の名前が上位にランクされます」(月刊誌編集者)
  かつて評論家の佐高信氏は、龍馬ファンの政治家や財界人について、「自らが何者かであると錯覚している」と喝破していたが、果たしてその通りなのか。それとも龍馬への単なる憧憬にすぎないのか。明大講師の関修氏(心理学)はこう分析する。
 「坂本龍馬は志半ばで倒れた。つまり、まっとうなことは掲げたが、実践に移すことはできなかった。掲げた構想を実践するにはマイナス面も伴うのが、本来の政治家の姿です。仮に龍馬が生き永らえていれば、後世の評価も変わったでしょう。『結果』がなく、後世に伝えられているのは『志』の部分だけ。だから、龍馬は改革者のイメージが強い。いわゆる“改革派”を気取りたい人にとっては都合のいい理想像なのです」 龍馬も勝手に慕われて迷惑しているに違いない。

なるほどね。「龍馬好き」の人はどうも軽薄に見えて仕方ない。サヨクが語る「平和」や、似非学者が語る「民主主義」や、拝金主義の経済学者が語る「グーローバル化」ぐらい薄っぺらいのだ。
過去記事 ドラマ「山田顕義物語」は「脱・龍馬」として意味がある。でも書いたように、もっと評価されるべき人物は日本にいくらでもいるはずだろう。

中でも木戸孝允は他の幕末維新の人物よりも不当なほど低く評価されているのではないか。
いまこそ再評価されるべき偉人だ。

ドラマ「山田顕義物語」は「脱・龍馬」として意味がある

2012年1月2日・TBS放送、「新春歴史スペシャル 知られざる幕末の志士 山田顕義物語」を見ました。
番組の番宣にはこうありました。「http://www.tbs.co.jp/program/mbs_yamadaakiyoshi_20120102.html

「市、志を高く掲げる人間になれ!」
知られざる幕末の志士 山田市之允(後の顕義)が松下村塾で学び得たこと─。

 主な舞台は、幕末の長州・萩。倒幕の志士として数々の戦いに参加し、後に司法大臣となった山田顕義は、当時まだ13歳、その名を市之允(いちのじょう)と呼ばれていた。国から忘れ去られたような村に我慢ができず、江戸へ行き人々の役に立ちたいと考える。しかし、肝心の江戸へ行く術がわからない。父の勧めで松下村塾へ入門し、生涯の師・吉田松陰と出会う。塾生たちとの出会いが、市之允の生き方を大きく変えていく成長物語だ。また、船越英一郎と中井美穂の2人が、山田顕義ゆかりの地、山口県萩市を訪ね、物語をナビゲートする。顕義の少年時代・山田市之允役は、Hey! Say! JUMPの山田涼介が演じる。山田は時代劇初主演となる。ドラマは学校を設立した山田顕義が、少年時代を振り返る形で展開、この山田顕義役に渡哲也、市之允の父、顕行役に神田正輝、吉田松陰役に合田雅吏、高杉晋作役に桐山照史(関西ジャニーズJr.)、市之允を陰で励ます一膳めし屋の女主人に泉ピン子が出演するなど豪華出演陣にも注目だ。

いろいろ突っ込みところもありますが、思ったよりもいい出来でした。松陰役の合田雅吏がいい味出してました。青年時代の松下村塾が中心で、物語の山場は松陰から贈られた扇でしょうか。
となれば、やはりこれも「継承の物語」となる。
以下、新聞下段広告に出ていた「日大の広告」から。
山田顕義

吉田松陰が門下生・山田顕義の元服を祝い、扇面に詩をしたため授けたもの。大意は「人とは異なる高い志を立てよ。俗流(高禄に執着する者)は共に論ずるに足らない。彼らは自己一身のことのみを考え、自分の死後も引き継がれるべき仕事は考えず、目先の安楽のみを追い求めている。100年という年月も実は悠久の歴史から見ればほんの一瞬にすぎない。君子たるもの素餐(功労がないのに高位高官につく)してはならない」

と説明があった。いいですね。深いですね。やはり松陰先生を出されたら、どんなドラマでも心動かされてしまうよ。

でも私が見たかったのは、桂小太郎・木戸孝允と山田顕義との関係なんですが、ここでは全く描かれていませんでした。(まあ山田顕義が松下村塾を巣立つまでの物語だから仕方ないが)
山田顕義が兄貴として慕っていたのは木戸であり、木戸も山田の面倒をよく見て、いろいろ役職に引き上げた。
過去記事 「木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1
木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その2
岩倉使節団として海外に出たときも木戸は山田をよく連れだって視察したという。
ほんと木戸孝允は面倒見がいい人だ。日本大学も木戸さんに感謝すべきだよ。(木戸さんは気の毒なくらい過小評価されている)

何はともあれ、歴史的ビックネームではない山田顕義を主人公にドラマが作られたということが重要。幕末を描いたドラマはいくらでもあるが、なぜか坂本龍馬がメイン。ヒドイものになると、明治維新が成ったのはすべて龍馬のおかげだ、みたいな変なものまである。(最近は、立案者の龍馬よりも実行者の後藤象二郎の方がエライんじゃないかと、思っている。) 司馬遼太郎の呪縛からもういい加減に解き放たれてもいいんじゃないか。もう龍馬はいいよ。
そういう意味でも、このドラマの意義は大きい。ほかにも注目されるべき幕末の志士・明治の偉人はもっとたくさんいるはずだ。それこそ松陰が言ったような「高い志を持った人物」が……。

日大の強力なバックアップで「山田顕義」のドラマが作られたなら、独協大学の支援で「品川弥二郎」のドラマを作ればいい。
ならば、群馬県の協力で「楫取素彦」のドラマを作ろうよ。
いまこそ、脱「龍馬」だ!

「ぐんま広報」で古墳や埴輪特集

平成23年12月号の「ぐんま広報」が古墳や埴輪特集だったので、テンション上がってしまいました。
ぐんま広報 はにわ1
以下、少し引いてみました。


古代ぐんまの東国文化
最新の文化や技術を積極的に取り入れ、東国中心地として大きく発展した古代ぐんま。各地に残る遺跡や古墳などから、当時いかに繁栄していたかが分かります。先人から受け継いだ東国文化の魅力を見つめ直します。

東国の重要拠点
3世紀後半から7世紀までは古墳時代と呼ばれています。当時は、近畿地方を中心に勢力を広げていたヤマト王権が、政治を主導していました。
現在の関東地方周辺は東国と呼ばれ、群馬は、ヤマト王権が関東から東北までの一帯を治めるための拠点として、重視されていたのです。県内では特に4世紀から6世紀にかけて、規模の大きな古墳が数多く作られました。

古代ぐんまの姿
5世紀から8世紀ごろの群馬では、主に朝鮮半島からの渡来人が伝えた新しい技術により、最先端の文化が栄えていました。古墳時代には、かんがい技術や金属製の道具などが発達したため、水田の大規模開発が可能になりました。馬の飼育や織物の生産などが行われたことも分かっています。また奈良時代にかけては、多胡碑などの石碑が建てられました。
今に残る古代の痕跡
県内には、1万5千近くの古墳があったと推測されています。中でも大型の前方後円墳は、近畿地方に次いで多いことが分かっています。埴輪の製作も盛んで、他の地域に比べ、人物や動物をかたどった埴輪が数多く出土しています。緻密な表現で、丁寧に作られているのものが多いのも特徴です。国宝の挂甲武人埴輪の他、県内からは貴重な埴輪がたくさん見つかっています。大型の前方後円墳や、出土した埴輪などから、大きな勢力を持った豪族が群馬を統治していたことがうかがえます。また3世紀から6世紀にかけて度々起こった浅間山や榛名山の噴火によって、水田や畑、集落などがそのまま埋没した遺跡も多く、当時の様子を具体的に知る手掛かりとなっているのです。

などと他にも結構細かく載ってました。
そして太田の天神山古墳も写真付きで紹介されていました。
ぐんま広報 歴史
過去記事 
1、国宝・武人埴輪の故郷はそこではありません。 歴史・文化遺産の放置は本当に許せない!
2、武人埴輪は「大魔神」の原型。東京国立博物館に展示中。国宝埴輪は群馬県太田市から出土
3、大発見。国宝・挂甲の武人埴輪は誰かと戦っていた!
4、 「新説!?日本ミステリー・関東・謎の日本王国」のまとめ、そして太田市
あたりにも書きましたが、東日本最大の古墳と国宝の埴輪が出土した土地なのに、それを生かさず放置状態って……。

あと古代の東山駅路が紹介されていました。

古代の高速道路? 東山道駅路
古代の日本は、畿内、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の行政区分に分けられ、それぞれに幹線道路が整備されていました。群馬は東山道に属していました。
7世紀ごろには、都を中心に駅路と呼ばれる広い道路が整備され、約30里(約16キロ)ごとに、乗用馬や宿泊・休憩できる施設が備えられた駅家(うまや)が設置されていました。役人・軍隊の往来、租税の運搬などに利用され、一般の人は使用できませんでした。また12メートル以上の幅を持つ道路であったことが分かっています。
群馬には東山道駅路が通過していました。現在の長野県から、安中市、高崎市、前橋市、太田市を通過し、栃木県へ抜けていたと考えられています。太田市にあった新田駅家は埼玉県へ向かう駅路との分岐点にもなっていました。
また遺跡や文献などから、時代によって道が変更されたり、新しく造成されたりしていたことが分かっています。
北関東自動車道の工事中に、東山道駅路と推定される遺跡も発見され、現在の高速道路と重なる部分もありました。


ぐんま広報 東山道

で、こちらは太田市役所発行「おおた広報」にあったもの。

「上野国新田郡庁跡」が国指定史跡に指定された。
「群馬県太田市天良町で発掘された貴重な遺跡。
上野国新田郡庁跡は、7世紀後半から9世紀前半にかけて存在した古代上野国新田郡の役所(郡衙(ぐんが))の中心施設でした。この郡庁の規模や配置は、上野国内の郡衙の具体的な施設を記した希少な文献である「上野国交替実録帳」(1030年)に記載されている内容と一致するため、新田郡庁であると確認されました。
また、通常の郡庁は一辺が50m四方の規模ですが、新田郡庁は約90mもあり、全国で最大であることや郡庁自体もほぼ全体が保存されていること、さらには周辺にも寺井廃寺や入谷遺跡などの郡衙に関連する遺跡と郡へ連なる東山道駅路などが発掘され、古代の役所の在り方を考える上で貴重な遺跡であることから、国指定の史跡として答申されました。」

また読売新聞・群馬版「上州探見」の記事には太田市教委文化課のコメントが載っている。

「やっと(全体の)位置がわかった程度。建て替えられたりしている建物の年代の特定や、郡庁の性格や機能を明確にするには、5年以上、調査する必要がある。周辺の開発が進んでいなかったため、他の郡衙遺跡より、中身が痛められていない。もっとデータが集まれば、機能面などで従来と違った角度が見いだせるのでは」とある。
鈴木史生記者からも「国史跡を受け、市は遺跡の保存整備に前向きだ。歴史の宝庫である太田市に、また一つ貴重な文化遺産が加わるのは、とても喜ばしい。(中略) これら関連史跡を含めた一帯の研究が進めば、かつての古代新田郡の中心地の全容も明らかになるだろう。史跡指定に伴う手続きなどの関係で、発掘調査の再開は秋以降になりそうだが、研究の進展が待ち遠しい。」と古代官庁の解明を期待するコメントを寄せている。

これは、新田義貞挙兵した生品神社のすぐ近くだ。ほんと結構、歴史遺産があるんですよね。でもね、何度も言うけど、貴重な文化遺産を生かさないですよね、太田市って……。(名物が焼きソバって)
そして、やっぱり「新田市」に改名した方がいいと思う。

「偉大な」日本史、再評価の時

平成23年11月 読売新聞のコラム「ワールドビュー」から。 

「偉大な」英国史、再評価の時 欧州総局長・鶴原徹也
キャメロン英首相が来夏のロンドン五輪を好機として英国を世界に売り込む宣伝戦に乗り出した。うたい文句は国名に引っ掛けた「グレート・ブリテン」。「英国は商売、投資、研究開発、スポーツ、観光すべてがグレート(素晴らしい)」と請け合う。
だが、国内の評判は芳しくない。保守系ザ・タイムズ紙は「今夏のロンドン暴動で傷ついた英国像の回復も図るものだが、『グレート(偉大な)』という言葉の乱発はむしろ反感を招きかねない」と懸念を示す。
懸念の源にあるものは英国人が自国の「偉大な」過去、特に世界随一の超大国だった大英帝国について抱く複雑な心理だ。植民地収奪・奴隷酷使を負い目としてか、英国人は概して帝国史に触れたがらない。学校教育は帝国史を深く教えない。
「帝国の英雄のほとんどが顔に泥を塗られている」。新著「帝国」を著した評論家ジェレミー・パックスマン氏は保守系デイリー・テレグラフ紙への寄稿で嘆く。19世紀のアフリカ探検家バートンは人種差別を非難され、20世紀初頭に南極点に到達したスコットは仲間を犠牲にしたと糾弾され、ボーイスカウトの創設者ベイデン・パウエルは愚か者呼ばわりされているーー。パックスマン氏は「大英帝国は自由貿易体制と議会制民主主義を世界に広め、今日の国際秩序のひな形を作った」として再評価を訴える。
偉人要覧「メード・イン・ブリテン」を今月出版した元銀行家エイドリアン・サイクス氏は「我が国に輝かしい過去があることを子供たちに知ってもらいたい」と話す。同書は近代物理学の祖ニュートン、「種の起源」を書いたダーウィン、電磁気学を積み上げたファラデーなど3000人を逸話付きで紹介。同氏にとって最大の偉人はシェークスピアだ。「インターネット、航空管制、世界経済の共通語となった英語の礎を築いたのだから」
小春日和の日にロンドン南東の旧グリニッジ天文台を訪れた。帝国時代の19世紀後半、経度0度の「本初子午線」通過点として国際的認知を得て、世界の標準時間を刻む地になった。天文台は時間と位置の物差しを与えて航海を容易にし、帝国の海軍、商船の世界展開を支えた。今では博物館となり、世界からの観光客が本初子午線をまたぎ、片方の足を東経、もう片足を西経に置いて記念撮影に興じている。学芸員は「確かに天文台は帝国とともにあった。すべては移り変わる。世界はより密接に結び付き、英国は小国になった」と静かに語った。
帰路、テムズ川を船で運ばれながら、ある感慨にとらわれた。たゆたう英国で出会えた人々の多くはそれぞれ素晴らしかった。

時代によって歴史上の人物の評価は変わるといわれる。当然のごとく左翼的な思想が強くなれば、帝国主義時代の英雄や偉人などは真っ先に「やり玉」に挙げられるだろうが、保守ぽいイメージのあるイギリスでここまでの事態になっていようとは思わなかった。
だが、読んでいて、これが余所の国とは思えなった。
本文に「帝国の英雄のほとんどが顔に泥を塗られている」とあるが、それでも日本のほうがはこれよりもヒドイのではないだろうか。なにしろ、「あの戦争」の後遺症で、進歩的文化人や左翼思想者が跋扈し、狂ったように歴史上の偉人たちの評価基準を180度変えてしまったからだ。
特に南朝方の武将たちはひどいもので、皇国史観によって利用されていた分、今では不当なほど低い扱いにされている。
それに、当ブログ的には高山彦九郎や中島知久平ら新田氏系の偉人達などはまるで「戦犯」扱いだ。
戦後民主主義全盛のころは、これらの歴史上の人物の名を聞くだけで、過剰的拒否反応を示していたという。
だが、もうそんな時代は過ぎ去った。いまこそ、新田氏系の偉人達の再評価をしてほしいと、思う。
そして、イデオロギー抜きで「南北朝時代」を再認識してもいい時期になったのではないだろうか。

それに、気になるのが、「明治の元勲」たちへの不当な評価だ。
第二次大戦の原因を明治維新・幕末まで遡らせて、その戦争責任を明治の元勲や幕末の志士にまで求めるといった風潮を作り出そうとしている学者どもが多くいる。そして、それを肯定化し、その論理を定着化しようとするNHKのテレビ制作者たちがいる。
これ基に番組を作り、本放送、3チャンネル(教育、今はEテレ)、BSなどで何度も繰り返し放送し、終わったかと思うと、また似たような内容の番組を際限なく作り続ける。
NHKの歴史ドキュメンタリーや歴史検証番組や戦争特集など、このサイクルが実に気味悪い。自虐史観なんてものではない、自国否定史観だ。

それに異常なほど坂本龍馬を持ち上げるのは何故だろうか。そこに反体制の英雄、コスモポリタンの先駆け、アナーキズム的憧れを抱かせるように描くのは何故だろう。
吉田松陰を歴史番組などで取り上げるのはいいが、その思想や「狂」の部分を取り除き、平等思想の教育者として、封建主義を否定したリベラルな人物として扱うのは何故だろう。
福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」というのも、人はスタートは同じだが、人の努力によってゴールは違うという意味で、貧富の差、賢愚の差は否定していない。(だから勉強しなさいというのが「学問のすすめ」だろう。) それをまるで、すべての人間が平等でなければならないといった空想的左翼思想者かのように論じるのは何故だろう。
諭吉は本来強烈な保守思想な持ち主であり、(ネトウヨのような)天皇崇拝・中朝蔑視・戦争推進論者だが、サヨク思想家にとって都合の悪い部分は「実は弟子が書いたのだ」とか、丸山真男のように保守的な部分は全部無視して、まるで進歩的左翼主義者のように仕立ててしまうのは何故だろうか。
日本の偉人・英雄はすべからく「サヨク」思想ではなければ、何か不都合でもあるのか。
つまり、いまだに日本は奇妙なサヨク思想に染まっているという証拠なのだろう。
要は、日本も上記新聞のコラムのような英国と同じ状態にあるということだ。

新聞のコラムのタイトルは「偉大な」英国史、再評価の時とある。
ならば、ここも、「偉大な」日本史、再評価の時 と是非ともなりたいものである。

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消えた二十二巻

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