スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメ感謝します。 そして、佐藤優。

朝倉忠彦様、コメありがとうございます。励みになります。
「義貞にまつわる文章を読めることにこそ、貴ブログの希少価値がある」の一文にガツンと「と胸を衝かれ」ました。
まさにその通り。これからも新田義貞及び新田一族・一門の記事を書こうと、思いを新たにしました。

さて、コメントにあった佐藤優についてです。
(コメント記事が良かったのでそのまま引用させてもらいます。)

彼は今、「月刊日本」という雑誌に、「太平記」について連載してます。とても面白い内容ですが、ただ残念ながらこの人も、新田氏に対してはあまり高い評価はしていません。「純粋な勤王ではない」という解釈まで下しています。でも、「純粋な勤王」って何でしょうね?
「新田一族は別に尊皇ではなかった、中世の在地領主の1つがあの時代の流れの中で政治的に動いた結果、たまたま南朝方になったに過ぎない」という見方は、サヨクでなくてももはや主流となっている視点ではあるのですが、このような一面だけを強調した皮相な歴史観では、結局日本の歴史、ないしは日本人という特異な民族の精神史はつかみきれないのではないか、と思っています。

なるほど、なるほど。私はまだこの記事を読んでいないので何とも分かりませんが、佐藤優は北畠親房の「神皇正統記」を聖典のごとく信奉していますから、どうしても新田義貞・新田一族に冷淡になってしまうようですね。(北畠親房は武家全般を卑下していますけど)
ただ、後醍醐天皇が崩御され遺言をされたとき、忠臣として真っ先に挙げたのが新田義貞及び新田一族だったということだけは強く言っておきたい。

今一人万歳を早し給ふとも、旧労の輩其功を捨て敵に降んと思者は有べからず。就中世の危を見て弥命を軽ぜん官軍を数るに、先上野国に新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興、武蔵国に其家嫡左少将義宗、越前国に脇屋刑部卿義助、同子息左衛門佐義治、此外江田・大館・里見・鳥山・田中・羽河・山名・桃井・額田・一井・金谷・堤・青竜寺・青襲・小守沢の一族都合四百余人、国々に隠謀し所々に楯篭る。造次にも忠戦を不計と云事なし。(太平記巻二十一)

新田一族の忠臣ぶりは、義貞だけを見ては分からない。それ以後一族の戦いぶりをみれば、十分分かると思うのですが……。
それに何度も言いますが、新田義貞及び新田一族(児島高徳を含む)の伝承を持つ者が、時代の乱世になると現れるというのが「新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ」のテーマです。
これまで、天海、明智光秀・明智秀満、井上馨、渋沢栄一、新井白石と来て、高山彦九郎、徳川水戸家、坂本龍馬、正田家、(三島由紀夫も追加します)と続く予定です。彼らが「新田一族」の伝承を背負い、日本(国体)を守ったということなのです。

といいつつも最近、佐藤優にはハマりまして、「日本国家の真髄」(産経新聞社)にはだいぶ感化されました。
佐藤優「日本国家の真髄」

金融危機から国家崩壊に至らなかったことについて、われわれはまず天照大神の御加護に対して感謝しなくてはならない。そして、日本が祭り主を中心とする祭祀共同体であることをもう一度確認し、近代的な世俗化の中で失われつつある高天原の実在に対する感覚を取り戻すことが重要だ。

こういったことを論理立てて語れる人はなかなかいない。
ユーチューブにupされていた「月刊日本主催の佐藤優特別講演会」も全部見ましたが、すごいですね。あの風貌であの語り口、膨大な知識をペーパーも見ないで淀みなくすらすらと出てくるのだから感心してしまう。

講演を見て感心したのは三島由紀夫の全共闘との討論以来だ。
スポンサーサイト

この国ではチンパンジー以下の人間が増えている。

 平成22年4月28日 読売新聞から

チンパンジーに子悼む心?ミイラになるまで背に
西アフリカ・ギニアに生息する野生チンパンジーの群れで、母親が病死した子どもを放置せず、ミイラになるまで長期間、背負う様子が、京都大霊長類研究所によって確認された。
 研究チームは、子どもの死を悲しむ親の感情が表れた行動とみている。
 松沢哲郎教授と林美里助教らは1992年、ギニア南部のボッソウ地域にすむ約20頭の群れで、病死した2歳の子どもを母親のジレが27日以上、背負っているのを観察した。さらに2003年、ジレが1歳の子を68日間、ブアブアという別の母親が2歳の子を19日間、それぞれ死後に運ぶのを確認した。
 いずれも、母親は毛繕いしたりハエを追い払ったりした。また、肩と首の間に子どもの手足を挟んで背中に乗せるなど、子どもが生きている時には見られなかった行動をしており、研究チームは、子どもが動かなくなったことを母親が認識していたと推測する。
 ゴリラやニホンザル、ゲラダヒヒなどでも、死んだ子どもを運ぶ例が報告されているが、一つの群れで長期間の運搬が複数観察されたのは初めて。ボッソウのチンパンジーでは、子どもの死を悼む文化を継承している可能性があるという。松沢教授は「死んだからといって放っておけないという子への愛情が、行動に出たのだろう」と話す。

チンパンジーにも子どもの死を悲しむ親の感情がある。では人間はどうだろうか。
ここ数日報道された幼児虐待のニュース。

茨城県警高萩署は24日、生後1か月の次男に大けがをさせたとして同県北茨城市中郷町小野矢指、無職棚木亮太容疑者(22)を傷害の疑いで逮捕した。
 発表によると、棚木容疑者は21日午後10時頃、自宅アパートで次男を壁に打ち付けたり、頭を殴ったりした疑い。(2010年4月25日)

 

生後4か月の次男の頭を揺さぶって脳に重傷を負わせたとして、札幌白石署は23日、札幌市白石区栄通17、建設作業員堤彰吾容疑者(20)を傷害容疑で逮捕した。
次男のほおには青あざなどもあったといい、同署は堤容疑者が日常的に虐待を加えていたと見て調べている。
 発表では、堤容疑者は2月から4月19日にかけて、自宅で次男の足をつかんで逆さづりにしたり、高く放り投げたりして頭を激しく揺さぶる暴行を加え、脳に硬膜下血腫などの損傷を負わせた疑い。(2010年4月24日)

堺市堺区で1歳6か月の岩本隆雅(りゅうが)ちゃんが虐待死した事件で、母親(21)の内縁の夫の無職古田島昂志(こたじまたかし)容疑者(23)が大阪府警の調べに対し、隆雅ちゃんの腹部を強く押さえつけて虐待した理由について、「腹を押すと泣きやむので何度もやった」と供述していることがわかった。一方、古田島容疑者は虐待を疑った母親から問いただされたことがあり、府警は外傷が残らない手段を選んだ可能性もあるとみてさらに追及する。(2010年4月24日 )

こんな幼児虐待のニュースを聞いても世間は驚かないようになってしまった。それだけ世の中は狂ってしまった。
ここ数日でこれだけの幼児虐待の事件が起こるのだから、チンパンジーでさえもっている「情愛」という感情を持たない人間が蔓延している証拠だろう。

これは「日本」だけのことなのだろうか。
どうも人としての大事な「感情」がこの国では急速に失われているような気がする。

「家族」が「社会」が「共同体」が急速に壊れ始めている。
「国」や「民族」が滅びていくときは、こういう根幹の部分から崩壊していくのだろう。

そして、三宅久之はこう叫んだ「俺の先祖はな、児島高徳だ!」  シリーズ~新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編~  番外編

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第20回目
今回は番外編。

たかじんのそこまで言って委員会」の増刊号という番組が始まったというので、早速、見てみた。(群馬県人なので見るのは大変だ)
いわゆる総集編ものだが、未公開部分の放送もあった。
そこに、番外編「たかじんのいつまでも反中で委員会“アジアはひとつになれるのか”」(平成22年3月14日放送分)の未公開部分の放送もあったのだが、その中の一場面で、私にとってはかなりの衝撃的事実を知ることになった。
それは、外国人参政権問題で、グダグダ言っている在日韓国人教授の朴一に向かって、三宅久之がこう叫ぶ。
知ってるか!「天勾践を空しゅうする莫れ.時に范蠡無きにしも非ず」といって、
俺の先祖はな、児島高徳だ!

三宅久之の祖先は児島高徳
なんと、三宅久之先生は児島高徳の末裔だったのだ!

だから尊皇家なのか。
新田一族と深い関係にある児島高徳なので、新田一族里見氏系の中曽根康弘と盟友だというのもうなずける話となる。関連記事

とりあえず、国史大辞典(吉川弘文館)による「 三宅氏」の解説を載せておきます。
備前国児島郡の豪族、児島三宅(三家)郷(岡山県玉野市)に出自すると伝えられるが、その祖については、百済皇子の後裔とする説、吉備一族でその名は屯倉(みやけ)の管家に由来する説、または天平勝宝年間(749~57)に三宅姓を与えられ、児島郡司の職にあったとする説。
その後についても、治承・寿永の乱で平家に属し、佐々木盛綱と児島郡藤戸に戦って邑久郡、上道郡に退くことになり、戦国大名宇喜多氏がその流れを組むとする説。あるいは児島高徳を中興の祖とし、高徳の代に備前国より伊勢国に出て、のち三河国加茂郡伊保に移ったとする説などがあるが、その系譜および事績について明確にしうる史料はない。「寛政重修諸家譜」1004によれば、三河国の田原藩主三宅氏もその後裔といわれる。

日本大辞典(平凡社)の三宅氏の解説
江戸時代の譜代大名。1558年三宅政貞・康貞父子はそろって徳川家康に見参し、旧領三河国梅坪(現愛知県豊田市)を安どされて徳川氏家臣となる。

ついでに「三宅坂」の解説
東京都千代田区隼町東部と永田町一丁目の地先を結ぶ坂。坂の東側は皇居の桜田濠に面し、ここからの旧江戸城の眺望はもっとも雄大である。ここは三河国田原藩の三宅家の上屋敷があったことにちなむ。

ほかに児島高徳については、
謎の人物・児島高徳  新田義貞伝承を追う!実は……。シリーズ8回目
「新田遷都」総まとめ  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第11回
三宅弥平次こと明智秀満は何者か? 新田義貞伝承を追うシリーズ7回目

などで詳しく書いています。

また、井上馨と渋沢栄一が発行した旧国立銀行券ニ円札(明治6年8月発行)には新田義貞と児島高徳があしらわれていた件については、http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-525.htmlの記事で。
旧国立銀行券 新田義貞と児島高徳

天海が三宅氏の家紋「三宅輪宝」を使っていたという件は、http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-386.htmlの記事で。
三宅輪宝

徳川家康及び松平家が新田源氏を名乗る過程で登場する天海とそこに見え隠れする児島高徳・三宅一族と南朝方の末裔
たち、これが「東毛奇談」のテーマでもあります。

新田義貞及び新田一族を追うと必ず児島高徳とその末裔の姿が出てくることになる。
そして時代の混乱期になると、必ず新田氏の伝承、児島高徳の伝承を持つ者が出現する。
これが「新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編シリーズ」のテーマです。
これまで、天海、明智光秀・明智秀満、井上馨、渋沢栄一、新井白石と来て、高山彦九郎、徳川水戸家、坂本龍馬、正田家と続く予定となっています。

しかしいつ再開するかは未定。
どうせだれも期待してないし……。

歴史に学ぶとはどういうことか

平成22年4月10日付 特別編集委員 橋本五郎のコラム「五郎ワールド」から
題は「自国史の豊穣さを知る 「喧騒」の歴史を排す

歴史とは何か。歴史に学ぶとはどういうことか。英国の著名な歴史家、E・H・カーは「歴史とは現在と過去との対話である」と言い切った。
文芸評論家、小林秀雄は繰り返し繰り返し、歴史に向き合う所作について書いている。
<歴史は決して二度と繰り返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は僕等の愛惜の念というのもであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います>
<過去の事実が、殆ど単に過去の事実だという理由で、現在の人間の虚心の裡に蘇る。歴史というものの持つ根底の力は其所にある(中略)この測り知れぬ力に関する感受性或いは情操の陶治というものに、歴史教育の根幹がある>
日本と韓国の有識者による第二期歴史共同研究の報告書が先日公表された、日韓それぞれ17人の専門家が参加、3年の歳月をかけてまとめられた。
そこから浮かび上がったのは日韓の間に横たわる深い溝だった。日本の教科書での従軍慰安婦をめぐる記述や、韓国の「反日教育」について相互に批判するなど、歴史認識の隔たりの大きさを改めて見せつけた。
2500ページにも及ぶ報告書を前に、その労を多とし、共同研究の大切さを思う一方で、そもそも歴史の共通認識などあり得るのか、政治的要請を背景に、侃々諤々議論することなのかとも思ってしまう。
そんな疑問にとらわれている時に、3月に東大を定年退官された渡辺浩・法政大教授の近著『日本政治思想史  十七~十九世紀』(東京大学出版会)を読んだ。膨大な史料を駆使した上質の思想分析にあふれている。
「明治維新とは、歴史上われわれが知り得るもっとも完全なラジカルな革命である」
維新を目撃したロシア人革命家はこう評したが、政治、社会を根底から変え、新体制を生み出す知的な胎動はペリー来航以前に十分にあったという。
そのことを徳川政治体制下の正統思想である朱子学や伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長らの思想の特徴、「開国」や「文明開化」などの思想的意味を通して立体的に分析している。
この書では、私たちが思いこんでいた「誤解」をいくつも正してくれる。儒教とは民に「忠君愛国」を勧めるような教えではない。統治する側こそが学び、信ずべき教えだった。それゆえに強力だったのだ。
徳川日本では藩が「国」であり、「日本」全体を「国」とする意識などなかったという俗説もそうだ。そもそも中世以来、「三国」(天竺、唐、日本という表現があった。)「日本」を意識する政治的、経済的、文化的統合も実在していた。
開国はペリーの来航など軍事的圧力に屈した屈辱的譲歩などでは決してなかった。普遍的な「道理」を吟味した結果、自主的に決断して「近代西洋」に自ら道を開いたのだ。
この書からは、17世紀から19世紀にかけての日本の「豊穣な歴史」ともいうべきものが立ちのぼってくる。思想をあるがままに多面的にとらえようとしているだけではない。歴史への愛(いと)おしみが感じられる。仁斎論、徂徠論にもよく出ている。
仁斎論における理想像は、誠実で思いやりがあって優しい人である。「みんな優しくなろうよ。お互い人間だもの。意地悪せず、冷たくせず、人の過ちをあまり厳しく責めず、お互いに思いやりをもって生きようよ、それが一番だよ」。仁斎はこう呼び掛けているのだ。
これはおめでたい楽天主義だろうか。泰平呆けの柔和なだけの処世術だろうか。仁斎はきっとこう反論するだろう。
あなたは、抽象的な正義・真理とやらを信じて、それを人に強いることが、それほど残酷な結果を生むかご存知ですか。人生は理屈ですか。一人一人が勝手に正義や道義を振り回すから、世界はこれほどひどい状態になるのではありませんか。
仁斎と同じように朱子学を批判して独自の儒学体系を築いた荻生徂徠の思想の根幹は、時に「近代的」と呼ばれる立場と対極にあった。
歴史観としては反進歩・反発展・反成長であり、反都市化・反市場経済である。個々人の生活については、反「自由」にして反平等、政治については反民主主義で一貫している。
賛同しにくい立場かもしれない。しかし、徂徠は、有限な天地で市場経済による無限の「発展」が可能だとは信じない。自由に流動して浅い人間関係しか持たず、それでいて悪事に走らず秩序を保てるほどに人間は立派さとも信じていなかったのだ、
我々はそれにどう反論できるのだろうか。渡辺さんは現代に生きる私たちにそう問うているのである。
自国史を描くにあたって、過去に生きた人々への「節度ある愛」が大切なのではないか。『範は歴史あり』(藤原書店)で私はそう書いた。素人の過剰な意味づけは渡辺さんには迷惑かもしれないが、『日本政治思想史』には「過去を惜しむ」気持ちがあり、「現在と過去との対話」の結晶がある。


戦後、日本の歴史観を大きく変わってしまった。歪められたといってもいい。
進歩的文化人や左翼知識人は、明治以降の日本近代化を「軍国主義」に振りまわされた暗い時代だとして否定して、江戸時代は封建社会を確立させ鎖国によって閉鎖的社会を作ったとして全否定した。
いまだにこの悲観的唯物史観を引きずっている。
この呪縛を解かない限り、日本の再生はないと思う。
そのためには自国の歴史や文化を学ぶことが必要なのではないか。

今回、似たような記述があったものをいくつか引いてみます。
中西輝政「日本人のこころのかたち」(PHP研究所)から

(その時代の多数派が説く「流行史観」を否定して)
私は文明史の立場から、歴史を見るとき最も確かな視点は、やはり「人間」という視点だと思うのである。
日本の歴史学者が書く歴史が、なぜ面白くないのか。それには様々な理由もあろうが、共通しているのは、どうしても“権威のある学問”であらねばならないと思うあまり、「学問的」とは「科学的」であるとことだという間違った学問観に支配されているからだろう。そこで、人間などという「曖昧なもの」ではなく、モノや制度という「客観的」なものに視点を置くのが「科学的」だ、ということになる。しかしこれは大変貧弱な人間観と言わなければならない。何よりも、モノや制度を動かすのは人間なのであり、そのにんげんの行動や選択というのは、モノや制度、つまり自己の利害や建前というものに対し、合理的である場合がほとんど同じくらいしばしば、非合理なものを積み重ねて行っているものだからである。
人間が歴史を動かす主人公である、という本来の歴史を見る視点を、二十一世紀の今こそ回復する必要がある、と思っている、と私は思っている。唯物主義に徹して数々の過ちを重ねた二十世紀を超えて「モノから心へ」という文明的な趨勢がはっきりとしてきた今こそ、「作業」や「思想」にハイジャックされてきた日本の歴史が大きく復権する時を迎えているのではないか。人間の歴史を動かすのは、「モノではなく心」だということも、今日一段とはっきりしてきたのではないか。……


中西輝政「日本文明の興廃」(PHP研究社)から

戦前と戦後を、何とも切り離して考えようとするところから生まれたものである。これが国家としてはじつは非常に危険な態度であることは、イギリスの歴史家トインビーも指摘していて、彼は、「過去と切り離された国家」は、時間とともに必ずその生命力を枯渇していくと述べている。そしてある文明が地上から姿を消すとき、その大きな要因には「過去との連続性」を失ったことが挙げられる、というのである。
<中略>
いま日本人は、歴史、そして未来を見るうえでの自分の「定点」を失い、大きなスケールの歴史観をもつ素地を失ってしまった。非常に深く大きな「うねり」への予感は鋭くもつつも、全体像を探しあぐねている。
いま日本人に必要なことは、文明的視野をもってこの時点を捉え直すことである。
<中略>
当時は「いずれ」払わなければならないと考えていた敗戦の「つけ」が、高度成長があまりにも成功しなかったことによってかえって見過ごされてしまった。それこそが、憲法の問題であり、戦後教育の清算という問題であり、そして「皇室と日本人」という文明観に基づく視野回復という問題であった。まったく残念なことに、二十一世紀の明白な危機がやってくるまで、つまり六十年間、この「つけ」を放棄したがゆえに、今日われわれと、われわれの国の精神基軸つまり日本文明の存続は、ギリギリの危機をまたいま直面しはじめているのである。
いまわれわれが立っているのは、このような大きな「文明史的岐路」である。「応仁の乱」の再来にも比すべき、この文明史的リスクの現状に、はたしてどれだけの日本人が気づいているのだろうか。この岐路で、日本文明はもう一度蘇り、興隆期への道を開けるのか。はたしてまた、ここで大きな「歴史的陥没期」に落ち込んでいって、二十一世紀のグローバル化した大競争の世界の中で日本文明が最後の生存(サバイバル)のエネルギーを失ってしまい、国としての存立の可能性すら失うのか。すべては、いまの日本人のあり方にかかわっている。


村上正邦・佐藤優「大和ごころ入門」(扶桑社)から

弱肉強食の新自由主義(市場原理主義)が改革であると勘違いした官僚たちが、日本の伝統、職人の魂など経済合理性で処理できない人間の要素を重視する人々を排除した。「もはや、国境を超えるマネーがすべてを決める時代なのである」と考える新自由主義という思想が、村上正邦氏に体現された「大和こころ」を叩き潰そうとしたのだ。村上氏をめぐる状況は、思想戦争なのである。
<中略>
日本を改革する処方箋はひとつしかないと思う。日本に内在する「日本の善」の力によって、現下日本にあらわれている悪を排除するのである。外来思想の知識をいくら身につけても、それだけで日本国家を危機から救い出すことはできい。過去の日本人の英知から虚心坦懐に学ぶことが、現在なによりも必要とされているのである。


範は歴史あり 橋本五郎「範は歴史あり」

村上正邦・佐藤優 大和ごころ入門 村上正邦・佐藤優 「大和ごころ入門」

中西輝政 「日本人のこころとかたち」 中西輝政 「日本人のこころとかたち」

中西輝政 「日本文明の興廃」 中西輝政 「日本文明の興廃」





「日本文化」を売り込むことが閉塞感の打開策になるのでは……。

「世界に良い影響」日本2位…BBC・読売調査
 読売新聞社と英BBC放送が共同実施した33か国対象の世論調査によると、「日本は世界に良い影響を与えている」という評価は53%で、「悪い影響を与えている」の21%を上回った。
 国際社会に影響を及ぼす17か国・国際機関についての評価を聞き、「良い影響」は、ドイツの59%が最も高く、日本は欧州連合(EU)と並んで2番目だった。
 日本は約1年前の前回調査ではドイツ、英国、カナダに続く4番目の56%で、引き続き高く評価された。
 「悪い影響」はイラン56%、パキスタン51%、イスラエル50%――などの順だった。北朝鮮は「悪い影響」48%が「良い影響」17%を大きく上回った。
 米国の評価は「良い影響46%―悪い影響34%」だった。「良い影響」はブッシュ前政権からオバマ政権への移行期に当たった前回の40%から改善され、初めて「悪い影響」を上回った。中国は「良い影響」41%と「悪い影響」38%が拮抗(きっこう)した。

2010年4月19日 読売新聞 http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080116-907457/news/20100418-OYT1T00861.htm
日本が世界に好印象を与えているのは、「日本文化」にあると思う。
経済力や政治力だけが世界を動かしているわけではないのだ。
ただその日本国内はどうだろうか。
「閉塞感」「悲観論」「日本丸は沈没」……、そんな論説ばかり聞かされる。
自分で自分の首を絞めているような状態ではないのか。

そんな中、読んだいい記事。
平成22年4月14日  読売新聞から
論点「海外にニッポン広めよ  日本政府「富国強芸」の時」
ロジャー・パルバース(東工大・世界文明センター長。映画「戦場のメリークリスマス」助監督。)

ロサンゼルスから初めて東京へ来た1697年9月、羽田空港に降り立った私には、この国について何の知識もなかった。
見た日本映画は2本だけ。まず「ゴジラ」――それも英語吹き替え版だったので、アメリカ映画とばかり思っていた。次が「砂の女」。64年に映画を見たときは知る由もないが、20年後、その私が主演女優だった岸田今日子さんを東京の舞台で演出する立場になる。
日本の小説で読んだものは一冊もなし。この国の有名人はだれか、大阪がどこにあるかさえ知らなかった。
こんなことを書くのは、当時、いかに自分が恥ずかしいほど日本について無知だったかを白状するためだけではない。50~60年代の米国で日本文化のみじめな存在感を説明したかったのだ。
あれから状況は一変した。それも米国にとどまらない。世界中で日本製の車や電気製品が求められた。米国や豪州、欧州で若者に好きな食べ物を尋ねれば、ハンバーガーではなく、すしと答えるだろう。アジア諸国でカラオケは大人気。90年代以降、日本語を学ぶ外国人学生の主たる動機とは、日本の古典を学ぶためでも、日本ビジネス手法を取得するためでもなく、マンガを“原書”で読めるようになりたいためである。
しかし何かが失われつつある。ここで触れたいのは過去10年~30年間に世界を席巻した出来事であり、いま海外における日本文化の影響力は、奇妙にも引き潮期にある。理由は明らかである。日本政府の文化に対するかかわり方が、無残なまでに消極的なためだ。中国と韓国が世界中で自国の言語と文化の普及や伝播に巨費を投じているというのに日本は財布のひもを締め、文化予算を削減する。
悪いことに、日本国民も今日、“カタツムリ”になったかのようだ。不況の粗塩を浴びせられ、殻に引きこもり、どこに向かっているのかわからないまま、のそのそ前へ進むだけで事足れりとしている。
戦後、一貫して信じられてきた通念らしきものがある。外国人にとって日本語は習得が難しく、あいまいで不可解な言語というものだ。この通念は根本的に誤っている。実際は外国人にとって話し言葉の日本語は、たとえば英語よりもはるかにやさしい。漢字の学習は大変だが、世界中で孔子学院を増設している中国がその難しさを言い立てているだろうか。
140年前、明治政府は水戸藩から採用した「富国強兵」という新国策の柱を宣言した。軍事力を強化し、殖産に励んで繁栄を目指す、と。ならば、私は2010年代の平成新政府も新スローガンに「富国強兵」を標榜すべきだといいたい。日本文化と芸術に強く関与し、世界中で日本語普及に努力して新たな国の繁栄を期す、と。
日本政府が自国の文化と日本語の海外普及にかける予算を増やさないのであれば、カタツムリたちをますます安全でちっぽけな殻に引きこもらせてしまうだろう。
今日の若者には、かつての私のように、日本文化をまったく知らずに来てほしくない。豊かな文化を知れば知るほど、この国が好きになる。外国の若者の興奮が刺激となり、日本人自身が自国の文化と言葉に関心を高め、世界にとっての大切さにもっと目を開いていくと思う。

その通りだと思う。過去記事では、「日本」「文化」「科学技術」、そして「亡国への道」で似たような記事を載せてあります。

これに関連した本。
伊藤洋一「上品で美しい国家」上品で美しい国家―日本人の伝統と美意識日下公人・伊藤洋一共著(ビジネス社刊)
伊藤洋一の本では過去に「日本力。」を紹介しました。
過去記事
『上品で美しい国家―日本人の伝統と美意識』では、「グローバル化で日本文化が広まる」「宗教の枠を超える日本文化の汎用性」などという言葉が並び日本の文化の特異性が世界で優位に働いているといったことが書かれている。
少し引いておきます。

日本を考えるなら本当の意味での国際比較をやってみれいい。日本人のみんなが大好きなGNPの計算を例にとると、「デザイン収入」「著作権収入」「特許権収入」などのインテレチャルパティーズ(知的財産権)の競争で黒字の国ですが、これは昔は、アメリカ、イギリス、フランスくらいしかありませんでした。
日本にはかねてから貿易黒字があり、さらに投融資による資本黒字もあります(利息・配当収入など)。これは父・母世代のおかげで、IPの黒字は今の若い人たちの働きです。
「文化をやっていると脆弱になり、将来、経済力が落ちる」といいますが、これは中進国の議論です。もっと貯金して、設備投資をして、最新鋭設備にしろというのは昔の生産経済学です。
日本の経済学者に聞きたいのですが、貿易収支が黒字ということは、これは働き者の証拠です。また資本収支のプラスは金持ちの証拠です。政府の外貨準備高は2位になりましたが、民間も含めれば貯蓄は圧倒的に日本が一位で、世界最大の債権国です。そのうえIP貿易が黒字とは頭が良くてセンスも抜群ということです。
今の日本人は、働き者で、頭がよくて“貯金”がある。日本は世界の一流品を全部つくれるし、全部それを消費しています。表参道には世界中からいろんな人が買い物に来ます。日本がなぜそうなれたのかというと、それはやはり1400年の歴史と教育と日本人の美意識があるからです。

ここだけ引いてもまあまりピンと来ないでしょうが、こういったポジティブ思考が今必要ではないのかということです。

そんな中、あるとき見たテレビ番組でこんなのがあった。(TBSテレビ「オレたち!クイズマン」)
「外国人が購入する電化製品ベスト5」(ビックカメラ調べ)というもの。
これの順位が興味深い。(「」内は番組のナレーション)
5位 炊飯器。「おいしい白米にあこがれて日本に来る外国人も多い。お米の国の日本だからこそ最先端技術を駆使して炊いたご飯は世界も認める極上の味」
4位 血圧計。 「自分のためではなく両親のために買っていく人が多い。日本製の血圧計をプレゼントすることは最大の親孝行として重宝されている」
3位 携帯ゲーム機。「世界90%のシェア」
2位 デジタルカメラ。 「日本製は世界出荷額80%以上。売れ筋は32カ国に対応したカメラ。どの国でも安心して使える。」
1位 イヤホン。 「デザイン・性能がよく、値段が安く大量に買う人が多い」

一見、意外なものが並んでいるが、一つ一つ見てみると「日本独自の文化」がよく生かされていて、それが外国人の評価が高かった(つまり売れている)というのが分かる。
炊飯器なんて「日本文化」そのものだろう。米を主食とする「日本文化」が外国で広まっているという証拠ではないだろうか。海外での「スシ」がブームもその一因だろう。これによって、美味いスシには「美味いご飯」が必要となってくるわけだから、日本の高品質のコメも需要があるのではないかとか、炊飯器が売れるならご飯の関連品は…などという発想も生まれてくるのはないのか。
血圧計にしても、日本の高齢化や健康ブームという要因あり、そこに商品への需要が生まれ、各社の競争・努力によって高性能化していった結果がある。これによって「日本製」が評価されるわけだ。
ニンテンドウDS・PlayStationなどの携帯ゲーム機にしても、そこに面白いケームソフトがなければ外国人がこぞって買い求めることなどない。そのソフト制作にはオタク・マンガのように「日本文化」が受け継がれているのだ。
関連記事「アニメ・マンガ」で「文化防衛論」
また、デジタルカメラにはそこには元々あった日本のカメラ技術が継承されているわけだし、イヤホンの高品質化はSONYウォークマンから始まったものである。

こういうのを見ると、やはり日本再生のカギは「日本文化」を高めることにあるような気がしてならない。
ただ価格競争や技術競争では、中国・韓国に負けるだけだろうし、人口の多い中国にGNPでに抜かれた、といって嘆いてばかりではあまりにも進歩がない。
悲観論ばかりが先行している現状において、この打開策は、他とは真似のできない価値観を生んでいる「日本文化」を売り込むことにあるのではないだろうか。
その視点に立てば、世の中の流れも変わると思う。
もう一度、今年初めに宝島社が出した新聞全面広告「明日に向かって跳ぶ」を読むと、そんな思いになる。

神社の数日本一は新潟県  

平成22年4月17日 読売新聞から

古里 こんな王国 新潟県 神社の数日本一 信仰心あつい県民性

歴史ブームにも押されて、最近は神社仏閣を訪ねる若者も多いようだが、「神社の数が最も多い県はどこ?」と聞かれ、「新潟」だと即座に回答できる人は少ないのではないか。
宗教法人・神社本庁が包括する法人としての神社の数は、約7万9000。そのうち、新潟には4755もの神社がある。2位は兵庫県の3836、3位は福岡県の3322。(4位愛知、5位岐阜)
ちなみに、最も少ないのは沖縄の11、和歌山の418、大阪の571だ。
新潟に神社が多い理由を新潟県神社庁に聞いた。同庁参事の栗田宗明さんは、「自然に多いと言うしかないが、あえて言えば」とし、明治後期に政府が出した神社の統廃合を要請する合祀政策に、県が消極的だったことを挙げる。さらに明治時代に新潟の人口が日本で最も多く、集落ごとに神社ができたのではないかという。
確かに、1888年(明治21年)の人口調査で、新潟の人口は166万人で、2位の兵庫県の151万人、3位の愛知県144万人を抑えてトップ。東京はこの年、135万人で第4位。続く1893年(明治26年)の調査でも、新潟が171万人で1位だった。
神社本庁広報センターは、「人口が多かった新潟では、5~6人の集落でも社を支えようとする意識があったのではないか」とみる。栗田さんも「京都などと比較して、小さな氏子が数軒の神社でも地元に密着し、昔ながらの祭りがある」と話す。
越後平野のほぼ真ん中。弥彦山のふもとにあり、「おやひこさま」の敬称で親しまれている弥彦神社(弥彦村)は、新潟で最も知名度の高い神社だ。権禰宜の馬場要さんは、「江戸時代もそうだっただろうが、明治、大正、昭和初期ごろまで県民は、『成人までに1回はおやひこさま詣でをしないと、成人とは認められない』と言われた」という。それほど、県民から深い崇敬を集めている神社だ。
新潟には、現在でも旧来の神社が数多くあるといい、栗田さんは「自然な信仰心が残っているのではないか」と分析している。

「園遊会」と「福沢諭吉」

平成22年4月15日、読売新聞から
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100415-OYT1T00980.htm?from=y10

天皇陛下から「おめでとう」真央、緊張のち笑顔
天皇、皇后両陛下主催の春の園遊会が15日、東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれ、バンクーバー五輪の銀メダリスト・浅田真央選手ら約1900人が出席した。
 この日は小雨交じりで気温も真冬並みだったが、両陛下は会場を回りながら何度も足を止め、招待者との会話を楽しまれた。
 緊張したという浅田選手は、天皇陛下から「この度は本当におめでとう」と五輪での活躍をねぎらわれ、やや硬い表情で「ありがとうございます」とあいさつ。五輪後の世界選手権で優勝したことに話を向けられて笑顔を見せた。
 大けがを乗り越えて男子フィギュア初の五輪メダリストになった高橋大輔選手は、陛下から「男子のフィギュアもずいぶん盛んになってくるんじゃないですか」と話しかけられ、「そうなると本当にうれしく思います」と答えた。
 元横綱・大鵬の納谷幸喜さん(69)は、陛下から「お体どうですか」と言葉をかけられた。「相撲界に入って54年になるが、一生懸命やってきて今日の日を迎えられて光栄だ」と感激した様子だった。

高橋大輔選手はこの日のために伸ばしていたヒゲを剃ったという。彼の「国歌・国旗」に対する姿勢も真摯で、見ていて清々しい。こういう態度が自然に出てくるところがいい。
園遊会 高橋大輔選手

さて、こういう報道があると、必ず「反日思想の輩」がどこからともなく湧き出て、「税金の無駄だ」とか「意味がない」とかネットで騒ぎだす。
懲りない人々だ。

園遊会の注目は、どうしてもオリンピックのメダリストや有名人に集中してしまうが、産業・文化・芸術・社会事業などの分野で功労のあった功績者が数千人単位で招ねかれる、というところに本来の意味がある。
では園遊会の意味はどこにあるのだろうか。
なぜ陛下が、功労者たちにねぎらいの言葉をおかけになるのか。
それは、福沢諭吉の「帝室論」や「尊皇論」、「学問之独立」などを読むとよく分かる。
ということでいつもの、福沢諭吉「日本皇室論」現代語訳(島津書房)池田一貴 訳 平沼赳夫監修 財団法人 無窮會
からほんの一部を引用。

ここで私が特に注目するのは、日本固有の技芸である。今日それを保存したいと寛げれば難しいことではなく、逆に放置閑却すれば、根絶する恐れのあるもの、これである。
日本の技芸には、書画があり、彫刻があり、剣槍術、馬術、柔道、相撲、水泳、諸礼式、音楽、能楽、囲碁将棋、挿花、茶の湯、薫香など、その他大工左官術、盆栽植木屋術、料理割烹の術、蒔絵塗物の術、織物染物の術、陶器銅器の術、刀剣鍛冶の術など、私はこれらすべて逐一記することはできないけれども、その項目はおびただしい数にのぼることだろう。
これら諸芸術は日本固有の文明であり、今日その勢いは、すでに激震に襲われて次第に衰えようとしているため、それが消滅しないように救出することは、実に焦眉の急であると言わねばならない。
なぜなら芸術は、数学・工学・化学などと違って数値と時間で計量できるものではなく、規則・法則の解説書で伝えてゆくことができないからである。ことに日本古来の風習として伝承されてきたものの中には、規則にのっとったものであっても、人から人へ、家系から家系へと秘法が伝えられてきたものが多く、その秘伝は個人の内部に保持されているため、その人が亡くなればその芸術も滅んでしまうのは当然の運命である。今日そういう人は細々と生き残っているが、その人もまさに余生残り少なくなっているのである。
今、こうした火急の事態を救出するには、どのような方策をとるべきだろうか。こうしたものを今日の文部省に託すことはできない。実際、託そうにも、省の資格では実行しがたいことが多いだろう。ましてや国会開設後の政府では無理というものだ。国会の政府となれば、ただ冷やかな法律と規則に依存し、道理の中に局促して(束縛して)、かろうじて国民の外形を管理するだけのことだから、そうした政府の高官が、眼前の法的な人間社会問題に不要な芸術を、管理支配して、特にこれを保護奨励するというようなことは、まったく想像もできないことである。このような場合に唯一、頼みとして望みをつなげるのは、ただ帝室あるのみである。
帝室は政治社会の外に立って、高尚な学問の中心となり、同時にまた、諸芸術を保存して衰頽から救いたまうことがおできになるのである。


「尊皇論」からも一部を引用。

広く日本社会の現状、すなわち民心の活動を見渡せば、今日は文明が日進月歩する世の中である。だから、学問教育の道が興らなくてはならない、商工業の法も進まなければならない。人民の徳心も涵養(かんよう)しなければならない。宗教の布教も勧めなければならない。さらに細事にわたれば、日本固有の技術は一芸一能といえども保存奨励しなければならない。これらの事項はすべて日本国の盛衰と興廃に関わるものだから、帝室の余光でその進歩を助ければ、その功徳の広がりは無辺に及ぶだろう。
例えば、学問教育の分野について天下の学者を優待し、商工業を活発にするには徳に功労者を表彰し、孝子・節婦を褒め、名僧・知識(高僧)を優遇し、琴・将棋・書画から各種技芸に至るまで保護するようなことは、いずれ皆、帝室から直接お達しなされれば、天下の面目を改め、文明の進歩を促すことになる。そればかりではない。されに民心は靡然として帝室の恩徳の深さに感動し、おのずから帝室の尊厳・神聖の基を固めることができるだろう。


要点は、文化保護・育成は、帝室・皇室の下で行われるべきであるだ、と諭吉は説いている。
なぜか。
それは、諭吉は「帝室(皇室)は政治の外にあるべきだ」という考えで、政治の醜い権力闘争の中で「皇室」が汚されないように一段高みに置く、独立孤高の存在であるからだ。

そもそも政党というのは、おのおの主義主張を異にするもので、自由改進と言ったり、保守守旧と称したりして、互いに議論しているのだが、結局は政権を争って、自分が権力を握ろうとするものでしかない。
こうした政党間の囂々たる争論のさいに、帝室がもし左を助けたたり、または右を庇護したりなどのことがあれば、争いに熱中している政党の人々は、一方がわが意を得たりと喜べば他方は不平をつのらせる結果となり、その不平の極みとして帝室に怨みを抱く者も出てくるだろう。(「帝室論」から)

皇室が不党不偏で独立しているからこそ、学術や技芸の奨励、文化・芸術の保護ができる、というものなのだ。
だから「民主党の天皇陛下の政治利用」がいけないというのは、こういった点にあるのだ。

また、「学問之独立」では、
「医学・理学・文学などの研究者らには年金を与え、その生涯安身の地位を与え、学問に専念させよ」と説き、「(学者らの研究は)本人一個の利益に非ず、日本国の学問に富を加えて国の栄誉に光を増すものと云うべし」と云う。
諭吉は私学校も皇室の下に置き、そこで発展させるようにとその論理を展開したが、これは皇室が政治闘争の外にあるからこそ、「学問・学校の独立」が保たれるという考えだった。

ただ、これらの諭吉の論は実現はされていない。
しかし現在、皇室で行われている各界の功績者を招く「園遊会」や文化・芸術などに貢献した者に与える「叙勲制度」など「顕彰」という形で生かされているのだ。
だからこそ、「園遊会」で文化貢献者(スポーツももちろん「文化」です)が招かれ、陛下から顕彰されることは、非常に意味のあることだと言える。

もし、福沢諭吉が現代に生きていたら、「国の栄誉を守り、国益を生むスポーツ選手も、十分に保護(お金)し・育成(施設を作る)せねばならない」と主張したに違いないだろう。
(それが民主党政権では逆に事業仕分けで費用カットとは……。)


追記 福沢諭吉は「近代最大の保守主義者」であり、「文化概念としての天皇」という意味では、三島由紀夫も新井白石も西田幾多郎も同じ様なことを言っている。
これはいつか書きたい。



宇宙での和楽器演奏を見て、新田義貞を思い浮かべるのは私だけ?……。

平成22年4月12日 産経新聞から。

国際宇宙ステーション(ISS)に滞在中の山崎直子さん(39)が日本時間12日夜、念願だった琴を弾き、「さくらさくら」を演奏した。野口聡一さん(44)も雅楽で使う横笛を吹き、宇宙で初めて和楽器の合奏が実現した。
 演奏は宇宙開発担当相の前原誠司国土交通相らとの交信イベントで披露された。米航空宇宙局(NASA)の映像などによると、2人は12日午後8時ごろ、日本実験棟「きぼう」の船内実験室で演奏を開始。えんじ色のポロシャツ姿の山崎さんは、実物の5分の1のミニチュアの琴を弾き、終了後、宙返りをして笑顔で手を振った。
 小さいころから琴を習っていた山崎さんは、平成11年に宇宙飛行士候補者に選ばれたとき、「宇宙で琴を弾いてみたい」と語っていた。11年をかけて夢をかなえた瞬間だ。


山崎直子・琴
理系女子から宇宙飛行士へ。そして宇宙で日本文化を語れ!の記事でも書きましたが、日本人飛行士が宇宙に行くと、「自分は日本人である」というような意志表示をするのがとても面白い。
これは、とてもいいことです。

さて、私がこの光景を見て思い浮かべてたのは、なぜか「新田義貞の越前金崎城の船遊び」だった。
「越前金崎城(福井県敦賀市)で新田義貞・脇屋義助兄弟は、戦いの合間に、恒良・尊良親王が、都では、見たことのない金崎城付近の雪景色に心ひかれていたので両親王をなぐさめるために、雪中の海に船遊びを催した。両親王は琵琶、洞院実世は琴、新田義貞は横笛、脇屋義助は笙の笛、川島惟頼が鼓などの打物で合奏した。
武人にしては風雅のたしなみで、文武の道にすぐれていた義貞兄弟の一端がうかがわれる」(「おおたの歴史」から。太平記では巻十七「金崎船遊事付白魚入船事」にある。)

広大無辺の宇宙で奏でる琴や笛が、何処となく「孤独」を表現しているようで、それが物悲しく、どこか感傷的に気分にさせられる。(演奏の巧拙でなく、和楽器の音色がということ)
それが都落ちした義貞らの「金崎城の船遊び」の場面とどうも私の中で重なり合ってしまうのだ。

尊良親王と恒良親王を祀る金崎宮では、この故事をもとに、10月20日に御船遊管絃といわれるお祭りが行われるそうである。
金崎宮のホームページ

ということで、宇宙の話題を無理やり新田義貞の話に結び付けてみました。





「保守の結集」だったはずが、結果的に「保守の分散」になっている。これを見て喜んでいるのは誰かを考えなばならない

<新党>「たちあがれ日本」多難な船出…10日発足
4月8日 毎日新聞
 自民党の中川義雄参院議員(72)は7日、党本部で大島理森幹事長に離党届を提出し、与謝野馨元財務相(71)や平沼赳夫元経済産業相(70)らが結成する新党「たちあがれ日本」への参加を表明した。新党は政党要件を満たす国会議員5人を確保し10日に発足するが、期待した自民党中堅・若手議員に賛同者は広がらず、多難な船出となりそうだ。

平沼赳夫が立ちあげる新党に保守層は期待していたはずだった。
これが新しい政界再編の呼び水となる、とも思っていた。
「保守」という旗頭のもとに、国を憂うる自民党議員や反小沢の民主党議員らが党の割って出て、新しい「真正保守」党が出来る。そんなことを熱望していた。
たとえそれが最初は小さな「蠢動」でもよかった。そんな憂国の士が雪崩を打って集結し「保守の新党」を作り、それがやがて大きな潮流になるとまで夢想していた。
そう思い描いていた右派、保守派は多かったはずだ。
いまの政治の流れを変えるのは「保守の新党」だ、そんな思いを「平沼新党」に託していた。
だが現状はどうだ。
平沼氏がいざ事を起こしても、他の保守を名乗る議員が静観するのみで、全く動かず。
マスコミは中立を称しながらも「改憲」を唱える新党は叩く。自称文化人コメンテーターや自称知識人政治評論家らは己は達観したようなつもりで、冷笑し罵声を浴びせる。
ネットウヨクも反応が悪い。
いまは「新党の名前は何なんだ」とか「高齢者ばかりだ」とか「与謝野と平沼では政策が違い過ぎる」とかマスコミと同調してどうする。

今のこの流れは、最悪の展開だ。
「保守の結集」だったはずが、結果的に「保守の分散」になっている。
これを見て喜ぶのは小沢一郎だろうが。
マスコミがなぜこの新党を必要以上に叩くのかを考えなければならない。
この話題によって「民主党」の失態・失策が吹っ飛んでいるではないか。
マスコミが一斉に叩くときは、そこに何らかの思惑がある。
そこを考慮しないと……。

では、第三極として受け皿となっている「みんなの党」はどうだろうか。
夏の参院選後に勢力を伸ばしたら、キャスティングボードを握って民主党とくっ付くのではないか、という話がすでに出ているが、これは可能性がかなり高い。
少数でありながら与党内で小うるさい国民新党・社民党を切って、みんなの党と民主党が手を結ぶ。
小沢一郎はすでに動いている、という話だ。
たとえ民主党が数を減らしても「みんなの党」が数を増やせば同じこと。どちらにしても小沢一郎の思惑通りになるということだ。
反民主党に投票しても、実質的には民主党のものになる。どうもそんな展開になりそうだ。
だからマスコミが「みんなの党」を必要以上に持ち上げている。

では、伝統・歴史を守るをスローガンにしている自民党はどうだろうか。

三原じゅん子氏擁立へ 参院選で小沢氏に対抗
 自民党は7日、夏の参院選比例代表に女優の三原じゅん子氏(45)を擁立する方針を固めた。月内にも公認決定し、民主党の小沢一郎幹事長による「小沢ガールズ」に対抗する「自民女子作戦」の目玉候補として当選を期す。
 同党は支持団体離れで比例代表の候補者選びが難航。「新しい自民党」を印象付ける狙いもあり、外部の女性候補発掘に努めてきた。2010/04/07 17:38 【共同通信】

バカ過ぎて、唖然とするばかり。そして、ヘアヌ-ド写真集を出版したこともある元女優の「田島みわ」なる人物を参院選の比例代表候補にするという。
もう首を傾げるばかりだ。もう日本にはこんな人物しかいないのかと思うと、嘆かわしくなる。
これは政策以前の問題であり、自民党は末期症状ではなく、すでに終わっている。

それに「自衛隊も原発」も認める社民党は、それを容認したらこの党の存在価値がない。「サヨク」の看板は掲げているが、理念もない社民党は死んでいる。(別にいらないけど)
国民新党は亀井静香ただ一人、閣外に追い出せば「犬の遠吠え」状態になるだけ。(選挙後は用なし、と民主党は思っているはず) 公明党はすでに親民主・親小沢だという。

どう転んでも、民主党つまり小沢一郎が描いた通りになる。
ということは、外国人参政権は、夫婦別姓はどうなる。中国・韓国の謝罪外交、皇室軽視、沖縄問題……は。

これを阻止できる保守を掲げる政党はいつできるのだ!

いま、大きな流れの中の過渡期にある。変な名称の高齢者の新党が出来たなんて騒いでいても仕方ない。
実際には、参院選後の動きを見なければ分からないのだ。
大きな政界再編が起こるのは選挙後だろう……。


追記 いろいろな方が様々な意見を発言するのは構わないが、ただ、東国原英夫だけは許さない。
「敬老会みたい。“囲碁を指して終わり”みたいな」と言ったそうな。
お前が言うな。何度も言うが、いまの小沢・民主の独裁政権を許している一因を作ったのは、お前だ。絶対に許さん。
お前の仕事は何だ。「さんま御殿」や「ダウンタウンDX」に出て、「オールスター感謝祭」でTBSの周りでも走り回っていろ。ほんと、虫唾が走る。芸能人(私の中では、彼は政治家ではない三流タレントだ。)を見て「殺意」を覚えるはコイツだけだ。
過去記事
ということで、この記事は「嘆き」に始まり「口悪い怒号」に終わる。
いまの心境を表しています。

「新田一族の話題3つ」となぜか「鳥山明」

新田義貞及び新田一族の話題を3つ。
1つ目

石盛遺跡 新田義貞の石丸城か

 福井市文化財保護センターは25日、室町時代の館跡などが確認されている「石盛遺跡」(福井市石盛町)で、14~16世紀に使われたとみられる新旧二つの堀跡が新たに見つかったと発表した。同遺跡は、武将・新田義貞の拠点の一つ「石丸城」の可能性が高いとされ、同センターは「堀の発見で、城の存在が裏付けられた」としている。
 同遺跡の調査は2000年度から実施。これまでに館や井戸などの遺構が見つかり、その下の地層からは弥生時代や古墳時代の集落跡なども見つかっている。09年度は館跡の南西側約1200平方メートルを調査した。
 同センターによると、石丸城は、南北朝から戦国時代にかけて存在したとされ、「太平記」では新田義貞の弟が暮らしたと記されている。戦国時代は朝倉氏の家臣の居城だったという。
 古い堀跡は、幅3・7メートル、深さ1・2メートルで、県内2例目の烏帽子(えぼし)も見つかった。新しい堀跡は幅8・7メートル、深さ2・5メートルで、幅が広いことから合戦に備えたとみられる。いずれも、出土した陶器片の形状などからそれぞれ14世紀と15世紀に設けられたと推定できるという。同センターの大川進主査は「堀は、南北朝時代の動乱や応仁の乱などに備えて造られたものではないか」としている。

(2010年3月26日 読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/fukui/news/20100325-OYT8T01165.htm?from=dmst3から。
太平記に出てくる「石丸城」は、巻二十「義助重集敗軍事」で、兄・義貞の死を弟・脇屋義助が聞く場面に出てくる。 

脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸の城へ打帰て、義貞の行末をたづね給ふに、始の程は分明に知人もなかりけるが、事の様次第に顕れて、「討れ給ひけり。」と申合ければ、「日を替へず黒丸へ押寄て、大将の討れ給ひつらん所にて、同討死せん。」と宣ひけれども、いつしか兵皆あきれ迷て、只忙然たる外は指たる儀勢もなかりけり。剰へ人の心も頓て替りけるにや、野心の者内にありと覚へて、石丸の城に火を懸んとする事、一夜の内に三箇度也。


また、奥富敬之著「上州 新田一族」では、

斯波軍の南北の連絡路を封鎖した上で、義貞は本陣を石丸城(現福井市石盛町)――石盛城ともいう――に移した。三日月状に連環する足羽七城の両弧端を結ぶ直線上のほぼ中央の位置である。現在でもここには、“館中(たちなか)”“館前(たちまえ)”などの字名が、義貞本陣の名残りになっている。

とあるから、越前における新田軍の本陣であり、兄義貞の弔い合戦のときの脇屋義助の拠点となった場所だ。(ということはここに児島高徳もいたということだ。)

福井の「義貞愛」は異様に高い。これは地元・群馬よりも高いだろう。
江戸時代、当地は松平家が藩主となっていた。松平・徳川氏は、新田源氏を名乗っていたので、祖先として新田一族を顕彰していのだが、この影響もあってか、この地の人々の新田氏への尊崇の念が隅々にまで行き渡り(お殿様が率先して顕彰したので、その領地の下々の人々にまで義貞及び新田氏が尊崇の対象となった) 、それが現在も強く残っていることは確かだ。(徳川・松平氏が新田源氏の末裔を名乗った意味は、いまの現代人が考えている以上に大きいのだ。)
ほんとに福井の方々には感謝します。
関連記事1
関連記事2
それに比べ、地元群馬は……。

2つ目
ユーチューブで見た動画から。栃尾森上「南部神社百八灯」
http://www.youtube.com/watch?v=AjRpVIZpHbo
新潟文化物語というサイトに詳しい情報があった。

長岡市森上(もりあげ)の南部神社は、奥州盛岡の地から勧請されたといわれています。森上には、南北朝の動乱期に、後に南朝方の総帥となる新田義貞が鎌倉幕府打倒をめざして上野国で挙兵したとき、早速、二千の兵を率いて駆けつけた越後妻有の豪族大井田一族に義貞挙兵を知らせたのが南部神社の山伏であったという言い伝えがあります。神社の境内には、狛犬とともに猫の石像が建ち、南部神社が別名「猫又権現」と呼ばれる所以になっています。猫の石像は、かつて、養蚕が盛んだった頃、鼠から蚕を守ることを祈って建てられたものといいますが、石像の猫が招き猫に通じ、商売繁盛や運気上昇に霊験のある神様として、栃尾地域外にも信者をもっています。この神社の最大の呼び物は、毎年5月8日の夜に行われる百八灯です。百八灯は南部神社のご加護を願う信者が神社へ通じる石段の両側に、一人、百八本の蝋燭を奉納するもので、真っ暗な闇の中に数千本の蝋燭の灯が揺れる美しさは筆舌では表現できません。当夜のハイライトは、午後 9時前後です。
出典:『とちおロードマップ』提供元:長岡市栃尾支所 商工観光課

ここには書いてありませんが、祭りが行われる5月8日は、新田義貞が挙兵した日であり、これにちなんでいるようです。
越後には新田一族の一大拠点があり、それがのちに上杉氏に仕えた、というのはNHK大河ドラマ「天地人」のときに少し触れました。過去記事
新田一族である大井田一族については、十日町市立中条中学校のホームページが分かりやすい。
今でもこういった祭りが残っていること、しかも盛大に行われていること、ほんとうに新潟の方々に感謝します。

それに比べて、地元・群馬は……。新田氏関連の行事・祭りというと、生品神社の鏑矢祭しか思い浮かばない……。

3つ目
 平成22年4月2日付け上毛新聞から。

「里見」を地図でPR
旧榛名の住民ら 史跡など写真付きで紹介
滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」で知られる里見氏発祥の地を生かした地域づくりを進めようと、高崎市の地域住民や里見氏の子孫らでつくる「里見の郷推進委員会」が1年をかけて「里見の里散策地図」を作った。郷土の歴史やゆかりの地を知ってほしいと、地元の旧榛名町内にある小中学校と高校に資料として贈る。
同委員会は、25人の会員が2007年から郷土史についての講演会や研究会、史跡めぐりツアーを企画し、新田氏の一族としても知られる里見氏発祥の地を県内外にアピールしている。
散策地図はA3版の両面印刷で2000部を作製した。表面では、榛名湖から安中北部までの地域にある17ヵ所のゆかりの史跡や神社仏閣を写真付きで紹介。裏面には里見地区の年表を置き、表と裏を照らし合わせることで、地図上の史跡や神社仏閣が、どの時代にどんな役割を担ったのかが分かる。散策地図作製には、県の地域の文化支援事業補助金を利用した。(以下略)

新田一族・里見氏で地元の話題。
これ自体はいいことなのですが、その里見氏の発祥の地となっている場所というと、これがヒドイ状態らしい。
埋もれた古城」の里見城の記事を読むと、荒れ放題で、しかも「新田義貞生誕の地」の木碑はなぎ倒されたままのようだ。
まったく、地元群馬の新田氏への「冷遇」がひど過ぎる。

では、房総の里見氏はどう扱われているかといえば、千葉県館山市を見ると、立派に「里見城」が復元され観光スポットに、市川市の「里見公園」は桜の名所となって、観光資源として生かされている。
「南総里見八犬伝」「戦国大名」としての「里見氏」と、太平記の「里見氏」では盛り上がりがり方も違うだろう。
だが、この「群馬の里見氏」と「房総の里見氏」の扱いの違いは何なのか。
これらをうまく結び付けて「里見氏は新田一族だ」というのを強く打ち出していければいいと思うだが……。

当サイトで「新田一族」の話題を取り上げると、結構各地から情報が届く。
意外に、新田一族ファンというものは多いと知った。
それに丹念に情報や話題・新聞記事などを拾って行くと全国各地に「新田一族」の祭りや行事、事蹟、伝承があるのだ。
こういった全国各地に広がる「新田義貞及び新田一族・一門」と連携し、歴史観光と結び付けられないものだろうか…。
また「太平記」の時代の武将たちは、戦国時代の武将たちともつながっていくので、これを生かして「歴史ファン」「戦国時代ブーム」「歴女」を巻きこめないだろうか、そんなことも考ければいいと思う。
しかし、それもこれも地元での「新田愛」「義貞熱」をどうやって上げていくか、そこがカギになりそうだが……。
関連記事
追記 里見氏が出てきた関連で、一つ。
「ドラゴンボール」の原作者である鳥山明はその名が示すように「新田一族・里見氏系の鳥山氏」の末裔である可能性が高い。その鳥山明のドラゴンボールは「里見八犬伝」を下地にして物語を描いたことは知られる。
しかもその里見氏・鳥山氏の末裔が「里見八犬伝」の物語を描く。これは面白い因果関係だ。
時間があったら「新田一門史」に出てくる三河の鳥山氏を書いておきます。
徳川・松平発祥地、児島高徳・三宅氏、新田一族の三河移住……、そう三河でみんなつながっていくんですよ。(鳥山明は愛知県出身)
ちなみに、群馬県太田市(新田市)に「鳥山」の地名は今もあります。

大きな地図で見る

 | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

03 | 2010/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  └ 月別アーカイブ
        └ 2010年04月
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。