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「新説!?日本ミステリー」で放送している「さきたま古墳群」へ行ってみました。

テレビ東京「新説!?日本ミステリー」(火曜20時から1時間)が放送されてから、「日本王国」「関東・謎の王国」なんていう言葉でやってくる方が大変多くなっています。
これは「世紀の巨大プロジェクト 関東・謎の日本王国を暴く!?」の内容を少しまとめて書いたからだった。(これは毎週必ず放送される) そのときの記事

関東・日本王国1
かつて関東平野に「日本王国」が存在していたというもので、その証拠となるのが、群馬県から埼玉県にまたがって存在している古墳群だという。

そこで、仕事の関係で埼玉県熊谷市に行く用があったので、ついでに行田市のさきたま古墳群へ行ってきました。(車で15分くらい。群馬県太田市からは1時間くらい)

さいたま古墳公園案内図

さきたま古墳公園 「行田市の市街地から南東へ約1kmにある「古墳群」は、大型古墳が集中していることで全国的に有名で、昭和13年8月に国の史跡として指定を受け、「さきたま風土記の丘」として整備、活用されていました。中でも丸墓山古墳は日本一の円墳といわれています。また、稲荷山古墳から発見された金錯銘鉄剣は、115文字の銘文が持つ歴史上の意義から世間の注目を集めました。 昭和51年4月に、これら古墳群との調和のとれた、観賞、保護及び散策を目的とした公園を整備を進めています。」
と説明がある通り、かなり整備されていた。しかもかなり広かった。
それにしても群馬県太田市の古墳とはえらい違いです。(これは次回書きます)

まずはさきたま史跡博物館へ。
さきたま史跡博物館

館内には国宝「金錯銘鉄剣」
国宝 鉄剣

埴輪などが展示されていました。
埴輪 馬
 
ほかにも多くの展示物はありました、詳しくは博物館ホームページを。

さて、番組内で「発掘作業」をしている場所として紹介されていたのは「奥の山古墳」です。
発掘現場1

発掘現場2

こんな感じで発掘をしているようです。

さて、当日は大雨でした。
古墳周辺は水たまりができていて、足元はぬかるみ状態。それでも古墳が見たくてどんどん進んでいったら、何と道に迷った。
迷った場所は、森のように木々が茂り、しかも、雨であたりは真っ暗。すごく視界が悪くて、方向感覚を失い、まるで樹海にいるような感覚になりました。
それにしても、こんなところで道に迷うとは……。

それに古墳はあちこちに散らばっている。将軍山古墳などはかなり離れた位置にあるので、ここでもかなり歩かされることになった。(全部見るとなると、かなりの運動になります)

しかも、午後からは仕事。それも何と会議。それに夕方からは等級試験があった。
もう疲れて、眠くて、服はびしょびしょで、とてもテストどころじゃなかった。

仕事前に古墳巡りでクタクタなんて、これじゃ出世するわけありませんね。


で、「関東・日本王国」の番組内容等は次回書きます。

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「オバマ氏暗殺」を期待するヒラリー氏?

 続行理由に「R・ケネディ事件」言及 全米騒然、オバマ陣営あきれる

 5月24日16時42分  産経新聞
米民主党の大統領候補指名を争うヒラリー・クリントン上院議員は23日、劣勢の選挙戦を継続する理由として、同党の候補指名を目指したロバート・ケネディ元司法長官が1968年6月に暗殺された事件を挙げた。ライバルのバラク・オバマ上院議員が「不測の事態」に見舞われることを期待したともとれる極めて不穏当な発言で、同氏は「遺憾だった」と陳謝した。

 6月3日に予備選を控えたサウスダコタ州スーフォールズの地元紙オーガス・リーダーとのビデオ会見で、クリントン氏は「私の夫は92年6月半ばのカリフォルニア州予備選で勝つまで活動をやめなかったでしょう。ボビー(ロバートの愛称)・ケネディがカリフォルニアで6月に暗殺されたことは、みんな覚えているわよね。だから(選挙戦撤退の要求について)私は理解できないわ」と語った。

 テキサス州ダラスで暗殺されたケネディ元大統領の実弟で、司法長官や上院議員を務めたロバート・ケネディ氏は、68年の大統領選で、民主党の候補指名に向けた選挙活動を展開した。しかし、カリフォルニア州予備選での勝利直後、ロサンゼルスのホテルで銃撃されて死亡。民主党内の足並みは乱れ、本選で同党候補のハンフリー副大統領は共和党のニクソン候補に敗れていた。

 黒人初の大統領をめざすオバマ氏には、昨年の序盤戦段階から襲撃の懸念が浮上し、シークレット・サービスが身辺を厳重に警護している。クリントン氏は、オバマ氏を「恥知らず」呼ばわりするなど放言や失言を繰り返してきたが、ロバート・ケネディ暗殺事件をオバマ氏に重ねたともとれる発言は、米メディア一斉に報じる騒ぎとなった。
 クリントン氏は「(言及した暗殺は)歴史的な事実だ」としながらも、騒ぎの広がりに「発言が国全体やケネディ家のみなさんを傷つけたのなら遺憾だった」と陳謝した。これに対し、オバマ陣営は「発言は残念だ」と、あきれ気味にコメントしている。


ヒラリー・クリントン氏が選挙戦を撤退しない訳はこれなのか。
ヒラリー氏が後からどんなに弁明しても、これが思わず出た「本音」だ、とだれもが思うだろう。それほどまでにこれは「リアル」な表現だ。
政治的要人の暗殺が多いアメリカだからこそありえる理由であって、しかも「う~ん、なるほど」と、思わず納得させられるものがある。
そして、この記事から分かるのは、ヒラリー氏は「オバマ氏の暗殺を期待」しているということと、現実にアメリカ国内でそういった不穏な動きがある、ということだろうか。
ネット上に流れているような情報(「オバマ氏の命は狙われている」「かなり危険な状態だ」など)というものは決して大げさなデマというわけでもなくて、実際に起こりうることだというのが、ヒラリー氏の発言で改めて裏付けされたことになるだろう。
(黒人大統領候補の命が狙われるなんて、なんか「24 -TWENTY FOUR-」のシーズン1みたいじゃないか)

もし「オバマ氏暗殺」(あるいは職務遂行が行えない状態になるなどのこと)が起これば、それこそヒラリー氏に有利に働いただろう。しかし今回の発言でそれもなくなったらしい。
まず、疑いの目はヒラリー氏に向けられ、あらぬ疑惑をもたれるだろうだということ。それに、前もってこんな発言したヒラリー氏に対して、反発的感情が巻き起こるだろうから、そのときなって「では大統領候補にヒラリーを」なんていう声はこれで出なくなった、ということらしい。

まあ、政治家にとって、不用意な発言は「命取り」になり、「本音」は腹にしまっておけ、ということなのだろうか。


それにしても、アメリカは要人の暗殺事件が多い。
ジョン ロバート
画像はジョン・F・ケネディとロバート・ケネディ。
2人とも暗殺された。



太田女子高から足利女子高へ「挑戦状」 現代にも残る「新田vs足利」

上毛新聞2008年5月17日の記事から

「群馬県八幡町の太田女子高は、学校の魅力つくりとして、栃木・足利女子高との対抗戦を企画している。前橋高と高崎高、太田高と栃木・足利高など男子校同士の対抗戦は知られているが、女子高同士は珍しいという。具体的な内容や開催地などはこれから決めるが、太田女子高の生徒らは「生徒全員が参加できるものにしたい」と意気込んでいる」

新聞記事にもある男子校の太田高校vs足利高校の対決とは、

「隣接する栃木県足利市にある栃木県立足利高等学校との間で毎年開催される。両校はともに質実剛健の校風を有し、学習面においても部活動などの面においても常に良きライバルである。本戦の年は一回交代で敵地に乗り込み、足利高等学校は足利氏の旗を、太田高等学校は新田氏の旗を掲げつつ、さまざまな種目で競い合う。それ以外の年は、部活動同士の部戦が行われる。また、過去の戦歴は足利高校ホームページにて確認することができる。」とWikipediaに記載されている。

現代にも、「新田vs足利」は残っているんですね。

そして、新聞記事にある生徒会長・川島彩加さんの言葉が勇ましい。「前例のないことでうまくいくか不安だが、一回目がないことには次もない。なんとか成功させたい」
いいですね。直接的には何もできませんが、応援しますよ~。(ブログに書くことぐらいしかできませんけど……)

そして、太田女子高の校章がこれ、
kousyou.jpg

校章の由来は
「女性のシンボルである鏡を台にし、その中に太田のシンボルである金山の松と新田氏の大中黒の紋を配している」(太田女子高ホームページから)

大中黒のシンボルを有した時点で、君たちは富士重工」や「斎藤佑樹くんと同じ新田源氏だ!
頑張れ!

(「新田源氏」の意味がだんだん広がっている気がしますが…、ここはあまり気になさらずに…)

ちなみに、太田女子高出身有名人は「ちびまるこちゃん」の声優・TARAKOや漫画家の小椋冬美らがいます。

「東毛奇談」のサイト手直ししてます。

歴史ミステリー小説「東毛奇談」を掲載しているサイトを手直ししています。

徳川家康や明智光秀の画像を入れたり、生品神社や世良田東照宮、大光院などの写真を入れたりして分かりやすくしていきます。
また東京の愛宕神社や日枝神社、上野などの写真や、参考文献なども入れていく予定です。

まだ手を入れ始めたばかりなのですが、徐々に進めていきます。

「東毛奇談」を読まれる方はどうぞそちらのサイトへ行って下さい。

テレビ東京「日本ミステリー」2008年5月13日放送分

テレビ東京「日本ミステリー」2008年5月13日放送分

①義経が生きていた!? みちのく黄金帝国の野望 

いわゆる源義経北行伝説ですね。
これは、サイトを検索すればいくらでも出てくるので、ここでは番組で紹介されたものだけを記しておきます。
1、平泉の雲際寺にある「義経の位牌」には、「捐館通山源公大居士」と記されている。これは、「館を棄て山を通って逃げた」という意味で、戒名としては変だということ。
2、岩手県奥州市の玉崎神社に「義経の槍の穂先」がある。
3、岩手県宮古市の黒森神社は、社名は九郎義経にちなんだ名前だといい、「義経の写経」と伝えられているものが残っている。
4、青森県弘前市博物館には、「弁慶の笈」がある。
5、「奥州南部封域志」の記述から、義経の首の謎は、家臣の「杉目太郎行信」であるとし、宮城県栗原市金成にある供養塔には「源祖義経神霊見替杉目太郎行信」(杉目太郎行信なる人物が義経の身代わりになった)と刻まれていた。
6、「新撰陸奥国誌」によれば、義経ら主従七人は、三厩村から海を渡って北海道の日本海側・西蝦夷に向かった、とある。北海道平取町の「義経神社」には義経公御神像がある。

番組ではところどころ中津文彦氏の解説が入っていました。義経伝説と奥州藤原氏の財宝とのからみとなれば、江戸川乱歩賞受賞作「黄金流砂」となるのでしょうか。
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と思っていたら、番組はそこまで追究せず、調査続行につき次回に続くということ。


②五・一五事件はチャップリン暗殺計画だった。

チャップリン研究家・大野裕之氏が自身の本「チャップリン暗殺 5・15事件で誰よりも狙われた男」をそのままなぞっているだけでした。
この本の新説である「チャップリンが皇居で一礼した真相」なるものも紹介してました。(暗殺回避のためですか…)

「5・15事件とチャップリン」の件も有名な話ですよね。何度かテレビで見ました。
それに、日下圭介著「チャップリンを撃て」という同じ題材のものを小説化したものがありましたね。
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(探せば古本屋にあります。講談社新書・光文社文庫)

ただ、番組では「どうしてチャップリンが狙われたのか?」という理由の部分が不明瞭だった。
通説通りに「チャップリンが日本に退廃文化を流した元凶」として狙われたのか、それとも国際的著名人を暗殺することによって戦争に踏み出そうとした軍部の陰謀だったのか、いやネットで書かれているようなもっと大きな陰謀が隠されたいたのか……などなどあまり踏み込んでいなかった。

5・15事件が「犬養は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点であったと思われる。不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。」とウィキペディアに書かれているように、チャップリンが共産主義者であったために狙われたのではないか、と私は思っていたが、これはどうも違うようだ。「赤狩り」でハリウッドから非難されるのは40年代だから1932年では少し早いことになるのか。

これも継続調査ということなので、次回に期待ということでした。(このパターンが多い)

千利休は新田一族の末裔か?

前回の続き。
千利休が新田一族の末裔であった、という話でしたね。
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利休の本姓が「田中」であるというのは、そこそこ知られた話で、かつて、テレビ番組「タモリのトリビアの泉」でも紹介されていました。(たしか「60へえー」ぐらいだったと思う)
そして、この「田中氏」が新田一族だ、ということになる。
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鏑矢祭のときに新田一族の幟旗が立てられましたが、「里見」「堀口」「綿引」などに交じって「田中」の名もあります。
つまりこの系統と千利休が結びつくわけです。

「利休の父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母は宝心妙樹。「千家系譜」、「千利休由緒書」によると利休の祖父は足利義政の同朋衆だった千阿弥(専阿弥・新田里見氏の一族田中氏の出身)といい、その名をとって千姓としたとされている。」
新田源氏・里見氏・田中氏の系図は http://www.geocities.jp/tajima73/sen.html で見て下さい。


では、毎日新聞2004年3月8日の記事から。

『16代・千宗室さん、襲名を先祖に報告―榛名町・光明寺で献茶式 ◇500人参加
 茶道を大成させた千利休の先祖が眠るとされる群馬県榛名町中里見の光明寺(筒井泰道住職)で7日、茶道裏千家の第16代家元、千宗室さんが家元襲名を先祖に報告する献茶式が行われ、関係者ら約500人が参加した。歴代の裏千家家元が光明寺で献茶するのは初めてで、筒井住職は「千利休のルーツが毛野地方にあったことが裏千家に正式に認知されたことになる」と話している。
 光明寺は平安後期の治安元年(1021)頃創建。中世の武士「里見氏」の菩提寺で、里見氏は千利休の先祖「田中氏」のルーツとされる。利休の曾孫で江岑宗左が記した『千利休由緒書』に記述があり、歴史研究家の間では知られていたという。 第15代家元の千玄室さんが平成8年(1996)、家元として初めて同寺を訪問。当時、「千家のルーツは里見家。いつか必ず一族で献茶したい」と話し、今回の献茶式が実現した。筒井住職は「この寺に千家のルーツがあると改めて確認された。400年余りを経て、千家家元が来られたのは誠に意義深い」と喜んでいた。この日は、里見家供養塔の墓参の後、光明寺に先月完成した茶室が披露された。茶室には宗室さん直筆の掛け軸が飾られている。訪れた出席者は、振舞われるれる茶を楽しみながら見入っていた。』

このように、群馬県榛名町では、千利休の祖先の地ということで、盛り上げようとしています。
また、新田里見氏が本拠とした上野国、越後国にはそういった逸話が多く残っていて、これをネタにしたブログ記事等も多く見かける。
そこで、そういった記事をいくつか拾ってみましょう。

①里見山光明寺
http://hojiro.at.webry.info/200511/article_3.html
実はこのお寺は安土桃山時代の侘び茶の完成者である千利休の太祖であり南総里見八犬伝でも有名な里見一族の太祖、里見義俊が1170年に葬られて眠っている地でもあります。千利休の父は田中与兵衛と言い名字は田中姓(千は氏)で彼の直系の先祖、田中義清はこの里見義俊の二男にあたります。里見義俊の父親は新田義重と言って源義家の孫にあたり新田源氏の祖でもあるのです。すなわちこの里見郷を起点として後の世に千利休や南総里見一族、新田義貞等歴史上の人物が生まれ出ていることになります。

②千利休の言う名前を知らない日本人はいないと思いますが、この人の先祖は群馬県だということはあまり知られていません。先祖は「大新田里見家」から出た田中家です。榛名(高碕地域)の里見から新田町の田中に分家して、鎌倉時代には新潟に進出した清和源氏の一族です。田中角栄もこの一族だそうです。新田義貞(旧姓は里見小五郎義貞・大新田里見から小新田家へ養子縁組)の鎌倉攻めの時には新潟の里見一族〔1500騎〕の一員として〔新田の生品神社旗揚げの後、この時150騎〕高崎の八幡宮の旗揚げに参加しています。八幡宮は源頼義、義家親子が奥州征伐に行く時に旗揚げした源氏にとって大切な場所であり義貞もこの古事に倣って遠回りしたようです、源氏の嫡流の源頼義、義国、義重の旧領で大新田家に伝承、〔高崎市史研究―八幡荘と新田荘の成立をめぐって〕です。話は戻りますが、北条の執権時代の後は足利の時代となり新田一族は足利に従った一族と関西に留まって千利休や今井宗久のように商人になった一族もいた訳です。現在、榛名町の光明寺の里見一族供養塔の前に千宗室が供養塔碑を立てています。千利休について地元の人達に知って欲しいので書きました。


ということで、利休と新田氏(特に里見氏)を関連させた記事が多い。

まあ、この記事の中には、飛躍した話として「田中角栄、新田源氏説」みたいのもありますが、これはかなり眉唾ぽい話ですね…。
ただ、新潟(越後)では、鎌倉、南北朝時代にかけて、新田一族の一大勢力もあって、南朝軍事拠点となっていたことから、足利軍との壮絶な合戦が繰り広げられていた場所でもある。それだけに、越後での新田一族への思い入れも深い。よって、越後で「田中姓」を名乗れば、「新田一族か」と結びつけられるのだろう。

また、利休と新田里見系・田中氏との接点しては、浅田晃彦著「上州茶の湯史話」や福田日出子著「毛野中世の武士団と千利休」という本もあるようだ。また、系図等が、http://www8.wind.ne.jp/haruna-machinet/satomi_gou/keizu.pdfで見られる。(これはかなり分かり易い)

それに、群馬県太田市(旧新田町)にある長慶寺は、千利休ゆかりの寺と言われている。
延応元年(1239)に、新田義兼の娘で足利義純と婚姻関係にあった新田尼の子、時明を祖とする田中氏の館跡に建立されたもの。 開基は田中五郎義清、開山は僧の慶弁である。なお、田中五郎義清の子孫がのちの田中与四郎となり、ここが千利休とつながることになる。長慶寺の名前の由来は南北朝時代、長慶天皇が一時この寺にいたことにちなんでいる。
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画像の石碑には「田中義清之館址」と「茶聖千利休之祖」の文字が彫ってある。

さて、利休が新田一族の末裔であるという話が、結構残っていることは分かってもらえたと思う。
では、これが事実なのかというと、それが実に、信憑性はかなり低い。
この「利休は新田源氏の末裔だ」という話のもととなったのは「千利休由来書」だとといわれている。
書いたのは、利休の祖孫にあたる江岑宗左(こうしんそうさ・表千家四代家元)で、1653年、幕府は徳川家康の年譜を作るために、「利休由来書」を提出させたとなっている。
問題なのは、千利休が自分は「新田一族の末裔」であると自分自身で言っていたのか、ということだろう。
そうなると、同じ「新田氏の末裔」を名乗る家康との関係は深いことになり、利休割腹の前に家康と会ったのも何らかの意味があったのではないか、と考えることもできる。
だが、利休の子孫が「われらは新田源氏の末裔である」と改めて僭称したとなると、これは意味も違ってくる。封建時代において「血統」「家柄」がすべてなのだから、江戸時代において、「新田一族の末裔だ」と名乗ることは、大きな意義があり、そのメリットが大きいからだ。

徳川家家臣団が、突如として、己の祖先は新田一族の末裔だと云ったり、南北朝時代の昔に南朝方として新田一族とともに戦ったというエピソードを喧伝するなどして、松平家時代からの家臣だと主張するのはこのことによる。(これは東毛奇談、または過去の記事で)

それに徳川家康が、1586年に安房国の里見義康に宛てた手紙には「ことに徳川家と里見家は同姓なのだから、義康様の御身上については、これをひとかどに引き立て申したい」と書き送っている書状がある。「同じ新田(源氏)の出であるから」と家康自身が新田源氏だと公言しているのだから、千利休の子孫が「我らは新田源氏・里見氏の田中氏の出」であると名乗ることは、とても重要な意味があったのだ。

とまあ、千利休と家康との関係をこの点から突けば、「秀吉暗殺」といった話ももっと面白くなるでしょうね。

新田義貞の錦絵~東毛歴史資料館企画展~

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東毛歴史資料館の企画展「とうもうの収蔵展」に行ってきました。
新田義貞を主題とした錦絵・巻物・屏風を中心に展示していました。
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(新田義貞投剣図 一立斎重宣)
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(新田足利大合戦之図 一猛斎芳虎)
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(本朝名誉鑑、新田義貞・勾當内侍 春暁)
など30品ほどあった。
錦絵の題材としては「稲村ケ崎・義貞投刀の場面」「湊川の戦いなど・足利軍との戦い」「勾当内侍」が多かった。
また湊川の戦いでの「求女塚」の場面を元にしたものも結構あった。この場面をもとにした歌舞伎も多いようなので、錦絵も多いのでしょうか。たしかにいい話ですからね。


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さて、こちらの「うちわ」は、毎年夏に開催される「新田祭」で配られるもの。うちわは毎年、絵柄が変わります。いつも奪い合いとなって、すぐになくなります。よって手に入れられない年もあります。
この図柄よく見ると、「新田左中将義貞 市川団十郎」とあります。団十郎が新田義貞を演じたようですね。

歌舞伎、義貞などで検索してみると、面白そうなものがあった。
市川猿之助の「四谷怪談忠臣蔵」
 『足利尊氏に滅ぼされた新田義貞。足利家に仇を報じようと、
  義貞の霊は高師直に乗り移ります。
  その新田義貞の子が大盗賊暁星五郎。妖魔の術を父から授けられ、
  親子で足利家に祟ろうというのです。
  暁星五郎の宙乗りあり、大詰には本水を使っての立ち回りあり。
  猿之助が暁星五郎、直助権兵衛、天川屋義平の三役を演じる、
  まったく新たな構想の「四谷怪談」+「忠臣蔵」』
となっていますが、一体どういった内容なんですかね。
ちょっと見てみたいですね。

こうしてみると、新田義貞・新田一族は、錦絵になったり芝居・歌舞伎のネタに使われたりと、江戸・明治期ころには人気があったようです。

現代ではだいぶ不人気ですが……。

「新田源氏」の資料館ができるぞ!!!

全国にいるはずの数少ない「新田義貞、新田一族ファン」に朗報です。

~上毛新聞 平成20年5月10日の記事より~

新田氏テーマに一新!「東毛歴史資料館」来年4月名称も変更。
「東毛歴史資料館」広域圏から太田市に移管。
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太田市は、東毛広域市町村圏振興整備組合から2009年度に移管される予定の東毛歴史資料館(同市世良田町)について、新田義貞に代表される新田氏に特化した資料館にリニューアルする方針を固めた。所蔵、展示する関連資料の充実を図り、来年4月には名称も新田氏にちなんだものに変える。清水聖義市長は「新田氏に関することなら何でも分かるような資料館にしたい」と話している。

新田氏は清和源氏の一族で、12世紀中ごろに新田義重が上野国新田郡に土着した。義重の四男、義季が開いたとされる長楽寺などが「新田荘遺跡」として国史跡指定を受けている。同市は昨年5月、長楽寺西にある「新田家の墓」を新田氏の末裔、新田陽子さん(東京都世田谷区)から譲り受けた。今後、新田さんが所蔵している貴重な資料も譲渡される予定で、新田関連の資料の充実が図られるという。
新田氏に特化した資料館を目指すことについて、市教委は「市町村合併によって新田源氏の古里になった。地元の歴史を大切にしたい」と説明する。今後は収蔵庫内の整理やリニューアル後の展示方法、施設の改修などを検討する。(以下略)


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なんと「新田源氏」の資料館になるんですね。
いや~楽しみです。

5月8日、新田義貞挙兵の日。生品神社、鏑矢祭。

5月8日に生品神社で、鏑矢祭がありました。
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鎌倉幕府を攻め落とした新田義貞が挙兵したといわれるこの日、毎年恒例となった祭りが行われました。早稲田大学の斎藤佑樹君の出身小学校でもある生品小学校から、6年生男児70名が新田氏の旗印の「大中黒」を染め抜いたはちまきを巻いて、袴姿で登場。南西の方角(つまり鎌倉の方向)に向かって弓を引き「エイエイオー」と元気よく気勢を上げる。これは、義貞が討幕の兵を挙げる際に矢を放って吉凶を占ったという故事にちなんでいます。

ということで、今年も鏑矢祭に行ってまいりました。
いつもの年よりも人が多いような気がしました。それに「NHK」「群馬テレビ」のテレビカメラも数台、新聞社も何社か来ていてました。今までにはないような感じで、関心が高くなっているのかな。
斎藤佑樹くんのこともあってか、すこしづつ広まっているのかもしれない。
また、このブログでもかなりしつこく書いているので、少しは貢献しているかもしれませんね(?)。
まあ、ブログ内検索で「斎藤佑樹」「生品神社」などを入力していただければいろいろと関連記事が出てきますので、興味のある方は、どうぞ。

特に今年は子供が多かったですね。
近くにある生品保育園、生品小学校から子どもたちが見学で集まって来ていました。
中にはこんな光景も
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(そこまでするかって感じですが)

それに小6男子は祭りに参加するので、女子は応援となる。
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また太田市市長や県会議員(あべともよさんの姿もあった)市議会議員、教育委員会の会長だとかお偉いの方々も数多くいましたね。

さて、祭りは、長い儀式のあと、ついにメインイベント。
挙兵を模した小6男子が、登場。
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一斉に矢を放ちます。
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そして、放たれた矢は「縁起物」として、参拝者が奪い合うんです。

私は、矢の飛んでくる方向にいたので、頭に矢が当たった。それを咄嗟に拾う。
そして、これが
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ゲットした幸運の矢です。

とうことでいいことがあるのかな。

祭り自体は簡素で、面白味はありませんが、「新田一族ファン」にはたまりません。
「縁起物の矢」は手に入れることもできたし、これからも「新田一族」について書く決意をしました。

で、前回予告していた「千利休は新田一族の末裔」は今まとめているところです。

「千利休は家康のスパイで秀吉を暗殺しようとしていた!?」説を検証する。

5月6日放送分の「新説 日本ミステリー」で
「 千利休は家康のスパイで秀吉を暗殺しようとしていた!?」
という説を取り上げていた。
内容は「千利休は秀吉の暗殺を画策し、その黒幕は徳川家康だ」ということ。

出た!またまた トンデモ説ですね。


番組では、この説を、またもや杉山光男氏が解説している。
この番組、杉山氏が好きですね。「家康、信玄親子説」とか、「佐々木小次郎はキリシタンで巌流島の決闘は暗殺だった」という怪しげな説を連発されている方ですね。
関連記事① 関連記事②

利休が公式に茶室に呼んで会見した最後の人物が、家康だったということもあり、利休と家康が、裏では結びついていたという話は、案外、突飛な説でもないようで、小説やドラマ、マンガのネタとして多く使われている。
1996年の大河ドラマ『秀吉』では、本能寺の変が、徳川家康と千利休の謀略として描かれていたという話もある。(私は未見なのでどういった内容なのかは分からない)
ただ、『利休スパイ説』千利休は徳川家康のスパイではなかったのか?という説はあまり聞かない。いろいろ探ってみたが出てこない。唯一、「今日は何の日 徒然日記」で書かれているだけだった。http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/02/post_4331.html。(放送前の2月28日に書かれている)
ただ、この説が知られているものなのか、どこからこの説を引っ張って来ているのかが分からない。(何かの小説、マンガのネタなのかな、知っている方は教えてください)

さて、番組では、千利休の切腹の原因などをさぐりつつ、本題に移っていく。
秀吉暗殺説の理由
①この説を裏付けるものとして、岡倉天心著「茶の本」(岩波文庫)の中に「利休は秀吉を毒殺しようとしたために切腹させられた」との記述を取り上げている。
②1591年1月13日、利休は秀吉のために茶を点てる。黒い茶椀であったため秀吉が気に入らず口も付けずに出ていった。
これを杉山氏は「秀吉が利休は自分を毒殺しょうとしているのではないか、と感づいたからだ」と解説。
③秀吉の弟秀長が病死したのが1591年1月22日。これも利休によって毒殺されたとしている。
ここで、「死体は語る」の上野正彦氏が「胃腸系のヒ素中毒の可能性がある」と解説。
また、茶道研究家の小西宗仁氏が「茶室が毒殺に向いている。茶室が密室で、茶の中に毒を入れるのは簡単だ」と説明。
ここで「利休が生み出した茶道は毒殺に向いていた」とナレショーンが入って、自説をぶち上げている。

おいおいこんなこと言って、「茶道」の関係者から怒られないのかな。
私が、茶道の関係者なら、番組へ抗議の電話を入れるところですよ。

そして、再び杉山氏。ここで、利休の黒幕として家康を出している。
理由
①先手を打って豊臣政権を崩壊させるため利休を使って秀吉の暗殺を狙った。
②家康とのつながりとして、岡山大学の史料室にある「利休百回記」から、利休が最後の茶会に家康を呼んだことが書かれていると紹介している。

番組では世紀の大発見みたいなこと言っているが、こんなことはかなり知られた話で、ネットや関連本を見ればいくらでも出てくる。この番組の悪い癖は、いかにも「我々が発見した」みたいなことを言うことだ。
③利休の墓がある「南宋寺」に、家康の墓がある。よって2人は関係があるという結論。
ケッ、もうどうにもなりませんね。
南宋寺にある「家康の墓」は、大坂夏の陣の時、家康が、豊臣方の後藤又兵衛の槍に突かれて絶命し、やむなく近くの南宗寺に埋葬されたという逸話からきている。ちなみに、家康の死によって徳川幕府が危機にさらされることを恐れ影武者として選ばれたのが家臣の小笠原秀政だということ。
大体、利休が切腹したのが1591年、南宋寺の家康の墓は1615年のもの。年代に24年もの差があり、しかも家康の墓といわれるものも怪しいものだ。

④家康の行動が不審。利休の助命嘆願をせず、利休死後に家名再興に奔走する。

ということで、利休スパイ説を唱えている。


で、私の見解としては、「利休スパイ説」は嘘くさいけど、
家康と利休には何らかの気脈を通じあうものがあったのではないかと思っています。
なぜか
徳川家康と千利休には共通点がある。それは

ともに
新田源氏を名乗っているということです。

家康が「新田源氏」を名乗る経緯、理由等は「東毛奇談」に超詳しく書いてあるので、ここでは省略。

千利休が「新田一族」の末裔であったことは……、

とここで、次回に続く。

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消えた二十二巻

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