スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

東国原知事による今回の「騒動」は、結局は「自民党つぶしの自爆テロなのか?」

最近アクセス数が上がっているのは、「東国原知事批判」の記事と「コンビニ弁当問題」の記事に集中しているからのようです。
(本筋の「新田義貞伝承を追う。井上馨の上州遷都論」でないのが残念)

さて、さて、「東国原知事」です。
最初に東国原知事批判記事を書いたのは、3年前の平成19年5月31日、ヤフーブログ等で載せたのが最初。就任して数か月経ったころで、それが始まりでした。
fc2ブログでは、
「東国原知事ってどうよ?」平成19年6月13日
「批判コメントに批判する」6月14日、
「批判コメントに批判する2」、その翌日。
「お前は、細木数子か、安国寺恵瓊か」東国原知事批判のときの会話。翌月7月6日。
そろそろ「東国原知事」批判、復活か?10月27日
休日でだらだらテレビを見て思ったこと。平成20年1月。
東国原知事は自分の望み通り「総理大臣」にでもなるつもり?平成20年10月4日
ということでこれが最後だった。
飽きもせず、こんなことをクドクドと書いていたのかと思うと、気恥ずかしくなってしまった。
なぜこんなにしつこく追ったのかといえば、当ブログを読んだわけでもないだろうが、東国原知事が「テレビに出過ぎるというのを他県の人にゴチャゴチャ言われる筋合いはない」と言っていたが、これにカチンと来たからだった。
他県の人がその県の県政について口出ししたのならば、その県の知事がゴチャゴチャ言うな、と言うのならわかる。当然だ。しかしテレビというのは「公共」のものである。それは「公」であり、宮崎も他県もない、テレビに出ることに関しては、他県の人がいろいろと意見を言ってもいいのである。しかも東国原知事が出ているのは全国放送のバラエティーが主である。自分は「知事」として出ているのか、「芸人」として出ているのかはっきりと分けているのか、甚だ疑問だ。週末は休日であり「知事」の立場ではない、だからテレビに出演してもよい、と本人は言っていた。ならば「私人」である「芸人」として出ていることになる。ならばそこに他県の人が文句を言ってもいいわけだろう。「いや私は宮崎県のために知事としてテレビに出ている」とも言っていた。ならばそれは「公人」だろう。では聞こう、知事の仕事とはバラエティー番組でバカふざけすることなのか?(最近は、「テレビに出るのは宮崎県のセールスマン」という大義名分もなくなっている)
群馬県でこんなことがあった。群馬県知事の大沢氏は北朝鮮のロケットが発射されたとき、自宅にいたということだけで、叩かれていた。知事は平身低頭謝罪していた。読んでいて可愛そうなくらいだった。県庁から自宅(前橋から太田)までは車で1時間とかからない、高速でも使えば30分ほどだ。普通県の知事はこういった立場に置かれるのだ。知事に公も私もないのだ。それなのになぜ東国原知事だけが特別扱いなのか。

東国原氏はそんな「公」と「私」、「知事」と「芸能人」の区別がつかない、そんな理屈も分からない人なのである。言ってしまえばいい「テレビが好きで、ちやほやされたい。知事と呼ばれて尊敬されたい」と。 私はそこが気になって仕方がなかった。それをムキになって当時は書いていたのである。(私の中では「東国原知事」というのは、カテゴリー的に「政治」ではなく、「芸能」なのである。)
ただ、3年前は東国原氏を批判する記事なんてほとんどなくて、週刊誌も新聞も彼を持ち上げる「ちょうちん持ちの 記事」ばかりだったので、余計に意地になって書いていたのだ。
そして、書けば書くほど、「お友達がいないでしょう」とか「他の知事を批判しろ」とか、あげくは「死ね」とか「アホ」とかいったコメントがたまっていきました……。
それがいまではガラリと変わって「お褒め」のコメまでもらっている。
そしてこんなコメントもありました。

今さらなんですが2007年10月27日の そろそろ「東国原知事」批判、復活か? 」というブログを読みました。まったく同感です。
本日(2008年12月28日)に山口県防府市で東国原の講演会がある予定でしたが公務の都合で延期になったと放送されていました。(当然私は行くつもりはなかったのですが・・・)昨日テレビを見ていると公務の都合で講演会が出来ないはずの知事が生放送のバラエティー番組に出てるじゃないですか!もしかして28日もではないかと思って調べたところ「サンデーNEXT」に出演していました。講演会を楽しみにしていた人もいたでしょうに・・・知事の仕事してるんですかね?腹が立ちました!

まあそういうことです。

知事就任当初から東国原氏の批判を書いたきた者として、今回の件については、言いたいことは山ほどある。ただ、3年前のように「書きたい」という意欲が不思議なほど湧いてこない。
自民党の不甲斐なさとか(古賀氏が宮崎県までのこのこ出かけて行って恥を掻かされて、何をやっている。どうせ週末になれば、テレビに出たくて、向こうの方から東京に来るのに……。)、
テレビ局の対応とか(いまだに東国原氏を持ち上げるようなVTRを流したり、「じゃ民主党で出れば」みたいなことを言っていたコメンテーターもいたり、とにかく偏向してる内容だったり)、
東国原氏の態度とか(何だかんだいっても、結局は自分を高く売ろうとしているような言動。黒澤明の映画「用心棒」の三船敏郎にでもなったつもりか…)
などなど。
しかし、突く点が多すぎて、どこからどう手を付けるべきかがつかめないのだ。

ただ、一言でいえばこれは「騒ぎすぎ」だろう。
騒げば騒ぐほど、東国原氏の思惑通り。とにかくこの人の本質は、(不幸な芸人時代の反動もあってか)、「ともかく自分にスポットライトが当たればいい」というのがあるので、そこをじっくりと見極めなければならない。(マズローの5段階欲望説の4番目「承認の欲求」「自分が集団から価値ある存在と認められ、尊敬されることを求める欲求」が異常に強くなっている状態なのだ)
それは、もう就任直後からテレビで出まくって、周りから「知事」「知事」と言われて浮かれた表情を受かべているのをみれば分かるはずだ。この延長線上が「総裁をやらせろ」ということだ。とにかく騒げば騒ぐほど、マスコミが集まって注目される、この状況こそが東国原氏の欲望の達成なのである。
マスコミのいう「東国原劇場」と言う表現は当たらない。これは自身の欲望を満たすためのもので「東国原騒動」というのが一番近い表現なのだ。(東国原氏は「東国原シアターと言え」と記者に言ってましたが…)

またかつて、当ブログでは「そのうち何かを仕出かして、転落する」という予測もした。
ただ、こういう形で「地雷」を踏むとは思っていなかった。(本人に「爆弾」を踏んでいるという自覚はないようだが、これが転機となるはずだ)
この問題は、ずっと後まで禍根を残すことになり、ここからが「始まり」である。まだまだ序盤の序盤なのだ。
いまは傍観するしかないだろう。

ただその爆弾をもろに受けた「自民党」が哀れに見える。

あと一言、これが本題?

自民党が提示した条件をのめなかった場合については「のんでいただかないと、責任問題になってくる」とけん制。民主党へのくら替えも示唆しつつ、「のめなかったら、民主党がやる、それが国民からどう支持されるのかだ。マニフェスト、(自民)党の体質が変わるなら、言った責任がある」と覚悟を示した。

6月25日8時0分配信 スポーツ報知 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090625-00000057-sph-soci から
やはり東国原氏の真意はここなのか。となれば一連の行動は、まさしく自民党をつぶすための工作であり、自らが「自民党の自爆テロ」となっているということになる。
もしそうなら、思想的にも、私は徹底的に戦わなければならなくなるだろう。

追記 東国原氏批判の総まとめはここでhttp://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-536.html

スポンサーサイト

群馬県庁調査による「新田郡に於ける両皇子の墳墓」報告書  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第12回

前回の続き
上毛及び上毛人」35号(大正8年)に掲載されていた群馬県庁調査による「新田郡に於ける両皇子の墳墓」の転載です。(旧かなづかい、旧書体漢字など、一部直してあります。)

長いので要点だけを先に、
明治16年の記事で、群馬県による「新田荘に残る、宗良親王と国良親王の御陵に関する調査報告書」というもの。内容は
1、新田郡別所村、円福寺による上申書
2、「新田正伝記」からの抜粋
3、「金山軍記」からの抜粋
4、「東榮鑑」からの抜粋
5、県係官、県編集所長・山崎衡による調査書
の順になっています。
要は、前回の記事と同じようなことが書いてあります。
年代的にみて、山崎衡によるこの調査書が、井上馨に提出されたものと考えられる。(他に勾当内侍や山吹姫、新田義貞の伝承などが提出された)

以下、本文。

新田郡に於ける両皇子の墳墓
群馬縣庁文書
「記者曰く、新田郡別所村に於ける宗良親王並びに国良王の御墳墓に於いては古来動かすべからざる伝説あるのみならず、四五の旧記に記載されたる所なるが、此事に関し明治十年頃より数年間に渉り本縣庁に於いて調査されたる文書として存在せり、今左に之を転載し広く江湖識者の実査講究を煩はさんと欲す。

所在地より上申書
明治十年初め本縣庁より発したる布達に基づき、所在地の関係者より申報したる書面並びに引用したる図書の抜粋は左の如し
両皇子御御陵の義に付上申書
本年一月御布達甲第二十号を以て山野路傍に散在する神祠之類篤を調査の上、移転且合併可致旨被仰出、猶乙第四号を以て神社明細表可差出旨御達に付郷社受持区内巡回の上、略内検仕り候処、新田郡別所村村社十二所神社境内内中央の一小丘は土人相伝えて、皇族の御御陵なりと為す。依って種々調査の上ここに上申仕り候。
此皇族御陵墓の伝説は単に口碑に止まらず伝説は古書「新田正伝記」「金山伝記」「東榮鑑」「十二所神社別当御室山圓寺所蔵写本」にも該丘陵は宗良親王及び国良親王奉葬の所也と記載有之、且別所に尊石塔あり宮あり云々と記せり、また元文四年正月旧幕府より古石塔有之この場所に於いて讀經可相勤旨を以て白銀を賜る、当時の老中中牧越中守殿よりの添書並びに請書の写し白銀の包紙等存在し、該尊石塔と称するは今境内観音堂の傍らに建在する三基の塔是なり。蓋御陵墓上に建置し標識の何時しか堕転して現地に安居せしものと被存候、特に該村を別所と称するは元由良村の部内にして乾に当たる御御陵近処を以て殊に別所と指唱せしを、後遂に一村の名称となれる者なりと伝へり。謹んで史乗(歴史)を按ずるに大日本史に宗良親王弘和元年、年七十、其の終わる所を知らずとあり、且信州浪合に於いて戦死すと疑注を加ふ、然れども浪合戦没の皇子は東榮鑑には尹良親王御戦死とあり、且皇子御歳三十三歳と明記有之候、之に由って之を見れば宗良親王は浪合に戦死せず該地方に御潜匿在らせられ後此地に葬り奉りし者と愚考仕り候、間別紙考証並びに図面を添え此段具申候也
新田郡世良田村郷社八幡神社祠官  阿久津盛爲
明治十年九月十二日
群馬縣令 楫取素彦殿

新田正伝記抜粋
政義公新田太郎、寛元二年上京在番の砌、俄かに御遁世(中略)程経て関東へした下向、以最明寺殿宗尊親王の宮へ官名左衛門蔵人御願不叶、故入御室御出家、依之本領半分拝受、寺尾御館の領内、由良村台原へ御還りなされ、新御館御城在邑被遊也、故此所を台源氏と申す也、自是以来、氏を由良と被御改也(中略)
散位由良義政入道御法名阿義、御逝去後円福寺殿と奉諡、御室山と被号事(中略)宝泉野御改、宗良親王御所也、同所台源氏御館、新田義宗公被成御座、宗良宮守護被遊若宮国良親王、新田義貞公御孫、義宗公御子、横瀬六郎貞氏公、応永二十四年新田本意の時節、金山艮坂中屋形より実城御取立御在城被成候云々。
後醍醐天皇御子後村上天皇は興国元年御即位南朝吉野の内裏に被成御座候、楠木守護之同皇子懐良親王西征将軍宮筑紫の肥後国に被成御座也、菊池守護之、同皇子宗良親王征東将軍宮上野国新田郡由良村宝泉野に構御所、被成御座也、新田義宗公、同郷台源氏館被御座御守護之也、親王薨後、於円福寺奉葬し、尊石塔在り、新田御代々御石塔在り、云々。
金山を実城寺と相号事は吉野内裏の奥に実城寺あり、若宮金山御城に被成御座、故準之実城と被号也、若宮薨後奉葬するは円福寺也云々。
刀王太刀七十一大和千手院乙太郎、四条院天福の頃、鶏足寺に有り、宗良親王若宮(国良、尹良共)親王今別所円福寺に在宮。
盛爲曰く、以前に国良、尹良共と記せしは疑わしけれども、下の東榮鑑に尹良親王の跡たしかに見ゆれば、上なるは蓋し国良親王にならん。

金山軍記抜粋
真かな、宗良親王の御子国良親王、建武の乱後この寺(即ち円福寺)に蟄居、薨去の後若宮と奉祟(あがめまつる)也。

東榮鏡抜粋
応永三年正月、宮方小山若犬丸、野州に於いて兵を起こす。
同二月、鎌倉氏満発向、古河に到って小山と戦い若犬丸を失い奥州田村庄司が許に走り兵を催す。
是の月、足利義満の下知として上杉弾正少弼信州に乱れ入り、小笠原の人々をして大河原の御所を襲う、宮方防戦に利無く堪え難し。
同三月、二十四日親王大河原を御出輿、参州足助方に赴き玉はんと欲せられ、浪合邑に到る、時に凶徒等四方に起こり、味方世良田義秋、羽河安芸守景庸を始め二十五人戦死、親王御辞世。
おもいきや幾身の淵を逃れ来て此浪合に沈むべきとはと詠じ給い御自害、御歳三十三歳、青木蔵人佐師重、桃井下野守宗綱、同伊豆守貞綱以下自害す、残る宮方散々に戦い凶徒を追い落とし、各戦場を逃れて上州の方に落ち行く。
応永八年九月、奥州霊山の城兵糧之たへがたく世良田美作守満氏(政義の令弟)ら大将の身代わりに自害す、新田義則(義顕の孤子)、その従弟同兵部少輔貞方(義宗の嫡子)世良田七郎満政(満氏の令弟) 一族士卒没落の中に紛れ伊達が籠れる所の赤館の城を指して落ち行く所、当城も敵囲みて戦いあれば入ること不得、是より新田氏族散々に身を隠す。その頃親氏君、尹良親王御書写の大般若経三巻及び浪合に於いて御辞世の和歌一首を参州黒田村吉祥山正寿寺へ持参せられて納め給う、是当寺は宮の御由緒あるに依りてなり。


県庁係官の調査書
前項の上申に依り、その後明治十六年八月に至までに於いて、数回にわたり本県編集所長・山崎衡氏の主として実検調査したる文書は以下の如し。
新田郡別所村円福寺は新田政義の開基と云う、寺に四古塔あり即ち政義、政氏、基氏、朝氏の墓碑なり、基氏の分は五輪にて沙弥道義七十二、元享四年六月十一日の字を見る、政義の塔は砕けて僅かに頭脚を存す、政氏、基氏の分はいずれも高さ丈余あるべくその形状は五輪式にして尤も壮大なり四碑とも正面上部に「立ゴ」の紋を彫してその文面は以下の如し。
第一 由良入道阿義禅門 ○位  裏面 新田又太郎源政義主寛元二年甲辰六月十七日遁世
第二 新田入道静義禅門 ○位  裏面 新田小太郎政氏主
第三 沙弥道義 不生位  裏面 新田六郎基氏主
第四 沙弥源光 不生位  裏面 新田六郎太郎朝氏主
とあり、甚だ古き碑にて当時はこの観音堂の格天井板の上に蔵しありしを出せしと言へり、これらの碑も古き新田氏の菩提院なれば此の由良村にあるべきなり。
この由良の宝泉墅にはかつて岩松宝泉居りしを上野宮宗良親王の駐賛(ちゅうれん・行幸先に滞在すること)となし、奉り、新田義宗はその傍らなる台源氏館に在りて奉事すと云へり。台源氏氏館址というはこの円福寺より寅方二町余り宝泉野を離るゝことおよそ一町、坪数はおよそ三千坪ばかりなり、宝泉野の御所跡、これも坪数は台源氏と大抵同じ、円福寺より東へ二町ばかり隔つ。
この円福寺山内茶臼山はすなわち宗良親王が義宗の娘(義貞の娘?)を娶りて生まれ給へる国良親王の御墓と云う墳陵は元来この円福寺山の天然丘陵上の最高所に築き立てれば敢えて高き陵身には非ず、およそ一丈なり、陵上に古松四株ありしが今皆枯れ果て唯一株の朽幹を見るのみ、篠草生茂し鬱然たり、かつてその陵上に登るもの無し、もし登れば祟りありとて土人恐れて登るものなしと云う、周囲を検視するに人の登りしが如き体なし、陵南に村社十二神社あり、陵東は崖下りて円福寺なり、この陵足よりかつて埴輪を得たり、陵の西北は円福寺山の全体の麓を為せば頗る高く草樹繁生す。
十二神社より南に数階を下れば観音堂あり、有名の観音なり、この堂側松杉の下一古墳あり、立ち並びて二古墳あり、この二つは皆損ぜり、図略
右の如く塔に文字あり、文字の見るべきもの次の如し然れども松杉に近き背面の方に文字を見ざるは或いは樹滴のために蝕剥したるものか、記列の順序も行文の様も解き難しといえども長享年間の古碑たるべき韻致ありて宗上座は正伝記または上野国誌にも横瀬信濃守国繁長享三年逝去、法名笑山宗庵主とある者これにして義貞卿より六代の孫、金山の城主にして新田郡を領ぜり、左なれば長享のころに建てたと云うもその子業繁などの時なるべきか、碑の文に

性佛上座  法界衆生  千代松女  並等利益  宗上座
長享三年十月二十四日 性王禅尼  宮一  本願道見上座  妙禅尼  徳松  宝泉禅門

右の如し、宝泉と性佛との間、行文あるいは剥落せしか文字を見ず、この宮一とあるこそ国良親王の御事なるべけれ性王禅尼は誰人たるか未だ詳(つまびらか)ならず、あるいは王の御生母即ち義宗の女にはあらぬか、この宝泉は元来徳川義季の男、新田頼有の女、岩松経兼が妻となり、亀王丸を生み亀王丸生長して新田下野太郎政経と号し、政経の孫すなわち岩松直国、法名宝泉なり、その館地を宝泉墅と称せり、その四世岩松満純、上野宮宗良親王を宝泉墅の館に据え奉り自ら桐生に居る(大草紙) 義宗は台源氏館にて宮を守護す、宮に義宗の女を召して国良王生まれる、国良王は後乱を避けて信濃に到る、けだし御父の信濃に避け給う時に従いたまひしならん、御六歳の時、相州藤沢時宗他阿上人の稚児に扮し横瀬貞氏は呑嶺禅師と号し、終に義宗の妻の父、横瀬左近大夫重矩に伴われ給いひそかに上野に帰り潜み給う。あるいは云う金山の坂中に在りと又武蔵島勾当内侍の隠棲儀源庵に在りと、国良王も興復の御志切におはしけれども、早世ましまして御父親王の御志を継ぎ給うと能はず、正平二十二年八月九日御年三十一にて薨じ給ひ、同月十五日由良村茶臼山に葬り奉る、その丘上には今も土人敢えて登らずと宮下氏伝記に見えたり、然して宮下氏過去帳には国良王の御忌日を正平二十二年八月十日と記せり、この国良王の事は白石(新井白石)の三鼎考、小野氏系図等を始めその他にも参考すべき廉極めて多し、今巡回途次の筆記につくす能わず、また考証も十分の一をも備ふるを得ず他日の熟考を要す。(明治十六年八月)

と以上です。
とくに目を引くのが、別所村、宝泉といった地名、台源氏館、十二神神社、円福寺といった場所です。
なんとこれらは、現在も残っている。
太平記の里案内板円福寺周辺の案内板。
これらの他に、近くには生品神社、反町薬師、長慶寺など新田氏関連寺院が密集しています。
円福寺円福寺本堂。かつては新田次郎著の小説「新田義貞」の中で、『円福寺は、無住職の寺で、荒れ果てた境内の裏手を廻ったところに五輪の塔が数基並んでいた。……」と書かれた寺ですが、今は建て替えられた新しいお堂となっています。そのときの記事はここで
円福寺・十二所神社案内板円福寺・十二所神社案内板。
円福寺・案内板円福寺・案内板。この境内に新田氏累代の墓や国良親王の碑がある。画像は前回の記事で。
十二所神社十二所神社
円福寺境内・千手観音堂円福寺境内・千手観音堂。ほんとうに寂しいところです。何度も行きましたが、参拝している人や見学している人を一度も見たことがありません。そうそうぼろぼろの旗があったのもここでした。その時の記事
円福寺・堀口氏供養塔境内に新田一族・堀口氏供養塔もあった。

そして、台源氏館跡。
台源氏館跡・案内板台源氏館跡・案内板
台源氏館・台源氏館跡の碑台源氏館「新田義貞生誕地の碑」以外は何もありません。

本文に「該村を別所と称するは元由良村の部内にして乾に当たる御御陵近処を以て殊に別所と指唱せし」とある「別所」は現在地名として残っている。
別所町別所町
そして宗良親王が御座したとされる「宝泉」も地名として残る。
宝泉宝泉。宝泉小学校、宝泉中学校などもある。以前ご利益がありそうな地名と言うので雑誌に載っていた。確かに「宝の泉」はいかにも高貴な感じがします。
円福寺と宝泉円福寺と宝泉北幼稚園。後ろに見えるお堂が円福寺です。

円福寺周辺の案内板に書かれている威光寺とは新田義興の菩提寺。
威光寺 本堂威光寺 本堂

脇屋正法寺とは、脇屋義助の菩提寺「正法寺」のことで、児島高徳が義助の遺髪を届けた逸話等の記事、画像はここで
脇屋義助像境内にある脇屋義助の像。

宗良親王や国良親王の伝説は地元ではすっかり忘れられてしまっているが、丹念に調べてみると、その痕跡を見つけることができます。





「新田遷都」総まとめ  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第11回

新田義貞伝承を追う! 第11回目
前回からの続き「上州遷都論」こと「新田遷都論」の総まとめです。

まず新田荘のシンボル的存在「金山」の紹介から。
「新田金山(にったかなやま)は群馬県太田市金山町にある標高235.8mの独立峰である。山頂には「新田神社」や「金山城(国の史跡)」があり、南側下に太田市街地、北側下に北関東自動車道と同自動車道の太田桐生IC、東側下にイオンモール太田、西側下にはぐんまこどもの国が見え、さらには桐生市、邑楽郡大泉町、埼玉県熊谷市、栃木県足利市まで見渡すことができる。麓には「子育て呑龍」で親しまれている大光院がある。」(Wikipediaより)
金山城跡案内板

詳しい「金山」の説明は太田市ホームページにあります。金山城の説明は、
「標高235.8mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆されました。 主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山の砦の4箇所ですが、山麓にも、城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られます。」とある。

kanayama8.jpg
この金山の城の本丸があった部分には、新田義貞を祭神とした「新田神社」が建てられている。
明治8年創建。
金山・新田神社
神社の由来は
「公の裔孫新田俊純・地方有志と謀り、明治六年神社創立の許可を得て、同八年社殿を建築し、新田神社の社號を賜る。同九年縣社に列せられ、同十八年十月廿五日と翌十九年十月廿九日に 皇后(昭憲皇太后)陛下御参拝幣帛料御奉納あらせられ、同二十一年十月二十二日 皇太后(英照皇太后)陛下には使御差遣幣帛料御奉納御代拝仰付けられ、同二十五年十月十七日皇太子殿下(大正天皇)御参拝幣帛料御奉納あらせられたり。同四十二年十一月七日 皇孫殿下(今上天皇陛下)には学習院生徒の御資格にて御参拝幣帛料御奉納あらせられ、度々皇族方の御参拝辱ふせり。
 又昭和八年五月新田公義挙六百年祭執行の趣天聴に達し祭粢料を御下賜あらせられ、同九年十一月十三日今上天皇陛下には御使永積侍従御差遣幣帛料御奉納あらせられ御代拝仰付けられたり。同年十二月神社境内付近一帯は金山城址として文部大臣より指定せらる、同十三年五月二十二日御祭神殉節満六百年祭を奉行せり。 」とある。
http://kaguraden.blog11.fc2.com/blog-entry-419.html「プチ神楽殿」サイトより。(関東の神社についての詳細な記述があり、重宝しているサイト)
注目は、皇室の御参拝が何度もあったという点。
また、ここに、新田俊純の名が登場しますが、新田氏関連の史跡には必ずといっていいほど関わってきます。
そして、井上馨もこの「新田神社」と深い関係にあります。
国立国会図書館近代デジタルライブラリーにある 「金山 / 今泉訓太郎編,太田中学校校友会, 明治44年」には「明治四十三年六月三日井上卿参拝、新田神社の社格に就いて尽力せらるヽ……」とあり、また、「上州及び上州人」の大正6年 13号には、
「願うに新田神社を現在の懸社より別格官幣社に昇格せんと企望し、その請願したるは明治四十四年の事にして、もとより新田郡民倡首となり縣当局者之を翼賛し、中央に在りては侯爵井上馨氏又は男爵新田俊純氏の之を声援するありといえども、未だ之が貫徹を見るに至ざるに先だち井上候の薨去に会いたるは甚だ遺憾とする所なりき。<中略>  井上候無しといえどもまた決して憂ふべきに非ずと信ずる也……」とある。
ここにある「社格を上げる」とはどういうことなのかという説明の前に、まず別格官幣社の解説、
「1871年(明治4)神社の社格制度が「神社は国家の宗祀(そうし)」という理念の下に整備され、その一つとして官幣社が定められたが、翌72年に創建された湊川(みなとがわ)神社は別格官幣社とされ、以降逐次増加し、計28社あった。官幣小社に準じて待遇された。祭神は、国家的見地からみて功労があり、広く国民からの崇敬を受けている人臣であることが特徴であった。靖国(やすくに)神社もその一つであった。 」(小学館・日本大百科全書から)とある。
こうして南朝方の忠臣たちは、明治に入ると次々と別格官幣社に祀られることになる。
ただ、一人に一社という暗黙のルールがあった、と言われている。
新田義貞は、死地となった福井に藤島神社が建てられ、そこが別格官幣社となった。これに対して義貞の生れ故郷であり、新田氏の本拠地でもあった場所に建てられた「新田神社」も別格官幣社に昇格できないか、という運動が地元で沸き起こった。これはかなり盛んに行われたようで、戦前までかなり熱心に続いた。(「上毛及び上毛人」には度々この問題に関す記事が載っている。またこれに関連して児島高徳を祀る「児島神社」も別格官幣社承認を目指す運動があった。児島高徳の神社創建には、群馬県令・楫取素彦や高徳の末裔である子爵・三宅康保も協力したが、ともに実現されなかった)
金山・新田神社本殿新田神社本殿
これらの記事や前回に書いたところでもわかるように、井上馨が生前「新田氏遺跡」に対して大きく力を尽くしていたのが分かる。井上馨の死によって「新田氏関係者」ががっくりし、それでも俺たちが頑張っていこうというのが、この文面から読み取れる。新田氏関連史跡を作るにあたっては、まず新田俊純がその窓口となり、中央で大きな力を持つ井上馨が動くことによって実現されるという形になっていたようだ。「新田氏に関連することは井上卿に頼め」といった具合で、これだけでも十分に井上馨が「新田伝承」を引き継いでいた、といえるのだ。このあたりはシリーズ9回目で触れた。

そして、「上州及び上州人」大正7年・22号には、山崎衡による「洗冤史論 附貞媛紀事」という題名の記事が載っているが、その内容は、新田義貞の首塚や勾当内侍にまつわる伝承、その娘・山吹姫またその子・国良王についてのものだった。
その追記部分にこんな一文がある。
「本編は去る明治十七年、稿僅かに成りし、当時偶々参議井上馨、内閣大書記官金井之恭の両氏、前橋を過ぎられ、縣令楫取素彦氏の橋居楽水園に於いて邀讌を開かれし際、著述家山崎氏も亦之に陪し、談、史論に及びし時に、其稿本を清矚に供し、後亦命に応じ騰写して井上参議に呈したるもの、遂に二夜の覧に入るに至れりと云う。」
つまり、新田義貞や勾当内侍、新田荘にまつわる伝承などをまとめた資料を提出させ、それを二晩もかけて貪るように読んだということだ。
明治16年に井上が尽力した「鹿鳴館」ができたころなので、超多忙なころだったはずだ。(ちなみに明治16年に岩松満次郎こと新田俊純は男爵となっている)

この出来事が明治17年のこと。そして井上が唱えた「上州遷都論」は明治19年となる。
井上馨はこのとき何を知ったのか。
それがこの数年後「新田の地に帝都を作ろうと思い至ったのか」
その原因と思われるものを、これから、長々と引用していく。(あまり脈絡を考えずに載せているので、分かりずらいと思います。面倒だったら、「まとめ」まで飛んでください)
以下、伝説、伝承の類を羅列していくが、いまここで問題となるのは、それが事実であったのか、事実でなかったということではない。
井上馨がこういったことを知ったということだ。

では、まず浅田晃彦著「児島高徳と新田一族」 (群馬出版センター)から。
長いがその部分をそのまま引用しています。(本書ではさらに詳しく書かれている)
「群馬には、内侍は義貞の忘れがたみ山吹姫とともに新田郡へ来て余生を過ごした、という伝説がある。郷土史家は問題にしていないが、私はかなり信憑性があると思う。新田郡には五庵あるいは、御庵という地名が数か所あり、内侍の庵室のあったところとされている。また内侍の墓と称されるものが、五ヶ所もある。
内侍の墓 案内板内侍の墓 案内板
一つは新田郡尾島町武蔵島の柊塚である。ここには新田一族の墓と言われる五輪塔が並んでおり。明治の頃まで柊の大木があったが枯死したので、その跡に「古木柊之蹟」と彫った石碑が建ててある。内侍は髪を下ろして儀源尼となり、この柊の下に庵を結んで隠棲し、貞治四年(1365)二月一日に五十五歳で世を去ったという。以前は内侍の墓標と称する板碑があったそうだ。ここに儀源尼と山吹姫が住んでいたということは、地主である宮下家に伝わる古文書や遺品によって確かなことと思われる。
古文書は内侍が書き残した「儀源尼秘記」と山吹姫の「覚心尼秘記」である。前者には後醍醐天皇の即位から長慶天皇の即位まで、後者には興国元年(1340)から永享十二年(1440)末までの事項が書かれている。後者の表紙には「この書は正平九年より五百年間禁書なり」と添え書きがある。足利幕府の眼に触れることを恐れたのであろう。
遺品には義貞が護良親王から賜った綸旨を始め、義貞の木像(高さ七寸八分、具足を脱いで寛いだ姿。内侍が刻ませて仏壇に飾った)、釣舟花器、千島の香炉、鏡、松影の硯、檜扇、五ッ衣、宗良親王の色紙、銘天陣の槍、銘友成の太刀などがあったが、寛永年間に徳川家から提出を命じられたり、宝暦年中の火災によって失われたりしたという。
この辺りはその昔花見塚と呼ばれ、ツツジが一面植えられていた。義貞はここに壮麗な御殿を築き、帰国した際内侍を住まわせるつもりだったらしい。だがその夢は実現せず、内侍が来たときは御殿は破壊されており、ツツジだけが無心に咲いていた。そのツツジも江戸時代に館林に移植されて、ただの原野になってしまった。その中に花見塚神社という小祠がある。現在のものは宮下家で再建したもので、最初は宗良親王が正平元年八月十六日に後醍醐と神武天皇を合祀して創建したものだった。「花見塚神社」の額は宗良の親筆だったが、宝暦の火災で焼失したという。」
花見塚神社花見塚神社
(このツツジの伝承は、峰岸純夫「人物叢書 新田義貞」にも紹介されている。)
「宗良親王が上野へ下って内侍母子との関わりを持ち、新田の遺族や児島高徳と南朝の復興に尽力したことは後に述べる。内侍はその遺品から推察すると、朝廷に復活する望みを捨てていなかったようである。
宮下家は「宮下氏過去帳」によると、宗良とも、内侍とも、高徳とも血のつながりがある。足利・徳川幕府にとって煙たい存在だったと思われる。
明治になって南北朝史見直しの気運が起こり、宮下家の古文書や遺品が注目された。参議井上馨が調査に来て幾つかの品を持ち去ったという。初代群馬県令楫取素彦は歴史研究に熱心で、山崎衡に内侍の伝説を検討させ、根拠があるものと判定した。昭和3年花見塚に高さ2メートルに余る「勾当内侍遺墳碑」が建てられた。碑文によると内侍の墓としてここが最も信ずるべきものとしており、内侍を貞淑にして内助ありと賞賛している。」
勾当内侍の碑 花見塚神社勾当内侍遺墳碑

「宗良は以前にも上野には幾度か来ており「上野の宮」と呼ばれていた。宮下家の伝承によると、正平元年に武蔵島に後醍醐天皇を祀る花見塚神社を創建している。ここは勾当内侍(儀源尼)が隠棲した、柊庵に近い。正平七年のとき内侍は義貞の遺子で十七歳に成長した山吹姫(覚心尼)を夜伽に出した。姫は宗良の子を宿し、国良王が生まれた。足利打倒が成功すれば国良が宮廷に迎えられる日があったであろう。」
「(児島高徳の)末子の徳子(房子と書いた系図もある)も異腹である。これは高徳を看取ったあと、新田郡横瀬郷の豪族宮下野守入道南順の息子正治に嫁した。南順は備前で高徳と共に戦った間柄である。その死後正治は上野へ来て土着し、宮下を称したのである。その後も正治は南朝の後ろ盾となり、宮下家に「儀源尼秘記」「覚心尼秘記」が伝えられた。」

などまず勾当内侍、山吹姫の逸話を中心に引用してみた。このあたりは「東毛奇談」「新田義貞伝承を追う!シリーズ」で書いてあるところ。

次は、宮家史朗著「児島高徳実在論」から、
「児島高徳の没した年月日を記したものは、三宅家の青銅霊碑、正伝記並びに高徳寺の霊碑であるが、これ以外に宮下家が蔵する「南北朝新田覚心尼秘記」「宮下氏過去帳」がある。
これらの原本は豊臣秀吉の時代、代官の伊奈半左衛門によって没収された。しかし当時の宮下氏の人たちが没収されることを予知し、後世に残さんがため、書写し今日に至っている。 
「義源秘記」は興国元年国良親王が遊行上人の弟子になる時より、永享十三年将軍足利義教が赤松満祐に殺されるまでが書かれている。」
「元中二年(1385)、遠江井伊谷で崩ぜられた宗良親王が御記念として井伊谷より国良親王の御母へ贈られた槍、銘「天陣」と刀、銘「友成」は、寛永年間、徳川幕府からの提出の命により献じられたという。」
などといったものがある。これらから分かるのは、時の権力者が関心を寄せ史料や遺品を提出させていること。それらが今は失われているため、確証が取れないということだ。

次が入内島一崇著「南朝 児島高徳」で、これが1000ページに近い大作。(読むだけでも大変だった。) ここからいろいろ抜き出してみた。
まず、新田氏没落後、新田荘を支配していた岩松家が何故、勾当内侍や義貞の子・山吹姫、その子国良王を黙認していたのか、という理由らしきものを引用。
「新田・足利両氏と濃い血縁関係にある岩松氏は、北条時行による中先代の乱以後、足利方に組した恩賞として、新田荘の支配権を幕府から認められていたが、同荘を円満に統治する為、宮方新田庶流が庇護する南朝後胤や大覚寺統公家、及び他国より流れて来た南党武士が、不穏な働きさえ示さなければ荘内に居住する事を黙認して来た。
今、もし、長慶天皇の皇子である上野宮尊良親王が江田に居るのを知っていた事が将軍義満の耳に入ったならば、如何なる科が岩松氏に加えられるか想像に難くない。さりとて、容赦なく摘発すれば、新田一門並びに領民の猛反撃を食い、良くて相打ち、ややもすれば返り討ちにあう危険もある。」

「岩松氏は新田義兼の娘と足利義純の間に生まれた岩松時兼を祖とする家系で、新田と足利双方に近親を持つ特異な武士である。元弘三年の新田義旗上げの時には、当主経家は新田宗家に従ったが、中先代の乱で経家が武蔵国女影において討死するや、後を嗣いだ弟の直国は、足利氏に走った。この功により、足利尊氏は新田荘の支配権を岩松直国に与えた。しかし観応の擾乱では岩松は直義派に組し、直義誅殺後は上杉憲顕とともに南朝に属したこともある。相伝の地を保つ為に転々と主を換えながら一生懸命努力した直国は、いつしか複雑な性格の持ち主となった。
「鎌倉大草紙」に「至徳二年乙丑三月新田相州陰謀の回文、上州武州の兵を催さるゝ、梶原美作守代官2里召捕、新田の安養院の別当并寺僧一人をば岩松治部少輔入道法道(直国の事)搦進す」と記されている様に、足利氏被官として新田氏の残党狩を積極的に実行しているかと思うと新田義貞の孫を自分の孫として育て上げ満純の名前を冠したり、自領である岩松領の青蓮寺を仲介にして宗良親王の皇子である国良王を時宗遊行寺へ疎開させるなど、南朝方貴人を公然と庇護しているのである。たぶん、直国は新田荘の中では南朝に理解ある態度を示し、鎌倉府にあっては情け容赦の無い武断派として振舞っていたのだろう。
直国の性質を知り抜いている管領上杉憲方は岩松直国を宗良親王の監視役に据え、もし宗良親王が新田荘で兵を募って荘外に出たならば、岩松も南朝方に与力したと見なして厳重に処断すると通告した。」
江田館跡(南朝方が居たとされる「江田館跡」)

その岩松家は、義貞と勾当内侍の子である山吹姫と、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の間に生まれた子、国良親王を積極的に匿っていた。
以下の引用。(本書ではかなり詳しく書かれている。ここでは一部のみ引用)
「時宗第二世他阿真教上人により開山したのが新田荘岩松の青蓮寺である。岩松氏をはじめとする新田諸氏が熱心な時宗の檀家となり、総本山である遊行寺に対しても鎌倉時代を通して永らく寄進を続けていたので、国良王と新田貞氏(義貞の孫)が得度して時宗の僧となり、総本山に修行の為に来る事に関して異論をはさむ者は寺内には一人もいなかった。遊行寺は又、北朝や幕府にも尊崇されていた為、その境内は治外法権が認められ、鎌倉府たりともその法域を犯す事は許されなかった。
正平四年三月、藤沢遊行寺より新田荘へ戻り、還俗後、姓を宮下と改めて南順の娘と結婚した国良王は、母や祖母の願いもあって、横瀬郷で人目をさけながら平穏な生活を営んで居たのに、同年十二月、上野国おける足利方退潮の気運に乗じて父祖の地にある新田荘寺尾城奪回の為、上州帰還を果たした新田義治が、上野、下野、武蔵の国の南党糾合の象徴として南朝征東将軍宗良親王の嫡男である国良王を推戴する事を決めた。」
国良親王御陵塔国良親王御陵塔は新田累代の墓がある円福寺にある。
国良親王についてはまだ伝承があるが、このあたりだけに今は止めておく。

さて、新田氏残党と戦った宗良親王はどこに本拠を置いたのかといえば、それが「金山」なのだ。
以下引用。
「金山を實城寺(じつじょうじ)と号したのは、吉野内裏の奥に實城寺にならってのこと。
正平4年(1349年)正月楠木正行四条畷に師直に敗れ、師直勝に乗じて吉野行宮などを焼き払ったがこのころより南朝の皇子各宮並びに楠木一族など南朝一味の人達の数多くが上野国新田郡に吉野方面より移住し、正平から弘和年間に至る四十余年の間は金山実城は恰も南朝軍の謀略拠点の観を呈していたに違いない。吉野の実城寺は蔵王堂の西側にあって延元元年(1336年)後醍醐天皇が吉野に潜幸された時に皇居として入られた処である。
今日でも、太田市(群馬県)の古老の人達は同市の中央にある金山を「実城」と呼んでおり、同市の円福寺には「新田実城応永記」が蔵されている。」

そして、高徳が何故この邑楽郡古海村を選んだのかという地理的立地条件からの記述を引く。
「邑楽郡古海村は坂東太郎利根川の右岸の平野部にあり甲武の連山を遠くに眺め、西南には遥に富獄の雲表に峠(そばた)つを望む処に在り、昔醍醐、朱雀両天皇の時代より、下野大掾長門守藤原村雄公及びその子田原藤太秀郷の誕生地である青柳庄赤岩村とは東西に隣接し、利根川の北側にあり、村雄並びに秀郷朝臣の領地であった。藤姓の一族である佐貫、赤岩両氏は交互にこの古海村に住み、秀郷以後は古海太郎の領地となり、利根川の南側(武蔵国、今の埼玉県)方面よりの敵を防ぐ最適の要害地であり、且つ古海村は古い時代から明治初期に至るまで渡船場として物資の往来も盛んで経済的にも栄えた処だった。
高徳は北朝勢をこの地に防ぎ、背後の新田金山実城と新田地方の防衛には絶好の要害の地であった。
在郷の藤氏や近隣の新田流庶家の救援を計算に入れ、高徳は独自の判断でも動員できる軍事力を上州、武州にまたがる強大な本山派修験道勢力を身近に保有していたのである。「上野国本山山伏名所記」によると、中世、上州にあった本山派修験は333院を数え、その内、古海が属する邑楽郡だけで総数57院を占めていたという。これは武蔵国でも同様で、埼玉県の場合は本山派が圧倒的に勢力をもっていた。」
児島神社や、高徳寺などは、「新田義貞伝承を追う!シリーズ8回目」で確認してください。

また南朝第三代・長慶天皇も「金山」に伝承を残している
「第九十九代後亀山天皇に譲位し、長慶天皇は落飾して覚理法皇と名乗った。
八板千尋「大楠公秘史」、三浦義煕「長慶天皇記略」などを参考にして推量するに、伊勢大湊を出航した長慶天皇は、三河国望王里に寄港した後、駿河国吉原浜に着き、そこから陸行して甲斐国富士谷を経由し、六月頃上野国新田荘に着いたものと見られる。
正平二十四年の沼田合戦において総帥義宗が討死し、副将脇屋義治も出羽へ落去したまま行方知れずとなった新田荘では、人々は息を殺しての日々を送っていたが、長慶天皇の出現によって、驚きと喜びの混じり合った興奮状態が生じた。
荘内に残る一族長老達は長慶天皇を取りあえず金山城へ案内した。ここは東毛地方屈指の堅城であると同時に新田荘の中央部に位置していた為、長慶天皇の御座所には最適の場所であった。長慶天皇は、ここを後醍醐天皇が吉野に潜幸された折に皇居と定めた吉野の実城寺になぞられて「金山実城」と改名した。
長慶天皇の上州潜幸が各地に雌伏している新田諸将へ伝えられるや、彼らは拝謁の為、続々と新田荘へ集まって来た。中でも長慶天皇を喜ばせたのは、新田義宗の遺児・貞方と脇屋義治の嫡男・義則が姿を現した事である。
<中略>
長慶天皇は児島高徳を通じて新田諸将並びに上信越武に点在する宗良親王恩顧の武将を金山実城に呼び寄せ、軍議を催した。」
太田市ホームページの説明にもあるように、現在も「実城」の名が残っている。
kanayama.jpg
また「新田覚心秘記」建徳2年(1371年)の条に、
「長慶法皇出羽国羽黒山ニ籠居ス。児島志純後村上天皇ノ遺詔ヲ奉シ、三種神器ヲ江田帝ニテ上野親王ノ御許ニ渡シ奉、児島志純古海郷ニ軍中守護ノ尊像ヲ安置ス、後神器ハ征西将軍懐良親王御許ヘ返シ玉フ。」
高徳が後村上天皇の勅を拝して三種の神器を上野国に持参した、それが一時的に金山実城に移されたというのだ。
さて、ここに登場する神器とは「燼余八咫鏡」(じんよやたのかがみ)のことである。
入内島一祟によればこれは「延元元年十月十日、足利尊氏ととの戦いに敗れ、比叡山を降りて京都還幸を決定した後醍醐天皇が、前夜、恒良親王に譲位し北陸へ落ち延びて新朝廷を樹立する様に命じた折、護持役の児島高徳と共に恒良親王に授けられたが、恒良親王・新田義貞の非業の死によって北陸南朝の夢が破れ、脇屋義助・児島高徳が越前での苦闘の数年後、皇国三年に吉野南朝へ帰参した際、後村上天皇に戻された曰くつきの神器であった。そしてこの鏡の存在は後醍醐天皇存命中より極秘にされたので、文中二年八月の事件当時、(楠木正儀が南朝御座所・天野金剛寺を攻め、長慶天皇に譲位を迫った事件) 南朝内で真の神鏡を知っているものは、長慶天皇、四条隆資の子である隆俊、そして児島高徳のみであった。 金剛寺より長慶天皇を守って脱出し、安全地帯である吉野に辿り着いた児島高徳は、当然のことながら真の神鏡を携帯していた。」
とある。
この謎の神器は、新田義貞の北国落ちのときに、児島高徳が持っていたことになる。しかも、脇屋義助とともに越前を離れるときも持参していたことになる。
義貞死後から越前の弔い合戦、吉野へ向かうまで時期が本来の「太平記巻二十二」にあたるわけだが、これが存在していない。
その辺りの記事
実は、そこに書かれていたのはこの神器のことではないか、と私はにらんでいるんですが、まあこれは別の話なので、後日。(私のハンドルネーム「消えた二十二巻」はここから取ってます。)

またもう一つ「長慶寺」という重要な寺がある。
長慶寺・標識
「児島高徳実在論」の説明では、
「新田郡新田町大字綿打字六句に長慶寺(新儀真言宗)がある。同寺寺伝によると、昔四条天皇の御代、延応元年(1239年)慶弁和尚によって創建された。元弘年間、新田義重の四男四郎義俊に帰依して祖先新田又太郎政氏入道関了の霊を本小字六句の地に祭り関明神と号す。<中略>慶弁和尚開山当時の寺名は「田中山宝光寺」(放光寺の説あり)と号していたが、長慶天皇の御座所になってから御名を取って「長慶寺」とした」とある。
長慶寺・本堂
また寺の案内版には
「田中山長慶寺由来記
茶聖千利休の由来書によると千家はもと田中姓を名乗り新田義重の男里見太郎義俊の五男田中五郎義清が末孫なりと伝えられている。
群馬県古城塁址の研究(山崎一著)によると田中義清は本村に居住し長慶寺はその義清の館跡であるとしている。(新田町史二巻より)
かつては七堂伽藍荘厳にして大いなる山門ありしも新田氏滅亡の後は廃頽し遂に取り崩し往時の面影は宝篋印塔を残すのみになった。
長慶寺の名の由来は南朝第三代長慶天皇を新田一族が奉じて戦ったため長慶寺はその伝承の御陵塚を祭る祭主なるを以て放(宝)光寺を長慶寺と改号せりと伝えられている。
元久二年(1205年)新田義重の男新田義兼は新田庄十二郷の地頭になっているが、その中に田中の地がある。この田中・岩松・下今居の地を相続したのが義兼の後家新田尼であると健保三年(1215年)の鎌倉幕府所下文に記録されている。(正木文書)
その十一年後の嘉禄二年(1226年)に岩松郷は新田尼の孫岩松太郎時兼が地頭職を譲り受けているが田中郷は記されていない。 従って田中郷は変化なく里見系田中に続いたと思われる。故に長慶寺は里見系田中五郎義清の館跡と裏付けられる。」とある。
長慶寺 案内図長慶寺 案内図
伝・長慶天皇の墓伝・長慶天皇の墓
これは当ブログでは「千利休は新田一族か」の記事で書いている。
新田系田中氏は、越後に多くいたことから、「天地人」にからめて少し書いている。http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-453.html

また「児島高徳実在論」の本文に、
「明治4年郷土史家藤生竹松氏「新田勤王士」のなかの「長慶寺旧跡現在記」によれば「長慶寺に朱雀、玄武、青龍、白虎の四方門構えがあった。<中略>この四神相応の地相のところは、絶対の理想地で最も貴いものヽある所として、その中に葬られた墓の主は最高の貴人であることヽ受け止められていた。この四神思想に基づいて、長慶寺に昔、四つの門があった事は、こヽには最高の貴人の居住したか或は墓にあった事を物語っている.。」とある。
やはり何らかのものがあったのだろう。

また一説には普門寺(旧尾島町世良田)境内にある「落歯塚」が、長慶天皇の墓だという伝説もある。

それに、「群馬縣庁文書」による「新田郡に於ける両皇子の墳墓」の記事もあった。これは次回に書き起こしてみる。

さて「まとめ」です。
1、、義貞と勾当内侍の子である山吹姫と、後醍醐天皇の皇子である宗良親王の間に生まれた子、国良親王が新田荘にいたという伝説がある。
2、宗良親王や長慶天皇が新田残党と隠れていたとき、一時「金山」を本拠にしていたという伝説がある。(また長慶寺の伝承もある)
3、それらを先導していたのが児島高徳であったということ。
4、そこに「燼余八咫鏡」という神器の伝説もあるということ。
5、足利方である岩松家もそれらのことを黙認、また積極的に関わっていたということ。

無論、これは伝説に過ぎない。
しかし、これらの伝承を井上馨は知ったことになる。
私は、岩松家はもし万が一のことがあれば、「国良王を推戴して」という野望をもっていたかもしれないし、または何らかの切り札のつもりで懐に匿っていたと、考えている。
岩松氏はそんな伝承を秘めた一族なのだ。
そして重要なのは、井上馨はそんな岩松家の末裔を妻としたのだ。
明治時代は、南朝を正統とした政策を取っていて、南朝の天皇に非常に関心が高まっていた。しかもこれは政治問題だった。

そう、考えていけば、井上馨は、南朝方の伝説が残る場所に帝都を築こうとしていたのではないか、と思われる。
でなければ、わざわざ新田荘を中心とした帝都計画を考えるだろうか。
となれば、皇居はどこになるのだろうが、当然のように「金山」しかないだろう。
関東七名城、日本100名城にも数えられ、上杉謙信の攻撃にも落城することがなかった堅城のあった場所。(東京は海に面し、平地であるので皇居を守りずらいというのが、遷都の理由の一つでもある。)
また、関東平野に浮かぶ低山は、何よりも見晴らしがいい。(関東平野の北限で、関東を一望することができ、東京を見下ろす位置にある。) 
関東の地図 南北逆転(関東の地図 南北逆転した図、見づらいですが感じだけでも)
「天子南面す」といわれるから、絶好の位置といえる。

もし井上の「新田遷都案」が実現されたら、
現在の金山からの景色も
金山からの眺め
もしこの地に帝都が築かれていたなら、
東京タワー

こうなっていたかもしれない。

そして、しみじみ関東の地図を見て、はたと気付いた。
そうか、金山は「四神相応」になっているのか~。
北が山、南が湖(大きな水源)、西が大道、東が川。
鬼門があれで、裏鬼門があれか……。
なるほど。

というわけで、次回に続く。
これでやっと「天海」に戻れる。

天地人って その2。 やはり昔の大河ドラマは重厚だった。

前に書いたところからまず状況説明。
「会社での私の昼休みは、午後の1時から。食堂兼休憩室で、昼食をとることになる。正社員やパート・アルバイトはそこで休憩するのだが、そこには古ぼけたブラウン管のテレビが据え付けられていて、食事を取りながらみんなでテレビを見るわけだ。ただチャンネル権は、我々社員にはない。
リモコンは、パートのおばさん達が握って放さない。どんなに大きな事件が起ころうとニュースを見るわけでもなく、大雨で天候が悪くても天気予報にチャンネルを回すことはない。」

といったわけで、今日は何とNHKの「天地人」を見ていた。

前にも書いたように「天地人」はクソだと思っているので、見ないようにしながら食事をしていたのだが、やはり耳から入ってきてしまう。仕方ないので我慢して見た。そのときの記事。
そして悪夢のような10分間が始まったのだ。
放送していたのは、第24話の再放送分。
もう、食べていたご飯が飛び出そうなくらい不愉快だった。これこそまさに文字通りの「噴飯もの」だった。
とりあえず見たのは、食事の時間の10分だけだったが、そのまま全部見ていたらアドレナリンが炸裂して発狂してしまうかもしれなかった。
で、最初に見たシーンは「福島正則がおなごに投げ飛ばされる」というもの。
しかもスローモーション。
考えてもみよ。武将がおんなに投げ飛ばされるなんてことは、例え酔っていたからといってありえない。武士は何よりも「面目」を大事にする。もしそんな目にあっていたら、戦国の世、だれも部下がついてこないだろう。それが噂となれば外も歩けないほどで、自身の名誉を守るには腹を切らなければならない。武士にとって自身(家)の名誉・面目が保たれないことほど恥ずかしいことはない。(時代小説ではそんなシュチュエーションはよく出てくるだろう) ここでは、そういった考えもなしに、女が武将を投げ飛ばしたらいかにも「爽快」だろう、といった安易な思い付きだけしかないように思える。
しかもこれがただの足軽とかではない、猛将・福島正則だ。私はこういった一本気の武将は大好きなので、こんなシーンを入れ込む自体許せない。
つまりこの脚本を書いている人物は「武士」は何たるかを知らないのか、あるいは軽んじているようだ。
たとえば、このシーンだって、この女(木村佳乃)が福島正則の手を押さえ「そんなご無体をなさいますな」といってクッとほほ笑む、その表情を見て福島正則がたじろぐといったことで済む場面ではないのか。
それを女が武将を柔道の一本技で投げ飛ばすとは……。

また別の場面では北条氏政が恨み節を繰り返して、あまりも悔やしくて悔しくて、茶碗を何枚を投げるという場面があった。
おいおい、幼稚園児かよ。そんな分かり易い表現はないだろう。
北条氏政は、武田信玄や上杉謙信にも匹敵する名将だと私は思っているので、これも許せない。それを直情型のバカに描いている。福島正則もそうで、つまり主人公側でないものを馬鹿に描くことによって、主人公たちを際立たせようという手法を使っているわけだ。
私はその昔「シナリオ教室」というものに通ったことがある。そのときに、こういった手法はプロの作家が使ってはいけないと最初に教わった。まさしく安直な方法なのだ。怒っていたら「俺は怒っているぞ」と言わせ、悲しければ目薬を垂らしたような涙を浮かべて泣かせてみせる、こう見ると、ほんとうに「天地人」はドラマに深みがない。
しかもそのあとは、役者たちの会話のシーンが長々と続くが、そのセリフのほとんどが、物語を進めるための状況説明と感情をそのまま語らせるものばかりだった。つまり、物語を登場人物のセリフを介して説明しているだけなのだ。(それならば本をそのまま朗読するだけでいい。ドラマにする意味がない)
私が基本として教わったのは、①感情表現をそのまま書かないこと。②登場人物のセリフで状況説明をさせないこと。③主人公をよく描こうとして、周りの人物を愚かに描かないこと、といったことだった。それらの悪い手法を「天地人」は見事なまでに使っているのだ。
まるで本当に初心者が書いているようなもので、たぶん私が見た場面をそのまま書いて、シナリオ教室の先生のところへ持っていったら、「人物が描かれていませんね」「ドラマがありませんね」と真っ先に怒られるだろう。
だから、素人の私から見ても、「天地人」はすでにドラマとしても成り立っていないのだ。(時代考証なんて以前の問題だ)
私が見たのは10分だけだったが、それだけでもこれだけ最悪なのだから、他も推して知るべしで、視聴率は良いが評判が悪いというのは、然もありなん、といったところか。

あまりものムシャクシャしたので、夜、前にニコニコ動画見つけた大河ドラマ「太平記」の動画を見た。

(大河ドラマ史上最高傑作といわれる「太平記」第21話の一場面)


(「太平記」最終回、今や伝説となっている高嶋弟と真田広之の「神」演技)
いいですね。見入ってしまう。
ここには安っぽいCGも、押し付けがましいBGMもない。
私が見たいのはこういう重厚な人間ドラマです。

追記 この動画で「兄と弟」の葛藤が見られます。前に書いた「足利尊氏=マイケル・コルレオーネ説」の補足になっています。また映画ゴッドファーザーで有名な「権力の継承」の場面も、大河ドラマ「太平記」の中に同じようなシーンがありました。(マーロン・ブランド=緒形拳→アル・パチーノ=真田広之)
この説、私は結構気に入ってるんですが……、あまり反響はない、残念。

新田義貞関連ニュース、福井の方々に感謝します。その2

グーグルニュースアラートで拾った「新田義貞関連ニュース」

平成21年6月18日 中日新聞からhttp://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20090617/CK2009061702000006.html

人気広がる「勾当玉女」 南越前・花はす公園生まれ

南越前町の花はす公園で生まれた「勾当玉女(こうとうのぎょくじょ)」が、かれんな姿とネーミングで人気を集め、県内各地で栽培が広がっている。
 勾当玉女はピンクと白が交じり、開くと25~30センチになる。今年は開花4年目で、公園で開発した新種の第1号。公園近くにあった杣山(そまやま)城に武将新田義貞(1301-38年)の妻、勾当内侍(ないし)が隠れた伝説にあやかり、地元の写真家落井一枝さん(59)が名付けた。
 福井市新田塚町には国の史跡「燈明寺畷(とうみょうじなわて)新田義貞戦没伝説地」があり、昨年夏、落井さんが地元の明新まちづくり委員会とともに、伝説地に切り花を手向けた。酒井三樹雄委員長(80)は「美しい上、ロマンがある。公民館でも育てたい」と、公園からレンコン3株ほどを譲り受けた。福井市灯明寺町の公民館敷地に小さな池を造り育成。現在、芽が出てきたという。
 福井市毛矢3丁目の藤島神社も今年4月、レンコン6株を受けた。「茎が伸びて葉をつけてきたところ。育てるのは難しいと聞いている。うまく咲いてくれれば」。祭神は新田義貞。妻の名を冠したハスがあることを知り、落井さんに連絡。境内にポリタンクを埋め込んだ1平方メートルほどの池を造った。
 勾当玉女は、花はす公園でも8月に開く見込みという。勾当玉女のほかにも永平寺(永平寺町)には「太白天(たいはくてん)」など紅白の2種、県庁には「杏花春雨(きょうかしゅんう)」などピンクや白の5種を株分け。この夏に花開くという。

 南越前町中小屋の花はす公園では、7月4日~8月9日、恒例の「はすまつり」を開催。世界の約120種が順次楽しめる。
 (持田則子)


元サイトに画像あり。
きれいな花です。
やはり福井の方々は「新田義貞」贔屓ですね。
美しい花を見て「勾当内侍」を連想して、それにあやかって名前を付けるのですから。
感謝します。

関連記事http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-505.html

読売新聞「五郎ワールド」に感動。

父の日が近づいてきて、新聞各紙も関連させた記事を載せている。
そんな中、ちょっと感動した逸話を書いた記事があったのでそのまま転載します。
平成21年6月13日 読売新聞 解説面「五郎ワールド」 特別編集委員 橋本五郎

「父なるもの」

父親とはいかなる存在なのだろうか。「父の日」を前に、思いを馳せるとき、すぐ浮かぶのが元首相、大平正芳である。大平には「長男正樹との永別」という慟哭の文章がある。
大平正芳は1964年8月、難病であるベーチェット病で26年の生涯をとじた。右目は失明状態、足の神経も侵され、歩行中にバランスを失って倒れることが幾度もあった。死淵に近づきつつある苦悩の毎日だったにもかかわらず、ひたすら外相である父の健康を案じ、こまごまと家族に指示した。
<私の健康に対する配慮は妻以上であった。祖父に対するいたわり方も格別なものであった。弟妹に対しては、その欠点を指摘するよりはむしろその長所を賞めて、よく励ました> 
キリスト教が日本に渡来した頃、若年ながら従容として殉教死したパウロ・ミキという少年がいた。正樹はこの少年にいたく傾倒していた。「パウロ・ミキ大平正樹」。父はそう書いた小さな墓碑を立てた。最愛の友でもあった父としての最後の贈り物だった。
<正樹との永別。それは私が夢にだに考えなかったことである。しかるに非情にも、それは動かし難い現実となった。凡夫である私は生きる希望と情熱を失いかけた。彼はなにものにも代えられない、私にとっては全部に近い存在であった。 重い鉛のような悲愁が、鋭利な刃物のような力で、今なお私の胸を刺し続けている。時日の経過によっても、その力は一向に衰えをみせないのである>
深く結ばれた父と子。これほど悲しみに満ちた表現があるだろうか。
大平には、婦人の権利拡大に生涯を捧げた市川房枝さんとの「結婚問答」がある。1979年1月31日の参院本会議でのやりとりは、政治記者として忘れられぬ光景の一つである。
市川 「総理はお嬢さんに、昔から『おなごは勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい』と言っておられたそうだが、今もそのお考えか。もしそうなら、婦人問題企画推進本部長は落第だと申し上げざるを得ない」
大平 「私が娘に、早くお嫁に行けと申し上げたのは事実でございます。娘を持つ父親と致しまして、できるだけ早く良縁を得て身を固めてもらいたいという念願を持っておりました。『女に学問は要らない。早く嫁に行け』という言葉は、ご批判をいただく余地が十分にあると思いますが、早く嫁に行って、全体として女の幸せを追求してもらいたいという父親の気持ちをお汲み取りいただきたい。 婦人は男性より物事に誠実でございます。道義の感覚に鋭敏でございます。とりわけ子供をもうけるなどという手応えのある人生経験は男にはできないことでございます。私は女性を尊敬致しております。
付け加える何ものもない。私も娘を持つ父親になってその思いを一層強くする。

石橋湛山元首相の次男、海軍主計中尉石橋和彦は敗戦前年の1944年2月、全軍が玉砕した南太平洋クエゼリン島の激戦で戦死した。 湛山は泰然としつつ、悲痛な覚悟を歌にした。
「此の戦如何に終わるも汝が死をば父が代わりて国の為生かさん」
自由主義者湛山は第二次世界大戦中、徹底して軍国主義の圧迫を受けた。次男の死が伝えられて1年後、戦死の公報が届いたとき、湛山は言い切った。「私は軍部及びその一味から迫害を受け、東洋経済も常に風前の灯だ。その私が今や愛児を軍隊に捧げた。私は自由主義者ではあるが、国家に対する反逆者ではないからである」
芳賀綏東工大名誉教授は憂国の書「威風堂々の指導者たち」(清流出版)の中で、「剛直な言論人」湛山の姿を余すところなく伝えている。
「愛国と合一を説く正統自由主義者の言。その重みに打たれず、その心事に涙せぬ者は湛山の人と思想を解さぬ者。語る資格のない者である」 ここには凛とした、微動だにしない「強い父」の姿がある。「厳父」の品格がある。
1956年12月、自由党総裁公選の決選投票で、岸信介にわずか7票差で逆転勝利した湛山は翌年1月8日、自由党総裁としての第一声を東京・日比谷公会堂であげた。
「民主政治は往々にして皆さんのご機嫌を取る政治になる。国の将来のためにこういうことをやらなければならぬと思っても、多くの人からあまり歓迎せられないことであると、つい実行することを躊躇する。 私どもが四方八方のご機嫌取りばかりしておったなら、これは本当に国のためにはなりませんし、本当に国民の将来のためになりません。私どもは所信に向かって、ご機嫌取りはしないつもりであります」
政権交代をかけた衆院選を前に、政党の人気取り競争に拍車がかかりそうな気配だ。
病気のため湛山は首相就任2カ月で退陣を余儀なくされた。しかし「オベッカ政治はやらない」という湛山精神は、政治リーダーの核にあるべきものとして、時代を超えて継承されなければならない。
以上が引用。

私も娘を持つ父親なので、この気持ち分かります。
また、Wikipediaにこのエピソードが載っていて、「長女に対して口癖のように「女子(おなご)は勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい」と語っていたとされ、こうした言動が『婦人公論』誌で長女により明かされたところ、国会で市川房枝により女性蔑視として厳しく追及された[67]。政治とは直接関係のない話題での追及に大平は顔をくしゃくしゃにしながら苦笑しつつユーモアたっぷりに答弁し、議場は大爆笑に包まれた。 」となっていました。

この「五郎ワールド」月1ぐらいの割合で掲載される。これが結構いい話、感動話が載っているので、いつも読んでいる。
ただ、これ読売新聞オンラインにもでていないので、過去のものが読めない。
まとめて書籍にしてくれないかな~。

勾当内侍が新田義貞を訪ねていく場面で、私の中でいつも鳴り響く曲があります。

嶋津義忠「楠木正成と足利尊氏」(PHP文庫)を読んでみました。
php文庫 楠木正成と足利尊氏
解説等はこちらでhttp://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=978-4-569-67270-0
新田義貞及び新田一族ファンの私にとっては、この時代の小説を読むのには勇気が要ります。
なにしろ楠木正成を主人公にしたもので、義貞をよく描いたものは、ほとんどといっていいほどないからです。(ほとんど無能に書かれているのものが多く、正成の死が義貞の所為にされているのもがほとんどだ)
特に、北方謙三の「楠木正成」は酷い。この新田一族への悪意ある描き方には、もう読んでいる最中から沸々と怒りが……。そして読み終わった瞬間に壁に投げてしまいたくなるほどだった。(図書館で借りた物なので実際にはしませんでしたが…)

ということで、おそるおそる嶋津義忠「楠木正成と足利尊氏」を読んでみた。
まあまあ普通でした。
義貞に関しては記述が少ない(挙兵から鎌倉幕府を倒すまでが数ページ)し、そんなに悪くも書いていない。
ただ、この本のラストに興味を引かれた。
義貞が討ち死にしたがそれを知らずに、勾当内侍が義貞の元を訪ねていく。そこで義貞の死を聞いて嘆き悲しむところで物語は終わるのだ。(このあと尊氏が将軍になった、という文が数行続くがそれは事後説明でしかない)
勾当内侍が最愛の人に会いに行って、その死の報を聞くという終わり方は、結構多い。
前回の浜野卓也「新田義貞」や新田次郎「新田義貞」もそうだ。
山岡荘八の「新太平記・第5巻 義貞戦死の巻」は、後醍醐天皇の死も、尊氏の将軍就任も描かずに、勾当内侍が義貞に会いに行く場面で、山岡版「太平記」は終了してしまうほどだ。
山岡版「太平記」5巻
やはりこの場面は、物語りの締めくくりとしておさまりがいいのだろう。

唐突ですが、私はこの勾当内侍の場面を読むと、どうもMISIAの 「Everything 」を思い出してしまう。
「すれ違う時の中で あなたとめぐり会えた……」で始まるあの歌です。(ドラマ「やまとなでしこ」のテーマソング)
歌詞はここで、http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND12633/index.html
また、AIの「Story」も頭の中で響いてしまう。
歌詞はここで、http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND25476/index.html
また、平原綾香の「Jupiter」も思う浮かべてしまう。
歌詞はここで、http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B05685
3曲に共通するのは、「時空を超えて結びつく絆」を歌っている点です。ここが私の中では勾当内侍と義貞に結びついてしまうようです。
歌詞をよく読んでから、太平記巻二十「義貞討ち死に」の場面を読むと分かると思います。

北朝鮮がロケットを発射する日は、後継者が決定した日だ。ただし、あくまでも私の予想。

北朝鮮情勢について。
以前「ロケットは男性器の象徴!? 北“テポドン祭り”計画」の説を取り上げたことがありました。
この説が正しければ、
北朝鮮がロケットを発射する日は、後継者が正式に決定されるか、それが公表される日か、のどちらかになるでしょう。
後継者が決定となれば、国を挙げての「ハレ」の日となるはずで、北朝鮮の習性(?)からいって「祝砲」(=ミサイル)を撃つと思います。ただしこれは今までのもよりもかなり強力なものかもしれません。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090613-00000069-jij-intから

ウラン濃縮着手を表明=プルトニウム全量兵器化-安保理決議を非難・北朝鮮
6月13日15時24分配信 時事通信
【ソウル13日時事】北朝鮮外務省は13日、国連安全保障理事会による北朝鮮の2度目の核実験に対する制裁決議採択を非難する声明を発表した。その上で、軽水炉建設のために「ウラン濃縮作業に着手する」と表明。また、新たに抽出されるプルトニウム全量の兵器化を行うとも宣言した。朝鮮中央通信が報じた。
 北朝鮮がウラン濃縮作業を公式に認めたのは初めて。同国はこの中で「核(計画)放棄は絶対に徹頭徹尾あり得ない」と強調しており、2003年8月に始まった6カ国協議による朝鮮半島の非核化プロセスは崩壊の危機に立たされた。
 声明は「自らの軽水炉建設が決定され、ウラン濃縮技術開発が成功裏に行われ、試験段階に入った」と主張。核兵器につながる高濃縮ウランについては言及していないが、ウランによる核開発を本格化する可能性がある。


http://news.www.infoseek.co.jp/topics/world/n_northkorea3__20090613_17/story/20090612_yol_oyt1t00564/から

「英明な同志」金正雲氏を偶像化、後継ほかになしと米韓当局 (読売新聞)
【ソウル=竹腰雅彦】12日付の韓国紙、中央日報は、米韓消息筋の話として、両国の情報当局が、北朝鮮の 金正日 ( キムジョンイル ) 総書記(67)の三男、 正雲 ( ジョンウン ) 氏(26)が国内で「英明な同志」と呼ばれていることを確認し、金総書記の後継候補は正雲氏のほかにいないとの結論を下した、と報じた。
 同紙によると、韓国の国家情報院や米中央情報局(CIA)などが11日までソウルで開いた情報交換を目的とした会合で話し合われた。情報当局関係者は、正雲氏の呼称について、「賢明な指導者としての偶像化を意味する」と指摘した。
 正雲氏への後継体制作りでは、総書記の義弟、 張成沢 ( チャンソンテク ) 党行政部長が中心的な役割を担っているとされる。会合では、台頭した張氏が軍部に警戒されており、金総書記が側近で親友の 呉克烈 ( オグクリョル ) 大将を国防委員会の副委員長に任命したのも、不測の事態に備えて、軍を抑えるための措置とする分析が出されたという。
[ 2009年6月12日14時33分 ]


2つのことは別々ではない、と思います。
ただしあくまでも私の予想です。

この記事は平成21年6月13日21時30分です。
近々に結果は出ると思われるので、そのときまた書きます。

子供向け伝記「新田義貞」を読んだ。

新田義貞 講談社
講談社 火の鳥伝記文庫74
太平記=悲運の武将
新田義貞
著者は浜野卓也

ただ、まるまる一冊「新田義貞」というわけではありません。
ここには4つの話が入っていて、
1、新田義貞 2、本間資貞・資忠親子 3、多々良浜の決戦 少弍頼尚と菊地一族 4、宗良親王
となっている。全体を通して「太平記」の流れを追ったという感じになっています。
内容は子供向けとなっていますが、これがなかなか馬鹿にできません。
特に、宗良親王の話は、副題の「さすらいの皇子」のとおり、その生涯が伝わってくる内容であり、最後の数ページは、一人生き残って諦観する様がよく、いい締めくくりとなっている。
また肝心の義貞ですが、ツボを押さえた内容であり、勾当内侍の悲恋がうまく使われていて、いいラストになっていました。やはり、義貞の生涯はこういったシンプルな話にすると、その悲劇性が高まっていい物語になる。
義貞の生涯は起伏の大きさそのものが悲劇的で、私はそこにぐっと来てしまう。一般では義貞悪評の元となっている「負け戦」とか「勾当内侍の恋」とか「その死に様」とかいったそういったところに私は人生の面白みを感じてしまう。この悲運の連続、時代や運命に翻弄されていく義貞の姿に心を引かれてしまうのだ。だから「器の大きさ」だとか「戦の巧拙」だとかそんなのは元々どうだっていいのかもしれない。ただ大望を果たすために戦い、敗れた。めぐり合ってはいけない最悪の時に最高の人と出会って、恋をした。そして、他人に批難されるような死に方をした。でもそれが逃れられない運命だったのだ。そんな一生を送った人物に感動し、私の心を掴んで揺さぶって離さないのだ。

さて、このシリーズでは、他に楠木正成と足利尊氏が本になっています。
検索すると、「徳川家康」を松本清張が書いていて、これがかなり良いという話だ。探して読んでみます。

「山本勘助」の実在を示す文書、群馬で発見!?

平成21年6月11日 上毛新聞より

信玄の書状 安中で発見
大河ドラマで有名 戦国時代の天才軍師「山本勘助」実在示す?
甲斐国(現山梨県)の戦国武将、武田信玄が家臣の「山本菅助」にあてた書状が安中市内の旧家から見つかった。一般的には「山本勘助」として大河ドラマなどで有名だが、実在したか定かではない。菅助の名が記された史料はこれまで、40年前に北海道で発見された「市河文書」だけだった。
今回の書状を調べた山梨県立博物館の海老沼真治学芸員は「細部に疑問も残るが、本物としての条件を備えている。信玄の家臣として山本菅助が実在した可能性が高まった。菅助の子孫、後継者の動向を追える史料もあり、非常に貴重」と話している。
山本勘助は江戸時代の軍学所「甲陽軍鑑」に兵法、築城にたけた軍師として登場する。しかし同書の内容はほかの古文書などの記載事実と違う点が多いことや、同書以外に勘助の名が見当たらず、実在を疑問視する意見も少なくない。
今回の書状は昨年5月、安中市教委が江戸時代から薬屋を営む同市原市の旧家で資料調査を行った際に発見。「信玄公御證文」と書かれた漆箱に、武田家関係の古文書五点が張られた一軸の巻物が入っていた。
うち二点は信玄が菅助にあてたもので、功績をたたえて恩賞を与える内容、重篤な状態の家臣「小山田」の見舞いを命じる内容が書かれている。
残り3点は武田家朱印状と徳川家康の二男結城秀康の書状。朱印状には菅助に不足していた武具の支度を指示した内容と、菅助の後継者とみられる「山本十左衛門尉」に軍役を命じた内容。書状には子孫と考えられる「山本平一」に関する記述がある。
海老沼学芸員は「5点は紙の質や書体の特徴などから16世紀後半から17世紀初頭のものとみられ、時代的な食い違いはない」と分析している。また、見舞いを命じる文書は信玄自筆の可能性も高いという。
市河文書には、信玄が東信濃の武将への伝令として菅助を送ったという内容が書かれている。
海老沼学芸員は「市河文書から菅助は東信濃や上野国の動静に詳しかったことがうかがえる。また高崎藩の家臣に代々『山本菅助』を名乗る家もある。今後、検討を重ねていきたい」と話している。
「信玄公御證文」は現在、安中市学習の森ふるさと学習館(同市上間仁田)に寄託され、一般公開されている。

山本勘助 書状

検索すると、すでに5月1日に山梨日日新聞で報じられていた。(ほぼ同じ内容) 

また、山本勘助関連記事で、山梨日日新聞  平成21年5月28日から

市河家文書、県教委が購入 
山本「勘助」にまつわる書状など91点 
重文指定めざし調査研究
県教委は27日、「架空の人物」説もあった武田信玄の軍師・山本勘助(菅助)とみられる人物が登場する書状をはじめ、北信濃を支配していた豪族「市河家」に伝えられていた古文書「市河家文書」計91点を購入すると発表した。市河家は戦国時代に武田、上杉両家に仕えており、県教委学術文化財課は「室町、戦国時代の甲信越地方の政治情勢や甲斐国出身の豪族の盛衰を知る上で貴重な史料」としている。
 「市河家」は平安・鎌倉時代に甲斐国市河荘(昭和町、中央市、市川三郷町)を本拠地としたと考えられている。鎌倉時代に信濃に移り、越後との国境を中心に勢力を持っていた。
 史料は北海道釧路市在住の個人から購入。価格については「個人からの購入のため非公表」(同課)だが、関係者によると約2000万円とみられるという。菅助の実在を証明する中世の文書のほか、小笠原、武田、上杉家から送られた古文書から成る。書状は信玄(晴信)が「市河藤若」にあてた内容で、信玄と上杉謙信が川中島合戦を繰り広げていた1557(弘治3)年に書かれたものとみられる。藤若の働きによって上杉勢が退散したという戦況を述べた後、山本菅助を使者として送り、詳細を伝えさせるという内容が明記されている。信玄の花押(署名)もある。
 6月初旬の購入を予定しており、県立博物館のほか、武田家や上杉家にかかわる史料を収蔵する県外の博物館との共同企画展などで展示する方針。県教委は「県指定文化財への指定に向けて薫蒸や調査研究を行い、重要文化財への指定を目指したい」(同課)としている。



当ブログでも「山本勘助」のことを書いていたっけ、と思い出してみたら、「週刊 歴史のミステリー」のまとめのときに書いてました。
懐かしかったので、そのときのものをそのまま再録しておきます。
「風林火山」の山本勘助は架空の人物だった!?
山本勘助不在論の検証です。
まず、「甲陽軍艦」は信憑性に乏しいということから、この書物にしか登場しない山本勘助は実在しないのではないか、という説を説明しています。これは週刊「歴史のミステリー」第3号の「川中島の戦いはフィクションだった」というのと同じこと。このとき私も山本勘助不在論を少し書いていました。
昭和44年に北海道で発見された「市川文書」に山本勘助(管助)の名があったというもので、これをもって山本勘助なる人物は存在していた、ということになっている。ただ、この人物が「甲陽軍鑑」に書かれているような活躍をしたのかとなると、かなり不審だということになる。

本文ではここまでだが、「不在論」がいれば、「実在論」があるということで、これ
yamamoto
「山本勘助のすべて」(上野晴朗・萩原三雄編、人物往来社)
ここで、かなり熱く「山本勘助実在論」を語っています。
要点は、①「甲陽軍鑑」批判は、江戸時代元禄期に肥前平戸藩主・松浦鎮信の「武功雑記」によって始まり、このとき山本勘助は創作、架空のものだとした。②これが明治時代になって、東京帝国大学教授の田中義成氏が「武功雑記」の内容をそのまま受けて「甲陽軍鑑」の価値を低めて、山本勘助は架空だといった論文を発表したことが、定説となり、今もこの評価を引きずっているというのだ。③本書によれば、有馬成甫氏、酒井憲二氏の研究により、「甲陽軍鑑」の評価は高いとしている。④また山本勘助は「軍師」というものではなく、「足軽隊将」であり、その真価は城作り・縄張り、築城にあったというのだ。⑤高坂弾正が「甲陽軍鑑」を記した真意は、武田家の衰退を嘆いて書いたものであって、軍記物、戦記物として書いたのではないから、その点を批判しても仕方ない、といったところか。

 | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

05 | 2009/06 | 07
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  └ 月別アーカイブ
        └ 2009年06月
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。