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「新田次郎特集」と「星松祭の結果」、読売新聞から

2008年9月28日の読売新聞「本よみうり堂」HONライン倶楽部で、「新田次郎」特集がありました。
指定された作家の作品の中から、お勧めするものを読者が投稿するという形式のもので、月一ぐらいある。
で、今回が「新田次郎」
紙面0928

ここで紹介されたのは、「孤高の人」、「八甲田山死の彷徨」、「劍岳<点の記>」(来春映画化)、「聖職の碑」「アラスカ物語」、短編集「強力伝・孤島」「芙蓉の人」など、やはり山岳小説が多かった。
歴史小説は「武田信玄」のみ。
残念ながら「新田義貞」は紹介されていませんでした。
まあ紙面に限りがあるので仕方ありませんが……。
小説「新田義貞」上小説「新田義貞」下

あと、この特集はネットには載らないですよね。先月のアーサー・c・クラークとか、過去の特集とかも全く更新されていない。こういうのこそネットに載せて欲しいんですけど……。(ここで言っても仕方ないですけど)
読売新聞「本よみうり堂」のサイトhttp://www.yomiuri.co.jp/book/

あと同じ日の紙面に「太田女子高vs足利女子高」交流戦「星松祭」の結果が載ってました。
紙面0928・2
写真では「綱引き」してますね。
まあ、和気あいあいで盛りあがったようですが、
結局、どっちが勝ったの?
2回ほどこのサイトで「現代の新田義貞vs足利尊氏」として書いた私としては、何ともこの勝敗の行方が気になって仕方ありません。

前の記事は『太田女子高から足利女子高へ「挑戦状」 現代にも残る「新田vs足利」 』
と『その続編
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ポール・ニューマン死去

ポール・ニューマン死去。
ポールニューマン

彼の映画は結構見ていたので、この報を聞いて、数々の出演作品を思い出しました。
代表作の「明日に向かって撃て」「スティング」「評決」はもちろんのこと、「暴力脱獄」が最高によかった。
また後年になってからの枯れた感じも良かった。「未来は今」「ノーバディーズ・フール」「ロード・トゥ・パーディション 」とか、とにかくいい味出していました。
そして、彼の経歴を改めて見てみると、やはり偉大な俳優だったと再認識させられた。

以下「産経ニュース」からhttp://sankei.jp.msn.com/world/america/080928/amr0809282251004-n1.htm
吸い込まれるような青い眼で世界中のファンを引きつけたポール・ニューマン氏の死去に、追悼の声が相次いでいる。端正な外見とは裏腹に、社会のはみ出し者や敗者を好んで演じたニューマン氏。その軌跡は、1960年代から70年代にかけて自問と内省を深めていったハリウッド、そして米社会そのものの変化とも重なっている。
 「50年代にニューヨークから登場し、ハリウッドを征服した3人組の最後の生き残り」。英紙タイムズはニューマン氏をこう形容する。残る2人はマーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン。ニューヨークで学んだ最新の演劇理論に基づき、怒りや悩み、弱さといった内面を正直に演じて映画界に新風を吹き込んだ面々だった。
 公民権運動やベトナム反戦に揺れる米社会と同様、60年代のハリウッドも内省を深めていく。夢や希望、正義を掲げる従来の路線を離れ、反体制的な若者の心情を描く「アメリカン・ニューシネマ」の時代に入り、ニューマン氏は「明日に向って撃て!」(69年)で強盗を繰り返すお尋ね者、「スティング」(73年)では詐欺師を演じた。
 米紙ニューヨーク・タイムズは「ハリウッドの新旧交代の象徴だった」と位置づける。AP通信は「ハンサムな外見とは逆に、反逆者や敗者を演じてきた。ハリウッドの伝統からみれば、ヒーローとは反対の存在だった」と伝えた。ただし、「3人組」の中では、いつも一番後ろにいた。最初の売り出し文句は「第2のマーロン・ブランド」。出世作「傷だらけの栄光」(56年)の主演は、ディーンの急死によって得たものだった。
 そのせいか、ハリウッドの派手な生活を嫌い、東海岸のコネティカット州に居を構えた。妻の女優、ジョアン・ウッドワードさんとはおしどり夫婦で知られた。浮気について聞かれ、「家にステーキがあるのに、わざわざ外にハンバーガーを食べに行かないよ」と答えたのは有名だ。
 26日、がんのためコネティカット州の自宅で83歳の人生を終えた。早世したディーン、晩年は奇行が目立ったブランドと違い、常識人、家庭人として穏やかな最期を迎えたニューマン氏。俳優以外の活動でも知られ、82年に起こした食品会社の収益から2億ドル(約210億円)以上をチャリティーに寄付していた。
 クリントン元大統領は「親愛なる友人を失った」とその死を悼み、シュワルツェネッガー・カリフォルニア州知事は「究極のクール・ガイ(イカした奴)だった」とコメントを寄せた。
(ロイター=共同) 【ロサンゼルス=松尾理也】

なるほど、私がポール・ニューマンに惹きつけられたのは、上記にあるように「端正な外見とは裏腹に、社会のはみ出し者や敗者を好んで演じたニューマン氏。」にあるようだ。
確かに、彼の映画には「敗北」が多い。
でもそれがカッコイイんですよ。
敗者を演じていても、そこには「アメリカンニューシネマ」にありがちな悲壮感や屈折感がない。それが「後味」の良さにつながっているんだと思う。

最近でも、2枚目で演技がウマくて、人気俳優という役者は結構いる(ジョニー・デップあたり)、しかし彼らとは何か違う。
そう、ポール・ニューマンには何ともいえない「品がある」んですね。
これは得難い。
だから、日本のCMに出た「スカイライン」とか「コーヒー」とか「カード」とかをユーチューブで見てみると、よく分かる。
「品」が「個性」になっている。
やはり、そこがポールニューマンの魅力だったんでしょう。
そう考えると、今はこんな役者いないですね。

改めて、ご冥福をお祈りします。

追記 NHKで「アクターズスタジオ・インタビュー」を再放送しないかな。追悼番組としていいと思うのだが……。



「バナナダイエット」なんて即刻やめてしまえ!

人がどんなダイエット法をしょうと、どうでもいいことだが、みっともないことだけはやめて欲しい。


ダイエットに効く? バナナ品薄
「日本人が最も食べている果物」のバナナが、品不足になっている。朝にバナナを食べるダイエット法がワイドショーなどで取り上げられ、ブームの引き金になった。消費は世界的に伸びており、品薄が続く可能性がある。 セブン&アイ・ホールディングスによると、傘下のイトーヨーカドーなどでは20日から売り上げが大きく伸び、一部では品切れも。「入荷を増やすよう求めているが、なかなか応じてもらえない」という。ライフコーポレーションでも売り上げが前年比約7割増の勢いだ。東京都内の食品スーパー担当者は「売り場に人だかりができ、遅い時間にはバナナが消える」と話す。
きっかけは朝食をバナナに変える「朝バナナダイエット」。昨年から書籍やインターネットで紹介されたが、今年から度々テレビで取り上げられ、「その都度、売り上げが跳ね上がった」(伊藤忠商事)。19日にTBS系列で放送された特集番組では、歌手の森久美子さんが「7キロ減量した」とされ、ブームに火をつけたようだ。
輸入量首位の米ドール日本法人の出荷量は6月以降、前年比25~27%の高い伸び。2位の住商フルーツは「予測の2~3倍の発注があり、すべてに応じてられない」状況で、9月の出荷量は前年比約3割増になる見込みだ。バナナの消費は他の輸入市場の中東や豪州、アジアなどでも経済成長を背景に増えている。「他国分を日本に持ってくるしかないが、大量には難しい」(ドール)という。<斎藤徳彦>
朝日新聞 平成20年9月26日記事より。

さて、これまでにも数々のダイエット法があった。
ココア、寒天、納豆、高野豆腐などなど……。テレビで新しいダイエット法が放送されるたびにスーパーの食品売り場から商品が消えて、品切れ状態となった。
生産者は増産し、販売者は大量に仕入れるが、飽きっぽい日本人のこと、数週間(数日)もすればすぐにブームは去っていく。逆にただ在庫が増えるだけで、結局は安売り。売れるからといっても、ブームとなった食材の関係者にとってそんなにいいことはないのが、現実。(現場の経験者だから身に染みて知っている)

大体、何かを食って痩せようなんてダイエット法は、安直だから、長続きしないんですよ。
まあ、人のすることだから文句は言えませんが……、
ただ日本人が一時のブームだけで「バナナ」を買い漁るというみっともないマネだけはやめてほしい、ということ。

なぜか。
バナナを主食の一つとしているナイジエリアやカメルーンといったアフリカ諸国もあり、東南アジアでは食糧不足の際にはバナナが貴重な食物となっている、という。
バナナは「ダイエットの商品」ではなく、日本に例えれば「米」に相当するような立派な食糧だということだ。
毎日、大量のコンビニ弁当を廃棄し、多くの食材を捨てている日本。その多くは海外から買い漁っている。食べられる食糧を捨てていく国が、他国で主食となり、食糧不足を補うような食物を「ダイエットに良い」からという理由だけで、他国の分まで買い占めるのはやめるべきだ、ということだ。

大体、100キロ以上もありそうな森久美子が7キロ痩せたからといって、何がダイエットだ。
あんな肥満体は、ダイエットという次元ではなく、絶食して病院に行くべきだ。
それにまだある。これに関連して、書いておく。
ギャル曽根が海外の食材を食いまくるといったフジテレビの2時間の特番があったが、そんな奴は海外に出すな。
高級料理を貪欲に食いまくる彼女は、高級ブランドを買い漁る小娘や幼児を買春しているオヤジと同じで、外国人から見れば欲望をむき出しにしている「傲慢な金満大国・日本人」にしか見えない。
しかもギャル曽根は「タイ」に行ったらしいが、食べ物もなく子供を人身売買する国を描いた映画「闇の子供たち」を見れば、こんな企画は出ないだろう。
みっともない、恥ずかしい、恥を知れ。
大体、そんな企画で大食い女を海外に行かせるなら、それこそ「食糧のない貧しい国」に行かせてリポートさせるべきだ。飽くなき食欲を抑えきれないのなら、捨てられるコンビニ弁当を好きなだけ食わせるべきだ。……

と最後は愚痴ぽくなりました。

さて、
ブームが去ったあと、
輸入された大量のバナナはどうなるのでしょうか。
買い占めたバナナは、行く先を失って、結局のところ投げ売りとなるのか。
そして、米のように備蓄するわけにもいかないので、
最後は、捨てるしかないだろう。
どうも、そんな気がする。
そうなると、もともと食糧不足の国に行く分まで捨てられることにもなるわけだ。
そうなったら、「バナナダイエット法」なんていって盛り上げた人々(儲けた人)も少しはいろいろ考えてもいいと思う。

まあ、「痩せる」「ダイエット」なんてことを考えられるのも今のうち、
世界的食糧危機が来たら食糧自給率が40%しかない日本なんてすぐに「食べられなくなる」んですから……。

「東毛奇談」にやっと図を載せました。

ワードで作成した図をブログに載せるやり方を教えてもらいました。
やってみたら簡単だった。(windows・アクセサリーのペイントにワードで作成した図を貼り付けて、名前を付けて保存したファイルをアップロードすればいいことだった。)
ということで早速、載せてみます。

第3章「家康改姓のこと」の4 http://daikiti431.blog112.fc2.com/blog-entry-51.html
これは、徳川家康の家臣団の中で、新田伝承を持つ大久保家の相関図。新田・南朝方の伝承を持つ古参の家臣が次々と失脚していく話のときに載せたかった図。
東毛奇談・図1

第4章「本能寺の変のこと」の5 http://daikiti431.blog112.fc2.com/blog-entry-45.html
この図は、「南北朝時代」と「本能寺の変の前後」が同じような状況にあったことを説明した図。
後醍醐天皇=正親町天皇
護良親王=近衛前久
新田義貞=明智光秀
北条政権=織田信長
足利尊氏=豊臣秀吉
といった具合。詳しい説明は「東毛奇談」で。

東毛奇談・図2

5章の「仮名手本忠臣蔵のこと」の7  http://daikiti431.blog112.fc2.com/blog-entry-35.html
東毛奇談・図3s
東毛奇談・図4
この図を載せたかった!これがないとこの章は何だか分からないですよね。
仮名手本忠臣蔵は「新田一族の鎮魂劇」であり、その裏には「本能寺の変」の真相が隠されているのではないか、ということを説明している図です。

ということで、本サイトにも図を載せておきます。

蒲郡市は「新田の家紋」を使っていた。

愛知県蒲郡市市章が

蒲郡市章

だった。

「これは」と思い、検索してみたら「新田氏の紋章・一引両」だった。

蒲郡市は、竹谷松平家が使用していたために、「一引両」を採用したとある。
『竹谷松平家(たけのやまつだいらけ)は、松平信光の長男の松平守家を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡竹谷(蒲郡市)を領したことから竹谷松平家と称する。松平氏の分家では、最も古く、代々松平宗家に貢献した。』(Wikipedia)
この、竹谷松平家が新田氏の家紋である一引両紋を使っていたらしい。

これは謎だ。
なぜ「竹谷松平家」だけが使用していたのか。

清和源氏の末裔で新田氏を祖とする「徳川家」が、「大中黒」「一引両」の家紋を使わないことから、なかば封印状態であったという話を聞いた。 
逸話としては、『江戸幕府が開府したころ、家康は家臣に対して、葵の御紋を使用することを禁じた。しかし以前から葵の御紋を使ってきた家臣が、家康に言上した。「殿は新田源氏であるのだから、大中黒(新田の家紋)を使った方がよろしいのではないか」と。そう言われた家康は返答に困ってしまい、その家臣に葵の御紋の使用を許可した。この話は、家康が大中黒の紋を使うのをためらったとしている。つまり、家康も使用しない大中黒の紋は神聖なものとなってしまった。』というのだ。

ではなぜ?
どのような経緯で、竹谷松平家はこの「一引両」を使用することになったのか?
ということで、これは、現在調査中。


またこれに関連して、
愛知県蒲郡市出身の宮城谷昌光の「風は山河より」全5巻を読んでいます。
風は山河より
徳川家康の祖父「松平清康」が「世良田次郎三郎」と名乗って冒頭から出まくっています。(小説としてはかなり貴重)
また「新田氏関連」も結構出てくるので、これについては後で、まとめます。

突然のアクセス数! 何があったんだ~

このブログでなにが起こったの?


娘の運動会から帰ってきてから、パソコンを開いて自分のサイトを見たら訪問者数が1万以上になっていて驚いた。
新記録

何これ。

普段は200~300人くらいしかこないこのサイト。
今日は、「玉入れ競争必勝法」とか地味なネタを書こうとしていたのに……、それどころじゃなくなった。

もしや、突然の「新田義貞ブーム」到来!、それとも自作歴史ミステリー小説「東毛奇談」の爆発ヒット!

いやいや、どれも違うようで、
どうやら「伊勢賢治教授」か「神田うの」の記事目当てのようです。しかもどこかにリンクされている様子。(詳しいことは分からない)

でもこれってダラダラ書いたものなので、私的にはどうでもいいような内容なんですけど……。
まあ、この先、こんなにアクセス数が来ることはないと思うので、とりあえずは記念ということで……。

でも、私としてみれば本筋の「歴史もの」とか「東毛奇談」、それに力を注いだ「アンパンマン考」「時をかける少女をめぐる話」「金子みすず」などとかでアクセス数が伸びればいいな~と思ってるんですけど、中々うまくはいきませんね~。
それに、これで来た方はどうせ「一回きり」でしょうから……。

とにかく、地道にやっていきます。(前回続きの天海、児島高徳とかは、いま必死に書いております。)



天海と新田一族の接点 新田義貞伝承を追う④

前回の続きです。

この「新田義貞伝承を追う」のシリーズは、
1回目が勾当内侍の墓
2回目が新田義貞の墓
3回目が義貞の首塚
ときて、今回が「義貞の首の行方」と「天海と新田一族の接点」である。

先に私の推理を書くと、足利尊氏が密かに義貞の首を葬ったとすれば、やはり京都周辺の義貞伝承が残る場所に「義貞の首」が眠っているのではないかと、にらんでいる。
ただしこれは証拠もなければ、確証もなく、ただ単に、私の「直観」を基にした推理です。(フロスト警部か!) また根拠もないのに勝手に推し量っていけば、「勾当内侍の伝承」は新田義貞の首を隠す偽装だったのではないかとさえ思える……。(飛躍し過ぎか!)

そして、京都周辺の地図を眺めて考えた。

やはり、新田義貞、勾当内侍、南朝方と縁の深い「比叡山」「琵琶湖周辺」には、新田義貞の伝承が多く残っていて、そこに勾当内侍の墓があることが分かる。
比叡山延暦寺と南朝の関係はかなり深く(護良親王は比叡山・天台座主であったし、後醍醐天皇が都落ちした際も延暦寺を頼り、叡山僧兵は足利方と戦っている)、そもそも義貞が北国落ちする際、勾当内侍を留め置いていたところが「今堅田」であったことからも新田贔屓の土地柄だったのだろう。だからこそ現代にまで勾当内侍の霊を慰める「野上祭り」が伝えられ、内侍を祀る野上神社や泉福寺があるわけだ。やはりこの辺りは「義貞の首」を葬る場所としてふさわしいということだろう。(ここは現地調査が必要だが)
その近くに「慈眼堂」はあるのだ。
(また滝口寺、祇王寺など奥嵯峨周辺の愛宕山付近などもあるが、これは次回書く)

となれば、前回書いた「なぜ天海の墓“慈眼堂”に新田義貞の供養塔があるのか」という謎が出てくる。
(「慈眼堂 新田義貞」で検索するとかなりの数でヒットする。「慈眼堂」を訪ねた人もかなりいるようで、画像付きのものが多かった。Wikipediaに解説あり。)
http://med.honnet.co.jp/metro/oumi/o193/oumi_40.htm
義貞供養塔(慈眼堂)(画像は「慈眼堂の石仏」のサイトから、新田義貞の供養塔)


答えとしては、天海は「新田」とかなり関わりが深いからだろう。

その前に、「東毛奇談」の根幹となる「太平記巻17」にある「義貞が日吉大社に祈願した願文」を載せておきます。
「十月九日はあわただしく御即位の儀式や遷幸の準備で日も暮れた。夜も更けたころになって、新田左中将はひそかに日吉大宮権現に参詣され、神前に心を静めて祈願を込められた。『いやしくもこれまでの私は、濁世に示された御仏の御願にすがって日々を送り、仏法に反する戦をしながらも、仏道にはいる因縁を結んで日もすでに久しくなります。願わくば、遠く征戦の路の果てまで神の御加護をお与えくださり、ふたたび大軍を起こして朝敵を滅ぼす力をお与えくださいますように。不幸にしてたとえ私の存命中にこの願いを達することがなかったとしても、我が祈念の心が神の御心にかなうならば、必ずや子孫のうちに大軍を起こす者が現れて、父祖の屍の無念を晴らしてくれることを請い願います。このふたつの願いのうちひとつでも達することができましたら、わが子孫は末永く当社の檀那となって、霊神の御威光を輝かすようにいたしましょう』信心を込めてこのように誓いを立てて、義貞は新田家重代の家宝で鬼切という太刀を社前に奉納した」
とある。
ここにある当社の檀家になるとは、天台宗、山王権現、比叡山延暦寺を信仰するということ。
(実際は、ここに鬼切の太刀を奉納したのではなかった。鬼切は義貞が自刃したときに自ずから首を切った刀で終世義貞の手元にあった。なのに何故「その太刀を奉納した」とわざと書き間違えるようなことをしたのか。ここに太平記の作者の隠された意図がある。それほどこの願文が重要だということだろう。ここも辺りも次回書く)

そして、徳川家康は「新田源氏」を名乗った。(経緯は「東毛奇談」で)
東照宮で祀られたのは天海を主導とする天台宗だが、徳川家は松平家以来「浄土宗」の檀家であって、天台宗とはあまり縁のない家柄なのだ。
それがなぜ天台宗なのか?
そこに天海と「新田」との関係を見ていけば、「天海の墓に義貞の供養塔が建っている」理由が分かり「世良田東照宮が東向きに建てられたのか」が分かるということです。

天海とは、
天海像(天海僧正像、長楽寺蔵)
いまでは都市伝説の本に載っていることも多く、そちら方面ではかなりの有名人物となっている。「東京は呪術都市だ」などという本(ハローバイバイ関など)や「徳川埋蔵金」のときでも必ずその名が出てくる。、ただその経歴となるとあまり書かれていないようで、家康に仕える以前の経歴にはあまり触れていない。
また「天海」について書かれた小説を読むと、世良田、長楽寺、善昌寺など新田一族の関連するものが少しだが出てくる。(小説「天海」は、中村 晃、堀 和久など、最近では内田康夫の「地の日 天の海」がある )

天海の出自は会津の芦名氏の一族であったというのが定説であるが、足利将軍家の御落胤説など貴種説もある。天海死後に、側近の弟子たちがまとめた一代記「東叡山開山慈眼大師縁起」によれば、「氏姓も生年も忘れて久しい、一度仏門に入った以上、俗人であった時のことなど知ったところで仕方ない」と語ったという。この曖昧さが多くの俗説を生む結果となった。
定説では、会津高田に生まれ、同地の稲荷堂の別当弁誉に得度した。その時の名は隋風である。その後宇都宮、比叡山、三井寺、奈良の興福寺で修行した。
奈良遊学中に故郷から母の病気の知らせを受けて急遽帰郷し、母を手厚く葬ると、再び修行の旅に出る。1557年下野足利学校に入門し、孔子や老子を学ぶ。1564年二十九歳のときに上野新里の善昌寺に入った。善昌寺は、新田義貞の執事であった船田入道善昌が開いた寺といわれ、長楽寺の末寺であった。(ここに新田義貞の首塚がある) このことは長楽寺文書により確かめられている。ここで首楞厳経と易学を学び、長楽寺流の学風に染まったという。(シリーズ③の「義貞の首塚」)
この後再び比叡山に登り天台宗の教義を深めていった。しかしここで信長の比叡山焼打ちに遭った。天海は命からがら山を脱出して、甲斐の国まで落ち延びた。甲斐の武田信玄は天台宗の大旦那であった。ここで講師に迎えられ、しばらく過ごした。
会津に戻る途中、長楽寺に立ち寄り、時の住職春豪から葉上流の灌頂を受け、大阿闍梨の位を許される。葉上流は天台密教、台密十三流の一つであるという。会津では長楽寺葉上流の灌頂を相承した大寧禅師に学んでいる。
天海にとって新田や長楽寺がかなり深い関係であり、新田一族の寺院で修業していたことが分かる。
この後も天海は諸国を修行の旅に出て、諸般の知識を高めて、江戸崎の不動院、川越の喜多院、長沼の宗光寺などに入った。
一説には、1590年川越の無量寿寺の豪海に師事していた時、家康が関東に入部した際に、天海は呼び出され初めて謁見したという。
1608年 家康は天海を駿府城に招き説教を聞いた。1609年 天海は権僧正となり、1611年 大権正になる。1612年 川越無量寿寺を喜多院として関東天台宗総山とする。1613年 家康は「関東天台宗法度」を発布。このように天海は家康に重用され、権力が集中し、宗教的地位が大きくなった。家康死後、1617年日光東照宮建立、1622年から東叡山寛永寺建立に着手、1643年に108歳で死去した。

ここまで家康が天海を重用したのは何故だろうか。
これには二つの理由があると考えられる。
①天海が諸国を巡り幅広い知識を得ていたこと。これは、家康にとって必要なことであった。家康は「もっと早い時期に出会うべきであった」と語らせた。それほど天海は博学であり、人格者であった。天海の知識の広さは、仏法に止まらず、神道、修験道、陰陽道の宗教的ものから、薬学、鉱山学まで広範囲に及んだ。これらの知識は諸国遊学中に得たものである。
②家康と出会う前から、天海が長楽寺や新田伝承のある寺院と深く関わっていることが重要だった。家康が新田源氏を名乗っている以上、新田氏の発祥地を無視することはできない。家康が新田源氏の末裔であること名乗ったことによって得られた効果が大きければ大きいほど、新田の地を手厚くしなければならないのだ。この点において適任者となれば、天海しかいない。天海は長楽寺、善昌寺に学び、その思想を受け継ぎ、新田周辺地域(足利学校も含む)の地理にも詳しいからだ。

長楽寺は新田氏の根本私領であり、経済上・交通上の中心地である世良田にある。新田始祖義重の子は義季を名乗り、世良田氏を起こす。この義季が1221年に臨済宗の栄朝を招いて郷内に氏寺を建立。鎌倉中期に北関東根本道場・十刹寺院として発展する。また「顕密禅三兼修の寺」とされてきた。後鳥羽上皇が長楽寺に下賜された五枚の勅額の一枚にも顕密禅とあるように、それが長楽寺の寺風で世良田流とも言われた。しかし室町・戦国時代には衰退して、荒れ放題になってしまった。これを家康は天海に命じて、臨済宗から天台宗に改宗させて、江戸時代には700もの末寺を抱えるほどに発展した。

また世良田東照宮は、寛永19年日光輪王寺の住職でもあり、世良田長楽寺の住職であった天海が、3代将軍家光に請うて、不要となった日光の旧社殿を長楽寺境内に移築し、そこに東照宮を勧請したことにはじまる。
家康は生前、長楽寺の衰退を嘆き、天海に復興を命じていたが、天海は日光東照宮の遷座に忙殺されていたので、弟子を派遣して再興に動いたのが寛永16年(1639年)と「長楽寺中興文書」にある。翌年4月には日光で家康の二十五回忌が営まれ、将軍家光と天海は寛永の大造営で手をつけなかった唯一の奥社の改造命令はその4ヶ月後。天海は家康二十五回忌に臨む直前、長楽寺に立ち寄り、周辺の山を崩すなどの工事を指示した。奥社は東照宮の要であり、この社参を機に、家光に進言し移築したと見られる。世良田東照宮は移築した奥社に合わせて本殿を新造、寛永二十年に完成した。天海はこの半年前に他界したために、落成式は一年延期された。

しかしこのことが事実であるか疑われたことがあったが、千葉大学教授・大河直躬氏らの研究により、世良田東照宮の拝殿、唐門などが、旧日光東照宮の奥社の拝殿や多宝塔だったことが判明している。

天海死後、遺体は日光東照宮の傍らに葬られることとなった。十月六日に霊柩は、東叡山寛永寺を出発、同日に川越喜多院に到着。翌日川越を出て、世良田長楽寺に入る。このとき上野国の僧侶が一同に集まり焼香散華したという。8日長楽寺から下野佐野の春日岡惣宗寺、9日に鹿沼薬王寺を経て、10日日光に入る。江戸上野から日光まで遠回りであるにも関わらず、世良田長楽寺に入っていることをみても、天海がこの地に関係が深いことが分かる。


世良田東照宮は建物の方向も記されており、日光に建てられた時は南向きであったが、当地に建てられた際に東向きとなった
25年も家康を祀ってきた社は、神格化されるために多くの祭事を施され、多くの人々に拝まれてきた。この社には崇拝を受けたパワーがあり、また拝まれた社には神として祀られた家康の魂が宿っていると考えられる。この拝殿を世良田に移したという事実は、大きな意味を持つ。
天海は世良田に、日光にあった霊的装置を移築し、世良田の霊的地位を高めた。各地に配置された東照宮が、家康を神格化して、天下を治める霊的装置であったことは、現在多くの研究者が訴えていることである。ならばこの世良田東照宮もなんらかの意味があったとみて間違いないであろう。
そして東向きの意味を!


さらに、天海と長楽寺の関係について詳しく書かれていた本があった。
天海資料

橋本幸雄著「上野国世良田 長楽寺改宗と天海」(岩田書院)
新田源氏を名乗った家康にとって、祖先の地である新田が俄かに重要になった。この地においての天海・天台宗と増上寺・浄土宗との覇権争い、それに天海の長楽寺へのこだわりが書かれている。2007年発刊の本で、かなり参考になった。
橋本幸雄氏は在野の「新田氏研究」として有名な方らしく、その資料、文献はかなりの量となり、いまは「橋本文庫」として公開しているそうです。(東京都北区)

では、天海と長楽寺との関係について書かれている部分を本文より少し抜き出してみましょう。
『家康はかねがね自分の遠祖新田氏に対して、称号を頂くよう朝廷に奏請していた。慶長16年・1611年、新田義重(新田氏始祖)に朝廷は「鎮守府将軍」の号を宣下されたのを機に、その義重を祭るべき墳墓の地の調査を存応(増上寺住職)及び、土井利勝、成瀬隼人の三人に命じた。「駿府記」。そして、その地が見つかった事を聞いた家康はすこぶる御機嫌であったと記されている。家康は存応に命じて、新田徳川の菩提所を新田郡太田に決め、そこに義重山新田寺大光院を建立した。天海は天台でも徳川御先祖の菩提を弔いたいと願って、世良田長楽寺を欲したという。』
天海が長楽寺を欲したのは、浄土宗との対抗意識があった。これら一連の記録は「東叡開山慈眼大師伝記」「東叡開山慈眼大師縁起」「慈眼大師文書纂」などに、度々長楽寺の改宗についての記述があるという。
『東叡開山慈眼大師伝記」によると、天海が家康より長楽寺を拝領したのは慶長5年・1605年で、それから長楽寺を天海が改宗すべく着手したのが寛永16年・1639年。天海は約34年間も所望し続けたことになり、その天海の執念に対して、果たして長楽寺が彼にとって、いか程の価値があったものか、その興味は計り知れない。』

そして、秀光の時代になると、日光東照宮の大改修を手掛けて、「山王一実神道」=天台宗を確立すると、長楽寺の改宗を実行した。
天海の晩年急がれた長楽寺改宗
寛永16年に入ると、天海はもはや百歳を超える高齢で、身体も伏せりがちであった。このままで居たのでは、いつ迄待っても長楽寺が天台に帰依するのは不可能と感じた天海は強引に長楽寺の介入に踏み切ったのである。それは時の幕府の権力勢力を駆使した大規模で過酷なものであった。天海はかつて天台の傘下に入れんが為に多くの寺院の改宗に、色々の策を施してきたが、今度のように厳しい改宗、いわば乗っ取りを行ったのは、今までにない事であった。ここ晩年の天海の焦りが感じられる。天海にしてみれば、家康が政権を握って以来、心の中に願い続けてきた長楽寺である。やっと三十年余り待った今、我が手中に帰することが出来る。そして、今度こそ新田徳川の菩提を我が天台でお護りする事が出来るという切実な気持ちが余生幾何もない天海をそうさせたのだと思う。

長楽寺改宗の意義と天海の心中
天台宗の基礎は日光東照宮の大改修を最後に確立したとみてもよい。そして、ここに近世天台の中興を天海が成し遂げたと考えてもよいであろう。であるから、今さら長楽寺改宗と云う事は天下の大勢からすると、もうたいした問題ではなくなっていた。しかし、天海の考えは、家康、秀忠、家光と徳川三代に亘る将軍に仕え、その間、おおいに天海は寵愛を賜って来た。その徳川氏に対する恩顧を、御先祖をお守りする事で是非お返ししたいと云う願いが心の奥深くきざみ込まれて、長楽寺を我が天台に改めてこそ天海の心の中の天台の基礎が完成するのだと、肝に銘じていたのかも知れない。即ち、「天海の精神的な天台の終着点」が長楽寺の改宗であった。』

と結んでいる。

さてこの本によれば、「長楽寺」「徳川家の祖先である新田氏を祀ること」がいかに江戸幕府確立時にとっていかに重要であったかが分かる。
またこの本に書かれている「なぜ天海がそこまで長楽寺にこだわったのか」については、ここに自分の説ある「天海と世良田氏との接点」、「新田義貞の比叡山・日吉大社で掲げた願文」を加えていくと、更にこの説を後押しすることになるだろう。

やはり、新田一族の世良田氏が、会津へ行き葦名氏に仕えていたことと、天海が会津・葦名氏の出であることに注目すべきことで、ここに「新田」と「天海」の接点があったと見るべきだろう。(東毛奇談、及びシリーズ1回目で)
そして「なぜ世良田東照宮が東を向いて建っているのか」「なぜ新田義貞の供養塔が天海の墓である慈眼堂(比叡山)にあるのか」も分かるのではないだろうか…。

さて、話はこれで終わりではありません。
さらに、「天海」と「新田」をからめて「明智光秀」について話を進めます。

次回は天海の家紋である「三宅輪宝」について、
三宅輪宝
これは、三宅氏の家紋
そう新田一族と深い関係にある児島高徳の一族です。

次回に続く。

太田女子高から足利女子高へ「挑戦状」 現代にも残る「新田vs足利」、その続報。

以前、上毛新聞に載っていた記事の続報が、読売新聞に出てました。
当ブログでは、これをネタに『太田女子高から足利女子高へ「挑戦状」 現代にも残る「新田vs足利」 』という記事を書きました。

以下、読売新聞の記事をそのまま載せておきます。
県境越え交流 太田女子高 足利女子高  
「新たな伝統に」 24、27日「星松祭」
県立太田女子高(辻村好一校長)と栃木県立足利女子高(田村和江校長)の両校が今月下旬、県境を越えてスポーツの対抗試合や文化活動で交流する「星松(せいしょう)祭」を初めて開くことになった。生徒たちは「女子校同士で刺激を与えあい、新たな伝統を作っていきたい」と意気込んでいる。
 この企画は、太田女子側が今年初めに、足利女子側に持ちかけたのがきっかけ。太田女子の実行委員長の増田有華さん(2年)は「何か新しいチャレンジとして、学外との交流を始めようと思った」と話す。
 各校で有志の実行委員会を設け、5月末ごろから両校の生徒が行き来して打ち合わせを行い、種目や日程を話し合った。携帯電話のメールなどのやりとりを通じて、うち解けていったという。交流戦の名称は、足利女子のセーラー服についている「星」と、太田女子の校章にある「松」を合わせて「星松祭」と決めた。
 県境を越えた交流には先例がある。県立太田高と栃木県立足利高との両男子校は、地理的に近く、地元の武将の新田義貞と足利尊氏の両雄にもちなんで、1985年からスポーツやレクリエーションで対抗戦を行っている。足利女子、太田女子の両校は「女子校同士の交流も活発にしていきたい」という。
 「星松祭」は今月24、27日に開催。24日は足利市でダンスや吹奏楽、軽音楽などの文化交流を行い、27日には太田市で運動部の練習試合と一般生徒らの綱引き、玉入れなどを行う。今月5日夕、足利市民会館に集まった両校の生徒約30人は、音響や照明などで最後の打ち合わせを行った。
 足利女子の実行委員長の武藤萌さん(2年)は「多くの生徒が参加して交流を深め、来年以降も続けていきたい」と期待している。
(2008年9月10日 読売新聞)』

「現代にも残る新田vs足利」の記事を書いてから、「太田女子高」とか「足利女子高」とかで検索して来られる方が多くなりました。しかし何故か「足利女子高」の方が多い。不思議です。

さて、この対決の結果がどうなったのか是非とも知りたいところですが…、
おっさんの私が女子高をうろうろしたり、電話を掛けたりなんて出来ないので、この対決の続報が新聞に載ることを期待します。

まあ、結果はどうであれ、こういった活動から、不人気の南北朝時代、新田義貞を盛り上げて下さい。

追記、「新田義貞の首の行方④」については今書いておりますが、全くまとまる様子がありません。ただ概要だけでも近日中に載せますので、それまでしばらくお待ちを……。

新田義貞伝承を追う③ 「首塚伝説」の謎

前回の続き。

今回は「義貞の首塚」伝承について。

義貞の首塚として「名墓録」に出てきた場所は、4か所
①勾当内侍が埋めたとされる伝説 
京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町。これは前回書いた。

②善昌寺の伝説  群馬県桐生市新里町新川
桐生市市役所ホームページから
「善昌寺はもともと大同寺と称していました。 1294年に記された応仁記によれば大同元年(806年)伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(天台宗開祖)が上野(こうずけ)へ下向(げこう)(都から地方へ行く)の際、弟子の宥海(ゆうかい)によって創建され、大同寺と称したと記されています。ちなみに山上多重塔は801年(延暦20年)建立です。赤城南麓では最も古く創建されたお寺です。」

この寺の「義貞首塚の伝承」は2つある。
1、その首級(しるし)を桃井次郎が密かに持ち帰り、新田義貞の重臣、船田長門守義昌に預けた。義昌は、主君の首級を手厚く葬り、供養のためこの寺で生涯を終えた。
2、京都へ上送された義貞の首を追って、単身京都に潜入した善昌が、勾当内侍の侍女であった「丹の局」という女性の協力を得て義貞の首を首尾よく上野新田荘まで持ち帰った。
と関わった人物が少し違っています。
それ以降は、「善昌は大同寺に住して、終生、義貞の菩提を弔ったので、寺名を改めて、善昌寺とした」ということで同じです。
葬られた場所がかなり北なのは、新田荘が足利氏の勢力に制圧されていたので、新田荘の最北郊の大同寺に義貞の首を葬ったという、話らしい。
善昌寺(善昌寺の義貞首塚塔)

奥富敬之著「上州 新田一族」にはさらに興味深い話が載っています。
大正時代に新田氏家臣の末裔という村岡五郎氏が桐生警察署立会の上で発掘調査を行った。義貞の首と云われた墓には、多人数の人骨を集めたものが埋葬されていて、結論としては戦場で落命した新田氏族の骨を集めて埋葬したのではないか、としている。
また、善昌寺の裏山にある「新田義貞首塚塔」のほか大小二十基の五輪塔が残っているが、足利氏を憚って「頼朝塚」「頼朝逆修塔」と称していたと寺伝にある、という。

こうなると他の場所にも、新田一族の墓や供養塔は別の名称となっている可能性は高いのではないか。
、船田善昌が関わる違う伝説
「新編相模国風土記稿」の「足柄下郡之十二」には、船田善昌が、獄門台から義貞の首を盗みだし、上州新田荘を目指したが、相模国一色村まで来て急病になってしまった。止むを得ず、この地に義貞の首を弔ったという伝説もある。
これが小田原市酒匂の「新田社」であり、宝篋印塔一基を中心に、両側十二基ずつの小さな五輪塔が並び、その左手に「新田義貞公首塚」と印刻された自然石が立っている。

ただし船田善昌は延元元年・1336年にすでに戦死している。これは義貞よりも1年以上も早く死んでいたことになる。太平記十五巻「正月十六日合戦、附、船田入道討死事」に記載がある。(義貞戦死は巻二十だからかなり前となる)
といってこれらの伝説がすべて否定されるわけではない。船田善昌の家臣や縁者とかが残した伝承かもしれない。伝承や伝説が残るのには何らかの行為が行われた痕跡が残ったと見るべきだろう。


③糟目犬頭神社の伝説  

犬頭神社(画像は岡崎市観光協会から)
「和田城主宇都宮泰藤が、当社の近くで鷹狩をし、当社境内の大杉の下で休憩をしていた。
ところが、大杉の上には大蛇がおり、泰藤を襲おうとした。
泰藤がつれていた白い犬が、これに気づき、吠えて主人に知らせようとしたが、泰藤は寝ていて、気づかず。犬は、三度吠え続けたが、目覚めた泰藤は、犬の吠えることを怒り、犬の首をはねてしまう。
はねられた犬の首は飛び上がり、大蛇の喉に噛み付き、大蛇を殺し、主人を救う。大蛇に気づいた泰藤は、この犬に感謝し、犬の頭を手厚く葬り、これを祀ったという。また、犬の尾は犬尾霊神として、下和田新宮に祀ったという。各地に伝わる「犬塚伝説」の一つ。この犬頭伝説からすると、「いぬがみ」と読むのが正しいのかもしれない。
ただ、犬頭伝説の真相は、新田義貞の首塚であるという。新田義貞の首を、宇都宮泰藤が、京都より奪って来て、これを埋めた首塚が当社にある大和田島弁財天社
境内に徳川家康に仕えた本多作左衛門重次の生誕地碑がある。」とある。
http://www.genbu.net/data/mikawa/kentou_title.htmから
ただし、この由来のある大杉は、1590年田崎城主・田中吉政によって伐採されてしまうなど、かなり弾圧を受けた。しかし1603年徳川家康により朱印を受け、復興する。(本多家文書)
場所は、「愛知県岡崎市宮地町」で、徳川・松平家の本拠地に新田義貞の伝承が伝わっているということが重要。

④妙国寺の伝説
前出の奥富敬之氏によれば「三河上和田村(現岡崎市上和田町)の法華宗本寿山妙国寺に残る元禄八年・1695年の寺伝によると、義貞の首を持ち逃げしたのは、義貞の家臣・宇都宮泰藤であったということになっている。この寺伝によれば、泰藤が東山道ではなく、東海道を通ったのは、途中の三河上和田の本領に妻子がいたので、これに暇を告げるためだったということになっている。また、網一色村に現存する新田社は、本尊が地蔵であるが、「妙国寺寺伝」では新田大明神であったという。その寺伝には、「泰藤の子孫に至って、此地を領すること、偏に新田大明神、当家の守護神と成給うものならん歟」とあるように、宇都宮氏の子孫と称する大久保忠隣が、小田原の領主になった近世初頭に、そのことと付会して成立した伝説ではないかと考えられる。」とある。
この伝承について詳しいサイトがあったそれは、「神奈川県小田原市白鴎中学校」のホームページに書いてある。http://www.ed.city.odawara.kanagawa.jp/kids/chuugaku/hakuo/siseki.html

どうやら学区内に義貞首塚があって、地元に残る歴史として紹介しているものだ。伝承の内容は上のものと同じ。
義貞首塚案内板
義貞首塚碑(画像は白鴎中学校ホームページで紹介されている「義貞首塚案内板」と「首塚碑」)

宇都宮泰藤の寺は岡崎市にあって、首塚は小田原にあるということ。松平・徳川家の本拠地である岡崎市に妙国寺があるというのがミソです。
徳川家譜代の家臣は、競うように新田・南朝伝承と自分の家系を結びつけ、これを喧伝するようになった。このような新田伝承を持つ徳川家家臣に多くいた。関連記事
(ただし、これは大久保家の失脚と同時に、新田伝承をもつ青山成重、服部正重、安房里見家九代目当主里見忠義(新田氏系唯一の大名)などが一掃されられた。これも別の話だが)また、
また、平凡社 日本歴史地名体系によれば、「寺伝では、上和田城主・宇都宮泰藤の妻である徳子の父・美濃国里見城主の土岐頼直が法華経を信仰していて、それによって建立された。泰藤が100石を寺領として寄進、先祖供養した。宇都宮氏は宇都、大窪と姓を変え大久保氏の祖となった。泰藤は文和元年・1352年に没し、妙国寺に葬られる。以来、大久保・久世家の菩提寺となる。」となっている。
義貞の首云々の話は別にしても、宇都宮泰藤と新田義貞との関係は深そうである。

以上の伝承をまとめてみましょう。
義貞首塚伝説は、
人物①船田善昌  ②宇都宮泰藤  ③勾当内侍
場所①新田荘周辺 ②相模・三河など新田へ向かう途中の地域  ③京周辺地域
となっていて、これらが混合され組み合さっている。


だた、どれも確かなものはない。(だからこそ多くの伝説が生まれるわけだが…)
義貞の「墓」「供養塔」「首塚」は数多く存在するが、どこに義貞の首が埋葬されたかとなると、全く分らない。
実際のところ「義貞の首」は、どこにいったのでしょうか?

それが大きな謎です。

ということで以下は、私の推理となります。

まずは、太平記巻二十から「義貞の首」がどうなっていたのかを書き出してみます。

「義貞左中将の首が京都に着くと、これこそ朝敵の最たるもの、武家の仇敵の第一であるとして、都大路を引きまわして獄門にかけられた。この人はさきの後醍醐帝の寵臣で、その武功により世に質するところも多かったから、京都には天下の支柱としてその好意を喜び、その恩顧を期待する者は幾千万と数知れぬほどあった。そこで、この日、車馬は路上に滞り、男女者どもは街角にたたずんで変わり果てた義貞の姿を見るに忍びず泣き悲しむ声が多かった。<中略>
(悲しみに暮れる内侍が京へ行くと) 陽明門の前あたりを通りかかられた。すると道ばたに多くの人が立ち寄って、ああ哀れなことだなどという声がするので、何ごとかと立ち止まって御覧になると、越前の国まではるばる尋ねて会えずに帰った義貞卿の首が獄門の木にかかって、眼は塞がり色もすでに変っていた。
内侍の局はこれをふた目と見ることもできず、傍の築地の陰に泣き伏されたので、事情を知る人も知らぬ人も、みなこれを見てともに涙を流さぬ者はなかった。……」とある。

この後、義貞の首がどうなったのかが分からないのだ。

同じように南朝方でさらし首になった楠木正成の首は、その行方が太平記には書かれている。
湊川の戦いで戦死したあと、正成の首は京の六条河原で晒されたが、その後、足利尊氏の情けにより、河内の故郷に送られたとある。(太平記巻十六 正成首送故郷事 )
ただし「正成の首塚」は3つある。
①千早神社近く(金剛山の登山道)②観心寺③杜本神社境内(羽曳野市)
が、河内に返されたことは分かっているので、かなり絞られる。
だが、義貞の首に関しては伝説のみが残っているだけなのだ。

では、
義貞の首はどこに?

義貞討ち死にが7月2日なので1ヶ月後、足利尊氏は8月11日、征夷大将軍に就任し、正式に室町幕府を開いた。

仏心の篤い尊氏が、義貞の首をそのままにして置くだろうか?
私は何らかの処置をしたのではないかと思う。
敵方の武将を厚く葬る。それは怨霊を鎮めるといった意味もある。尊氏が無慈悲なことはしないと思う。夢窓疎石は尊氏を「慈悲天性にして、人を憎まれることがない。怨敵を、まるで我が子のように許される。」と評している。(梅松論)
そういったところからも他の武将に慕われていた。
それに、慶事(武家にとっては悲願の、足利家にとっては先祖からの宿願である「武家の棟梁・将軍」となる日)が控えているのだ。
きっと義貞の首をそのままにしておくはずがない。
ではどこに?
上州新田荘だろうか。それはない。
なぜかと言えば、新田一族の英雄である義貞の首が故郷に帰ったとなれば、それこそ神と崇められ、反足利のシンボルとなってしまうだろう。(遺髪ぐらいならありえるが)
それは、足利方にとっては最大の脅威だ。(足利家に対抗できる血筋は、新田家しかないということをお忘れないように)
尊氏は、密かに、目の届く範囲に義貞の首を葬ったのではないか、と私は推理している。
そう京の近くに……。

さて、「名簿録」サイトには、一つだけ勾当内侍にも新田一族にも関係しないところに「義貞の供養塔」が出てくる。
場所は「滋賀県大津市坂本四丁目」
寺名は「慈眼堂」
そこに眠る人物は「天海」


そう、そこに新田義貞の供養塔がある。


続きは次回。




新田義貞伝承を追う②  義貞の墓

前回の続き

今回は、全国にある「新田義貞の墓」の伝承を追ってみます。
まずは「名墓録」サイトから「新田義貞」と検索し、そこに出てきた場所を拾ってみます。http://www.hugyou.jp/meibo/index.cgi
(数年前まではそれこそ図書館に籠って調べたものですけど、今は便利になりましたね。検索すれば一気に出てくるんですから……。)

さて、義貞の墓や供養塔などがある場所とされるは、大きく分けて3つになる。
1、戦死した越前・福井周辺 
2、新田氏の本拠地である群馬県東毛地区 
3、勾当内侍の伝承があるところ。(特に京都)

となるでしょうか。

1-① 新田塚」  (福井県福井市新田塚一丁目)、「藤島神社」   (福井県福井市毛矢3-8-21)など
藤島神社(画像は藤島神社)

新田塚」は、新田義貞が戦死したと伝えられる灯明寺畷。江戸時代に兜が発見され、その地が戦死伝承地となった逸話は、当ブログで何度も書いています。そして、このエピソードが歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」大序のモチーフとなっているわけです。
藤島神社」の建立は福井藩主・松平光通。新田源氏を名乗る将軍家の遠祖として、また自分の祖先として『暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所』と刻んだ石碑を建立し、遺跡を顕彰した。徳川家・松平家が新田源氏の末裔であることを世間に喧伝するためにも必要だといえる。ただし家康から数代下ると、松平・徳川家縁類の人たちは、自分たちは「(新田)源氏の血を引く末裔だ」と信じ、疑っている様子は全くない。それは徳川光圀が、源義家を遠祖として讃え、位牌を祀っていることからも分かる。

1-② 称念寺  福井県坂井市丸岡町長崎
称念寺
ここには、義貞の遺骸が葬られている。(首は京へ送られる)
現存する義貞の墓は、天保年間に福井藩主松平宗矩によって建てられたもの。
太平記に「(義貞の死の報が伝わると)ただちに、時宗の僧8人が義貞戦死の地に差し向けられ、遺骸をのせた輿は、往生院称念寺に運ばれた」とある。
この寺については「明智光秀」について書かれた本の方が詳しく載っている。「明智光秀」永井寛著(三一書房)によれば「称念寺は時宗の名刹で、新田義貞を葬っていることでも知られている。称念寺と義貞が関係するのは、延元元年(1336年)10月、後醍醐天皇の命により、恒良親王、尊良親王を奉じて越前に下向した際、この寺をたびたび訪れ、時の住職の白雲上人より仏の道を学んだことからという白雲上人は、延元三年閏七月二日、義貞が越前藤島(福井県灯明畷町)の戦いで討ち死にしたとの噂を聞き、僧7、8人を引き連れて、義貞の遺骸を運び、寺内に手厚く葬った。 その後、後花園天皇により勅願の道場とされ、住職は天皇の「園」を賜って園阿上人を代々称し、昇殿を許された。」とある。
この何代目か後の園阿上人と明智光秀が関わることになる。朝倉氏仕官以前の10年ほど、光秀は家族ともどもこの寺に世話になっている。だから細川ガラシャについて書かれた本にも称念寺が載っている。(明智玉が生まれたのは永禄6年・1563年だからここで生まれている)
また、光秀の妻・煕子が髪を売って夫のために金を用意したという有名な逸話が残る場所であり、これに因んで松尾芭蕉が「月さびよ 明智の妻の 咄せむ」と詠んだ。この句碑は境内にある。明智家とこの寺の関係は深い。
また光秀は、家族を称念寺に残し全国を放浪したという。これが後の光秀が財産となる。この称念寺は時宗である。時宗は全国に情報網を持つ特殊な宗派で(しかも南朝寄り)ある。その情報網を利用したに違いない。ちなみに、徳川・松平家始祖となる世良田(徳川)親氏も時宗の僧・徳阿弥となって、諸国を巡り三河に流れ着いたことなっている。つまり、称念寺、時宗がキーワードになるということ。ここに光秀が関わっていくということです。
でもこれはまた別の話。

また、余談として、「称念寺」は新潟県上越市にもあるが、これは「2世園阿の時、足利尊氏が新田義貞の菩提所として建てた越前長崎称念寺の住職を兼帯し称念寺と改称。<中略>慶長十六年大久保長安から150石の朱印地を寄進され、葵の紋の使用を許された…」(角川日本地名大辞典から)とある。
ここには大久保長安が出てくる。これもまた別の話。

2-① 円福寺  群馬県太田市別所町
新田氏累代の墓(画像は新田氏累代の墓)
円福寺は、かつては新田宗家の住居があったと伝わり、新田氏累代の墓がある。円福寺があったあたりが由良と呼ばれたことから『由良殿』ともいわれたという。後に義貞菩提寺・金竜寺を建立した横瀬氏が新田系を顕示するために「由良氏」を名乗ったのもそのような理由からでしょう。(これが仮名手本忠臣蔵の大星由良助の役名はここからきているとにらんでいるのですが、これもまた別の話)
新田次郎著の小説「新田義貞」の中にこういった解説があります。
『円福寺は、無住職の寺で、荒れ果てた境内の裏手を廻ったところに五輪の塔が数基並んでいた。新田氏代々の墓だといわれても、にわかに信じがたいような佇まいであった。新田氏代々の墓という感じはなく、どこかそのあたりにころがっていた五輪の塔をそこに集めて置いたようにさえ見えた。訪れる人は無いらしくなにもかも忘れさられた過去を見るように悲しい気持ちで五輪の塔に手を合わせると、頭上で小鳥の声がした。それが救いだった』と書いています。

ここ以外にも、東毛地区の新田氏関連寺院には新田義貞の供養塔などが必ずあるはず。太田の大光院、大慶寺など、この周辺にはかなりの数があると思われる。

2-② 「金龍寺」  群馬県太田市金山町、「金龍寺」  茨城県龍ヶ崎市若柴町
 金龍寺
金龍寺は、新田義貞の孫・貞氏を祖とする由良氏(横瀬氏)が、応永14年(1407)に金山の麓に建立した寺。天正十八年((1590)に由良国繁が牛久城主になった時、金龍寺もいったん牛久の新地(現在の東林寺)に移り、その後、山口氏が牛久藩主に任じられた際に龍ヶ崎市若柴に移った。金龍寺は、新田家(由良氏)の菩提寺で、新田家累代の墓所や義貞の供養塔がある。上野国の金竜寺は、館林城主・榊原康政の手で再興され現在に至っている。
また、一説には、金山城主であり、新田氏族であった岩松満純が、越前の慈眼寺を開いた天真自性を呼び、義貞追善のために建立したのが始まりといわれます。義貞の遺骸を越前の称念寺から、その金竜寺に運んで、改葬して大法要を行ったといわれます
慈眼寺は、福井県今庄町にある。1387年のこと天真自性禅師が開基した曹洞宗の寺で、盛寺には末寺を千二百寺も有したと伝わっている。
金竜寺と慈眼寺は、末寺と本寺の関係で、天真自性が上野国まで義貞の遺骸を運んで追善法要を行って寺まで建てたとなると、もしかしたら、新田・南朝に関係があった人物であるかもしれない。(ただしこれは確証なし)
だが、ここで慈眼寺という寺名が出てくるのが実に因縁深い。(これもまた別の話)

3 
  勾当内侍が関連するものとして、①往生院  京都府京都市右京区梅ケ畑上ノ町
②京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町 ③滝口寺  京都市右京区嵯峨亀山町⑦蔵光寺  福島県東白川郡棚倉町富岡
とここは、前回書いたところ。

ということで、新田義貞の墓、供養塔に関する場所はだいたいこんなところでしょうか。

次回は、「義貞の首」を祀ってある場所とその伝承について書きます。

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