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シリーズ 新井白石編3回目 対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ。

新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ 新井白石編 その3
今回は「対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ」です。
新井白石
前回までの要点
1、新井白石は新田源氏を名乗った。
2、その白石が、皇室を守った。
で、今回の要点は、
1、対中国、対朝鮮外交で見せた強硬な姿勢
2、沖縄・琉球対策
の2点。

彼は、江戸中期にあって、中国(清)の脅威からどうやって日本の独立を守ればいいのか、また日本の国防にはまず南の琉球・沖縄、北のアイヌのことを知る必要があるとも考えていたのだ。これらは、今回いろいろな関連本を読んで知ったことだった。
そんな偉人の足跡を知ったあとで、思い出したのが現代の政治家の「あの不甲斐ない件」のことだった。
「胡錦濤皇帝」に拝謁を賜った小沢一郎(週刊新潮 07/12/20号)
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1224508018/から。

「先例のないサービスをいただき感謝しております」。椅子に浅くちょこんと座り、背筋を伸ばした小沢一郎氏は、胡錦濤主席に声を震わせてこう言った。
人権侵害やら他国への干渉では他の追随を許さない〝中国の皇帝〝に、卑屈な態度で拝謁した小沢氏。が、開会中の国会を無視して強行した訪中に「見るに耐えない」と党内からも批判が噴出。
あれは、なんだ? あいつは本当に日本人か
 12月7日金曜日夜。北京、訪問中の小沢一郎・民主党代表が中国の胡錦濤・国家主席と会見したニュースが流れた時から、永田町は、その小沢代表の卑屈な態度に話題がもちきりとなった。
ふてぶてしさと横柄な言動が売り物で、これまで″政界の壊し屋″と恐れられてきた小沢氏。参院選大勝後の8月、アメリカのシーファー駐日大使を党本部に呼び出し、45分間も待たせて報道陣に″晒し者″にした上で、テロ特措法反対を表明するという非礼を働いたことも記憶に新しい。
 しかし、その小沢氏も中国の皇帝の前では、まるで借りてきたネコ。ちょこんと椅子に座った小沢氏は媚たような笑いを浮かべ、「ただいま主席閣下自らですね、今回の参加者の団員のものと写真を撮っていただきまして…‥・そしてまた、みんなと握手までしていただきまして……、先例のないサービスをしていただいて、本当に感謝しております」 と、小さな、そして震える声で、そう言ったのだ。
 小沢氏の上ずった声とは対照的に、余裕綽々でにっこり笑う胡主席。それはまるで、謁見に来た臣下を皇帝が日を細めて迎え入れる風情だった。

もし新井白石が、現代に生まれていたら、こんな中国に媚びた外交をする日本の(裏)トップの政治家の姿を見て「何たることだ」と嘆いたに違いない。

また、現代の沖縄については、「沖縄ビジョン」「沖縄独立運動」「沖縄の左翼化」「中国の沖縄に領事館要求」などなど、気になる点も多い。こんなのを聞くと「20年後沖縄は中国領になる」なんて説もあながち嘘話ではないかも、という気がしてくる。
今の沖縄を評して、勝谷誠彦が「本土と沖縄を分断しているのは、右の利権と左のイデオロギーだ」といったが、これまさしく的を射た意見だった。
また、小林よしのりの「沖縄論」「ゴーマニズム宣言NEO 2 日本のタブー」にこの問題が詳しく載っている。

この中で「沖縄」と「アイヌ」の関して憂慮すべき問題が多く出てくるが、ここに「日本を脅かす争点」があると気づいて、いち早く手を付けたのも「新井白石」だったのだ。

ということで、これらのことを踏まえて、いつものように長文引用。
重要なところ(あくまでも私視線で)は太字にしてあります。

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
対朝鮮外交の刷新の章から。

これは、歴史的背景が複雑である上に、この時、国書書式と朝鮮使節の待遇方法とに変更を加えたことが加わったため、予想外の波瀾を生じることになった。歴史的背景とは、室町時代前期(元中九年・1392年)に建国してより朝鮮は、わが国と通交を続けてきたのが、豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵によって大被害を被ったため、秀吉の没後直ちに家康が修交を企てたにもかかわらず、朝鮮側は容易にその和平提案に応じようとしなかった。慶長十二年(1607)に至ってようやく国交回復が成り、彼の国から使節が送られることとなり、それ以来家光の時を例外として(この代には三度)、将軍の代初めには就任祝賀のため必ず派遣されるのが例となった。
秀吉出兵の際、朝鮮を危難から救った明王朝を敬慕する態度は少しも変わらず、日本に対しては依然として猜疑の念を抱き続け警戒的態度を棄てることができなかった。だから、この正徳の時、国書と迎接に変更を加えたことは、彼には一大衝撃だったわけである。なにぶん政治的軍事的には劣等感を抱いていたのだから、それは無理もないが、しかし、他方では自国を中華文明の正統の系統者であるとの自負をもち、日本に対し文化的優越感を抱いていたことも、両国外交を考える時顧みなくてはならない。もう一つ、両国の緊張関係を一層強める働きをしたのは、当時両国ともに朱子学の影響を強く受けて、国家の体面を重んじる心理が高まっていた状況である。
この正徳の新しい外交体例の立案企画者であり応接上での実質的な中心人物だった白石が、若き日に、天和元年(1681)朝鮮使節の来日の時、九月一日宿舎に使節を訪ねて詩を唱和し、「陶情詩集」のための序を請うたことはすでに述べた。こういう態度は独り白石だけに限らず、対馬出発以後、江戸に到るまでの使節の宿泊地ではどこにおいても、文人墨客そのほか知識人が客館を訪問して、新知識を得ようとし書画の揮毫を求めるのが当時の風習だったのである。そういう態度が朝鮮人の優越感をさらに高めた点も見逃せないところである。
この正徳元年においては白石はすでに五十六歳、詩人としては第一人者と認められ、学識においても比肩し得る者が少なかったことに加え、朝鮮国の日本観および外交姿勢にも、これまでの朝鮮使節らの日本文化人蔑視にも不満や不快感をも抱いていたから、それらを矯正した使節たちに徳川将軍の威厳と日本文化の優秀性を認識させようとの強固な意図が白石にはあったのである。これには思い過ごしとすべき点もあったが、白石には次のような朝鮮観と先入主とがあった。
①朝鮮は文事を以って復讐を意図している。
②朝鮮は家康より国家再造の恩をこうむった。
③朝鮮が清国の属国になりきらないのは、背後に日本が存在するからである。

①は、文禄・慶長の役に対する復讐を、武力では敵わないから文化の力で果たそうとしている。②は秀吉没後の和平提案により日本軍撤退後に、明国駐屯軍の横暴に苦しむ朝鮮を救ったこと(再造の恩)を感謝すべきだ、というものである。③は白石が朝鮮側の「秘事」清の康煕帝が皇子の一人を朝鮮国王の養子にしようとした時、日本の異議を理由に謝絶したという話を聞知していたことによる。それはともかく、朝鮮が完全には清の属国とならず、自国の風習や伝統文化を保持し得ているのは、日本が背後にあって清国を牽制しているためだという判断である。

当時の日中朝の関係が実に興味深い。朝鮮が中国側にすり寄って日本に対して優位に立とうとしている。しかし、実のところ、朝鮮の中国からの独立は、その背後に日本という存在があるからだ、という事実もあるのだ。これは、現代にもそのまま当てはまる。(まあ、日本というよりアメリカだけど…)

他方、朝鮮使節の側にも不吉な先例があったため、始めから不安と警戒の心理が強く働いていた。すなわち、①自国の体面を傷つけられない。②通信使の任務はきわめて重大。③今回の将軍称号変更の理不尽な通告から推しても、新たに不法な要求がなされるおそれがある、などである。
①は文化的先進国をもって自負していただけに用心も大きかった。②はもし使命を全うし得ない場合には、帰国後に処罰される心配があった。(慶長十二年に先例)。③は使節一行がすでに京城を出発した後に、将軍称号変更の通告があったため、朝鮮宮廷では大議論を呼び起こしたが、結局は日本の武力を恐れ通告に従った事実がある。将軍から朝鮮国王への返書中の文字(現国王粛宗より七代前、第十一代中宗の呼び名・懌(えき))使用問題で激烈な対立が生まれたのも、使節迎接で不満が表面化したのには上記のような心理的背景があったのである。
国書書式の変更は、徳川将軍と朝鮮国王との間の往復書簡に三代将軍の時以来の「日本国大君」をやめて、「日本国王」の称号を用いることにしたことである。白石の考えでは、この称号は家康の時の先例にかえるものだったから、「復号」と称した。これは明らかに白石の誤解であるが(先例は足利三代将軍義満の時)、国際政治上の用法としては当時雨森芳洲・松浦霞沼ら同門の人々から非難されたように、不当でも僭越でもない。朝鮮側で当初からそれを望んだから、三代家光の時の対馬藩での文字改変事件が発生し(日本国主を日本国王に改めた)、これが原因となって寛永十三年(1636)以後「日本国大君」が新たに使用されることとなった。
しかし「大君」の称は、白石に言わせれば、「異朝」=中国では天子の異称であるから(「周易」に見える)わが国の場合もその称は天皇に当たる疑いがあり僭越のそしりを免れないし、朝鮮の場合は「大君」は王子の嫡子をさすから臣下の称号を用いることになり、彼の国から軽薄される結果となってしまう。白石の構想した将軍と朝鮮国王の位置付け、
天皇=清国天子が対等、その臣下で、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王

というものだった。ただ朝鮮側が反撥したのはその内容ではなくて、その変更が事前の連絡もない一方的な通告だった点にあるのである。そして使節一行の江戸到着に大問題となったのは、むしろ先述の国王中宗の呼び名使用であり、これをめぐって白石と正使趙泰億との間に激しい抗争があったわけであるが(国諱論争)、相互の文字修正で最終的には妥結した。

ここでは白石が、天皇を将軍より上においている。この天皇=清国天子、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王という図式にした新井白石はまさしく「尊皇家」だ。
私が学校の先生なら、この図式は試験に出します。

他方、使節待遇はやはり朝鮮側の誤解を招き、抗議を受ける場面もあったが、けっして冷遇したわけではなく、後に使節たちも認めたように礼遇の側面もあったのである。そもそも白石の対朝鮮外交の基本方針は、1・和平、2・簡素、3・対等、の3つにあった。1の和平は家康以来の和親外交であり、2の簡素は財政的見地と名分論から出てきた方針である。3の対等は外交上において均衡をはかるという考え方に由来している。白石の解釈では、家康の時には朝鮮使節の応待は琉球使節と同様に簡素なものであり、朝鮮側のわが使節の応接は簡略に過ぎるくらいだったとする。実際、この応待のため幕府はもちろん、大名一般国民の負担は大きく、種々の煩わしさをも伴ったから、何も江戸まで来させる必要もなく対馬で応接すればよい、というのが白石の本心だった。(この意見は使節の帰国後に将軍に上程された)そこで白石は使節たちの対馬・江戸間の道中での応接および江戸城での接待を簡素化したのであるが、これには使節の方でも格別不満はなかったようである。ともかくこの簡素化によって、応接費用が従来のほぼ100万両から60万両に減じた点は、評価されてよい。
その不満とは反対に、冷遇と感じたものは、信使辞見の儀式の際、朝鮮国王への返書を将軍自らが手渡したこと、また信使賜饗の儀に付随した江戸城内での舞楽上演(遠来の客は慰労すべきとの白石の考えに基づく)など、使節たちを満足させた。
白石のそういう心遣いにもかかわらず、国諱論争のような激しい対立を巻き起こしたわけであるが、その際将軍家宣が、最後まで白石を庇護したことは特筆に値いする。その時の波紋は、反対派が白石を非難して、ことさらに新儀をたて平地に波乱を巻き起こす者、今に両国の間に戦争が起こるかもしれぬ、などと言い触らしたことで、白石の辞職の提出にまで発展したのであるが、家宣の全面的な白石指示により事なきを得た。家宣の口から、自分と白石とは「一体分身」であるとの言葉が吐かれたのは、この時のことである。そればかりか、このたびの白石の努力と成果を認め、五百石を加増してその労に報いたのである。(合わせて千石となる)
白石はこの朝鮮使節応接のことが世間一般に自分の存在を知らせる契機となった、と告白しているが、さらに名声は朝鮮にまで及び、一流の詩人・すぐれた学者と認められるきっかけを作ったのである。まさに文化外交の名に値する快挙だったといえよう。しかし白石その人は、その成果を以って己の功とはせず、「すべて此度の事、君(家宣)び霊に頼れり」と言い、さらに「すべては、これ我国の霊による所也」と述べている。

面白いのは、強硬な対朝鮮外交を行う白石に対して、日本国内でも反対派が騒いだこと。それに対して、将軍家宣が全面的に白石を擁護したこと。強硬でありながら簡素に平等に外交をした白石、こんな政治家が現代の日本にもいれば、とふと思う。またそれを擁護できる人々も必要になってくるだろう。
対中国外交については、次回「その4」に続く。

で、次が「沖縄・琉球対策」
琉球

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
「琉球使節と対談・『白石余稿』」の章から。

琉球と白石との縁は、きわめて深い。というのは、現在使用されている県名「沖縄」の、その呼称「オキナワ」にこの字を宛てたのが、白石である。沖縄研究の「南島志」は先駆的名著といわれる。<中略>
「白石先生琉人問対」には、言語風俗・生活様式・宗教など文化関係記事が大量に含まれるが、白石は琉球を以って「南倭」とみなしたのであるから、基本的には同一人種であり同言語であり、習俗や生活面でも同種類似のものと考えたと認めてよい。すなわちそれは白石の質問、たとえば「別啓」(正徳四年)の中に見えるものであるが、言葉について、「琉球国中の言葉、其の国の郷談多かるべく候。日本のことばにちかく候か。唐に近く候か」と尋ね、次いで風俗についても「次ら(次郎、身分の軽い者)は、又其の風俗も日本に近き方に候か」と問うている。また文字についても、「世のつねの取り扱い、又は下賤の者の類は、日本の文字つかひに候か」と質問している。
以上は薩摩藩士への質問であるが、琉球使節への質問、「問目」を見ても同様で、白石の問い「日本に対しては日本の文法を用い、異朝(中国)に対しては異朝の文法を用いているように見えるが、国内で下賤の民までも用いる文字、ことに女性の用いる文字はどんなものか」に対して、「国中の卑賤、日本の伊呂波(いろは)を学ぶ、以て俗言通用となす。女人はいにしえより筆をとることなし」と答えている。また言語関係では、詩歌についても質問には、「唐詩を学び和歌を習ひて情を慰さむ、また詩歌を以て性情を慰むる者に琉歌(琉球の歌)有り」と答え、舞楽(雅楽)についての質問には、古にあったが今はなく、「世俗の舞をなすのみ」と答えている。そのほか生活面では住居について、民家は大概は茅屋(茅ぶきの家)で「頗る日本の民屋に似たり」といい、食物については、「日本一般、乾醤(かんしょう)を用う」と説明している。なお宗教面では、寺院について「天界寺・円覚寺の僧、皆禅僧なり」と述べている。
上記の日琉関係観につき補足説明を加えると、日琉同一人種であることを白石が明言したのは近衛家の進藤刑部大輔に対してで、「琉球人と申し候とも、日本人と申候とも、そのえらひ(選)もなく候」と述べている。近代になって日琉同祖論を唱えたのは、イギリス人の日本学者バジル=ホール=チャムブレン(1850~1935)であるが、日本人としては白石の方がはるかに早い。

なるほど、新井白石は琉球人を日本人と同人種と考えていた。これは当時としては特筆すべき識見であった、というのだ。

次は対琉球外交の強化の章から

この対策の背景には、琉球が朝鮮とは違っていながらも、清朝が同じく宗主権を持ち、朝鮮同様に朝貢を要求したこと、現実問題としては日本の銀が琉球を媒介として清国へ流出したということがある。したがって、白石の琉球の関心には深いものがあった。
もう一つには、国防的見地からのもので、既述の通り康煕帝とは同年の生まれだとの認識から、彼にライバル意識を持っていたことがある。康煕帝は清国の版図の拡大に務めたから、白石がその活動に神経をとがらせたのも無理はない。
ともかく北の蝦夷地と並んで南の琉球は、白石が非常に関心を寄せた土地で、両地域についての研究の結晶が「蝦夷志」であり、「南島志」だった。この二書は実は、初名が「蝦夷考」「琉球考」であり、そしてまた両者をあわせたもの、「南北倭志」でもあった。白石の意識では北は韃靼(タタール)の侵略に備え、南は清帝国のそれに備えることが国防上必要だったのである


「白石先生琉人問対」を見ると、琉球王家をはじめとして政治・経済・社会・地理物産・言語習俗・生活様式・宗教関係の記事が大部分を占めるが、ほかに明朝・朝鮮関係事項が少なからず含まれており、とくに清朝関係の記事の多いことが注目を引く。
この事実は、先述の康煕帝の対外経路に対する白石の関心と警戒心との深さを裏書するものであろう。これに対して使節側は、朝鮮が魁梧(かいご・壮大)で「威風凛々たる者、更に多し」などと答えて、自国の背後に大帝国清の存在を誇示し、白石を牽制した。


江戸中期においてすでに、日本の国防を考えていたとはすごい。しかも中国(清)を仮想敵国ととらえていた。しかもその争点となるのが「沖縄・琉球」だと想定していたのだ。
やはり東アジアにおいては今も昔も、地政学上、「沖縄」は重要な軍事地点になっているようだ。
これは現代においても、アメリカ軍基地が沖縄に集中して、中国や東アジアを牽制していることからも分かるし、中国が沖縄に領事館を作らせろなんて要求を出し、何かと沖縄に口を出してくるというのでも分かる。

また「折りたく柴の記」から、「琉球の国書の問題」。

「十一月(正徳四年・1714)には、琉球の使来て、御代をつがれし事をも賀しまゐらせ、其王(十六代琉球国王・尚敬)の代をつぎし事をも謝し奉る。lこれよりさき琉球より奉れる書法は、我国にて往来する所のごとくなりしを、其王尚益(先代)が代より其書漢語を用ひ、書函(国書を入れる箱)の式等も改れり」と。
しかしその書式・表記等に白石は不適当と思われる点を認め「ありし御代のごとくならむ事は、国体においてもしかるべし」と考える。白石がこの点非常に神経質に見えるのは、もちろん琉球の背後に中国を見ていることと、漢字の「意味・用法」が日本と中国では違うという点なのである。従って、何か問題が生じ、琉球王国が先例となった場合、日本の「書法」で日本の「書函」なら、これは「日本の用法はこれこれの意味だ」と主張できても、中国の形式をとる以上、それは主張しても通らないことを彼は知っているからである。たとえば「……台の字の事、我国にてこそ、大臣の事に限りて、称ずる事なれ……

ここでは、白石が国書の文字や用法について、細かく口を出し、いちいち書き改めてさせている、というのが出てくる。それもこれも中国(清)対策からだ。
これを読んで思ったのは、これ、現在の中国と韓国の日本に対する外交姿勢に似てないか?ということ。
靖国問題でも教科書問題でも、なぜそんな細かいことまで言うのか?と些細なことまで、日本に要求してくる。
そういった細かい要求を出し、それを行わせる、これを繰り返すことによって優位に立つことを目的としているのではないのか。
新井白石の執拗なまでの要求、細々としたところまで修正を求める態度、これによって「日本」の存在感を示し、上位に立とうとしているのだ。(琉球に対する要求だが、あくまでもその背後にある清国を念頭に置いている)
こういった芸当ができる政治家・官僚が、今の日本にはいないようだ。
「友愛」という名の「土下座外交、謝罪外交」になっているのでは、と思うのは薄々感じているところだろう。
では、新井白石の外交とはどういうものであったのだろうか。
仲尾宏著「朝鮮通信使」(岩波新書)から、

「江関筆談」(白石と朝鮮側の正使との会見は、通訳なしの筆談で行われた)には、正徳元年・1711年11月5・6日の両日にわたって江戸城中で繰り広げられたこの筆談は双方の体面を賭けた適度の緊張と東アジアの故事来歴の知識をおりまぜた文化・学術交流の場の記録である。席には途中から通信使の他の随員や雨森芳洲らも加わった。
皮切りは海外知識の交換から始まった。この点では白石がイタリアの宣教師シドッチを尋問した実績にものを言わせて朝鮮側を圧倒した。その結果、必要なら世界地図を進呈してもよい、とさえ言う。次に中国文明の伝承について、朝鮮側はわれこそ中華文明の正しき伝承を伝えている、と言えば、白石は、そうはいってもせいぜい明代のものである。日本には古代の夏・殷・周の風を伝えているものがある、という。そして宴席では雅楽の一つ、高麗楽の演奏を聴かせて、通信使を瞠目させた。そして朝鮮が清国の風儀を強制されないで済んでいるのは、南方の日本の存在があるからではないか、とさえ言う。そして最後に両者は室町時代後半に日本へ通信使の書状官として来た『海東諸国紀』の著者・申叔舟の国王・成宗に宛てた遺書「請う、日本と和を失うことなかれ」という有名な一言に言及して、両国の平和をお互いに望みあった。

白石の強気な姿勢は、「朝鮮の知識人には朝鮮こそ朱子学を中心とした『東方小中華』の国である、とする自己中心の文化意識をもつ」(日本を一段下にして卑下していた)彼らの鼻っ柱をまず砕くことにあった。だが、白石は決して朝鮮と戦争をしようと思っていたわけではない。最後には両国の和平を望んでいたのだ。「新井白石が、国家戦略的立場に立って、対等で簡素な外交の原則をより完全にしようとした試みも注目すべきである。」(鉤カッコの部分は上記の本の引用)とあるように、相手国に媚びることなく、対等な外交をするにはどうすればいいのか、考えた人だったのだ。

世界を見て、日本の外交・防衛を考えた、そいういう大局的な視点を持っていたとなれば、これは勝海舟に似ているかもしれない。
白石がイタリア人宣教師・シドッチから西洋の知識を貪欲に求めたように、勝海舟も西欧の知識を求めた。
また経済にも明るく、口も文章も達者。(しかも晩年は自分の事蹟を多少ひけらかす点もどこか似ている。)

こういう人物こそ、現代の日本には必要ではないのか、そんな気がします。

ということで、次回に続く。
さらに詳しく「山本七平が見た新井白石」です。
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天皇陛下の「お言葉」が政治的に利用されるとはこういうこと。

民主党衆議院議員・岡田克也氏が「2ちゃんねる」に削除要請
http://news.livedoor.com/article/detail/4419035/

民主党衆議院議員の岡田克也外務大臣が「2ちゃんねる」に事実無根の記事を書かれたとして、書き込みの削除を求める要請をしていることが明らかとなった。削除要請を出している記事の内容は、岡田氏が天皇に対してかなり突っ込んだ発言をしているもので、これが事実であれば世間に大きな影響を与えるものになるし、事実無根であれば岡田克也氏に対する名誉毀損ということになる。削除依頼の一文は以下の通り。

2ちゃんねる管理者様  侵害情報の通知 兼 送信防止措置の要求
「あなたが管理する特定電気通信設備に掲載されている下記の情報の流通により、岡田克也の権利が侵害されたので、「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」に基づき、あなたに対し当該情報の送信を防止する措置(該当箇所の削除、ならびに、このような悪意ある捏造記事を掲載した人物の特定)を講じるよう求めます。なお、「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」に基づく措置に応じない場合には、別の法的措置も検討いたします」
掲載されている情報:
「金曜夜プレ懇」とされる岡田克也と記者とのやり取りにおいて、発言内容はもとより、そもそもこのような懇談が行われていないにもかかわらず、あたかも岡田と記者の間で、掲載の様な質疑応答があったかのような捏造記事が書き込まれた。
侵害されたとする権利:名誉毀損
権利が侵害されたとする理由(被害状況など):虚偽のやり取りをあたかも存在したかのように捏造し、岡田克也の名誉および政治家としての社会的地位を著しく傷つけた。
(上記、公式サイトより転載)
上記は岡田克也氏の公式サイトより転載・引用したものだが、簡単に言えば「嘘を書かれて名誉を傷つけられたのですぐさま書き込みを消して欲しい」という事である。しかし、これは「2ちゃんねる」に責任があるというよりも書き込みした人物に責任があるため、今後どのような展開になるのか注目が集まるところだ。あくまで書き込み内容が事実でなければの話だが。
削除要請が出ている記事は「オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40」という出だしで質疑応答形式に岡田克也氏が返答していくというもの。その内容のなかで、岡田氏が天皇に対して誹謗中傷にも近い表現で言及していくという内容になっている。Writer: 孫春麗

とあった。
ということで、早速検索。以下拾った文面。

非公開資料だそうです。
804 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2009/10/24(土) 19:43:56 ID:/ONfXV7k0
植木職人発言オフレコ(岡田外相・金曜夜プレ懇) デスクオンリー/オフレコテープ起こしママ/公表不可 納品 2009年10月24日 02:11:40
1/5 Q.「まず、今回の外相の発言の真意をお伺いしたい。
 ご発言は、天皇の国事行為を前提とした、という理解でいいんですよね?
 つまり、あくまで内閣の助言と承認…(カブリ。聞き取れず)」
岡田氏「(さえぎり。カブリ)内閣とか国事行為とは無関係だ。あくまで陛下
の……(聞き取れず) ご自身のお考え…お声を知りたいということだ」
2/5 Q.「では、宮内庁というのは?」
岡田氏「宮内庁というのは方便…というかレトリック(聞き取れず)とでも…。  陛下自身のお考えが聞きたいという趣旨。
 もちろん、宮内庁が陛下のお考えを聞いて起案し、文章化するとか措辞を整え とかあるだろうが、陛下自身のご意見が問題だ」
3/5 Q.「ズバリ、大臣は、陛下にどのようなお言葉が…(カブリ)」
岡田氏「(カブリ)そりゃ…政権交代ですよもちろん。
 "勝てば官軍"といえば言い過ぎでしょうけど(数名笑い声)、民主党がこうして 勝った訳ですから、陛下もそれに恭順…(…間…)というかその支持をご自身のお言葉で表明してほしいですよね? このままじゃ"自民党の皇室"のままだ」
4/5 Q.「大臣のそういうお考えは内閣としても憲法上問題である、という見解が…」
岡田氏「内閣といっても法制局でしょ。"官"ですよ。政権がかわれば、憲法解釈もかわります。我々は政治主導です。そういうくだらないことを言うんであれば、法制局長官をクビにするだけです。それが政治主導です」
5/5 Q.「陛下の政治的中立を守らないと皇室の維持の将来にも問題が…」
岡田氏「政治的中立とか…(…間…)政治的中立って憲法に書いてあるんですか?マニフェストに書いてあります?
  皇室の将来より民意ですよ。民意は民主党支持なんです。
 民意より皇室の維持が重要なんてあり得ない。民主主義です民意が"天皇は植木職人になるべき"というのならばそうなるんでしょ」(了)

とあった。
まあ、ソースも信憑性もない、ねつ造記事。
嘘だと分かっているが、これ面白い事に、岡田克也外相がまさに言いそうなことである。
秋篠宮家の紀子妃のことを「のりこ」と読んで、まるで皇室に敬意も関心もないような人が、いきなり「天皇陛下のお気持ちを組んで……」なんていきなり善人ぶっても、だれも信用しない。
彼の中では何らかの思惑があり、そこに裏がある、と思うのが普通だろう。2ちゃんねるのねつ造記事はまさにそこを突いている。
それにしても岡田克也外相もどうかしている。こんなガセネタに釣られて、事を大きくしているのだから。まさに踏んではいけない地雷を自ら踏んだような展開だ。

天皇陛下の「お言葉」は重い。
そのことをよく知っているのは実は「左」の人々かもしれない。
で、この天皇陛下の「お言葉」がどう政治利用されるかといえば、一例として、04年天皇陛下が園遊会で国旗掲揚・国歌斉唱について発言がある。「やはり、強制になるということではないことが望ましい」といった発言を、朝日新聞や「左」の人々はよく用いて、自分らの都合のいいように使う。

平成21年10月27日の朝日新聞「ニュースがわからん!国会開会式では内閣・宮内庁が協議するよ」の記事から。
朝日新聞 天皇陛下

アウルさん 岡田克也外相が国会開会式での天皇陛下の「お言葉」について「陛下の思いが入るように工夫できないか」と述べたんだって?そもそも「お言葉」は誰が考えているのかな。
A 天皇陛下は、植樹祭や国体など様々な式典に出席する際の発言はご自分で考えているという。だけど、国会の「お言葉」は閣議決定されるから、内閣が文案を練り、宮内庁と協議してつくるんだ。
アウルさん 憲法7条の「天皇の国事行為」にあたるの?
A いや、国会の召集や衆議院の解散などは国事行為だけど、国会の開会式への出席やそこでの「お言葉」は国事行為にあたらず、慣例で行っている「公的行為」という位置づけだ。
アウルさん 岡田外相の発言を問題視する声があるようだけど。
A 憲法4条で天皇は国事行為以外の「国政に関する権能を有しない」と定められていて、「お言葉」には政治的な意味や影響を持つものが含まれないことが求められている。「陛下の思い」を強く盛り込むと、抵触する可能性があるとされている。民主党の西岡武夫参議院運委員長は「陛下の政治的中立を考えれば、軽々に言うべきではなく、極めて不適切」と一刀両断だし、自民党の大島理森幹事長は「陛下のお言葉にまで触れるとはうぬぼれだ」と手厳しい。ただ、岡田外相は04年にも天皇陛下が園遊会で国旗掲揚・国歌斉唱について発言した際、「陛下もいろんなお考えをお持ちで、何も言えないのはおかしい」と述べた。持論なんだろうね。
アウルさん 国会開会式での「お言葉」が話題になったことは?
A 95年1月の通常国会で阪神大震災に言及したとき、当時の野中広務自治相が閣議で「もう一歩踏み込んでいただけないか」と述べた。宮内庁は「自制した表現ながら地震被害に言及したこと自体が異例」との立場だったね。
アウルさん 天皇の発言をめぐる議論は絶えないんだね。
A 73年には天皇への内奏(情勢報告)の時の発言を記者に説明したとして、当時の増原恵吉防衛庁長官が辞任に追い込まれた。「天皇の政治利用だ」と国会などで批判されたんだ。「お言葉」は「象徴天皇」の意味合いをどうとらえるかにもつながる。みんなで考えていかないといけないね。

太字にあるように、岡田克也氏は当時民主党代表だった。以下(追記2のURL)にそのときの発言がある。つまり、天皇陛下の「お言葉」に政治思想を入れるべきだと、この当時からすでに言ってたわけだ。

それにしても、この朝日新聞の記事で、「お言葉」としてわざわざこの時の園遊会の発言を取り上げていること、この点が実に作為的なのだ。
そして、この数日前の10月25日、朝日新聞・教育面の記事『ウオッチ!「自立と連帯」どこに?』という記事にはこんなものが載っている。

意外と言うか、やはりと言うか。15日の東京高裁。元都立高校教諭復職の訴えは退けられた。5年前の卒業式の国歌斉唱で起立せず戒告を受け、再雇用を拒まれた。判決は「信念のみに従っていては学校教育が成り立たない」。都教委の裁量権逸脱を認めた一審の判決を覆した。
元教諭が勤務した定時制には、中国や韓国など様々な国籍の生徒がいた。「彼らの門出に、君が代の押し付けはなじむのか……そう思った」
あの歌を素直に歌えない、旗を仰げない、その理由は様々だろう。単なる記号ではない、背負ったものを見ればこそ、踏み絵を迫られ痛みや反発を覚える人がいる。起立命令が思想・良心の自由に反するかは、司法判断も割れている。
私の母校の卒業式は厳粛さとは無縁で、国歌斉唱時は「反対!」の叫びが響き、大半の生徒が着席した。いま思えば、権威や儀式に無条件に異を唱えたい思春期の反抗心が大部分だった。保守派が何かと陰謀論のように語る日教組の影響も皆無とは言えまい。しかしそれを割り引いても、日の丸・君が代の信奉者も含め多様な意見を尊重して欲しい、だから一律の強制はやめて欲しい―そんな高校生らの生の訴えだった。
書生論は承知だが、同調と一体化ではなく、自立と連帯。それが民主社会の原則だったはず。これでは日本は、都知事が大嫌いなあの国のような窮屈な社会になりはしまいか。
国旗国歌法案審議中、政府答弁は「強制はしない」と繰り返した。以来10年、全国で処分された教員は、延べ1123人。 (石川智也)

国旗国歌法で処罰された教師の記事が出る。ここで「日の丸・君が代」の強制反対は、朝日の基本姿勢。
そこに、岡田外相の件で、わざわざ、「強制ではないほうがいい」という天皇陛下の「お言葉」を引っ張ってくるのだ。
それを巧みに利用する左の人々。
実にあくどい手法である。
天皇陛下・皇室を「政治利用」しょうしているのは、彼らの方だ。

追記 1、
今日(10月28日)、朝日新聞の読者投稿欄「声」を見たら、この問題についてこんなものが載っていた。

外相発言、率直さ許容したい
翻訳家 吉田幸弘(東京都江戸川区 54)
岡田克也外相が23日の閣僚懇談会で、国会の開会式での天皇陛下のお言葉について「陛下の思いが入るよう工夫できないか」と見直しを提起した。この発言に私は、「象徴」の立場にある天皇陛下の発言を形骸化から救う理にかなった感想だ、と共感を覚えた。
これに対し、民主党の西岡武夫氏が「極めて不適切」、自民党の大島理森幹事長が「お言葉にまで触れるとは何事か。うぬぼれ以外の何ものでもない」と批判した。この国はいまだに天皇に戦前の現人神的な考え方を抱く者が政治の中心に存在している。
民主主義国家のはずなのに、その実、「言いたいことも言えない恐怖社会」の側面が色濃く残っているようだ。外相発言は、象徴天皇制の国事行為論とは全く別次元での問題提起として、公人が率直な意見を表明する自由は保障されるべきだと考える。戦後65年になろうとする現在、率直な発言を歓迎する社会への脱皮が必要ではなかろうか。

全くこの問題の本質が分かっていない方だ。
朝日新聞の投稿欄「声」には、必ず自社の思想に合う後追い記事ようなものが出る。毎日といっていいほど「歴史教科書問題」「戦争体験」「世界平和に、核をなくせ」……といった投稿記事が載っていて、うんざりするほどだ。
これ本当は朝日の記者が書いているのでは、と思わせるものばかりだが、投稿者の氏名を検索すると、実在している方もいるようだ。
ただ、検索していくと、詳しい住所や会社名、学校名、町内会の役職まで分かってしまう人がいるぞ。実名、住所、年齢まで出して、「左巻き」馬鹿を晒している。ネット上(2ちゃんねるのスレあり)でたいぶコケにされているが大丈夫か?
まあ、「朝日新聞」の「声」にはほんとに毎回笑わせていただきます。

追記 2
天皇陛下の「園遊会で国旗掲揚・国歌斉唱について発言」はhttp://tokyo.cool.ne.jp/kunitachi/kyouiku/041028tennou.htmが詳しい。
私はこの言葉の真意は、当時の中山成彬文部科学相が言った「国旗・国歌については、喜んで自発的に掲揚したり斉唱したりすることが望ましいということを述べられたのだと思う」にあると思う。
大体、自国の国旗を揚げ、自国の国歌を歌う、というのはどの国においても自然なことで、元々強制で行われているわけではい。だから強制ではなく、(教師に邪魔されることもなく)自然に行われることがふさわしい。その状態こそが「望ましい」のではないか、と意味ではなかったのか。そう思えてならない。「政治的中立」という立場である皇室では、あれが最善の発言ではなかったか、とも思う。

朝日新聞政治記者が、ラジオで、天皇陛下を彼よばわり!

ニコニコ動画で拾ったネタ
2009年10月23日放送のTBSラジオ「アクセス」にて、岡田克也外相の天皇発言にからんで、朝日新聞・政治担当編集委員の早野透が何と、天皇陛下を彼よばわりした。
また「(今上天皇は)比較的いい天皇」などといったりしています。

さすが朝日新聞!
こういう細部に本性がでます。

この動画では「民主党政権誕生、政権交代おめでとう、と天皇陛下に言って欲しいのかな」とこの朝日新聞記者が言うところで、すかさず、「これは、朝日新聞と民主党の本音」とコメントが出ていた。まさしくこれが、岡田外相の真意ではないだろうか。
それにこの動画にあるように、これで「お言葉」が変更されたら、外相(内閣)が口を出せば変えることができる、という前例を作ってしまうことになる。これは、天皇陛下・皇室の政治利用が出来るという意味になるのだ。これが大きな影響を与える、というのが分からないのだろうか。この問題を大したことでないとする人は、その辺の認識が甘いといえる。
この岡田外相の「お言葉変更」要求は、閣議で決定したこと、政権政党の意向に天皇陛下は従わなければならない、という意味が暗に込められているのではないか。過去記事の「天皇陛下の訪韓には反対だ!」にあるように、この分だと、政府主導の天皇陛下の訪韓が実現されそうな気がする。

まずは、皇室・天皇陛下の政治利用がいけないというのは、福沢諭吉の「帝室論」を読むと分かるのだが……、これは後日載せます。

追記 ジャーナリストの二木 啓孝も「彼」と言っていますが、これは岡田外相を指している。ニコニコ動画のコメは、違いますよ。

シリーズ 新井白石編その2 新井白石が皇室の系統を守ったのは、彼が新田源氏だったからだ。

前回の続き
新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ 新井白石編 その2
2、新井白石が皇室の系統を守ったのは、彼が新田源氏だったからだ。
前回は、新井白石が新田源氏を名乗った経緯を見ていきました。そこで重要なのが、最後の「まとめ」部分で引用した、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」の記述で、太字の大文字にしたところです。
またしつこく引用すれば、「白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」、「白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。」とある。(これからも何度もここは引用します。)
新井白石は新田氏を名乗ったゆえに、何を意識し、何をしたか、ということです。
結論からいえば、今回の「皇室の皇統を守った」ということと、次回の「日本という国を中国から守ろうとした」ことになる。

ではまず、本題にはいる前に、「平成皇位継承問題」について。
近年、マスコミでは「皇太子、雅子さまのこと」とともに、「女性・女系天皇」「皇統断絶の危機」など皇室を取り巻く問題をネタにした記事が、文芸誌、一般誌、女性週刊誌を問わずデカデカと載るようになった。
特に、これから大きな議論を呼ぶことが予想される「皇位継承問題」は、注目されるところである。
Wikipediaでは、

1965年の秋篠宮文仁親王誕生以降、長く皇室に男子が誕生しなかったため、将来的に皇室典範に定める皇位継承資格者が存在しなくなる恐れが生じた、2000年代に入って表面化した問題。皇位継承資格者の不足という問題を解決するために、史上前例のない女系天皇を容認すべきか否か、あるいは皇位継承について定める「皇室典範」を改正すべきか否か、皇位継承順位をどのように定めるべきかという問題でもあるため、女系天皇問題や皇室典範問題などともいわれる。
2004年末に当時の内閣総理大臣・小泉純一郎の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」が設置されたことにより関心が高まった。2006年に41年ぶりの皇族男子として悠仁親王が誕生したものの、依然として皇位継承資格者の不足という問題は残ったままである。

とある。
いまこの問題は百家争鳴の状態で、簡単に答えの出る問題ではない。まして時間が解決してくれる事案でもない。ただ、畏れ多くて触れてはいけない事とされ、いつまでも棚上げされてしまう状態こそ憂慮されることであり、何よりもあまり時間があるようには思えない。(究極的には男性天皇か女性天皇か、に尽きる)

この問題について、最近読んだ本では笠原英彦著「象徴天皇制と皇位継承」(ちくま新書)が衝撃的だった。帯では、「現在の皇室の危機はマッカーサーが仕掛けた時限爆弾」とあり、本書ではここにある大きな問題点を指摘している。
笠原英彦「象徴天皇制と皇位継承」
まえがきには、

戦後、GHQの占領統治下に入ると、一夫一婦制を規範として側室制度は廃止された。これにより、皇位継承権をもつ庶子の存在に終止符が打たれた。GHQはこれに追い討ちをかけるが如く、多くの宮家に皇籍離脱を求めた。それでもなお、皇室典範では旧皇室典範を踏襲して皇位継承資格を「男系の男子」に限定した。国会ではかなり踏み込んだ議論が展開されたが、政府関係者の現状認識と将来展望は極めて甘かったといわねばならない。
現行の皇室典範のままでは憲法第二条の「世襲」(血のつながり)をまもることすら難しい。天皇制の短期的存続、長期的廃絶をねらう米国国務省やGHQの意向は、マッカーサーにより「皇統断絶という時限爆弾」として周到に仕掛けられた。
サンフランシスコ講和の直後に政府が皇籍離脱した旧皇族の復帰を進めなかったのは、天皇制の存続、昭和天皇の免責に満足し、将来における皇位継承の危機を何ら予見できなかったからである。今上天皇に二人の親王が誕生したことも、結果として構造的欠陥を抱える皇室典範の改正を先送りすることになった。

とある。結果「女性天皇容認すべき」という論が展開されている。ただし「男子天皇派」も必読の書。

また八木秀次著「本当に女帝を認めてもいいのか」(洋泉社)
にこんな一節がある。
八木秀次 

出でよ!平成の新井白石
百二十五代の今上天皇はこの閑院宮家出身の光格天皇の直系に当たります。つまり今上天皇のほんの数代前にもそういう男系皇統が途絶えかねない危機があったのですが、見事に乗り越えられたわけです。したがって、私としてはこの事蹟に倣って「平成の新井白石」のような政治家なり官僚なりが今こそ出てきて、宮家を復活、創設するなり、養子を認めるように皇室典範を改正するといったリーダーシップを発揮してほしい。

とある。皇室関連の本では、この問題を解決する糸口の一つとして、新井白石の「閑院宮家創設の建議」を取り上げることも多い。
やはり、強力なリーダーシップの取れる人物が必要だ、ということだろう。(それがいないのが大問題だが…)
また八木秀次の本に以下の解説もある。

光格天皇は閑院宮家の出身である。閑院宮家は新井白石の建議により1710年(宝永七年)に創設された新たな宮家である。白石は徳川将軍家の世継ぎ問題が深刻であり、徳川家でさえ、世継ぎ確保のために大奥を設けたのみならず御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(一橋、田安、清水)などの分家を用意している。朝廷・皇室も世継ぎ確保のために備えをすべきであるとして宮家の増設を提言した。その結果、伏見宮、桂宮、有栖川宮を加えて新たに閑院宮家が創設され、実にその約七〇年後の1779年(安永八年)に光格天皇を出したのである。
もしその時、新井白石が宮家の増設を提言しなければ、光格天皇の誕生はなく、したがって明治天皇も大正天皇も昭和天皇も、今上天皇もない。それどころか皇統は断絶していたかもしれない。
幕府の専横によって貶められていた天皇の権威を回復させたのが光格天皇である。光格天皇は傍流であった閑院宮家出身のためか、逆に天皇であるとの意識が強く、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱心であった。朝廷の権威の復権に務め、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。
光格天皇は後桃園天皇の急逝に伴って、わずか九歳で即位した。やがて光格天皇は「日本国の君主としての天皇」という意識を強烈に持つに至る。


やはり、現代にも求められるのは「新井白石」のような「先見性のある人物」であろう。
この点において、作家の山本七平は新井白石を高く評価している。
「天皇制を正確に分析し、正しく評価した最初の日本人は白石であろう。
彼は、天皇制をはっきりと二期に分けており、この考え方は、「読史余論」でも「折りたく柴の記」でも一貫している。」とある。
山本七平の日本の歴史
(画像は、「山本七平の日本の歴史 上・下巻」(ビジネス社) 南北朝時代を中心にして「天皇制」を鋭くついている。山本七平が生きていたら、現在の皇室問題をどう見るのか、聞いてみたいところ)

では、新井白石の閑院宮家創設の経緯を見てみましょう。
折りたく柴の記 中央公論社「日本の名著」責任編集・桑原武夫訳

 親王・皇女のお取り扱いについての意見書 
二十七日に参上した際、また意見書を奉った。その大要は次のとおりである。
「わが神祖(家康)は、天から勇気と知恵を授かり、天下を統一なされたが、これは御先祖代々が徳を積まれたためであり、これによって子孫万世の事業をお始めになることができたのである。だから、男女の御子たちが多く、そのうち早世された方もあったけれども、大藩に封ぜられて、いまもその子孫が栄えておられる方が四人まである。(紀伊・尾張・水戸・越前)。二代(秀忠)の御子で、大名となられたのは、駿府殿の事件(忠長の改易・自殺)があったあとは、いまはただ会津殿(保科正之)の子孫のみがおられる。三代(家光)の御子で、大名になられる方も二人おられた(館林の綱吉、甲府の綱重)。四代将軍(家綱)になって、お世継ぎの御子がなかった。なくなられたときには、御兄弟も御先代綱吉公だけであったので、御養子となられてから、お世継ぎとなられた。御先代の治世のはじめには、若君(徳松)がおられたけれども、まもなくなくなり、そのあとは御子がおできにならなかったので、御当代(家宣)を御養子とされたのである。だから、三代以降、将軍家のお血筋の絶えることがすでに二度までもあった。
神祖ほどの徳をもっておられてさえ、まだ百年たらずのうちに将軍家のお血筋がこのようになったということは、その理由がないわけではない。ましてただいまは、御先代の御養子となられたのであるから、私としては、ひそかに深く憂いている。このときにあたって、天が下した禍いを悔い改めて、徳川家に新たな天命がおりるようになるには神祖の徳を継承する以外にはない。もっともそれらのことは、私が二十年ほどのあいだ進講したところだから、いままた詳しく申す必要はない。
その中で申し上げておきたい一つの意見がある。元亨・建武のあいだ(後醍醐天皇の治世)、皇統がすでに南と北に分かれ、南朝はまもなく絶えてしまわれた。北朝はもともと武家のために立てられたものであるから、武家の治世と盛衰をともにされるべきであるが、応仁の乱のあと乱世がつづき、武家がすでに衰えた以上、皇室が衰えたことは言うまでもない。当家の神祖が天下統一されるに及んで、皇室でも絶えたしきたりを継承し、すたれた諸行事を再興されたのである。
しかしながら、皇室では、皇太子のほかは、皇子・皇女がみな御出家されることは、いまでもなお御衰退の時代と変わっていない。すべて身分の低い男女といっても、子を産めば、必ず家をもちたいと思うのは、世の中のむかしからの人情である。また、いまでは、農・工・商のたぐいの者でも、男にはその財産を分けてやり、女には嫁入り先を求める。まして侍以上の者では、そうでない者は一人もいない。こういう世のなかの慣習として長く続いているので、皇室でも、いま改めて申されることはないにせよ、こうした皇族御出家の慣習を希望しておられるとは思われない。たとえ、また皇室からお申し出がないにしても、これらのことについて改善の処置がなされないことは、朝廷にお仕えする義務を果たしたとは言えない。いまは、公家の人々は領地をもっているのだから、皇子が親王にお立ちになっても、どれほどの土地を差し上げるわけでもない。皇女が御降嫁なさっても、どれほどの国の財産を費やされるわけでもない。この国をひらかれた天照大神の御子孫がこんなようでいらっしゃるのに、徳川家康公の御子孫が常しなえに繁栄されることを望むというのは、いかがなことであろうか。
しかし、私が言うようにしたならば、これからのち代々の皇子・皇女が多数おられるようになっては、天下の富もそれぞれお受けになるところが足りなくなるのではないかと言うこともあるかもしれない。むかしから、皇子・皇女が数十人おられた御代も少なくないけれども、それらの御子孫がいまにまで続いておられるのは、いくらもいらっしゃらない。『天地のあいだには、自然の定数というものがある』とむかしの人は言った。これらのことは、人間の知力ではおしはかることはできない。ただ道理が合っているかどうかだけを論ずるべきである。
また、皇子の御子孫が多くなっては、けっきょくは武家のために不利なこともでてくるのではないかということもあるかもしれない。高倉宮(後白河天皇の第二皇子以仁王)の令旨によって、諸国の源氏が蜂起したけれども、これは平清盛に非道なことが多くて、家が滅亡すべき時期にきていたのである。もしこれらのことを教訓とするなら、北条高時が滅んだときに令旨を出されたのは、梨本の御坊(大塔宮護良親王)ではなかったか。だから、たとえ出家された御身分であっても、武家に不利なことがないとは言えない。これらは、ただ武家政治の良否のみに関係することである。すべてこれらのことをよくよくお考えになっていただきたい」
この意見書をご覧になったあとで、二、三回仰せがあったのち、「おまえの意見は道理にかなっている。しかし、これは国家の大計である。十分に考えてみよう」と仰せがあったが、やがて、いまの法皇の皇子秀の宮(直仁親王)と申す方に、親王になられる宣下を下されるようにと仰せだされた。その後また御先代(七代、家継)に皇女(霊元天皇の皇女八十宮吉子内親王)が御降嫁されることも決められた。
これらのことは、私がこの国に生まれて、天皇の御恩に報いたことの一つである。しかし、私がひそかに憂いていたように、御先代がお亡くなりになって、とうとう将軍家のお血筋が絶えたことは、人力のとてもおよぶところではない。しかし、また私がこれらのことを申し上げておいたこともあるので、将来のことも深く考慮しておかれた通りに、御当代(八代、吉宗)があとをお継ぎになられたことは、これまた天下にとって幸いと言うべきであろう。

秀の宮のこと、ある高貴な方が昔から親王家を立てることは困難なことだという理由でとめられたが、その意見を用いることなく、朝廷に申し出されたと聞いた。まことにありがたいことである。しかし、このことは私が直接お聞きしたことではないので、本文にはかかなかった。

この意見書は、朝廷から将軍任命の宣旨をうける儀式に関係したことがあったので、そのときに提出したものである。

とある。
ついでに、新井白石が尊王家であったと思わせる記事を、「折りたく柴の記」から拾っていくつか載せておく。

「天皇元服の儀式拝観、琉球使節に伏見で会見「宝永八年(1711年)正月元旦、天皇御元服の儀式を拝観した。この日、まぢかに天皇の拝見したのはありがたいことである。」

「法皇の姫宮お輿入れの相談 「この年の冬、霊元法皇の姫君が上様にお輿入れなさることが決まり、来年の春には、阿倍豊後守正喬殿がそのことのお使いを承ると噂された。これは武家始まって以来はじめての例である。いまは見果てぬ夢となったけれども、このうえなくありがたいことである。」

とある。
幕府の中核にあって、皇室に目を向けていたという人物はそれほどいないであろう。

また、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」では、こう解説している。
人物叢書 新井白石

朝幕関係の融和増進
まず朝幕関係であるが、初代家康の時、禁中並公家諸法度が作られて以来、表面は恭順を装いながら実際には幕府は朝廷抑圧の方針を採り、二代秀忠の時には早くも紫衣事件を引き起こして、三代家光までは両者の間には緊張関係が続いた。それをある程度緩和したのが四代家綱の時で、五代綱吉に至って御料地の増献や天皇御陵の修理など種々の朝廷尊崇の態度を示したことにより、ようやく感情の融和がもたらされたのである。これをさらに促進したのが家宣の時で、それには家宣の正夫人を代表的公卿、近衛家から迎えたという婚姻政策も多分にあずかっているが、白石の進言、皇子皇女の出家廃止案が採用されたことが、朝幕関係を格段に親密化し朝廷の幕府信頼を確定的なものとしたと認められる。この白石の進言の根底をなした理念が、皇室と徳川家の共栄であった点において、従来の幕府側の対朝廷策とは異質なものであり、次元を異にするものだった。
この進言は家宣の将軍就任早々のことであるが、その要旨は、神祖(家康)の功徳にもかかわらず、どういうわけか当家の世継ぎは順調に進まず、三代以後嫡流の絶えること、すでに両度に及ぶという憂うべき状態にある(四代家綱に後嗣なく五代綱吉の嗣子も夭折した。)こういう不祥事を取り除くためには、将軍自らにおいて神祖の徳をつがれることが必要であるが、他方では朝家の御栄えをはかることも考慮されなくてはならない。ところが朝家の現状を拝見すると、皇太子以外は皇子皇女ともに皆々出家される状況は中世の衰時と変わるところがない。これは人情の自然にもそむくことであるが、長い間の習慣のため朝家でもこれについては何も申されない(現状を黙認)のであろう。朝家がこういう状態に陥っておられるのに、当家のみが永久に栄えんことを望むのは不合理というべきであろう。皇子皇女が多数になられれば朝家の費用がかさみ、財用に事欠くに至るだろうとの意見も出てくるであろうが、天地の間には大算数(人智では測りがたい循環の理法)というものがあるから、案ずるには及ばない、要は理の当否をこそ問題とすべきである、というものだった。
この進言を道理にかなうものとして家宣が一応受理したが、「国家の大計」に属する事柄であるから熟慮した上で、岳父の近衛基凞を通じて朝廷側の意向を聞き、中御門天皇がこの提案を嘉納されたとの通報に接し決断を下した。結果は白石の進言通り事が運び、宝永七年(1710)八月に至って東山天皇の第七皇子秀宮(直仁親王、中御門天皇の御弟)に親王の宣下があり、いわゆる閑院宮家の創立となった。(宮号はのち享保三年<1718>にあたえられる)
自らの進言が現実を見たことについて白石は、「これらの事ども、我、此の国に生まれて、皇恩に報ひまゐらせし所の一事也」と述懐している。
この閑院宮家の創立の意義の大きさが立証されるのは約七十年後のことで、後桃園天皇には皇子がなかったため秀宮の孫宮・兼仁親王が天皇の猶子(養子)となって皇位を継がれることになり(光格天皇)、皇位継承に支障がきたすことがなかったのである。
こういう事態は白石の予想しなかったことであるが、その朝幕共栄の理念と願望、これを朝廷側に即していえば、白石の皇運長久の念願と遠い慮りとは皇位の断絶を救うことになったわけで、明治になってから(40年)白石に対し正四位が追贈された主な理由は、右の功績にあったようである。
他方皇女の場合について見ると、秋子内親王の伏見宮家への婚嫁があった。これは次の七代将軍家継関係のことであるが、正徳五年(1715)に霊元法皇の姫君、八十の宮(やそのみや)の家継の降嫁決定という慶事があった。幕府の降嫁奏請は同年九月上旬のことであるが、同月二十五日に勅許がくだった。時に将軍家継は七歳、八十の宮はわずかに2才という幼少の両人の婚約であるが、これも朝幕融和策から出た案として注目されるもの、不幸にして家継が翌六年四月末に死去したため結実しなかった。しかし八十の宮はこれ以後、この婚約を尊重され四十二年の長きにわたって独身生活を続けられたのである。宮の貞節は見事であるけれども、痛ましい限りと申すべきであろう。
白石は「これ武家の代はじまれる此のかたの初例なるべし。今は見果てぬ夢なりけれど、誠にありがたき事にこそ」(折りたく柴の記)と述べ、自らの理想の実現しなかったことを嘆いている。この文面からしても、幕府の八十の宮は降嫁奏請は白石の献策に基づくものだったことが推測される。
白石はとくに朝鮮との外交に際し、将軍の書簡に「日本国王」号を用いたことで当時以来強く非難批判を受けてきたし、幕府中心の政治観においても同じく批判にさらされてきたが、師順庵の影響もあって、「天子一姓」のわが国の姿を是認し、また自負していたのであって、上記「朝幕共栄」案が生まれたのも自然のことで怪しむに足りないであろう。



まとめ
山本七平は、新井白石の天皇観を以下のようにまとめている。
「天皇家が栄えることは武家が栄えることなのだから、天皇家を大切にするのは当然の義務だ、という考えが基になっているのである。と同時に白石は、公家と武家は、はっきり別のものと考え、この二つを一種の『教権』『帝権(政権)』の分立というような形で捕え、両者は相互に干渉してはならないとも考えている」
まさしく「朝幕共栄」「「朝幕併存体制」である。
これについては、井沢元彦の「井沢式、日本史入門講座5 朝幕併存と天皇教」(徳間書店)が詳しく、分かりやすい。「日本では、鎌倉幕府の成立以降、明治維新まで、「朝廷」と「幕府」がともに存在し、両立している、これは中国史にもヨーロッパ史にもない世界でも珍しい体制なのだ。」というのだ。
井沢元彦「日本史入門」(読みやすく、理解しやすい。)
これは、ある意味、福沢諭吉の「帝室論」と同じ考えだといえるかも。(「帝室論」は後日)

さて、「天皇制」「「皇位継承問題」については、多くの人が発言し、様々な意見が出ている。ただ、サヨク的思想の持ち主の「男女平等の観点から女性天皇がいい云々」「皇室の人々には自由がない、基本的人権の観点から云々」といった偽善的妄説や、「我々の税金が皇室に無駄に使われている云々」「愛子さまが可哀相だから云々」といった浅慮な妄言などを聞くと、本当に嘆かわしくなる。元々、「皇室」「国としての日本」「伝統や文化、歴史」などを深く考えたことのない人々である。意見を述べるのは自由だが、この的外れな言説にマスコミをはじめ一般人も、右往左往され、惑わされ過ぎているように思える。
「皇室を守る」「日本を守る」というものを考えるときに必要なのは、日本を憂慮した先人たちが残した意見あり、そこに耳を傾けるべきなのではないのか。
本居宣長、平田篤胤らが今の日本を見たらどう思うか。福沢諭吉、安岡正篤が今の「皇室問題」を見たら、何を提言するのか。
そういった先人の偉大な国士たちが、今現在生きていたら、何を発言し、どう行動したのだろうかを考えるべきなのだ。こういった視点を持つことが、現代の皇室を取り巻く問題を解くカギになるかもしれない、と思う。
そして、新井白石は皇統が絶えるのを危惧し、宮家創設を進言したのだ。(中川八洋の「旧皇族の皇籍復帰による、男系男子(男性天皇)主義の絶対維持」に近いだろう)
中川八洋

まあこれくらいにしておかないと、今回の本題からどんどん外れてしまうので、これら「皇位継承問題」は後日ということで。
何はともあれ、「新田源氏を名乗った新井白石が、皇室を守ったということは動かしようもない事実なのである」、この一点だけはお忘れなきように!
(そして、正田家は新田一門だ!ということも……。)

次回に続く。
3回目は「対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ」です。

新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続きシリーズ 新井白石編 1、新井白石は「新田源氏」だったのか?

新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続きシリーズ 新井白石編その2
前回の続き

では、1、新井白石は「新田源氏」だったのか? を見ていきましょう。

新井白石の事蹟については、省略。Wikipediaで確認を。
ここにもあるように氏族は「上野源氏新田氏庶家」とあり、脚注では「 『姓氏家系大辞典』(太田亮、1934年)などでは白石の遠祖は新田義房の子荒井覚義の子孫とする。加えて『系図纂要』では白石の祖父の代に新井姓に改めたと伝える。」とある。
まあ、通常の知識としてはこれくらいでいいのですが、当ブログでは新井白石が新田源氏を名乗ったことが重要であり、このシリーズの根幹となるところなので、詳しく見ていくことにします。
(あとは長文の引用が続きます。要点は「まとめ」のところで)

まずは、新井白石著折りたく柴の記(中央公論社「日本の名著」責任編集・桑原武夫訳) から。

祖父母のこと
「私の祖父は勘解由様と言い、祖母であられた方は、染屋某の娘である。お二人とも、常陸の国の下妻庄でなくなられた。新井というのは、もともと上野国の源氏で、染屋はもともと相模の国の藤原氏であるのに、……」

とある。
また世良田長楽寺所蔵の新田氏系図 のところでは、

上野国新田郡世良田庄の長楽寺の住職・広海住職は、私が年来親しかった人である。その寺の宝蔵に鎌倉時代の代々の古文書と古い新田氏の系図が一巻あった。
世間で知られている系図と同じものではない。私の家の姓などのことも書かれているので希望したところ、写しを取って下さった。それはものを調べてみると「世間で知られている徳川家の御系図というものには合点がいかぬところがある」と思っていたが、家宣公がお世継ぎになられたのち、御系図のことに言及されたので世上に通用している御系図には十の疑問点があることを記して差し上げた。
その後、また近衛の竜山公(近衛前久)がその子三貘院(さんみゃくいん・近衛信尹)へ差し出された手紙があるわけであって、いまの太閤(近衛基熙)から上様にご覧入れたところが、私が申し上げたところと合致するところがあったので感心されたとの仰せがあった。
こんど若君が御誕生になって世良田とお呼びしたことによって、あの広海僧正がやがて日光の准后(輪王寺宮公弁法親王)を通じてその系図をしたいと言われたので同月二十九日、准后がその旨を伝えられ、僧正のおられる寺から結局(八月二日)御系図を献上された。

私の家にある新田系図一巻は、その僧正のおられた寺の斎藤という者に模写させて送られたものである。また竜山公の書と題して小さな奉書紙を二つに切ってつないだものに書いたのは、あの太閤がご覧に入れたものを私に写させられたときに、お許しを得て、「私も一本写しとうございます」とお願いしたところ、「好きなようにせよ」と仰せられて写し取ったものである。

とある。
新井白石 新田三家考(画像は「上州及び上州人」大正11年 57号~64号まで、新井白石「新田三家考」が掲載されている。)


次に橋本幸雄著「長楽寺改宗と天海」(岩田書院)
から。 

「寛永寺と増上寺の確執の要因と新井白石の主張」の章
新井白石の随筆「折りたく柴の記」によると、正徳四年(1714年)十一月、増上寺の住職、三十七世大僧正詮察が幕府に、「来年は家康公の百年忌に当たるので、唐山の安国殿(家康公の廟所)の修復を兼ねて法要を行いたい」と幕府に願状を差し出した。
それを要約すると、「安国殿の神像は自分の姿を鏡に写して作らせ詰めと髪を中に込められたもので、三代家光公までは御尊敬の念は特別のものであったが、四代家綱が幼少であったので、参詣も途絶え、家康公の神殿も草むらの中に朽ち果てて仕舞いました。家康公の神殿は奥行き六間、間口十五間、内部は畳六十六畳を敷き、社殿の前に鳥居が立っており、これは全国六十六州を鎮護される為のものです。御先祖大光院殿(新田義重)以来、浄土宗に帰依されていたので、家康公がわが宗の奥儀を伝えられた時、戒名を「安国院徳蓮社祟誉道和大居士」とお付けました。
そして三年忌の法要まで当寺で行われましたが、日光山に家康公の遺体が改葬されて後はわが寺で法要などが行われなくなりました。御先代(六代将軍家宣)の時、家康・秀忠公の御志を継がれ、わが宗が御再興下され、わが寺で家康公の百年忌を行う事は、御先代の家宣の御意思を継がれる事となります。近くでは五代将軍綱吉(常憲院殿)の御法要も我が寺で行われた例がございます」と、願い出たのである。
これに対して幕府老中は如何したものか御用人の間部詮房に相談した。詮房はその事を新井白石に一任した。
新井白石は上野国世良田長楽寺の文書を引用して、御先祖が代々浄土宗に帰依していたということは無い事、又和泉入道殿(家康の六代の祖・松平信光)の時から浄土宗に帰依されていたが、本光国師(崇伝)の日記によると、家康公の御中陰の御法事は増上寺で行われているが、内々の事だったので上皇から送られた御香奠も受け取っていない、又、その後の一周忌・三周忌の法要は増上寺で行われた訳ではない。そして当時の東照宮の法要の日記を差し出すよう求めた。又安国殿の参詣が無くなったのは浄土宗の改旨を改められたからであろうか、それらの事を書面に書いて返答するように要求した。
それに対して増上寺側は、当時の日記は度々の火災で失い証拠となる物がない事、始めは安国院などの号でお呼びしていたのだが、元和三年(1617年)二月以来東照宮大権現の勅諡号だけを唱えるようになり、この度の家康公の百年忌の催しが許されるなら、わが宗にとって、これ以上の興隆の機会はありません、と答えた。それに平岩主計頭親吉の著作「三河後風土記」を例に出して、そのことが詳しく記されていますと、答えた。
新井白石はそれに対して、親吉は家康公の亡くなる以前に他界しており、家康公の亡くなった時の事が書けるわけがなく、それは増上寺のまったくの妄想だと一蹴している。そしてこうした事柄を明らかにあいた上で、浄土宗は徳川家が代々御尊崇された宗旨であり、増上寺は徳川家康の菩提寺である。それなのに、そのような根拠の無い事を言うと、他の寺院等に聞こえた場合不味いことになると書いて、願い状を下げ渡した。やがて増上寺側から始末書が出され何も言わなくなり、この事は一件落着したのである。
これを見るに、白石が増上寺側に詭弁を呈して無理やり屈伏させた感がある。白石は先に述べた、長楽寺文書を例に上げ真っ先に増上寺側に反論している。長楽寺は寛永寺との関わりの深い天台宗の寺院で、この寺の調査をやった白石は、長楽寺系図に新井(荒井)姓があるのを発見し、自分は新田氏の一族で徳川氏と同系の清和源氏の家柄であることを非常に喜んで、その系図の写しを長楽寺の住持の広海僧正から貰っている。つまりこの時の調査を基に白石は「新田三家考」を著している。要するに新井白石は天台贔屓だったのである。すでにこの時から幕府内部でも政治的に浄土宗と天台宗の確執は始まっていたと考えられる。

とある。
新井白石 長楽寺古文書目録(画像は「上州及び上州人」に掲載されていた「新井白石 長楽寺古文書目録」)

宮崎道生著「人物叢書 新井白石」
では、

新井家系であるが、いま、白石自筆の「新井系図」(「新井氏族志」所収)によって、系図中最も確実と認められる部分、白石までの三代と、それの前書の文を掲げると次の通りである。
「新井は上野の国新田の邑の名、旧(も)と荒居に作る、今用いる字の如し。家先、新田大炊助源義重の曽孫、蔵人義兼の孫、蔵人太郎義房第二子、荒居禅師覚義の後より出づ。家紋は花菱或いは竹に雀を用ふ。兼ねて田字草を用ゆるはすなわち君美(白石)より始る。
<中略>
「新井系図」には、遠祖源経基以降の系図がある。
<中略>
これらを補うものとして、「折りたく柴の記」はもちろんのこと、同族岩松義元のために白石が書いた「岩松家系付録序説」があり、安積澹泊・佐久間洞巌宛の書簡などもある。

とあり、また、

「なお挙げれば、荒居と新井の繋がりの問題もあるが、これについても澹泊宛書簡(享保九年<1724>八月九日)において、私の家号はもとは荒居とも荒井ともしるし、上野国の由である、それが何時ごろからか新井と書き改め、上野国の地名も今は新井になっている、といい、「新田の支流に候へばそれらの事故も候歟」と述べているだけにとどまる。この件については、水戸の系図の専門家丸山可澄に調査を頼んだが回答は得られなかったようである。
要するに新井家を「新田の支族」とする白石の考案は、確証とすべき文献史料を欠くだけに、一見精密のようではあるが、そのままに信受するわけにはいかないというほかはない。ただし、白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」

勝田勝年氏は、「新井家系」が祖父を武家の棟梁である清和源氏の子孫とし、祖母を公家の棟梁である藤原氏の子孫とするのは、文武再興の門閥を組み合わせて新井家の門地を高めようとの意図から出たものである、と解釈されている。(「新井家系の研究」)。これは大変うがった評論であるが、白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。
それと同時に、「新井家系」においても「読史余論」や書簡においても、新田義貞及びその子孫の南朝への忠義忠節を特筆大書し、思慕の情を披瀝していることの理由がよく理解されるのである。

とある。
重要なのは、太字の部分。実際に新田源氏の血を引いているのかは疑わしい。しかし白石自身は自分が「新田一族の末裔」だと信じ、その「新田義貞及び一族のイデオロギー」を受け継いだという事実だ。


では、「新田一門史」の新井氏はどうかと言えば、太田市、伊勢崎市、藪塚本町、利根郡、黒保根村の新井氏についての記述がある。

そして、新井白石については、小暮氏のところに記述がある。

太田市新井に在住する小暮 氏~小暮一氏~小暮徳弥氏~小暮行雄氏
新井覚義禅師の末裔であるが、改姓した理由は、年貢の取り立てが厳しく「小さく暮す」と小暮氏とした。江戸時代寛永中期、新井九兵衛のときだった。代々名主をして苗字帯刀を許された。この新井覚義の子孫に享保の改革者、新井白石がいた。新井白石は徳川六代将軍家宣に登用された学者で彼はドッチと会談して「西洋記聞」を出版した。将軍家宣が没して、家綱―吉宗と三代に仕えた。当時、貝原益軒、稲生若水ら学者と交友した。白石は良貨を発行し、銀の海外流出を防ぐため長崎貿易を制限した。つぎに幕府の威容を張るために学殖を傾けて礼式、服制を整え、皇室を尊び、更に朝鮮の待遇を改めた。これらの政治を「正徳の治」という白石は歴史、言語、宗教なぞ多方面に当時としては驚くほど清新な、しかも考証をもとにした学問的な功績を基にした学問的な業績を成し遂げた。
彼がこのような学者だから、八代将軍吉宗は、徳川家康の地は新田荘であると称し、世良田の長楽寺や徳川邑を優遇した。これらの歴史を白石に聞いたので、吉宗は代官に命じて新田荘や寺尾にある新田義重の墓地なぞ調査した。
これら吉宗の調査書、新井白石考、松陰私語、その他沢山の記録を調べて、陸奥守源義家三男式部大輔義国長男大炊助従五位下源朝臣新田義重二十五世新田俊純が「第七十五号」華族に編入された。
(新井白石が新田氏の分族であったので新田氏の歴史や、系図書が役立ったのである。新田一門史に白石考あり)
小暮氏に本居宣長の書軸が蔵しているが、宣長は国学を前進させた学者で新井白石が活躍した享保年間、八代将軍吉宗の時代の人物である。それで小暮家に本居宣長の書軸がある、また、新井文右ヱ門照房は……以下省略


また尾島町の新井氏の項目では、

新井氏の記録は、新田氏六代基氏の次男で、新田荘六合村新井に住み、新井覚義が祖なり。基氏二男は、義貞の叔父だから、大館氏、堀口氏よりも、近親である。
大館氏や堀口氏は鎌倉攻めの大将だった。新井覚義も当然大将のはずであるが、旗頭にも出ていない。最も義貞の旗本だったと考えればいいが。新井覚義は義貞、義助に従い軍功あり。その子義基は興国元年、懐良親王に従い九州の菊池氏と豊前馬ヶ岳城に拠い義を唱えた。その子義氏、孫義高、曽孫義通らは時至らず自殺す、という記録あり。江戸時代の学者、新井白石は覚義の末裔と称す。

とあった。
それに、上州及び上州人 昭和12年・242号では、

豊國生「世良田の長楽寺と新井白石先生に就いて」
世良田の長楽寺の古文書はすべて新井白石先生が徳川家の命を受けて鑑定、整理、且つ編集したものであるが、本誌は新田男爵家の承認を得、また東京帝大史料編纂所の許可を得て、正木古文書(又は新田岩松文書)を掲出しつつあることになるが、更に同文書を姉妹関係を有する世良田長楽寺をも本誌に掲載するにつき同寺当局の快諾を得たので、これにも少しく白石と長楽寺との関係についても記しておく必要を感じるのである。
徳川家と長楽寺との関係は、徳川氏祖先以来のことであるが、専らこれが楔となったのは先に、天海僧正であり、後に新井白石ありと云うことができよう。
新井氏の祖先は新田郡新井村を出で、徳川氏と同じく新田族であると宝永の頃、長楽寺の住職広海僧正とは……以下省略

とあった。
新井白石が書いた「新田三家考」により、岩松満純は実は新田義宗の子であり、それによって新田岩松家が家系血統とともに純然たる「新田の血統」を継いだことの証明となった。これが明治維新の新田俊純の男爵叙勲につながったとも言われる。(これは井上馨・渋沢栄一編につながっています。)

そして、現在でも群馬県太田市には、「新井」という地名は残っている。
太田市新井町1

太田市新井町2
太田市地図で確認してみてください。ほぼ中央にあります。

まとめ、
新井白石が新田源氏であるかどうかは大したことではないと思われるだろう。
しかし、それが「新田一族、新田一門」あるいは、その家臣、または一緒に行動を共にした「児島高徳」の末裔だと知った瞬間から、たちまち彼らは「尊皇家」になるようだ。
新井白石もそうだった。

上記、宮崎道生著「人物叢書 新井白石」にあるように、「白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」
「白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。」

とあるように、新井白石は、新田源氏として何を自覚し、何を意識したのか

ということで、次回の2、皇室の系統を守った新井白石は、新田源氏の使命だったから?へ続きます。

「新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続きシリーズ」次回からは新井白石です。

「天皇論と今後の方針」で予告したように、「新田義貞伝承を追う!実は東毛奇談の続きシリーズ」を再開します。  
次からはしばらく「新井白石」をやります。
なぜ、新田義貞伝承で、新井白石なのか?って。
それは、新井白石が「新田源氏の末裔」を名乗っていたからであり、白石は官位「筑後守従五位下」で、「源朝臣君美」という姓を使っていた。
しっかりと源姓を使っていますが、これが新田氏系なのです。
とりあえずは手始めに、以前これについて書いた部分を再録しておきます。

江戸中期の学者・新井白石は「新田庶家」の流れを組む者。
「上毛及び上毛人」56号(大正10年)によると、新井白石が書いたとされる書物が発見されたとある。
それは「義家朝臣古園考」「左中将源公没年考」「新田世良田徳川三家合考」「岩松家系附録序説」「長楽寺古文書」で、発見者は戸田氏之とある。
すべて、「新田一族」に関するものだった。
なぜかと言えば、第一に、徳川家が新田一族の末裔を称しているからその調査という目的もあっただろう、また第二に、新井白石自身の祖先も新田一族に連なる者だと云われていたので、これを調査し著述したのだろうと思われる。
ここ「上毛及び上毛人」本文には、「白石の父正済は新太郎と称し新田郡新井村の出身であることは口碑にも伝えられ、正済の伝は上毛偉人伝にも出ているが、白石全集には「新井家系」も出ているので読んでみると「我則上野人也」と明白に書いてあった」とある。
また、橋本幸雄著「上野国世良田 長楽寺改宗と天海」(岩田書院)の中にもこの件に関して詳しく書かれてあり、新井白石が新田一族の中から自分の祖先につながるものを発見したとき、狂喜乱舞しそうなほど喜んだとある。
というのも、新井白石の身分はもともと「浪人の小せがれ」であり、名門を誇る老中からみれば「町人学者、浪人学者」と疎まれる存在だった。それが、将軍家と同じ「新田氏」系の流れを組む家系であったとなれば、まわりの目も違うだろうし、本人の自尊心も満たされることになっただろう。
実際に新田氏の末裔であったかは分からない。しかし、新井白石が自分は「新田氏の末裔」だと信じ、「新田伝承」を受け継いだということが重要で、その自覚が本人にがあったという点が肝心なのだ。
さて、この新井白石は実は「尊王主義」だったという、これはよく覚えていてください。のちに「新田義貞伝承を追う!シリーズ」の根幹になるからです。(「新田伝承」を持つ者は「尊王思想」があるということ)


ということで、次回からの「新井白石」について項目は3つ。
1、新井白石は「新田源氏」だったのか?
2、皇室の系統を守った新井白石は、新田源氏の使命だったから?
3、対中国、対朝鮮、日本の取るべき外交姿勢は、新井白石に学べ。

の三点。

次回に続きます。

相撲を「世界市民」レベルで語る「粕谷一希」ってそんなにエライ人なのか?

粕谷一希」がどんなに偉いか知らないが、変なものは変だと言いたい。

平成21年10月16日 読売新聞「文化面」から
大相撲 国技と国際競技の溝
粕谷一希(評論家)

大相撲秋場所が終わってしばらく経つが、今も余韻が残っている。千秋楽の最後まで白熱の土俵がつづき、門外漢のひとりに過ぎない私などもTVを通じて、毎夕楽しんだ。危ぶまれた朝青龍も白鵬もモンゴル出身だが、彼らだけではない。琴欧州や日馬富士など、上位陣の多くが外国人になってしまった。これは21世紀の日本にとっておめでたいことだが、多少の懸念がないわけではない。いまの相撲協会の対応を眺めていると、一方で国際化の波をうまく受け入れていながら、他方で国技としての性格を強調しすぎるように見えることである。
問題は、朝青龍が地方巡業をサボってモンゴルで競技に出たという事件で顕在化した。問題はともかくも収まったが、どうもものままでゆくと、これからも繰り返される可能性がある。相撲が日本の伝統的な国技であることは当然だが、これだけ国際化すると、柔道同様、国際社会との間に不適応が起こりかねない。
朝青龍は「私は日本が好きだから」と愛嬌を振り巻き、内館牧子さんとの握手が大きくTVの映像に映し出されていた。本来、朝青龍がサボったことも、祖国の政府の依頼だったようで、そうだとすれば、外国出身の力士たち全員の問題となる可能性がある。要するに、今日、相撲は国技であると同時に国際競技となりつつあり、外交問題となる側面をはらんでいる。出身地が中国周辺、ロシア周辺の小国であることも問題を複雑にしている。
モンゴルという存在は、ジンギス汗、クビライ以来、日本との関係は深く長い。梅棹忠夫という人類学者は、現地観察を「モンゴル族探検隊」(岩波新書)という大ロングセラーとしてまとめ、著作の出発点とした。また、司馬遼太郎は大阪外国語大のモンゴル語科を卒業し、晩年の著作は、「草原の記」(新潮社)だった。梅棹さんも司馬さんも、日本を代表する著作家であるが、お二人の観察はモンゴルを拠点として、中国大陸やシベリアに及んでおり、今後とも東アジアを占う重要さを含んでいる。
モンゴルと交流することは、そうした歴史や文明とつながっており、日本側の国技という視点だけではすまない問題であろう。伝統は大切であり、儀礼や格式は社会の基礎である。ただその伝統も不断に外からの波によって変革を強いられているのが歴史である。21世紀の日本人はこの二面性を巧みに使いこなし、国際社会から親しまれ、尊敬される存在となる必要がある。
グルジア出身の力士がいる。このスターリンの出身地が、今日のロシアの中で難しい立場に立たされている。われわれは、グルジア出身の力士と付き合うことで、自然にグルジアという地域の今日の問題を学びとることができる。そうした世界市民となることも、日本人としての伝統を磨くことと同様大切であり、21世紀を生きる資格要件のように思う。われわれ自身の振る舞い方を工夫してゆきたいものである。


これを読んでいて、「ハァ~」と首を傾げるような記述ばかりで最後には呆れてしまった。(朝日新聞にありそうなコラム)
変なところをいくつか挙げてみる。
外国人力士が帰国したときに問題なるのは「朝青龍」だけであり、この特異な人物、一人を取り上げて、「国際問題だ」「国際社会との不適応」などと結びつけるのには、無理がある。
それにいつから相撲が国際競技になったのか?外国人力士が増えたことが、これイコール「国際的競技」となったわけではない。相撲はスポーツではなく、「日本文化」の中でしか成立しないものだ、ということはかつて書いた。
本文中にある「21世紀を生きる資格要件のように思う。われわれ自身の振る舞い方を工夫してゆきたいものである。」って言うけど、どんな振る舞い方すればいいの? あれ、「相撲、国技と国際競技の溝」の結論は? 相撲の話どっかいっちゃってるし……。
まあ、このエライ人が言いたいのは「日本の伝統、歴史はほどほどでいい。(ほんとのこと言えば必要ない) 日本も国際社会に生きていくために立派な世界市民になろう」ということだろう。だから「相撲」はこのことが言いたいための「ダシ」に過ぎない。

世界市民」って。
これ左の人の大好きな言葉。同義語が「世界平和」で、反対語が「民族主義、国家主義、ナショナリズム」……、あとは検索してください。

それにしても、「相撲」をネタにしてこんな事を言う人が周りにいたら、私はその人を罵倒し、コケにします。それがどんなに「エライ」人でも……。

過去記事
テレビ番組「田舎に泊まろう」と相撲巡業はマレビトか?
朝青龍マレビト論
「神事としての相撲」
「私は帰ってきた」朝青龍の言葉に見るマレビト。

コボちゃんがお兄ちゃんに!

平成21年10月15日 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20091014-OYT1T01168.htm?from=navlkから

「コボちゃん」ママ妊娠
 読売新聞の朝刊4コマ漫画「コボちゃん」(植田まさし作)の14日掲載分で、主人公・コボちゃんの母親、田畑早苗(ママ)が妊娠した事実が明らかにされ、反響が広がっている。
 同日の第9764回では、「二人目ができたの」と早苗が妊娠を報告。これを受け、ネット上ではグーグルの急上昇ワードランキングに「コボちゃん」や「植田まさし」が登場し、ヤフーのニュースにも取り上げられたほか、個人のブログでも、「まさかの超展開」「ママおめでと」などの発言が相次いだ。
 田畑家は、5歳の主人公と両親、祖父母の3世代家族。途中から登場し居候していた親類の竹男が4年前結婚し独立したことを除けば、1982年の連載開始以来、家族構成に変化はなかった。
 第2子の性別や出産時期は未定だが、植田さんは、「私自身もこれからが楽しみ。しばらくは妊娠関連のエピソードが多くなります」と話している。


そして、この話題が朝日新聞にも載っていた。(何と!朝日新聞でコボちゃんが!)
コラム「青鉛筆」

読売新聞で連載中の4コマ漫画の主人公「コボちゃん」がお兄さんになる。14日付けでママが照れながら「二人目が出来た」と報告した。
連載28年目で驚きの展開に。 コボちゃんは5歳の幼稚園児。作者の植田まさしさんは「一人っ子は寂しい」と数年前から弟か妹を誕生させたいと考えていた。「どちらになるかは秘密です」。
「ライバル」の慶事に、本紙夕刊で「地球防衛家のヒトビト」を描くしりあがり寿さんも「男児か女児か。知り合いの家族をのぞくよう。楽しみにしています」とエールを送る。


朝日新聞でコボちゃん

娘が「コボちゃん」をスクラップにするほどのファン。これからの展開気になります。
「コボちゃん」の過去記事。http://pcscd431.blog103.fc2.com/?q=%A5%B3%A5%DC%A4%C1%A4%E3%A4%F3

人気の「週刊マンガ日本史」は朝日新聞社だが、思想的に大丈夫か?

いま盛んにTVCMが流れている「シリーズ週刊マンガ日本史
週刊マンガ日本史
人気漫画家による日本史、これはいいぞと思ってよく見てみたが、「朝日ジュニア」とある。つまり出版元が「朝日新聞」ということだ。
大丈夫かな? 
「朝日新聞」が「日本史」で、しかも「子供向け」と聞けば、偏ったイデオロギーが盛り込まれていないか心配である。
で、この本のホームページhttp://publications.asahi.com/manga/を見てみた。
全50冊だが、その中で気になるのは、アイヌの「シャクシャイン」と沖縄の「ひめゆり学徒隊」だ。
う~んこれは、かなり危険だ。日本史を50回で分けて、あえてここを選んでいる時点で、出版元の何らかの思惑があると見て間違いないだろう。
「アイヌ」と「沖縄」が左翼運動の活動拠点のようになっているというのを「小林よしのり」の本で読んだ。またこの小林よしのりの「沖縄論」「アイヌ論」に関する批判も多い。つまりそれだけ、右・左の論争の場となっているということ。そうなると、ここに朝日新聞特有のサヨク思想がふんだんに盛り込まれそうな気する……。(「残虐な日本軍」とか「少数民族を虐殺した大和民族」とかいった具合で)
それに「平塚らいてふ」「杉浦千畝」、「東条英機」「マッカーサー」という人選にも、かなり嫌な予感がするが……、要注意。(東条英機の回で「軍国主義」「侵略国家」「従軍慰安婦」「南京大虐殺30万人」などと書きそうだ)
朝日新聞の歴史観はかなり偏向しているので、これを子供が読んで感化(洗脳)されないか不安である。

「人気マンガによる日本史」などという取っつき易い手口で、子供を引きこんで、変な歴史観を埋め込まれたくはない。良心的な親や大人は、朝日新聞がいかに無茶苦茶な報道に続けているかを、井沢元彦高山正之の反朝日の本を一冊でも読んでから、この「マンガ日本史」を子供に読ませるべきか考えるべきだ。

ほんとに「日本が危ない」から。

それに、監修が「河合敦」とある。私はこの人が嫌い、というより、許せない。偉人を取り上げては「実は○○だった」とか「本当は××だった」といったそんな偉人達を貶めるようなネタ(自分の飯のタネ)ばかりを、さも自分が発見したかのように言う態度が、私にはどうもにもならないほど腹立たしくなるのだ。
それにこんなところでも、小遣い稼ぎをしている。こんなのが歴史研究家なんて名乗っている時点で許せん。
関連記事①、関連記事②、関連記事③
こういう「偉人をおちょくるようなネタ」をテレビで広めた張本人の一人。


で、一応、注目の南北朝時代は、「足利尊氏」。描くのは「森ゆきなつ」。
検索してみると「絵が……」


しかし、出身は群馬!
まあ、とりあえずは新田義貞を悪く描かなければいいです。
過去記事「里中満智子が描いた新田義貞」




日本が危ない!教育が危ない!

産経新聞 「主張 岡田外相 心配な村山談話の絶対視」から
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/091009/plc0910090326003-n1.htm

 岡田克也外相が日本外国特派員協会で、村山談話について「言葉より行動だ」と、より踏み込んでいく考えを示した。外相は行動の中身を明らかにしていないが、極めて危うい考え方である。
 村山談話は自社さ政権時代の平成7年8月15日、社会党の村山富市首相(当時)が発表した談話だ。アジア諸国に対し、日本の「植民地支配と侵略」に対する「痛切な反省」と「心からのお詫(わ)び」を表明した内容である。閣僚への十分な説明がないまま、唐突に閣議に出された。
 そこで閣議決定されたとはいえ、当時の村山内閣の姿勢を表明した談話にすぎない。
 岡田外相は「過去の政権では村山談話に反する閣僚などの発言があり、『悪かったと思っているのか』と疑問を抱かせた。そういうことがないようにしたい」と述べた。これが閣僚や政府高官の言論封じを意味するものならば、見逃すわけにはいかない。
 日本は中国のような全体主義国家ではない。閣僚や政府高官といえども、言論は自由である。もちろん、その発言は責任をともなうが、だからといって村山談話を絶対視し、それに反する意見を排除することは許されない。
 岡田外相は日中韓の歴史教科書問題で、「将来の理想は共通の教科書を作ることだ」とも述べた。この発言も疑問である。
 これまで、日韓、日中間で歴史共同研究が行われてきたが、それは共通の教科書づくりを目指したものではない。日本は、各教科書会社や執筆者の原則自由な記述を認めたうえで、学習指導要領などに沿って検定を加える制度だ。これに対し、中国や韓国の教科書はほとんど国定である。共通の教科書を作る土壌がないのだ。
 歴史共同研究で、双方の歴史に対する見方の違いが明らかになっても、統一見解が生まれるというのは幻想である。教科書づくりとは、次元の違う問題である。
 鳩山由紀夫首相が提唱する東アジア共同体構想をめぐり、「米国を加えない」とする岡田外相の発言も問題だ。首相の見解とも食い違っている。
 岡田氏は以前から米国に核先制不使用を求め、「(米の)核の傘から半分踏み出す」とも主張してきた。北朝鮮の核の脅威が増し、東アジアの覇権を狙う中国が軍拡を進める現実をまったく無視しているのは残念だ。

なにっ!中国・韓国と共通の教科書だと!
はっきり言おう、岡田克也は狂っている。

もう一つは産経政治部首相官邸キャップのブログから、記事は「世はもはや輿石東氏の天下となっているようです。」 というもの。身震いするほど恐ろしいです。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1268676/
古賀伸明連合会長、小沢一郎幹事長、小沢鋭仁環境相のあいさつもありますが、とりあえず「中村譲・日教組中央執行委員長あいさつ」をコピペしておきます。
 

この、国政報告会といった場で話をさせていただくのは初めて。なかなか難しい話し方をしないといけないのかな、と思っております。8月の大変暑い選挙でした。新政権ができあがりました、労働組合の立場でいうと、新しいと同時に親しい新政権ができて良かったなあと思っております。学校でいうと、ちょうど夏休みという期間でありまして、子供たちもそれなりに選挙への関心が高かったのではないかなあと思います。実際、当選した議員さんと話をしますと、自分の公営掲示板に張ってあるポスターをみて、演説を聴いて、あ、名がだれだれとか、この写真、ちょっと古いんじゃないかな、というようなことを子供たちが結構会話をしていたという話を聞きました。それはそれでやっぱりいいことではないかなあ、と思います。
教師の立場でいうと、授業の中で、マルマル政党のご支持を、とか、議員個人の名前あげるのは法律で禁じられておりますが、子供が政治に関心を持つということは将来の有権者でありますから、必要なことでありますし、大事なことと思っております。戦後、初めて選挙によって政権が交代した。一人ひとりの一票によって政権が替わる、文字通り民主主義の学校。その姿をみなさんが示したんだろうなと思っております。そういう意味でも、大変いい選挙であったなあと私は思っております。小沢一郎先生の話を聞きながら、山梨県教組の委員長でもあり、日教組の委員長だった田中一郎先生のことを思い出しました。輿石先生、よっぽど一郎という名にご縁があって、また好きなのかなあと思います。一郎さんについていけば間違いないと私は思っております(小沢は自席満面の笑み)。小沢さんが幹事長で、輿石先生が職務代行ということで、小沢、輿石という名前がつながりますと、恐怖政治が始まるんではないかとおっしゃる方がいらっしゃいますが、お2人に共通しているのは、若輩がいうのも何ですけども、決断力と行動力。これはトップのリーダーにとって、政治家にとって必要なことだろうなと思っております。その資質をお2人ともかねそなえているという風に思います。学校の教員であった私が言うんですからウソはついておりません、間違いございません(会場から笑い)。来年の7月に向けてあと9カ月、輿石先生、この場でご決断をいただき、すぐ行動に移っていただけるものと確信しております。

怖いです。教育に政治思想を持ち込もうとしている。しかも反日、左翼思想。
日教組による恐怖の教育が始まる……。
ほんとうにこれでいいのか、日本!

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