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最低のテレビ番組を見た。

■人権や児童・青少年への配慮

 テレビは誰にもアクセスできる最も身近なメディアであり、今や日常生活に密着して、国民にとって欠くことのできないメディアになっています。したがって、放送する内容が国民に与える影響は大きいものとなっています。 フジテレビは、こうしたテレビの社会的な影響力の大きさを充分に認識し、放送内容が国民の基本的人権を擁護するものとなるよう心がけております。特に、人権や児童・青少年への配慮については、細心の注意を払っています。

■人権についてのフジテレビの取り組み

 テレビの社会的な影響力と責任が大きくなったことを自覚し、近年高まる一方の国民の人権意識を尊重する立場から、フジテレビでは、視聴者や出演者、取材対象者の人権に充分配慮した放送を行うよう心がけております。


これがフジテレビのホームページに掲載されている。http://wwwz.fujitv.co.jp/fujitv/index.html
さて、2009年1月31日放送の「めちゃ2イケてるッ!」は相当酷い内容だった。
たとえば、手錠をかけて動けなくなった芸人を4人で抱え上げて熱湯に突き落とす。
女を足蹴にする。上半身裸・パンツ一丁にしてスタッフの一人を真冬の外に出す。無口な女優を端に追い詰めて言葉攻めにする。
最悪なのは、一人の芸人に、頭からビーニール袋をかぶせ、隙間からスプレーを発射し、息ができないようにして、ビーニールの袋をひっぱり窒息状態にした。
かなり酷い。
これは、いじめを助長するといったレベルではない。悪意の塊としかいえないものが、ゴールデンタイムで全国に垂れ流しされている。
本当にフジテレビが上記のような審査が行われているのか、かなり疑問だ。
特にこの最低な行為を積極的に行うのが「加藤浩次」だ。
こいつは最悪だ。朝の情報番組では常識ぶったことを言ったりするが、ここでやってることは殺人行為と変わらない。彼には子供もいるはずだ。自分の子供にこんなものを見せるのか?

また、こんな劣悪なことが行われているのに、回りにいる人間が手を叩いて喜んでいる。
まわりのスタッフも芸人も笑っている。
どこがそんなに面白いのか。どこがそんなに楽しいのか。

こんな悪意に満ちた「テレビバラエティー番組」を見たことがない。

追記 この記事に関連したものを新たに書き加えたました。またそちらには、その問題部分の画像もつけました。 http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-441.html



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サッカー日本代表・岡田監督に見る「指揮官」の資格とは

現地時間28日、アジアカップ2011予選・第2戦のバーレーン対日本の一戦がバーレーン・マナマのナショナル・スタジアムで行なわれ、日本は0対1で敗れた。


当ブログでは珍しいサッカーの記事。
私はサッカーの戦術といった詳しいことは分からない。ただ、ここでは一軍を率いる「指揮官」の資質とは何だろうかということで一言いいたい。

試合4日前の岡田監督のコメントがある。
1月25日日刊スポーツの記事。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090125-00000012-nks-soccから

【マナマ(バーレーン)=24日】岡田ジャパンが、「前哨戦」でバーレーンの息の根を止める。岡田武史監督(52)率いる日本代表は、28日のアジア杯予選バーレーン戦のために現地入り。岡田監督は離日直前に、敵将マチャラ監督の進退問題に言及するなど、先制口撃を仕掛けた。今月のガルフ杯で1次リーグ敗退(1勝2敗)と苦しむ同監督を意識したもの。今回バーレーンを徹底的にたたきのめし、3月28日のW杯アジア最終予選を前に、戦意喪失させる狙いがうかがえる。
 バーレーン国際空港に到着した岡田監督は落ち着いていた。気温20度と快適な気候に「こんなもんでしょう」とコメント。淡々と荷物を運び、迎えのバスに乗り込んだ。
 すでにバーレーンへの戦い方は決まっている。離日するわずか10分前、岡田監督は珍しく敵将の人事に触れた。「マチャラも次負けると、どうなるか分からない…」。バーレーンはガルフ杯(ペルシャ湾岸諸国の大会)で苦戦したとはいえ、「中東の魔術師」と呼ばれるマチャラ監督を、挑発するような言葉だった。
 岡田ジャパンのW杯アジア最終予選は、2月11日にオーストラリアとの大一番を終えると、次は3月28日にバーレーン戦になる。仮に今回の対戦後、バーレーンが監督交代などで新体制になれば、これまでのデータは意味を失い、かえって不気味。実際、昨年10月のウズベキスタン戦など、新体制のチームを相手に苦しんだ。
 だが、今回はあえてマチャラ監督の息の根を止めにいく。徹底的にたたきのめし、相手に「日本には勝てない」と印象づけ、再戦に向け戦意喪失させる。日本は大黒柱のMF中村俊、DF闘莉王が不在で、遠藤も無理はさせない方針。若手中心で、ベストメンバーの相手に完勝すれば、バーレーンのショックは大きい。本当に首脳陣の進退問題にまで波及すれば、チームの混乱は必至。日本が「前哨戦」でダメージを与えることができれば、3月の対戦をより有利にする効果があるはずだ。
 昨年3月、オシム流を引き継いで臨んだ3次予選で岡田ジャパンは敵地バーレーンで惨敗した。「あの屈辱は何があっても忘れない。バーレーンのことは今でも好きではない」。同じ言葉を繰り返してきた岡田監督にとって、今回の試合は「雪辱」以上の意味を持つ。とどめを刺しにいく


私は、こういったことを記者会見までして発言する人の「人格」を疑う。
この驕り高ぶった態度、戦う相手を見くびった態度はどこから来るのだろうか。これでは、まるで大口叩いて、まわりを喜ばすような軽薄な言動を繰り返す「柔道・石井慧」や「「亀田一家」といった連中とあまり変わらない。
また逃げ道として「負けられないように自分を追いこんだ」とか、「自身を鼓舞する意味で言ったんだ」といった弁明もするだろう。
ただもっと問題なのは、岡田監督は「一選手」ではなく、「日本代表」の監督だということだろう。日の丸を背負って戦う選手たちを率いる「指揮官」としては、あまりにも浅慮なものの考え方ではないだろうか。
こんなことを堂々と試合前に言ってしまう人物に、指揮官としての資質、資格があるのかを問いたい。
対して、日本チームと戦って勝ったバーレーン代表監督の試合前のコメントがある。1月28日付けスポニチから

バーレーン代表マチャラ監督が日本撃破に自信をのぞかせた。「日本は経験のある組織された良いチーム。今回は本田や稲本の欧州組も加わった。尊重している」と警戒しつつも、昨年3月26日に同じバーレーン国立競技場で行われたW杯3次予選では1―0で勝っているだけに自信もチラリ。「いい思い出がある。トレーニングも積んできたので勝つために全力を尽くす」と話した

とある。
この試合前の短いコメントを見るだけでも、対戦相手の状況を冷静にみていることが分かる。戦いの常道は「相手を知り、己を知る」ことだ。岡田監督には、格下相手でどこかに慢心した意識があったことは試合前のコメントから見て取れる。(1月29日付け読売新聞には「バーレーンの選手はビデオで見た程度」と書かれていて、対戦相手の研究を怠っている) また、まだバーレン戦をする前から、次戦のオーストラリアの話ばかりしていることでも十分わかる。
「相手のクビ」をネタにして記者団にリップサービスすることよりも、まず眼前にある状況を解決してから次に備えるといったことがなければならなかったはずだ。これだけを見ても、どちらの将に一軍を率いる才があったのかは明白だろう。明らかに戦力の違いがあったにも関わらず(FIFAランキング、日本42位、バーレーン98位)、バーレーンが勝ったのも、指揮者の力に勝敗の分かれ目があったと見るは私の見当違いなのだろうか。

そして以下が試合に負けたあとの岡田監督のコメント
yahooニュースhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090129-00000019-ism-soccから

(今回負けたことは恥ずべきことか?)負けたことが恥ずべきことかどうかは別として、非常に残念なこと。我々は常に勝利を目指しているから、ショックというよりは残念だったと思っている。
(恥ずべきことかショッキングなことかどちらか?)その違いがよく分からない。負けたときは常にショックだが、バーレーンは非常にいいチームだし、我々はどんな相手にも勝とうとしているし、それに対して勝てなかったことが残念だと思っている。


試合前のコメントを読んでから、敗戦後の弁明の言葉を読むと、こっちまで恥ずかしい思いをさせられる。
急に弱気か!
戦国時代なら、こんな大将の下では誰もついてこないし、命をかけて戦おうとは誰も思わないだろう。
「勝ち負けは時の運」であり、戦いは、時に勝ったり、負けたりする。
「勝てば官軍」「強ければいい」といった考えで、戦う相手に敬意を表さないもの達に、私は「勝負師」の資格はない、と思っている。

大丈夫か?
これで、日本はワールドカップに出場できるのか?

安部龍太郎を歴史小説家へ導いたのは、新田義興だ! 間違いない。

吉川英治、山岡荘八、森村誠一の「太平記」を読み返していたら、「新田義興の矢口の渡し」を題材にした小説をかなり昔に読んで感動したことを突然思い出した。また読みたくなって古本屋へ行った。
てっきり高橋直樹著「異形武夫」の中の一編かと思っていたら、それは思い違いで、安部龍太郎が書いた南北朝時代の短編集「バサラ将軍」(文春文庫)の中の一編にあり、「智謀の淵」という題名だった。(勘違いのともは、ともに高師直と吉田兼好の話があったからだった)
バサラ将軍
再読して、感涙にむせぶ。これはいい、傑作だ! ラストが最高だ!
敵方から描くことによって、新田義興という人物が立ち上がってくる手法が見事。小説としても完成されている。
 新田一族ファン必読
そして、筆者のあとがきを読んで驚いた。以下、あとがきの最初の部分を引用。

作家になりたいと思ったのは十九歳の頃だったが、時代小説を書き始めたのはかなり後になってからである。きっかけは、勤めていた図書館近くに新田義興を祭った新田神社があったことだった。図書館の館報で地元の歴史を紹介する企画を立て、神社の由来についても詳しく調べる機会があった。これがなかなか面白い。新田義貞の息子義興が、足利方のスパイとなった竹沢右京亮にあざむかれ、多摩川の矢口の渡で討ち取られたのだが、まるでカチカチ山の泥舟のような話なのである。
ほんまかいなと半信半疑で「太平記」をめくってみると、巻三十三「新田左兵衛佐義興自害の事」の件に、討死の事情が臨場感豊かに記されていた。
「太平記」の持つ文章の力に触発されたせいか、この事件を小説にしようと思い立った。それが本書に収録された「智謀の淵」の前半部分に当たる「矢口の渡」という作品である。
役所の文芸誌に発表したこの作品は、意外なほどの好評を博したが、ドストエフスキーのような現代小説を書きたいと思い詰めていた時期だけに、たいして嬉しくもなく、気にもとめていなかった。
それから三年ほどして退職し、プロの作家を目指して執筆に打ち込むようになったが、現代小説に行き詰まり、一行の文章も書けなくなった。
そんな時、「矢口の渡」を覚えていた友人が、「お前は現代物より歴史物の方が向いているのではないか」とアドバイスしてくれた。
藁にもすがるような思いで読み返してみると、確かに文章が伸び伸びとしていて、語り口にも余裕と遊びがある。これなら何とかいけるかもしれないと思い、かなり手直しをして「第六十七回オール讀物新人賞」に応募した。
すると現代小説では決して手の届かなかった最終候補作に、すんなりと入ったのである。昭和六十二年春のことだった。
残念ながら受賞することは出来なかったが、その時密かにこれからは時代小説でいくという決意を固めたのである。
以来、「太平記」に材を取った短編を書くようになった。
郷里の福岡県黒木町は南朝方にゆかりの深いところで、子供の頃から昔語りを聞かされて育ったせいか、「太平記」の言葉づかいや人間観が妙に身近なものに感じられたからだ。……」



まさか安部龍太郎と新田義興にそんな縁があったとは……。
好きな作家に新田伝承(?)があったなんて、もう奇跡と言うほかありません。
新田神社は当サイトで何度か書いた。
破魔矢の由来、「日光・大猷院」と「新田神社」と「鏑矢祭」
各地で「新田義貞」「新田一族」を祀る大祭が行われました。しかしその一方で、群馬県太田市は……。
しかも、福岡県黒木町は南朝と深い縁があったということで、黒木町ホームページを見ると「黒木の地名の由来は、南北朝時代に南朝方として活躍した猫尾城主・黒木大蔵大輔源助能の姓をとったと伝えられています。」とある。
九州での南北朝の争いには、新田一族も参加してますから、ここでも何らかのかかわりがあったはずですね。

安部龍太郎の小説は面白くって、参考になるのでよく読みました。南北朝時代を舞台にした「彷徨える帝」(新田一族は出てきませんが)や、戦国時代の「神々に告ぐ」「信長燃ゆ」あたりが好きでした。
特に、本能寺の変・朝廷関与説を唱えている作家として「東毛奇談」にも引用させてもらいました。

そして現在は「小説すばる」で、南北朝時代の歴史小説を連載している。タイトルは「道誉と正成
2008年4月号から掲載が始まり、2009年2月号で第6回となっている。2か月に1回くらいの割合で掲載している。
南北朝時代をもとにした小説は、近年皆無といっていいので、楽しみではあります。
ただし、新田党の私としては、佐々木道誉は心情的には許せないので、この人物を主役に持ってこられると複雑な心境ではあります……。(また義貞が凡将として描かれていないかが心配です)
「司馬遼太郎が南北朝時代を書かない理由がわかった」でも書きましたが、歴史小説の新しい担い手として南北朝時代を書きまくって欲しいです。



追記、福岡県黒木町出身の女優・黒木瞳は、この地名から芸名を取ったというのを、今回知った。
となると、あの有名女優は何と南朝方の武将の名前を、冠しているということになるわけだ……。
もう、これだけで無条件に応援します。

中国で「山岡荘八の徳川家康」ブーム、そしてTBS女子アナ・木村郁美アナは偉い。

読売新聞で面白い記事を見つけた。
小説「徳川家康」なぜか中国で大人気…忍耐の精神受ける?
という見出し。
21・01・26「読売新聞」

以下引用http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090125-OYT1T00877.htmから。

山岡荘八著の「徳川家康」が昨年来、中国の都市部の企業家や「白領」と言われるホワイトカラーなどの間で爆発的人気を呼んでいる。

 中国紙は、経済発展著しい沿海地方の民営企業の経営者から売れ始めたと報道。金融危機による景気後退で経営環境が悪化する中、いかに困難を克服するかを考える上で、家康の生き方や戦略に共鳴する企業家が多いという。
 数十万部売れたら大ベストセラーとされる中国で、同書は2007年11月の出版以降、全13巻計約200万部が売れ、全国40のメディアの記者が選ぶ「08年の良書」の外国文学部門トップに輝いた。業界関係者によると、これまで日本の小説といえば、村上春樹氏や渡辺淳一氏の作品が中産階層の間で絶大な人気を呼んできたが、日本の歴史上の人物を取り上げた小説が売れるのは極めて異例だ。
 出版企画に当たった「新経典文化」の陳明俊・編集長は本紙の取材に対し、「家康は忍耐の精神を持つだけでなく、局面の変化に慌てず対応できたところが、中国の読者に最も尊敬されている点だ」と、人気の理由を説明する。
 熱心な読者という男性企業家(38)は「人物描写が豊かで、まるで油絵を見ているようだ」と絶賛。個性あふれる女性が登場することから女性ファンも少なくない。戦国時代の武将を扱った日本のゲームになじみのある若い世代も、「家康」を支持しているという。
 北京市内の国有企業に勤める女性(30)は「教養を高める上でも役立つ。これからほかの日本の歴史小説も読んでみたい」と、すっかり魅了されている。 北京=佐伯聡士

(2009年1月25日23時55分 読売新聞)



韓国では「徳川家康」が好かれているという話(豊臣秀吉の朝鮮出兵を止めたから)はよく聞くが、中国で「家康」の人気が上がるとは意外だ。
日本では「三国史」や「水滸伝」が人気で、中国では日本の「戦国時代」が人気だというのは、なんとも不思議な話ですが、まあいいことですね。

そして、
山岡荘八の「徳川家康」と聞いて、まず思い出したのが、
TBS女子アナウンサーの木村郁美だった。
TBS女子アナホームページ
理由は……。
確か木村アナが「王様のブランチ」のアシスタントをしていたころだからかなり昔の話。
「王様のブランチ」の出演者がお気に入りの本を紹介するといったコーナーがあって、木村アナは山岡荘八の「徳川家康」を推薦していた。そのころは入社したてのはずだから、彼女は二十代前半だったはず。若い娘が「歴史小説が趣味」はないだろうってことで、他の出演者からも「おっさんかよ」って突っ込まれてからかわれていた。
だが、そのときの木村アナはかなり真剣で、自分の山岡版「徳川家康」を持参していて、しかも本の中を開いて、自身が気に入ったセリフやト書きに線を引いてある場所を見せた。付箋も貼っていたはずで、たしかその箇所を読み上げていた。そんな、熱い思いを見せつけられた他の出演者は「あぼーん」としてました。
この時期私も「太平記」とかで同じようなことをしていたので、「似たような人がいたものだ」と思ったので、このときのことをよく覚えていていたのでした。

今は歴史ブームで、戦国武将に萌える娘がテレビで紹介されたり、城・歴史博物館で若い女の人を見ることなんてことも多くなりました。
関連記事
十年以上前は、歴史が趣味なんていうのは「おじさん」の特権のようなもので、たとえ女の人が歴史好きだとしてもそれは少女マンガの延長みたいなものだった。それが本格的な歴史小説(しかも山岡荘八の家康は全26巻)と、ちゃらちゃらしている女子アナ(木村アナではなく女子アナ全体が)は、どう考えても結びつく接点がない。まずこの意外性に驚き、「私の愛読書は徳川家康です」なんて堂々と言う(しかも公共の電波で)若い女子アナがいたということに感じ入り、結果、一気に親近感を覚えたのでした。 

それに、現在の女子アナのプロフィールをみると、「おすすめの一冊」として「山岡荘八の徳川家康」を薦めているじゃないですか。
ぶれてませんね。

偉いぞ、木村郁美アナ。


追記、自分の指針となるような本と巡り会える、これは実に幸せなことだ。

「私は帰ってきた」朝青龍の言葉に見るマレビト。

<大相撲初場所>「私は帰ってきた」朝青龍、崖っぷちから栄冠
「私は帰ってきました」。国技館の1万1千人、さらにメディアを通したファンの前で、涙ながらに言葉を絞り出した朝青龍。「次はない」と語ったがけっぷちからはい上がり、栄冠をつかんだ。
平成21年1月25日 毎日新聞から。

私は帰ってきた」、これが朝青龍の優勝インタビューの第一声だった。この言葉が出た途端、その場にいた観客たちが歓声を上げた。
私はこれをテレビで見て思った。
「やはり朝青龍はマレビトだ」と。
「朝青龍マレビト論」を押している私としては、外国人力士が日本に来て相撲を取ることが自体がマレビトだと考えているので、ここでの朝青龍の言葉は、「日本に戻ってきた」という意味としてとらえた。
関連記事
朝青龍マレビト論
「神事としての相撲」

もし、朝青龍が今場所休場し、モンゴルに帰っていたら、その時点で即引退勧告が下り、それを大多数の日本人が支持しただろう。
しかし、朝青龍は不調にもかかわらず初場所に出た。その姿に日本人は「おかえり」ムードで歓迎した。たとえ朝青龍が優勝しなくとも、日本人は彼を喜んで受け入れたはずだ。
そこにマレビト論の根幹がある。

しばらくしてから、新聞記者やマスコミの質問に注目してもらいたい。必ず出るのは「朝青龍がモンゴルに帰るか、どうか」なのだ。故郷に帰る帰らないが問題になるのは朝青龍くらいだろう。


そして、相変わらず土俵上の荒っぽさが問題になっていた。
だが、「荒ぶる神」が崇められるのも、日本人の特異性。
いまの朝青龍人気を見れば、彼もそうした存在になったかようだ。

いくらなんでも順位圏外、南北朝時代。

2009年1月24日朝日新聞別刷り「be」に、歴史に関するアンケート記事が載っていた。
質問は「いまの日本の首相にしたい戦国武将は?」というもの。
1位 織田信長 2370人
2位 徳川家康 2142人
3位 上杉謙信 1878人
4位 伊達政宗 1790人
5位 武田信玄 1267人
6位 豊臣秀吉 1076人
7位 真田幸村  991人
8位 直江兼続  974人
9位 前田利家  894人
10位 毛利元就 773人

上司にしたい戦国武将は?
1位 上杉謙信 1856人
2位 徳川家康 1739人
3位 伊達政宗 1468人
4位 前田利家 1308人
5位 真田幸村 1307人
6位 直江兼続 1141人
7位 山内一豊  889人
となってました。
まあ無難な答えで、これを見ると、いかにNHK大河ドラマの影響が強いかが分かる。

で、問題なのが次の質問「近現代以前でもっとも興味のある時代は?
1位 江戸時代      2717人
2位 安土・桃山時代  1781人
3位 飛鳥・奈良時代  1193人
4位 平安時代      1181人
5位 鎌倉時代      721人
以上。

おいおい、何か抜けてませんか?
南北朝時代がない。
順位さえ載せてない。
不人気どころじゃない。まるで、そんな時代がなかったかのような扱いですね。
しかし、現代がこんな混迷の時代だからこそ、「南北朝時代」に学ぶものも多いはずなのに……。

これに関連してもう一つ。
NHKの番組「その時歴史は動いた」が終了するそうだ。9年間続いて、349回(2009年1月までで)も放送された。
で、その長い期間で南北朝時代はいくつあったと思いますか?
なんと2回だけ。
2003年2月12日 乱世を制するリーダーの条件 ~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~
2005年2月23日 我が運命は民と共に 悲劇の英雄 楠木正成の実像

毎週放送される歴史番組でさえこんな調子ですから……。

その足利尊氏の回のときのものが「その時歴史が動いた・21巻」に載録されている。
そこに担当ディレクターの記事が載っていた。すこし引いてみる。
「足利尊氏といえば「室町幕府」を開いた将軍」と誰もが知っているビックネーム。この歴史上の人物を「乱世を制するリーダー論」として取り上げられないか?いまの日本もまさに「混乱の世」、政治や社会を牽引する真のリーダーが求められている。650年以上前のリーダーからもきっと現代につながるヒントは見つかるはずだ……。今回の番組企画はこんな発想からはじまった。」とあり、以下尊氏が「時代の民衆のニーズをつかみ、それを実現する能力」を有していたという文面が続く。
まさにその通り。足利尊氏に限らず南北朝時代の人物から、現代人が学ぶことは多くあるはずなのに、実際には見向きもされず、大半が眠ったままだと思う。戦国時代や幕末維新もいいけど、もうかなり掘り起こされているじゃないですか。これからは南北朝時代ですよ。

しかし現実は……。
う~残念。


このサイト、最近こんな記事が多いですね。
関連記事
「歴史上の人物の小6認知度」と、やはり除外されている「南北朝時代」
「新田市を誕生させる会」発足。いまこそ新田源氏の名を地名に!
司馬遼太郎が南北朝時代を書かなかった理由がわかった。その2

「新田義貞及び新田一族の関連本の紹介」のページ書き加えました。

 「新田義貞及び新田一族の関連本の紹介」 
のページを書き加えました。

紹介する本は増えましたが、だんだん脈絡がなくなってしまいました。
「太平記」に関する小説、関連本はまたあとで書き加えます。

近状報告。「あやとり」と「太平記」と「オードリー」

気がついたら、今年に入ってまだ5回しか更新してませんでした。
理由は、吉川英治著「私本太平記」全八巻
吉川版「太平記」
山岡荘八著「新太平記」全五巻
山岡版「太平記」全巻
を読み返して、新田義貞及び新田一族がどのように描かれたを調べていたからです。
しかし、これが思った以上に時間がかかっています。
小説「太平記」全巻
そのうち、まとめてみます。

それに仕事やら諸々の用事に時間を取られて、書きたいことが思うように進んでおりません。
そういえば、去年の今ごろに書いた「恵方巻きとは何か、恵方巻きとは正月行事の凝縮されたものではないのか(仮説) 」で、今年の節分までに調べて書くといっていたのに、全く手を付けてません。これはまた来年ということで…。
思えば、「越後の新田一族」とか「アンパンマン考」の続きとか「崖の上のポニョ」とか、途中まで書いたものも放棄したままだった……。
もうとにかく時間がないと思いつつも、「ニコニコ」とか「ようつべ」とかでオードリーやらザ・パンチやらを見てしまう日々。

そんな中、小学校1年の娘の冬休みの宿題を見て驚いた。冬休みにやったことを書いて提出するわけですが、「家の手伝いは何をしましたか?」とか「手洗い・うがいはしましたか?」とかいった質問の中に、「冬休み中、いちばん楽しかったことはなんですか?」といった質問に、書いてあったことは、「お父さんとすごろくをしたこと」と書いてありました。
う~、涙。
たった数時間しか遊んであげなかったのに、これが一番楽しかったのか。(クリスマスパーティーよりもお正月よりも…)
休日の昼間くらいは遊んであげないと、と反省、いや猛反省しました。
それに、娘と遊んであげて喜ばれるのは今のうちだけでしょうからね。
ということで、早速、何して遊びたいかと聞いてみたら、なんと「あやとり!」と答えた。
やったことないけど、取りあえず挑戦。
まさか、四十越えてから「あやとり」をするとは思わなかったが……。

ということで、ここのところ、平日は仕事、休日の昼間は「あやとり」、夜は「お笑い」見て、夜中に「太平記」を読んで新田義貞が出てきたところチェックするという、何とも奇妙な生活を送っています。

司馬遼太郎が南北朝時代を書かなかった理由がわかった。その2

前回の続き

司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由として、①「イデオロギー」の問題 ②南北朝時代には「美意識がない」、という2点に集約されることが前回の司馬自身の文章で分かった。
ほかにこれに関することが載っている本がないか探していたら、ありました。
半藤一利著「清張さんと司馬さん」(文春文庫)。当時、司馬遼太郎と松本清張の担当編集者であった半藤一利が、昭和の二大巨匠について語り、また2人にまつわる数多く逸話を紹介していました。いい本です。
その中から今回に関することを抜き出してみる。

「梟の城」は現代小説のつもりで書いたものです。いまでこそサラリーマン仲間に入れたといっても、長い間丸ノ内や北浜の商社や銀行員とは一線をかくされてきた新聞記者という職業を、正式の侍になれなかった伊賀者、秀吉の首という特ダネを狙う忍者によって書いてみたかったのです。結局、人生は自分の心の中にある美意識の完成だと思います。やっぱり、誰も知らない心の中の勲章をブラさげて死んでいけばいいんだと思います。」(週刊文春・昭和35年2月1日号)
(司馬の)直木賞受賞の弁です。いまから考えると、司馬さんは実に率直に話されているようです。たしかに、司馬さんの生涯は美意識の完成を目指していたといっていいようです。美意識とは、その人の生き方の好みです。イデオロギーとか理念とか、体系として強制してくるものを、司馬さんが嫌ったのはそのためでしょう。司馬さんがイデオロギーを嫌うのは、単にマルクス主義の物神化をさしているだけではなく、キリスト教、朱子学、水戸学、皇国史観……などといっさいの思想の物神化としてのイデオロギーを嫌ったのです。


この一文に、司馬遼太郎が南北朝時代を書かなかった理由が含まれている。「梟の城」は長編デビュー作であるから、小説を書き始めたときからすでに「美意識の完成」は彼のテーマだったことも分かる。

でも、「美意識」って、これは難しい問題だ。
人によって「美しい」「痛快」だと感じる点は大きく異なる。まさに主観の問題で、これこそ個人の感性に左右されるもの。司馬遼太郎がどこに「美」を感じていたかということは、司馬史観、司馬遼太郎の本質にも関わることで、とてもではないが、素人がブログで書くような簡単なレベルではないことと思い、ここでは軽く問題提起くらいにしておく。(とりあえずここで予防線を張っておきます。)

さて、私は皇国史観からも民衆闘争的な視点の歴史学からも解放された世代にある。その私が「太平記」を読めば、そこからいくらでも「武士の美意識」「痛快だ」と思う逸話はいくらでも見出せる。だがこれらの逸話は、司馬自身のいうところの「武士の美意識」とは適合しなかったようだ。やはり司馬遼太郎の頭の中では、「太平記」が「イデオロギー」や「宋学」に基づいて書かれたものであり、のちに「水戸史学」や「皇国史観」によって濾過された虚構のものだという固定観念が形成されているから、素直には受け入れられなかったのだろう。これは当時の時代背景と戦後の歴史学の状況が司馬遼太郎に大きな影響を及ぼしていたのだろう、と推測できる。(また、戦後の時代背景を全く知らない世代の私には、こういった見方があったというのが、逆に新鮮だった。)
やはり、「南北朝時代」の根底に「功利主義」「私欲の争い」があるのは事実で、またいつ果てるとも知れない骨肉の争いが続く「太平記」は、司馬遼太郎を辟易させ、持て余すものだったのだろう。
また、Wikipediaにもあるように、合理主義であった司馬遼太郎が、「司馬の歴史観を考える上で無視できない問題は、合理主義への信頼である。第二次世界大戦における日本のありかたに対する不信から小説の筆をとりはじめた、という述懐からもわかるように、狂信的なもの、非論理的なもの、非合理なもの、神秘主義、いたずらに形而上学的なもの、前近代的な発想、神がかり主義、左右双方の極端な思想、理論にあわせて現実を解釈して切り取ろうとする発想」といった文を読むと、太平記がこれらすべてを含んでいる(3部で展開される天狗や怨霊話はうんざりするかもしれない。)こともあり、やはり、これらを考え合わせれば司馬遼太郎が、「太平記」「南北朝時代」を基にした小説を書くはずがない。
かなり残念。
また、「手掘り日本史」で引用している部分を読むと、要は「南北朝時代は、前時代の美意識もない、新しい美意識もまだ生まれていない、空白の時代だ」ということも言いたかったらしい。
これには、丸谷才一・山崎正和著「日本史を読む」 (中央公論社)の中に、興味深い一文があった。
「室町時代に始まったものは多く、生け花、茶の湯、水墨画、能、狂言、座敷、床の間、掛け軸、庭、醤油、砂糖、饅頭、納豆、豆腐……などなど、現代日本人の大筋のところは、みんな室町時代に始まっているという。それを評して、中国学の大家・内藤湖南の言葉を引いて「日本を知りたいならば、室町以降を知れば十分である。それ以前の日本は外国みたいだ」という名言があり、これを司馬遼太郎はほめているという。本文では「司馬さんが内藤湖南の説に喝采する心理的動機としては、司馬さんの近代主義が大きく作用している。つまり、近代日本の胚芽は室町時代にある、それ以前は前近代だったという気持ちがあるわけですね。」という丸谷氏の言がある。
ということは、司馬遼太郎にとっての日本史のとらえ方は、鎌倉末期までが前近代、室町時代が近代であり、南北朝時代はそれらが何もない、一つの境界線であり、その過渡期、変革期であったとことだ。それに南北朝時代は非常に捉えにくいエコニミック・アニマルの時代だという認識だった。

さて「武士の美意識」がないと、小説を書かないのかという点で他を考えてみた。
そこで司馬遼太郎の「義経」を挙げてみる。
司馬遼太郎 義経
この小説「義経」は実に不思議な小説なのだ。文庫上下巻で、義経の人生を描いた長編のはずだが、実のところ義経の人生の後半部分が描かれてないのである。
義経と兄頼朝が対立を始めるころからそれ以降の事柄を、紹介程度のほんの数ページで済ましている。(義経の父母の代から物語を始めているにも関わらずだ。) 「義経」の人生の面白みは栄光から転落していく様にあり、物語としてもここから盛り上がるはずだ。(と私は思う) つまり、頼朝からの追手を逃れて奥州までたどり着く逃避行の様子や、静御前の別れやそれにまつわる話、弁慶の立ち往生なんていう山場や、奥州藤原氏一族の葛藤、そして義経の悲劇的な最期……などなどすべてが端折られている。よって、当然のように、それに以降にまつわる伝説(義経不死伝説など)などにも一切触れていなかった。
「これじゃ中途半端だよ」と読了後は呆然としてしまった。また、なぜ後半部分を書かなかったのが不思議と思っていた。
それが今回の「美意識」と関係があったか、と何となくわかったのは、前出の「日本古典文庫・太平記」の司馬遼太郎の解説にあった。以下引用。

「…しかも最後は要するに陰惨な兄弟げんかで、さらに義経その人の最後は、右の3人(諸葛孔明、真田幸村、楠木正成)と同様劇的なものでありながら要するに「不如帰」の浪子と武男と同質のものなのである。」

とある。
義経と頼朝の争いを「陰惨な兄弟げんか」で、しかも「義経の死を痴話喧嘩の果て」と見ている。
つまりそこには司馬的な「美意識」がなかった。だから、小説「義経」には、頼朝と義経が争い始めるあたりで収束し、それ以降がないのだ。
それでも、思い入れのある人物や事柄があれば作家は「書きたい」という衝動に突き動かされるものだが、その意欲は失ってしまったようだ。

小説というのは、何もない空気をかき回して、そいつを自分でひねって、ひねっているうちに、結晶みたいなものができてくる。それが小説になるんだ。そのためには燃え上がるような力ずくのエネルギーがいるんだ。リビドーというか。……


と司馬の創作意欲の素が書かれていた。
この原動力のひとつが司馬のいう「美意識」だったのだろう。それがなければ、小説の途中でもそれ以降は書かない。そうみれば、「南北朝時代」はこういった争いの連続で、これがイヤというほど出てくるわけです。(私にはそこが「太平記」の一つの面白さだと思うが…) 源義経でさえそうであるのだから、南北朝時代はそれ以上だろう。
やはり司馬遼太郎が「太平記」書かなかった理由もこれで分かります。

さて最後に、半藤一利著「清張さんと司馬さん」の中から、なるほどと思った一文を。
司馬さんが亡くなる一年前のインタビューで、珍しく憂国の情をあらわにしたという、部分から。

「土建エネルギー」によって蹂躙された戦後日本への怒りと嘆きともいえるものでした。ただ醜悪なだけの巨大コンクリートの箱を造るために、長いこと人々の心をなぐさめてきた美しい日本の景観が容赦なく破壊される。
戦後日本は、「暮らしいい社会をつくろう」という即物的な理念しかもたなかった。いま私たちはその「土建エネルギー」「豊かさの追求」ということの脆弱さに気付かされています。公のために存在しているはずの官僚システムがまったくそうでなことが白日のもとにさらされています。いま眼前にあるのは精神の荒廃のみで、このままでは、「日本国の明日はない」と観じた司馬さんは、おのれを殺し世のために尽くすという日本人の昔から持っていた律儀さ、実直さを諄々と説き、警鐘を鳴らし続けたんです。
国の行く末を思うのは、特殊な職業にある人々だけではありません。一人ひとりの生き方の総和が国の方向を定め、歴史をつくっていく。禁欲的なサムライの美的論理こそが国を救う。それが司馬史観のエッセンスといっていいでしょう。 <中略>  わたくしは、この「自然をもう壊さない」を司馬さんの遺言としていま大事にしています。とともに、そうか、司馬さんが(夏目)漱石先生を懐かしがるのは、同じ思いを漱石も抱き、そして警鐘を鳴らし続けたからなんだ、と納得することにしています。
漱石は言います、日本の二十世紀は堕落しきっていると。その理由は「生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を促した」からで、そこで、何ととか一日も早くモラルを回復せよ、漱石は訴えるのです。そのために日本人よ、欲望を減らせ、自己限定の決意を固めよ、とも説くのです。そうなんですね、司馬さんの言う「自然を破壊しない」と、漱石の「自己限定せよ」とは同じことを言っているのです。
全力疾走でここまできた日本。物質的繁栄では世界に冠たりと誇りつつ、神経衰弱にかかって気息奄々たるいまの日本。「気の毒とは云わんか」、この漱石の言葉は死語になっていないのです。司馬さんは同憂の思いを漱石のうちに感じていたに違いないのです。


南北朝時代も、「禁欲的なサムライの美的論理」を失っていた時代だと司馬遼太郎は思っていた。夏目漱石が言った「生活欲の高圧力が道義欲の崩壊を促した」という言葉が、司馬が「楠木正成の時代、このにぎやかな時代がつまらぬ時代である」と称した南北朝時代と同化する。
そのどちらもが「今の平成の時代」とどこか重なる。そう、欲望に満ちた現代は、混乱の南北朝時代と同じなんですね。

だが、そんな時代でも、「美意識」のある話は、いくらでもあるはずだ。
司馬遼太郎を縛っていた「イデオロギー」は、今は消えた。
ならばいまこそ、混迷し、迷走し、功利主義に走った「南北朝時代」は、現代の今こそ、書かれるべきものなのだ。
さて、1990年12月号「歴史読本」に、当時南北朝時代を書きまくっていた北方謙三のインタビューがある。その中で「闇の南北朝時代にこそ男の夢がある」「南北朝は歴史小説の宝庫になる」といっていた。しかしそんな北方謙三も、これ以降はこの時代から離れていった。
また、ここから20年近く経つが、他の作家が南北朝時代の歴史小説に本格的に挑戦したということはない。
それは司馬遼太郎が活躍した時代に縛っていたイデオロギーが消えた現代にこそ「南北朝時代」は書かれるべきものであり、南北朝時代の中に混迷した現代が学ぶべきものが実は多く眠っている、と思う。
司馬遼太郎版「太平記」は存在していませんが、
「書き上げると生命を縮める」と言われる「南北朝時代」に挑む「作家」はいないのだろうか?

司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由が分かった。 その1

今まで、司馬遼太郎が「南北朝時代」を書いていないのが不思議だった。
彼の膨大な作品群の中で、なぜか、鎌倉幕府滅亡~南北朝時代つまり「太平記」の時代がぽっかりと抜けているのだ。戦国時代以前の作品では、奈良時代の「空海」、平安時代の「牛黄加持」など短編が数編あり、鎌倉時代成立時の「義経」、室町時代・応仁の乱では「妖怪」、「花の館」、と数は少ないがそれぞれあった。
だが、南北朝時代のものは短編でさえ一つもない。ただ興味がなかった、いやその機会がなかったのか、その辺りのことは分からない。ただ、もし、司馬版「太平記」があったなら、この時代を舞台にした小説の決定版になっていたはずだろう。果たして、どんな物語になっていたのだろうか、といろいろと想像してしまう。(たぶん、関西出身なので楠木正成を主役にしていただろう。そして義貞は良くは書かれないとは思いますが……)
そこに、フト手にとった本の中に、司馬遼太郎が「南北朝時代を書かない理由」が、本人の弁で書かれていた。
それは、文春文庫「手堀り日本史」という歴史エッセイの本の中にあった。
司馬遼太郎 手掘り日本史

かなり平易で、さばけた感じの文章。ただそれだけに「本音」が伝わってきます。
ページ数にして3pほどなので抜き出してみました。
「第3章 史観というフィルター」の中の「楠木正成の時代、このにぎやかな時代がつまらぬ時代であること」という題で、楠木正成の人物像や水戸学史観に触れたあとで、先にインタビュアーの質問があり、それに答える形になっている。
以下引用。

「楠木正成という人物についても、いまおっしゃったことはよくわかりますが、それに、微妙にからまる問題として、いつか司馬さんが、この正成の生きた南北朝の時代について、作家はこの南北朝時代に手を触れてはならない、とおっしゃったということを、間接的にお聞きしたことがあります。間接的に聞いた話なので、このことば通りのことだったかどうか。もっと手につけにくい厄介な時代だ、というニュアンスでおっしゃったのかもしれませんが、そのことをちょっと伺いたいのです。ずっとお話になってこられた史観の問題と手掘りということに関して、作家がその対象にしようとするときの南北朝時代とはどういう時代なのか。いまお話になられた正成の像というものとも密接な関係があると思います。小説の対象になりにくいとはどういうことなのか。」

という問いに、司馬遼太郎の長い説明がある。

「南北朝時代というのは、治乱興亡の起伏が激しく、後醍醐天皇から、大塔宮、楠木正成、新田義貞、さらに足利尊氏などと、役者がそろっていて、その意味ではドラマチックな時代ではありますね。そこでつい、これを舞台にして小説が書ける、と思ってしまう。しかし、私の感じでは、どうせ小説にはならない。すくなくとも小説にしにくい感じなんです。
なぜ小説にならないのか。自分でもまだハッキリはわかりません。断定できないのですが、これまで鷲尾雨工さんの「吉野朝太平記」だとか、吉川英治さんの「私本太平記」だとか、多くのかたがこの南北朝時代を小説に書かれています。しかし、いずれも、これを書きあげると仕事が衰弱するか、亡くなってしまわれる。
あるいは、作家の創作意欲というものが、体力的にも衰弱されたころに、手を染められている、というようなこともあるのでしょうか。なにか、南北朝ものというのは、縁起ものの匂いがしてくる。その作家にとって縁起ものの感じがするという点が、南北朝時代という時代をみるのに大事な点だと思います。」

とあった。
だが、ここから更に、南北朝時代を実に簡単に斬っています。

「南北朝時代について書き出すと、作家はかならず苦しくなる。なぜかというと、みな水戸史観で訓練された目で南北朝を見ようとする。吉川さんも、残念なことに、水戸史観を頼りにこの時代を見ておられます。それ以前の作家たちも、たとえば矢田挿雲という人もここを書いておられますが、やはり水戸史観を頼りにされている。
そういうわけで、非常にきらびやかな、楠木正成などという人物が登場してくる。後醍醐天皇の悲劇もある。笠置から落ちていかれる道行きもある。全部悲愴美に飾られているわけです。
ところが、その悲愴美は水戸史観を通してこそ出てくるわけで、通さなければこれは何でもない騒ぎなんです。そう見ていくと、これはおよそつまらない時代なんです。」


げ~そこまで言い切るかって感じですが、更に、司馬遼太郎がこの時代を好まなかった理由が述べられます。

「まだ相続法というものが確立してない時代で、遺領を相続する場合にも、長子が相続するか、末子がするか、あるいは生き残っている誰かが相続するのか、よくわからない。そういうことが何となく曖昧な時代なんです。
ですから、たとえば、ある地侍の家で、三男が相続してしまう。すると長男が怒る。そこへまた叔父さんまでが加わって喧嘩になる。まんじ巴になってしまう。鎌倉体制が古びていくと、そういうことが、九州から東北にいたるまで、全国どこでも発生する。小さな地侍の家でも、始終そんなゴタゴタがあったわけです。
何か新しい、ピシッとした形がほしい、とは、時代の誰でもが思っている。そういうばくぜんたる時代の期待から足利尊氏が出てくるのですが、彼は、オレについた奴にはその権利を認めてやる、と言うんですね。
ちょっとこまったことに、この時代的英雄であるはずの尊氏には、思考の基準というものがない。たとえば長男が尊氏に付きしたがえば、お前の家の領地はお前のものだ、ということになる。すると次男が怒ってしまって宮方につく。どこの土地でも、すくづらくなる。創造的なことが出てこないために、しだいに苦しくなり、ちょうど胃液も何も出ないものを消化しようとするような、そういう身体の状態になって衰弱してしまうのですね。」


簡素にして的確。南北朝時代を理解するポイントを述べてます。これは前回の「井沢元彦の新田幕府誕生か」と同じ指摘がある。以下ではさらに、司馬遼太郎が歴史小説を書くときに必要なのものは何なのかが逆説的に見えてきます。

「もうひとつ、南北朝の時代には、時代の美意識というものがない。鎌倉時代には鎌倉武士の美意識があった。私たちがいかにも痛快だと思うような、畠山重忠とか、生田の森で箙(えびら)に梅をさして戦った梶原景季だとか、そういうものがあった。そういう美意識が鎌倉時代の末期には衰弱し、しかも新しい美意識はまだ生まれてこない。ここにあるのは利権・利害だけですから、小説にはなりにくい。ある種の小説にはなりますでしょうが……。
歴史小説というものは、前時代の美を壊すか、あるいはそれに乗っかる、その態度が最初に必要なのですが、そのための素材が何もない。現実は果てもない利権争いの泥沼というだけのものが、水戸史学のフィルターにかけられ、一見すばらしい風景に見えるんです。だからうっかりそれに乗ってだまされてはいけない。作家たちも、ずっとダマされてきたんです。観念史観にせよ、唯物史観にせよ、史観というもののこわさがそこにあります。ときに歴史をみる人間に、麻薬剤の役目をします」

と以上がすべてです。
南北朝時代には美意識がないのか? だからこの時代が嫌いなのか。
だだ、好まなかった理由はそれだけではないようです。重要なのは、最後に書かれている「史観」これこそに問題にあるようです。

それにもうひとつ、南北朝時代を書かない理由を載せていた本がありました。
それは、「司馬遼太郎の日本史探訪」(角川文庫)。
司馬遼太郎 日本史探訪

楠木正成」の章の中に書かれていました。以下その部分を引用。

「南北朝時代というのは、何だろうということですけど、これはもう小説にも書けない時代ですな。小説に書ける時代というのは、その時代のモラルがある、あるいはモラルに代わるものとして、たとえば美意識でもいい。鎌倉武士の畠山重忠にしても、それから平家の平敦盛にしても、彼らそれぞれが美意識をもって行動しますね。彼らは利害関係で動くわけですけども、その戦闘行動とか生死のあり方というものは、美意識でもって動かされている。南北朝時代になるとそれがないんですよ、時代全体にないわけです。もう功利社会そのものでしてね、エコノミック・アニマルの時代なんです。
その時代が持っているモラルなり美意識なりに乗っかっても小説は書けるんです。あるいは、それに対してパンチをくらわせるという形でも小説は書ける。しかし何もない時代が南北朝でしょう。ただ利害関係だけという時代ですから、なかなか書きにくい時代ですね。それがなぜなのか。非常に簡単に言いますと、土地相続法がはっきりしていなかったんですね。
とにかく南朝・北朝に分かれて争ったというのは、南朝の天皇と、北朝の天皇が喧嘩をしたというだけでなく、もっと基盤的にですね、村々字々の小さなやつが土地相続をめぐって一族で争い合っているわけです。で、おれが正統な相続者だということを認めてもらいたさに、いろいろの上とつながりをもたしていっての争いだから、南北朝は日本全国の争いですね。つまり国じゅうの武士たちが、欲望で黒煙をあげているような時代だったんです。だけどそれを水戸光圀が編纂責任者だった『大日本史』では、思想問題として扱っている。南朝方に属した人は忠義である。武家方に属した人は忠義ではないかもしれないようなことになっている。それを頼山陽が『日本外史』という通史を書いて明確にしたわけです。そころが武士たちは、そんな意識で動いているわけではないんで、そんな意識で動いたのは、どうやら楠木正成だけじゃないかと思います。」


とほとんど「手掘り日本史」と同様のことが書かれています。違う本に同じ内容ということは、司馬遼太郎の「南北朝時代」の認識はこれで間違いないということでしょう。
そして、重要なのは、これに続く楠木正成とイデオロギーについての文です。

「……その教養人ということについてですが、中国の宋学というのには、こういう考えをすべきだという、つまり名分論なり国家論というものがある。国家や皇帝について、あれは、偽物の皇帝だ、これは本物の皇帝だという、その見分けるセンスというものが学問で大事だというのが宋学です。南宋で発達した思想ですが、正成はそれを持っていたんじゃないかと思う。珍しい人ですよ。政治的なイデオロギストとしては、日本で最初ですね。
私は、イデオロギストという人たちが苦手なほうなんですけれども、なぜ苦手かというと、非常に頭が固くて話していてもおもしろくない。なぜ面白くないかというと、おにぎりを作る器具をデパートで売っていますが、枠にご飯を入れておにぎりをパチッと作るみたいにして物事を考える。頭がどうも固い。ところが正成はそうじゃないんです。非常に柔軟な政治感覚を持っている。イデオロギストとして見たら珍しいほどです。日本人のイデオロギストというのは、大正・昭和にもマルキストがずいぶん出ましたけれども、どうも本物なのかどうなのか、メッキなのか純金なのか、わからないとこもあるでしょう。だけどこの正成は、もしイデオロギストだとしたら、数少ない純金の人物じゃないかと思いますね。」


さて、ここで問題なのは、「楠木正成がイデオロギストだったのか」といった内容云々ではなく、司馬遼太郎が何度もイデオロギー、イデオロギストという言葉を頻発させていることにある。この本で扱っている楠木正成の章は17ページほどだが、この短い文章の中に、この言葉が10回ほど使われ、ほかにもレーニン、マルキスト、宋学、革命などといった言葉が何度も登場し、例えとして「東大の安田砦みたいだ」などという表現も使われていた。
司馬遼太郎にとって南北朝時代を説明するためには「イデオロギー」を抜きには語れなかった、ということだろう。
それに時代背景もあっただろう。当時、戦後昭和の時代は、「皇国史観」の残滓と「マルクス主義・唯物史観」の勃興という狭間にあって、まさに混乱の状態にあったようだ。「歴史学」「日本史」を書く際に、このことを抜きにはできなかったということだろう。それは小説といえども、これを無視しては書けなかった。それが端的に表れていたのが「南北朝時代」であったと司馬は考えていたのではないか。難しい言葉が並んでいるが、簡単に言えば「南北朝時代には安易に触れてはならない」といった意味に取れる。
これは、高柳光寿著「足利尊氏」の序文やあとがきにもイデオロギーのことにかなり触れていたことでもわかる。

さて、もう一つ、河出書房新書・日本古典文庫14「太平記・上」に、司馬遼太郎の解説が載っている。ここでも、主に「楠木正成」と「後醍醐天皇」と「太平記のイデオロギー」について書いている。
十数頁の文章だが、ここでは「イデオロギー」という言葉が17回も登場し、朱子学、宋学、皇国史観、マルクス・レーニン・ソ連といった言葉が連発する。
この本は「太平記」の現代語訳の本なので、「太平記」そのものについての解説が妥当であるはずだが、司馬遼太郎はここでも「太平記」「南北朝時代」を「イデオロギー」の面から解説している。
またこんな一文がある。

「私はイデオロギーというものを、たとえば体質的に酒を好まないという程度においてそれを好まないが、ところが太平記には酒臭がにおっている。大胆にいえばイデオロギーの書であるといえるかもしれない。」


とある。「日本史探訪」と同じような例えでやんわりとイデオロギーはヤダと言っているが、相当キライなようだ。それに司馬遼太郎自身もその歴史観の批判を多く受けている。Wikipediaの「司馬の考え方」「歴史観への批判」の記事が取りあえずはわかりやすい。(昭和40年代生まれの私はこの辺りが残念ながらよく分からない。司馬遼太郎作品を読み始めた平成の時代には、皇国史観もマルクス主義も無くなっていたので…。)
つまり司馬遼太郎は、「イデオロギーの問題はやっかいなことだ」と辟易していたのかもしれない。
そう考えれば、「太平記」がイデオロギーの本だと認識している司馬にとって、思想的にもデリケートな南北朝時代を取り上げることなど、まずありえない話だったのだろう。

次回に続く。

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消えた二十二巻

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