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「上州遷都論」と井上馨  新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続編。シリーズ9回目

久々の「新田義貞伝承を追う」シリーズ。9回目。
前回が児島高徳で、今回は時代が飛んで明治時代です。(でも最後につながります。)
前回の記事

その前に駄話。
この前のGW中に、家族を連れて「東京見物」をしてきました。
祖母もいたので、お台場や六本木など若者の人気スポットは避けて、下町を中心に上野・浅草、東京タワーと回っていった。
それでも、どこへ行っても、人、人、人の波。その人の多さに辟易としてしまった。
娘や祖母は、都会慣れしていない群馬の田舎者なので、どうも人ごみやゴテゴテとした建物は苦手のようで、それだけで疲れてしまったようだ。
ただ、世界貿易センタービル の展望台は静かで最高の眺めだった。
世界貿易センターからの眺め
その眺望を見ながら祖母は、「昔は遠くからでも皇居が見られたのに…」とつぶやいた。なぜかその言葉が心に残った。
確かに東京は進化し(?)、繁栄し続けている。溜息のでるほどの景色も、そういった目で見ると、「この東京の繁栄は異常だ」とも感じる。
そして眼下に広がる素晴らしい光景も、日本の「富と人と権力」を独り占めしているかのようだった。
日本の人口は減っているのに、東京の人口は増えているという話も聞いた。そして東京の人口、経済、政治の一極集中が、国が傾く悪因の一つに成りかねない、という記事もいくつか読んだ。
東京栄え、地方枯れる。首都機能移転と道州制」(まとまっていて、分かりやすい)を読むと、やはり首都機能は移転した方がいいような気がする。

さてここからが本題。
かつて、「上州遷都論」というものがありました。
検索すれば、これを基にした記事もいくつかあり、稀にですが歴史雑学の本に載っていたりします。
当ブログでも「東毛奇談」の中で触れています。
概要は以下の通り。
明治19年に東京市の大都市計画が立案された。この中に、「上州へ遷都」という案が出されていた。既成の東京の町並みを莫大な費用を掛けて作り直すよりも、北海道の例に倣って新天地を求めて、新首都を開発しようという計画だった。候補地は東京から80キロ~100キロの地として、群馬を中心とした赤城山南麓から埼玉県北部の間とした。発案者は、当時外相兼臨時建設局総裁の井上馨と警視総監兼建設局副総裁の三島通庸であった。
だが、これは実現することはなかった。
この「上州遷都論」がどういったものだったのかは、「上州及び上州人」の昭和12年237号に詳しい。上州遷都の建議書の全文と、法学博士・尾佐竹猛による解説が載っている。(この記事を見つけるのに、当時どれだけ図書館に通ったことか…)
上州遷都論
要約してみる。
東京近傍に於いて便宜の地を選び本都を遷都する理由として、5つ挙げている。
1、東京がすでに商業都市と発展して、都としての機能を果たすには不便な地となっている。
2、外国と戦争になれば皇居を守りずらい。
3、東京は、土地が低く湿気があり、
4、地震も多く、
5、水質が不良で衛生設備が不十分で疫病が多い。
となっている。
東京は江戸のころから、町は「犬の糞と虱」だらけであったというから、かなり不衛生であった。
また、関東大震災はこれよりもかなり後のことになるが、東京がこの災害によって大打撃を受けたことを考えれば、大都市は災害に弱いので、首都を移すべきという理由も十分に分かる。
また戦争になれば海に面しているので防御しにくい、というのは黒船来航のころから言われていることである。
よって、新首都を計画せよ、という案だった。
皇居や政務機関を新都に移し、東京はそのまま繁栄をさせようといった意味のようだ。アメリカでいう、ニューヨークとワシントンDCの関係、オーストラリアのキャンベラのような考えで、首都を新地にしようという構想だったようだ。
この建議書では、5つの案件が挙がっていて、1場所の選定 2、都の区域は四方を三里して、土地の買収を進めること 3、本都の建築予定 4、資金供給の継続 5、閣議を進めること といったことが書かれている。
ちなみにここには細かい試算が書かれていて、合計金額が520万6200円となっている。

さて「新田義貞伝承を追うシリーズ」で問題なのは、井上馨が新しい都にしようとした場所です。
その場所こそが新田の地だった。
「上州地方即赤城山南面
新田佐位那波ノ諸郡ヨリ中間利根川ノ一帯ヲ挟み武州幡羅樺澤児玉等ノ間ニ求メテ可ナリ夫然リ先ヅ本都ヲ新造シ次ニ東京ノ改正ニ及ブトキハ獨リ地利其宜ニ適シ以テ帝都ヲ鞏メ本邦萬世ノ臺基ヲ得ン」とある。
井上馨が帝都を作り、皇居を作ろうとした場所は、まさに「新田」だった。
単純に「上州遷都論」と書けば、それは前橋や高崎を思い浮かべるだろうが、これは大きな間違いだ。
案として指定された場所は、新田荘があった地点とまさに一致する。(北埼玉が新田荘だったことは次回書く)だから、「上州遷都論」ではなく、「新田遷都論」というべきなのだ。
また、井上馨と新田の関係はこれまでにも何度も書いてきたとおりで、井上馨の夫人・武子が新田岩松氏の末裔であるというのもこれまで見てきたとおり。
また、歴史読本・昭和58年8月増刊号によれば、「井上馨がこの地に帝都を築こうとしたが、妻の実家に帝都を移そうなんて、けしからんという意見もあった」という反対意見も出たらしいことが書いてある。
井上馨と新田一族の関係は、当ブログでは、

尾島周辺には、内侍の墓や山吹姫の伝承が数多く残っている。その辺りの地主であった宮下家は、室町時代末期には在郷武士的な待遇であり、江戸時代には代々名主であったという。この宮下家には、内侍や新田に関する古文書や遺品が伝わっていた。浅田晃彦著『児島高徳と新田一族』を引用すれば『宮下家は『宮下氏過去帳』によると、宗良(親王)とも、内侍とも高徳とも血のつながりがある。足利・徳川幕府にとって煙たい存在だったと思われる。明治になって南北朝史見直しの気運が起り、宮下家の古文書や遺品が注目された。参議井上馨が調査に来て幾つかの品を持ち去ったという……』井上馨は、新田・南朝に並々ならぬ関心があった。

と以前触れている。(また現在その辺りは調査中)
また稲村ケ崎の碑は井上馨が建てた、という話がWikipediaに出ていた。
これは本当のことかと、調べてみた。
「六百年祭記念 新田公墳墓録」(石橋重吉 昭和13年編)によれば
稲村ケ崎碑 所在地 鎌倉郡鎌倉町極楽寺字金山
稲村ケ崎は新田義貞公が鎌倉幕府討入りの遺蹟で有名である。昭和9年3月13日、文部大臣から「新田義貞徒渉傳説地」として指定された。碑は明治27年3月建立、従四位男爵新田俊純。
ここに稲村ケ崎の碑の由来が載っている。
「(新田義貞の功績を)……、後の世のかがみとし、かつはわが国の大みちを示して、今の世人をいざなはんことを、はやくよりおもひおこして、いかでこの三崎に、石ふみをたてんと、いそしまれけるが、このころ伯爵井上馨がの君のもとにとひ來て、かたらふこともねんごろなりければ、君のたまひけらく、こはいとよきこゝろつきなり、さてもこのことは、朝臣のはつ子なる新田俊純は、おのがゆかりなれば、よくかたらひてんとて、やがておのれにものがたられね。……<後略>」とあり、やはり稲村ケ崎の碑に、井上馨と義父の新田俊純が係わっていたことになる。
このように、井上馨は新田伝承を受け継いでいる。
井上馨が「新田荘に帝都を作ろう」と考えたものも、実際に「新田」の地に足を踏み入れているからに違いない。
建議書として本格的に国会に提出していることからも、かなり真剣に考えていたことに間違いない。
何も地図を広げてこの辺りにしようと思い付きで言ったわけではないのだ。

では、この建議書を上げたもう一人の人物、三島通庸とはどういった人物なのか。
経歴はWikipediaで。これらを見ても「新田」等とは何の関連もなさそうだ。
ただ興味深い逸話がある。
史話 日本の歴史 27」(作品社)の中の「鹿鳴館時代」 高須芳次郎著から

明治24年4月20日、首相官邸で仮装舞踏会が開かれた。時の首相は伊藤博文。
「こうして四月二十日夜九時に開かれた首相官邸の仮装舞踏会には内外の紳士淑女四百余名が集まった。大抵夫人、令嬢同伴で、仮装の上にとりどりの工夫を凝らし、猛将、勇卒となったものもあれば、山伏、僧正に扮したものもある。貴公子、舞妓になりすましたものもあれば、曾我兄弟の勇ましい姿に仮装したものある。一見したところ誰が誰やらわからないほどだった。
先ず官邸に到着した一紳士は「天莫空勾践時非無范蠡」の十大字を書いた旗を背負い、鎧姿に蓑笠をつけて、備後三郎(児島高徳)を気取っていた。その伴うところの二令嬢は、腰蓑に汐汲桶を荷うて、謡曲中の松風、村雨になりすました。この備後三郎に扮した人なぞ当時、鬼総監といわれた三島通庸である

何と三島通庸が児島高徳に扮している。こういうのは何かの思い入れがなければできないことだと思う。三島の真意は分からないが、周りの人がこの姿を見て「あっ、あの人は児島高徳が好きなんだ」とか思う人もいるはずで、またなんらかの児島高徳の事跡を想起する人もいるはずだ。そこが重要なのだ。
その、児島高徳が新田一族と深い関係にあることは前回書いたこと。
一つ逸話を付け足す。
児島高徳は新田義貞弟・脇屋義助の遺髪を上野国新田郡脇屋村聖宝寺に送り届け、義助の臨終の有様を詳しく語り、伊予の国分寺の住持智承の諡った、法名「正法寺傑山宗栄大居士」も伝えた。この時より聖宝寺なる寺名を改め、真言宗脇屋山正法寺と号し今日に至った。
脇屋義助遺髪塚
脇屋義助遺髪塚は現在も正法寺にある。
正法寺 山門正法寺 山門
明治維新の志士にたちにとって南朝方の武将は英雄だった。そして、児島高徳もまた尊敬された歴史上の人物だった。その児島高徳が新田一族と深い関係にあった、というのはあの年代の一般常識だったといってもいい。こういったことを思い起こす人も少なくないはずだ。

また、首相官邸の仮装舞踏会で井上馨が扮したのは、「三河万歳」だった。
この三河万歳とは、http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/seisan/sei074.htmによれば、

「万歳」は,正月にその年が良い年になるように,願いを新春のお祝いの言葉に込めて舞う祝福の芸であり,万歳師の訪れは,歓迎されるものであった。「万歳」の起源については不明な点が多いが,戦国時代には三河武将と陰陽師(おんみょうじ)とのかかわりが知られている。
  徳川家康が関東移封以後も,三河地方と強い関係を維持していたことは,江戸時代の三河万歳の隆盛に大きく関係している。元旦の朝,御門開きの栄誉を担ったのをはじめとして,江戸の町や関東一円を巡回していた。 祝福して廻った万歳師の主なものには,別所(べっしょ,安城市),森下(西尾市),吉田・小山田(吉良町),戸金(とかね,蒲郡市),宿(しゅく,小坂井町)などがある。
  明治時代以降,神道の国教化政策の中で,仏教色の濃い陰陽道の影響下にあった万歳は衰退した。現在,安城や西尾,幸田では保存会が結成され,芸能としての万歳が伝承されている。 平成7年には,国指定重要形民俗文化財に指定されている。

とあり、「ともに徳川家康と同郷国の縁で、江戸時代には苗字(みょうじ)帯刀の待遇を受けた」という説明文もある。

三島通庸が児島高徳に扮し、新田伝承を受け継いだ井上馨は、徳川家康・三河地方と関連のある「三河万歳」に扮する。
徳川家康、三河地方、児島高徳そして新田一族……すべてがつながる。(この辺りは「東毛奇談」で)
この三島と井上が、新田の地に帝都を築こうとした。
その舞踏会にいた者の中に歴史的背景を知っているものが見れば、ピンと来た人もいたのはないだろうか。

さて、
新田一族の宿望は何であったのだろうか。
児島高徳の宿願は何であったろうか。

もし、新田一族の本拠地に、帝都(都)が築かれ、そこに皇居が遷都され、この地に帝が住まわれたなら、祖先から連なる新田一族にとってこれほど大願が叶われることはないだろう。
太平記巻十七、新田義貞が日吉大社を詣でたときに奉った願文をもう一度。
『願ワクバ往路万里ノ末マデモ擁護ノ御眦ヲ巡ラサレ、再度大軍ヲ起コシテ朝敵ヲ滅ボス力ヲ加エ給エ、我レ、タトエ不幸ニシテ命ノウチニ此ノ望ミヲ達セズトユウトモ、子孫ノ中ニ必ズ大軍ヲ起ス者アッテ、父祖ノ屍ヲ清メン事ヲ請ウ』
自分が滅んだとしても、子孫のうちで祖先からの宿願を果たすことできる者が現われることを祈願した。
そう考えれば、
新田一族の伝承を受け継いだ井上馨は、まさにこれを実行しようとしたのではないか。

さて今回もう一度この「上州遷都論」を読んで、重大な見落としがあったことに気が付いた。
10年前に「東毛奇談」を書いたときに気が付かなかった。
それは選定地だ。上州のほかに武州の樺澤、幡羅、児玉とある。
なに!
前書いたときは気付かなかった。
これは、今の深谷市周辺に相当する。
あ~そうかここには、深谷も含まれていたのだった!

大きな地図で見る

これはまさに、渋沢栄一の出身地ではないか。
そうかこの計画に渋沢栄一も噛んでいたのか!

ということで、次回に続く。
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福井の方々には本当に感謝します。 「新田義貞」の祭り

最近あった「新田義貞関連の祭り」を拾ってみました。
記事はすべて、「中日新聞」から
http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20090521/CK2009052102000002.htmlから

豪華な武者人形ずらり 坂井の「三国祭」にぎわう

北陸三大祭りの一つ、坂井市三国町の「三国祭」は中日(なかび)の20日、主役の武者人形山車6基が旧市街地を練り歩き、祭りは最高潮に達した。祭りの舞台となる同町山王(さんのう)6丁目の三國(みくに)神社周辺は夜遅くまで人の波が続いた。 (川口信夫)
 新緑がまぶしい三國神社前通りには武者人形山車が勢ぞろい。午後1時すぎ、四日市区の「新田義貞」が先陣を切り、大門区の「歌舞伎『助六』」、下西区の「儒官三国幽眠(ゆうみん)」、上横・竪(たて)区の「真田幸村」、上ハ町地区(平野・久宝持(きゅうほうじ)区)の「柴田勝家公とお市の方」と続き、三国祭保存振興会の「牛若丸」がしんがりを務めた。
 山車に乗り込んだ子どもらは威勢よく太鼓を打ち、区民も法被姿で山車を引いた。見物客は、目を見開いて口を真一文字に結び、豪華さを競う武者人形を堪能した。舟みこしや武者人形行列なども繰り出し、祭りムードを盛り上げた。
坂井市 三国祭り威勢よく出発する一番山車の四日市区「新田義貞」。多くの見物客が歴史絵巻を堪能した=坂井市の三國神社前で

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20090510/CK2009051002000005.htmlから
三国祭の本番間近 住民ら「山車の渡り初め」

北陸三大祭りの一つ、坂井市三国町の「三国祭」の呼び物となる武者人形山車の巡行(20日)を前に、山車当番区で9日、高さ六メートル余りの山車の渡り初めがあった。また、三国祭保存振興会の人形製作グループ「山車(やま)の会」の作っていた人形山車も完成し、住民らは祭り本番に向けて胸を躍らせた。
 今年の山車は6基。このうち渡り初めしたのは、町内の人形師の岩堀耕治さんが製作した四日市区の「新田義貞」など3基と、住民が手作りした上ハ町(うわまち)地区(平野・久宝持(きゅうほうじ)区)の山車「柴田勝家公とお市の方」。
 渡り初めは午後3時半からあった。おはやしの子どもたちが屋台に乗り込んだ後、義貞ののぼり旗を掲げながら、区民ら約60人が山車を引っ張って隣接区に出向き、自慢の武者人形をお披露目した。
 四日市区の担当者は「20日には福井市の新田神社奉賛会や、新田塚自治会連合会の関係者が、山車の引き手として参加することになっており、祭りを盛り上げてくれそう」と喜んでいた。
 (川口信夫)
新田義貞 山車


また、藤島神社 記念祭(大祭)が5月22日にあったようです。

「主祭神・新田義貞公が北条家の鎌倉幕府を攻め滅ぼした日、つまり、建武の親政への樹立につながったこの日を記念した大祭。」
関連記事

本当に福井の方々には感謝します。




日経流通新聞から歴史モノ記事

日経流通新聞に面白い記事が。

墓萌え天国 墓マイラーの悦楽、眠る先人訪ねびと増加中
作家や役者など著名人の墓を巡って、故人の足跡などに思いをはせる、そんな「墓マイラー」が増えている。もともとは著名人の熱心なファンが参拝していたが、最近は街歩き好きの中高年に加え、若者や家族連れの姿も目立つ。一般参拝者との違いは案内マップやガイド本、カメラを手にしていること。
墓マイラーを狙って、関連本やDVDも相次ぎ登場。知的好奇心を喚起するだけでなく、景気低迷などで先行き不安が募る中、先人との静かな“対話”によって安らぎを得ようとする人も多い。

「歴史好き、街歩き、入り口は色々…ガイド片手に対話」と題が付いています。これは昔からある著名人の墓巡りでしょうが、以前とは少し違うようです。
「歴女」みたいのが増え、また単純に「歴史ファン」も増え、年齢層の幅が広がったということらしい。あとはブログをする人が増え、こういった有名人・偉人の「墓所」を紹介する記事もかなり多くなった。デジカメや携帯など持ち物も昔から見れば変わった点だろう。
まあ、「歴史ファン」の底辺が広がるといった意味でもいい傾向だと思います。
ここで紹介されていた本などは、
あきやまみみこ著 写真集「著名人のお墓を歩く 谷中、染井、雑司ヶ谷編」(風塵社)
酒井茂之著 「一度は訪ねてみたい有名人のお墓 東京・神奈川編」
DVD 「墓萌え 東京お墓散歩」(日本メディアサプライ) など。
また紹介されていた有名人が眠る主な都立霊園
雑司ヶ谷霊園(豊島区) 夏目漱石、中浜万次郎、泉鏡花、竹久夢二など
染井霊園(豊島区) 岡倉天心、高村光太郎、二葉亭四迷、若槻礼次郎など
谷中霊園(台東区) 渋沢栄一、横山大観、徳川慶喜、長谷川一夫など
青山霊園(港区) 大久保利通、志賀直哉、尾崎紅葉、乃木稀典など
多摩霊園(府中市) 東郷平八郎、三島由紀夫、高橋是清、など

そして、切り抜いた新聞の裏面にこんな記事がありました。

大日本印刷(DNP)は15日(平成21年5月)、休刊雑誌の電子化配信サービスを始める。第一弾として秋田書店が2001年に休刊した月刊誌「歴史と旅」の特集記事を配信する。歴史本の人気が高まるなかで、休刊した雑誌記事を電子化するこで携帯コンテンツの強化につなげる。
新サービスではまず歴史と旅の「あの人にあいたい!」の特集、童謡詩人金子みすゞの記事を電子化した。DNPが運営する携帯電話向け電子書籍サイト「よみっち」と、DNP子会社のam3(東京・千代田)が運営する携帯型ゲーム機のニンテンドーDSのコンテンツサービス「DSvision」にそれぞれ配信する。1コンテンツあたりの販売価格は262円。
配信内容は過去に掲載した伝記や専門家の分析記事など。電子化にあたり過去の記事に加えて、写真を追加していく。戦国武将や歴史的な事件の記事なども配信する。DNPは今後、休刊雑誌などの電子化配信を進めていく予定だ。
歴史と旅は1973年創刊で、休刊まで400冊以上発行していた。

「歴史と旅」はかなり好きでした。「歴史読本」より買っていたので、休刊の報を聞いたときは、寂しかった。
どんな内容になるのか、分かりませんが、こういった形で復活するのはいいことですね。

最近の考古学の発見から

3万5千年前、マンモス牙で、最古のビーナス像発見  ドイツの洞窟
ドイツ南西部にあるホーレ・フェルス洞窟の遺跡から、約3万5千年前の後期旧石器時代の人類がマンモスの牙で作った「世界最古のビーナス像」を発掘したと、ドイツ・テュービンゲン大のニコラス・コナード教授が14日付の英科学誌ネイチャーに発表した。
コナード教授は「彫刻としても世界で最も古いとみられ、人類の芸術の起源を探るのに貴重な発見だ」としている。
彫刻は2008年、洞窟の入り口から20mほど奥の地中約3mの粘土層から動物の骨とともに見つかった。6つの破片に分かれており、組み合わせると高さ約6㎝、幅約3.5㎝、重さ33gのほぼ完全な女性像が復元できた。
豊満な乳房と大きな臀部が特徴のユニークな形状で、首から上は無く、本来頭部があるべき部分にU字形のリングが付いている。ひもを通してペンダントのように使われたらしい
脚は短く真っすぐ。二本の腕は腹部を押さえるように曲がり、細かく彫られた指も確認できた。腹部には水平方向に何本も線が描かれ、衣類を表現したとみられる。
地層の年代測定から、女性像は少なくとも3万5千年前の作製と判断された。欧州各地の遺跡から出土したほかの女性像より5千年以上古い。
このビーナス像を作った最古の“彫刻家”は、当時アフリカから欧州に移住したばかりの現代人の祖先、クロマニョン人とみられるという。

平成21年5月13日 上毛新聞から
ドイツ ビーナス像
ここで興味を引くのは、「マンモスの牙で作っている点」と「アクセサリーにしていた点」、また「土偶のように、女性の体形が異様な点」など。またこれが、約3万5千年前の人類がしていたという点が、面白い。
ちょっと調べてみました。
春成秀爾著「歴史発掘4 古代の装い」(講談社)から
「石器の材料を探したり、食用の植物を集めたり、地中にもぐっている小動物を捕るなどの作業中にきれいな色や変わった形の石などが目にとまると面白くなりしばらくながめているうちに、その石になんらかの想い(イメージ)をいだきます。その石を拾って住みかに持ち帰ります。
その石を自らの想いを託す象徴物(シンボル)とみなすと、その石は、何らか特別な力を持つ品物(呪物)となり、何かを祈ったり呪ったりするときの媒体に転化します。そしてそれに祈ってなんらかの効果があると、それを大事なお守りと考えるようになるのは当然でしょう。
旧石器人は狼や熊と闘うとき、彼らの牙の威力を畏れたに違いがありません。彼らを倒してその牙を持っていれば彼らに対抗できる強さが備わるという想いをもつようになるのは自然の成り行きだったのでしょう。そこで、いつも、いつまでもその力が備わっていることを願って孔をあけ紐を通して身につけはじめたのでないでしょうか。ちなみに日本でも狩猟をする人たちはつい最近まで狼や熊の牙の部分を含む頭骨の一部を印篭の根付けにして身につけていました。
旧石器時代のアクセサリーのなかに馬の形をしたもの(ロシアのスンギール遺跡)や鳥の形をしたものがあります。これらは紐通しの孔さえなければ考古学では呪具(何か特別な力を発揮するために人が作り、身につけない道具)に分類するところです。呪具とアクセサリーの違いは初めは紙一重だったといってよいでしょう。身につける呪具としてのアクセサリーが生まれると三葉虫などの化石は集めなくなります。牙などの呪物を身につけることからアクセサリーが始まった……。
中略
珍しい形への注目、野獣の牙の威力を自らのものにしたいという願い、そして原人以来の美意識、これらが結びついてアクセサリーが生まれたのではないでしょうか。」
なるほど、なるほど。実に分かり易い説明です。
で次が
武光誠監修「すぐわかる日本の呪術の歴史」(東京美術)から、
「破壊のための異様な人形
日本各地の遺跡から発掘される土偶は、多くの謎に包まれた奇妙な人形である。
まずその形状が異様である。多くの土偶は乳房が異常に大きかったり、耳・鼻・口など顔のパーツがなかったりして、人間のリアルな像にはほど遠い。縄文土器に見られる造形力からすれば、もっと人間らしい人間を作ることもできたはずなのだ。
さらに不可解なことは、ほとんどの土偶が手足や首を失った無残な形で発見されるのである。1000体以上の大量の土偶が発見されながら、一つとして完全な土偶が見つからなかった遺跡もある。しかも構造をよくみてみると、最初から破壊しやすいように製作されたものが多いのである。
縄文人にとって土偶の製作は労力や時間のかかる仕事だったと思われるが、なぜ苦労して作ったものを破壊したのだろうか。そもそも、土偶は何を表現したものなのだろうか。」
人形呪術のルーツ
一説には、土偶の破壊は農業の始まりと関係があるとされる。この説では土偶の腹部が極端にふくらんでいることに注目し、土偶とは母なる大地の生産力を妊娠した女性にたくして表現したものと見る。その裏づけとなっているのは、殺された女神の死体から作物が誕生したという神話である。このタイプの神話は世界各地に残されており、日本にも「古事記」に須佐之男命・スサノオノミコトによって殺された大宜津比売・オオゲツヒメの死体から五穀が生じたという記述がある。かつて縄文時代に農業はなかったとされてきたが、近年は原始的植物栽培や稲作が行われた形跡が認められる遺跡も発見されている。とすれば、縄文人が土偶の破壊を女神の殺害に見立て、作物の収穫を願って大地に霊力を与えようとしていた可能性も否定できない。
その一方で、土偶は人間の身代わり(形代)ではなかったかという説もある。この説では土偶の破壊された箇所を、病気やけがをしていた箇所と見る。そして破壊することによって、治癒を祈願していたのではないかという。現代人でさえ「風邪を他人にうつすと治りが早くなる」などというのだから、縄文人が人間の苦しみを土偶に転じられると考えてたとしても不思議ではない。
そのほかにも祖霊崇拝のため、安産祈願など諸説あるが、いずれにしても単なる飾りや玩具ではなく、呪術的行為に一致している。その姿は神あるは精霊といった、人間に似ているが人間ではないものを表現していると考えられる。」
これは土偶の説明であり、農耕との関係を説明した文章であるが、ドイツのビーナス像は妊婦を表しているように見られるので、これが参考になるかなと思い、転載してみました。

「世界の神話伝説 総解説」(自由国民社)阿部年晴・埼玉大学教授「アフリカの神話伝説」から
最初の人間の出現
「マダガスカルには次のような話が伝えられている。この世のはじめに創造主は2人の男と1人の女をつくった。一方の男は実物大の女の木彫をつくったが、すっかり気に入って、仕事をする間も見えるよう屋外においていた。もう一方の男が通りかかって木像の美に打たれるとともに木像が裸であることが気になったので、美しい衣服を着せ、宝石を与えた。女が孤独を嘆きながら通りかかってその木像を見ると、それに生命を与えてくれるよう神に祈った。神は彼女が木像を抱いて寝れば生命を与えると約束した。翌朝、木像は生命を得て美しい少女になった。
やがて2人の男がやってきて少女を要求したが、女が拒否したので、神が仲裁に入った。第一の男は木で少女を作ったのだから父だ。女は生命を与えたのだから母だ。そして、第二の男は少女を愛して身を飾ってやったのだから夫だ。3人はこの裁定に同意し、第一の男は女と結婚し、第二の男は少女と結婚した。すべての人類はこの二組の夫婦の子孫である。彫刻家たちは第一の男の子孫である。これは祖人と芸術を結びつけた例である。」
これは、あまり関係ない話ですが、最古の人間と彫刻・芸術の関係の神話として、興味深いので、合わせて載せおきました。

またここ最近、国内の考古学の話題が新聞に載ることが多い。
まとめてみました。
奈良・キトラ古墳 白虎も右向きのワケ
奈良県明日香村のキトラ古墳壁画の四神(ししん)は、時計回りのように循環して描かれたのではないか――。奈良文化財研究所飛鳥資料館の加藤真二・学芸室長が、そんな興味深い説を打ち出した。
 根拠は、東壁の「青龍(せいりゅう)」と西壁の「白虎(びゃっこ)」が、ともに右を向いていることだ。方角で見ると、それぞれ南と北で正反対となる。加藤室長の調査によると、中国の墓誌にみられる四神51例のうち、青龍と白虎が同じ向きなのは8例だけ。主流は左右互い違いで、それらはいずれも南を向いている。四神の基になった星座群の位置が関係して、南向きに描かれたらしい。
 ただ、時代の古い銅鏡に描かれたものには、同じ向きの例がある。中には、四神が邪気をはらい、陰陽や時間の動きを整えるという趣旨の銘文も伴う銅鏡もあるという。
 そこから加藤室長は、キトラの右向きは「陰陽五行説の気が循環する姿を描いたから」と考えた。キトラの四神は、南壁の朱雀も右向き。北壁の玄武は左向きだが、頭は後ろを振り返っており、右向きと言えなくもない。
 また、「書物などから得た以前の知識だけで描かざるを得なかったことも理由の一つではないか」と推測する。キトラの築造を7世紀末とすると、遣唐使が中断していた時期にあたり、唐の最新情報を知らないまま描いたというのだ。
 キトラより新しいとされる高松塚古墳の青龍・白虎が、ともに南向きなのは、遣唐使の再開(702年)後、唐から情報が得られるようになったためと推論すれば、加藤説もうなずける。向きの違いは、古代人が流行に敏感だったことの表れなのかもしれない。
 キトラの四神のうち青龍と白虎はきょう8日から24日まで、同資料館で一般公開される。
(早川保夫)
(2009年05月08日 読売新聞)

シカの絵土器、長野でも発見 分布域広がる「農耕祭祀の証拠に」
長野県中野市の柳沢遺跡で、雄のシカ二頭を描いた弥生時代中期(紀元前1世紀ごろ)のつぼ形土器が出土し、県埋蔵文化財センターが5月13日に、報道関係者に公開した。
弥生の絵画土器は奈良県での出土が多く、シカの絵の土器は東日本寄りでは日本海側の石川県、太平洋側の神奈川県までしか例がなかった。長野県でも確認されたことで分布域が広がった。
出土したのは長野県北部を中心に見られる栗林式土器で、半分程度が残り、口径11cm。高さ約31cm、胴の最大径は約23cmと推定される。シカは豊作をもたらす霊力をもつとされ、二頭は前後に並び、角などが線で描かれている。
センターじゃ「近畿地方から銅鐸、銅戈と一緒に土器にシカの絵を描く考え方も入り、農耕祭祀になる」としている。後略
(読売新聞 平成21年5月13日)

弥生前期の人面土製品 とさかの飾り、頭にかぶる。岡山・上原遺跡
岡山県総社市の上原遺跡で、紀元前3世紀ころの弥生時代前期の人面土製品が見つかり、市教育委員会が14日、発表した。頭頂部に鳥のとさかのような飾りが付き、頭にかぶるような形になっており、全国で初めてという。
弥生時代には鳥の霊を信仰の対象とする風習があったとされており、市教委は「祭祀の時に使った可能性が高い。儀式などで司祭者が頭にかぶったのではないか」と説明している。
市教委によると、土製品は、高さ約11cm、幅約17cm。両目の部分に穴が開けられており、まゆ毛と鼻が張り付いてあった。まゆ毛と目の間には、入れ墨とみられる線刻の装飾も施されていた。
(上毛新聞 平成21年5月15日)

時代も地域も別々ですが、呪術的、祭祀的なものです。
これらも、かなり興味を引かれます。

クリントンの「こどもの日」のメッセージには裏がありそうじゃない?

ちょっと前の話。
平成21年5月6日、読売新聞から

「こどもの日でメッセージ」
クリントン米国務長官は4日、日本の「こどもの日」にあて、子供たちの幸せを願うメッセージを発表した。「子供は国の宝です」と強調した上で「世界中の子供たちが日本の子供たちのように憂いのない喜びを祝う日が来ることを願っています」と締めくくっている。
米国務長官が「こどもの日」にメッセージを寄せるのは異例という。家族に関するメッセージを世界に送りたいという長官の希望を具体化させた。<ワシントン 本間圭一>


クリントンがなぜこれほどに日本に媚を売るのはなぜなのかがわからない。(最初の外国訪問が日本で、日米関係を重視している?)
なんか裏がありそうな話に聞こえるのは、私の根性が曲がっているからでしょう。
ここに書いてあるのを読むと、日本のこどもへ向いた声明ではないようにも聞こえる。他にどんなことを言ったのか気になるところだが、紙上に全文載っていないのが残念、どんな内容だったのか。

で、昭和23年に施行された祝日法によれば、こどもの日の趣旨は
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」とある。
母としてのメッセージだったのかな。

風邪!? いま病院に行くと……。

先日、会社から帰ってきたら、フラフラで、立ってもいられない状態だった。熱を測ったら38℃近くあった。
次の日は、根性で会社に行って、その帰りに病院に行った。
いま、病院に行くと大変ですね。
受付で「熱があって、ちょっと咳も出るんですが」と言ったら、もう大変。別部屋に連れて行かれて、マスクをするように言われ、鼻の中を綿棒でグリグリされた。
いわゆる「新型インフルエンザ」の簡易検査です。
「外国に行ったか」とか「周囲で外国に行った人はいるか」とかいった質問責めだった。これを受付で聞かれ、看護師さんに聞かれ、医師にも聞かれた。
いくら「新型インフルエンザが流行っているからって」と思っていたら、
待合室のテレビで

厚生労働省は16日、神戸市内の県立高校に通う2年男子生徒(16)と2年女子生徒(16)について、新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)への感染が確認されたと発表した。
 同じ県立高校に通う3年男子(17)も同日、新型インフルエンザへの感染が確認されており、水際の検疫以外では国内2例目と3例目の感染確認となった(読売新聞)

と次々と報道されている。
そうか寝ている間に、そんなに状況が悪くなっていたのか……。(ここ2日、ネットもテレビも見ないで静養していたので)
私の検査結果は「インフルエンザ検査は陰性」でただの風邪だった。
でも、熱もあって余計なのかもしれないが、何か不安になりますよね。
この、不安感が、いつしか恐怖感になってパニックになるんでしょう。
病院に行ってそう感じました。
また、薬局で薬もらうのを待っている間に、週刊誌を読んでもっと不安感を煽られた。
「致死率63%の鳥インフルエンザ(H5N1)が「新型インフルエンザ」に変異。
日本の死者予測最悪200万人!」
もう怖くなってそれ以上読みませんでした。

そして家に帰って、何か食べようと思っても体がだるくて、食欲が湧きません。
それではということで、さっぱりと「そうめん」を食べました。
今期初。
これが美味い。ほんとここ何日かほとんど食ってなかったので、美味くって仕方なかった。
こんなとき日本人で良かったと感じる。
きっと秋や冬のころには、初物の鍋ものやおでんを食っても同じようなこと思うんだろうな、と一人ごちた。

でも、寒くなるそのころこそ本当の「インフルエンザ」の活動期が来るという。
恐い。
それまでには、新しいワクチンが出来ていることを願って、もう寝ることにした。

民主党代表に鳩山氏。「華がない」のはどっちだ。

民主党は小沢一郎代表の辞任を受けた、後任の代表選を2009年5月16日に行い、鳩山由紀夫幹事長(62)が新代表に決まった。
代表戦に出馬した岡田克也副代表(55)と鳩山由紀夫幹事長は午後1時、都内のホテルで政見スピーチとディベートを行い、その後、同党の国会議員221人による投票を実施。鳩山幹事長は124票、岡田副代表は95票だった。


このニュースを聞いて思い出した話。

数年前、自民党総裁に福田康夫氏が就任したとき、鳩山由紀夫氏が言った言葉が面白かった。
福田さん、華がないね」と自分を差し置いてこんなこと言ってました。
このとき「あなたに華があれば民主党もどうにかなっていたのに」と突っ込みつつ笑ってしまいました。
しかし今度、民主党の顔に鳩山さんがなるんでしょう。
「なんかパッとしない、華がない」と思った人も多かったのでは……。
民主党も政権取れる折角のチャンスだったのに、これで潰したような気がしますが……。
これで喜んでいるのは、麻生さんでしょうね。

渡辺千賀の「日本はもう立ち直れない」と忌野清志郎と小室哲哉

“「日本はもう立ち直れない」 だから「海外で働こう」に賛否両論”の記事に対する反論を書こうとして、10日以上経ってしまった。
それは、渡辺千賀なる人のブログ記事で、
http://www.chikawatanabe.com/blog/2009/04/future_of_japan.html#more
経緯は
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?b=20090504-00000001-jct-soci となっている。
ただ書いている内に、だらだらとした文章が続いて、またいつものようにまとまりそうもなかったので、そのうちにイヤになってしまった。
(それに、2ちゃんねるとかコメ欄とかに大かた意見は出し尽くされているので、それを読めば十分で、何をいまさらという気分にもなった。)

そんなときだった。
忌野清志郎の死」を聞き、葬儀に並ぶファンを見てフト思ったのだ 。
渡辺千賀が言うところの「成功」ってなんだろうかということを。
彼女のこのブログ記事のポイントを成す言葉で「成功体験」という言葉が何度か使われている。
この「成功体験」という言葉がしばらく頭にこびりついて離れなかった。
「成功体験」って、何だろうかと…。それが人生において必要なのだろうか、ということを…。

これが忌野清志郎とどう結びつくのかは以下の文章で……。

ただし下らない駄文なので、さらっと読んで、すぐに忘れてください。


東大卒だか、エール大卒だかの肩書をつけたアメリカ・シリコンバレーで働く才媛(!?)の言葉はそんなに有り難いのか?
さて、まず、第一点目、そもそも渡辺千賀のこのブログ記事がこんなに大騒ぎするような内容のものだったのかが、甚だ疑問だ。
タイトルは衝撃的だが、内容は大したことは書いていない。しかし反応・反響(ヤフーニュースの取り上げ方やコメ欄等)があまりにも過剰で、大袈裟なところがあまりにも奇異に感じる。
まず本文内容だが、これは「AだからBしよう」という構成で「A・日本がダメだから、B・外国へ行け」といったもの。だが、Aは、日本にいれば誰でもそんなことは身を持って感じていることだろう。
そんな話はサラリーマンの集まる居酒屋に行けば、酔っ払いでも言っていることで、その辺のパン屋のオヤジでさえ「今の日本はダメだ」「政治があかん」と思っている。 検索すればこれよりも詳細で良質な記事にいくらでも出会える。
問題なのは、それを東大卒だか、エール大卒だかの肩書をつけたアメリカ・シリコンバレーで働く人に言われただけで、神様から有り難いお言葉を頂いたように大騒ぎするのは何であろうか、ということ。
数字や資料が並んでいるが、そもそもそれ自体があやしいという指摘がある。またこうした資料を見せられて、素直に信じてしまうところが危うい。これを見て「私も日本から出たい」と真面目にコメを書いている人もいたが、無邪気というか単純すぎてあまりにもバカらしくなり、早く荷物をまとめろとも言いたくなった。
また、ここには、フランス型、アルゼンチン型、右翼台頭型という3種類しか挙げていないが、これはあまりにも雑すぎるし、短絡的だ。才媛の経営コンサルタント社長にしちゃ大雑把ではあるまいか。
なんでも類例化して落し込めばばいいと思っているのなら、それはあまりにも安直で、発想が貧困だ。
こんなものは煽るための資料に過ぎない。獅子に咆哮されて怯える小動物のように慌てふためいて心配することなどない。ここは発想の転換、「日本型」をつくればいい話だ。楽観視しろというのではない、悪いのなら悪いなりの方策を模索すればよい。
明治期からの「西洋への憧憬」から未だに脱却できずに、この手の経歴を持つ意見にホイホイと従ってしまう愚直民がいかに多いことか。そっちの方が嘆かわしい。
アメリカ崇拝は日本の隅々にまで行き届いているので、才媛のアメリカ在住者という印籠を見せられると、日本人はただそれだけでひれ伏し、ひたすら神託を待つ。その天からの御言は、まるで「快楽的物資」をぶち込まれてかのように効果てき面で、読者を法悦状態のバカにしてしまう。そんな状態にしてから「迷える羊の日本人たちよ」、といった物言いでご高説をのたまうのだから、堂に入っている。
この手法は勝間勝代も細木数子も使うもので、肩書によって信者をひれ伏せさせる、というのは伝統芸なのかもしれない。
気をつけならなければならない。

では、「B・外国へ行け」っていうのはどうだろうか。
どこへ? 自分で探せって? どこにそんな場所がある。世界中が新型インフルエンザで騒いでいるのに……(ウイルス騒動がすぐに消えてなくなることはないでしょうに)
では、アメリカが今でもそんな夢の国か? 麻薬と暴力とレイプ、人種差別に貧富の差、銃社会の無差別乱射、根幹産業・自動車産業崩壊で、世界一の債務国…、「日本の将来」より危うい感じがしますが…
それで、挙げたのが中国って。ほんとにこの人、いまの中国がいい国だと思っているのか?
貧富の格差、社会情勢不安、食の安全不安、日本人への偏見……。どれ一つ取ってもいいところはない。ただ人口が多いからこれから経済成長が見込めるというだけの話だけではないのか。
とてもじゃないが、私はおススメできない。
中国、ベトナム、インド…、これらを挙げているだけで、この時点でこの人どうにもならない。
海外に行って見聞を広げよう、留学・外国見聞は大いに結構なことなんて話は、明治維新から百十数年以上前からずっと言われ続けていることで、その辺の中学校の先生だってこのくらいのことはいくらだって言えるよ。
東大とかエール大とかMBRとかそういった肩書に踊らされ過ぎている。

だから、 このブログ記事事体が、特定のブロガーたちが仕掛ているような「お仲間」たちの仕込みなのではないかとも思える。(賛同記事、コメ欄も含む) 有名ブロガーだがアルファーブロガーだが、カリスマブログだが知らないけど あの辺の人たちは仲良しですからね。お互い褒め合って喜んでいる。(こっちが気持ち悪くなるぐらいに) まあなんせそれを飯のタネにしているのだから仕方ないけど、ただ一般人まで踊らされ過ぎないように十分に気を付けなければならない。


成功体験とは何ぞや
ここからが本題。
渡辺千賀の言うところの、成功とはズバリ「経済的成功」のことになるだろう。
つまり「どんだけ稼げるか」が成功のポイントになるわけだ。それを体現した人(成功体験)のみが「成功者」となるわけだ。
要は、 成功=金。 極言すればこうなる。
当ブログの過去の記事では、 この種の人々は「金=幸福」という指向が執拗なほど強い
過去の記事
金を多く持つ人=人生の成功者、なのだろうか。 果たしてそうだろうか。
いつもこの疑問に、私はぶち当たる。
人生の成功者とは一体何のだろう。
一生涯、教師だった人は、警察官だった人は、看護師だった人は、タクシーの運転手は、給食のおばさんは、スーパーの店員は…なんでもいい、ほとんど大多数の人々が社会の根幹を成す職種に生きている。だからほとんどの人は渡辺流「成功体験」を味わうことはなく一生を終えるだろう。
それで日本はダメだから、成功体験を求めて海外に行けっていうのか。だれもが「イチロー」のように成功するわけではないに。
で、外国に行って金持ちになれと、それは、日本人が日本で幸福になれずに他国で金持ちになって、それが果たして「幸せ」なのかと、 そんな疑問にもぶつかっていく。
渡辺千賀は、いや自分を含め私にまわりに多くいます、というだろう。これは自分の成功体験を他人にも当てはめようとする勝間和代と同じタイプだ。 まあこれも、彼女らにとっては簡単な話だろうが、一般人の才能しかない人々が同じことをしても「成功」するわけがない。ここが重要。
渡辺千賀はそんな底辺の人々に自分の論を語っているわけではない、私の対象者はアッパーミドル以上の人々よ、というだろう。だったらこんなブログ記事書くな、もっと違う書き方があるだろうと注文をつけておく。
で、「成功体験」だ。
すべてを、貨幣を基準にした価値判断で、人の人生を計ろうとしている。そうなると、「日本では、成功体験を味わえない」と言いきっているのだから、だから日本人の一般庶民はすべからく「成功者」ではない、という論理になる。 日本には極々一部の人を除き、成功者、幸福な人はいないということになる。
彼女らの言うことを極言すれば、まあ平たくいえば、いかに他人より多くの金、モノを所有できるか、それがひいては他人よりも上位に立つことができる、それが「成功」だ、となる。
それが人の幸せかどうかは、それぞれの価値判断によるだろが、それは虚しすぎる。
でもやはり気になるのはこの「成功体験」という言葉だ。
「成功体験」とは何か。
人の一生において何が「成功」なのか?
そして、日本は「成功体験」もなく、果たして立ち直れないのか?


目指すは忌野清志郎型
5月9日に青山葬儀所でファンなどを対象にしたロック葬「忌野清志郎 AOYAMA ROCK'N ROLL SHOW」が行なわれ、弔問数は43,000人に及んだ。
忌野清志郎の死に際しては、私も当ブログで書いた。
関連記事
多くの追悼記事やブログ記事が出たが、そこに、気になるスレがあった。「ヒット曲もないのに過大評価されすぎ」というのがあった。
この人は、ミリオンセラーを連発し、ヒット曲を多く持つミュージシャンが偉いと思っているようだ。
つまり、渡辺流「成功体験」を多くした人がスゴイ人とでもいうのだろう。
ではそんなミリオンセラーを多く出した小室哲哉はどうだろうか。
忌野清志郎の葬儀のニュースと同じ日に、小室哲哉 に判決が下った、というもニュースもあった。
5億円詐欺 ・小室哲哉被告に懲役3年、執行猶予5年の判決。
小室哲哉の説明は省略。
裁判長の判決文が興味深い。
身勝手な見栄などから豪奢な生活を続け、犯行に至った経緯や動機に酌むべきものは見いだせない。音楽家としての矜持をかなぐり捨て、自らの歌の数々を詐欺の道具に用いたことは嘆かわしい」とあった。
「音楽家の矜持」とはつまり「ロックの魂」でしょう。これを金のために悪魔(欲望・金銭欲)に売り渡した、ということになるでしょうか、裁判長も上手いことを言うと思った。(忌野清志郎なら金のために「音楽家の矜持」「ロック魂」を売り渡したりしないだろう。)
一時の栄華を極めて、巨万の金銭を手にした、あの時点のコムロは明らかに成功者であり、渡部千賀の言うところの成功体験を多くしただろう。
また成功体験の説明に「中毒性があり、一度成功体験に浸ると次の成功体験を得ようと努力する。過去の成功体験に固執しに抜け出せない人も多い。」とある。(はてなキーワードから)
これ金銭欲という言葉にもあてはまる。
「成功体験」を味わい続けた小室哲哉は、麻薬のように「売れる」ことばかりをもとめ、それが自分を苦しめていくことになり転落人生となっていく。 その築いた富も一瞬の内に無くなった。
売れるという成功を求め、売れ筋なモノを作り続けていてもそれは一時的なものでしかない。
まさしくこれは忌野清志郎とは逆のことなのだ。
自分が良いと思ったことをしていながら、一部の固定ファンをがっちりと掴み、永続さえていく。
これを実は見本とすべきことなのだ。 流れとしてはこうだ。(彼の主義・思想はここでは抜きます。)
1、外国から良いと思ったものなら何でも取り入れる。(R&B、ローリングストーンズ、、オーティス・レディングなどなんでも取り入れ、日本風にする。日本でロックをするのだから日本語ロックという具合に、自分風、ひいては観客に合わせる。)
2、自分の中でアレンジし、(自分風に作り変える。またバンド編成を変えたり、自分のスタイルを変えたり、必要ならばホラ貝だって吹く、いろいろ試行錯誤していく)
3、自分独自のものとして創り上げ(「つくる」はあえてこの漢字を当てました)、(そこに出来たものはどんなものでも「清志郎」ブランドになっている。しっかり自分のものを作る、その上での変化)
4、それをファンに提供していく。(固定ファン<固定客>が一定数いるので、大ヒットはなくとも活動期間は長く続けられる)
5、そしてまた新しいものに次々と挑戦していく。(また良いと思ったもの、新しいものに常に挑戦している。ラップやったり、演歌歌手とユニットやったり。反戦・反核を歌にするなんて挑戦は「売れ線」を考えればしないことだろう。ただこれをすることで、ミュージャンとしての「忌野清志郎」ブランドは上がったともいえる。)

そして地道に自分の信念のもとミュージシャンの矜持を持って忌野清志郎は40年も活動した。
その結果において、彼の死に際し、これほど多くのファンや関係者を生んだ。
多くの新しいことに挑戦し、それはヒット(経済的成功)はなくとも、多くのファンを獲得できるということだ。 セール・売りに走るのではなく、ファン・顧客を増やすという方法だ。(売れ線を次々と出して飽きられた、小室ファミリーやつんくファミリー、島田紳助プロデューズとは逆の考えだ。)

よし、これを日本経済に当てはめてみよう。
外国から良いと思ったものを取り入れ、自分の中でアレンジし、自分独自のものとして創り上げ、それをファン(消費者)に提供していく、そしてまた新しいものに次々と挑戦していく。
これは、まさしく、邪馬台国の時代から行われてきた、日本的手法ではないか。
ここには何を当てはめてもいい、アニメでもゲーム機でも、ソニーでもトヨタでもセブンイレブンでも、または火縄銃でも絹織物でも何でもそうだ。日本の成長を支えてきたものはこういう方法論でやってやってきたのだ。

初心に帰れ。
だから、一発ヒットの「成功体験」を狙うならアメリカにでもどこでも行けばいい。
日本に必要なのは、「成功体験」を求めるコムロ型ではなく、「日本語ロックを確立した」清志郎型を進めばいい。(大きな「成功」を求めても、大ヒットする世の中ではなくなっている)

東大卒だか、エール大卒だかの肩書をつけたアメリカ・シリコンバレーで働く人に「日本が立ち直れない」なんて言わせないためにも。

追記 あと一つ。
渡辺千賀ブログ記事に『「日本で勝てる!」と思う人は、是非国内でその道を邁進してください。誘拐には気をつけてね。』という一文がある。
何だよこれ、どんだけ上から目線なんだよ。
経済不安定→治安低下→日本で誘拐事件が増える→でも私は天国のような場所シリコンバレーにいるから大丈夫、といった彼女の底意地の悪さが出てます。
こういうのが、常に行間からにじみ出ているので、反感を買うのだ。本人はそこに気付いていないようで、私のありがたい高説が分からないの、といったもの伝わってくる。まあ、内容云々以前よりそういった点に腹立つのだ。渡辺千賀に一言いうとすれば、人に言を説く場合、まずそういうところを改めてから始めた方がいいだろう、と。
それに未だに「勝ち組」「負け組」なんて言ってるようじゃだめだ。関連記事
少し前まで「トヨタ」だって「日立」だって「「イオン」だってみんな勝ち組って言われていた。それが今ではどうだ。情勢が変われば、業績はすぐに変わる。今日勝っているからといって、明日勝っているとは限らない。そこが重要だ。
経済や政治は継続的なのだから、一時的な勝敗を見て、「勝ち組」「負け組」なんて簡単に分けすぎる。
大体、経済アナリストとか経済評論家とかは結果だけを見て言っているだけなので、全く当てにならない。
関連記事
こんな人たちの言うことは、まず疑ってかかった方が無難だ。

大河ドラマ「天地人」酷過ぎ!

大河ドラマ「天地人」酷過ぎやありませんか?

私は最初の2、3回ほど見て、あとは見るのをやめてしまったが、今回は「本能寺の変」ということで、久々に見てみました。
そして驚いた。
これはヒデェ~よ。

時代考証とか史実的にどうかといった以前の問題で、これは、ドラマとしても成り立っていない。
ドラマ制作者は、原作は火坂雅志といっているけど、それは使っていないよ、たぶん、よくある戦国モノのマンガとかゲームとかを基にしてるんじゃないの? そんなレベルだよ。

あとは思ったことをただ書き連ねてみた。

何ですかね、あの安っぽいCGは? 時代劇にCGを使うのは流行りのようだが、これは使い過ぎると一気に興ざめする。しかも「本能寺」がボーンって。
何ですか、あのウソくさい合戦シーンは? 本能寺の変を描いた場面で、あんな迫力のないものを未だかつて見たことがない。しかも見てて笑えるってどういうこと。
何ですか、あの長澤まさみの中途半端な役は? 表情はいいのだが、あのしゃべりはどうにかならないのか。そして意味不明の役どころ。なんじゃあれ、いっそのこと、これを主役にして「忍者モノ」にでもすればよかったのに。
何ですか、あの髪形は? 誰か教えてくれ、戦国時代にカリスマ美容師がいたのかというこを。兼続の髪形はなぜいつもきまっているのか、兼続の妻・お船(常盤貴子)の髪形はなんであんな奇抜なのか、そしてなぜ茶髪なのかを……。

そして、物語の肝心な部分が、すべて伝聞って。
「なに、信長が討たれた」
「なに、光秀どのが討たれた」と上杉方が聞いて、兼続(妻夫木聡)のアップが続く。
だから、そこをじっくりドラマにして見せてくれよ。
戦国時代最大の見せ場なんだから、気合入れて作れよ!

そして、無駄に長い、直江兼次夫婦の場面。
何だよこれ。
回想シーンも信じられないほど続く。もうこの時点で、ドラマとしてもダメだ。
このクソみたいな場面の所為で、物語が停滞している。
毎回見ている友人に聞いてみると、女優陣が入って恋愛話みたいのが始まると長くって、話が止まる。で、見たい歴史の部分はサラリと流してしまう、だからいつもイライラする、と嘆いていました。

大体、前回の「篤姫」で成功したからといって、無理に若い女性層を取り込もうとして、くさい恋愛話を長々とやるのはいかがなものか。そんな層に媚び売りすぎ。もともといる歴史ファンに見捨てられたら元も子もないだろう。
あ~あ~。
これ、大河ドラマ史上1,2を争う最悪なものになるだろう。
そして、この後も酷そうだな。
小栗旬に、上地雄輔に、深田恭子か……。
民放のワンクールドラマと変わんね~。

続きあります。その2

今年は鏑矢祭に行けず。

5月8日は新田義貞挙兵の日ということで、生品神社で毎年恒例の「鏑矢祭」が行われたようです。
本来なら、私も見に行く予定でしたが、どうしても抜けられない仕事があったので、今回は見れませんでした。
ここが会社員の辛いところです。
残念。
ということで、去年の記事

書き足し
翌日新聞で報道されていたのは、3紙でした。
上毛新聞は一面に載っていました。

東京新聞

太田で鏑矢祭 児童、空へ放つ
新田義貞が鎌倉攻めの旗揚げをした地とされる太田市新田市野井町の生品(いくしな)神社で8日、鏑矢(かぶらや)祭が開かれた。黒袴(ばかま)に鉢巻き、たすき掛けの男子小学生64人が、竹製の弓で矢を2度、空に向けて放った。
 義貞が1333(元弘3)年に挙兵した際、鎌倉の方角に向けて矢を放ち、吉凶を占ったという故事にちなんだ行事。儀式をつかさどる茂木晃さん(72)の指導で、地元の生品小学校6年生が4月から放課後に練習して臨んだ。同小の柳悠真君(11)は「伝統的な行事に参加できてよかった。本番はちゃんと矢を放つことができ、練習してよかった」と話していた。 (川口晋介)


産経新聞

ふるさと便り 新田義貞偲び…群馬・太田で伝統の鏑矢祭
 鎌倉幕府を倒した武将・新田義貞の挙兵にちなんだ「鏑矢(かぶらや)祭」が8日、挙兵地と伝えられる群馬県太田市新田市野井町の生品神社で行われ、市立生品小学校の6年生男子児童64人が、勢いよく竹製の矢を放った。
 元弘3(1333)年5月、義貞が出陣前に鎌倉のある南西方向に向かって矢を放ち、戦の吉凶を占ったという伝説にちなむもの。参加した同小児童は4月から鏑矢祭保存会会員に作法を習い、練習を重ねてきた。
 吉岡大地君(11)は「鉢巻に黒ばかま姿がかっこよく、早く6年生になってやりたいと思っていた。雨になって残念だったけれど、矢がちゃんと飛んで満足」と話していた。


上毛新聞

新田氏ゆかりの太田・生品神社で鏑矢祭
新田義貞の鎌倉攻めの故事にちなんだ「鏑矢(かぶらや)祭」が八日、太田市新田市野井町の生品神社で行われ、生品小学校六年の男子児童六十四人が、雨雲を吹き飛ばす勢いで勇ましく矢を放った=写真。
 一三三三(元弘三)年五月八日、義貞が同神社で倒幕の旗揚げをした際、鎌倉方向へ向け矢を放ち、戦の吉凶を占ったという。
 児童は、新田氏の「大中黒(おおなかぐろ)」の紋入り鉢巻きに黒袴(はかま)のりりしい姿で登場。祭式師の茂木晃さんの号令に合わせ、「魚鱗(ぎょりん)」「鶴翼(かくよく)」のそれぞれの構えで南西へ向け一斉に弓を引いた。





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消えた二十二巻

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