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グリコ「かるじゃが」のCM、凄すぎ!

最近見たCMではグリコ「かるじゃが」が好き。
これすごいです。ハイテンションの神懸った感じがたまらない。(音楽はYOSHIMI、映像は後藤章治)

最後の「うまい」の文字と「グリコ」と入るタイミングがいい。
ロングバージョンはグリコホームページにあります。

とにかくインパクトのあるCMが好きなんですよ。
トクホンの「ハリコレ」のCMもいい、といったら周りの人に趣味が悪いといわれました。どうでしょうか?

ドコモとかJRAとかのドラマ仕立てのCMはどうも苦手。「続きはネットで」みたいなやつ。CMは15秒で勝負しろって言いたい。(まあ趣味の違いですから)
ドコモなんて、「そろそろ反撃してもいいですか」なんていうCM作って、ちっとも反撃できなかったくせに、似たようなCM作りやがって! またダメでしょうね。

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新田義貞ファンは「高柳光寿」の擁護論を読んで、立ち上がろう!

新田義貞についての人物評を集めていたら、あまりにも悪評が多くて辟易した。
ただ単に、人気がないというのならまだ許せるが、明らかに悪意ある人物評を書いている人も多い。
批判される点を上げると、①戦下手、大将の器ではない。尊氏との比較 ②正成との比較 ③勾当内侍の存在、大別するとこのあたりになるだろうか。
①、③は簡単に反論はできるし、ある意味言われても仕方ない面もあることは確か。(理由は東毛奇談で) だが、やっかいなのは、②だ。「楠木正成」信奉者が新田義貞を痛烈に非難し、嫌悪している点で、正成の死まで義貞の所為にしているということだ。
北方謙三の小説「楠木正成」を読んだが、この中で義貞は愚将として描かれていて、激烈に悪く書いている。ここに出てくる義貞(新田一族を含む)はひど過ぎる。ある意味、悪意に近い。これは影響力のある人気作家の、南北朝時代を描いた代表作の一つなので、読んだ人も多いだろう。この義貞像を本気にしている人も多いようだ。
(逆にみれば、正成信奉者側から見た義貞をよくあらわしているともいえる。)
それに、「義貞愚将論」を主張する人の多くは、勾当内侍との恋に溺れたとか、犬死にだったとかいった部分のみばかりを強調している。どうもそういったスキャダラスな点を誇張していけば面白おかしい歴史モノが書けると思っているようだ。これが義貞の人物像をかなり歪めていると思う。またこうした先入観をまともに受けて、大した考察もせずに「義貞愚将論」をそのまま書き連ねる者も多い。この義貞評が世間に広まり、巷間に浸透させる結果となっている。
天下の名将とまでは言わない、太平記の美談ばかりを取り上げろ、とまでは言わないが、あまりにも公平さに欠いていると思う。
一方、義貞を擁護しているのは、奥富敬之、新田次郎、高柳光寿、小和田哲男などがいる。南北朝時代を全体からよく見た研究者には、義貞の存在がよく見えていると思う。また義貞のみならず、新田一族を全体としてとらえてみれば、彼らの戦いがいかに「悲劇性」を生んでいったことが分かるというものだ。
その中でも高柳光寿が書いた「足利尊氏」(春秋社)の新田義貞評がかなり的確ではないかと思う。特に先ほどの②楠木正成との比較についての弁が的を射ている。
高柳光寿 尊氏
この本は面白い。
高柳光寿氏は、戦国史の泰斗・権威と評される歴史学の大家である。Wikipedia
その日本史の大家である高柳氏の南北朝時代論で、かなり独特で面白く、実に読みやすい。(南北朝時代の人物を信長や秀吉、家康、源頼朝などといった馴染みの人物と比較、対比させたりしていて理解しやすくなっている) それに、まだまだ皇国史観の残っていた時期に、南北朝時代というデリケートな時代を独自な視点で解明していくさまはある意味スリリングだ。
しかも、この本が書かれた昭和30年(改稿が昭和40年)、この時代、皇国史観の残滓と唯物史観の勃興との狭間にあって日本史の研究が大きく揺れ動いていたことも窺い知ることもできる。しかし高柳氏はこれらどれとも迎合せずに、真っ向自分の意見をぶつけて闘うことを「序文」「あとがき」等で書かれていて、この姿勢が実にカッコイイのだ。こういった昭和の時代背景も知ることができて、そういった意味でもかなり興味深い。
しかしこの本、昔のものでもあり、現在は入手しにくいし、ネットで見るとかなり高価となっている。しかも図書館では閉架になっていることも多い。そこで、新田義貞の弁護を含め、これらが書かれている部分を書き起こしてみた。本は500ページ超の厚い本であるが、義貞は数10頁となっている。とりあえず新田義貞の部分だけを要約してみた。本来なら、全文書き写しのようなことはしないが、この文章を細切れにすれば、真意は伝わらないと判断し、敢えてそのまま引用した。素人の私がウダウダと「義貞擁護論」を書き連ねるよりも、歴史の大家の論を載せて方がよほど、分かりやすいだろうと思った次第です。
なお義貞を弁護、褒めている部分は太字にしてあります。そこを目安に読まれてもいいでしょう。

まず「尊氏・義貞の登場」の項から、
「これを極論すれば、北条氏討伐の実を挙げたというところに、新田氏の悲劇が生じたといえる。それも新田氏が楠木氏のような名もなき家であったならば、足利氏の下風に容易(たやす)く立つこともできたであろう。しかし、新田氏はいまは足利氏よりは衰えているとはいえ、祖先を尋ねれば些かの遜色をも見えない家柄である。この家系に加わるに、義貞自身が名将といわれるほどの人物であった。義貞自身暗愚であったならば、歴史は全く別の解決をとったであろう。尊氏と義貞との対立は全く宿命的であったといえる。
もうのっけから義貞を名将としている。

さて、義貞の項は「義貞の戦死」という題で、義貞が北国落ちするところから始まっている。以下長文を引用。
「義貞は後醍醐天皇に裏切られた。この言葉は少し強すぎるようだが、煎じ詰めればそうなる。「太平記」は、天皇は義貞になんら告げることなく京都に還幸されようとした、と書いている。この「太平記」の記事が、かりに誤りであって、また天皇は義貞と合議の上で還幸されたとしても、天皇が尊氏の請いを容れて京都へ還られるということは、それがまた一時の謀略であったとしても、義貞にとっては大きな打撃であることに差異がない。義貞は天皇を信頼し、天皇の政治的な力に依頼して軍事的行動をとってきたものであるからである。相談を受けたとしたら快く承知をしなかったであろう。「太平記」は、相談をしなかったので、堀口貞満が居直った、と書かれているが、相談を受けたとしても居直るのが当然である。そこで、後醍醐天皇は義貞の抗議を半分容れて、恒良親王を皇太子とし、この皇太子と尊良親王とを義貞に付属させ、自分は京都へ還られるということになった。私はここで半分義貞の言い分が通ったように書いたが、実は本尊の後醍醐天皇は京都へ行かれたのであり、恒良親王は後醍醐天皇の身代わりであってみれば、義貞の抗議は十分の一、せいぜい十分の二が通ったというに過ぎない。
そこで考えられることは、前にも述べたが、この際に譲位が行われたという説である。私は、どうしてもこのとき譲位が行われた(後醍醐天皇の本心ではなくても、義貞に迫られて)のはほんとうではないか、と思う。それは「太平記」の記事や金崎から出された綸旨があるばかりでなく、前に光厳天皇に譲位され、のちまた、光明天皇に譲位され(両方とも後醍醐天皇は本当の譲位とは思っておられないが)ている後醍醐天皇の行動から考えて、そう思われるのである。そして神器の授受もまた行われたのではないか、と思う。これも光明天皇に偽器を授けられた後醍醐天皇である。恒良親王にだって偽器を授けられない、とは決していわれないであろう。良質ではないが、「太平記」にも、「歯長寺縁起」にも、そう記してあることは、前にも述べた通りである。また「得江文書」に白鹿元年(1345年)の年号が見える。故田中義成博士はこれを北陸の宮方が使ったものであろうといっている。これも北陸朝廷の傍証になるであろう。それにしても、尊氏の場合はともかくも、義貞が後に偽器と知ったらどんなにくやしかったであろうか。いや、義貞もこのとき授けられた神器をのちになって偽器と知ったかもしれない。
建武三年十月、義貞は後醍醐天皇と袂を分って北国に向かうことになったが、このとき、源氏重代の薄金という赤威を坂本の日吉山王に奉納した。この鎧はいま社頭にあると聞いている、と「梅松論」に書いてある。「太平記」は当家累代の重宝鬼切という太刀を奉納した、と記しているが、どうもこれは鎧の方が正しいようだ。この際における義貞の心事を忖度すると、自分の一生もこれまでだ。そういう気持ちで奉納したのではないか、と思う。もちろん、武運の長久を祈ったには相違ない。しかし、その奥にあるものは凛々たる勇気ではなかったであろう。私にはどうもそう思える。この奉納は十月十日のことと推測する。
十月十一日坂本を発った義貞は琵琶湖の西岸を海津に向かった。見はるかす山々はすでに雪を被っていた。湖水を渡る風は一入身にしみた。海津から敦賀へ出る七里半超えは斯波高経の兵が塞いでいると聞いていたので、海津へ出てそこから別の道を経て、近江、越前の国境を越えることとなった。ところが、この山中で吹雪に遭った。糧食に不足し、防寒の用意を欠いた軍隊は、多数の凍死者を出した。河野・土居・得能らは敵の襲撃を受けて自殺し、千葉貞胤は道を失って、敵中にまぎれ込んで降参した。義貞はやっと敦賀に着き、金崎城に入ることができた。これが十三日だったという。
義貞の命運は坂本撤退のときに尽きたといえる。それがこの国境の遭難によってほとんど決定的となった。それでも彼はまだ将来を放棄しなかった。金崎へ入ると、部下の諸将を要所々々に分遣し、遠く越後との連絡も忘れなかった。そしてそれを急速に実行したらしい。この坂本出発以後の義貞の行動は「太平記」によったものであるが、こののち義貞の行動もだいたい「太平記」によるほかはなく、前にも述べたようにほとんど分明でない。それは良質の史料に見えないからである。わずかに「白河証古文書」によって、十一月十二日恒良親王の綸旨を下して、結城宗広の来援を求めたことが知られる程度である。もちろん、この他に文書等、良質の史料はあったに相違ない。けれども、それが残存していないのである。これはこののち義貞と行動をともにした人々の家が亡んだことが大きな原因であろう。それほどにこれからの義貞は非勢に向っていったのである。
踰(こ)えて、建武四年(1337年)正月早々から、尊氏の兵は斯波高経・高師泰らが大将となって金崎を攻めた。十八日には合戦が始まった。二月十六日には脇屋義治が杣山城から後巻として来援したが成功しなかった。そして三月六日に金崎城はついに落城し、尊良親王と義貞の長子義顕とは自殺し、恒良親王は京都へ送られた。この城の攻防は凄惨を極めた。城は堅固であった。けれども、糧食は乏しかった。この点が重要であるのだが、朱子学によって育成された精神家や観念論者はそれを理解し得ない。しかし、この場合義貞が観念論で糧食を準備しなかったのではない。糧食を準備したくても、それができない状態に義貞は置かれてしまったのである。城内では軍馬を殺して食したという。今日から考えれば当然なことであるが、当時の信仰からいえば非常のことであった。兵数もまた十分ではなかった。坂本在陣当時においてさえ、尊氏の兵に匹敵できなかった。それなればこそ、後醍醐天皇は尊氏の請いを容れて京都へ行かれたのである。この後醍醐天皇の還幸に従った兵は少なくない。江越国境の吹雪はさらに兵数を減少させた。その上に、戦略的な意図からこの少兵を分散の状態におくことを余儀なくされた。そんなわけで、ひとたびは杣山城からの外援があったが、その他の外援とてはない。こうして金崎は落城したのである。ここに至って、義貞の勢力はその根柢をも残さずなったといってよい。
義貞は落城前に弟の脇屋義助と城を出て杣山城に入った。高経らは金崎落城の際、義貞の屍が見付からなかったが、荼毘されたと聞いて追窮しなかったという。けれども、追窮を必要としないほど義貞の勢力は凋落したといえる。しかしこののちも、義貞は佐々木忠枝を越後の守護代に補するなど、なお勢力の挽回に力を致しており、越後の味方は尊氏方と戦っている。おそらくは義貞の指令の下で動いていたのであろう。しかし杣山は何といっても瓜生氏の居城である。義貞の本拠でもなければ、属城でもない。言ってみれば、破産した主人がもとの使用人の家に厄介になっているようなものである。そんな具合で、金崎落城後約一年は、義貞は蹙足の状態であったが、暦応元年(1338年)になると、兵をまとめて斯波高経とよく戦った。すなわち五月二日には高経を足羽の黒丸城に追い籠めたという。そして六月にはまた越後の兵が遠く来援したとも伝えている。苦境にあって、ここまで持ってきた義貞の努力と統率力とについて私は敬意を払いたい。
しかし、義貞は、この暦応元年閏七月二日、平泉寺衆徒の籠っている藤島城を攻め、燈明寺畷で馬を深田に踏み入れ自由を失ったところを流箭に眉間の真中を射られ、いまはこれまでと抜きたる太刀を左の手に取り渡し、みずから首をかき切って死んだという。義貞戦死のときの年齢は長楽寺の「新田系図」および由良家の「新田由良系図」には三十九歳、「諸家系図纂」の「源氏系図」には三十八歳、鑁阿寺の「新田足利両系図」には三十七歳としている。いずれもそのまま信用できる史料では決してない。けれども、義貞は尊氏よりも年長であったらしく、だいたい、このくらいにしておいたら、あたらずといえども遠からず、というところであろう。

義貞の人気はそう悪くない。しかし正成に比べる遠く及ばない。それ後世においてばかりでなく、当時においても同様であった。これは、何故であろうか。それで第一に考えられるのは義貞の地位である。建武の新政は崩れ去った。後醍醐天皇の計画は失敗した。この責任を負うべく正成はあまりにも低い地位にあった。ところが、義貞はそうは行かない。義貞は尊氏と対等とまでは行かないまでも、対抗する地位にあった。対抗する地位に立たされた。失敗の責任は当然後醍醐天皇自身が負うべきであるが、人々はそうはさせない。後世になると、良心が腐敗して私利私欲を先にしたから、それで中興の政治が瓦解したと、失敗の責任を人民に被せてしまうというありさまである。こういう気持が、正成が湊川で死ななかったならば、という気持ちになってくる。そうすると、それがまた正成は湊川で死んだのに、義貞は逃げ帰ったではないか、ということにもなってくる。そしてそれが一歩進むと、いったい義貞は何をしていたのだ。総司令官として無能ではないか。そういうことにまでなってくる。そこで頼山陽さえも、義貞に任せたところを正成にさせたなら、犬羊狐鼠の賊に朝廷を蹂躙させるようなことはさせなかったろう、といわせるに至ったのである。まことに気の毒というほかにない。
私は、義貞は立派な軍人であった、と思っている。そして彼も尊氏同様、心の底では天下を取りたいと思っていたのではないか、と思う。それが尊氏と対抗しなければならない境遇に置かれた。独力で対抗ができない。後醍醐天皇の下で働くことを余儀なくされた。ところで、それがこんどは彼の行動を束縛する。政治的にはもちろんのこと、軍事的にも干渉される。具体的にいまその例をあげることは困難であるが、それでも後醍醐天皇が尊氏の請いによって坂本から京都に還幸されたときだって、それが義貞の計画に齟齬を与えたことは確実である。それなればこそ、義貞は敦賀への退去にあたって降雪の山中に敵の追撃を受け、多大の苦難を嘗め、多大の兵力を失ったのであった。この損失がやがて金崎の落城となり、彼自身の不遇な戦死となったともいえる。湊川のときには武士である正成の意見は用いられなかったではないか。おそらくは後醍醐天皇の側近は同じく武士である彼を尊重していなかったであろう。北畠親房にしても、彼を尊重しているような様子は少しも見えない。それは正成に対しても同様であったが、親房は、義貞が高時誅伐の功を樹てたときにも、源義貞という者があり、高氏の一族で世の乱れに思いを起こして、いくばくならぬ軍勢で鎌倉に討ち入ったが、高時の運命が極まったので、国々の兵が多く義貞に従い、高時をはじめとして一族皆自滅して鎌倉を平らいだ、と記して、高時の滅亡をあたかも天運によるが如く記しており、また義貞が戦死したときには、北国に在った義貞も、たびたび召されたけれども上る(上方へ)ことができないで、させることもなくて空しくなったと聞こえた、と他人事のような冷淡な態度を示しているに過ぎない。
ところが、この親房は顕家の戦死については、戌寅(建武5年)の春二月鎮守府の大将軍顕家卿はまた義良親王を奉じて重ねて打ち上がった。そこで海道の国々は悉く平定された。で、伊勢・伊賀を経て大和に入り、奈良の都に着いた。それから処々で戦い、互いに勝敗があったが、五月和泉の国の戦いで、“時や至らざりけん、忠孝の道ここに極り侍りにき”といい、さらに、“苔の下にも埋もれぬものとて、ただいたづらに名をのみぞ留めてし、心うき世にも侍るかな”と感慨までも漏らしている。この感慨が悪いというのではない。また顕家の戦功を過大に評価している。(海国の国々が平定されたというのは不当である)のが悪いというのではない。これは親子の至情である。美しく見えても決して醜いとは思わない。
けれども、この顕家に対する態度と前の義貞に対する態度を比べてみると、そこに格段の相違があることがわかる。自分も顕家も、そして公家衆は“選ばれた人”であるが、義貞らは“東夷”に過ぎない。そういう意識を親房が公家衆がもっていた、と私は感ぜざるを得ない。こういう公家衆と行動を共にして、その掣肘を受け、こういう公家衆の指揮下にあって、その命を奉じなければならなかった義貞を、私は哀れだと思う。
しかし、義貞は武士の間では尊重された。敵方である「梅松論」の著者も生品神社における挙兵を記して、上野国から新田左衛門佐義貞が君の味方として当国世良田に討って出て陣を張った。これは清和天皇の御後胤陸奥守義家の三男式部大夫義国の子息大炊助義重(新田氏の祖)の子孫で、陸奥新判官義康(足利氏の祖)の連枝である。潜かに勅を蒙るによって、義貞一流の氏族は皆打ち立った。まず山名・里見・堀口・大舘・岩松・桃井、皆一人当千でないものはないといい、また竹の下の敗戦に敗軍を率いて天竜を渡ったときのことを記しては、これを聞く人みな涙を流して、弓矢の家に生まれては誰もこのようにありたいことだ、疑いなき名将だ、と称賛を惜しんでいない。
そして少弐頼尚は足利方の有力者であったが、湊川の戦況を報じた(宛所逸して分明ではないが、仁木義長に宛てたものらしい)書中で、正成のことは楠判官正成と書いているが、義貞のことは新田殿と記しており、さらに「太平記」の作者は、尊氏をば尊氏卿といい、義貞をば義貞朝臣といって、官位相当の敬称を附し、用語もまた何々し“給う”というように敬語を用いているというありさまである。
「太平記」があれこれと義貞の美事・善行を記載していることはいうまでもないが、例えば、湊川の戦いを記しては、官軍の総大将(義貞)と武家の上将軍(尊氏)とが自分で戦う戦争だから、新田・足利の国の争い、いま限りと見えた、記して、正成のことは一部局の戦いとして扱っているに過ぎず、また尊氏が東上して京都で義貞と戦った条には、御治世両統(持明院統・大覚寺統)の聖運も、新田・足利多年の憤りもただ今日の戦いで定まると、気を詰めない者はなかった、と述べている、というありさまである。これは武士は互いに相手の力を認めていたし、また世間一般(「太平記」の作者は不明であるが、そして一人ではないだろうが、一般人の一人として取り扱って差支えあるまい)では、武士の実力を認めていた結果にほかならない。こう考えてくると、義貞に対する当時一般の評判は決して悪くないといえる。
このように、義貞の武将としての価値は十分に認められていた。公家衆といえども、自家の走狗のように思っていたかもしれないが、いざ戦争となれば義貞を重用しないわけにはいかなかった。そういう義貞ではあるが、その人気は当時といえども、正成に遠く及ばなかった。それは前にも述べたように、結局、彼が敗戦の責任者であるかの如く思われたためであり、また尊氏の競争相手であったからにほかならない。そして後世になると、義貞の人気は正成のそれとその差を一層甚だしからめた。それは忠義の観念の変化によることであり、彼と尊氏との対抗的地位が、彼の私欲からきているのではないか、という感情を人々に抱かせた結果にほかならない。けれども、彼の価値がそれによって低下するものではないことは、前に述べた忠義の観念のことについて述べたところで明瞭であろう。
《注、この「忠義の観念」というのは「正成のこと、下」のところに出てくる。「当時の武士の忠義は打算の上に成立していた。しかしこれは不名誉なことではなく、一家、一族の安泰を欲するのは当然のことだ、ということ。》

後醍醐天皇が尊氏の請いを容れて坂本から京都へ還られたことは、義貞にとっては全く致命的な事件であった。堀口貞満が後醍醐天皇を面責諫奏して元弘の義貞の功は上古の忠臣にも類がない。そののちも万死を出でて一生に遭うことたびたびである。そして天皇のために命を落とした一族は百三十二人、郎従は八千余人に及んでいる。いま、洛中数ヵ度の戦いに官軍が利を失ったのは全く戦いの咎ではない。ただ帝徳が闕けているので、味方に来るものが少ないためである。詮ずるところ、新田家累年の忠義を捨てて京都へ臨幸されるならば、義貞をはじめとして、当家一族五十余人を御前に召出され首を刎ねよ、と迫ったという。これは「太平記」の記するところで、もちろんそのままには信用できない。けれども、当時の情勢からいって、いみじくも描き得たと思われる底の記述である。
官軍の敗戦は戦争の仕方に拙劣なわけではなく、帝徳に闕けるところがあるからだ、と貞満はいっている。貞満が果たしてこんなことをいったかどうか別問題としても、「太平記」の作者がそう貞満にいわせているところに問題がある。後醍醐天皇の政治に無理があることは、当時の人々も感じていたに相違ない。それがこの記事になった、考えることは決して無理ではない。今日から考えて、天皇の政治が時代逆行の政治であったことは前に述べた通りであるが、それでなくても、いろいろ無理をしておられた。
それにしても、頼山陽が、後醍醐天皇が義貞に任せたところを正成に任せたならば、尊氏にあんなことをさせなかったろう、といっているのは暴論も甚だしいただしいというべきである。それは単に反実仮説の言論であるというだけではない。後醍醐天皇が義貞に任せたというが、いったい、何を後醍醐天皇は義貞に任せたか。わずかに前線における戦闘だけではないか。それも竹の下の敗戦のときの総司令官は上将軍尊良親王であり、彼は朝敵討伐の宣旨を賜ったに過ぎない。ほんとうに総司令官になったのは兵庫の敗戦以後といってよい。しかしそれすらもいってみれば、戦術だけの委任である。戦略は任せてあったとは考えられない。いわんや謀略においてをやである。戦争に戦術が重要な価値を有することはいうまでもない。けれども、戦略がそれに劣らぬ価値を有することはもちろんである。そして謀略もそれに譲らぬ重要さをもっていることも否定できない。戦略や謀略は政治に直結するものであるが、戦術は決してさようなものではない。戦争の勝敗は謀略・戦略・戦術によって決定される、と普通にいわれている。しかし私は、それは政治によって決定されるものだ、と考えている。チャールス十二世はついにピーター大帝に敗れてしまった。義経は到底頼朝の敵ではなかった。秀吉や家康を単なる軍人と思ってはいけない、彼らはいずれも優秀な政治家であった。義貞はどれだけ政治を任されていたか。上野と越後と播磨との三ヵ国、それも国衙領だけではなかったか。これに対して、尊氏の政治地域は全国に亘っている。これで尊氏に勝とうというのは無理である。残りの部分は全部後醍醐天皇がやっておられる。これで尊氏に勝てる道理がない。正成の元弘三年における成功は正成の政治の成功でもなければ、後醍醐天皇の政治の成功でもない。北条氏の政治の失敗である。北条氏の政治の失敗に対して、正成の謀略の優秀さが彼をして成功させたに過ぎない。

中略  ここで永禄四年(1561年)上杉謙信の関東に侵入を例に出して、大いに頼山陽を批判している。

以下本文に戻る。
頼山陽は詩人ではあったかもしれないが、決して歴史家ではない。前に述べたような義貞に対する評価は事実の研究の上に立った議論では決してない。全く一笑に付してなんら差し支えないものである。
しかし誤ってはいけない。後醍醐天皇が義貞に政治を委任しなかったのが間違いというのでは決してない。制度としては軍人に政治をさせる方が間違っているのである。武家時代は武家政治の時代だから、武士が政治をした。それは致し方ないことであった。文官優先は古今東西を通じての鉄則でなければならない。敗戦前の日本が軍の統率権を政治から独立させたのなどは全くの無茶である。明治十年の西南戦争で、山県有朋は陸軍中将として前線の司令官となったが、後方で指揮をとったのは内務卿の大久保利通であった。それでよかったのであるが、山県としてはこれがよほど口惜しかったらしい。それで軍の特権を認めるという、あんな無茶を考え出したものと思う。軍人が政治家に勝った例はないのである。尊氏(直義であったかも知れないが)だって武士ではあったが、後醍醐天皇よりは優れた政治家であったのである。
宮方と武家家との戦争を「太平記」は新田・足利両家の戦争といっている。そして持明院統の興廃も大覚寺統の興廃も新田・足利両家の興廃によって決定するようにいっている。すなわち「太平記」は後醍醐天皇と尊氏の戦争だとは考えていないのである。このような考え方はおそらくひとり「太平記」ばかりではなく、当時にあっては、社会一般の通念であったであろう。この社会通念の背後には、義貞をば尊氏と相似た存在である、という考えがあったと見てよい。すなわち尊氏は天下の兵権を握って鎌倉幕府の跡を襲(つご)うとしているし、義貞もまたそうしているという考えがあったろうということである。尊氏は家を興したい。すなわち頼朝の遺業を継いで幕府を開きたいと思った。義貞もまた同様に思っているであろう、と人々は考えていたに相違ない。義貞にそういう考えがあった、という確証はない。けれども、それは当時の人々と同様、そのように考えることが妥当であると信ずる。
ところが、論者の中にはこういうことをいう人々がある。それは古文書によると、尊氏は所領を安堵したり、また宛行うときに御教書の形式をとっているが、義貞は国宣の形式をとっている。前者は王政を無(な)みするものであり、後者は王政の典例を重んずるものであって、義貞の尊王の志は些の疑むべきではない、と。義貞は家系こそ尊氏に匹敵してはいたが、先祖は守護にもなれなかった家に生まれた。それが上野・越後・播磨の三ヵ国の知行主になった。うれしくてそれを振り廻したかった。当時の人々は江戸の漢学者のようにひねくれてはいなかった。純情の義貞が嬉しがったのは当然である。けれども尊氏はいまさらそんなものを振り廻す気になれない。それよりも将軍家御教書の方がよい。それでそのようにしたようにしたと考えても差し支えあるまい。義貞は、越後は子の義顕を名国司にして越後守といわせており、そして国宣には越後の分は自分が知行主として、また上野・播磨の分は知行主兼大介(おおすけ)として署名しているというありさまである。尊氏の方は初めの間は自分が武蔵守に任ぜられていたが、間もなくそれを家宰高師直に譲っているというありさまで、国司ぐらい何だといった調子である。これは勤王の志が厚かったとか、薄かったとかいう問題ではなく、志の大小によって決すべきであろう。頼朝は九ヵ国の知行主であったが、一度だって、国宣の形式でそれらの国々に安堵状を出したことはない。義貞が国宣の形式をとったのは、うれしまぎれでないとすれば、公家一統の世の中であるので、それに迎合したものともいえる。
こういうと、義貞は頼朝の遺業を興そうなどという考えは一向になかったようにもなるが、しかしそれだからといって、その志がなかったとはいえない。世間でそう認めてくれれば、義貞だってそういう気になる。人間はいつまでも一つのところにいるものではない。なるほど、義貞は元弘三年十月から翌建武元年四月頃までは国宣の形をとって諸事を執行している。けれども、建武三年になると、御教書の形式をとって軍勢の催促をしているのである。これは義貞が天下を望んだ、という証拠にはならないかも知れない。しかし義貞にとって不名誉でも何でもないはずである。
もっとも、従来は義貞を純忠(恩賞を豫想しない忠義)の士と考えることは、義貞に対する冒涜であるというに相違ない。そしてそういう人々は、当時一般の忠義と恩賞を豫想するものであったとしても、義貞はそのような範疇の外に立つ純忠の士である。故に尊い、というかも知れない。なるほど思想家の中には、一般社会人と一見全くかけ離れた考えをもっている人々がある。けれども、そういう人々の思想だとて、その人々の生きた社会と全然没交渉ということはあり得ない。よく見れば、実はその生きた社会と深い関係にあることが明らかになるはずである。義貞は鎌倉末から南北朝へかけての人であって、決して江戸時代中期以後の朱子学全盛の時代の人ではない。いわゆる義貞純忠論の誤りであることはいうまでもない。
ところで、尊氏も義貞も共に家を興し得る地位にあった。けれども、尊氏の方が義貞よりより有力な地位にあった。そこで尊氏は早くもこれが実現を期した。それが後醍醐天皇への背叛となった。義貞は尊氏との対抗上、後醍醐天皇に附いた。義貞としてはその方が野望実現の道だ、と考えたかもしれない。それもあったろう。それよりも大きな事実は、尊氏の方から義貞を敵に廻したことである。義貞の方でも早くから護良親王と結んで尊氏を敵とした。けれども、尊氏の方からは、それよりも早く高時滅亡の直後に、細川和氏らが義貞に対して圧迫を加え、時行討伐の後には、公然と義貞誅伐を後醍醐天皇に奏請したのであり、義貞はここに全く尊氏のために後醍醐天皇方に立つべく追い込まれたのであった。義貞の立場は建武の新政に与同すべく余儀なくされたのである。そこへ行くと正成は違う。正成は後醍醐天皇に味方しようと、尊氏に味方しようと、自由な立場にあった。義貞の立場と、正成の立場とは、この点が相違していた。
最近ではまた、尊氏は民衆の味方をしたから勝った、義貞は民衆の敵になったから負けた。こう簡単に型づける人々がいる。しかしこれはそう簡単に型づけられないことはいうまでもないが、かりに後醍醐天皇を民衆の敵だとする。これだって、後醍醐天皇はなるほど負けた。義貞は後醍醐天皇に味方して負けた。これも事実である。しかし尊氏はどうか。また直義はどうか。尊氏がはじめ直義と争ったときは、直義は後醍醐天皇の御子後村上天皇に降参して、天皇の味方となって尊氏と戦った。ところが、直義は尊氏に勝ったのである。そして、二度目に尊氏が直義と争ったときは、こんどは尊氏が後村上天皇に降参した。天皇の味方として直義と戦った。そして尊氏は直義に勝ったのである。この二つの例は後村上天皇に味方した方が勝っているではないか。これらの場合の後村上天皇は、この人々にいわせれば、民衆の敵であろう。それなのに、その民衆の敵の方が勝っているではないか。民衆の味方が常に勝つとは必ずしもいえないのである。勝敗の分岐は民衆の敵とか、味方とかいうことでだけで決定するものでないことがよくわかるであろう。すなわち、そこには社会的ないろいろな条件の存在とともに、個人的ないろいろの力がはたらいていることをも知る必要がある。すなわち義貞が尊氏に負けたというところには、反動的な後醍醐天皇の味方になったということのほかに、個人的にも、彼自身が尊氏に及ばないところ、例えば、政治的な能力とか、人を引き付ける魅力とかいうものが、尊氏よりも劣っていたと考えなければならない。
歴史は歴史の意志によって動く。だからといって、そこに個人の意志がはたらかないわけではない。しかし個人の意志は歴史の意志と同じ方向をとるときによりよくはたらく。そしてこれに反する場合は、歴史の意志によって歪められる。そして長い間には敗れてしまう。それが歴史である。建武の新政が歴史の意志の向うところと合致するかどうか。すなわち正しいか正しくないかということは、今日からは容易に判断できる。けれども、当時にあっては、容易にできるものではない。それは一口に民主化といっても、民主化には段階があるからである。小児が成人になることは正しい。だから、これを阻止するようなことは正しくない。しかし小児から一足飛びに成人にしようとしたらどうなるか。成人にしようという考えは正しい。けれども、方法が間違っている。考え方だけが正しければそれで正しい、とは決していわれないはずである。民主化させようとする考えは正しくても、それを具体化して行く方法に誤りがあれば、それは決して正しくないのである。政治は政策ではなくて方法である。だから、政治となると、いろいろな批判が生まれるわけである。建武の新政を正しいとした江戸中期以後の尊王論者も出てくるわけである。
尊氏はもちろんのこと、後醍醐天皇だって武士や庶民の幸福を願われたに相違ない。けれども、両者の間にはその方法に相違があった。尊氏は公家衆の勢力を抑えてそれを実現しようとするし、後醍醐天皇は公家衆の勢力を盛り返してそれを実現させようとした。義貞は尊氏と対抗上、後醍醐天皇を支持せざるを得なくなった。そこで尊氏は新政に対する不満を行為の上に具現させて行ったが、義貞の場合はそれが行為の上に具現されて来なかった。しかしこの相違は実は大きな問題であるのである。これは歴史の意志、歴史の大きな流れからいえば、プラスになるか、マイナスになるかの分岐点でもある。尊氏はプラスの位置に立ち、義貞はマイナスの位置に立った。これが歴史の事実である。そして歴史の意志の形をとったら、あるいは義貞が勝利を得たかも知れない。けれども、歴史の意志の顕現の大勢から見れば、尊氏の行為は、たといかりに勝負で義貞に負けたとしても正しいといわれるうるであろう。
建武・暦応の際において、歴史の意志は正しい方向で顕現された。それは建武の新政があまりにも無理が多かったからだ、といえる。後醍醐天皇の新政は敗れて、尊氏の武家政治の再現となってしまった。あまり良質ではないが、「保歴間記」という本に、義貞も尊氏の一族であるから、尊氏の命を受けて背かなかったならばよかったものを、傲れる心強くして、高位・高官にしてこのようになって、子の義顕と同様、梟首された、と書いている。結果からみれば、まさにその通りである。尊氏に背いたのが悪いといっているが、実は歴史の意志に逆らったのが悪いかったのである。けれども、尊氏の命を奉ぜよというのは、男子の意気地を無視した公家一流ないしその影響下にある文化人の意見に過ぎない。義貞は武士であった。源氏の嫡流をもって自任する関東武士であった。喧嘩をしかけて来るものに黙って降参できない。腕力には腕力で対抗する。それなればこそ死に至るまで衆の心を得ていたといえるのであろう。
斯波高経の兵が義貞の屍体を調べたところ、朝敵征伐のことは叡慮の向うところ、ひとえに義貞の武功にある。選んで他に求めない。殊に早速の計略を運(めぐ)らすべきである、と書かれた後醍醐天皇直筆の勅書を膚の守袋に入れていたという。事実であったすれば、裏切られた後醍醐天皇になおすがっている義貞を哀れと思うのは、私一人ではあるまい。彼も天下を取ろうという夢をもったことがある。しかし、それは尊氏にたたき潰されてしまった。後醍醐天皇には恩もあるが、不満もある。けれど、いまにも何かしてくれそうな後醍醐天皇である。いまとなってはその後醍醐天皇を頼むよりほかはない。そういう義貞であった。
それにしても、もしも義貞が尊氏に勝ったとしたら、彼もまた尊氏のように幕府を開くことになったであろう。これは仮説であるからもとより議論のほかにあるが、この仮説は義貞の人物とその地位とを最も簡単に表現する言葉といってよかろう。


と、以上が本文にあった義貞論です。

文中に「苦境にあって、ここまで持ってきた義貞の努力と統率力とについて私は敬意を払いたい」と書いてます。
高柳光寿は歴史学の権威であり、大家である。その人物にこう言わした義貞はやはり名将です。また、素直に、さらりと、歴史書にこんな一文を書いてしまう高柳氏に、私は敬意を払いたいです。

ほかに本書「足利尊氏」にある尊氏評もいい。
「尊氏は朗らかである。そして正直者でもある。そのうえ素直で気立ても優しい。親切でものにこだわらない、気楽で、気取ったところがない。威張らない、どうも人好きする男であったらしい。しかも戦陣において勇気がある。これでは人気を集めずにはおかなかったであろう。彼は計画性は貧弱であったらしい。それから政治性も十分であったとはいえない。けれども、事にあたって一つ一つ懸命に処理していった。そして大局の把握ができた。これらが彼を一通り成功へ導いたということができるように思う。一口でいえば、気は弱いが芯は強かった男のようである。よく困難に堪えたともいえる。」とある。
史料や、学説には非常にシビアで厳しい人だったようだが、人物に向ける視線が実に優しい。いいですね、歴史の研究者とはこうありたい。

なお本書には楠木正成、後醍醐天皇、北畠親房、足利直義、高師直など主要人物ついて詳細に触れていて、「南北朝時代」を知るには最適な本となっています。
特に、宣戦布告にも似た「序文」もいい。
是非とも、復刻を望む。

「ミシュランガイド・東京」は誰が読む? 

群馬の片田舎で「ミシュランガイド東京」を平積みしている書店があった。
一体誰が読むのだろう。

私にとってこれほど縁のない本はない。ガイドブックというが、私の人生において、絶対お世話になることのない本だ、きっと……。
また、この本に関して、ニュース番組やワイドショー番組が大々的に特集を組んでいるのも見た。
どこの店が三ツ星だとか、どこそこの店が降格しただの、昇格しただのといった話だった。
本当にどうでもいい情報だった。
だいたい、一般庶民以下の生活を送る私にとって、「三ツ星レストラン」の話など別世界のことだ。
残業でクタクタに疲れた帰りに食う「牛丼」が胃袋に染みて、夜中にすする「カップラーメン」に「たまらない」と感じ、ファミマの「モンブランプリン」が「最高に美味い」と思い、初夏に初めて食べる「冷やし中華」に感嘆し、初秋に初めてつつく「鍋もの」に涙が出そうなほどが幸せだと、思っている私だから、一食に数万円もするものに、これが「お得なコース」だという高級レストランとか、予約にするのに一か月以上かかって一見さんはお断りする高級料亭だとか、一流シェフのこだわり創作料理がご自慢で有名人が集う店、とかいった話は、私が生きていく上で全く必要のない情報だ。それに、三ツ星レストランで食事したことを必死に自慢するような鼻もちならないテレビタレントや文化人の話なんてのも、私にとってはもどうでもいい話。
(まあ、そんなこと言っている割にはよく見てるということですが…)
だからそれが東京のどこにあろうと地図まで出されて紹介されても、田舎に住む私にとって、一生行くことのない場所なのです。
こんな「東京のグルメ情報」を欲しているのは、東京周辺に住む一部の人間だけではないのだろうか。
マスコミは東京にしか通じない無意味な情報を全国に発信し、一部の富裕層だけが必要としている情報だけを垂れ流している。
東京だけが日本というわけではないだろう。

なぜこんなに批判的なのかというと、同じ日の新聞に、「いすゞ 派遣社員と期間従業員計約1400人を解雇」、「マツダは700人を解雇など」といった身につまされる記事が載っていたからだ。
それに今後、自動車業界のトヨタや日産でも派遣社員の首切りが始まるという。またこれから、名の知れた一流企業でも派遣社員や正社員の大量解雇計画が次々と発表され、近い将来、失業者や低所得者が増大するだろうと報じている。
あるテレビのニュース番組では、ミシュラン東京が発売され、高級料亭の数万円の料理が紹介た後に、リストラされた若者の職安通いの特集を放送していた所さえあった。
なんとも矛盾した世界だ。これが格差社会なのか。
こんなところで「東京の富と情報の一極集中」と「格差社会の拡大」を感じてしまった。

わたしが、ミシュランガイド・東京で紹介された高級レストランに行く確率よりも、会社が倒産するとか失業するとかいったことの方が、わが身に起こる確率としては高いだろう。
でもこれが現実。そんな人々の方が多いはずだ。


生品神社のあの「鈴」が新しくなってる! そして県下一宝くじが当たる「ジョイフル本田」で高額配当が当たった方へ

所用で、生品神社の脇を通ったら、夕日を浴びてピカピカと光るものを見た。
気になって、境内に進むと、
生品神社新しい鈴1
なんと鈴が新しくなっている!
生品神社新しい鈴2
そう、一か月ほど前の10月18日に、ボコボコの鈴を画像付きでブログに載せたからでしょうか。
その時の記事
鈴・2

まあ偶然だとは思いますが……。

そこで、生品神社の隣に住む氏子のⅠさんに聞いてみた。
(生品神社は管理する方がそこに住んでいない。お札とかを管理しているのはⅠさんらしい)
お話では、どうやら、氏子さんたちで鈴を変えたが、どういった経緯だったのかなどといった詳しいことは分らん、ということでした。
私としては、あんな記事を書いた手前、ボーナス(少ないですが)でも出たら、本気で寄進しようかと思っていました。
まあ、何はともあれ新しくなったのですから、結果オーライということで……。

この生品神社が「必勝」「勝負」にご利益があるというのをネット記事で見ました。
新田義貞の鎌倉攻めに引っ掛けてということらしい。
そう言われれば、斎藤佑樹くんが強運の持ち主だというは、ここから来ているのか?
それに、この近くにあるジョイフル本田の宝くじセンターは、年末ジャンボ、ドリームジャンボ、サマージャンボ宝くじの1等、2等が何度も出た、群馬県一の当たりが出ているところらしい。(朝日新聞、朝日ぐんま2008年11月21日付けの記事)
これも生品神社の御利益か!
で、宝くじが当たった方へ、
生品神社には狛犬がないし、鳥居は色あせているし、屋根はボロボロ、などなど……。(あくまでもお知らせ)

そういえば、前に書いたご利益のある(?)生品神社のお守りはこれでしたね。
生品神社お守り

さて最後は真面目に、
吉川英治「私本太平記」講談社文庫・第一巻の解説、松本昭(昭和女子大学教授)に以下の文面がある。彼が、足利氏史跡を訪ねた後に、新田氏の遺跡を見るために群馬県太田市に来た様子が描かれている。
「あの義貞が運命をかけた旗揚げの地、生品神社も訪れてみたが、境内には人影一つなく、入口にそびえる内閣総理大臣福田赳夫と記した記念碑のみが空虚な影を落としていた。
今は昔、南朝の大忠臣といわれ、どの遺跡にも大顕彰碑が建てられていたが、それは戦前の史観の跡を伝えるのみで、あの鑁阿寺(足利氏寺)のように昔を語ってくれる遺跡は何一つないのである。敗者とは、このようなものであろうか。それとも義貞には後世を伝える力量がなかったのであろうか。歳月のなせるわざとのみはいいえまい。この茫々、跡形もない新田ノ庄に……」
吉川英治の私本太平記はNHK大河ドラマ「太平記」の原作となったものなので、多くの人が読んだと思います。
こういった文章が、本に載っているのを見ると、いろいろな意味で胸に刺さります。


「世界・ふしぎ発見!」の中から天海、光秀、日光東照宮、世良田などが紹介されたものをまとめてみました。

前回の続き。

過去にTBS「日立 世界・ふしぎ発見!」で放送された中から、天海や光秀、日光東照宮などが出てくる回のものをまとめてみました。

 というのも、最近になってこれらを見直してみたら、これがなかなかよく出来ていると気付いたからです。(見直す切っ掛けとなったのが、例のTBSの「徳川埋蔵金」の番組を探していたときに、過去のビデオテープの中に録画したものが出てきたからです。)
 放送当時は「歴史的な真偽」を問われて、番組内容を叩かれていたようですが、いま見ると、最近放送されている一連の「日本史モノ」や「歴史ミステリー」を扱うテレビ番組よりもよっぽど内容が濃くて、よく作りこんでいると思う。しかもこの番組をただ焼き増したような内容のものさえ見かける。
 そう考えると、いまの時点から見れば、これが「エポックメイキング」的な番組になっているような気がする。実際、これらの放送後、ネットや歴史雑誌等で、この番組を基にしたものをよく見かけるようになった。

 また、テレビ東京「新説日本ミステリー」などと番組内容は同じレベルなのに、「世界・ふしぎ発見」の方が、質が高いと感じるのは、レポーターであるミステリーハンターの説明がウマいからでしょう。
「新説日本ミステリー」では、素人のレポーターの棒読みのセリフと下手な演技がひどくて、それだけで失笑してしまうことも多い。(地元のミス○○なんてのを起用しているが、これは経費削減のためか?) それにある場面では、古文書を見て「あっ勝海舟って書いてある」って言っていたが、そこに書いてあったのは「安房守」だった。まさしく「言わされてる感」が強くて、それだけで興ざめさせられる。

 で、今回取り上げる「世界・ふしぎ発見」では「水沢螢」と「川幡由佳」がなかなかいい、例の番組とは雲泥の差となっている。
では、2004年1月に放送されたTBS「世界・ふしぎ発見~日本史のミステリースペシャル~」からまとめてみましょう。
1999年9月25日放送「信長暗殺の謎 明智光秀は二度死ぬ」
ミステリーハンターは水沢螢
世界・ふしぎ発見 水沢
「本能寺の変の黒幕」と「明智光秀との共謀者」は誰かを追ってます。
当時は、立花京子氏の朝廷関与説が大いに取り上げられた時期で、それに合わせた企画だったようです。

1、小栗栖で死んだはずの光秀だが、実は生き延びて、関ヶ原の戦いに参戦していた。天海・光秀説とはまた違う「生き残り説」。画像は岐阜県美山町にある光秀の墓。
世界・ふしぎ発見 伝・光秀の墓

2、光秀が殺された場所は京都・小栗栖は勧脩寺晴豊の領地。晴豊は変後、光秀の子を助けた。
また、秀吉の変後の不信な行動から「朝廷関与説」の説明。
3、家康の伊賀越えの謎。本能寺の変で、家康が逃げ延びたのは、事前に知っていたから、ということで、家康関与説を出す。それに伊賀と家康の関係が深いことの説明。画像は伊賀八幡宮、建立は松平4代目・松平親忠。
世界・ふしぎ発見 伊賀八幡宮

4、比叡山にある「石灯篭」願主光秀。
世界・ふしぎ発見 本徳寺

これらから、最後は、明智光秀=天海説に結びつけています。
世界・ふしぎ発見 光秀・天海
ということで、「光秀・天海説」のツボを押さえた内容ですが、よくまとまって分かりやすい。後に「天海・光秀説」を取り上げるテレビ番組のひな形となっているような作りです。(ロケ地や内容が同じだということ)

2000年8月5日「東照宮の謎 徳川埋蔵金を追え!」
この回は、前回紹介した「筆跡鑑定」を含めて「かごめ歌」や「埋蔵金」、「世良田東照宮・長楽寺」などとてんこ盛りの状態となっていて、今や伝説的内容となっています。
ミステリーハンターは川幡由佳。(現在はアンディことTBSアナウンサー・安東弘樹夫人。最近子供が生まれたそうな。よかった、よかった。)
世界・ふしぎ発見 明智平
まずは、日光東照宮にある「桔梗紋」の紹介。
世界・ふしぎ発見 日光東照宮・桔梗紋
世界・ふしぎ発見 日光東照宮桔梗紋2
世界・ふしぎ発見 日光東照宮・武将
今では有名な話ですが、「東照宮に明智の家紋がある」というのが全国ネットのゴールデンタイムのテレビで紹介されたのは、これがたぶん初めてだと思う。この話が広まる切っ掛けにもなり、これ以降、このネタにした記事やサイトが一気に増えた。

そして天海。
世界・ふしぎ発見 天海の鎧
大坂城にある「天海所用の鎧」
世界・ふしぎ発見 天海絵
「関ヶ原合戦図屏風」に描かれた「南光坊天海」

そして、次が、ある意味有名な「籠目」
世界・ふしぎ発見 籠目

明智氏、天海のゆかりがある地点を線で結ぶと、あら不思議「籠目」が…。
世界・ふしぎ発見 籠目2

でも、これよく見ると変ですね。
明智光秀の出身地「可児」と移住した「福井」、東照宮の「日光」「久能山」、徳川家の「江戸」「佐渡」
と7つ選んでいる。
でも、選ばれた地点がどうも滅茶苦茶。どうにでも受け取れる場所を選択している。(佐渡はないだろう) 元ネタは岩辺晃三氏の説。
でも、光秀の重要な地点として「福井」を選んでいるところに、わたし思わず、ほくそ笑んでしまいました。そう「福井」って、あの「福井」ですよ。そうそう「越前」のあの場所……
番組ではここで一気に童謡「かごめ」と光秀・天海を結びつけてました。これもある意味有名で、これをもろネタにしたサイト記事を今でも多く見かけます。
世界・ふしぎ発見 川幡由佳

さらに本徳寺にある「光秀の肖像画」
ここに書かれている文字「般舟三昧 放下去」(仏門に入り 去って出る)から、「光秀は天海になった」と解釈している。
世界・ふしぎ発見 光秀

ここまで、散々、光秀=天海説を結びつけようとしたわけだが、「天海と光秀の筆跡鑑定」で大どんでん返しがある。「両者は別人」という結果になったからだ。
これって凄い。まるで番組自体が「ミステリー小説」のような展開をしてるわけですから。
前回記事を参照。

そして話題を変えて、幻の「世良田東照宮の埋蔵金伝説」へ。
東照宮や天海の謎を追っていく過程で、番組スタッフが「世良田東照宮の埋蔵金伝説」を知ったという。
世界・ふしぎ発見 長楽寺1
画像は長楽寺の三仏堂、天海は新田・世良田の氏寺長楽寺の住職となった。その経緯と関係についてはここで

世界・ふしぎ発見 世良田東照宮1
「天海が作った東照宮に埋蔵金伝説がある」ということで出てきたのが「世良田東照宮の埋蔵金伝説」

世界・ふしぎ発見 世良田・地図
画像は江戸からの物資を運ぶ交通の要所を説明している。川伝いに、江戸~世良田~日光とつながる。これは重要です。
高橋亮秀・長楽寺住職の話では、「幕末に加持祈祷も知らない人物がやってきて住職に成り済ました。また、あるとき大勢の坊さんらしからぬ人々がやって来て荷車に積んでいた荷物を境内に埋めたという。」
また郷土史家の話では、「ここに埋められたのは埋蔵金だ」という伝説を紹介していた。
そこで、TBSお得意の「地中探査レーダーによる調査」が行われた。
世界・ふしぎ発見 世良田東照宮 埋蔵金調査
調査の結果は、何かを埋めた跡が2か所ある、ということ。

だが、住職の話では、「徳川の文書を埋蔵したのではないか」と推測している。
いずれ許可をとって調査をしたい、と番組は最後に結んでいる。
ただし、この放送から8年経つが、今のところ全く何の進展もない。


さて、私も自説で「世良田東照宮や新田氏遺跡の残る場所に、徳川の重要なものが一時的に隠された」という話をもとにネットで稚拙な歴史ミステリー小説を公開していますが、長楽寺住職の話のように、私も徳川の謎、天海の謎を説く鍵がここに隠されているではないかという気がしてならない。(上野・寛永寺は大村益次郎に攻められ灰燼と化した。そこに、天海や徳川家の謎を解き明かすカギがあったはずなのに…。しかし難を逃がすために一時的避難そしたとなれば、それは両者ともに関係している新田氏の関連寺院が選ばれたとしてもおかしくないはず…。)

1993年8月28日放送「ジパング黄金伝説 消えた埋蔵金を探せ!」
ミステリーハンターは水沢螢。徳川埋蔵金伝説の謎を追った内容。
世界・ふしぎ発見 水沢2
水沢螢が若い。

2003年5月「江戸開府400年・徳川魔法戦記」
ミステリーハンターは前回と同じ、川端由佳
タイトルから分かるように「江戸開府400年」に合わせた企画。
江戸の町を作った「天海」と、「日光東照宮」を中心にした回で、「日光東照宮の謎」の高藤晴俊の説を中心にしたもの。
高藤氏

画像が高藤氏。私が日光東照宮に行ったときに撮ったもの。張り付いて、質問攻めにしたかったのでが、他の参拝客に説明していたので、それはあきらめました。

番組では、世良田東照宮と長楽寺がまたまた登場。
世界・ふしぎ発見 長楽寺2
これは建て替える前の画像か。
長楽寺 本堂
今は、こうなっています。
世界・ふしぎ発見 長楽寺3
長楽寺での法要の様子が放送されていました。新田の家紋・大中黒と徳川の葵の紋が映っていることを御確認ください。

世界・ふしぎ発見 東毛歴史博物館
画像は「東毛歴史史料館」。(ここが、平成20年4月に「新田一族の史料館」に変わります。新聞記事等)


通常伝わっている天海像。
世界・ふしぎ発見 天海像
長楽寺に伝わる像を調査した結果
世界・ふしぎ発見 天海像調査
今まで、僧の「慈円」の像といわれていたものの内部に「天海」の文字があった。
世界・ふしぎ発見 天海像調査2
これが新たに発見された「天海」の像だといわれるもの。
世界・ふしぎ発見 天海像調査4
だいぶ今までのものとは顔つきが違い、穏やかだ。

あとは、いわゆる「天海魔方陣」
世界・ふしぎ発見 天海魔方陣2

「太陽の道」
世界・ふしぎ発見 天海魔方陣
「不死の道」
世界・ふしぎ発見 天海魔方陣3
図はここで 説明は省略。

ほかに上野寛永寺、日枝神社、将門首塚、神田明神、久能山東照宮などが出てきた。

さて、ここまで、日光東照宮や久能山東照宮では拝殿の方角を問題視しているのに、「世良田東照宮がなぜ東向きに建っているのか」を説明してませんね。
なぜ、だれも疑問に思わないのでしょうか。

まあ、
それは、
いわゆる、あれですけどね……。
詳しくはここで

この放送から5年、世良田東照宮を調査するといってから8年が経ちました。
しかし「世界・ふしぎ発見」では、これ以降、このネタでの放送は一切ありません。


まあ、新説でもなければ、取り上げることもないでしょうが……。
しかし、「なぜ世良田東照宮が東向きにたっているのか」「そこに何か埋まっていたのか」などといった謎はまだまだ多くあるはずです。
また、やらないのかな~。
そのときは、どうぞこのサイトからネタを拾ってください。
ということで、最後はなぜか熱烈ラブコール。
これで今回は強制終了します。

番組で紹介された主要参考文献
「明智光秀」永井寛(三一書房)、「天海・光秀の謎・会計と文化」岩辺晃三(税務経理協会)
「信長と天皇」今谷明(講談社)、「歴史と旅、明智光秀は何者か」(秋田書店)
「魔都・江戸の都市計画・徳川将軍家の知られざる野望」内藤正敏(洋泉社)
「江戸の陰陽師・天海のランドスケープデザイン」宮元健次(人文書院)、
「日光東照宮の謎」高藤晴俊(講談社)


新聞記者は「まど みちお」が好き。

今年、小学校に上がった娘が、自宅で国語の本の「音読」を毎日する。これが宿題となっているようだ。
教科書の最初に載っていたのが「あいうえおの うた」で、次が「がぎぐげご のうた」。
春先、しばらくこの文を娘が大声で読んでいた。何気なく聞いていたのだが、言葉のリズムがよくて私も覚えてしまった。
作者は「まど みちお」という。

あいうえおの うた
あかいえ あおいえ あいうえお  かきのき かくから かきくけこ
ささのは ささやく  さしすせそ  たたみを たたいて たちつてと
ないもの なになの なにぬねの  はるのひ はなふる はひふへほ
まめのみ まめのめ まみむめも  やみよの やまゆり やいゆえよ
らんらん らくちん  らりるれろ   らんらん らくちん らりるれろ
わいわい わまわし わいうえお

がぎぐげごの うた
がぎぐげ ごぎぐげ がまがえる  がごがご げごげご がぎぐげご
ざじずぜ ぞろぞろ ざりがにが   ざりざり  ずりずり  ざじずぜぞ 
だぢづで どどんこ おおだいこ   だんどこ  でんどこ だぢづでど
ばびぶべ ぼうぼう のびたかみ  ばさばさ  ぼさぼさ ばびぶべぼ
ぱぴぷぺ ぽっぽう はとぽっぽ  ぱっぽろ  ぺっぽろ ぱぴぷぺぽ

これ早口言葉みたいでなかなか面白い。
この「まど みちお」さんは有名な詩人で、「ぞうさん」とか「やぎさんゆうびん」など多くある。詳しくはWikipedia

さて、「まどみちお」の詩を、ここ3か月の間に、3回も新聞のコラムで見た。
①8月 1日  読売新聞 編集手帳 詩は「目玉焼き」で、卵の値上げにからめて。
②9月20日  読売新聞 編集手帳 詩は「けしゴム」で、太田誠一農相の汚染米の失言にからめて。
③11月15日 朝日新聞 天声人語 詩は「虹」で、地球環境にからめて。

いわゆる本題に入る前の「まくら」に使われるといった感じだが、それでも次々と大新聞のコラムに同じ人の詩が引用されるのってかなり珍しいことではないのか。
それとも新聞のコラムを書く方は、よほど「まど みちお」好き、ということなのか。

「天海・光秀説」筆跡鑑定のまとめ

ここのところ「明智光秀=天海説」を取り上げたテレビの歴史番組をまとめて見た。
その中で行われた「筆跡鑑定」が気になったので、まとめておきます。

まず、TBSテレビ「日立・世界・ふしぎ発見!」2000年8月5日「東照宮の謎 徳川埋蔵金を追え!」の中で天海と光秀の筆跡鑑定を行う、といったシーンがあった。テレビで紹介されたとものはこれが最初だと思う。
ミステリーハンターは川幡由佳。
鑑定したのは、日本筆跡判断士協会会長・元警視庁委託筆跡鑑定人の森岡恒舟さん。
世界・ふしぎ発見 筆跡鑑定1
森岡氏の鑑定結果はある意味、衝撃的だった。「天海の書といわれるものと明智光秀のものといわれるものとは別人である」と断定したからだ。
世界・ふしぎ発見筆跡鑑定2(似ていない字)

「じゃ全くの別人ということなんですか?」という川幡由佳の問いに、
「えーそれがね、実は難しいところで、さっき全然違う字がありましたね。ところが凄く似ている字もある。」
世界・ふしぎ発見筆跡鑑定3
「義という文字が天海のものとそっくり」と言ったあとで、「字がよく似ているというのはどんなケースかといえば、例えば、親子なんかの場合は非常によく似ている。姓名を書くときは似ている場合がある。」と続けた。
という結果から、番組の結論として「光秀の子といわれる本徳寺の住職」と「天海」を結びつけた。

これはある種、画期的な出来事だった。なんせ「明智光秀と天海は別人だ」と断定したからだ。
これ以降、この筆跡鑑定の内容や結果を基にしたブログやサイト記事、または書籍、歴史雑誌等、今まで数多く見かけた。Wikipediaにさえこのことが書かれている。
しかも森岡氏の「筆跡鑑定から、天海は、光秀に近い親子などの人」という(あくまでも可能性がある程度のこと)謎めいたことを言ったので、これが新たな説を生むことにもなった。

さて、それから6年後の2006年6月30日放送、テレビ東京「超歴史ミステリーロマン2」という番組の中でも「光秀と天海の筆跡鑑定」を行うというシーンがあった。
超歴史ロマン 筆跡鑑定1
なんと鑑定したのが同じ人物で森岡恒舟氏。見た感じ鑑定した書も同じものだと思う。
天海のものは輪王寺所蔵の「御遺訓」、光秀のものは「明智光秀覚書」
筆跡鑑定5
筆跡鑑定6
筆跡鑑定7
筆跡鑑定8

鑑定のコメントが
「極めて、強く似ていると思います。これだけ似ている字があるというのは人間性の面での接点が考えられます」
しかし、ここでは少しニュアンスが違う。「天海と光秀は別人だ」という部分は濁してあって、「ぴったり一致した」という点ばかりを強調している。

超歴史ロマン 筆跡鑑定4

そして番組のコメントは「2つが似ていることが確認できた」
として、明智光秀が天海になったとしている。
まあ、光秀=天海説をもとにした番組なので、番組の流れ上仕方ないことなのか。ただ、「世界ふしぎ発見」の結果を知っている人には、「どうなっているのだ」という疑問が残るだろう。

さらに、この2年後の2008年11月4日、テレビ東京「新説日本ミステリー」の中で光秀・天海説を取り上げていたが、ここでも筆跡鑑定が出てきた。
新説日本ミステリー筆跡鑑定5

見ての通り、同じテレビ局なのでそのまま流用したようだ。
新説日本ミステリー 筆跡鑑定1
新説日本ミステリー 筆跡鑑定2
新説日本ミステリー 筆跡鑑定3
(画像下に映っているのは、石原良純。何と「超歴史ミステリーロマン2」にもゲスト出演しているので、この筆跡鑑定は前にも見ているはず。だが、初めて見たような感じで驚いていた)

しかも最悪なのはこの筆跡鑑定によって「これは光秀が天海になったという証拠だ」と言いきっている点にある。

最初の筆跡鑑定によって、「天海・光秀説」は否定されたはずである。
だが、同じ鑑定人による同じ調査で、なぜ全く逆の結果になるのか、これが不思議である。
自分の都合のいいように、いくらでも解釈できる、ということなのだろうか。
これでは、刑事事件や犯罪捜査に使われている「筆跡鑑定」が、あまりあてにはならないということにもなってしまうのではないか。これは筆跡鑑定の権威にも関わることだ。
「筆跡鑑定」を持ち出すならば、もっとしっかりとしたものが必要なのではないのか…。

こうみると「天海・光秀説」は、8年前の「世界・ふしぎ発見」からあまり進展もなく、番組内容(日光東照宮の桔梗紋やら明智平やら光秀の寄進した石灯篭、慈眼堂に慈眼寺など)もほとんど同じだ。まるで焼き増ししているようだ。

追記 今回、昔の「世界・ふしぎ発見」を探して見たが、最近の歴史モノよりもよく出来ている、と思った。
いま、むかし撮ったビデオを引っ掻き回して、「世良田東照宮」「長楽寺」の出てきた回やっと見つけました。
そして、久々に見て驚いた。
これ出来があまりにもいい。 なので次回まとめてみます。
それにしても、最近の「世界ふしぎ発見」は、「日本モノ」をやってませんね。昔は結構やっていたのに……。

これも次回に続く。

ね~、「日本シリーズ」で映っていたプードル可愛すぎない。

プロ野球日本シリーズを見ていて、びっくり。
snap_33__0811092007.jpg

何かの広告だと思うんですけど…。一試合に何度か登場する。
でも、あんなかわいい子犬が目に入ったら、思わず戦意喪失しちゃうんじゃないの。
しかも投手と目線が合う位置にある。
アップ、画像悪くてすいません。
子犬

試合よりも、変なところが気になって仕方ないです。
ということは、広告効果としては最高ということですかね。

三宅弥平次こと明智秀満は何者か? 新田義貞伝承を追うシリーズ⑦

新田義貞伝承を追う!⑦

第7回目は「明智秀満」です。
なぜ、三宅弥平次こと明智秀満が、「新田義貞伝承を追う!」なのかは最後まで読むと分かります(何となくですけど…)
実際には⑤の続きです。一か月以上かかった理由は、「明智秀満」を調べれば調べるほど分からなくなっていったからですが、取りあえずは、明智秀満が三宅氏だということが書かれたものを列挙していくことにします。

まずは、経歴から。
明智秀満(?~天正10年・1582年) 旧姓三宅弥平次。光秀の父光綱の弟光安の子(「美濃諸旧記」)、光秀の従兄弟、光秀の甥(細川家所録)など諸説ある。秀満の出自については確証となるものはない。はじめは三宅弥平次を称していたが、光秀の女婿となって、明智姓と改めた。光秀の娘である秀満の妻は、先に摂津茨木城主・荒木村重の子息村安に嫁していたが、天正6年に村重が信長に叛したため、秀満に再嫁した。
光秀の丹波経営に主力として活躍、天正9年には、丹波福知山(京都府福知山市内記)の城主となっている。 同6月2日の本能寺の変に際しては、先鋒として本能寺を焼き打ちしている。その後、近江安土城の守備についていたが、山崎の戦いで光秀が敗北したことを知る。ここに羽柴秀吉の先鋒堀秀政が攻め寄せたが、秀満は名馬に乗り、白練りの人馬織りを靡かせ、琵琶湖を渡って光秀の居城近江坂本城へ退いた。これが「湖水渡り」の伝説を生んだ。(「川角太閤記」) 狩野永徳の描くこの光景は、講談にまでなって広く喧伝された。
ほどなく、坂本城は包囲されたために、城に火を放ち、連れていた夫人・子、家臣らとともに自刃して果てた。自害の前に秀満が、名刀・名茶器が失われるのを惜しんで、目録を添えて堀直政に引き渡した。
(新人物往来社「明智光秀のすべて」 二木賢一編からのまとめ)

さて、この明智秀満がなぜ「三宅氏」を名乗っていたのかが、これでは分からない。ただ、どれも似たような内容で、光秀について書かれた本には必ず秀満のことは出てはくるものの、この点に言及したものはあまりないようだ。
なぜ「三宅姓」なのか、そこが疑問だ。
これが問題の謎を解くカギになるような気がしてならない。
そこでその点に触れているものを手元にある書籍から拾ってみる。

まずは定番の
明智光秀 高柳光寿
高柳光寿著「人物叢書・明智光秀」(吉川弘文館)から「明智秀満の出自に関する部分を引用してみた。

『秀満については、「太閤記」には左馬助と呼名が書いてあるだけで諱はない。「明智軍記」には左馬助光春とあり、「増補筒井家記」にも同様である。「武辺咄聞書」には左馬助秀俊とある。しかし少しく良質の本、すなわち「秀吉事記」「豊鑑」「川角太閤記」などにはみな明智弥平次とある。そして丹波天寧寺の「御領主暦(歴)代系図記」には明智弥平次秀満とあり、同寺所蔵の天正9年10月6日付けの諸色免許状には明智弥平次秀満という署名がある。 中略 
ところが「明智氏一族宮城家相伝系図書」などという悪書になると、名を光俊として、童名岩千代、三宅弥平次、明智左馬助、本名光春とある。俗書に見えるだけの名を上げている。後世の作りものであることは明らかである。それにしても「細川家記」がこれら俗書の類に誤られているのは困る。
秀満の出自については、「細川家記」には塗師の子であるといっているが勿論信用できない。また「武功雑記」には白銀師の子であるという。これも勿論信用できない。「細川家記」所収の「三宅家記」には光秀の甥だとある。「増補筒井家記」には光秀の従弟とし、「宮城相伝系図」には光秀の父光綱の弟光安の子としている。これらはいずれも信用の限りではない。しかし三宅氏であったことは確かであり、「宗及茶湯日記」には天正8年9月21日のところでは三宅弥平次とあり、天正9年4月10日のところでは明知(智)弥平次と見えている。この間に明智の名字を貰ったと見える。その年齢については「細川家記」に46歳だったとあるが、これは「明智軍記」よったもので全くに信用できない。しかし「細川家記」に秀満の妻は、秀林院様、すなわち細川忠興の妻の姉であったとあるのは信用してよい。なお「兼見卿記」によれば、秀満の父は秀満自殺の天正10年6月14日ののち間もなく丹波横山で捕らえられ、7月2日粟田口で磔にされたとあり、「言経卿記」にはこの父の年齢を63歳と記している。』

とある。「明智秀満が三宅氏であったことはまちがいない」としている。
だがこれ以上のことは分からない。

そこで、明智光秀の出自について詳しく調査している永井寛氏。
学研・歴史群像シリーズ「俊英 明智光秀」でも明智氏の子孫・系図について担当していて書いた記事が載っている。(ここでは、明智氏の子孫として、坂本竜馬、遠山の金さん、大石内蔵助などについての説明があって興味深い)
ここではより詳しく書かれている「明智光秀」(三一書房)の中から
明智光秀 永井寛
「明智氏と三宅氏の関係」の記述を取り出してみました。

『「土岐系図」光秀・側室(公家・原仙仁の娘)との子、次男秀寿丸、三宅藤兵衛を名乗り、その後細川忠興に仕えて肥後に住み着いたという。恐らく、この人物が安国寺開山の明厳梵鉄和尚ということなのだろう。』

『明智光廉は、光秀の叔父にあたる。この人物が「三宅大膳入道長閑斎」と号し、光秀と行動をともにした。捕らえられて磔にされた三宅出雲と同人物。』
『遠山景行「景行(民部・相模守・入道宗叔)、永正六年(1509年)、明知城中に生まれる。室は三州(三河)広瀬の三宅某の女である」と「明智町誌」にある。遠山景行は明智光安と同一人物であり、明智光安は秀満の父である。』

また上総英郎編「細川ガラシャのすべて」 (新人物往来社)にもある。
 『本能寺の変後、浪々の明智左馬助の一子、三宅藤兵衛を引き取り、天草富岡城主にしたのは、寺沢志摩守であり、天草の乱で藤兵衛は討ち死にした。またガラシャ夫人が殉教するに当たり、家老小笠原少斎に、「子どもたち、三宅藤兵衛を預かって欲しい」と言い残したとある。藤兵衛の母は光秀の妹であり、こうした伝承は、ガラシャの母は「綿考輯録」がしるす美濃妻木氏の出であることを如実に物語っている』といいった話もある。(この三宅藤兵衛は三宅重利)

これらのことから分かることは、明智氏と三宅氏が早い時期から姻戚関係を結んでいて、両者の関係はかなり深いということ。それに秀満は母方である三河の三宅姓を名乗っていると永井氏は書いているから、それならば児島高徳の子孫ということを意味する。

また永井寛著「明智光秀」の中に
『遠山本家は岩村城にあったが、それより分かれた明智遠山氏の始祖は、景朝の子景重で、遠山明知(明智)三郎を名乗った。中略 このころことであるが、堀口貞満の女が土岐明智氏初代頼重(長山遠江守頼基)の室で、明智遠山氏に関係する遠山式部少輔光景の母であったことが「姓氏家系大辞典」の堀口系図にあることは述べた。…』とある。
堀口貞満は新田一族であり、新田義貞とともに戦ったの重臣である。「太平記」巻十七には、後醍醐天皇の前で「新田一族の忠節心」を涙ながらに訴えた新田一族を代表する人物。そんな新田の血が遠山明智氏に流れていた。母方の系統も重要視されるから清和源氏新田流は尊重されたはずだ。またその後の堀口氏子孫は明智家、斎藤家に仕えていたという。
このように新田一族は全国にちらばり土着した。ただ奥三河や美濃など周辺には、南朝方の伝承は多いし、ここと結びつく(姻戚関係、主従関係など)有力武将が多かったはずだ。(松平氏や明智氏の発祥地と重なる。ここは次回以降で)
そんなことで、明智秀満こと三宅弥平次が「新田氏」とつながらないか、関連がないか、と調べたのだが、いまのところはこれ以上のことは分からなかった。(ただ探せばあるはず。調査続行中)

ただ「明智氏」の系図・出自は読めば読むほど分からなくなる。これが混乱のもととなった。
高柳光寿氏の俗書の批判から始まり、それに対する永井寛氏の高柳説への反論、また小和田哲男氏の説などなど、関連書によってそれぞれ意見が違って、いくら見ても分からない。
ネット上では、「Wikipedia明智秀満ノート」が熱かった。遠山景玄=明智秀満説、遠山景行が明智光安、これに関する賛成・反対・反証・反論の応酬で読んでいくとどんどん訳が分からなくなる。(だだし一読を。天海=秀満説も出ているので読むと面白い。そして誰か分かりやすく解説を入れてださい)
また、別サイトでは、明智光秀の出自と系譜 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/toki/akechi1.htm などもある。
児島高徳、三宅氏、明智秀満=天海説についてかなり詳しく書かれているサイトがあったが、これは少し違った方向(私にとって)に向っているので、興味のある方だけ見てください。
一応アドレス http://kouhoka.exblog.jp/8056473/


そんな中で、明智秀満は児島高徳の子孫とキッパリ言い切っている小説がある。
明智左馬助の恋
加藤廣 「明智左馬助の恋」
明智左馬助とはもちろん明智秀満、三宅弥平次のこと。

この本は、傑作です。(その理由は後で)

では本書の中から、いくつか拾ってみましょう。
明智秀満のセリフ「…我が三宅氏の祖・児島高徳が<北面の武士>を称していたことから、拙者、ことのほか興味深く、御座を眺めた次第。…」と左馬助が光秀に語る。

「それゆえ、我らは、この世の生業として武を選んだ身ではあるが、ゆめゆめ<知の権威>である朝廷をないがしろにしてはならぬのだ。万一、そのような、身の程知らずの武の権威者が現れた時は、我らは、敢えて<知の権威>側にはせ参じてこれを阻止せねばならぬ。そなたの祖・児島高徳殿と同じようにな」
これは、朝廷からの御綸旨で「信長を討て」との命令が下ったということを説明しているシーン。この指示をしたのが近衛前久だということ。

また左馬助が父に諭されるシーン「「愚か者め。そちらの方は、ろくに調教もできなかったのか。そんなことだから、たかが一人の明智の娘への懸想を断ち切れぬのじゃ。そんなことで、我ら三宅氏の大望を無にするな。時はよし、足利幕府は滅ぶぞ。百五十年余に亘って、我ら三宅氏の行く手を阻んだ仇敵足利が消えるのじゃ。即刻に明智家へ戻れ。戻って外から兄徳久と三宅氏を支えてくれ。老い先のない父の、たっての頼みぞ」

「三宅弥平次―。生まれは備前(岡山)の南端・児島半島の常山。父は地場の国人(地元武士)で三宅徳置といった。弥平次は、その次男である。幼名光春。」から始まり、以降4頁にわたり、「児島高徳」と「三宅氏」の解説を入れている。
これは、前作「秀吉の枷」でも明智秀満が登場したシーンに、これと同じように、三宅氏と児島高徳の解説を入れていた。

加藤廣氏の「信長の棺」から始まる一連の作品で、「本能寺の変・朝廷関与説」を取っている。
となると、明智左馬助が児島高徳の血を引く者「三宅氏」というのが重要となってくるわけだ。
児島高徳が天皇への忠節を尽くす忠臣であったということから、反朝廷となりつつあった信長を討つという構図になっている。それが根底に流れている。そこに明智光秀が出てくる。
私の自説では「新田義貞=明智光秀説」を唱えてます。歴史的役割が同じだったということ意味で図にすればこうなります。
東毛奇談・図2
図の説明はここで、http://daikiti431.blog112.fc2.com/blog-entry-45.html
ここに明智秀満が児島高徳の子孫でそのイデオロギーを受け継がれたとなればこの説が補強されていくことになる。

3部作の中で本書は比較的評価は高くないようだが、児島高徳のことを知識として頭に入れながら、この本を読むと明智秀満の役割が鮮明となり、実に分かりやすくなる。南北朝時代を知っていれば余計にこの構図が分かり、児島高徳・南朝方に立つ明智方は敗者となり破滅の道にい進む、といったことも分かる。

どうも、義貞と光秀は「悲劇、悲運の武将」というイメージで重なっていくのだ。そういった視点で読むと小説「明智左馬助の恋」は傑作だ。(あくまでも私の視点で)

次回に続く。次は、その「児島高徳」についてです。

追記  ただ、この小説を原作にしてテレビドラマ化されたが、これはあまり面白くなかった。
(テレビ朝日系2007年12月放送、題名「敵は本能寺にあり」、明智左馬助役は市川染五郎、その他に玉木宏、釈由美子、中村梅雀が出演)
秀満・左馬助が児島高徳の子孫であり、そのイデオロギーを引き継いでいるといった説明も描写もまったくないため、ただ「本能寺の変」をなぞっただけで、実に残念だった。

読売新聞の編集手帳って上手いな~。

読売新聞「編集手帳」を読んで感心させられるのは、最初に持ってくる逸話や例え話。
ウマいなと思った記事を忘れないように載せておきます。

平成20年11月5日
 ドイツ文学者の高橋義孝さんは、親しく接した作家の内田百に蔵出しの名酒を一升贈ったことがある。のちに百に会ったとき、ひどく怒られたという◆ふだん飲んでいるお酒が、ああいうおいしいお酒を頂戴したあとでは飲めなくなる。「迷惑します」。苦情を言われたと、随筆「実説 百記」に書いている。偏屈で知られた作家らしい挿話だが、顧みれば人生を彩る成功も、到来物の「おいしいお酒」に似ているかも知れない◆1990年代に超売れっ子の音楽プロデューサーとして一世を風靡した小室哲哉容疑者(49)が、5億円を詐取した疑いで逮捕された。かつては年収が推定で30億円を超えていた人である◆数年前からヒット曲に恵まれず、海外事業も失敗し、多額の借金を背負った。そののちも「クレジットカードの支払い数千万円」「マンション家賃280万円」といった派手な暮らしぶりは変わらなかったといわれる◆おいしいお酒が切れたあと、いちど肥えた舌が身の丈に合う元の酒に戻るのは容易でない。転落の傷口を広げただろう。「成功」という美酒ほど、酔い方のむずかしい酒はない。


平成20年10月15日
 昔、江田島の海軍兵学校で部外の講師を招いて講演の最中、生徒のひとりがおならをした。教官が「いま屁をした者、出てこい」と言うと、5人の生徒が名乗り出たという◆「部外の先生がひどく感心した」と作家の阿川弘之さんが「海軍こぼれ話」(光文社)に書いている。場所も同じ、海の安全保障を担う志も同じでありながら、友を守るためならば身を捨てるのもいとわない高潔な伝統精神はどこへ消えたのだろう◆広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校で先月、特別警備隊の養成課程に所属していた3等海曹(25)が、他の隊員15人を相手にした格闘訓練で殴られて転倒、頭を強打して死亡していたことが分かった。本来は1対1でする訓練である◆この海曹は「課程を続ける自信がない」と退校を希望し、別の部隊に異動が決まっていた。以前にも中途離脱する隊員が同様の訓練でけがをしている。逃げ出す奴はこうなる、という見せしめの制裁でなくて何だろう◆「異動のはなむけの意味もあった」と、学校側は遺族に説明したという。集団リンチを今生の思い出に冥土へ旅立たせたと、そう言うのか。


タイムリーな話題に見合った逸話が効いてますね。
こういった話をどこから引っ張ってくるのかと、いつも感心させられます。
やはりプロは違うな。
秘訣があったら教えてもらいたいですね。やはり、気になった話やモノや話題をストックしておくんですかね。

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消えた二十二巻

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