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武人埴輪は「大魔神」の原型。東京国立博物館に展示中。国宝埴輪は群馬県太田市から出土。

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武人の埴輪といったらこれでしょう。

「挂甲と頬当・錣の付いた衝角付冑に身を固め,両腕には籠手をつける。鞆を巻いた左手には弓を執り,右手を大刀の柄にかけ,完全武装の東国武人の姿を表している。人物埴輪の中でもきわめて優れた作品で,熟達した工人の作品であることを窺わせる。埴輪では数少ない国宝の一つである。」(東京国立博物館  解説)
これ群馬県太田市飯塚町で出土している。

そう「新田肩衝」と「挂甲の武人」が東京上野で急接近していることになるのだ。
多分、私ひとりが興奮していることでしょうが……。
「新田肩衝」が新田義貞か一族の持ち物だったのではないか、というのは以前書いたこと。関連記事。
そして新田源氏の地に「武人の埴輪」が出土していることは、無関係なことではない。
源氏の名門がなぜ新田荘に移り住んだのかといえば、この地が古来より文明的に発展した地域であったからだ。それは埴輪からもわかることでしょう。
まず、歴史的背景としては、「11世紀ころ白河上皇の政治姿勢によって、源義国は都を去ることになり、自身の領地である下毛国足利荘に移り住んだ。義国は領地開拓に励んで、後に足利荘から新田荘に移り住み、開発に取り組む。義国が新田荘で没すると、長兄の義重が新田荘の開発を受け継ぎ、足利荘に残った次兄義康が足利荘を引き継いく」
そしてこの武人埴輪は兜に刀剣を身につけている。つまり鉄。当時の最先端の技術を持った工人がこの地に多くいたことになる。そういった技術が伝わっていた土地に、新田一族が住み着いたともいえる。新田次郎氏の小説「新田義貞」でもこの点が取り上げられていて、刀鍛冶やたたら師が登場し、物語の重要な役回りとなります。詳しくはここで

つまり、「新田一族」と「挂甲埴輪」は無関係ではない。そして新田一族の象徴としての「新田肩衝」がある。(あくまでも自説)
だから、私は興奮しているのだ。

さて、この埴輪は映画「大魔神」のモデルとなっているという。
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変身前


他にも「埴輪・犬」「埴輪・腰かける巫女」も同時展示されているのが、これらも東毛地区から出土されている。C0010502.jpg
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そして太田市には古代五世紀中期に作られた東日本最大の前方後円墳「天神山古墳」「女体山古墳」がある。
東毛地区は考古学的にも重要な地なんです。

しかし、これらの古墳ですが全く整備が進んでいない。しかも忘れられ去られようとしている。
これ、余りにももったいない。太田市をはじめとする東毛地区は、多くの文化遺産があるのに「文化不毛地帯」となっているのだ。
無理に観光地化する必要はないが、考古学や歴史学的にももっと整備が必要なのではないでしょうか。

「英語特区」「グンマ国際アカデミー」というキレイ事ばかりに力を入れるよりも、こういった文化事業に力を入れて欲しいですね。太田市長!関連記事
他の地域だったなら「博物館」が建ってもおかしくないことです。
「国宝の埴輪」「東日本最大の前方後円墳」なんて他にはないことなんですから。
全く手つかずだなんて酷過ぎる。

というわけで気になった方は、「大徳川展」のついでに埴輪も見てみてはいかがでしょうか。

追記  私は11月3日に行く予定です。

画像は東京国立博物館、ウィキペディア、コナミ から転載。
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東京巡りの1日


本日「大徳川展」に行く予定で、上野へ行った。
しかし、月曜日は休館日。
ガビーン。
調べてから行けって!
いつになったら、「新田肩衝」に会えるのか。
「新田肩衝」は11月4日までしか展示してないという。もう会社さぼってでもいくしかなくなった。
それに別館で、埴輪「挂甲の武人」も展示してあるというのでこちらも見たかった。
これは12月中までなので、こちらも時間がない。

というわけで時間が大幅に余り、歴史ミステリー小説「東毛奇談 第4章・本能寺の変のこと」に出てくる場所をもう一度訪ねてみることにした。
上野公園は「寛永寺」、「東照宮」、「天海遺髪塔」
あとは「日枝神社」と「愛宕神社」
写真も撮ったので、明日くらいに書こうと思う。

赤坂、虎ノ門から新橋あたりを歩いていたら、道に迷った。愛宕神社がなかなか見つからず、だいぶ歩きまわった。
歩いているときの最初の気分は司馬遼太郎の「街道をゆく」か、宮部みゆきの「平成お徒歩日記」だった。しかし目的地が見つからず歩き疲れてヘトヘト。あとになってみれば、目的地の周辺をグルグル回っているだけだった。
日枝神社へ行く道は愛宕神社の巫女さんに聞いたので、すぐに分かった。
「巫女さんありがとう」また伺いますよ。
というわけで、続きは明日。

そろそろ「東国原知事」批判、復活か?



(10月25日時事通信社、ヤフーニュースより引用)
百貨店の山形屋(本店鹿児島市)がインターネット上で、宮崎県産ブロイラーの炭火焼商品を「地鶏炭火焼」と誤って表示、販売していた問題で、同県の東国原英夫知事は25日、記者団に対し「取り扱いが非常に安易だ」と批判し、「今後、このようなミスがないようにしていただきたい」と述べた。同社については、公正取引委員会が景品表示法違反(優良誤認)の疑いで調査している。
 また、この商品に自身のイラストが掲載されていたことについて、同知事は「イラストは、わたしや県がお墨付きを与えたということではない」とした上で、「今後、リスクマネジメントを考えていかないといけない」と述べた。

東国原知事のイラストが入った商品がいまでも氾濫している。
ファミリーマートで開催していた「宮崎フェアー」は、東国原知事を全面的にフューチャーしたもので、TVCMも盛んに流されていた。
それがいまは値引き処分品となって山積みされている。
東国原知事人気にあやかろうとしたものだろうが、「企画倒れ」っていうやつだろう。
就任当時の支持率95%という数字自体が異常であり、ブームというものはいつかは去るものである。
そこで起こった「宮崎産地鶏」問題だった。
自分の顔が入った商品を売っておいて、自分に責任がないような態度は、この人の本性をよく表している。自分をメインに押し出していくならば、責任も負うことになるのに……。こういう問題はこれからも起こっていくだろう。
宮崎の地鶏については5月の時点で食中毒を出しており(埼玉県の家族が購入したもの)、このとき知事は「非常に残念です」と語り、更に宮崎の地鶏は安全だとPRに努める、としている。
さて、今年の5,6月ころに「東国原知事」の批判を書き続けてきたが、このときは知事支持派から私への非難のコメントを多く頂いた。ほとんどが「がんばっているんだから応援してやれ」といった内容のないもので、自分の名前を明かさない無記名の者が多かった。
私としては、「宮崎県をアピールするためにバラエティー番組に出まくっていたが、それは「そのまんま東」時代にチヤホヤされることがなかった欝憤を晴らすためにテレビに出ているだけではないのか」というのが批判の主なもので、いま考えると「亀田一家」の騒動に似たところがあると思った。
そして、彼がバラエティー番組に出る度に思う。「それって、宮崎県PRのため?実は自分のためでは?」と。
亀田一家のときにも書いたが「マスコミに持ち上げられ、いい気になっているとハシゴを外され、結局は叩かれることになる」
いま改めて読むと「この知事も同じような道をたどる」という予言のようなものを当時は書いていたのかなと、思った。
というわけで関連記事を。
「東国原知事ってどうよ?」http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-22.html
「批判コメントにコメントする」「http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-21.html
「批判記事にコメントする2」http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-23.html
「お前は、細木数子か、安国寺恵瓊か」東国原知事批判のときの会話。」http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-49.html


亀田興毅記者会見、速報。

10月26日9時より、会見が始まった。
感想、やはり謝罪すれば、流れは変わるな、と思った。記者たちが悪役のように見えた時点で、この会見は亀田側にとって成功だった。
これから同情論は増えていくだろう。以前の記事参照してください。
国民の声を代表しているかのような記者たちが、的外れなことをしていた。抽象的質問が多くて、あれでは答えづらいでしょう。
また、「なぜ父・史郎氏が出てきて謝罪しないのか」と質問した記者やコメンテーターがいたが、これは攻撃する相手、欲求不満を晴らす、目標を失って苛立っているようだった。

やはり、亀田騒動は一連のドラマのようですね。
これで、復活劇を国民が見たいとなれば、この「物語」は更に進んでいくことになる。
世の中の人々が思い、望んだように「この物語」はこれからも書きすすめられていくようだ。
この一家は、民衆が望んでいる「演者」となっているだけなのだろう。
(あくまでも私見)

歴史ミステリー小説「東毛奇談」を移動しました。

お知らせ
歴史ミステリー小説「東毛奇談」を全面的に移動しました。
第1章から順に掲載していますので読みやすくなりました。
また、字も大きめなので、見やすくなっております。
目次から各章に行けるようにしました。

http://daikiti431.blog112.fc2.com/


「亀田騒動」を考える。 違う切り口で5記事。

一連の亀田騒動について考えて、書き始めてたら、次から次へと書きたいことが湧き出てしまい、記事がまとまらない状態になった。これはいつものことで「新田次郎氏と斎藤佑樹くん」の記事のときみたいになってしまった……。
だが、箇条書き状態でも載せてしまうことにした。亀田騒動も一過性のことであり、期間限定の際物商品と同じで鮮度が大事。いま載せないと時期外れになってしまう可能性大なので、とりあえず載せてみます。
記事は5つ。
1 気軽な世間話として見たとき
2 「亀田批判」という標語として見たとき
3 正義を貫くための「悪」としてみたとき
4 ネットを自浄装置としてみたとき
5 運命論者の見解。彼らは「亀田」という役回りを演じた。
の5つ。

1、「亀田騒動」を気軽な世間話として見たとき 
ここ1週間、テレビのワイドショーは「亀田一家」の情報をどんなニュースよりも優先的に放送している。
テロ特措法よりもイラン日本人誘拐事件よりも重要視しているようだ。
私も「内藤大助×亀田大毅の試合」での反則の場面や記者会見の模様を何度見たことか。
でもこれも視聴者である大衆が欲していることなのである。
マスコミは世間が望まなければ取り上げることはない。視聴率、部数が上がるからこそ、取り上げるのである。その辺はシビアだ。
ある知識人は「マスコミが持ちあげたから、国民がのせられた」といった。それもある、確かにマスコミは煽った。しかし、これは、民衆が求めたものなのだ。求めなければ、マスコミが与えることはない。需要がなければ、供給はない。経済の原理である。要は、民衆が「亀田」という話の素材を欲したのである。

「亀田一家」に怒っていても、今や皆が心の奥底では、楽しんでいる状態なのである。特定の人物や事柄に、義憤を感じて、批難を浴びせる。人によっては怒りをぶつけて「溜飲を下げているだけ」という意見もある。それも確かなこと。まあ自分もその中の一人であることは間違いない。
この「非難の嵐」は、今年に入って、社会保険庁、松岡農相、阿倍総理、朝青龍、沢尻エリカ、亀田一家と切れ目なく続いている。この「集中攻撃」の傾向は近年顕著になっていると思う。
話題を求めているようだ。これらは、仕事先や近所の世間話としては格好のネタとなっているのだ。なんたって「言い放し」ができるから使いやすい。我々に実害はないし。だれも怪我を負わない。べつに悪口、陰口というわけでもないし、回りの人が傷つくわけではない。(当事者は大変だろうが)
「亀田は汚い」とか「沢尻エリカは無愛想でダメだ」とか「朝青龍は巡業しろ」「阿倍首相辞めろ」とかね。これは「いいお天気ですね」とか「ワールドカップで日本が勝ましたね」とかと同じことなのだ。挨拶替わりのお天気の話と同じで、まず否定することが少ない話題が世間話として求められているのだ。
大概、天気は見れば分かるし、日本中が応援するサッカーやオリンピックでは否定意見などはまず出ない。
これが、「亀田騒動」では、亀田一家を弁護する人は今のところあまりいない。(そのうち同情論が出てくるだろう。何にでも反動はある)
稀に、いたとしても、変な人、変わった人と思われるだけだろう。「いいお天気ですね」と話しをして「いえ、そうでもないです」と答えたら、変な人と思うでしょう。それと同じである。反対意見の少ない話題こそ世間話に求められる。
それに、専門家でもないので深い意見なんて必要としない。必要となれば、専門家の意見を拝借して、知ったかぶりをすればいいのだ。
まさに「渦中の人」の話題は格好の話のタネなのだ。しかも自分の「正当性」「正義」を主張するには、何か、世の中のルールからはみ出た者・事柄がいいのだ。
これが女子幼児殺害や宗教法人のリンチ暴行殺人、両親の幼児虐待というのでは話が重すぎる。生死に関わるような事件では、世間話の会話としては重すぎてしまう。
世間話と書いているが、これはネットの書き込みでも同じことである。

2、「亀田批判」という標語として見たとき
まず「古風堂々数学者」藤原正彦著の「標語人間」から
『……最も驚かされるのは、自分の頭で考えない、ということである。テレビでこう言っているから、新聞や雑誌にこう書いてあるから、先生、友達がこう言っているから正しいだろうと、ぼんやり思い込んでいる。情報量が多過ぎて、自分では処理できないから他人に依る、ということもあろうが、何より、大勢から外れ、大勢から浮くことを恐れているようなのである。ほとんどの人が似たようなことを言うのはそのためであろう。‹中略›標語のように流行の発想を受け入れているだけで、自分の頭で考えていない……』
これは、「自由」「平和」など美辞麗句に踊らされる人々を危惧した文章である。
この場合は「亀田を批判しよう」という標語である。
つまり「亀田を批判すること」がまず最初にありきなのである。
同情論もその変形でしかない。亀田を批判した人を批判しょうというだけである。切り口を他の人と少し変えただけなのである。
さてその問題も、やがて変質していく。問題の追及は、やがて本人から親へ、親からジムへ、協会へ、それを支持したマスコミへ。
どんどん事は大きくなり、事の本質を失っていき、どこに問題があるのかを見失っていく。
これは、どんな騒動のときでも起こる。協会が悪い、事務所が悪い、報道陣が悪い、親方、理事長の監督不行き届きなどなど。「イジメ」問題だって、いじめた人は非難されず、親が悪い、先生が悪い、学校、校長が悪い、教育委員会が悪い、県が悪いとなっていく。やがて、それが国が悪い、世の中が悪い、となる。世の中すなわち民衆なのであるが。
で、結局、時間が経つと、問題はうやむやになり何の解決手段はなくなる。
そして問題を起こした張本人の責任はどこかに消えてしまうのだ。
結局は「押し付け」、「逃げ」なのである。


3、正義を貫くための「悪」としてみたとき

大衆はなぜ「バッシング」する人を求めるのか。
人はどこかに「正義」をもっている。正義は「秩序」を保ち、それが「平和」をもたらす。
無秩序は、混乱を招き、平和を乱し、殺伐とした世界となる。
だから秩序を乱す者を悪人と見なし、鉄槌を加えなけらばならないと思っている。
それに宗教では神の存在を示すために、悪魔が必要となる。
それはなぜか「正義を貫くには悪が必要だ」からだ。著しく規範を乱した者に攻撃を加えるのはこのためではないのか。

では世間は何故これほどまでに「騒動」を取り上げるのか。
なぜネットで人はこれほどまでに「正義」「正論」を主張するのか。しかも感情的である。
「ブログ」「教えてgoo」「ヤフー知恵袋」など見ると、思った以上に各々が「正論」を論じ、「正義」を貫こうとした意見を述べている。まあたまには捻った意見や反対意見もあるが、それも当人の真情、信条を伝えようとしたものであって、その本人にとっての「正義」「正論」である。
「正義」は言っているうちに気持ちが良くなってくる。その言葉に自分自身も酔ってしまう。人は言葉に酔うことができる。しかも「正義」という名の美酒に酔いやすいのだ。
この「正義」という酒は旨くってよく酔うことができる。それに主張する手段、ネットを得たことも大きい。
これによって、同意見の仲間を見つけ一緒に美酒を味わうことができるからである。

だが、それにしては、「亀田一家」「朝青龍」「沢尻エリカ」なんて小さな「悪」ではないか、と思われるだろう。女性週刊誌を見たって、バッシングを浴びるのはどうでもいい芸能人だったり、スポーツ選手だったりする。
なぜか。
世間の人々は叩きやすい「悪」を求めているのだ。
いまの日本では陰惨な事件をニュースで流がし続けている。
だが盛り上がるニュースは、朝青龍がサッカーしただの、沢尻エリカが不機嫌だっただの、亀田大毅が反則しただのといったこと。
悪どいことを犯した人、卑劣極まりない極悪人、人を切り刻んで喜ぶような異常者など、糾弾すべき人間は多くいるのに。
最近でも、滝川高校で自殺にする追い込むまでイジメた張本人や神戸の高三自殺事件では「バイト」をさせ得た金を恐喝した同級生が何人もいた。光母子殺人事件の犯人は訳の分からないことをいって「精神障害」を主張している。米兵による婦女暴行事件は広島で起こった。これらなど、例を挙げれば切がない。
では、これらの悪人は、糾弾されているのか。
現実はそうではない。彼らの名前さえ報道されない。
非難されるべき人間は何かで守られている。少年法だったり、国際法だったり、加害者の人権だったりする。たとえ捕まっても塀の中で守られ、三度の食事が与えられ、十分な睡眠があり、生きることが保証されている。
神戸池田小学校で30人以上を殺傷した宅間守は、遺族が手出しできないことを塀の中で嘲笑していた。
女子高生コンクリート殺人事件を起こした主犯格の男は、別の戸籍をすでに手に入れて、来年には出所するという。あんな悲惨な事件をおこしたのに、まるで何もなかったようにだ。
それに見解決事件も多い。兵庫小2女児殺傷事件、世田谷一家殺人事件、などなど捕まらない犯人に、世の人々は苛立ちを感じているのだ。
みんな感じている。今の世では、正義が貫かれないことを。
義憤を晴らす場所がなく、歯がゆい思いを味わい続け、正義が果たされることがない、と嘆くしかなくなっている。どこかにこの怒りをぶつけたいと思い続けって、納得がいかない事ばかりで不満がたまりながらもニュースを見る。
そのとき格好のはけ口が見つかる。これらの「騒動」が起こったときに、このストレスが突如として噴き出していく。「騒動バッシング」とは民衆の怒りが変質した形なのだ。
そう、分かり切ったこと(亀田、朝青龍なんて分かりやすいルール違反者)に鉄鎚を加えようとしているのではないか。大衆は何らかの分かり易い「贖罪の羊」を求め、そこに欲求を満たし、怒りをぶつけているだけではないか。(あくまでも私見)

4、 ネットを自浄装置としてみたとき
昔、日本では「ムラ」「集落」が人々の行動を相互に抑制し、これが世の中の規律を守っていた。武士では「家」「氏」がその規範となっていた。厳しい「決り事」である。それを守らなければ、そのコミュニティーから追放される。
近年までは、「隣組」「学校」「地域」などが社会集団の機能を守る役割を果たしていた。
しかし社会意識の変化や社会構造の変革が、社会集団の規範を守るものを崩壊しつつある。
いま現在、世の中の規律を守るべき機能が働かなくなってきている。「学校」「家庭」の秩序は崩れ、犯罪や事件は凶悪化している。世の中はまさに、法にはずれ道理の通らない「無法地帯」と化しているのではないか。犯罪を裁く法律はあっても、犯罪者には軽微な罰しか与えらず、結局は野放しとなっている。「悪」がはびこり、正当な罰が与えられない世界こそは「無法地帯」である。それに大衆は、それを取り締まるべき司法や警察にどこか「生ぬるい」ものを感じていて、いまや信頼を寄せていない。また、それを追及しないマスコミにも世間は歯がゆい思いを感じているのだ。
多くの人々は「正しい世界」が行われていることを期待している。そして世の中に秩序を求めているのだ。
ではだれが悪を正し、なにが世の中の規範を守るのか。

あらゆる機能が崩壊しつつある現代では、ネットがこの機能の一役を担うとしているのではないか、と思う。
新聞、テレビなどのマスコミではないだろう。これらはすでに情報を仕分けし峻別して、そこにコメントを付けて伝える手段だけとなっている。
悪に制裁を加えようとしているのは、ネットである。
凶悪な犯罪を犯した未成年の実名はネットに流れる。卑劣な性犯罪を繰り返す犯罪者の顔がネットで流れ、全国の人々が瞬時にそれを知る。
ネットでは、卑劣な犯罪者を糾弾するように叫んでいる。もはやこの声に押されるようして、実社会を動かす原動力になっている。(「ネット上では」、とか「ホームページによります」と、といったマスコミ報道が多いことがその証拠)
政治も世間の声をネットで得ている。行政機関がネットの声に押されるような形で話が進んでいる事柄もある。
もはや法や人権を恐れてマスコミがしないことがネット上で行われているのだ。
このネットの力はますます強くなっていくだろう。
ネット上では、「騒動を起こした人」への非難の声は大きい。「亀田騒動」やその他の事が近年にないほどを大きくしているのは、このネット情報が発達したからだ。
では「正義」を訴えるネット上の民衆の声は「悪」を糾弾し排除していくことがでるだろうか。
ネット上で起こった「悪」への非難の声は世の中の浄化となっていくのか。
そして、ネットは社会の新しい自浄装置となっていくのだろうか。
ただしこれが正しい世の中であるのかは、問題となるが……。

5 運命論者の見解。彼らは「亀田」という役回りを演じた。

さて、観点を変えて、「亀田騒動」は一つの物語であると前回書いた。
運命論者の私には、この騒動の一連の流れも「予定調和」のようでならない。
すべての出来事は神があらかじめ定めたものである、というのが予定調和の趣旨である。http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%BD%C4%EA%C4%B4%CF%C2
人は誰もが生まれながらに、何か世の中での役割を持っていると思っている。
だれもが相互に影響しながら生きている。そこで、運命論である。
運命論……宿命論ともいう。この世の人事や現象の進行は、すべてあらかじめ、定められた運命によって支配されているとする人生観。人間はこの運命を変えることに対しては無力なので、厭世観に通じる一方、その乗り越えを目指すロマンテックな英雄主義にも通じる。運命の支配という前提で一切の偶然性を排除する場合は決定論に近くなる。

歴史的にも新田義貞が無念のうちに死んだのにも意味があるし、足利尊氏が戦いに明け暮れた人生も、運命、宿命である。
明智光秀が本能寺の変を起こしたのにも意味がある。あの役回りを演じる人がいなければ、豊臣秀吉も徳川家康も違う運命になっていたはずだ。
坂本竜馬があの時点で暗殺されていなければ、明治維新は違うものになったはずだ。
これらの例え話は唐突だが、あえて歴史ものにした。だが、身の回りに起こることだって、相互に関係しあっているはずで、それも何らかの「運命」に導かれていることなのだ。
そういう意味でいけば、「亀田騒動」もひとつの「運命」となる。栄誉も没落も非難もすべて「運命」「宿命」であって、それらひっくるめてワンセットの「物語」を我々は見ていることになるのだ。

というわけで、少しずつ観点を変えて「亀田騒動」を書いてみました。
どの記事がよかったでしょうか?
どれも変? 西野氏くらい的外してますか?
でも10月22日「読売新聞」文化面の荻野アンナの記事よりも、少しは深く掘り下げれらたかと思う。

亀田騒動に考える、世間が欲したもの。 その1


父・亀田史郎、長男・興毅、次男大毅の亀田一家、相変わらずスポーツ紙やテレビのワイドショーを騒がせていますね。
それに、ここ数日の亀田一家の「空回り」はどうしたんでしょうか。
記者会見、内藤大助宅に謝罪、することなすことが全て逆効果。火に油を注ぐとはまさにこのことではないでしょうか。私は謝罪の場所こそ悪いイメージを払拭するチャンスだと思っていたんですが、それらを自ずからことごとく潰してしまう結果となった。
切腹を持ち出したのなら「武士」らしい潔さ、またスポーツマンとしての精神をそこで示せば、難局を打開する手立てになるかと思ったのだが……。やはり亀田一家が持っている姑息な精神をさらに露呈しただけだった。
あまりにも不器用過ぎる。(ボクシングを含めて)
私は思った。もし、大毅が、試合前の大口叩いた勢いと情熱をもって謝罪をすれば、それはそれで世間に伝わるのではないか。「すいませんでした。切腹はしませんが、土下座します」と大毅本人の声で言えば良かったのではないか。たとえ、許されなくても、流れは違った方向に向いたかもしれない。
謝罪の場所で無言はいけない。あれなら、むしろ出てこない方がいいくらいだろう。必要なのは真摯な気持ちであって、その場しのぎの弁明ではない。
まず、世間はいま何を望んでいるのかを把握した方がいい。大衆の声を無視してはいけない。観客から起こった「切腹コール」の意味を知ることだ。 〚前回記事など参照〛
この一家に取り巻きの人々はその辺のことを助言する人がいないのか。それに、言われ尽しているが、もう父親は前面に出てこない方がいい。父親が出てくればくるほど、どんどん悪い方向に向かっている。すべての悪事は彼を元に起こっているのだ。
このまま「批判」の底なし沼にはまって抜け出せなくなるだけだろう。
朝青龍はモンゴルに逃げることが出来たが、この一家に逃げ込む場所はないのだから。

さて、この騒動の一連が「一つのストーリー」になっているようだ。
だれかがシナリオを書いたような展開でもあり、また予定調和でもある。
「英雄」だと持ち上げてといて、頂点に立ったときハシゴをはずして孤立して、非難を加える。
これらが、一つの物語となっている。この一家が有頂天になり「親子鷹」と美談として持ち上げられていたときから、すでにこの没落は予定されていたことなのである。それはある程度予想されていたことでもあり、また大衆が望んだことである。
彼らはそのことを知ってか知らずか、悪乗りし、暴走し、世の規範を逸脱した。
普通の人なら、ある時点で気付くはずだ。これは神輿に乗せられているだけだと。
しかし世間に無知な彼らは、世間に見放されてから、初めて自分らの置かれている位置に気づく。
また彼らの「愚昧」が一層の悲劇を招いているのだ。いま彼らは世の中を彷徨している。
そうなると、我々は「教訓めいた悲劇のドラマ」を見ているかもしれない。愚かな一家の盛衰物語を。
このシナリオはTBSが描いたものではない。TBSもこの物語では一部分でしかない。

これは世の中の人々が求め、欲し、描いた物語なのだろう。

亀田一家って、その他雑記。

「亀田批判をした観客を非難したキングコングの西野」に何癖をつけた私に反論はなかった。(なんのこっちゃ)
前回の記事

ここから何らかの反応があるかと思ったが、アクセス数の割にコメは少なかった。
そこで、西野公論を読んだ方々のブログを読んでみた。

大変驚いた。

西野氏の意見に賛同し、褒め称えているが人が案外多かった。
「へーこんなので、感心するんだ」って、半ば呆れ、半ば「そんなものか」と痛感した。
西野氏の言いたいことは分かる。しかし私に言わせれば「浅い」のである。そしてその考えに共感した人は「浅はか」なのである。
はっきり言って私、ケンカ売ってますね。亀田の試合前の記者会見ぐらいの勢いでしょうか。
また「東国原知事批判」のときみたいに戦いたいなー。でも反論が出るほどの問題じゃないか。

さて、記者会見をしたが、全く反省しているように見えない亀田一家の今後は気になるところ。
でも、私がいま一番気になっているのは、「サンデージャポン」で内藤選手本人を目の前にして文句をいった高橋ジョージ。彼はこれからどうなるのか。三船美佳は肩身の狭い思いをしながらテレビに出るのか。「スッキリ」でテリー伊藤と一緒に出ていて、気まずい感じだった。
それに、TBSアナウンサー批判など、亀田一家の周辺がいろいろ面白くなってきました。私にとって、亀田の一件は人間観察、世相の動向を見るのに、とても良い題材となっています。

ところで、卓球の福原愛がトンチの利いたコメントをしていた。北京五輪代表予選内定への予選に際して、「私は負けても切腹しません」と記者団にいったという。
おっ、福原愛もそんな気の利いたジョークがいえるような大人になったのか。
福原愛と亀田大毅は18歳で同い歳。ということは、斎藤佑樹くんと同じ年代か。
うーん、同じスポーツマンなのに、これらの人の違いはどこにあるのか考えてしまう。

「亀田批判をした観客」を非難したキングコングの西野

人気お笑いコンビ「キングコング」の西野亮廣(27)が14日、自身のブログ「西野公論」で王者・内藤大助が、反則を繰り返した挑戦者・亀田大毅を判定で破ったWBC世界戦について「理由は何であれ、『切腹』を煽るのは絶対に間違っていると思う」と、試合後に『切腹コール』をした観客や『切腹』について質問した記者を批判した。
 ブログでは「あの会場で『切腹コール』をした多くの人達やあの質問をした記者さんは絶対に間違っていると思う。切腹コールなんてした時点で、その時の亀田大毅選手と同じレベルだ。『切腹』なんて簡単に言っちゃいけないのだ」と明かしている。最後は「子供が観てるのだ。その姿を。『切腹コール』で盛り上がる大人の姿を」とつづっている。10月14日産経新聞、ヤフーニュースより引用。

さて、この記事を読んで、なんて的外れな意見だと思った。
これが、一般の人の意見なら、別に文句は言わない。だが、これを発言したのが有名人(?)、空気の読めない芸人、だということで噛みついてみたい。(最近は何にでも噛みつく、狂犬病かっ!)
亀田に対して「切腹」を求めた観客や報道陣が悪い、といった意見だが、まず、「負けたら切腹をする」と言い出したのは亀田大毅自身である。しかもそれを相手の内藤大助さんにまで強要したのである。これが事の起こりで、ここから「切腹コール」につながっているのである。
それに、なぜ「切腹コール」が起こったのかを考えるべきだ。
観客や報道陣は、亀田に対しほんとうに「切腹」や「死」を求めているのではない。自分の言ったことに対しての責任を求めているのだ。こんな言動が許せないからこそ、人々は「切腹しろ」と迫っているのである。いいですか、ほんとうに「死ね」と迫っているのではないし「腹を搔っ捌いて内臓が見たい」わけではないのだ。
ただ単に、大口叩いた本人へ責任を迫っているのだ。政治家でも、会社でも、人は発した言葉に責任を負うのだ。これは、実社会のルールである。特に亀田は必要以上に「切腹」にこだわったのだから、その点に対して一言の言葉がないことに、怒っているのだ。
それに金を払って見てる観客は敗者にも何かを期待している。敗者に対して「敗北者の美」「潔い負け」というものも求めているのだ。この会場にいた人々は、亀田には「負けを認めて潔い態度」を期待しているのだ。後味の悪い人物への非難である。悪役だからといって逃げることは許されない。


世間が特定の人物を非難するときには、そこに至るまでのいきさつがあるものだ。朝青龍がモンゴルでサッカーをして責められる前に、数々の所業があった。沢尻エリカは不機嫌な舞台挨拶の前に、それまで見せてきた愛想のないインタビューがあった。
数々の行為の積み重ねがある時点で一気に噴出して、批難の対象となるのだ。
それは、「それ見たことか」という形で現れる。亀田のこれまでの「経緯」を観客も記者も知っている。そしてテレビの前の人々も熟知しているのだ。
まさしく今回の試合終了時がそれで、亀田へのあらゆる非難の声が「切腹しろ」というの中の隠れている。これを受けての「切腹コール」となって表れたのである。
これは、負けたからといって「健闘を称え合わず、逃げるように会場を去ったこと」への批判である。しかもこのとき、大毅は飲んでいたジュースをプーと吹いたのだ。(「なっちゃんのアップル」味だった。こんな態度許せない)
前にも書いたが、負けと分かったのなら、チャンピオンと握手でもして、「すいませんでした」とその場で謝れば、彼の評価は一変で変わったと思う。(前回の記事)

「切腹コール」には様々な意味が含まれているのだ。

だからその観客や視聴者の望んでいることの本当の意味を知らずに、そこに批判を向けるのは見当違いである。
亀田一家を持ちあげたメデイアを批判すべきことだが、西野氏が観客や記者を非難するのは、的はずれなことである。

さて、お笑い芸人に必要なのは、「場を読むこと」「観客は何を望んでいるか」を的確に読むことだ。となると、この西野氏にはその能力がないということか。
子供が見ているから…ということも書いてあるが、悪態をつく人間、大口を叩く人間が結局カッコ悪いことになる、ということを子供に教えるにはいい材料だろう。この光景を見せて、「なぜ彼らは批判されているのか」を大人が説明してもいいと思う。だから子供には見せるべきだ。
それに「子供に見せていいのかなどと、お前が言うか?」とも感じた。
西野氏のやっている番組はどうなのだ?
「はねとび」は子供に見せていいのか?彼らの番組はイジメを助長してないか?
西野氏の芸(芸と呼べるかどうかはまず別にして)が子供に見せられるものなのか?

本人は気軽な気持ちで「観客批判」を書いたつもりだろうが、観客の声を無視した意見はどうも気にいらない。
お笑いライブでも面白くなかったら、観客から「金返せ」などとヤジが飛ぶ。客の声に応えることができなければ「ヤジ」が飛ぶのだ。
亀田の場合には始まる前に観客を十分煽っているのだら、これが「切腹しろ」とヤジられても仕方がない。しかも、あんな反則だらけの試合だ。「金返せ」「反則するな」が「切腹しろ」という言葉の中に含まれているだけなのである。

追記   まず「切腹」とは武士の名誉ある死である。亀田にその言葉を持ち出すなというのは前回書いたこと。本当はここからやりたいのだが、時間がないので割愛する。それに「浪速の弁慶」なる名乗りもヤメテもらいたい。弁慶は「義」の人である。亀田一家に一番ないものだからだ。



歴史ミステリー小説「東毛奇談」掲載完了のお知らせ


歴史ミステリー小説「東毛奇談」掲載完了のお知らせ

「東毛奇談」は原稿用紙1000枚ほどのものを、約5か月掛けて、66回に分けて記載してきました。
これで、すべて掲載が終わりました。
毎日の習慣のようにしていることが終わってホッとしたような感じもしますが、少し寂しいような、複雑な心境にもなりました。
さて、「東毛奇談」の続編の構想、資料集め、新説・奇説の展開など、こちらはほとんど出来ています。しかし、どのように文章化していくかで大変悩んでおります。
なにしろ筆力がないので、どう考えてもこれを小説化していくのが困難な感じです。
ここで、上手く小説化できるという奇特な方が名乗り出てくれればいいのですが……。
共同執筆? それとも丸投げ?
何か、上手い方法ないですかねー。

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消えた二十二巻

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