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日米同盟は織田信長政権下の徳川家康に似ている。ならばそこから得られる教訓もあるはずだ。

鳩山首相「日米の信頼関係が最大の抑止力」
鳩山由紀夫首相は28日夜の記者会見で、米軍普天間基地の移設問題で沖縄県民や連立与党との交渉より対米交渉を優先させたことについて「日米の信頼関係は最大の抑止力。(日米同盟は)東アジアの安全に大きな役割があり、米国との交渉を成立させるべきと考えた」と説明した。県外移設の断念については「基地機能の一部を外して県外に移すと、日本にとっても抑止効果が失われる」との認識を示した。(平成22年5月28日 日経新聞から)

こうなることは分かり切っていたはずだ。日本は自国の軍隊を持たず、アメリカの隷属的な軍事下におかれている以上、最終的にアメリカの意向に逆らえることなどできるはずもない。
そこが問題の根幹であるのに、一向にそういった議論はなされない。(社民党的なセンチメンタルな平和思想では何の解決策は出てこないのに、そこにばかりマスコミは目を向ける)
しかも鳩山首相は「対等な日米関係」などと言って混乱のもとを作ったが、そもそも「日米同盟」とは何なのか「自国を守る」とはなんなのか、「国防」「憲法改正」に関する根本的な話は結局はなかった。
……。
などなど、いくら文句を言っても言い足りないが、ここで、話は飛ぶ。
私はこういった昨今の沖縄基地問題や日米同盟問題の話を聞くと、どうも日本とアメリカの関係が、戦国時代の織田信長と徳川家康の同盟のような微妙な関係に似ているといつも思う。
(ここでは「日米同盟」については詳しく述べない。今回は信長と家康の同盟関係だけを書きます)
織田信長がアメリカであり、徳川家康は日本という構図である。
家康と信長の同盟関係というのは、名目上は両者が対等な同盟といいつつも、その実、軍事的面において、徳川家は織田政権内の制御下にあった。
この関係が似ているということ。
煎本増夫著「戦国時代の徳川氏」(人物往来社)では

「家忠日記」にみえる信長に対する呼び方の変化は、「信長」から「信長様」、そして武田滅亡のあとは「上様」と変わっている。もちろん家康もそのような呼び方をしていたであろう。このように、駿河は領国として信長から与えられる、家臣的な立場となったことは否定できない。
とはいえ家康は、武田旧領の知行割で甲斐・信濃の大名領主となった信長の直臣とは異なる地位にあった。〈中略〉いわゆる織田政権における一職支配のかたちである。結局、独立的に領国経営を任されるのではなく、臨戦体制下の信長政権の地方軍司令官の扱いである。
〈中略〉
信長政権は、大名領国を超越する公儀=国家であり、徳川氏はその「東方の藩鎮」として重要な柱となったのである。

また「長篠の戦いは、信長と家康の関係が決定的に対等(同盟)ではなくなった結果をもたらした。
徳川氏は織田政権の与力大名化し、信長と家康は同盟から主従の関係に移りつつあった。」という記述もある。
やはり織田政権にとって徳川氏は東の防波堤という役割を担っていた。織田側はそこにこの同盟関係の価値を見出し、徳川氏にとってみれば、周囲には強大な国々に呑みこまれないためにも強力な織田氏の勢力下にあったから自国の独立が保たれた(「核の傘の下」状態)ということになった。

この織田と徳川の関係について面白い表現が、司馬遼太郎の「覇王の家」にある。いくつか抜き出してみましょう。

家康は信長にとって織田圏の東方警備の番犬であるにすぎなかったのが、その番犬自身が多少意志的になり、自分の判断で行動し始めたのである。ただしこのことは、家康の世評の「律義」の範囲内であることを、家康は再三信長に言いつづけることをわすれなかった。

信長はその娘徳姫を家康の長男信康に嫁せしめた。織田・徳川の両家はこれで姻戚になり、その紐帯はいよいよつよくなったが、かといって家康がもっている国は、本国の三河と遠州だけしかない。日に日に巨大になっていく織田勢力にひきかえて、徳川氏は同盟国というにはあまりにも小さい。
「三河どのは、大切なるお人」
と信長はつねづね言っていたが、相変わらず家康とその兵力を便利づかいするばかりで、べつに大切にしている様子もない。が、家康はひたすらに尽くした。考えてみると桶狭間のあのあとの信長家との同盟締結のころならまだしも、いまとなれば離れようにも裏切ろうにも相手の織田勢力が強大すぎて、家康としてはただ犬のような忠実さでついてゆくしかない。

信長は若いころから信玄をおそれること虎のようであり、この時期、信長は信玄の西上を防止してなんとか自己勢力をまもるための権謀と外交の手を、人間に与えられた悪知恵のかぎりをつくしてつぎつぎに打っていた。まるで大津波がくるようであった。その大津波のために途中、同盟国である三河の家康がひとたまりもなく呑まれてしまうであろうことなど、信長にすれば顧慮している余裕もなかった。

などなど他にもある。
信長にとっての東からの敵は、武田、北条、上杉らであり、この矢面に立つのが徳川であった。
現代に例えてみれば、アメリカから見て東からの脅威というのは、かつての共産主義であるソ連、今では中国となろうか。この守りの要、東の抑えととなるのが日本であり、これが織田政権の徳川にあたる。
また、家康が信長に協力した兵力というのを、金銭・基地・土地の提供という言葉に変えれば現代の日本とアメリカの関係というものに通じる。(その協力があったからこそ自国の独立が保たれたともいえる)

家康は信長の同盟者として信長に運命を託し、終始信長にひきずりまわされ、深い関係をむすんだが、その一方で、甲斐の武田や後北条氏と同盟して織田家と断交するという手もあったのだった。
形勢を鑑みて、今までの協力関係を断ち切り、より強力な方に付くというのは、戦国時代のつねで小国が生き残るための唯一最大の切り札である。(実際、信長は家康の寝返りを警戒していた。)
鳩山・小沢の民主党政権が突如としてアメリカを軽視し、中国寄りになったという方針転換を米国がみれば、日本は中国に寝返ったのかと思い、態度を硬化させるくるのは当然のことだろう。
その一方で日本側からみても、日米同盟を組んだからといって、日本が本当に攻撃を受けたらアメリカは助けてくれるのか、といった疑念を持つ人も多い。
歴史的にみても、実際に軍事同盟というのは実際にはあまり機能しないようだ。
「家康は三方ヶ原の戦いでは武田軍が迫りつつある時、信長に援軍を一万ほどの兵を要請した。しかし、信長が派兵したのは三千ほどで、しかもその兵には積極的に戦うなと厳命した。まさに同盟の義理をはたす程度であった。」
とあるように、やはり軍事的に強い方の思惑に優位に働くのだ。

ではアメリカ軍はなぜ日本に軍隊を置くのか?
「日本は独立国家ではない」「日本はいまだにアメリカの占領下・支配下にある」と言った話もよく聞く。
例えば高山正之のコラム「変見自在」(新潮社)にあったもの引いてみる。

「……なぜ羽田直前で回り道をするかというと羽田の西側は今もそうだが、米軍横田基地が航空管制権をもっていて日本の飛行機が勝手に立ち入れない。境は多摩川に沿って敷かれる「ブルー14」だ。
平たく言えば羽田の向こう側に壁が立っている。そういう状態で離着陸するから、こういう大回りを強いられる。
ちなみになぜ東京のすぐ後ろに米軍基地があって空を占領しているからというと、白人国家にとって世界で一番怖い国が依然として日本にあって、その首根っこを押さえておく必要がある。空を握っているのは日本が制御できなくなった瞬間、東京を制圧する海兵隊を沖縄から空輸するためだ。……」


戦国時代はいつ裏切られるか分からない状況下にある。同盟を結んだからといって安心はできない。そのために、同盟国から派遣される軍は援助という名目と、同盟国の監視という役目をも負っていた。織田方が徳川方に兵を派遣するのも決して協力・援助だけではないのだ。軍監という名目は、本国から隷属している同盟国の監視役であり、信長はつねに徳川軍の後方を支援するという名で家康を監視していたことになる。

そう見ると、あのアメリカ軍というのは東アジアの安全のためだけではないというのもよくわかる。
だからアメリカ軍の沖縄の負担軽減のために日本各地に分散にして米国の基地を置くというは自国を売り渡しているのと同じ行為であり、まして、アメリカ海兵隊を東京近郊に移せなどという意見もあるようだが、これなどは平和ボケのアホと云うほかない。

さて、それでも、日本は戦国時代の家康と同じ様に、強力な国の後ろ盾を得なければ、他国に侵食されてしまうだろう。
取るべき選択肢は実に少ないのだ。
「日米同盟」の強化、これしか今の日本には生きる道はない。
では、このまま隷属的な関係でいいのか。いいはずがない。だが他の選択肢はない。ではどうすれば……。
ここで戦国時代の徳川家康と同じ状況下にある現代の日本は学ぶところがあるはずだ。
忍従を続けた徳川家康はどうなったか。決して他国に併呑されることなく、戦に勝ったり負けたりしながらも自国を守った。最終的には生き残った。(秀吉の時代も忍従の時代だったが、最後は天下を取るところまでいった!)
それは何故だろうか。
徳川が生き延びった理由はどこにあったかといえば、
三河衆の強い結束力で家康を支えたこと。
その三河国人が頑固なまでに三河魂を捨てず、(司馬風の表現では)信長と同盟を組みながらも、その派手好み、モダニズムに染まることなく、実に保守的であったことだろう。(この「三河」の部分を「日本」に置き換えてみるといい)
他国に侵食されないことは自国の独自性を守ることにある。

自国の文化を守ることが国を守るというは、三島由紀夫が唱えるところである。(関連記事)
そして家康や三河衆は、ただ単に自分等の殻に閉じこもり自分らの考えに固執したわけではない。
自国に合うもの、自国に有利なものはどんどん吸収した。(家康は、武田遺臣や敵側であったもので有能な者らを召抱え、信玄の民政のやり方や兵法を取り入れた。)
この考え方や行動が自国を守った。
今の日本が過去の歴史に学ぶとすれば、こういった三河人の忍従の時であろう。
日本は、決して友好国ばかりではない国(中国や朝鮮半島の国々)に囲まれた小さな島国であることを自覚し、自国を守る兵力を持たず(持てず)、それでいて地勢的には戦国時代の三河がそうであったように、現代の日本が東アジアにおける軍事的重要な所であるということを考えなければならない。
司馬遼太郎の「覇王の家」にこんな一文がある。
信長の天下がきてその下につく家康が考えたことは「辺境を守り、兵を強くし、民を富ましめ、堂々たる地方国家を作りあげていこう」ということだった。

その時代その時代で生き残るための最良の選択すればいい。
(自国を自力で守ることのできない国を自立した国と呼べないと、福沢諭吉が今の日本を見たらきっと嘆いたに違いないが…。)
だから、今は、忍従のときなのだろう。
となれば、どう考えても、誰が首相になったとしても今の状況では「日米合意」という選択しかないのである。

だがここで忘れてはならないのは、戦国時代の徳川家康の置かれた状況と生き残るためにした方針だ。三河国人が周辺諸国に呑みこまれないために何を考え、何をしたかだ。

究極的には、日本人が日本国を失わないようにするには、自分等の「文化(=魂)」を守るしかないのである。
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群馬県が東毛の歴史文化観光に力を入れるって言ってもどうも本当だとは思えない。

平成22年5月22日 上毛新聞に「国史跡の太田・天神山古墳 周辺追加答申 文化審議会」の記事が一面に出ていた。

天神山古墳周辺1.2㌶追加答申
 国の文化審議会(西原鈴子会長)は21日、国史跡に指定されている天神山古墳(太田市内ケ島町)の周辺区域約1万2700平方メートルを追加指定するよう川端達夫文部科学相に答申した。官報告示を経て正式に決定する。

 天神山古墳は5世紀中ごろに築造された前方後円墳で、墳丘の全長は約210メートルあり東日本最大。地方では使用例が少なく、畿内の大王陵に使用されたのと同じ型式の長持形石棺が採用されている。このため、大和政権と強いつながりを持ち、毛野地域(群馬、栃木県)の頂点に立つ大首長の墓と考えられている。
 1941(昭和16)年に約4万4500平方メートルが国史跡に指定された。今回はそれ以来の追加指定となる。内堀と外堀の間の 中堤帯や、古墳を横断する県道前橋館林線、墳丘と同一軸上にあり同古墳と密接な関係を有する小円墳などが対象。土地所有者の同意が得られたことで指定の条件が整った。
 同古墳ではこれまで、県教委や太田市教委などが調査を実施。市教委は31次にわたる調査を継続し、中堤帯や外堀、周囲の小円墳などの位置や規模を明らかにしてきた。
 県教委文化財保護課や市教委文化財課は「指定により開発から守ることができる。古墳の領域をできるだけ保護するための一歩」と話している。

東京新聞、毎日新聞にも「保存活動強化へ弾み 太田天神山古墳 国文化審が史跡区域拡大答申」といった記事が出ていた。

さてさて、いいことではある。
しかし思うのは、「遅い」という印象と、本当に「古墳保護」に前向きなのかという疑問が湧くということだ。
当ブログでは、天神山古墳が荒れ放題である現状を書いてきた。
「国宝・武人埴輪の故郷はそこではありません。 歴史・文化遺産の放置は本当に許せない!」の記事など。
地元太田市・県・国の関係団体の「歴史遺産」に対する放置状態のあり様は、散々書いてきたのでここでは繰り返しませんが、あまりにもひど過ぎる。(新田氏関連のものを含めて)
だからこういった動きや報道を見ても、形だけ、パフォーマンスだけといった感じを受けてしまう。

そしてここ最近、群馬の地元紙・上毛新聞には「北関東道」の記事が多く載る。

東日本高速道路は25日、北関東道の全線開通が来年4月下旬になるとの見通しを発表した。未開通の太田桐生インターチェンジ(IC)-佐野田沼IC間(18・6キロ)の工事が順調なため、「2011年度の中ごろ」としていた時期を早めた。春の大型連休中に県外から訪れる観光客の増加が期待され、来年7~9月に行われる大型観光企画「群馬デスティネーションキャンペーン(DC)」にも弾みがつきそうだ。(5月26日付け)


北関東道北関東自動車道 NEXCO 東日本から
また同日の新聞には「(北関東道の開通により)観光客の増加が期待され……」といった文章に続き、「観光地の魅力高める」(県内経済界)の記事からは「東毛の歴史文化と北毛の自然を組み合わせた新しい回遊ルートを提案できる。東北方面からの集客も期待したいと効果の大きさを強調する」(県観光協会・事務局長の談)とあった。
確かにそうだ。高速道路が出来れば観光客は増えるし、実際、東毛には歴史文化遺産が多くある。
しかし……。
どうなんだ、現状は。
荒れ放題じゃないか!
天神山古墳・標識板はげ落ちた道路標識。(天神山古墳)
ベンチぼろぼろのベンチ(円福寺・茶臼山古墳)
旗・2色あせた新田氏の旗
そして未だに更新されない太田市の観光ホームページ(長楽寺は昔の写真 http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-485.html)
こういうのを見ると本当に東毛の歴史観光に力を入れているの?と文句を言いたくなる。
これで北関東道が出来て観光客を呼び込もうなんていっても、ただ首を傾げるしかない。
太田市は一応「太平記」でNHK大河ドラマの撮影地となっていたが、いまはその痕跡さえない。関連記事
本当に観光資源を生かしていないとつくづく思う。
天神山古墳の整備の遅れは、他の埼玉県のさきたま古墳、高崎市のかみつけの里博物館などを見ると、どうしても太田市・群馬県は何をやってるのか思ってしまう。過去記事
もう溜息しかでないよ。

やはりここは大本に立ちかえる必要があるのだ。
「新田市を誕生させる会」発足。いまこそ新田源氏の名を地名に! 

徳富蘇峰についてのいい記事を読んだ。

 読売新聞 文化面にあった文芸評論家 杉原志啓が書いた「言葉 今に問う」の記事が面白かったので転載してみた。
ともに徳富蘇峰のについてだった。

平成22年5月17日付け

「俺の恋人誰かと思う 神のつくった日本国」〈徳富蘇峰 1952年、「読書九十年」〉
誰しも不遇逆境のときがある。明治の頃から論壇のスターだった「大記者」徳富蘇峰は、先の大戦中大日本言論報国会の会長として終始一貫戦争完遂を鼓舞。ために彼は、敗戦後一転世の激しい指弾の的となる。
この言葉は、落莫(らくばく)の境涯にあったその最晩年に発せられている。
つまり、一夜にして米英撃滅の急先鋒だった日本人が、すかさず米英礼賛者となり、古事記一点張りの日本人が、たちまち民主主義の説法者となり、戦争一本建ての日本人が、ただちに世界平和の高唱者へ豹変したいた頃に。
もとよりこの経世的論客が、今にいう「世界平和」や「友愛」の規範を知らぬわけではない。ただ、世相激変後も「文章報国」を念じ、その根底に戦後失われてゆくこんな「恋心」を青春のマグマのごとく滾(たぎ)らせていたのである。
満九十四歳の長逝目前、蘇峰に集う一席で、歌舞音曲付のこの言を聴く元朝日新聞の緒方竹虎や読売新聞の正力松太郎も神妙だったという。


平成22年5月24日付け

「当世に最も繁盛するを、成功青年と云ふ」〈徳富蘇峰 1916年、「大正の青年と帝国の前途」〉

先の大戦終焉から半世紀近く、無国籍ふうのポスト・モダンの文化が揺籃する。明治維新から同じスパンの歳月をへた頃、白樺派だの教養主義だの、やはりコスモポリタンふうの色調に彩られる季節があった。
大正デモクラシー旋風の吹き荒れたその刹那、蘇峰は、日露戦争の勝利によって弛緩した日本の若者たちへ、君らはただ「拝金の上(こうじょう)」に浮かされているという見出しに掲げた言葉を放っている。あるいはまた、功名と恋愛に焦る「煩悶青年」であり、一見柔順な「模範青年」であり、カルトな「耽溺青年」であり、虚無的な「無色青年」なのであると。
洋行帰りの新時代の若き旗手、吉野作造は、この言を老人の「繰言(くりごと)」を聴くが如しと評した。われらはしかし、蘇峰往時のベストセラー(百万部超!)にいう「駱駝の針孔(らくだのはりあな)」をくぐりぬけた大正の試験秀才にして「拝金」に熱い「成功青年」たちが、先の大戦における日本国の敗亡を担ったことを忘れてはならない。

徳富蘇峰というと「戦争責任」「帝国主義者」といったイメージが強く過ぎて、いまは語られることは少ない。(触れてはいけない人物という扱い)
上記にあるように、戦後以降これまで余りにも左からだけの偏った視点しかなく、右というとそれだけで「穢れた」ものという意識が世の中を覆っていた。
しかし、「国を想う」「日本を守る」という意識が薄れている現代日本にとって、今一度「徳富蘇峰」は再考されるべき人物ではないだろうか。(巧も罪も含めて)

徳富蘇峰についてはネットでは、松岡正剛の千夜千冊が三島由紀夫とからめて分かりやすかった。

「日本文化」を売り込むことが閉塞感の打開策になるのでは……。その2

平成22年5月16日 読売新聞経済面「けいざい百景」 編集委員 安部順一
「まんが課」誕生のわけ

高知県に4月、都道府県で初めてという「まんが課」(正式には「まんが・コンテンツ課」)が誕生しました。
「なぜ高知県に?」と思う方も少なくないでしょうが、実は高知県は、「フクちゃん」の横山隆一さん、「アンパンマン」のやなせたかしさん、「女の子ものがたり」の西原理恵子さんら、数多くのまんが家を輩出してきた「まんが王国」なのです。「自由民権運動以来の風刺画が、まんが家を生み出す風土を作った」との説があるそうです。
1992年から毎夏開いている「まんが甲子園」(全国高校漫画選手権大会)には、全国から300~400校が参加し、予選を勝ち抜いた30校が高知市に集います。本選には人気コミック誌が編集者を送っており、過去3年で56人がスカウトされ、マンガ家への道を歩んでいます。
これまで文化振興の側面が強かったのですが、「まんが課」誕生を機に、まんがを産業化し、経済振興にもつなげようというわけです。
もちろん、裏にはしたたかな戦略があります。高知県は巨大市場の首都圏から遠いという地理的なハンデがありました。しかし、インターネットや携帯電話向けのまんが配信(デジタルコンテンツ)が普及すれば、そのハンデがなくなります。大規模な施設投資も必要ありません。「まんが甲子園」を通じて培ったコミック誌やまんが家とのコネクションも生かせます。
まんが家など起業家が出会う場所を設け、事業化に向けた官民の連携組織を作って、県はコネを生かしたアドバイザーの紹介や補助金などで支援する――。高知県が描く産業化の姿です。
初代「まんが課長」となった伊藤博明課長は「まんが王国・土佐をブランド化し、年商20億円産業に育てたい」と意欲を燃やしています。
日本のまんがやアニメをはじめとするソフトパワーは、「クール・ジャパン」(かっこいい日本)として海外で人気を集める一方で、国内ではサブカルチャーの扱いにとどまってきました。「ビジネスにして儲ける」との発想も十分ではありません。
読売新聞は経済再生に向けた緊急提言で、「文化産業立国を目指そう」を掲げ、ソフトパワーを成長産業に育てるため、国が事業化までを支援するなど、国家戦略としての取り組みを求めました。
経済産業省や日本経団連もコンテンツ産業の振興に注力するように求めています。
それらを一歩先取りした高知県の取り組み。「さすが坂本龍馬を生んだ県だ」と言われるような成果が上がるか、先行きが楽しみです。


こういう記事を読むと、麻生政権時の「アニメの殿堂」(国立メディア芸術総合センター)などは必要だったのではないかと思う。現政権は削減縮減ばかりで削ることを主眼に置きすぎている。これからは日本文化を高めることが経済発展につながる、そう思えてならない。(過去記事「日本文化」を売り込むことが閉塞感の打開策になるのでは……。)


また、岸 博幸の“「アニメの殿堂」ほど正しい予算の使い方はない”の記事を読んで納得。まさに正論だと思ったのでそのままコピペしました。(民主党政権前の記事)
http://it.nikkei.co.jp/internet/column/mediabiz.aspx?n=MMIT12000008062009
 

5月29日に14兆円規模の 2009年度補正予算が国会で成立したが、野党を中心に「無駄遣い」「バラマキ」批判が続いている。特に無駄遣いの象徴とされたのが事業費117億円の「アニメの殿堂」だが、見当違いも甚だしい。むしろ、無駄遣いとバラマキばかりの補正予算の中では数少ない真っ当な予算と評価すべきなのである。この問題を巡る政策論争と報道を見ていると、日本のクリエイティブ産業の将来は暗いと言わざるを得ない。

■ハリウッドの有名人は「まんだらけ」に行く
 「アニメの殿堂」の正式名称は「国立メディア芸術総合センター」といい、世界が評価するアニメ、マンガ、ゲームなど日本のポップカルチャーの展示施設を新たに整備しようというものである。この予算を民主党は「国営マンガ喫茶」「アニメの殿堂」と喩耶して、今回の補正予算の無駄・バラマキの象徴として政府への批判を強めている。ワイドショーを中心に、メディアもそれを面白おかしく取り上げている。
 だが、ちょっと待ってほしい。そうした人たちは、アニメやマンガを巡る日本の現状を理解しているのだろうか。それらが世界的に高く評価されていることは誰でも知っているだろう。浮世絵、黒沢明監督の映画などに続く日本文化の久々の快挙である。それにもかかわらず、オタク発・草の根出身の文化であるがためか、国内では冷遇されているのである。
 例えば、日本のアニメの影響を受けたハリウッドの有名監督や大物プロデューサーが来日すると、必ずアニメやマンガが集まっているところに行きたがるのだが、結局みんな東京・渋谷の「まんだらけ」(マンガや同人誌の専門店。希少価値のある絶版本やおもちゃも扱っている)に行くそうである。
 なぜそうなるのか。地方には石ノ森章太郎氏の美術館など地元出身の大御所漫画家の作品を展示した施設はあるが、世界が評価するアニメやマンガを体系的にアーカイブし、その歴史や資産をちゃんとまとめた場所がないからである(東京・秋葉原に東京アニメセンターがあるが規模は小さく、そうした機能は果たしていない)。

 日本にはアニメやマンガの大規模な見本市があり、例えば今年の東京国際アニメフェアには3日間で約13万人が来場し、その10%程度が外国人だったという。1万人を超える外国人が新しい作品の取引の場に来ているのに、彼らに文化としての歴史や資産を体系的に見せる場は存在しないのである。

 ついでに言えば、アニメの黎明期の撮影機は世界に数台しか現存しないが、東京都に譲渡されたそのうちの1台は、倉庫に保管されているらしい。世界的にも貴重な文化資産が死蔵されているとしたらいかがなものか。また、日本のアニメやマンガの歴史を体系的に理解している日本人は意外に少なく、よほど外国の研究者の方が詳しい。

 このように、アニメやマンガは今や日本の現代文化の代表であり、世界中から評価されているにもかかわらず、文化の常識ではあり得ないくらいに国内で冷遇されているのが現状なのである。

■文化は政府が保護・発展させるべき

 アニメやマンガは単なる娯楽ではない。今や文化なのである。文化である以上、政府が維持・保護・発展に関与するのは当然である。ハリウッドの有名監督が来日して日本のアニメやマンガを堪能できる場所が本屋しかないというのは、国として恥ずかしいと思うべきである。

 同じような過ちが過去の映画文化にもあったことを思い出してほしい。日本映画の巨匠である黒沢監督が不遇の時代、彼を応援していたのは日本人や日本政府ではなく、スピルバーグなどの外国人だったのである。そして、同じことがアニメの世界で起きている。優秀な人材はどんどんハリウッドに流出してしまう。アニメ映画で有名な米ピクサー・アニメーション・スタジオでは数十人の日本人が働いているそうである。

 私の結論は簡単である。「アニメの殿堂」が今まで日本になかったことの方が問題なのであり、そのための117億円は無駄な補正予算でも何でもない。民主党はむしろ、政府の対応が遅かったことを問題視すべきではなかったか。「国営マンガ喫茶」というネーミングの妙には敬意を表するが、やはり問題の本質を外していると言わざるを得ない。

 しかし、民主党以上に問題なのは自民党である。何故、上記のような事実を淡々と説明して堂々と必要性を主張しないのだろうか。かつ、どうやら建設後の運営については独立採算が基本で国費を投入しないらしいが、大事な文化の維持のためにそれで本当によいのだろうか。もし民主党に攻撃されたくらいで独立採算の方向になったのだとしたら、これほど嘆かわしいことはない。政策についての信念がない証左である。

■ワイズ・スペンディングを実現させない政治

 私はこれまで、テレビや雑誌などで今回の補正予算を散々批判してきた。実際、「100年に1度の経済危機」という呪文を使って「100年に1度の霞が関バブル」を引き起こしたのは問題である。経済危機に対応すべく、思い切った財政出動に踏み切った政治決断は評価すべきである。しかし、その中身を霞が関の官僚任せにした結果、無駄遣いやバラマキの山となり「ワイズ・スペンディング」という掛け声とは正反対の内容になってしまった。

 繰り返しになるが「アニメの殿堂」は無駄遣いやバラマキの代表ではない。他に問題とすべき予算は山ほどあるのだから、民主党はそれらの正しい事例を挙げて攻撃すべきではないだろうか。

 例えば、補正予算は日本の将来の成長性を高める分野に使うべきなのに、羽田空港の滑走路拡張は65億円の一方で、短期的な経済効果がなく中長期な成長性にもほとんど貢献しない、肉牛農家への補助やサラブレッド生産者の経営を支援する基金には計130億円も積まれているのである。日本の将来のためには羽田空港より牛や馬の方が大事と判断されたのである。

 しかし、今回の「アニメの殿堂」騒ぎを見て、改めて財務省が可哀想になってしまった。財務省は補正予算の総額を大きくしろという政治の要請と、知恵のない各省庁からの陳腐な予算要求の狭間で、短い時間の間にかなり不本意な予算査定を強いられたはずである。それだけでも気の毒だが、それに加え、補正予算批判の筆頭で正しい予算があげつらわれるのだから、踏んだり蹴ったりだろう。日本を悪くしているのは官僚だけではない。政治の貧困がそれを加速しているのである。

これはほんといい記事だ。


日本に「アニメの殿堂」が出来たら外国人観光客はこれを目指してくるだろう。こういう点をもっと重視して、「箱モノだから」とか「天下りになる」とか「官主体はよくない」とか、本来のあるべき「日本文化の強化」を抜いた批判ばかりだった。(だから事業仕分けでは「文化」事業の予算を平気で切ってしまう。過去記事)
それにこういった「文化」を一段下に見る風潮もいまだに強い。
サブカルもオタクもマンガもアニメも「日本文化」なのだ。「アニメ・マンガ」で「文化防衛論」

日本はいま何が強いのか、どこを強化していけばいいのかを考える時だ。
非難・批判・悲観論はもう聞き飽きた。

続く……。


フジテレビの「日の丸」の扱い方はその時によって違うようだ。

ここ数日「新田 国旗」「新田 日の丸」といった言葉でやってくる人が多いことに気づいた。
友人に聞いてみたら、どうやらテレビでそういった内容のものを放送していたという。
早速、検索してみると、平成22年5月14日夜9時からの放送、金曜プレステージ「わかるテレビ」2時間SP(フジテレビ)のVTRの一つに、「日の丸」に関するものが放送されたらしい。
そこで動画サイトをいろいろ調べてみたら、すでに「youtube」にUPされていた。


国旗 新田 1
お~、日本の国旗として、「新田氏の大中黒」の旗が採用されようとしていた、という内容の放送だ。
Wikipediaの解説がそのまま放送に使われていて笑ってしまう。

1854年(嘉永7 年)3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(日本惣船印)を制定する必要が生じた。幕臣達は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印に考えていたが、薩摩藩主島津斉彬、幕府海防参与徳川斉昭らの進言によって、「日の丸」の幟を用いることになり、同7月9日、老中阿部正弘により布告された。島津斉彬が進言した理由は、俗に鹿児島城内から見た桜島から昇る太陽を美しく思い、これを国旗にしようと家臣に言ったといわれている。翌1855年(安政2 年)、島津斉彬は洋式軍艦「昇平丸」を幕府に献上するが、このとき初めて日章旗が船尾部に掲揚された。これが日章旗を日本の船旗として掲揚した第一号である。(暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』)

とあった。こういう何気ないところでも、徳川家が「新田氏」を名乗っていたことが分かります。

国旗 新田 2資料は「照國文庫資料館」とある。これは、鹿児島にある照國神社の資料館の展示物のようだ。http://www.terukunijinja.jp/

国旗 新田 3まあ、VTRにあるように日本の国旗はめでたく「日章旗・日の丸」に決まった、から大事にしょうといった内容でした。
テレビ局で「日の丸」を好意的に放送したものをあまり見たことがなかったので、ある意味驚いた。2ちゃんねる実況板に「これはテレ朝では放送できないな」といった書き込みがあったのには、思わず納得してしまった。

さて、その一方で、これに関していろいろ「日の丸」「フジテレビ」などと検索してみると、気になる動画が……。
浅田真央選手の表彰式をカットしたフジテレビの釈明~世界フィギュア
http://www.youtube.com/watch?v=nPKT0DznO7g
これに関したhttp://tweetbuzz.jp/entry/18520129/www.youtube.com/watch?v=nPKT0DznO7gなどのコメを読むと、ちと恐ろしくなる。
ほんと「フジテレビ」っていう局もどっちなのかよくわからんな。
まあ、スポンサー(金を出す方)次第で変わるってことか……。

美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その5 シリーズ第25回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第25回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その5

前回の続き
さて、ここまで、「正田氏と新田氏」の関係をただひたすら引用してきました。それもこれも「正田氏」のルーツをさかのぼっていくと「新田一族」にたどり着く、という結論のためです。
この点においてはこれくらいで大体は分かって頂けたかと思います。(それでも、一部のアンチ皇室の輩は納得が行かないでしょうけど……。)

ただ、正田氏が「新田一族」「新田源氏」「新田一門」だから何んなんだ、と言う人もいるでしょう。
新田氏の末裔だからどうした、という人もいるでしょう。
しかし、「正田氏の祖先は新田一族だった」という事実が肝要なことなのです。
それは、このシリーズのテーマは“「新田氏」に関連した人々は、それを自覚するとたちまち「尊皇家」になって、「新田源氏の使命は皇室を、国を守ることにある」と悟る”ことだ。
よく美智子皇后は平民の出だから云々と言った話をよく聞くが、正田家はただの家ではない、その系譜は、新田一族の末裔である。
新田一族の末裔である美智子皇后は御自ら皇室の中に入って、天皇陛下を支え、国(国体)を守っているのだ。

地縁や血縁の結び付きは、本人が思っている以上にその影響下にある。そんなことは意識もしていないという人もいるだろうが、そんなことはない、それは当人が気がつかないほど自身の内部にしみ込んでいるものなのだ。だれもここから逃れられない。
「自分の祖先が○○だった」「○○と同じ出身校だ」「おらが村の英雄は○○だ」ということに影響され、自ら行動指針というか行動規範の基を作っていくことになる。
そこを意識することによって、祖先(あるいは地元の英雄とかいったもの)の持っていたイデオロギーまでも背負っていき、その後の行動・活動に影響を及ぼす。

例えは悪いが、政治家の鳩山邦夫が「俺の親戚は坂本龍馬だ」と言ったことがありました。本当かどうかは分かりませんし、どうでもいいことなのですが、ここで重要なのは、「みんなが一緒にやれるように(幕末に薩長連合を仲介した)坂本龍馬(の役割)をやりたい」と連携に意欲を示した、といったところにある。
血がつながっているから、その人と同じ考えのもとに同じような行動するというのは、本来脈絡のない話である。しかし世間一般では、血縁者だから同郷だからその人の考えを引く継いで同じ行為をするというのは、大いに賛同される話である。
ただ、ここでは本人の資質によるものなのか鳩山邦夫の件は大衆に受け入れませんでしたが、本来、先人の遺命を引き継ぐ、先祖の遺訓を受け継ぐというのは美談の類になるべきものである。

これは自分が思っている以上にその人の心や思考までも形づくってしまうので、歴史上の人物でもこういった逸話は多いだろう。
例えば、草莽の臣である高山彦九郎は、新田郡細谷村の5月8日生まれたが、この日が新田義貞の挙兵の日であることや、高山氏が新田一門であったため、同郷の英雄である義貞の生涯に共鳴していったという。そして、新田一族の使命を自覚したのだ。それが「尊王思想」である。後の破天荒な行動は幕末の志士たちに多大な影響を与えた。『松陰』の号が高山彦九郎の戒名『松陰以白居士』からとったいう説や、中岡慎太郎、細谷村にある高山彦九郎の墓を訪ねているなどといったことだけでも分かる。(その他は歴史ミステリー小説「東毛奇談」第6章 12で)
高山彦九郎にとって、生まれ育った場所や祖先が「新田義貞及びその一族」に関連したことが、後々までの行動指針となった。
高山彦九郎が引き継いだのは「新田源氏の末裔は皇室(国)を守る」という使命感だった。

一つ「新田氏」関連の話を。
手島仁著「中島知久平と国政研究会」(みやま文庫) から。 

琴子(小川平吉の二女)は宮沢裕との間に、喜一・弘・泰をもうけた。喜一は第78代内閣総理大臣で、金井之恭の曾孫にあたる。岩見隆夫「再見戦後政治」によれば、岸信介・福田赳夫・宮沢喜一は戦後政治の三秀才で、頭脳明晰さは世界的な水準であるという。岸は福田を後継者とした。福田も宮沢が政敵の池田勇人―大平正芳系の人物であったにも関わらず、福田内閣の経済企画庁長官に抜擢し、OBサミット(インターアクション カウンシル)の後継者とした。これは戦後政治を彩る秀才の系譜であるが、福田が宮沢に目をかけたのは、上州人の血が流れていたことも、その理由であったと思われる。新聞記者などが、保守陣営のリベラリストの代表格である宮沢が熱烈な天皇主義者であることに驚きの反応を示したが、宮沢の皇室主義は、新田源氏の末裔である勤王金井家の血筋から来る筋金入りの正統なものであった。

宮沢喜一が金井之恭の曾孫に当たるとは思いもよらなかったが、(金井之恭は新田岩松家の支流。これは後で)
いま、ここで重要なのは、太字の部分で「新田源氏の末裔は皇室・天皇主義になる」ということだ。
こういう認識はみんな持っているようで、戦前では特に感じていたようだ。

この「新田氏=尊皇家」というのは新井白石にもある。
宮崎道生著「人物叢書 新井白石」から
「白石が自らを新田氏の子孫と考え、その自覚のもとに生きたことの意義は大きい」「白石その人が、自らの祖先を清和源氏で新田の支流であるとの意識を抱きながら生きたという事実は、白石の生涯を考える上できわめて重大な案件だったとして重視しなくてはならないであろう。」とある。
つまり、新井白石は幕内にあって珍しく尊王家であり、朝廷・皇室も世継ぎ確保のために備えをすべきであるとして宮家の増設を提言し、これが閑院宮家であり、今の皇室の系譜となっている。(関連記事 シリーズ 新井白石編その2 新井白石が皇室の系統を守ったのは、彼が新田源氏だったからだ。)

また、水戸徳川家は「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓をもつほどの南朝びいきの尊皇家だが、新田源氏の末裔であることを一番強く打ち出していたのが水戸徳川家だった。
同じ新田源氏末裔を称していた徳川の他家との特異性はどこにあったのか、これは後に書く。(「新田肩衝はなぜ水戸家にあるのか」)

ここでの要諦な点は「新田一族の末裔の使命は、この国を、皇室を守る」ということにあるのだ。

ならば、ここまで見てきたように、新田一門である「正田氏」もその使命を背負っていることにある。
だからこそ、「その1」で書いたように美智子皇后の使命感にあふれたお姿の意味も分かるというものである。
内側から皇室を支えている。
いま思うと、戦後の「サヨク」思想全盛の中で、皇室が倒されなかったのも、この国柄(天皇制)が壊されなかったのも、国民的人気を得られた美智子皇后の影響は大きかったのではないか。
「週刊誌的皇室」と揶揄されながらも、いま現在、「平成の皇室」が国民から支持されているのは、美智子皇后陛下の献身的お姿にある。

時代々々で皇室の在り方は変化している。現代において皇室の在り方として、いまは現状しかないのではないのではないのか。(「開かれ過ぎている」という懸念もあり、これについては問題も多いが……)

そうなれば、美智子皇后の血を受け継ぐ皇太子殿下や秋篠宮殿下、そして悠仁親王、敬宮愛子内親王、眞子内親王、佳子内親王もこの系譜にあり、この「使命」を受け継いでいることになる。


歴史的に新田義貞はその名を残したが、その生涯は余りにも短く、歴史上で大きな業績を残したとは言い難いかもしれない。しかし俯瞰して長いスパンで、目を凝らしていくと、そこに「新田氏」(児島高徳を含む)の末裔やら関係した人物が現れていることに気づく。(鎌倉時代末期・南北朝時代だけを見て「新田氏」を語ってはいけない)
そして彼らは、この国を守るためにどうすればいいのかを考え、行動した。

新田一族の末裔がこの国で果した役割は決して少なくないのだ!

このシリーズ「新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編」では、まだまだそういった人物を掘り起こしていきます。

美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている! その4 シリーズ第24回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第24回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その4

前回からの続き
前回は、「尾島町誌」と新井白石の「新田三家考」から、正田氏に関する記述を抜き出しました。
今回は「新田一門史」から引いてみます。

新田一門史
まず「徳川と太田の正田氏」の部分から。

新田郡尾島町徳川・正田秀二氏と太田市八幡町・正田政次郎氏からの史料「正田史」と「新田氏古記録」を参考にして編集した。
新田義重の五男経義が、新田庄の北方を守るために「額戸」に住んでその地名を姓とした。(今は強戸という) ―当時、義重は、義範に山名郷、義俊に竹林郷(のちに里見郷へ)、義季に得川郷(徳川郷)というように新田庄の東西南北に所領を与えて分族させた。
1、額戸経義の長男氏綱は額戸氏を継いだ。
2、次男経氏は、西長岡を与えて長岡氏の祖となった。この孫長岡源瑜は鎌倉攻めの功績で大蔵卿となったが、中先代の乱で武州女影で戦死した。
3、三男の孫三郎時綱に金山の西方にある鶴生田を与えてその地名を姓名として、鶴生田氏の祖となった。 この時綱の曽孫・松田与一政重は新田義興と従軍して矢口渡しで戦死した。
鶴生田孫三郎時綱の子は「庄田姓」で庄田彦三郎政綱である。舎弟は「勝田姓」で勝田彦五郎頼持で、その子頼政の3名は、義貞鎌倉攻めの旗頭として従軍した。
庄田政綱、勝田頼持、政綱の三名の子孫は世良田政義に属し、上州寺尾城、信州浪合の戦いに従軍した。
「波合記」とは、1385年(元中二年)世良田政義は上州から尹良親王を報じて、信州下伊那郡浪合で賊軍と合戦をした。当時越後から新田義宗の子新田貞方が従軍したが、賊軍の勢力があって遂に敗北戦となった。世良田政義は、得川四郎義季の子孫で世良田に屋敷があった。その世良田に属した庄田氏・勝田氏が当時得川に住居したと(古記録)に記載している。

ここから、正田氏一族の遠い祖先は、庄田―勝田―松田と称したというのが分かる。
また、強戸、鶴生田の地名は今も太田市に残っている。
(この鶴生田氏、額戸氏が鳥山氏と関係があるのだが、これはまた別の時に。関連記事「新田一族の話題3つ」となぜか「鳥山明」)

またさらに詳しく説明を加えている。

現在、館林市に正田氏が大多数在住しているが、正田貞次郎の系図に「延享から寛政年間に世良田より館林宿に移住す」の記録がある。館林在住の正田氏の旧墓地は世良田にあるが、宝暦・延享・寛政年代の石塔は全部「庄田」である。太田の正田政次郎氏は尾島町出身であるが、尾島町の墓地に石塔が二十余基あるが「勝田」である。この双方の石塔が庄田・勝田であったことは、正田氏の祖先が庄田・勝田姓であったと証明する。
苗字は、いつ頃から称しただろうか。その歴史を記しておく。
天文七年(1538年)に新田氏十五代(岩松)昌純の忠臣、正田対馬助義繁がいた。新田(岩松)昌純は逆臣横瀬に殺されて事件があった。(註・横瀬氏による下剋上。実権は岩松氏から横瀬氏に移る。横瀬氏はこの後に、新田義貞の孫・貞方を祖として由良氏を名乗る。) この時、長楽寺の住職真西堂が仲裁に入って昌純の舎弟氏純を「館様」と称し横瀬成繁が金山城主となった。城主となった横瀬氏は、勢力が益々盛んになって天正元年頃は、佐野宗綱を殺した。更に桐生城を攻め取ろうとした。正田対馬介が、新田家は無理な戦いはしない氏である、と忠告したが、横瀬氏は怒って正田対馬介を殺した。(この時代に正田氏系は、勝田氏、庄田氏、正田氏の三家があったようだ。)
天正十二年、新田金山城籠城の頃(北条氏の攻撃)は、庄田寅之介、勝田刑部介が仕えていたが、正田家は横瀬氏の勘気を受けていたので、このときは隠れ住んでいたという。
この七年後の天正十八年八月には金山城は取り壊しとなって家臣らは浪人した。当時関東八州は徳川家康の支配となって、家康は関八州を調べて自分の住む城をどこへ定めようようかと、川越へやってきたときに、重臣の本多佐渡守正信が家康の命令で新田(岩松)守純を迎えに来たので、守純は息子の豊純と家臣数名と川越城で家康に会ったが、家康は、新田氏の古事を尋問し、徳川氏の系図を参考にするから新田岩松系図を一夜だけ借用したいといったが、守純は(家純の遺言)があるので貸せないといった。家康は貸せば新田荘は守純に与える心でいたが、貸さないので怒って市野井の荒れ地を20石だけ与えた。
本多佐渡守正信は守純らを新田荘に送って来たが、無駄足はしなかった。彼は得川(徳川)郷へやってきた。当時得川村に正田隼人が住んでいた。隼人の父対馬介義繁が殺されたときは子供で、一事家族とともに潜んでいたが、天正十八年に横瀬由良氏は牛久へ蟄居したので、得川村に住んでも平気であった。隼人は青年となっていた。(註 徳川の正田秀二氏の伝承を参考とする)
本多正信は隼人に正田系図を聞き糺した。隼人は「庄田」「勝田」「正田」の三氏に分かれている。また鶴生田の子孫なぞと遠い系図は当てにならぬ、人間は正しく生きることが大事だ勝田、庄田は今後使わずに正田の苗字とせよ。今日から苗字帯刀を許し、得川を徳川村と称せ、徳川村の年貢は、今後無税とする。さらに江戸城へ年賀に登城を許可する。
正田隼人は本多正信に、丸めこまれた訳ではないが関東八州を支配する徳川家康に反対すれば殺されるだけである。
それに徳川村の百姓らが年貢を納めなくてもいいのなら、勝田、庄田の苗字を止めても、正田という苗字で結構だと思って以後、正田とした。
この話を聞いた勝田、庄田の人々も正田としたが、それは表向きだけで、石塔には勝田、庄田を刻んで供養をした。徳川家康も尾島や世良田の墓地まで調べる暇はない。それより天下を取るために日夜懸命だった。当時の歴史が示すように関ヶ原の合戦の後、慶長八年(1603)には、系図はどう繕ったのか一応、(新田殿)で征夷大将軍となった。

家康と正田隼人の会見が「尾島町誌」よりもさらに詳しくなっていて、本多正信がまとめ役となった、としている。多少、創作風にはなっているが、実際にはこういった流れではなかったかと思われる。
また、尾島にあるという正田氏の祖先の墓がどこにあるのかの細かい記述がないので、実際に見ることができなかった。これはもう少し調査してみたいと思う。
それにもうひとつ重要なのは、正田隼人とともに家康に呼び出された新田(岩松)守純であるが、この末裔が幕末・明治のときの岩松満次郎こと新田俊純であり、この娘が井上馨の妻となる。

次は「新田一門史」の「館林の正田家」の部分。

群馬県館林市に正田氏が多数存在している。徳川の正田氏の項を参考にして正田貞次郎翁の祖先の歴史を書いたが、貞次郎翁の祖先は、得川村から世良田へ移住して「庄田」を名乗った。今世良田の墓地にある石塔を調べると、延享、宝暦、明和、安永、天明まで「庄田」と刻んである。寛政年間に館林へ移住して大商人になった。以上で昔は庄田姓であったことを確証する。
太田市に住んでいる正田政次郎氏の祖先の墓は尾島町にあるが「勝田」と刻んである。この確証で正田氏の遠い祖先であった庄田彦三郎政綱とその弟・勝田彦五郎頼持が、元弘三年五月八日に、新田義貞軍の一方の大将として鎌倉攻めに従軍した歴史は創作ではなく、古記録にある史料と「庄田」「勝田」の両家の石塔を調べて、正しい歴史を記載した。
正田文右衛門は代々世襲で旧家である。旧屋号は「米屋」と称した。現在栄町で亀甲正醤油の醸造元である。この旧家、正田文右衛門の弟・貞一郎が分家して現在の日清製粉KKの創立者である。現当主は東京に在住している。
〈中略〉
徳川の正田家が保存している系図がある。ここでは旧家と書くが、「本家」と書かない。本家と称するのは、今から642年前に鎌倉攻めに従軍した遠い祖先を「本家」とした。各地に在住する正田一族は、鎌倉攻めに従軍した総本家から流れた分家である。

まさに正田氏の祖先は新田義貞の鎌倉攻めに参加したと書いてある。ただもっと詳しく書いてあればいいのだが、ここももう少し調べます。
ただ、「正田氏」の系譜をさかのぼっていけば、必ず「新田一族」に行く着く。これは間違いない。
新田義貞と桜「新田義貞と満開の桜」(世良田町)、鎌倉攻め・稲村ケ崎投刀の場面。このとき「正田氏」は新田義貞に付き従っていた。

次が「新田一門史」の「高島・中瀬の正田氏」です。

埼玉県深谷市大字中瀬、高島の正田氏
正田姓は徳川初期ころから同族が書くようになったが、遠い祖先が鎌倉攻めに従軍した時は“庄田”“勝田”であった。それが“正田”となったのは徳川郷の正田氏と同じ事情であった。
中瀬正田史料天正十九年に屋敷縄入の時(内匠正田)記名がある古文書があるが、その図面は正田家の本村徳川郷と利根川を中に境として中瀬村となっている。(中瀬という地名)遠い昔は徳川と地続きだったが利根川の流れが変わって利根川南となった土地である。
今の中瀬と隣村の新戒は遠い昔利根川であったこの古利根の堆積地なので(しんがい牛蒡)の産地である。
正田喜一郎氏(深谷在住の郷土史家、史料提供者)の祖父が、大正十年十二月五日に宮内大臣牧野伸顕氏を通じて牛蒡五貫目桐の箱に納めて天皇・皇后両陛下に献納された。
<中略>
天正十九年に縄入れした内匠正田と称する祖先は(法名・一窓善棟居士)で文禄三年(1594年)に没している。この祖先は天正十八年に金山城に仕官していたが、豊臣秀吉命令で金山城取り壊し後浪人した。翌年に中瀬へ移住して屋敷の縄入れをした。当時金山城に庄田新四郎、勝田刑部介、庄田寅之介、正田平左衛門の四名が仕官していた。平左衛門は高島へ定着したから、他の三名もそれぞれ定着したが、当時庄田・勝田姓があった。また正田姓もあった。
高島の正田氏の家紋は「蔦」で、中瀬の正田氏は「丸に蔦」。徳川の祖先も「丸に蔦」である。

新田一族・一門が埼玉の深谷や妻沼など北埼玉地方まで進出していたことということだ。
関連記事渋沢栄一と「上州遷都論」  「新田義貞伝承を追うシリーズ」10回目。
渋沢栄一 生家画像は「渋沢栄一 生家」
この一帯はかつては「新田荘」であったのだ。
また、渋沢栄一記念館の展示物を見ても「正田姓」のものを多く見るし、実際このあたりに「正田姓」はかなり多い。
実際に地図を見れば、利根川を挟んで両隣りだ。

大きな地図で見る

「正田氏」を新田氏の視点で見て行くと面白いことなる。
徳川家康がからんでいるというのは前にも書いたが、ここに井上馨と渋沢栄一も出てくるのだ。
みな「新田一族」と関係がある。

「上州遷都論」のとき井上馨と渋沢栄一が新田の地に帝都を作ろうとしたが、まさかその土地の名家であり、新田一門の「正田家」から皇后を出すとは、このときは思いもしなかったであろう。

さて、次回はこれらを踏まえて「美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!」大まとめをします。

追記 「新田一門史」には、「正田氏」はこの他は、世良田、出塚、尾島、堀口、押切、高林、花香塚、東矢島などが紹介されている。各家の写真、経歴、家族の名前なども掲載されているので、「正田姓」の方はを一度見てみるとよい。祖父・祖母・親戚が載っているかもしませんよ。
ほかに「新田氏」に関連した家臣・一族の末裔の方々が詳しく載っています。新田氏伝承を持つ家の方は一読することをお勧めします。意外なルーツを探れます。(とはいっても群馬の図書館くらいにしかありませんが……)

美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その3  シリーズ第23回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第23回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その3

前回の続き  

館林の正田家が、世良田郷(徳川郷)から分家したものであるというのが、前回までの説明。
今回は世良田・徳川郷の「正田氏」。
旧尾島町・徳川氏発祥の地

旧尾島町・徳川氏発祥の地「徳川氏発祥の地・太田市」とありますが、元は「尾島町」。合併したために案内板の尾島町の部分に無理やり「太田市」と上から張り付けてあります。
この案内板を見ると、世良田東照宮、長楽寺、満徳寺、総持寺、明王院……まさにここは「新田氏関連遺跡の宝庫」だと分かる。そして、私的には新田氏と徳川家と天海が結び付く場所だ。
東毛奇談

美智子皇后の祖先である「正田氏」はここにいたのだ。

まずは、「上州及び上州人」 大正11年・64号にあった新井白石の「新田三家考」から「正田(庄田)氏」の記述を拾ってみる。
「…又新田家の老臣に庄田隼人と云う者あり、御入国(徳川家康の関東入国のこと)の時分御尋有りけども、隼人は死去いたし其子百姓になりて有りしを刀御免被成、二百石被下、庄屋の上に立てられるが是も毎年正月、今に於て出府すとなり…」
新井白石が「新田源氏の末裔」を名乗っていたことは、以前書いた。
徳川家が新田源氏の末裔を称していたことにより、新井白石はその調査のため世良田郷・徳川郷に赴いていた。
関連記事

また「尾島町誌」では更にその状況が詳しく書いてある。

江戸幕府と尾島町
……こうして徳川氏は清和源氏系統である新田氏の後裔であるとの系図を作り、ここに徳川郷は徳川家発祥の地になるわけである。
ところで、親氏は徳川郷を出立するに際し、その領地を残らず正田隼人に預け、以後は正田家が支配したという。天正十八年(1590)徳川家康の関東入国にあたって、正田隼人は召されて川越まで祝のため罷り出るが、家康から直々に徳川郷の由来を尋ねられて、委細を申し上げ、このとき親氏の旧例にしたがって、祝儀として小判壱両を進物したという。そのとき、家康は新田徳川の旧臣は正田隼人だけであり、正田が子々孫々に継承され、めでたいことであるといい、その上で「新田徳川家之系図」を差し出すように命ずる。この上意によって、正田隼人義豊は急ぎ写しを出したが、正田の苗字はいずれの文字を用いるかとの下問があったので、「生田」あるいは「庄田」としたためている旨、言上したところ、紛らわしいので、「正」の文字に改めるようにとの上意があり、これより以後「正田」と改めて用いるようになったという。さらに家康は、この系図は他見致さざるように大切に保管すること、また御館跡で子孫末代まで居屋敷として所持してよいとの仰せであったと伝えられている。こうして、その翌年に徳川郷は直筆の御書判で三〇〇石の御朱印地とされ、諸事格別な厚遇を得たのである。以後正田家は代々正田隼人を称し、実名には「義」の一文字を襲用している。
これらの記録は、いずれも満徳寺および正田家側に残存したものであり、「徳川実紀」では、「正田」の文字はかなりのちまで「庄田」を用いていることなど、事実と相違するところもある。しかし、徳川家康が正田隼人に先祖新田氏の廟所と徳川郷を管理させることにしたことの理由は、徳川氏が新田義季の孫教氏の末裔であり、また正田氏も新田義季のもう一人の孫満氏の末で、ともに義季(の孫)を祖とする同族意識に由来する。そして徳川郷三〇〇石を家康直筆の朱印状で与えたこともまた、徳川家が新田氏の末裔であるという系図に付会したものといえよう。
したがって、江戸時代を通じて、正田家は徳川家から特別な待遇をうけることになるのである。すなわち、享和三年(1803)正月の「徳川郷明細帳」(満徳寺文書)によれば、御朱印地徳川郷三〇〇石は正田隼人支配とし、そのうち六三石は世良田長楽寺寄附料、六〇石余を正田隼人が、一七〇石は惣百姓配当地とある。さらに郷内の満徳寺は一〇〇石、「義季公御祈願寺 天台宗永徳寺」は五〇石の朱印地とされた。正田隼人は徳川家の先祖の地である御朱印地徳川郷を支配する御役人で、徳川家との特別な関係から年頭御礼などで江戸城に赴き、時服拝領を許されるほどの人物であった。


「庄田」から「正田」に変わった経緯がよく分かる。

その徳川郷にあるのが「徳川義季館跡」「徳川東照宮」である。
徳川義季館跡
徳川義季館跡徳川義季館跡
徳川東照宮
徳川東照宮徳川東照宮
徳川東照宮は満徳寺のすぐ近くにある。

縁切寺である満徳寺は今は縁切寺満徳寺遺跡公園となっている。
縁切寺満徳寺遺跡公園案内図
縁切寺満徳寺遺跡公園案内図
満徳寺
満徳寺
寺の中は博物館となっていて、展示物の一つとして「正田家」が使用した「駕籠」がある。

そしてこの周辺の石碑や墓地を覗くと「正田」姓が多いことが分かる。
庚申塔・正田氏
満徳寺向かいにある永徳寺にあった庚申塔には、「正田」の銘がある。
墓地 正田家
墓碑銘はほとんどが「正田」姓だった。

正田氏が新田一族と関係が深かったというは、ここだけを見ても疑いようがない。

さて、次回は「新田一門史」から「正田氏」の記述を引いていきます。

美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その2 

前回の続き
新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第22回
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その2 

正田家が新田一族の末裔であるという説明は、簡素ではあるが、ちょっと気のきいた本にも書かれている。
平成皇室辞典(主婦の友社)
「正田家 皇后陛下のご実家は新田義重(源義家の孫)の重臣生田隼人重幸を祖とすると伝えられ、江戸時代に正田姓を名のり……。」
大体は、このくらいの説明であり、新田氏の家臣、新田一門だったといった記述も見られる。

で、正田氏の系譜を遡るには、実のところ日清製粉よりも正田醤油を見た方が分かりやすい。
正田醤油の本社は群馬県館林市にある。
正田醤油 正田醤油株式会社正面
正田醤油本社正田醤油本社社屋
そしてこの敷地内に「正田記念館」がある。
正田記念館 入口正田記念館 入口

正田本家展示品を見ると「正田本家」の名がある。つまり正田醤油が本家筋にあたる。(美智子皇后陛下の祖父・正田貞一郎が創立した館林製粉後の日清製粉は分家筋にあたる。これは後で説明する)

この正田記念館に入ってすぐに案内板がある。
正田記念館 1
ここにも「正田家の祖先は、平安時代に、源義国に付き従いて上野国新田荘に移り住み、正田(庄田)隼人と称し…徳川家康の命により正田と改名した……」と書かれている。

ではもう少し詳しく書かれているものを引いてみましょう。
群馬姓名辞典から


正田〈館林〉
大手町の正田家の祖は、源義国に従って新田荘尾島(尾島町)に来住した生田(庄田)隼人という。天正十八年徳川家康に関東入部の際に呼び出され、新田徳川系図を提出した時、正田に改めたといい、また、八代将軍吉宗の代に旗本に同姓同名の者がいるので紛らわしいとして正田に改めたという。
江戸中期に館林に分家し、文右衛門を襲名して米穀商を営み、目車名主と新紺屋名主を兼務した。文右衛門(明治二八年没)は安政の大地震の罹災者救済のため、米穀を船に満載して江戸に送った。明治維新後、醤油業醸造業に転じ、「正田醤油」の基をつくった。この文右衛門の次男作次郎は、横浜で外米輸入業を営んだ。その子貞一郎は館林で育ち、祖父の業に従い、明治三三年館林製粉(現日清製粉)を興した。貞一郎の三男英三郎は日清製粉を継ぎ、その長女美智子は昭和三四年皇太子明仁親王の妃となった。四代文右衛門の分家に卯平を襲名する正田卯平商店がある。

正田〈尾島町〉
徳川の正田家の祖先は新田氏の家臣で、新田義重の子世良田(徳川)義季に仕えて徳川郷に居住した正田隼人佐重幸という(正木家文書)。徳川氏が名字の地を去ったのちも当地に残存し、徳川の館跡に居住した。
天正一八年、当主の義豊は徳川家康に呼ばれて、徳川氏発祥地とみられた徳川郷の名主に任じられ、代々世襲した。この時家康の命により生田を正田と改めたという。(境町・川越俊介所蔵江田生田両姓合系図写)
郷民も免租など特別待遇を受けた。代々隼人を襲名し、その一族と称する家が徳川・世良田・出塚・押切などにある。


また「正田記念館」パンフレットには、

正田家は代々現在の新田郡尾島町世良田(現在合併し太田市)に居住していましたが、正田六三郎(1682年没)が館林に移って商人となったのが館林の正田の始まりであります。
その後は代々「米文」の暖簾のもとに米穀商を営み、その名声は江戸から遠く大阪にまで聞こえ、又、かたわら町名主を務める人物も出たと言われます。
明治6年(1873年)3代正田文右衛門が醤油の醸造を創め爾来110有余年、今日に及んでおります。

とある。
つまり正田氏は、新田一族(家臣)→室町・戦国時代は世良田郷にそのまま在住(新田一族の世良田氏は三河に移住。この系譜と家康は結び付けた)→江戸期、本家は徳川郷の名主、分家した正田家は館林へ→米穀商→醤油製造業→明治期に分家した製粉会社を興す、といった流れである。

旧尾島町の世良田郷・徳川郷にいた正田氏が分家し、館林へ移住となっているが、実にこの道程には「新田氏遺跡」が数多く存在している。(大泉町の児島高徳の墓、邑楽町の篠塚伊賀守の寺、館林のつつじが岡公園は新田義貞・勾当内侍の伝説など過去記事)
また利根川の水運を使っての移動も便利であろう。
世界・ふしぎ発見 世良田・地図過去記事
正田氏を遡れば新田氏との結び付きは強いことが分かる。

ここで見てきたように、世良田郷から分家し、現在につながる正田家の流れはこれでつかめたと思う。
ではそれ以前の「正田氏」はどうであったのか、これは次回に詳しく書いてみます。




美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その1  シリーズ第21回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第21回

前回 「天海、明智光秀・明智秀満、井上馨、渋沢栄一、新井白石と来て、高山彦九郎、徳川水戸家、坂本龍馬、正田家と続く予定となっています。」と書きましたが、先に正田家を取り上げることにしました。

正田家が新田一族の末裔であるというは、当ブログでも書いていて、過去記事では、http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-19.htmlや「東毛奇談」でいえば「第3章4」で少し触れています。
実は、この記事は閲覧数が多い。これがどうやら「アンチ皇室」の輩が広めた「皇后の出自ネタ」と関連した内容だと勘違いしてやって来ている人が多いようだ。こういった不埒な輩が皇室の権威を貶めようとデマをまき散らしているのをあちこちで見かける。ここで一々取り上げないが、どうしてそんなウソが広まるのか。また困ったことに、これをまともに信じている人も少なくないというのが心配なところである。
ただその記事を読んで「何だ美智子皇后は(新田)源氏の末裔か」と思ってくれればいいのだが。(正田氏が新田氏系であれば、自然とこんなデマはウソだと分かるだろう。)
こういった根も葉もない噂が広まらないためにも、ここは少し詳しく書いていこうと思い、先に取り上げることにしました。

さて、「新田義貞伝承を追う! 実は東毛奇談の続編 シリーズ」は、新田義貞及び新田一族(児島高徳を含む)の伝承を持つ者が、時代の乱世になると突如と現れ、結果的に日本(皇室・国体)を守った、というのがテーマです。

ここでいうところの正田家というは、もちろん美智子皇后陛下のことであり、皇后陛下が新田一族の末裔であったからこそ「皇室」を守っているのではないか、ということです。

では、本題に入る前に、いくつか記事を引用します。

文藝春秋 2009年12月号の「皇室」についての対談部分から

高橋絋「……皇后さまは平成六年のお誕生日に記者から「陛下とお二人で皇室に新しい風を吹き込まれたという意見もあるが」と聞かれて、『きっと、どの時代にも新しい風があり、また、どの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています』とお答えになっている。それは伝統ということを重要視する姿勢の表れじゃないでしょうか。御成婚五十年の記者会見でも『伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家が、どれだけ力強く、豊かになれているかということに気付かされることがあります』とお答えになっている。皇室の伝統を次世代につないでいこうという使命感が感じられます。」
櫻井よしこ「皇室の伝統を絶やすまいとされる美智子さまのお姿には、本当に感銘を受けますね。『皇后さまと子どもたち』という写真集には美智子さまについて「時をつなぐ飛び石」の役割を担われようとされているのではなか、と書かれています。つまり、自身が耐え忍んだことと同じ手法や型、価値観で次世代を縛ることなく、一時代を経ることで機が熟することもある。その伝統のつなぎ目としての役割を自ら課しているというのですね。」

ポイントは、皇后陛下が持っている「使命感」だ。それは伝統を、この国を、皇室を守って次世代につないでいくという「使命感」だろう。

また、小林よしのり「天皇論」から

天皇の御威光を感じたのは、皇后の覚悟を知ったあの事件からである。
平成4年の山形国体で天皇陛下のお言葉の最中に男が突然グランドに飛び出し、「天皇訪中阻止」を叫んで、火のついた発煙筒をロイヤルボックスめがけて投げつけた。
その瞬間、美智子皇后はとっさに右手を伸ばして陛下をかばう姿勢をとられたのだ!
わしはこのニュース映像を見て感動した。
反射的に天皇を守ろうと身構えるあの姿は妻が愛する夫を守ろうとする「私的(プライベート)」な夫婦愛のレベルを越えていた。
この日本にとってかけがえのない尊い存在を守らねばという、「公的(パブリック)」な使命感を感じてしまった!
それはそれは美しい姿だった!
わしはそれ以降、皇后陛下を心から尊敬し、なおかつその向こうに天皇の御威光を意識するようになった。

(「山形国体」「皇后」などと検索すると詳しい内容が分かる。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1034998075は画像付き)
ここでも皇后陛下の「使命感」が出てくる。天皇陛下を、この国を、守るという「使命感」だろう。

みな皇后陛下のお姿を見て、何か「使命感」というものを感じてしまうようなのだ。
では、皇后陛下が発しているモノの源はどこからくるのであろうか。
結論からいえば、皇后陛下が新田源氏の末裔であれば、天皇を守ることが新田一族の末裔の「使命」だということだ。
新田義貞及び新田一族(児島高徳を含む)らが持ち続けた伝承を皇后陛下は受け継がれたのだ。

ということで次回から少し詳しく書いていきます。

とりあえずここから
正田記念館
正田記念館(正田醤油株式会社)



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消えた二十二巻

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