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「アクターズスタジオインタビュー」とか「アル・パチーノ」「ゴッドファーザーPART3」とか、その周辺の話。

NHK・BSで放送される「アクターズ・スタジオ・インタビュー」が好きでよく見る。
Wikipedia
出演した俳優・監督がすごい。名優では、ポールニューマン、ロバート・デ・二―ロ、ジーン・ハックマン、アンソニー・ホプキンスなど、人気俳優では、トム・クルーズ、ジョニーデップ、アンデリーナ・ジョディー、「24」のキーファー・サザーランドも出てました。監督ではスティーブン・スピルバーグ フランシス・フォード・コッポラ 、マーティン・スコセッシ、私が敬愛するシドニー・ルメットなどなど。
司会者ジェームズ・リプトンの質問が巧みで、結構貴重な話が聞ける。聞き手としてこの人の力量は凄いものがあります。恫喝に近い質問でホンネを引き出す人もいますが、ジェームズ・リプトンは全く違う。静かな語りの中から、いつの間にか相手の内面を引き出している。これがいい。それもただの演技論や演出論だけではなく、人生における金言・箴言の数々がポンポン飛び出してくるところがこの番組が長く続いている理由の一つだといえるでしょう。下手な説教番組(細木やスピリチュアルなどという人生訓をのたまわる番組)よりも身に染みる言葉が聞けます。大して好きでもなかった俳優がこの番組で熱心に語る姿を見て、好意をもつようにもなった。
また、学生たちの畏敬の眼差しや会場の雰囲気もたまらない。学生たちの真摯な姿勢は、なぜか私にも伝播し、こっちまで「このままでいいのか」といった思いにさせられる。見終わったあとそういった不思議な感覚も味わえる。

ただこれがいつ放送しているのか分からない。不定期で、放送時間もまちまち。気がつくと、いつの間にか放送されていることも多くて、見逃していることも多い。

ただこの前、レンタルビデオ店に行ったらDVDでレンタルされている。
驚き!
ただし有名どころ8人だが……。
まずは、「足利尊氏=マイケル・コルレオーネ」の記事に合わせて、アル・パチーノを借りました。
アクターズスタジオ 1
テレビ放映時も見ましたが、DVDには未公開シーンも含まれていました。
オーバーアクションなんて評もありますが、私はアル・パチーノが大好きで、「セルピコ」「狼たちの午後」「セントオブウーマン」はもちろん、評価低いが法廷映画「ジャスティス」や隠れた秀作「カリートの道」も良かった。今回一緒に「スカーフェース」を借りて再見。これアル・パチーノがすげぇ~、壮絶ですね。(アル・パチーノが出ていなければ凡長な駄作となっていたでしょう。公開当時は酷評されたましたが、いまは、ラッパーや黒人にカルト的な人気で、再評価されているようだ。)
さて、このアクターズスタジオインタビューで「ゴッドファーザーPART3」に触れている。
マイケルがバチカンの司教の前で懺悔をするシーンが流れた後、その部分についてアル・パチーノが語ってました。

アル・パチーノ「マイケルが救いを求めるというその行為が疑問(ビッククエスチョン)を残している。それに対しいまだに答えを出せないんだ。いつか監督と話してみるマイケルは救いを求めたのかどうか…」
ジェームズ・リプトン「分からない?」
アル・パチーノ「救いを求めるような男だったのかどうか。観客は彼が変わるのを望まなかったかもしれない。それがいまだに分からない監督と共に悩んだ箇所だ」

やはり、この場面が、この映画の根幹になっているようだ。
私は「マイケルは許しを乞い、救いを求めた」と思う。それは、「足利尊氏=マイケルコルレオーネ」のときに書いた通りだが、どうだろうか?

さて、このゴッドファーザーPART3は、前2作が映画史に残る名作なので何かと比較され、「脚本が弱い」「プロットは混乱し、ストーリーを支えるビジネス絡みの陰謀は複雑すぎる」「マイケルが弱々しい」などなどさまざまな批評があって、あまり評価は高くない。(最近は再評価されつつあるが。)
そのなかでも手厳しい批評は、マイケルの娘役を演じたソフィア・コッポラの演技に集中したようだ。
「素人演技」「演技以前の問題」と酷評したものが多く、その年の最低映画賞・ゴールデンラズベリー賞(ラージー賞)助演女優賞に選ばれたほど。

だが、20年近く経ったいま見ると、この役は、彼女で良かったと思う。
ハーラン・リーボ著「ザ・ゴッドファーザー」には、マイケルの娘役が、ソフィア・コッポラに決まるまでの経緯が詳しい。
当初、名前が挙がったのは、ユマ・サーマン、ウィノナ・ライダー、ダイアン・レイン、マリー・スチュアートマスターソン、マデリン・ストウ、モリー・リングウォルド、ジュリア・ロバーツ、マリサ・トメイ、サンドラ・ブロック、そしてマドンナだった。
コッポラは一時期、マドンナを起用しようと真剣に考えていたそうだ。だが、相手役がアンディ・ガルシアに決まったため、年齢が合わずに断念したそうだ。
結局、ウィノナ・ライダーに決定し、撮影が始まったが、数日して健康上の理由で降板した。すでに撮影が始まり、予算等から混乱をきたしはじめ、コッポラの一声で、自分の娘・ソフィアに決まったという経緯があった。(ジュリア・ロバーツはスケジュールが合わず、ここでもマドンナの名が出たという)
確かにソフィア・コッポラは、上記で出た女優陣には演技力という点においてはるかに及ばないだろう。しかし、候補に挙がった女優たちはいま大物になった人も多いが、彼女らがこの役を演じたならば、この役のイメージを壊していたのではないか、と思う。
マイケルの血と暴力で染まった人生の代償として、無垢で純粋な愛を求めたまま死を迎える娘との対比がこの映画に必要だった。
あの役に必要だったのは、演技のうまい、下手ではなく、「清純性」だ。
まず、ウィノナ・ライダーは例の病気で万引き事件を何度も起こしているし、ユマ・サーマンは「キルビル」「パルプフィクション」でのあの強烈なイメージがある。のちに「エリン・ブロコビッチ」でオスカーを取るジュリア・ロバーツは大女優だがどこか違和感があるし(あまり関係ないが、日本嫌いとかいった話もあるし…)、もし、マドンナがあの役を演じていたら、それだけで、エーとなって嫌悪感まで生じるだろう。マドンナに、あの役は絶対に合わない。
ラストで迎える娘の死は、マイケルの罪業の報いとなっているはずだ。だから、あの役に必要なのは世俗に染まらず清らかで汚れていない「純粋さ」なのだ。よって、あの死によって、役に処女性が高まった。(肉体的にではなく、精神的な意味で) 
この映画以降、ソフィア・コッポラは映画にはほとんど出演はしていない。(監督業に転向。「ロスト・イン・トランスレーション」「マリーアントワネット」の監督として成功した)
よって、ゴッドファーザーPART3の死によって彼女はスクリーンから消えた。このことにより、この役には変な色がつくことない「無垢なまま」の状態でいまに残っているのだ。
だから、20年近く経った今見ると、俗にいう「ウマイ役者」が演じるよりも、変に演技ががっていない素人ぽい感じや、どこか純朴な感じする雰囲気がするソフィア・コッポラの方が、逆に作品に深みを与えていると思う。

だからこそ、映画の中盤でにある司教に懺悔するマイケルが救いを求めるシーンは重要となる。
何度か映画を見ると、マイケル懺悔の場面はラストの娘の死へとの伏線となっているように作られているように見える。
やはり、マイケルは「救いを求めた」と、私は思う。
そういった点から、いま見直すと、PART3は、ゴッドファーザーの物語の締めくくりとして傑作だったということが分かる。

ということで雑多な記事でした。


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気がつくと同じ記者!

前回の続きで「読売新聞」ネタで。

読売新聞の文化面に時折「歴史」に関する記事が載ることがある。
先日は「直江兼続の兜の前立て「愛」の真相」という記事が載っていて、その下には「紙の発明は “書くため”なのか」という記事があった。これがなかなか分かり易く、面白かった。
これらの記事に記名があった。「鷲見一郎」とある。
うん、どこかで聞いた名前と思ったら、このブログで「日本史ファン」「歴史モノファン」は増えているのか?をupしたとき、読売新聞に載っていたこの方の「歴史人物像イメチェン」の記事を引用してました。
そこで、読売新聞のサイトで、「鷲見一郎」を検索して、他の記事も読んでみました。
書評の「三国志」「カムイ伝」「加藤廣・謎手本忠臣蔵」など、リアルタイムで読んでいて、「う~ん面白い。ためになる。」とその時すでに思っていたんですね。
そして、この「切り口」が、まさしく私好みなんです。

いま、ちょっと読売新聞の「歴史モノ」の記事を注目しています。
また「鷲見さん」がどんな方かは、全く分かりませんが、次はどんな記事か期待しています。

「生命」について考えさせらた読売新聞の記事の絶妙な配列

平成21年2月20日の読売新聞の一面の中段に「香川の病院で他人の受精卵を誤移植…妊娠後に判明、中絶」の記事出ていた。経緯等はhttp://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20090220-OYT8T00327.htmで。
それにしても、この女性患者さんの精神的苦痛を考えたら、痛ましい気持ちになります。
そして、同じ1面のすぐ下にある「編集手帳」の記事を読んで、さらに「生命」「親子の情」について考えさせられました。

ドイツの哲学者、アルトゥール・ショーペンハウアーはプードルを友とした。「アトマ」(世界精神)という名前だが、その犬に腹を立てたときは「人間」と呼び、「おまえも人間でしかないのか」と悪態をついたという◆イタリアの哲学研究者ピエトロ・エマヌエーレ氏が「この哲学者を見よ」(中央公論新社)につづった挿話にある。万物の霊長も形無しだが、人間嫌いの哲学者に同調したくなるような無責任な飼い主もときにはいる◆ヨミウリ・オンラインの地域版で読んだ記事が胸を離れない。秋田県内で保護された犬と猫36匹が県の動物管理施設で「殺処分」される、その現場に立ち会った記者のルポである◆6匹の子をもつ、やつれた母犬がいた。麻酔の注射で意識が朦朧とした母犬を職員が優しくなでる。親子を隔てた壁を取り去ると、ふらふらしながら子犬たちのもとに寄り添ったという◆記事には、子犬たちを抱くようにして身を横たえ、授乳をする母犬の写真が添えられている。もとの飼い主の手で最後に頭をなでてもらったのはいつだろう。偏屈な哲学者にならって、「人間め!」とつぶやく。



悲しい話でありながら、それでいて、さまざまな感情に訴えてくる内容です。

それにしても、犬を処分するのも「人間」、受精卵を取り違えた軽率な医師も「人間」。
「人間」は、いつしか生命の生死を思い通りに操るような存在になってしまったのか……。

そんな思いにさせられる記事の配列でした。

「歴史まちづくり法」について

「歴史まちづくり法」の記事を新聞で何度か見て気になっていた。
略称「歴まち法」

正式名称「地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律」
2008年11月4日施行
歴史遺産を生かした街並み整備を支援・維持・向上させ後世に継承するために制定
自治体は、対象地域や事業を盛り込んだ「歴史的風致維持向上計画」を策定。国が認定すれば、事業費の半分から3分の1の助成を国から受けられる。
第1回は2009年1月19日、国土交通省、文化庁、農林水産省の3大臣の認定で、亀山市(三重県)、金沢市(石川県)、高山市(岐阜県)、彦根市(滋賀県)、萩市(山口県)の計5市が認定された。

とある。

そんなとき日経流通新聞 平成21年2月4日付けの一面記事を見た。
なんと、流通新聞なのに「歴史まちづくり法」がトップ記事!
日経流通新聞 平成21年2月4日

これは超解りやすいです。これを一面でまとめてあるのはスゴイ。
しかも経済効果、問題点、将来性にまで言及している点もいい。
早速、会社にあった新聞をもらって、スクラップ。
またネット上で「歴史まちづくり法」について検索してもあまりいい記事がない。そこでこの新聞記事があまりにも良くできている内容なので、書き起こしてみました。
(一部個人名は略してあります。また一部省略してあるので、詳しくは紙面で)
以下引用。

歴史的なまちづくりを支援する「歴史まちづくり法(歴まち法)」が動き出した。1月19日に金沢市、岐阜県高山市など5都市の申請計画が第1号認定を受けた。国による支援拡大を追い風に、これまで認知度の低かった地方の歴史都市が次々に名乗り出る見通しだ。以前からまちづくりに力を注いできた各地の「城下町」「小京都」も整備に磨きをかけるなど、地元や旅行業界では新たな観光資源発掘への期待も高まっている。
新法施行で何ができる?
2008年11月に施行された国土交通省、文化庁、農林水産省が共管する歴史まちづくり法で、国の支援対象が広がった。新設の「歴史的環境形成総合支援事業」の08年度の予算規模は7億3千万円。建造物の復元・修理や伝統行事の開催などハード・ソフト両面について、半分または3分の1支援を受けられる。既存の補助制度の拡充や、特例措置の適用もある。具体的に何ができるようになるのか。認定を受けた5都市の計画からひもとく。
<自治体指定文化財の整備> 亀山市は市指定文化財の武家屋敷と商家の整備費用の半分を国費でまかなう。市指定文化財など自治体の文化財整備は、これまで各自治体の単独出費だったが、新法に基づき歴史的風致形成建造物に指定(指定予定)すれば、整備費の2分の1補助が受けられる。
<歴史的建造物の復元> 金沢市の金沢城周辺に張り巡らされた堀である「惣構(そうがまえ)」を一部復元する事業で、費用の半分を国費でまかなう。当時の形をとどめていない建造物でも、歴史的な都市構造を伝えるなど貴重な遺産であれば、復元費の2分の1補助を受けられる。
<祭礼の復興>  高山市は高山祭の屋台行列の祭礼次第の整理・記録や衣装を伝統的なものに戻すための費用の3分の1に国の支援を充てる。高山祭の維持・継承につなげる。新法施行で、祭りなどの歴史的風致を形成するソフト事業への支援が新設された。
<周遊ルートの整備>  高山市は市内を巡る横町や遊歩道などをつなぎ、歴史的な資源を生かした周遊ルートを整備するため、舗装やベンチ設置などの費用の3分の1を国の支援でまかなう。
<イベントの開催>  彦根市は開催中の「井伊直弼と開国百五十年祭」での企画展費用の3分の1を国から支援を受ける。企画のほか、城下町のジオラマを作成して展示する。市民が街の歴史的風致について認識を深める効果が期待できる事業なら、支援を活用できる。
<歴史の浅い行事や観光振興だけの目的はNG>  歴史的なまちづくりに関連していても認められない場合もある。「歴史の浅い祭りや、正確な史実に基づかない文化事業などは、歴史的風致には該当しない」(国交省)。また、観光振興目的だけを全面に出した事業も認められない。

旅行会社、地域と提携
旅行業界は歴史まちづくり法の波及効果を期待する。旅行ニーズの多様化や個性化が求められる中で、「今までの目的地にはない場所が表舞台に出るきっかけとなり、旅行業界にとってはプラス」(業界関係者)  地域に眠る素材を発掘したり、地域活性化につなげたりする取り組みは始まっている。日本旅行は08年2月に「地域振興室」を新設して旅行を開発中。JTBも08年2月に「地域交流ビジネス推進室」を設置。本社と各地域会社の担当者などが連携して活動中だ。  佐賀県の唐津観光協会と観光資源の開発などを進めているほか、九州で約30以上の自治体などと取り組んでいる。ただ、まちづくり観光は矛盾もはらむ。歴史的なまちづくりの結果、観光客が急増して住民の生活や景観が壊れれば本末転倒だ。 「混雑緩和のため利用を規制するなど、やり方を工夫する必要がある」(業界関係者)と指摘する。
一方で地元の認識も大切。「観光振興をどの程度まで進めるか、コンセンサスを固めるべきだ」(業界関係者)。亀山市は昨年11月浮世絵に描かれた市内三宿の場所を訪ねるモニターツアーを実施。同市はこうしたテーマ性のある旅行を開発し従来の団体旅行とは違う利用を探る方針だ。


眠れる名所を世に出す
《亀山市の事例を紹介したあと、》
「亀山市のような認知度の低い自治体が歴まち法の制定に伴い歴史都市に名乗りを上げるべく準備を進めている。国土交通省の調査によると、全国92の市町村が歴まち法活用に意欲を示した。新法に計画策定には、自治体内に国指定文化財などが最低一つ必要。だが「全国1800市町村のうち1000市町村には何らかの国指定文化財がある。」(国交省)。街の魅力を絞って数少ない文化財の魅力を生かす自治体も出てくる。
2日に申請した高知県佐川町は、町の中心部にある唯一の国指定重要文化財である造り酒屋の本家「竹村家住宅」を中心に計画を策定。約400年間続く酒作りなど歴史的風致と定義した。県内最古の木造洋風建築の移築・整備や、町出身の植物学者・牧野富太郎氏生家復元などを計画する。人口1万5千人に佐川町には、毎年桜の時期は2万~3万の観光客が訪れるが、それも一時。まちなみを生かして「より多くの人に来てもらいたい、町を活性化させたい」(担当者)という。
一方、歴まち法は「城下町」「小京都」と呼ばれる観光都市として知名度のある都市にも恩恵がある。第1号認定にも、金沢市や彦根市、萩市などが名を連ねた。歴史ある街並みを持ちながら「古都保存法」の対象は京都・奈良・鎌倉など10都市に限定されてきた。必ずしも十分な支援がなかった「城下町」などは、新法で魅力に磨きをかけられる。
「まだまだやることはたくさんある」と金沢市の市長は強調する。新法に基づき、計画に60事業を盛り込んだ。独自の施策で歴史的なまちづくりを進めてきた同市でも都市化は加速。07年までの8年間で歴史的建造物が2割(約2200棟) 減少、対策は急務だ。また同市には2014年度に「北陸新幹線」が開通予定。「他の都市にない金沢の歴史的な魅力をさらに高めておく必要がある」(市長)。新幹線開業で人口が金沢から流出するのを防止するためにも、街の魅力向上は必要だ。金沢市市長は「09年度に金沢市内で『歴史都市フォーラム』を開きたい」と打ち明ける。新法の認定を受けた自治体の関係者が集まってまちづくりのあり方を議論し、歴史都市の認知度向上にも努める。09年は歴史を生かしたまちづくりが大きなうねりになりそうだ。

歴史的まちなみ保全関連法・制度の流れ
文化財保護法 おもに国指定文化財などの保存・活用のための規制や支援、課題 文化財の周辺環境の整備は対象外」
重要伝統的建造物群保存地区 国選定のまちなみの管理、修理、修景などのための支援。課題「公共施設の新設などは積極的に支援せず。
古都保存法  京都、奈良、鎌倉など指定10都市の自然的環境保全のための規制や支援  課題「指定都市以外は対象外」
景観法・都市計画法 景観を守るための規制  課題「まちづくり形成の積極的な支援措置なし」
歴史まちづくり法  歴史的風致の維持・向上が目的。建造物の復元・修理・伝統行事の開催などハード・ソフト両面が対象。古都以外の都市や、自治体指定の文化財で活用可能

認定を受けた5市の主な整備計画
石川県金沢市  金沢城公園の2つの門を復元・整備。にし茶屋街周辺道路の修景、無電柱化など。
岐阜県高山市  高山祭の祭礼次第を整理・記録。衣装の整備。旧矢嶋邸を開示施設として活用
滋賀県彦根市  旧池田屋敷長屋門などを保存・修理。井伊直弼関連のイベントを開催。
山口県萩市  藩校明倫館や観音堂の修理・整備。萩城跡内堀の水質改善対策も
三重県亀山市  旧亀山城多聞櫓の保存・修理。関宿散策者の休養・案内施設を整備

と以上です。
ちょっとした観光地や歴史遺産のある所へ行くと「世界遺産を目指そう」といった看板等をよく見かける。そういった運動もいいが、まずは「まちづくり」から行うことが最初ではないか、といつも思う。
よって、この法案はかなり良いのではないだろうか。

関連記事http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-331.html

足利尊氏と映画「ゴッドファーザー」のマイケル・コルレオーネは同じ境涯にあった。 本編

南北朝時代の本を読むと、足利尊氏に対する評価は、ベタほめがある一方で、義貞同様酷評されているものが案外多い。
特に「優柔不断」「ここ一番で逡巡する」といった面が強調され、この手の記述が多いことに気付く。
また、「心変わり」が多いことから「変節漢」といったものや、今だに皇国史観的発想の「謀反者」といったものもあり、、果ては「性格破綻」「躁鬱病説」まであるのにはさすがに引いた。
誤解、偏見も多々あるように思われる。
では尊氏を評する代表的な「迷い」や「優柔不断」は、どこからくるのだろうか。
私は、尊氏が迷う姿が、実に人間的魅力となっていると思っているのだが、世間ではそう見ないらしい。ただ、この時代の中心人物である尊氏がこうした「迷い、逡巡」といったつかみどころがない評価が、南北朝時代をより解かりにくくさせ、不人気の一因にもなっているのではないかと、私は思っている。
ここをうまく、分かりやすいもので説明できるものはないか、と思っていた。(尊氏が魅力ある人物でなければ、南北朝時代はまず盛り上がらない。そこに関心が行けば、かならずそのライバルである新田義貞も注目されることになるからだ)
そんなとき、NHK・BSで放送予定される映画「ゴッドファーザー」の予告を見た。(この経緯は前回の記事で)
そこで、ゴッドファーザーのアル・パチーノ扮するマイケルの迷う姿と、尊氏との姿が重なり、その境遇も似ていることに気付いたのだ。
といっても、すべてが似ているというわけではなく、尊氏の「迷い」「孤独」「心情」「人生」は、こんな感じだったのではないかという意味合いであります。

ということで、新田党の私が、映画「ゴッドファーザー」とともに「足利尊氏」を語ります。
ゴッドファーザーPART3ゴッドファーザーPART3、マイケル・コルレオーネ
足利尊氏像足利尊氏像


1 戦い
「ファミリーを守るために戦う」マイケルと「武家社会を守るため戦う」尊氏はどこか似ている。

ゴッドファーザーPARTⅠの冒頭30分近く、「結婚式」のシーンで、マーロン・ブランド扮するドン・コルレオーネのもとに、イタリア系市民から次々と頼みごとや依頼を受ける場面がある。彼の存在はイタリア系にとって、仲裁役であり、調停役であり、制裁役である。一つの社会をまとめるにはこういった「顔役」のような存在が必要であった。
この存在を南北朝時代にあてはめてみる。
司馬遼太郎井沢元彦のところでも書いたが、鎌倉時代、武家社会における調停者は北条氏・鎌倉幕府であった。それがなくなったために、新しい「顔役」が必要となった。そこで、源氏嫡流との足利家が嘱望されることになった。
海音寺潮五郎の「武将列伝・第二巻」の足利尊氏の章では「頼朝の幕府政治が確立し、成功したのは、社会の要求に合致したからである。だから、現実がわからないかぎり、幕府政治の必要は続く。武士らは鎌倉幕府の責任者である北条氏に愛想をつかし、後醍醐の呼びかけに応じて、一緒になって北条氏・幕府をたたきつぶしてみたものの、今さらのように幕府政治の利便さ、―自分らの利益を保護してくれるものであることを感じぜずにおられなかった。」という南北朝時代のポイントが書かれている。また、「足利家の家柄と威望とは、天下の武士らのよく知っているところであるから、鎌倉幕府の権威が失墜しかけて、世の中がこう乱脈になった以上、尊氏のこうした御教書めいたものが武士たちにありがたがられることは容易に想像がつく。人に支配されることに慣れた者は、支配してくれる者がなくなると心細いのである。」とある。
この望みを満たしてくれるのが、源氏の嫡流(源氏本流は途絶えたので)とみられていた「足利家」であった。(よって新田家もこの資格があったということ。)
この点で、ドン・コルレオーネと足利家が、同じように人々に威望されていたということ。(コルレオーネがイタリア移民のまとめ役として、足利家が武士のまとめ役となった)

しかし、マイケルも尊氏も自ら望んでこの役目を担おうとしたわけではなかった。
PARTⅠの前半で、マイケルはファミリービジネスから距離を置こうとしていたことがわかる。それは募兵に参加したり、ファミリーのことを冷やかに語っていることでもわかる。
実際、長男ソニーが死ななければ、三男マイケルがファミリーを継ぐことはなかった。
「手を引こうとすると、引き戻される」といったセリフがPARTⅢにもあるように、ドンになってからも、この世界に生きることを望んでなかった。
尊氏にもそういった傾向は見られる。「出家したい」というのは口癖のようだし、弟直義に政権を渡して、この修羅の世界から抜け出したい、と常々思っていた。私が思うに、尊氏がこの乱世の時代に生まれてこなければ、人のよい、鷹揚な、一族のお館様として平穏な人生を送っていたことだろう。
実際、尊氏はそんな人生を望んでいたようだ。

だが、2人は望むと望まぬとにかかわらず、運命の波に呑み込まれるように、彼らは、ドン、武家の棟梁になっていくわけである。また、それを周りの人々が望んでいた。

興味深いのが、「ゴッドファーザー」マイケルのセリフ。常に出てくる「ファミリービジネスを合法化する」というのは、3部作を通しての念願であり、生涯を通じて腐心したことだった。
合法化するというのはすなわち、自分の作り上げたものを違法ではない、正当化するということだ。
これは、尊氏が、北朝を正統化するというのにもどこか通じる。尊氏は常に、後醍醐天皇に叛いたという罪の意識に苛まれていた。「太平記」にはそんな場面がよく登場する。(ただ武家社会を守るということは、後醍醐天皇の目指す公家中心の政治とは相対するものなので、仕方がないことなのだが、尊氏はここに苦悩していた)
また、マイケルもファミリービジネスに後ろめたいものを感じて、合法化することによって、自身を正当化しようとすることに悩むことになる。

生涯を戦いの中に過ごすのも似ていて、結局は自分が勝者だったのかは分からない。(権力、富を手に入れたが、それが幸福だったとは思っていない。)
マイケルは偉大な父の作りあげたファミリーを守ろうと必死になって戦う。
尊氏は足利家という源氏の名門を背負い、祖先からの大望を果たそうとし、また武家社会から期待されていた。ともに、自分の意に反して、戦いを強いられる境涯に置かれる。血と暴力の世界、司馬遼太郎が評した欲に溢れた時代に。
しかし、ともに戦いに関して資質があった。
ゴッドファーザーPARTⅠで、父の病院に殺し屋がやってくるシーンでも、マイケルは動じることがなかった。(手が震えることなくライターに火をつける。そのライターを見つめて気づく) ここでマイケルは、自分にはギャングのドンの血が流れていることを悟る。
尊氏のいうところの夢窓国師の評。「御心が強く、合戦の際に身命を捨てたまうべきところにたびたび臨んだが、笑みを含んで畏怖の色が無い。」(梅松論)とある。
だが、この勇猛果敢が、一転して、非情なことを犯すことになる。
マイケルの5大ボスを残殺、裏切り者も抹殺。尊氏による後醍醐天皇の親王らを殺害など…。
敵を倒し圧倒的な富も権力も得た。
だが、その先に待っていたものは……。


2苦悩と孤独
尊氏とマイケル、戦いに勝利して得たものは、孤独だった。

尊氏が武家の棟梁、時代の覇者になろうとも「孤独」にあった。
その手がかりとして、いい文章があった、NHK「そのとき歴史が動いた」の書籍版・第21巻から引用してみましょう。

「よしあしと 人をばいひて たれもみな わが心をや 知らぬなるらむ」
(ここが良い、ここが悪いと人々は言いつのるが、私の心情はだれもわからないであろう)
「等持院殿御百韻」より
五十ぢまで 迷い来にける はかなさよ 唯かりそめの 草の庵に」(「風雅和歌集」)
尊氏の和歌の研究者だった故和泉恒二郎氏によると「かりそめの草の庵」とは、尊氏にとって南北朝の動乱のこと、修羅の巷であった。尊氏はそこで常に迷う自らを詠んだのだ。
尊氏は、乱世を制したリーダーとして下した「決断」と背中合わせに、常に「孤独」と「迷い」を抱えていた。
そして、和歌こそが、リーダーとして生きなければならなかった尊氏の「孤独と迷いの心」を慰めるものだったのかもしれないと、私には思えた。
乱世を制するリーダーの条件とは? 一般的なリーダー論からすれば「行動力」「情報分析力」「ニーズ実現能力」などが尊氏の武将としての生きざまから導き出されるかもしれない。しかし本当に必要な条件とは「孤独」や「迷い」が自らのなかにあることを認め、それを抱えながら責務をまっとうしていく力なのかもしれない。尊氏の和歌を知るにつれ、そんなことを私は考えるようになった。
尊氏は乱世を制し征夷大将軍になったのちも、しばしば出家を望み、かなわぬ現実に苦悩したという。
「山ふかく 心はすみて 世のために まだ背き得ぬ 憂き身なりけり」(等持院殿御百首)
六五〇年以上前に生きたリーダー尊氏の心のうちにある孤独の深さを、私は少しだけ垣間見た。
担当ディレクター中根健



大望を果たすことが、幸福であると信じ、ひたすら進んでいったのに、その先にあったものは、権力と引き換えにした「孤独」だった。
上記引用の文章をそのままマイケルにあてはめることもできる。
godfather 3
PARTⅡのラストシーン、この表情は「苦悩と孤独」をよく表していた。

また、両者には、戦いの中ので多くの肉親や家臣(部下)との争いがある。
PARTⅢで、マイケルが司教に今まで犯した罪を懺悔するという重要なシーンがある。
godfather 1
ここで自分を裏切った次兄・フレドを殺すように命じたことを悔やみ、号泣し、司教に救いを求める。
母のこどもを、父のこどもを殺すように命じました」といいうセリフは効いています。
兄を殺すことを命じるが、このあと、彼は罪業を背負って生きていたことが想像できる。
このシーンだけでもゴッドファーザー3は作られた意味は十分にあった。またPART1では、裏切った義弟(妹の夫)を殺すように命じているし、敵に自分を売った幹部を闇に葬っている。(PART1のクレメンザ、PARTⅡのフランキー、PARTⅢのアルベテロらは、父の代からの部下、旧友)

一方、尊氏は、苦悩の連続だろう。
妻は北条氏一族赤松家だが、この妻の血筋の家を滅ぼし、仲の良かった弟・直義と戦い、毒殺し、第一の腹心・高師直を謀殺する。また自分の子・直冬と戦う。(しかも子のない直義の養子に直冬がなっていた)
これはまるでシェクスピアが書きそうな悲劇ではないか。裏切り、寝返り、謀略、肉親ゆえの愛憎……。まさに映画「ゴッドファーザー」の世界。
(太平記や南北朝時代について書かれた本で、観応の擾乱以降に全く触れていないものが多すぎる。楠木正成の死、後醍醐天皇の死をもって話を終わらせるものが実に多い。だが、ここで終わっては足利尊氏は語れないのである。観応の擾乱からの人生が、人間尊氏としての妙味があるからだ…)
悪行をなせば仏罰を受けて悪い報いを受けるという仏教的因果応報がある。これは太平記の前半のテーマにもなっている。
つまりマイケルが行ってきた悪行(ファミリーを守るためという名目はあるが)が最後には、自分の最愛の娘の命が奪われた。、その苦しみに苛まれながら生き続けなければならない。
この罪業に苦しみながら生きていく様が尊氏と似ている。
そして、尊氏は神仏にすがった。
足利尊氏 地蔵図(尊氏自筆の地蔵菩薩図、鎌倉の浄妙寺蔵)
生涯書き続けた地蔵図や写経は今も多く残っている。
そして、マイケルのキリスト教会への帰依、慈善団体の活動などが描かれている。

尊氏の人生が「迷い」「孤独」の中にあり、それが「宿命、運命」であったという、いい文章があったので、引いてみる。作品社「史話・日本の歴史12、二つの王権・南北朝と太平記」の中から、萩原朔太郎の「足利尊氏」より。

僕は日本の英雄の中では、足利尊氏が最も偉大な人物だと思っている。但しここで偉大だという意味は、必ずしも英雄としての偉大さを言うのではない。英雄としての価値要素は、武将プラス政治家の総合天才であるけれども、尊氏は武将として、それほど大した軍略家ではなく、いつも大軍を擁しながら、概ね負けてばかりいるし、政治家としての手腕も家康や秀吉には遠く及ばない。英雄としての尊氏は要するに大したものではなく、頼朝、信長、秀吉、家康等五将軍中で、あるいは末席に地位するものかもしれない。
尊氏に対する僕の興味は、主としてその人物の哲学的雄大さと、性格の深刻性とにぞんするものである。尊氏は夢窓国師に就いて禅を学び、その深奥を究めていたが、この無抵抗主義の仏教哲学が、彼の場合に於いては、その武人としての境遇と一致せず絶えず深刻な矛盾に苦しんでいた。彼の痛ましい悲壮な生涯は丁度ローマの哲学皇帝、背教者ジュリアンの悲劇を連想させる。ジュリアンの場合は、詩人が皇帝の家系に生れ、瞑想家であるべき人が、境遇のために武人となり、誤って戦場に出たことに悲劇をもってくる。足利尊氏の場合も同様であり、本来哲学者であるべきが、武将の名門に生まれたために、周囲から無理に押されて担ぎあげられ、生涯を戦場ですごさねばならなかった。ジュリアンの場合と同じく、これは宿命の最も大きな悲劇である。
足利尊氏は、決して如何なる敵をも憎まなかった。のみならず彼は、自分の正面の敵をも憎まなかった。のみならず彼は、自分の正面の敵を愛しかつ常に尊敬した。彼は特にその最も仇敵である楠正成を敬愛し、常に左右に語って「正成こそは我を知る唯一知己」と語っていた。おそらくこの感想は尊氏にとっての実感であり、他人に理解されない深刻な意味を持つものだろう。それ故正成の戦死した時、彼は天を仰いで長嘆し、「爾後また誰れおと共に語らん!」と言ったそうである。その正成の首を鄭重に礼葬して、河内の遺族に送り届けたるは、小学校の読本にも書いてある通りである。その結果は却って遺族の敵愾心を挑発し、子の正行をして「七度生まれて尊氏の首を斬らん」と叫ばせたが、尊氏がもしそれを聞いたら、人生孤独の感を深くし、一層寂しく暗然としたことだろう。
正成ばかりではなく、新田一族に対しても、決して仇敵としての憎しみを持たなかった。況や他の一般の敵に対しては、すべて皆心から抱擁し、最も憎むべき忘恩者や裏切者さえも、降参する以上はすべてを許して優遇した。「汝の敵を愛せよ」というキリストの言葉が、尊氏の戦争哲学に於けるモットオだった。しかし尊氏の哲学は、キリスト教の博愛主義ではなく、もっと深刻な厭世観を根拠とする東洋宿命哲学、即ち仏教にもとづいている。彼の人生の存在を、根底的に悲劇と見、避けがたい悪の宿命として観念しながら大乗的止揚によって、また一切の存在を必然として肯定した。それ故に彼の場合は、敵も味方も悲劇であり、戦争そのものが痛ましい宿命だった。世に憎むべき人間は一人もなく、「敵」という言葉すらが、尊氏にとっては不可解だった。
そうした尊氏の外貌は、彼の理解しない武人等の眼に、おそらく馬鹿な「好人物」として見えたであろう。そして人々は彼を利用し、自己の野心の傀儡にした。既にして利用を終えれば、たちまちこれを棄て、今日の味方は明日の敵となって叛逆した。実に尊氏の一生は、忘恩者と裏切者との不断の接戦に一貫している。
彼はその最期まで、自己の欲しない戦いながら、宿命の悲劇を嘆き続けて生きたのである。


萩原朔太郎とは、あの有名な詩人である。それが、尊氏について書いているところが面白い。(でも戦前で、これを書いて大丈夫だったのかな。)
やはり、太字で示した「孤独」「苦悩」といったことがキーワードとなっている。このあたりもマイケルと同じ境涯であった。

ただ、マイケルと尊氏の違いは「敵」への対応の仕方が正反対だった。敵さえも愛そうとした尊氏と、味方さえ愛せなかったマイケルとではだいぶ違う。
この点は、尊氏は、父・ビトー・コルレオーネに近かった。
「ビトーとマイケルには大きな違いがあった。ビトーに敵対する者を取り込む懐の深さがあったが、マイケルは敵対するものを徹底的に排除する厳しさを持っているのだ」(本「ザ・ゴッドファーザー」から、詳細は、後述)
「慈悲天性にして、人を憎まれることがない。怨敵を、まるで我が子のように許される。」(梅松論・夢窓国師の尊氏評)
と同じだ。
尊氏には、父コルレオーネのような、懐の深さ、器の大きさ、カリスマ性もあったということです。
ということは、映画「ゴッドファーザー」は全編通じて、足利尊氏を描いているということになるでしょう。(もちろん私見ですよ)
また、そう見れば、ロバート・デュバル演じるトム・ヘイゲンは、足利直義に似ている。優秀な実務家で、常にビジネスライクに事を進める点などに共通点がある。ファミリーを動かすトムとマイケルと、幕府を動かす尊氏・直義兄弟といった感じが、あんな風だったのでは、と思わせる。
監督コッポラが考えた、PARTⅢの当初のストーリー構想は、「トムとマイケルとが確執し、ファミリーが内部抗争する」という話にする予定だった。(ロバート・デュバルが降板して、やむなく別の話に変更した) やはり肉親・兄弟の(トムは養子だが、一応兄ということになっている)争いが主題になっていたようだ。
この点も、足利兄弟との関係と同じだろうか。

3 死
マイケルは死の瞬間救われた。では尊氏は、

ゴッドファーザーの本では、ハーラン・リーボ著の「ザ・ゴッドファーザー」(ソニーマガジンズ)が3部作の制作過程が詳しく載っていた。その本によれば、ゴッドファーザーPARTⅢは当初「マイケルコルレオーネの死」という副題をつけられる予定で、マイケルの「死」と「贖罪」がテーマだった、という。
ゴッドファーザー ハーラン・リーボ著
またPARTⅢのラストについては

「映画の最後を飾るオペラ・シーンの撮影を前に、コッポラはプーゾ(原作者)に相談を持ちかけている。当初の脚本では、劇場の前でマイケルが撃たれ、死を迎えることになっていた。しかしメアリーが身代わりになって死ぬという結末、マイケルは糖尿病で失明し、罪の意識の中で生き続けるという結末などが書かれ、コッポラは迷っていたのである。コッポラは次のようにファックスをプーゾに送った。「メアリーの死は、まさに(一作目のアポロニア)の死と同じだ。純粋な心の死をも意味する。そして、その死に対してマイケルは何もできない。―だからこそ、彼は苦しむんだ」。それに対するプーゾの返事は簡潔だった。「マイケルが年老いて死ぬというのは“文学的”な、小説の終わり方だ。彼が暴力的に殺されるというのが、正しい“映画的”エンディングだと思う。小説家の私が“映画的”なエンディングを望み、君が“文学的”なエンディングを望むのはおかしなものだが、どちらであれ、君の判断が正しいと思っているよ」


godfather 2
ゴッドファーザーPARTⅢのラストシーン
また同書の解説に「マイケルがシチリアに戻るのは物語としての必然であり、最初からそのように計算されていたかのようにも思える。」とある。
重要なのは、主人公が故郷に帰って死を迎えたということ。

一方の尊氏の最期は、こうなる。
太平記の尊氏の記述。
太平記第三十三巻「将軍御逝去のこと」(新訳太平記を読む 長谷川瑞・訳)

同じ年(延文3年・1357年)の四月二十日、尊氏卿は背中に悪性の腫瘍ができて、ご気分がすぐれなかったので、内科・外科の医師が多数参集した。昔の中国の名医である倉公や華陀のような名医がその術を尽くし、さまざまな薬をさしあげたけれども、まったく効果はない。陰陽頭や効験あらたかな高僧が集まって、鬼見・太山府君・星供・冥道供・薬師の十二神将の法・愛染明王の法・一字文殊の法・不動慈救延命の法など、さまざまな祈りを懸命に行ったけれども、病気は日を追って重くなり、時が経つにつれて頼み少なく見えなされたので、御所中の男女は気持ちを押し隠し、近侍する従者たちは涙を抑え寝食を忘れて、将軍を見守った。
こうしているうちに、尊氏卿は次第に衰弱して、同月二十九日午前四時に、御年五十四歳で、とうとう逝去された。死別の悲しみはもちろんであるが、国家の中心人物が亡くなったので、世の中は今にもどうなるであろうかと、人々は嘆き悲しんだ。
しかしながら、死は致し方ないことであり、中一日置いて、衣笠山の麓の等持院に葬り申し上げた。棺の蓋を閉じる儀式は天竜寺の龍山和尚によって、棺を送り出す儀式は南禅寺の平田和尚によって行われ、また棺前に茶を供える儀式は建仁寺の無涯和尚によって、霊前に湯を供える儀式は東福寺の鑑翁和尚によって、さらに火葬の火をつける儀式は等持院の東陵和尚によって行われた。哀れなことよ、将軍となって二十五年、尊氏卿が向う所へは必ず兵が従ったけれども、死という敵の訪れを防ぐ兵はいない。悲しいことよ、六十余州の天下を治めて、その命令に従う者は多いとはいえ、この世との別れに供となる者もない。その身はたちまちにあの世のものとなり、夕暮に立ちのぼる数条の煙となり、骨はむなしく残って卵塔に埋められる一握りの塵となった。別れの悲しみに沈み、涙がとめどなく流れるこの頃である。


敵を倒し、生き延びる。戦乱の中での。
尊氏は戦乱の世にあって、一人、生き延びた。ライバル新田義貞も、後醍醐天皇も、楠木正成も失意の内に死んだ。味方でも股肱の臣・高師直は謀殺し、弟直義も毒殺した。尊氏は戦陣の中で死ぬわけでもなかった。重い病による死。それは、どこか悲しい。最期は苦しみのうちにあった。

では、その最期に何を思ったのだろうか?

マイケルは自分の祖先の生まれ故郷であるコルシカ島に帰ってきた。
そして、最後の最後に、美しい記憶を呼びこして、こと切れる。
godfather 4PART3、娘とのダンスシーン
godfather 5PART1、コルシカ島最初の妻とのダンスシーン
godfather7.jpgPART2、最愛の妻とのダンスシーン
美しいダンスシーンをつないで迎えるラスト。素晴らしい場面だ。
映画「ゴッドファーザー」という長い物語を締めくくるにふさわしい回想シーンだった。

そして、これは、「あなたは死を迎えるときに何を思い出すのか」と問いかけているようにも見える。
死を迎えたとき、死ぬ最後のその瞬間、に。
マイケル・コルレオーネは、孤独と苦悩の人生を送った。悪行をなせば悪い報いを受けるという仕打ちも受け、罪悪感に苛まれながら生きてきた。
だが、最期には「愛した人と過ごした美しい瞬間」を思い浮かべる。
ここに、「救い」があった。

では、マイケル・コルレオーネと同じように、修羅の世界で「孤独」だった尊氏はその死の瞬間何を思ったのか。
想像でしかない。
尊氏の自ら望んだ「戦いに勝利した瞬間」でも「将軍職を得たときはなかったはず」でもなかったはず。

きっとマイケルが自分のルーツであるシチリア島に帰って最期を迎えたように、尊氏もその魂は自分のルーツである「足利」に帰ったのではないか。
そして、何を思ったのだろうか?
やはり自分の死に際に、「幸福」だったときのことを思い浮かべるのであろうか。
2足利尊氏像栃木県足利市にある足利尊氏像

そして、私は死の瞬間に何を思うのだろうか。
それが「美しいもの」であったなら、
いかに惨めに生きようとも、その時救われたような気がするだろう。


「足利尊氏とマイケル・コルレオーネは同じ境涯にあった」をいま書いておりますが、まとまるかどうか、微妙。

NHK・BSで、映画「ゴッドファーザー」が一挙3部作放映されるというので、これに合わせて以前から温めていた「足利尊氏とマイケル・コルレオーネは同じ境涯にあった」という記事を書こうと思ってました。
放送前にはこれをブログに載せようと思ってましたが、間に合わなかった。
DVDで3作を通して見たのもいけなかった。
映画監督・井筒和幸が、「ゴッドファーザー」を自作の参考にしようと、メモを片手に見始めた。しかし、あまりにも素晴らしくて、気が付いたらメモを取ることも忘れて、そのまま最後まで見入ってしまった、そんなことが何度もあった、という話を以前ラジオでしていた。
私もいまそんな感じです。
しかし、ただいま必死にまとめております。

考えてみたら、今月はまだ5回しか更新してなかった。決して更新を忘れているわけでありません。
途中、どうでもいい「ブログ炎上」のネタに熱を入れすぎました。
ほんと、それは……って感じです。

楠木正成はトリックスター!そして、木曽義仲=新田義貞=明智光秀説など。

トリックスター」とは
<いたずら者>の意。世界各地の神話には、臨機応変な知恵をひねり出して危機を脱したり、強大な敵をまんまと出し抜く動物や人物がユーモアをもって描かれることがある。こうした存在類型をさしてトリックスターという。一方、人間界に秩序と文化をもたらしたとされる神話的存在を<文化英雄>と呼ぶが、トリックスターにもそうした性格がある。秩序と混沌、文化と自然、善と悪などの二元論的世界の間を自由に往還して硬直した状況に流動性を与え、活性化するのがトリックスターの特性。 (マイペデイア百科事典から)

「トリックスター」という語感があまりにもカッコいいので、別の意味で使用されているようです。検索すると、神話学の「トリックスター」はあまり出てこないで、ゲームの名前やテレビ番組名などが上位にきます。

さて、私がこの「トリックスター」という言葉を知ったのは、20年近く前に見た、NHKのドキュメンタリー番組からだった。それは『神話の力』という題名で、アメリカの神話学者・ジョゼフ・キャンベルの対談番組、映画「スターウォーズ」を神話学から考察したものだった。
これは衝撃的だった。
いまでこそ、スターウォーズと神話学の関連性については知られているが、大元はこのジョゼフ・キャンベルの説からであり、テレビ番組として流されたのは、これが最初だった。
そこで、物語「スターウォーズ」の中に登場する「トリックスター」というものが説明されてました。
(ネットで検索すると、制作は1988年で、ルーカスのスカイウォーカー・ランチで撮影されたもの。またこれについてはジョージ・ルーカスのインタビュー映像がネットで見られる。そこでも語られてます。)
ジョセフ キャンベルについてはこのサイトが詳しい。http://ogi.cbc-net.com/?eid=44
トリックスターについて超詳しいサイトは、http://homepage2.nifty.com/akane~/shuri/200286/trickster.htmここ。
また簡単なトリックスターの説明はこれが一番良かった。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q118789751

私はこのジョゼフ・キャンベルの番組を見て以来、映画やドラマ、小説、物語、の中から、「トリックスター」に当てはまるものは、何か、誰かを探してしまうようになった。
これが「物語」を楽しむ上で、なかなか面白い。 最近では「崖の上のポニョ」を見て、「ポニョ」こそがトリックスターだと思った。

そして、「太平記」を読むと、まさに「楠木正成」は、トリックスターの役回りを与えられているな、と常に感じていたのだが、このことをずばり言っている本を最近読んだ。
丸谷才一と山崎正和の対談集「日本史を読む」だった。

南北朝時代は「異形の王とトリックスター」という章で、異形の王とは後醍醐天皇のことで、トリックスターが楠木正成ということだ。南北朝時代の考察がなかなか鋭く、かなり面白い。
全部引用したいところだが、とりあえず最後の部分だけ引用してみる。

清盛と後白河は共同して、京都を都から町にする祖型をつくっているわけですね。そうこうしているうちに頼朝―北条路線、つまり反都市勢力によって滅ぼされ、その間に飛び出してきたのが義経だったわけです。
まったく同じ構造が繰り返されて、後醍醐―義満というコンビが都市文明をつくりあげると、それは次に戦国大名によって―つまり農民文化によって―潰されていく。その間に飛び出したトリックスターがもちろん楠木正成であった、と言うと、この構造は非常にうまく祖型反復になるんです。
ついで次の世代に入ると、信長―秀吉の二人でもう一回、都市文明をやるんですが、やがて家康による農本主義に潰される。そこでもやはりトリックスターが出現して、これが真田幸村です。これも日本人の大好きな奇抜人です。その次に明治。このときは大久保だとか渋沢だとか、日本資本主義の本流の連中が都市文明をつくりますが、二代目軍閥によって軍国主義という形で農本主義に戻っていくんですね。その間に飛び出してきたトリックスターが西郷隆盛であった。そうするとまた、祖型反復が成り立つんです。

 ここだけを引いても分かりずらいとは思いますが、興味深いのは、「日本歴史の中の祖型反復」「歴史は繰り返され、同じような役回りを演じる人物が登場する」という点。
このあたりは、まさに私好みの話です。
この本でいう「日本史のトリックスターの系譜」は、源義経―楠木正成―真田幸村―西郷隆盛となっている。明治維新でのトリックスターに西郷隆盛を持ってくるところがなかなか面白く、なるほどと思わせる。
本流は、源頼朝―足利尊氏―徳川家康―明治政府という系譜。

で、この系譜以外にも、「悲劇の系譜」という流れがある、というのが私の説。
木曽義仲―新田義貞―明智光秀という流れである。「平家物語」の義仲と「太平記」の義貞が同じような役割を演じ、死に様も似ている、これは多くの学者や作家が指摘していること。義貞と光秀との類似性は、「東毛奇談」「新田義貞伝承を追う」などで書いているところです。
となればこの3人は違う時代で同じような役回りを演じた人物だと言えるでしょう。
それに、これらの3人には共通点が多い。みな「時代の覇者」を打ち破っている点。義仲は平通盛、平維盛を破り、義貞は北条・鎌倉幕府を滅ぼし、光秀は織田信長を討った。構図としては「源氏が平氏を討った」という図式がある。また一時的に本流となるが、戦いに敗れて敗退し、悲劇的な死を迎える。しかも義仲、義貞は敵に取り囲まれ、最期は名もない兵士に首を取られる、光秀は敗走中に名もない農民に討たれる様など「無残な最期」という状況も似ている。それに3人とも北陸とは縁がある、などなど他にいくらでも例を挙げることができる。
また、彼らがこの役割を演じることによって、時代が動いたということ確かだろう。彼らは時代の狭間に登場した橋渡し役、つまり平氏~頼朝、鎌倉幕府~尊氏、信長~秀吉・家康への「つなぎ役」になっている。この悲劇の系譜がなければ決して世の中は動かなかった。(それなのに、彼らの評価は低い)

ならば、幕末・明治維新の「悲劇の系譜」は誰になるか?
志半ばの悲劇的な死、本流ではないが、彼がいなければ時代は動かなかった重要な役割を演じた人物が…。
そう、坂本竜馬ですよ。
つまりこの系譜は義仲―義貞―光秀―竜馬となるわけです。

「日本史の祖型反復」これを考えると面白い。

ちなみに「東毛奇談」では南北朝時代と本能寺の変の時期が類似している点を挙げていった。
新田義貞=明智光秀、足利尊氏=豊臣秀吉、北条政権=織田信長、護良親王=近衛前久、後醍醐天皇=正親町天皇、……といった感じでした。
この点でいけば、佐々木道誉は、前田利家+前田慶次となりそうです。歴史的には主役ではないが、その時代の覇者に尽力して、家名を永らえた。まあ、ともにバサラ好んだカブキ者ですから。また作家も道誉みたいな人物が好きなようで、吉川英治の「私本太平記」では主役級の扱い、北方謙三の「道誉なり」、安部龍太郎の「正成と道誉」とかなり好まれている。かたや前田利家、前田慶次も小説のみならず、漫画やゲームで取り上げられるほどで、ともに人気の高い個性的な脇役といった位置も似ている。

こうやって南北朝時代と戦国時代とをいろいろと結びつけると理解しやすくなり、親しみやすくなります。

では、戦国時代のトリックスターは誰になるでしょうか。
先ほどの本「日本史を読む」ではトリックスターの系譜は、楠木正成=真田幸村となる。ともに奇想天外な戦術を好んで、反主流側について、最期は戦場で討ち死にした。またその時代を代表する人気者。
確かにそうだ。
だが、天下を取るまでの「豊臣秀吉」も、トリックスターに近いような気がする。
「臨機応変な知恵をひねり出して危機を脱したり、強大な敵をまんまと出し抜く動物や人物がユーモアをもって描かれることがある。」とあるように、突飛な戦術で活躍し、それでいてどこかユーモラスな面が秀吉にはある。どこか戦国時代をかき回したイタズラものという雰囲気もあるでしょう。また神話に出てくるトリックスターは好色だというから、その点でも秀吉はピッタリだ。
しかし、かれは一転して本流となる。
そこが秀吉という人物が特異な点だろう。
その転換となったのは「中国大返し」だと思う。
日本史上、西から東へ攻め上がるとき大きな力が起こるというのは、前に書いたこと。(足利尊氏、江戸末期の薩長、日本書紀の神代の時代…)

つまり、、秀吉は、西から東へ攻め上がることによって、トリックスターだった存在が、一転して本流に変わってしまったということになる。
しかし、豊臣氏は続かなかった。秀吉一代だったということを考えれば、徳川幕府・家康への橋渡し役となった役回りだったといえる。
となれば、秀吉はトリックスターでありながら主流になりえた、日本史上唯一突然変異した特異な存在だったといえる。

こんなことを考えていくと、「歴史」は楽しい。



「批判記事」は悪意あるものなのか?3回目  「酷いテレビ番組を見た」に画像を付けました。

 「ブログ炎上」の話題で、今回は、3回目。
1回目、ネットは社会の浄化装置になるのか?(未完成文章ですが、載せてしまいました)
2回目「ネット炎上」は果たしてすべて悪なのか? 前回の続き。
今回は、実に簡単で、分かりやすく、下世話な例を出します。

ある掲示板のスレで「和田アキ子」に関して記事を読んだ。
こんな内容だった。
「和田アキ子って、いい歳こいてなにが「お誕生日会」だよ。自分のテレビ番組で自慢気にそんなもん放送するなよ。」とか「芸能界のご意見番だか知らね~けど、自分の気に食わないヤツは「しめてやる」だの「芸能界から追放してやる」とかテレビでいってけど、自分のやってることはヤクザと変わんなね~な」とかいったことが次々と書き込まれてました。
これこそ、まさしく「和田アキ子」へは個人への中傷記事だということになるだろう。
でもね、これほど「ホンネ」を言っているものはない。私はこれを読んで「うんうん、その通り」と唸った。
しかし、テレビや新聞ではまずこんなことは言わないでしょう。いや言えないのか。なんたって芸能界のドンですからね。(書くのは2流以下の週刊誌のみ) みんな感じているはずなのに。
そうネットではこういった世の中の矛盾を突く実体が言うことができる。いまや既存のマスコミでは失ったしまった、こうした「本音」が言える場が、ネットにはあるのだ。
批判コメント、批判記事がすべて「悪意ある意見」だというものではない。
悪を糺し正義を行おうという浄化作用がネットを通じて行なわれようとしているのだ。(これが前回書いたこと)

ということで、もっとネットでできることをやってみる。
前の記事「酷いテレビ番組を見た」の記事に関して、メールやコメも頂き、反応もあった。賛同の意見もあった。
それではということで、「告発」の意味も込めて、フジテレビのホームページにあるご意見係にメールを送ってみた。また新聞の放送塔という投稿欄にも送ってみた。
およそ1週間以上たったが、いまのところ、どこも何の反応もなかった。
また、こういったことは、BPO(放送倫理・番組放送向上機構)に送ればいいという意見もあったので、早速メールで送ってみた。だが、どうすればいいのかよく分からなかった。
結局は、そのまま変化なし。
そこでネットの機能を生かし、画像をつけてみました。こういった意見を述べるのも、告発をするのも、ネットは迅速に行える。これがネットの利点ですね。(これに関しては前回を参照してください)
まずは、その時の記事をそのまま再録。

■人権や児童・青少年への配慮

 テレビは誰にもアクセスできる最も身近なメディアであり、今や日常生活に密着して、国民にとって欠くことのできないメディアになっています。したがって、放送する内容が国民に与える影響は大きいものとなっています。 フジテレビは、こうしたテレビの社会的な影響力の大きさを充分に認識し、放送内容が国民の基本的人権を擁護するものとなるよう心がけております。特に、人権や児童・青少年への配慮については、細心の注意を払っています。

■人権についてのフジテレビの取り組み

 テレビの社会的な影響力と責任が大きくなったことを自覚し、近年高まる一方の国民の人権意識を尊重する立場から、フジテレビでは、視聴者や出演者、取材対象者の人権に充分配慮した放送を行うよう心がけております。


これがフジテレビのホームページに掲載されている。http://wwwz.fujitv.co.jp/fujitv/index.html
さて、2009年1月31日放送の「めちゃ2イケてるッ!」は相当酷い内容だった。
たとえば、手錠をかけて動けなくなった芸人を4人で抱え上げて熱湯に突き落とす。
女を足蹴にする。上半身裸・パンツ一丁にしてスタッフの一人を真冬の外に出す。無口な女優を端に追い詰めて言葉攻めにする。
最悪なのは、一人の芸人に、頭からビーニール袋をかぶせ、隙間からスプレーを発射し、息ができないようにして、ビーニールの袋をひっぱり窒息状態にした。
かなり酷い。
これは、いじめを助長するといったレベルではない。悪意の塊としかいえないものが、ゴールデンタイムで全国に垂れ流しされている。
本当にフジテレビが上記のような審査が行われているのか、かなり疑問だ。
特にこの最低な行為を積極的に行うのが「加藤浩次」だ。
こいつは最悪だ。朝の情報番組では常識ぶったことを言ったりするが、ここでやってることは殺人行為と変わらない。彼には子供もいるはずだ。自分の子供にこんなものを見せるのか?
また、こんな劣悪なことが行われているのに、回りにいる人間が手を叩いて喜んでいる。
まわりのスタッフも芸人も笑っている。
どこがそんなに面白いのか。どこがそんなに楽しいのか。
こんな悪意に満ちた「テレビバラエティー番組」を見たことがない。

とここまでが1月31日のときに書いた内容。
以下が今回付ける画像。
めちゃイケ1
この画像は殺人が行われているものではない。土曜の夜8時ゴールデンタイム、家族で見る番組から放送されたもの。これが「お笑い」?
めちゃイケ2
この画像はホラー映画ではありません。青少年健全番組を放送すると主張している放送局が放送してるもの。これが「バラエティー」?
めちゃイケ3
この画像は、気の弱い女優が男数人に囲まれて言葉攻めにされたものですが、これは「お笑い」のためにやっていることです。しかし見ている視聴者がこれを見て笑えるかは別問題だが…。
めちゃイケ4
この画像は、男が女に張り手を食らわしたもの。決してドメスティック・バイオレンス・DV場面ではない。日本では数十年も続くフジテレビを代表するバラエティ番組の映像だ。
めちゃイケ5
後ろ手に手錠をされた男が熱湯に突き落とされ、周りの人が手を叩いて喜んでいますが、決してSMの画像ではありません。時に、視聴率が15%以上になるという人気番組の楽しい一場面らしいです。見ている人が楽しめるかどうかは別問題だが…。
めちゃイケ6
この画像は一人の男を数人の男が取り囲み押さえつけているもの。決してイラクのアブグレイブ刑務所で行われたアメリカ兵による虐待の画像ではない。日本のゴールデン番組で堂々と流された映像だ。

そしてこの残虐な行為を行うのが「加藤浩次」である。
こんな、暴力的な彼が司会する朝の情報番組「スッキリ」の中で言った言葉に驚いた。
ブログ炎上の話題で、ネットに書き込みをする人々に向かって「求められるのはモラルですね」と堂々と言ってました。
私は、椅子からのけぞり、吹きました。「アホか」と。でもある意味「シュール」で、「めちゃイケ」の彼よりも笑えましたね。
バラエティー番組でめちゃめちゃするのに、他の人には「常識」を求めるんですね。人にビニール袋を頭からかぶせて喜んでいる男にこそ、モラルを求めたいです。

と、こういったことを書いても「個人への侮辱、中傷」「ネットによる言葉の暴力」ってことになるんですかね。
一連の「ネットによる中傷、言葉の暴力」の新聞記事によれば、こういった発言も否定されるわけです。

でもだれがこういった「悪意」を告発するの? 
「ブログ炎上」で「悪意ある言動」をする人々がいることを知ることだってある。
ネット発信の「批判コメント」「非難の記事」すべてを否定する流れには、やはり矛盾を感じる。

追記、3回も長々と書いてしまいました。やはり文意がうまく伝えられません。
    すいませんでした。。。

追記の続き。  コメント待ってました。批判コメ大歓迎です。いいんですよ、こういう批判コメントがあってこそ、ネットが活性化するということです。「罵詈雑言」ではなく、様々な意見を言い合う場として、ネット本来の利点があるからです。
だから、この記事は、内容のある批判コメントが来たということによって、これが成功したといえるのです。ありがとうございます。 これがなければ、この記事は完成されませんでした。(なんか映画「セブン」みたいですが)
私が発した「悪意の記事」に反応し、「それはおかしい」と思えば、反論のコメントをどんどん書き込んでもいいわけです。そう、批難コメすべてが「悪」じゃないというのはこういうことです。これこそが「ネットによる浄化作用」ということなのです。しかし世間ではこうった批判コメントが集まることを「悪意」だとみなして、排除しようとしているわけです。新聞の論調もそこにあり、そこに私は疑問を感じるということです。
第二回目の時に書いた「批判される側が発した「悪意」は問わずに、批判した側のみを「言葉の暴力」と称するのは、不公平である。」とはこういうことなのです。
ということで、「批判コメ」を寄せてくださった方々に感謝します。

ただ、一言だけ。「だったら見なければいい」「めちゃイケ見るな」という部分だけ反論させていただきます。わたくしは40ですが、「めちゃイケ」は深夜の「めちゃモテ」の時代から見ております。(もっといえば「天然素材」のころからリアルタイムで知っている世代です) もちろん「よもぎだクン」も「岡女」も「ライオンキング」のときも見て、ビデオに録画して何度も見て楽しむほど好きなのです。確か一昨年には「オカザイルが面白かった」というのもこのブログで書いたこと。
だから、「めちゃイケ」はこれからも見ます。それに面白いときは「面白い」といい、酷い内容のときは「酷い」といいます。
それに私の「バラエティー番組好き」は筋金入りだと思っています。例えば、私が第一回の放送時にすでに「レッドカーペットが面白い」という感想もここでは書いているし、(バカリズムのトツギーナは最高といったことを書いた)、南北朝時代の話の合間にところどころ「お笑い」「テレビ番組」等の記事を入れております。
そんな私から見て、「この回」のめちゃイケはあまりにも「暴力的」であり、これは「お笑い」ではないと感じたから書いたまでのこと。(もちろん「おもしろい」と思った人は、「そうじゃない」というコメを書いていいんです。それが「ネットの活性化」であり、批判コメントが「ネットによる浄化作用」につながるということだからです)

ただ、残念なのは「めちゃイケ」のことしかコメントが来なかったこと。これは例として挙げたものなので私にとっては、そこは枝葉であって、それほど重要ではない。重要なのは「スマイリーキクチの件」や「炎上ブログ」に関してのこと。わざと悪意ある文章を書いたのですが、ホンネを言えばそこに食い付いてほしかった。そこが本題だったのに……、残念でした。

関連記事「「これはおかしい」と思ったら、どんどん声を上げて発信しよう!  BPOがバラエティ番組へ意見書    」
 

「ネット炎上」は果たしてすべて悪なのか? 前回の続き。

まとまっていないのに前回の続き。

「ネットは社会の浄化装置になるのか?(未完成文章ですが、載せてしまいました)」の記事に「長くって解りづらい」といういう意見のメールをもらいました。
確かにその通りですね。私に文才があれば苦労はしないのですが……。
でもしつこくこのネタでもう一言。

 読売新聞の社会面の記事。

警視庁が異例の一斉摘発に乗り出した男性タレント(37)のブログ炎上事件。ささいな発言などがきっかけとなって批判の集中砲火を浴びる炎上は、インターネット人口の増加に伴い目立ってきた。悪意の矛先は話題になりやすい著名人ばかりではなく、一般の人にも向けられつつある。
矛先、一般人にも
 「犯人扱いされ、そのせいでいろんなことがあった」
 被害者となった男性タレントは昨年8月、自分のブログでこう心情を吐露した。
 このタレントは長年、東京・足立区で起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件に関与したという事実無根の中傷を受け続け、昨年4月からは自らのブログの書き込みを制限。悪質な書き込みは、タレントに好意的な投稿者のブログにまで「飛び火」し、そこでもタレントの中傷が続けられたという。
 不特定多数から批判コメントなどが殺到するこうした現象がネット上で目立つようになったのは2003年頃。いったん批判に火がつくと手に負えなくなるほど広がり、ブログの閉鎖などに追い込まれる状況を火事などに見立て、「炎上」という言葉が生まれた。「祭り」と呼ばれることもある。
 著名人のブログが攻撃を受けるケースは少なくない。
 評論家の池内ひろ美さん(47)の場合、ブログでの発言を不愉快に感じた人たちからの中傷や脅迫が殺到。ネット掲示板に「(池内さんの講演会が)血の海になる」などと書き込み、講演会を中止させた無職の男が07年2月に脅迫などの容疑で逮捕された。その後も、掲示板に「暴力団組長の娘だ」などという事実無根の中傷が続いているといい、池内さんは「家族への中傷もあり、強いショックを受けた」と話す。
 プロゴルファーの上田桃子さん(22)も、07年10月にテレビ番組でバスケットボールやバレーボールについて、先が見えないスポーツであるかのような発言をした後、批判がブログに集中し、一時閉鎖に追い込まれた。
 攻撃の対象は一般の人にも広がっている。最近では、自分のブログで山口県光市の母子殺害事件の被害を矮小化するような書き込みをした大学准教授や、交流サイトに「有害物質メラミンの入ったピザを食べたとうそをつき、ファミリーレストランからカネをとった」と書き込んだ高校生などが、それぞれネット上で批判を浴びた。
 ウェブコンサルタントの伊地知晋一さん(40)の元には昨年以降、企業や一般の人から炎上対策についての相談が増加しているといい、「炎上はネットの中だけで完結する次元の話ではなく、個人の生活や企業イメージを左右する危機管理の問題になった」と指摘する。
 メディアジャーナリストの藤代裕之さん(36)は「掲示板の情報を簡単に信じ込み、自分も安易に書き込みに応じてしまうような傾向がみられ、ネット上のマナーを学べる環境整備が必要」としている。
ネットの悪弊、歯止め必要
 警視庁の狙いは事実無根の書き込みが拡散し、新たな中傷を生むネット社会の悪弊に歯止めをかけることだ。
 ネット先進国の韓国では昨年、ネット上の中傷を苦にした人気女優(当時39歳)の自殺を契機に、「サイバー名誉棄損罪」を新設する動きが出ている。日本でも「炎上」の被害は深刻化しており、多くのブログや掲示板には他人を中傷する文言が並ぶ。
 ネット犯罪に詳しい甲南大法科大学院の園田寿教授(刑法)は「匿名のネット社会とはいえ、一方的に中傷された側の社会的、精神的ダメージは計り知れず、摘発の意義は大きい」と話す。ホームページ上の記載を巡り都内の男性が名誉棄損罪に問われていた事件の控訴審判決で、東京高裁は先月30日、「ネット上でも名誉棄損成立の条件は同じ」などとして、無罪とした1審・東京地裁判決を破棄し、有罪とした。
 今回の事件では、警視庁の事情聴取に対し、多くは「気軽に書き込んでしまった。こんなことになるとは思わなかった」などと供述しているという。書き込みする人は今後、炎上に安易な気持ちで加わるだけで捜査対象になることを肝に銘じるべきだ。(安井良典)
(2009年2月5日読売新聞)

さて、一読すればまさに正論、全くその通りだといった内容の記事です。しかし、ここで挙げられている事例が酷い。池内ひろ美の発言やこれ以外の言動にはここでは触れていないし、青山学院大学の准教授の発言内容を全く書いていないのでは事例として出しても意味がない。ここには、例えとして出された人物がサイトで何を書いたのか、なぜそれらのブログが炎上したのか、どういった状況だったのか、原因は真意は、などが詳しく書かれていないままで、「ブログ炎上」は悪だといった論調を貫いていることに疑問が残る。少ない紙面で、これら事例を引きあいに出して、果たしてこの問題の本質を正しく伝えることができるのか?(それにこの記事を書いた記者は瀬尾佳美准教授の炎上ブログ記事を読んだことがあるのか?)
これらのことで、すべての「ブログ炎上」を非難するのでは公平さを欠いている。批判的コメント=即、名誉棄損、個人中傷、集中攻撃だということが念頭にあって、それをもとにした書き方になっているからこういった偏った記事になる。確かに「死ね」だの「消えろ」だのといったおバカで短絡的な言葉しか書いていないものもあるが、中には真っ当な批判的意見もあるはすだ。それを一緒くたにして「これはいけないことだ」と決めつけた論調があまりにも多い。(それを前回書こうとしてまとまらなかった。)
炎上するにはそれだけの訳がある。上田桃子の発言の胸底には「金満主義」「強ければいい」といったものがあって、それを感じ取った人が批判コメを寄せた。ただ言葉じりだけをとらえただけではない。その背景までもがその発言の中に見えたからである。ただこれは本人の謝罪があってすぐに沈静化したはずだ。
池内ひろ美の場合は、「期間工のくせに」って書いた人でしょう。見下した言い方に反発を感じる人は、ここに「格差社会」の縮図を見てしまうからだ。(このご時世いま読み返すと、またトンでもないこと書いてるな、と思う。)それに彼女の場合は、ほかにもいろいろなことがあるわけで、怪しげな話が絶えない。大体そんな人物を引き合いに出した時点で、この新聞記事の信頼性はかなり薄い、と言える。(ただ脅迫めいたことを書き込んだバカがいるおかげで、彼女が被害者扱いされているに過ぎない)
ただ、いちいちここでは池内ひろ美の言動について取り上げないが、ただ一つだけ書いておく。『2009年1月8日付『ダイヤモンド・オンライン』において池内は、女性が結婚や出産をしたがらず少子・晩婚・非婚化が起きている原因を、現代日本人男性の多くが「一流の遺伝子」を持つ男でないからであるとし、「男は意識を変えろ」、「『あなたの子どもを産みたいわ』、女性にそう言わせてこそ一流の遺伝子を持つ男である」と断じて、優生学、優等血統主義を肯定した』とある。Wikipediaより
池内ひろ美の言であるが、これを男を女に、女を男に置き替えて、男の評論家がこんなことを言ったらどうなるだろうか、考えてみよう。それこそ新聞やマスコミはこぞって「女性差別」「女性蔑視」だと叫んで、批難するはずだ。これこそ「批難攻撃」じゃないですか。
それにこの弁こそは、彼女発信の不特定多数に向けた「悪意ある言葉」である。それでいて、これを批判するネットは悪なのか? 知識者やマスコミ側の人間は一方的に言葉の暴力を発信し続けて平然とし、一方でネットからそういった意見に反対するコメントが多数集まると「個人中傷」「名誉毀損」だといって被害者になるわけです。
批判される側が発した「悪意」は問わずに、批判した側のみを「言葉の暴力」と称するのは、不公平である。
新聞・マスコミの論調はこうした部分を省いて、「ブログ炎上」の被害者意識ばかりを強調した報道となっている。ここに違和感を感じるわけです。
では、倖田來未とか亀田一家とか朝青龍とかマスコミが一緒になってバッシングしたのは、あれは別なのか。あれだって批難の一斉攻撃じゃないか。マスコミだってやってることは同じだ。
新聞だって時には言葉の暴力に走っているではないか。失言した首相や国会議員には「やめちまえ」「詐欺師」「税金泥棒」「死神」だなんて言葉の暴力で煽りまくって民衆を焚きつけるくせに、反社会的発言をした准教授やトンチンカンな発言を繰り返す評論家へネットで苦言を呈する言葉を投げかけるのとどこが違うのか。一般市民は「無言であれ」とおっしゃるのか?
新聞やマスコミの言葉は、それなりに論理武装でコーティングされてはいるが、やっている中身は、ネットの書き込み内容とは、それほど変わらない。ただし本音や真意、あるいはジャーナリストとしての毒気は、いまやすっぱりと抜かれてるが……。
方向がずれた、本題に戻す。

「ブログ炎上」が良い方向に向かった事例を出す。 ラサール石井が総理大臣を馬鹿呼ばわりして、炎上した件。経緯はここで。http://www6.atwiki.jp/blog-enjyou/pages/68.html
これは、炎上したあとのラサール石井の対応がよかった。反省した謝罪文を書いてブログで公開した。これは「言葉を大切にしょう」といったなかなかいい文章だった。
ブログが批判コメントを受けて炎上しなければ、彼は気が付かなかったはずだ。いい年をした「知的」を売りにする芸能人が、一国の首相を馬鹿呼ばわりする記事がそのまま残れば、それを読んだ人は彼には品格がないと思うだろう。しかし、指摘を受けた彼は自省し、それを文にした。私はこの反省文を読んで、逆にラサール石井を見直した。
ブログに批判コメントが殺到し、炎上したからといってすべてが「悪」というわけではないのだ。
またここで付け足せば、「ブログ炎上」の奥底には「社会の浄化作用」が働いている、ということ。ここも前回で言いたかったこと。これは「世界遺産に落書きをした女子大生」が結局は、美談になったというのと同じ流れだ。
それは、本来新聞やマスコミがこういったこと行なうべき(または期待する)ものだが、いまはその機能を失っている。その反動が、「ブログ炎上」「批判コメント」という形となってネットから噴出している、というのが前回の記事で言いたかったことだった。
そこで、代弁してくれるような記事があったので引用します。2007年7月17日付 読売新聞に「ブログ炎上」に関して伊地知 晋一のインタビュー記事。
http://www.yomiuri.co.jp/net/interview/20070713nt11.htm

炎上イコール袋だたきとは、一概には言えません。中には応援してくれるコメントが付いていることもあります。
 炎上したブログのコメントを見ていくと、一方的な批判や中傷ばかりではなく、親切心で教えてくるものや注意してくれている意見も少なくありません。過激な表現の方が目立ってしまうため、全体として悪く見えてしまう傾向がありますが、よく見るといい意見もあるのです。
コメントが多いことと、炎上とは違います。批判的な意見ばかりが殺到する状況を、炎上と定義しています。賛否両論のコメントが付いて議論が盛り上がっているなら、それはブログが活性化している状態です。
 炎上したことで、「実は自分は嫌われていたんだ」と気づいたり、それにより態度を改められたりする、そんなきっかけにもなり得ます。炎上によって「気づき」を与えられることもあるのではないでしょうか。日本人は和を重んじるので、事なかれ主義に陥りがちです。これまで意見を戦わせる文化はあまりありませんでしたが、ブログの登場によって変わってきたのではないかと思います。炎上はその一例と言えるでしょう。
 炎上は、ネットが組織化する力を持っていることを、幅広い層に気づかせる役割もあるのではないかと思っています。国や大企業のような大きな存在と、個人との関係も変わってきました。かつてはデモ行進や署名運動によって、小さな意見を集める形で市民運動が行われていましたが、今はそうしたことがネットを通じて手軽にできます。市民が仲間を集め、組織化して戦うことが簡単になっているのです。 炎上も、個人が発信した情報で形作られるメディアの一分野と言えます。炎上は負の側面ばかりに目が向きがちですが、それだけでなく、その中には一般の人たちがどんなことを考えているのかを知る要素やヒントがあると思っています。


まさにこの通りなのです。

さて、このあとにも「ブログ炎上」に関する新聞記事が出ていたので転載しておきます。
2月7日朝日新聞の天声人語

パリの裏通りを歩くと、たまにクラクションの合奏に出くわす。渋滞の源である配送車に、後続の車が遠慮がちに鳴らした一発。それがたちまち長い長い一斉射撃に転じ、荷下ろしの配達員をせかすのだ。「奏者」不詳の匿名性が、気と音を大きくする▼インターネットでの中傷被害が絶えない。匿名に乗じて、小心者が振り回す言葉の暴力だ。巨大掲示板での雑言は、例えれば公園で怒鳴り散らすたぐい、ブログへの悪態は民家に土足で乗り込む挙だろう▼男性芸人が殺人事件に関与したというデタラメな情報をもとに、芸人のブログに「殺す」などと書き連ねた女が、脅迫の疑いで書類送検された。同じブログで中傷を重ねた17~45歳の男女18人も、名誉棄損の疑いで立件される▼住所は北海道から九州まで。互いに面識はなかろう。同じ民家で暴れた縁とはいえ、「覆面に黒装束」では男女の別すら分からない。だが書き込みの記録から発信元は割れる。警察がその気になれば、覆面は造作なくはがされる▼顔が見える集団討論でさえ、意見が次第にとんがり、結論が極端に振れることがある。匿名ゆえに責任感が薄まる場では、安易に同調し、論より情にまかせて過激さを競うような群集心理が働くという(岡崎博之『インターネット怖い話』)▼自由に発信できるネットにより、善意の輪が広がることもあれば、権力やメディアの所業が問われもする。「情」と「報」の海に紛れる悪意をどう摘むか。もはや言論の裏通りとはいえない存在だけに、交通整理の知恵がいる。



これは2月8日 読売新聞の社説

ネット暴力 「表現の自由」には責任が伴う 
全く身に覚えのないことを言いふらされ、非難されたら、どれほど嫌な気分だろう。
インターネット上で他人を中傷する行為は、「表現の自由」をはき違えた卑劣な犯罪だ。
警視庁は、男性タレントのブログに事実無根の内容を書き込んだとして、17~45歳の18人を名誉棄損容疑で近く書類送検する。殺害予告を書いた別の1人については、脅迫容疑で書類送検した。
18人は、東京都足立区で20年前に起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件にこの男性タレントが関与したとするでたらめな話を多数書き込み、名誉を傷つけた疑いが持たれている。
「炎上」と呼ばれるブログなどへの集団攻撃が一斉摘発されるのは、今回が初めてになる。
 悪質な行為を取り締まるのは当然だ。ブログなどを閉鎖に追い込むため、あおる者もいる。警察は今後も厳正に対処すべきだ。
憲法で保障された「表現の自由」は、健全な社会を守るためにある。匿名に身を隠したネット上での言葉の暴力とは、無関係だ。
ネットへの書き込みをめぐっては、自分のホームページに不確かな情報を掲載し、飲食店経営会社を中傷したとして、名誉棄損罪に問われた男性被告が、東京高裁で先月末、逆転有罪となった。
ネットの個人利用者に限って名誉棄損の基準を緩めた1審の無罪判決に対し、高裁は「被害者保護の点で相当ではない」と批判した。妥当な判断である。
ネットでの中傷被害は増えており、昨年も中高校生が自殺している。警察庁によると、警察への相談は、2007年に過去最高の約8900件に上っている。
韓国では、事実に反する内容を書かれた有名女優が昨年秋に自殺した。これを受け、与党がサイバー名誉棄損罪などを新設する刑法改正案を国会に提出している。
日本では青少年保護を目的とした有害サイト規制法が昨年6月に成立し、4月から施行される。
罰則はないが、施行後3年以内に必要なら見直すことになっている。今回のような事件が相次ぐ場合には、罰則を伴う内容への改正や新たな法整備を検討する必要も出てくるだろう。
誰でも情報を発信できる時代だが、それには責任も伴う。
ネット利用者は、使い方次第で自らの手足を縛りかねないことを認識しておかねばならない。子どものころから、家庭や学校で安易な利用の危険性を教えていくことも大切だ。


とこの騒動後も新聞に取り上げられていた。
全くその通り。ネットでの言葉の暴力には規制が必要だというのは、もっともな意見である。
ただ、これら(前回の引用した新聞記事なども含む)を読んでも、どうにも違和感が残る。
それは、ネットに関してのマスコミの報道の仕方に偏りがあるように思えるからだ。
前回にもいったが「スマイリーキクチの件」は非常に特殊でレアなケースだ。この例外を持ち出して全体を語ろうとしている。よって、すべての「ブログ炎上」「コメント批判」を「悪意あるもの」として総括しているのだ。すべての批判コメント・非難の記事が「悪」であるので排除しようという流れで報道してる点や、ネットが、意見を闘わせる場としての利点を全く語っていない点、また「ブログ炎上」された当事者には、全く非がなく被害者扱いにして報道している点などなど、不公正な論理展開を行っている。
特に朝日新聞の書き方に悪意がある。読めば分かる通り「匿名に乗じて、小心者が振り回す言葉の暴力だ」「ブログへの悪態は民家に土足で乗り込む挙だろう」と一様に「2ちゃんねる」への批判、またブログへの批判コメントを「悪者」と決めつけている。これらがすべてが空虚で無意味な書き込みなのだろうか。その中には、新聞の社説よりも鋭く、真理を突いた意見も多数ある。これらをすべて否定するのはおかしい。
どうやら、新聞社の中には、我々が上位で、ネット情報は下位というが意識が根底にあるようだ。
ここには新聞記者や論者の心底には、ネットに書き込みをするような奴は蒙昧な輩だから、「死ね」「殺す」といったことしか書けない。意見を言う、記事を書くなんて100年早いんだよ、という意識が奥底にあるようだ。黙って俺達の知的な意見を黙って聞け、読めといった上から目線が、私には見える。(あくまでも私にはそう読めるということだ。)
上から目線の正論の論陣を張ってはいるが、メディアとしての新聞の役割はすでに終わりつつあり、今や新聞の役目は権威付けと情報整理しかないのだ。前回の未完成の文章に、「世の人が望んでいる悪を糺す機能」は新聞やマスメディアはすでに失なっているのだ。
紙媒体としての新聞業界が、すでにネットへ移行し始めたことで、この業界の未来はない。「ヨミウリオンライン」だって「アサヒドットコム」だって、もうすでに「ヤフーニュース」や「gooニュース」と同じ一サイトに過ぎない。……
とこれまた、論旨からどんどん外れていくので、もうこの辺にしておきます。


まだ続く。





ネットは社会の浄化装置になるのか?(未完成文章ですが、載せてしまいました)

最初に弁明。
実にあやふやな記事だと思いつつも載せてしまいました。
今しかないタイムリーな事件であり、中途半端な内容でも載せることにしました。取りあえずはニュアンスだけでも伝わればいいというレベルのものです。まあ、読み飛ばしてください。

まず、2009年2月5日 読売新聞の記事から

著名人などのブログに悪意の書き込みが集中して閉鎖に追い込まれたりする問題で、警視庁は、男性タレント(37)のブログを攻撃した17~45歳の男女18人について、名誉棄損容疑で刑事責任を追及することを決めた。
 「殺人犯」などと事実無根の書き込みが繰り返されたという。警察庁によると、「炎上」と呼ばれる現象を引き起こす集団攻撃の一斉摘発は初めて。匿名を背景にエスカレートするネット世界の“暴力”に歯止めをかける狙いがある。
 警視庁関係者によると、18人は大阪府高槻市の国立大職員の男(45)、千葉県松戸市の男(35)、札幌市の女子高校生(17)ら。すでに自宅などを捜索してパソコンや携帯電話のデータを押収、近く同容疑で書類送検する。
 被害に遭ったのは、テレビのお笑い番組などで活躍していた男性で、18人は昨年1~4月、男性が開設したブログ上で、少年4人が殺人罪などで実刑判決を受けた東京・足立区の女子高生コンクリート詰め殺人(1989年)に、男性が関与したといういわれなき中傷をした疑い。「人殺しが何で芸人やるんだ」「死ね、犯人のくせに」「てめえは何をしたと思ってるんだ」――などの書き込みが、この短期間で数百件に上ったという。
 きっかけは約10年前、所属芸能事務所が「足立区出身の元不良」とのうたい文句で男性を売り出したこと。その後、インターネットの掲示板に、男性を犯人扱いする書き込みが始まった。所属事務所は2002年、ホームページ上で「事件とは全く無関係」と告知したが、効果はなかった。
 男性のブログは中傷を消しても消しても、後から書き込まれる状態が続き、昨年4月、男性はブログを書き込み禁止にするとともに、「タレントとしての名誉が著しく傷つき、芸能活動に重大な支障が生じた」として、中野署に被害届を提出した。
 警視庁で通信記録を調べたところ、数十人が書き込みをしており、その中から執拗(しつよう)に悪質な書き込みを繰り返していた18人を特定した。
 ネット上での中傷被害は年々増加しており、警察庁によると、全国の警察への被害相談件数は07年、過去最高の8871件。08年も上半期だけで5482件に上っている。


紙上にあるように「匿名を背景にエスカレートするネット世界の“暴力”に歯止めをかける狙いがある。」 ということに関して、異論の挟む余地などない。また脅迫に近い内容を書き込みした人物が摘発されたことは当然のことだ。
これらすべてが正しい対応だったということを踏まえた上で、私見を書く。
ブログを続ける私自身にとっても、この事に関して考えさせられることがあったからだ。

この芸人とは「スマイリーキクチ」のことであり、この噂はかなり昔から流布されていて、ネット上ではかなり有名な話(デマ?)だ。
だから、自分のブログに書き込みした者だけを選別して告発している点にどうも釈然としないものを感じる。このコメ以上にあからさまに書かれた悪意の記事は「2ちゃんねる」や「他のサイト」にかなりの数存在し、うわさの大元、悪意の根源はそのまま放置されることになる。それをまともに受けた人で、熱心(?)に書き込みした人だけが、吊るし上げてられ「見せしめ」とされたともいえる。
スマイリーキクチのブログを見ても、自分が中傷される対象と分かっていながら、コメント欄を残しておくことがおかしい。まず第一に「悪意のコメント」を書きこませる場所を取り除くことをしなければならず、そういったコメントもネット上に一度でも載れば半永久的に残ってしまうということを肝に銘じるべきだろう。キングコング・西野のように、自分が非難されるのがイヤなら、まずすることはコメ欄は外すべきではないのか。、
それでもコメ欄を残し、書き込みをさせる状態にしておきながら、去年の8月に「悪質なコメは告発します」といった記事を載せて煽るような行為をしている。まさに「おとり捜査」みたいなもので、誘い出されて逮捕された者たちを「見せしめ」にしようとしている。(まあ、こんなアホっぽいことを書き続ける人たちは自業自得ですが……)
またこの芸人が、そういった噂に苦しんでいるのが10年以上に渡っていて、事務所を通じて事実無根のデマだといった声明を出したことも伝わってきた。
だが、この噂に対してあまりにも生ぬるい対応をしてきたこと、強い否定をしてこなかったことが、この、ウワサを広める根拠にもなっていた。しかもこれをもとにした本まで書かれているという事実もある。私がこの立場に置かれたら、まず全力で否定する行動にでる。だがこの芸人はなぜ10年経ってから告発したのか。(まあ、飯島愛のことがあったから、再燃したのだろうけど)
この件に関しては、その曖昧な態度が憶測を生んでいるのだから、まず強い否定の態度こそが、ウワサの沈静化には必要だったのではないのか。

また事件に関して、テレビを始めマスコミ各社はトップに近い扱いであるが、「ブログ炎上で逮捕者」と伝えるのみで、内容にはあまり深く触れずに、どうしてこんなにも執拗に書き込みが行われたのかといったことは伝えずに「ブログ炎上で逮捕者」という点のみが強調されている。(コンクリ事件は扱いがデリケートとなるため、あえてそこに触れていないが、ここが伝えられなけらば、この事件の本質は見えてこないのに)
よって、これに関しての情報を深く得るには「ネット」しかなく、それによって、この芸人とコンクリ事件の噂話がなお読まれることになり、噂が噂を呼んで、より一層この件が知れ渡る結果を招いている。これは皮肉な結果だ。
それに、これに関連したブログの記事、ニュースコメントの内容等を読むと一様に「根拠もソースもなく人を中傷した奴が悪い」「悪口書いたんだから捕まって当然だ」といったものがほとんどだった。こういったいかにも正論をぶって書くことは簡単だ。ただ、この事件はそんな表層的な問題でない、もっと奥深い問題を秘めている、そんな気がする。(逮捕された人たちを非難する人たちも、その人たちに対して批判することを書いた時点で、実は、逮捕者たちと同じところ立っているということに気付いていないようだ。もちろんそれを非難する私も含まれる。つまり意見は違えども、批難めいたことをネット上で書いた時点でもうすでに「同じ穴のムジナ」なのだ。)

また、問題なのは、この事件に対するマスコミの反応だ。
マスコミの論調が「ブログ炎上させる奴がわるい」「コメントの書き込みで批判は悪」といった通り一辺倒の流れを作っている。
また、ネット上でもこの論調に流されている。
ならば、ブログにコメント機能などつけなければいいのである。
有名人に限らず、ブログを公開した時点では批難、批判は覚悟しなけらばならない。
極端な話、非難・中傷が恐ければ、無理してまでブログはしない方がいい。
芸能人が事務所にのせられてブログを始めて、自爆して、炎上し、大人の事情でやめますといったパターンなら、最初からブログなど始めない方がいい。

ただ今回の件は、非常に特殊でレアなケースなのだ。この例外を持ち出して、ネットをすべて否定するような報道は公正さを欠いている。
朝日新聞平成21年2月6日の社説では

ネットの中傷―表現の舞台を汚す卑劣さ もしもあなたがインターネット上で「人殺し」などと根も葉もない中傷を受けたとしたら――。
 被害はおそらくネットの場にとどまらないだろう。日々の生活のなかで疑いの目を向けられるかもしれないし、仕事にも影響しかねない。
 そうしたひどい中傷に対する重い警告の意味も込めたのだろう。お笑いタレントの男性のブログに事実無根の書き込みをしていたとして、警視庁は全国に住む18人を名誉棄損の疑いで書類送検する方針を固めた。  また、タレントを「殺す」などという内容を書いたとして、1人を脅迫の疑いで書類送検した。
 ブログへの書き込みをめぐる集団摘発はきわめて異例だ。それほどネットの世界には、悪質きわまりない書き込みがあふれているということだ。
 根拠のないデマを流して、身近なだれかを誹謗(ひぼう)中傷する。著名人の発言が気に入らなかったとして、やり玉にあげる。おもしろ半分で始まった書き込みが、敵意をむき出しにした攻撃へとエスカレートすることもある。それをあおる人たちまでいるから厄介だ。
 だが、書かれた方はたまらない。
 いじめられた、と感じて追いつめられる子がいる。「血の海になります」との犯行予告を書き込まれ、講演会の中止に追い込まれた評論家もいる。
 深刻なのは、そうした無責任な書き込み行為が幅広い層に広まっている点だ。今回摘発された中には女子高校生から国立大学の職員までいた。
 07年に全国の警察に寄せられたネットでの中傷被害の相談は9千件近くにのぼる。お隣の韓国では、被害にあった女優が自殺する騒ぎがあった。もはや見過ごせない状況だ。
 背景にあるのは、名乗らずに発信できるネット社会の特性だろう。だが、自分だけは姿の見えにくい場所に立って、一方的に悪口を浴びせたり事実に反する書き込みをしたりするのは、あまりにも卑劣ではないか。
 もちろん、ネットそのものの役割は前向きにとらえたい。だれもが世界に向けて自分の意見を発信できる。この新しいメディアによって、表現や言論の舞台は大きく広がった。その場はしっかりと守らなくてはならない。
 だからこそ、その発信には責任が伴う。だれかを根拠もなくののしる行為はまっとうな意見表明とは異なる。批判するならば、事実にもとづいて自分の考えを冷静に伝える。そんな慣習が、急速に拡大したネット社会にはまだ根づいていない。
 今回は被害の訴えを受けて警察が乗り出したが、健全なネット社会を築くには世の中全体の努力が要る。
 学校も家庭も、ネットの使い方と発信者の責任をきちんと教えるべき時代になった。


読売新聞2009年2月5日よみうり寸評

面と向かって、その人を罵倒(ばとう)したり悪口や中傷の言葉を口にするのはなかなかできない。それも根拠がないなら、なおのことだ◆が、事実無根の中傷でも、インターネットの匿名の書き込みだと、ためらいもなく暴言を浴びせることができるようだ。そんな集中砲火で、個人のブログが〈炎上〉する事件が目立ってきた◆警視庁がこの種の集団攻撃を摘発する。男性タレントの開設したブログに「人殺し」「死ね、犯人のくせに」などの書き込みが短期間に数百件も集中した事件で名誉棄損の容疑だ◆すでに容疑者の男女18人の自宅などを捜索、パソコンや携帯電話のデータを押収している。20年前の女子高生殺人事件に関与したと、いわれない中傷をした疑い◆インターネットの匿名性は悪をそそのかす魔力を秘めているようだ。透明人間にでもなったように、対面なら感じるはずの抵抗が失われる。だが、透明にはなり切れない。しっぽはつかまえられる◆この一斉摘発で〈ネット世界の暴力〉に歯止めがかかるといい。



産経ニュースhttp://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090205/crm0902052258026-n3.htmから

ネット社会に警鐘
 「1人、2人が(中傷の)書き込みを始めると、『書いてもいいんだ。私も書いてすっきりしちゃおう』と便乗する人が出る。書き込みが増えると、『皆同じだ』と際限がなくなる。炎上させたことで『自分はすごいんだ』と満足する人間も出る」
 インターネット協会の大久保貴世主幹研究員は、炎上の背景をこう話す。
 ネット問題に詳しい甲南大法科大学院の園田寿教授(刑法)は「今回のケースは『学校裏サイト』などで問題になっているいじめに近い」と指摘した上で、「ブログでは双方のコメントの応酬からエスカレートすることも多く、名誉棄損の線引きをどこでするか難しい問題だ」とした。
 産経デジタルの総合情報サイト「iza」には、「ネットは仮想世界ではなく、れっきとした現実社会。非常に公共性の高い場所であるということを認識すべきで、使う人のリテラシー(情報識別能力)やモラルにかかっている」との声が寄せられている。
 書き込む際の“表現”はどこまで許されるのか。捜査当局は今後、ネット上に氾濫する事実無根の安易な批判や中傷に対して厳しい姿勢で臨む方針で、今回の事件はネット社会に警鐘を鳴らしたといえる。


全くもって正論である。だが、ここに韓国でのネットの書き込みによって自殺した女優の事件を持ち出して、「サイバー侮辱罪」の必要性を説いているように見える。

「ブログ炎上」についてはゲンダイネットの記事が分かりやすかったので引いておく。

「五体不満足」の著者で、ジャーナリストの乙武洋匡くんのブログが大変なことになっている。紀子さまの出産について「世間は『めでたい、めでたい』と騒いでるけど……」と書いたところ、1000件を超える非難や抗議のコメントが殺到。乙武くんは「思慮が足りず、みなさまにはたいへんご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫びします」と謝罪に追い込まれた。
 抗議コメントが殺到することを、ネット上では「ブログ炎上」という。最近では亀田興毅の世界戦を見て「本当に感動した」と書いた女子モーグルの上村愛子や、後輩アナウンサーのパンツ盗撮事件で「男子はパンツを見たい生き物」と書いた日テレの薮本雅子元アナのブログが“炎上”したが、なぜこういう事態が起こるのか。
 メディア評論家の美崎薫氏はこう言う。
「有名人のブログで不用意な発言があると、『2ちゃんねる』などの掲示板を入り口にして、あっという間に袋叩きにされます。匿名性をカサに着た卑怯な行為ですが、ネット上にはこうした“お祭り”を楽しみにしている野次馬が少なからず存在するのです」
 いったん炎上したブログはどんなに沈静化しようとしてもまさに“焼け石に水”。反論コメントなど書こうものなら“火に油”で、口汚い言葉で人格攻撃されたり、脅迫されたりと、さらに大火事になるという。
 ブログ炎上の可能性は有名人ばかりではない。
「一般の人のブログでも“みんなが見ている”という認識が薄いと大変な目に遭います。些細な情報から個人が特定されて、ネット上でさらし者になったり、自宅や勤め先にまで被害が及ぶケースもあります。こうなると、もはやブログを閉鎖するしかありません」(美崎氏)
 本来、自由な意見が発表できるネットなのに、逆に、本音の意見が言いにくくなっている。
 ネット世界で性善説は通用しないということだ。


ゲンダイネットから http://gendai.net/?m=view&g=wadai&c=050&no=17270
「ブログ炎上」したときはその部分に触れない、時が経てば関心を失い沈静化する。これがセロリーだったはずだ。
だが今回の芸人の事件は、本質的に違うのだ。一見すれば他のブログ炎上騒動と同じようにみえる。しかし今回の事件には別の側面があることを見逃してはならない。
これは非常にレアなケースだ。
なぜか。
ここに、足立区で起きた女子高生コンクリート詰め殺人事件が関わっているからだ。この最悪な事件の記事は読むのさえ辛いので、経緯は他のサイトに譲る。
時を経ても繰り返して蒸し返されるのは、あんな酷いコンクリ事件を起こした犯人たちがすでに出所し、いまではのうのうと暮らしているという現実あり、また、この事件に関わった人たちが数百人もいて、その全容が不透明にされたという不気味さがあるからだ。
これがいまでは、憶測と噂が先行していって「都市伝説化」された状態となった。
そこに唯一といっていいほど表に浮かび上がってきたのが、この芸人であった。(飯島愛も後で出てくるが)
この事件に対する憤り、怒りを晴らすはけ口として、デマの立ったこの芸人に矛先が向けられた。しかもこれを待っているかのようにブログを開始しその間口を広げ、、不用意にもコメ欄を設けた。(そんな標的にされた本人はたまらないだろうが…。ただ前文のように曖昧な態度がこれを助長していることも事実であり、そんなウワサが広まっているのに、強い否定をしなかったということで、傷を広げた)
コンクリ事件の経緯を読めばわかるが、読むほどに怒りが上げてくる、この持って行きようのない怒りが、そこに向いたのは彼にとっては「不運」であった、と言える。これほどまでに、多人数による執拗で悪質なコメが書き込まれ続けてのは、この芸人がこの事件に関与されていたと思われていたからであり、それは義憤に駆られた行き過ぎた行為をしただけだという逮捕者の言からでもわかる。(だからこの件は他のブログ炎上とは少し違う、根深い事件がもとになっている)
別に煽っているわけでも、悪質なコメを書き込んだ者を擁護しようというのではない。
スマイリーキクチが告発に踏み切ったのは正当な行為であり、警察の処置も逮捕に踏み切ったことも当然の処置だろう。
ただブログに中傷コメを書きこんだ者をいくら捕まえようとも、たとえそれが警察の犯罪抑制アピールにはなっても、この芸人は救われることはないだろう。彼が救われるのは事実無根のデマだと強く訴えるしかなく、これが認められなければ、このデマ話は消えないだろう。
また、ここには、コメを書き込むという行為がただ憂さ晴らしをしているといった意識が、書いている本人たちにはない。この深層には、社会悪を糺すものを失った現代において、これを代行しているのは私たちであるという思い込みがあって、その手段がネットである、といった考えがあるからだ。
ただこれはネットの過信であり、誤認であり、妄想に近い。
しかもこれは限りなくエスカレートし暴走を始める。挙句はただ「死ね」とか「殺す」といった短絡的な言葉を書き連ねることしかできない。

去年あった「世界遺産に落書きした女子大生」の事件。
あのときネットでの書き込みや大学は個人への批判、中傷はものすごいものがあった。
だが結果として、彼女らは、謝罪し、現地イタリアへ行って、落書きした箇所を消した。この行為はイタリアで「日本人は誠実だ」と絶賛され、最終的には美談となった。
これもネットで騒動になったからこそ起こったことであり、雑誌や新聞で記事になったくらいでは、何も変化は起こらなかっただろう。
人を動かし、社会を変える力がネットにはある、そうみんなが思ったはずだ。それは従来のマスコミよりも強い影響力があると、みんなが気づき始めた。それはたとえ個人であっても束になれば、大きな力になると分かったのだ。
このように、近年ネットが主体となって物事が動くことが多くなった。
たとえそれが個人への攻撃であろうとも、社会悪をただすためには必要な「贖罪の羊」だということなる、という現象が生まれつつあるのだ。
となれば、今回の「匿名を背景にエスカレートするネット世界の“暴力”に歯止めをかける狙いがある。」 として警察が検挙した者たちも同じ「見せしめ」「贖罪の羊」と同じことになる。


当サイトでも「ネットによる個人バッシング」について書いていた。それは、一昨年の「亀田騒動」「沢尻エリカ騒動」の時期だった。
最後にその部分を抜いて再録しておく。

『正義を貫くための「悪」としてみたとき

大衆はなぜ「バッシング」する人を求めるのか。
人はどこかに「正義」をもっている。正義は「秩序」を保ち、それが「平和」をもたらす。無秩序は、混乱を招き、平和を乱し、殺伐とした世界となる。
だから秩序を乱す者を悪人と見なし、鉄槌を加えなけらばならないと思っている。
それに宗教では神の存在を示すために、悪魔が必要となる。
それはなぜか。「正義を貫くには悪が必要だ」からだ。著しく規範を乱した者に攻撃を加えるのはこのためではないのか。
ではなぜ世間はこれほどまでに「騒動」を取り上げるのか。
なぜネットで人はこれほどまでに「正義」「正論」を主張するのか。しかも感情的に。
「ブログ」「教えてgoo」「ヤフー知恵袋」など見ると、思った以上に各々が「正論」を論じ、「正義」を貫こうとした意見を述べている。稀に捻った意見や反対意見もあるが、それも当人の真情、信条を伝えようとしたものであって、その本人にとっての「正義」「正論」である。
「正義」は言っているうちに気持ちが良くなってくる。その言葉に自分自身も酔ってしまう。人は言葉に酔うことができる。しかも「正義」という名の美酒は酔いやすいのだ。
この「正義」という酒は美味いし、よく酔うことができる。
それに主張する手段「ネット」を得たことも大きく、これによって同意見の仲間を見つけ、ともに美酒を味わうことができる。
そして正義を貫くために必要な悪を見つけて、バッシングという名の酒に共に酔いたいのである。
だが、それにしては、「亀田一家」「朝青龍」「沢尻エリカ」なんて小さな「悪」ではないか、と思われるだろう。また女性週刊誌を見ても、バッシングを浴びるのはどうでもいいような芸能人だったり、スポーツ選手だったりする。
人々は叩きやすい「悪」を求めているのだ。
ネットで叩いて盛り上がるは、朝青龍がサッカーしただの、沢尻エリカが不機嫌だっただの、亀田大毅が反則しただのといったどうでもいいことばかり。
なぜか。
いまの日本では陰惨な事件をニュースで流し続けている。
悪どいことを犯した人、卑劣極まりない極悪人、人を切り刻んで喜ぶような異常者など、糾弾すべき人間はいくらでもいる。最近でも、滝川高校では自殺するまで追い込んでイジメた奴、神戸の高三自殺事件では「バイト」をさせ得た金を恐喝した同級生が何人もいた。光母子殺人事件の犯人は訳の分からないことをいって「精神障害」を主張している。米兵による婦女暴行事件は広島で起こった。これら例を挙げれば切がない。
では、これらの悪人は、実際は糾弾されているのか。
現実はそうではない。彼らの名前さえ報道されない。
非難されるべき人間は何かで守られている。それが少年法だったり、国際法だったり、加害者の人権だったりする。たとえ捕まっても塀の中で守られ、三度の食事が与えられ、十分な睡眠があり、生きることが保証されている。
神戸池田小学校で30人以上を殺傷した宅間守は、遺族が手出しできないことを塀の中で嘲笑していた。
女子高生コンクリート殺人事件を起こした主犯格の男は、別の戸籍をすでに手に入れて、来年には出所するという。あんな悲惨な事件をおこしたのに、まるで何もなかったようにだ。
それに未解決事件も多い。兵庫小2女児殺傷事件、世田谷一家殺人事件、などなど捕まらない犯人はいまも社会に潜んでいる。
そこに、世の人々は苛立ちを感じているのだ。
みんな感じている。今の世では、正義が貫かれないことを。
義憤を晴らす場所がなく、歯がゆい思いを味わい続け、正義が果たされることがない、と嘆くしかなくなっている。どこかにこの怒りをぶつけたいと思い続けて、納得がいかない事ばかりで不満がたまりながらもニュースを見る。
そのとき格好のはけ口が見つかる。これらの「騒動」が起こったときに、このストレスが突如として噴き出していく。「騒動バッシング」とは民衆の怒りが変質した形なのだと思う。
そう、分かり切ったこと(亀田、朝青龍なんて分かりやすいルール違反者)に鉄鎚を加えようとしているのではないか。大衆は何らかの分かり易い「贖罪の羊」を求め、そこに欲求を満たし、怒りをぶつけているだけではないか。(あくまでも私見)

 ネットを自浄装置としてみたとき
昔、日本では「ムラ」「集落」が人々の行動を相互に抑制し、これが世の中の規律を守っていた。武士では「家」「氏」がその規範となっていた。厳しい「決り事」である。それを守らなければ、そのコミュニティーから追放される。
近年までは、「隣組」「学校」「地域」などが社会集団の機能を守る役割を果たしていた。
しかし社会意識の変化や社会構造の変革があって、社会集団の規範を守るものを崩壊しつつあるのが現状だろう。
現在、世の中の規律を守るべき機能が働かなくなってきている。「学校」「家庭」の秩序は崩れ、犯罪や事件は凶悪化している。世の中はまさに、法にはずれ道理の通らない「無法地帯」と化しているのではないのか。
犯罪を裁く法律はあっても、犯罪者には軽微な罰しか与えらず、結局は野放しとなっている。「悪」がはびこり、正当な罰が与えられない世界こそは「無法地帯」である。それに大衆は、それらを取り締まるべき司法や警察にどこか「生ぬるい」ものを感じている。いまや警察や司法は犯罪から守ってくれない、何もしてくれないと思っている。また、犯罪者を追及しないマスコミにも世間は歯がゆい思いを感じているのだ。
多くの人々は「正しい世界」が行われていることを期待している。そして世の中に秩序を求めているのだ。
ではだれが悪を糺し、なにが世の中の規範を守るのか。
残念なことに、新聞やテレビなどのマスコミはこの機能を失いつつある。ただ情報を仕分けし峻別して、そこにコメントを付けて伝播させる装置だけの存在となりつつある。
あらゆる機能が崩壊しつつある現代では、ネット社会の中の一部にこの機能を担うものが存在し始めている。
いま、ネット上には、悪に制裁を加えようとしているもの多く存在している。
凶悪な犯罪を犯した未成年の実名はネットに流れ、卑劣な性犯罪を繰り返す犯罪者の顔がネットで公開され、それを全国の人々が瞬時に知ることができる。
ネットでは、卑劣な犯罪者を糾弾するように叫んでいる。もはやこの声に押されるようして、実社会を動かす原動力になっている。(「ネット上では」、とか「ホームページによります」と、といったマスコミ報道が多いことがその証拠)
政治も「世間の声」をネットで得ている。行政機関がネットの声に押されるような形で話が進んでいる事柄さえある。
もはや法や人権を恐れてマスコミがしないことがネット上では行われているのだ。
このネットの力はますます強くなっていくだろう。
ネット上では、「騒動を起こした人」への非難の声は大きい。「ブログ炎上」や「その他の事が近年にないほど大きくしているのは、このネット情報が発達したからにほかなない。
では「正義」を訴えるネット上の声は、「悪」を糾弾し排除していくことができるだろうか。
ネット上で起こった「悪」への非難の声は、世の中の浄化してくれるのだろうか。
そして、ネットは社会の新しい自浄装置となっていくのだろうか。
ただしそれが正しい判断のもとに行われているのか、悪意のもとで行われているのか、それを峻別するのが難しいのが問題となってくる……。

ただそれは、現実にはもうすでに始まっているのだ。』

追記 自分で読んでもよく分かりませんでした。
悲しいかな、文章力がもっとあれば、伝わるのに……。

次回に続く

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消えた二十二巻

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