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パリでシェフを目指す日本人は増えて、ハーバード大学に留学する日本人は減っているのはなぜだろう?

平成21年8月16日 読売新聞 国際面

和製フレンチ パリ席巻
「繊細」「理解早い」若手料理人が活躍

パリのフランス料理界で日本人の若手料理人たちが旋風を巻き起こしている。
日本人がスターシェフを目指した1960年代以降の動きと違い、ビストロやワインバーなど大衆的な店の厨房に続々と浸透中。その大半を占める30歳代の職人たちは、和食のエスプリ(心)を仏料理に注ぐ文化使節の役割も担っている。(パリ 林路郎)

バスチーユ広場から東へ徒歩で約10分。日本人とあまり縁のない一角に、地元客が集まるワインバー「レスト・ザンク」がある。
その厨房を、仙台市出身の高橋礼継さん(33)が一人で仕切る。ニンニク、赤ワイン、子牛のブイヨンを煮詰めたソースに乳飲み子豚の蒸煮とネクタリンを合わせた創作料理が「今日のおすすめ」だ。
「毎晩メニューは替えるし、50食は調理します」と高橋さん。サービス係のニコラさん(29)は、「何人もシェフを見てきたが、彼が一番。繊細さ、優雅さが息づいている」と太鼓判を押す。
高橋さんが高校を出た90年代半ば、日本は就職氷河期だった。「未来は暗い。会社勤めより手に職を持て」と洋菓子店を営む伯父に促され、料理を志す。国内で修業し、2006年に渡仏。数店を渡り歩いた末、仕入れ、買い出し、調理、掃除のすべてを任せてくれるこの店に落ち着いた。
高橋さんのような日本人が増えている。日本人の料理人が何人いるのかの「統計はない」(仏移民省)が、業界に詳しい料理人、稲沢尚徳さん(28)は「レストランガイドの『ミシュラン』で3~1個の星が付く高級店なら最低一人は日本人がいる。それ以外も含めると1000人単位になるのでは」とみる。
多くは、マンガ「美味しんぼ」やテレビ番組「料理の鉄人」を見て育った世代。料理人は英雄だ。高橋さんも稲沢さんも「いつかはフランスで自分の店を出したい」と口をそろえる。
もちろん、楽な道のりではない。見習いの間は店の屋根裏に寝泊まりし、まかない料理で腹を満たす。たまに星付きの店で豪快に食べて勉強する。
この10年来、日本人を雇っているパリ5区「ラ・トリュフィエール」のシェフ、ジャンクリストフ・リゼさん(34)は、「日本人は自国の料理の伝統・文化をよく知っているから、仏料理も早く理解する」と証言する。
厨房の2番手、武田常嗣さん(35)は、「シェフの料理を仕上げるのが自分の役目」と忠誠を誓うから、信頼も厚い。仏料理を愛する日本人と店は相思相愛の関係だ。
素材重視の色彩豊かな料理で知られる16区の三星店「アストランス」のシェフ、パスカル・ボルボさん(37)は、「日本の料理人と素材の使い方や技術についてアイデアを交換するのが好き」と言う。その交流から、利尻昆布やカツオだし、玄米など日本の食材を大胆に取り入れた。
日本人なくして成り立たないパリの店は、かなりの数に達したように見える。

「日本人は自国の料理の伝統・文化をよく知っているから、仏料理も早く理解する」といったことや「日本の食材をフランス料理に取り入れるといったことも文化交流になる」といった話も興味深く、なるほどと感心した記事です。アニメ・マンガ、映画に食文化など、日本とフランスの文化的親和性は高いので、十分に納得できる話ですね。
もともと日本では「一芸に秀でる」「一つのことを極める」ことを尊ぶ国民性もあって、料理人、シェフが「芸術家」のように尊敬されるという国は、日本やフランスくらいで、他にあるのだろうか。(この国民性があるからこそ、日本人シェフがフランスに馴染むことが出来るということ)

さて、ここで「日本文化」の広まりをいろいろと語りたいところですが、ここでは違う点に注目してみた。
パリの日本人シェフが増え、多くの若者がフランスに料理修業へと「海外に積極的に出ている」という話とは、全く正反対の記事があったので、並べてみました。
以下、その記事。
http://news.livedoor.com/article/detail/4723475/から。
日本人の米国留学 10年で4割減少の理由

「留学といえば米国」という潮流に変化が起きている。この10年で米大学の日本人学生の数は約4割も減少した。日本人が「草食化」して内向きになったのが原因だとする米国メディアもあるが、日本から米国以外への留学は減っていない。なぜなのか。
米国で国際教育に携わっている非営利団体「IIE(Institute of International Education)」が毎年出しているレポートによると、米国内の日本人留学生の数は、2009年で2万9000人だった。10年前の1999年の4万 6000人から約4割も減少している。一方で、中国や韓国といった国々からの留学生は軒並み増加、最も多かったインドに至っては、10年前の2倍以上にもなっている。
ハーバード大の学部入学生、日本人は1人だけ?
米国でも話題になっているようで、2010年4月11 日付けのワシントン・ポスト紙に「かつて米国の大学に惹きつけられていた日本人学生が、内に籠もるようになった」という記事が掲載された。ハーバード大学の日本人留学生の数も15年間減少を続けており、09年に学部入学した日本人はたった1人だったと報じている。
記事では、減少の理由の1つとして、景気悪化などと並んで日本人の「草食(grass-eater)化」を挙げている。日本の最近の若者はリスクを避け、自分の世界で満足しようとする傾向があるとしている。

ハーバード大学のファウスト学長も同紙のインタビューに答え、「日本に行ったとき、学生や教育者から、日本の若者が内向きになっており、冒険をするよりも快適な国内にいるのを好むようになっていると聞きました」と話している。
確かに日本国内では、米国の大学教育は厳しいというイメージがある。米国留学に関連した国内機関からも「最近は意欲のある学生が減っている」といった声が挙がっている。


ここでは日本人の海外留学生が減った理由として、日本の若者が「内向きになった」「草食系が増えた」などと結論付けています。確かにその傾向はあるでしょう。しかし、それでは、最初の「パリの日本人シェフ」の話はどうなるのでしょうか。日本人の若者だって、明確な目標があって、こうなりたいというビジョンがあれば、積極的に海外に出て学ぶのだ。それは、「パリの日本人シェフ」の記事をみても明白なことでもあり、IT関連や芸術など様々な分野で、「海外に出る若者」の話はいくらでもある。
簡単に言ってしまえば、日本人の若者の意識の変革が起こっているということではないのか。「ハーバード大学でエリートを目指すこと」と「パリでシェフを目指すこと」が同価値になってきたということではないだろうか。(あくまでも私見です)
つまり社会の価値観が変わってきていて、各々の選ぶ人生が多様化しているということなのではないでしょうか。
社会が成熟してくると、発展途上の国々が持つ特有の「エリートの立身衆世」が尊ばれるという時代は過ぎたということではないのか。(韓国・中国・インドの米国留学は増えている)
だから、一概に「内向的傾向の日本人」と片付けてよい話でもなく、「海外留学減少」(米国だけ減っている)は、別なところに問題があるのではないかと、思うのだが……。(日本人は消極的、内向き→閉鎖的、こういったイメージを植え付けたい人たちがいるのでは……。)

それでも「ハーバード大学」などの超エリート大学にいって学ぶことや、シリコンバレーで働くことがエライなんて思っている人間にとっては「料理人と一緒にするななんて」っていって怒りそうな解釈ですが……。

過去記事(少し関連記事)
 渡辺千賀の「日本はもう立ち直れない」と忌野清志郎と小室哲哉
「うの」と「カツマー」と「清貧の思想」

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新田義貞像を地元が復元へ! そして私の激しい妄想。

新田義貞像を地元が復元へ 

今年2月、太田市新田市野井町の生品神社から盗まれた新田義貞像の復元に向けて、神社の氏子総代や地元の歴史愛好家らが動きだした。「新田義貞公像建立奉賛会」を立ち上げ、来年5月の鏑矢(かぶらや)祭での除幕式を目指している。復元する銅像の形は両手で太刀を持ち海へささげる姿とし、盗まれたものとほぼ同じにする。滝沢弘一会長(81)は「地元や関係機関の協力を得ながら、立派な像を復元したい」と話している。
 同会は、氏子総代の会長経験者や鏑矢祭保存会、地元の区長会長らで立ち上げた。役員が中心となり、資金捻出(ねんしゅつ)のため広く募金活動などを進めていく。
 盗まれた義貞像は1941年に作られ、義貞の挙兵650年に当たる83年に同神社境内へ移設された。高さ約80㌢で、コンクリート製の台座(高さ約2㍍)にボルトで固定されていたが、像の足元からもぎ取られていた。2月19日に近くの住民が被害に気付いた。
 復元する銅像は義貞が稲村ケ崎(神奈川県鎌倉市)に太刀を投げ入れる伝説の姿とした。盗まれたものより大きくする方向で検討している。滝沢会長は「多くの人が参拝に訪れる。恥ずかしくない像にしたい」と話している。
 盗まれた銅像は社務所北側にあり、いまひとつ目立たない場所だったため、復元する銅像は道路に面した鳥居付近を予定している。
 鏑矢祭は、1333(元弘3)年に挙兵した義貞が、同神社から鎌倉に向けて矢を放ち、戦の吉凶を占った故事にちなんだ行事。毎年5月8日に開かれており、奉賛会の中では「多くの人が訪れる一大行事。鏑矢祭に合わせた除幕式が望ましい」との声が多い。
 滝沢会長らは今月3、4の両日、義貞が戦死したとされる福井市を訪問。明新地区の公民館であらためて今回の被害を報告した。福井側の参加者からは、心配する声が多く上がった。滝沢会長は「義貞ゆかりの地では大きな関心事。義貞像は地元のものだけではない」と復元への思いを語った。
 太田署は引き続き捜査している。(平成21年8月27日付 上毛新聞から)

過去記事「大変だ! 生品神社から新田義貞の銅像盗まれた!」から進展があったようです。地元で復元という形になったようです。
やはり、福井の方々の声も大きかったのではないかと思います。(福井の方々の方が新田氏に対する尊崇の念が深い。過去記事)

ここのところ、朝日新聞やTBSテレビにおいて、最近の「銅像盗難」の話題で、この「新田義貞像盗難」の事件が取り上げられていたようです。(テレビ放送もあったらしい)
「生品神社」も変なところで注目されています。過去記事

募金活動となれば、ここは一つ、斎藤佑樹くんの力も欲しいところ。だれか話をもっていって下さい……、プロ野球入団で契約金もあるし……。(激しく邪推)
地元愛の強い斎藤佑樹くんのことだからきっと……。(激しく妄想)
だって「斎藤佑樹選手は新田一族ですから……」(激しく願望)
そんな協力があれば、地元のみならず、全国に斎藤佑樹くんの名声はより上がるでしょう。(これは現実)
スポーツに「美談」は必要なのです。(少し関連した話)
fuda_re.gif(群馬県人に上毛カルタの「れ」を見せれば、それだけで話は通じます。)

と冗談はこれくらいにして、何はともあれ、地元で「新田義貞公像建立奉賛会」を立ち上げたというのが嬉しい。こういう気運が高まることが何よりも大事なことだと思います。

守るべきは日本文化! サブカル好きもポップカルチャー好きも、神社に集う歴女もアニオタも、みんな三島由紀夫が命に代えて主張したことを聴け!

文藝春秋 2010年 08月号「的中した予言」の中から、「三島由紀夫」の部分から。

日本はなくなり、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、抜目がない経済的大国が残るであろう。
持丸博
昭和四十五年十一月二十五日、三島由紀夫は市ヶ谷台で衝撃的な自刃を遂げました。その四ヶ月余り前の七月七日、産経新聞夕刊に
「私の中の二十五年」と題して、予言的な一文を寄せています。
その中で、これからの日本には大して希望を持てないとした上で、このまま行ったら日本はなくなってしまうと嘆き、「……その代りに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。……」と悲観的な予言を残しました。
三島由紀夫は戦後の日本に強烈な異議を唱えて自決しましたが、三島が提起した戦後体制の虚妄とは一体何であったのか。
それは外的な面から見れば、日本国憲法と日米安保条約が一セットの枠となり、その縛りによって身動きがとれなくなっている閉塞状況を指し、内的には戦後の平和主義によってもたらされた偽善と自虐史観の呪縛によって、限りない精神の荒廃と欺瞞をまねいてきた戦後的風土であると思われます。
アメリカから与えられた憲法を内発性と擬制し、これを後生大事に守りながら、自らの国を守る気概と機能を棚上げにして来た戦後日本の怠慢。現実には安保によって国の安全が担保されながら、一方でアメリカは日本から出てゆけと主張する甘ったれた意識構造がいまもこの国に続いています。
三島はこの根源を、日本国憲法に起因するとして、昭和四十年代初頭から活動の軸足を大きく政治に移しました。三島と私はこの頃から付き合いを始め、あの盾の会は、私が学生を組織して三島と共に自衛隊に体験入隊したことがはじまりでした。自決当時、私はすでに盾の会を辞めていましたが、その後の日本は、三島の予測通りひたすら破滅に向かって走ってきたように思われます。
世の中がますます「カネ」と「ゲーム」と「利己主義」に落ちて行く様子を見るにつけ、三島の問いかけはいま一層深い意味をもつようになりました。
しかし、三島の時代、日本はまだ幸福でした。混乱はしていたが若者には明日を切り開こうとする意志があり、希望がありました。それが今はどうでしょう。三島が生きていて、あの無気力・無表情な若者の姿を見たら腰をぬかすでしょう。いや、三島はこれも見通していました。三島の目は、現代文明の落ち行く先をしっかりと見据えていたようです。
あの事件から四十年がたった今年、三島と奇しくも同じ名を持つ鳩山由紀夫が首相の座にありました。どこか自信なさげで、キョトキョトした無機的な目、からっぽで内容のない言葉、そして富裕な出のお坊ちゃま首相の出現は、まさに三島の予言通りでした。
彼は沖縄県民とアメリカ、そして連立仲間に対してそれぞれにお愛想をふりまき、相矛盾する約束を交わして、それゆえ政権は行き詰まりました。
「トラスト、ミー」といえば相手は信じてくれる、「友愛」を掲げれば近隣の人たちは皆仲良くしてくれる、と思い込んでいた彼の信条は、日本国憲法前文の「……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。……」という無責任な他人依存心理と生き写しです。
だが鳩山に見るこの論理と心理こそ、笑えぬ戦後日本人の姿です。
鳩山由紀夫は正に戦後体制――矛盾と欺瞞の象徴でした。
さて、この六月になって、今度は、抜き目のない、ニュートラルな、中間色の衣を身にまとった新しい首相が誕生しました。その名は菅直人。彼は平成十一年成立の国旗国歌法案に反対票を投じました。国歌嫌いでも有名です。彼の本質は前首相と同様に日本という視点が欠落したコスモポリタンです。
さても三島が命に代えて訴えた憲法改正はますます遠のきました。
国民の生活が第一などという甘い声にだまされて、いいとこ取りのポピュリストにこの国を任せていたら、それこそ日本は解体されてしまうでしょう。
四十年前、三島由紀夫の放った予言の矢は、的を射抜いてはるか彼方に飛んで行ったようです。

まさにこの通りでしょう。

最近、三島由紀夫の対談集や書簡、評論集ばかりを繰り返して読んでいる。どうも三島の代表的小説群よりも、「文化防衛論」などの評論集のほうが私にはしっくりとくる。(お気に入りの論文や対談はパソコンに打ち込んで読み返すほどです。)

40代前半の私には、昭和30年40年代の全共闘、安保闘争などの実体験がない。しかし三島由紀夫の評論を読むと、あの時代の雰囲気をよくつかむことができ、しかも沖縄問題や憲法改正、日米同盟、自衛隊などなど、あの時代から全く進展がないというもよく分かった。これらの緒問題を戦後からずっと棚上げにしてきた歪みが、現代の混乱を招いているのだと再認識させてくれるのだ。
将来の日本に深い禍根の残す問題だというのを、40年も前から三島由紀夫はすでに分かっていたのかと知って、驚愕もした。小説家としての三島は評価が高いが、こうした三島由紀夫が命を懸けて訴えた意味、思想面からの再評価がもっと必要なのではないか、と思う。
それに「文化概念としての天皇」「日本文化を守ることが日本を守る」という保守的考え方こそが、いまの日本にこそ求めらることなのではないか、そう思えてならない。

ということで、私の好きな「栄誉の絆でつなげ菊と刀」を書き起こしてみました。

この論説のいいところは、
1、「文化防衛論」などよりも平明で理解しやすいこと。
2、日本を守るとは、領土や国民を守るということではなく「日本文化」を守るということ。
3、「日本文化」とは伝統芸能のみならず、歌謡曲などでもいいということ。(これが現代ではアニメ・マンガ・Jポップなどサブカルやポップカルチャーでもいいということになる。過去記事「アニメ・マンガ」で「文化防衛論」)
4、その日本文化の総体として「皇室・天皇」があり、そこを守らねばならないということ。
などこれらが分かりやすく書かれているところにある。(創価学会のくだりなども面白い)

と、その前に「菊と刀」について説明すると、「菊は天皇であり、刀は武士」を意味する。
まず、ルース・ベネディクト著「菊と刀」から少し引用。

……西欧の学問に熱中する国民について述べる時、同時にまた彼らの熱烈な保守主義についてくわしく記することない。美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす国民に関する本を書く時、同じ国民が刀を崇拝し武士に最高の栄誉を帰する事実を述べた、もう一冊の本によってそれを補わなければならないというようなことは、普通はないこである。
ところがこれらすべての矛盾が、日本に関する書物のたて糸と横糸になるのである。それらはいづれも事実である。刀も菊も共に一つの絵の部分である。日本人は最高度に、喧嘩好きであると共におとなしく、軍国主義であると共に耽美的であり、不遜であると共に礼儀正しく、頑固であると共に順応性に富み、従順であると共にうるさくこづき回されることを憤り、忠実であると共に不忠実であり、勇敢であると共に臆病であり、保守的である共に新しいものを喜んで迎え入れる。彼らは自分の行動を他人がどう思うだろうか、ということを恐ろしく気にかけると同時に、他人に自分の不行跡が知られない時には罪の誘惑に負かされる。彼らの兵士は徹底的に訓練されるが、しかしまた反抗的である。



それでは、以下「栄誉の絆でつなげ菊と刀」です。


家、国土、国民は守る対象にならぬ

日本の防衛ということは非常に重要な問題であり、従ってあらゆるマスコミで防衛問題が取り上げられていることは当然である。しかしその根本にあるもの「われら何を守るべきか」ということについては甚だ漠然としている。私はこの点について自衛隊の一士、二士の若い連中とも話合ったが、自衛隊で隊員に教えられていることは、ごくわかりやすい表現でいえば、「お前たちのお父さん、お母さん、兄弟のいるあたたかい家庭を、お前たちの力で守ってやるという気持ちでやれ」ということである。この教え方は確かにいいが、しかし、家というものを壊したのは新憲法であり、その新憲法下における軍隊が自衛隊である。
しかも、兄弟の一人が、全学連で棒を振り上げているとすれば、もし治安出動が命令された場合、自衛隊たるものの態度はいかん――というふうに、家庭を守るといっても、その家族の中に思想的対立もある。古い家が崩壊した現代、もちろんその中にはいい家庭も残っているだろうが、そういうものだけを守る対象にすればいいというわけにもいかない、もっとももつと苛烈な時代がきているのである。
しからば何を守るか――。たとえば国を守るということだが、その国とは一体何だ――と質せば国土という返事がくる。しかし、家庭を守り、家庭の延長としての村を守り、町を守り、府県を守り、それから国を守るという、一連の地域共同体へのつながりがあり、それがさらに天皇陛下につながって、一つ引っ張ると芋蔓式に自分と社会、国家というものが一本の網のようになっていた昔と違って、こういう網が現代は断たれてしまっている。これは日本が敗戦したからというだけでなく、世界的な傾向としての都市化現象、近代化現象の結果そうなっているのであり、工業化の勢いが前資本主義的地域共同体をばらばらにしてしまったためである。
このように地域共同体が崩壊してしまった中で、いったい国とは何かと問われると、仕様がないから国土といい、その国土を外敵から守るのが防衛だ、と答える。しかし、その国土というのは単なる地面であって、これは日本がたとえ共産政権になったとしても、何の変わりもない。共産主義国が国土をとるかどうかはっきりしないが――、仮に共産主義国の衛星国にでもなれば、九州、北海道をそのまま日本の国として温存させるのみならず、ハバマイ、シコタンまで返還するかもしれず、国土がかえって増えるということになろう。そうすれば国土防衛という言葉はどうなるか。
また国民を守ることが日本の防衛だという答えもある。しかし国民を守るということは、人を守ることであるが、人間にもいろいろあり、日本のような国はなくなってもいいんだ、という人もいる。日本ほどいやな国はないと思っている人もいる。国境をなくして、世界国家にしたらどうだといっている人もある。そういう人間を全部ひとからげにして守ってやろうといっても、いや、お前なんかに守って欲しくないと言われたらどうするか。またデモ隊が自衛隊に押し入って、棍棒を振り上げたらどうするか。その連中に対して自衛隊員は「おれたちは君たちを守るためにいるんだ」とはっきり言えるだろうか。国民を守るといっても単なる抽象論でしかない――こういう話を私は自衛隊員と話合ったことがある。
従って、まず地面を守るという防衛は意味がない。人間を守るのは意味がない。家族を守るのは意味がない。自衛隊が会社を守ったところで意味がない。――ということになる。
それでは何を守るか――日本の防衛とひと口に言っているが、具体的にわかりやい言葉で表現することは非常に難しい。こういうことになってしまったのは、やはり現世界がイデオロギーの終焉時代にあるからだという人もいるが、それは間違いで、相変わらずイデオロギー病が全世界に広がっており、お互いにイデオロギーで人間がいがみ合うように、政治勢力が操っているとしか考えられないのである。
その情勢の中で、何とかしてわれわれは国民的統一体としての核心をもたなければ国はバラバラになってしまう。
ちょっと話はそれますが、日本の自民党がだらしがない、何をやっているんだという声が一方にある。自衛隊の中でも、非常事態法の一つなくてどうする、昔は戒厳令があったじゃないか――という声である。
しかし私が見まわしたところでは、非常事態法、あるいはそれに近いものができつつある国は、第二次大戦の戦勝国と、敗戦国では分断国家だけである。それはなぜかといえば戦勝国はどんなに思想的対立があっても国家的な連続性が保たれてきたし、あるいは中国のように、革命があった後だから反革命的非常事態から守ろうという法律が布かれている。しかしすぐ隣が同国人でありながら共産国家になってしまっているので、危機感が非常に強く、非常事態法も可決されるのは当然だ。従って非常事態法のごとき法律によって規制することは、決して好ましくないという結論になる。
さて、話を戻そう。われわれは何を守るか、ということだが、日本は太古以来一民族であり、一文化伝統をもってきている。従って、守るべきものは日本というものの特質で、それを失えば、日本が日本でなくなるというものを守るという以外にないと思う。
左翼の人たちは非常に日本人ぶる。日本人としてこういうものを我慢していられるか、日本人として米軍基地を撤退させなければならないんだという。そういう限りにおいて“日本人”という言葉を持ち出すのだが、それでいて彼らは一民族、一文化伝統、一言語という世界でも稀な国家的特色を、彼らの思想といかに調和させていくかという説明が少しもできていない。むしろそれを断ち切ることが彼らの政治的目的なのである。

文化を守るとは伝統の精神を守ることだ

何を守るかということを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を守れということでは非常にわかりにくい。文化云々というの、おまえは文化に携わっているから文化文化という、それがおまえ自身の金儲けにつながっているからだろう―といわれるかもしれない。あるいは文化なんか守る必要のない、パチンコやって女を抱いていればいいんだという考え方の人もいるだろう。文化といっても、特殊な才能をもった人間が特殊な文化を作り出しているんだから、われわれには関係ない。必要があれば金で買えばいい、守る必要なんかない―と考える者もいるだろう。しかし文化とはそういうものではない。昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るということだ。太古以来純粋を保ってきた文化伝統、一言語伝統を守ってきた精神を守るということだ。しかし、その純粋な日本精神は、目に見えないものであり、形として示すことが出来ないので、これを守れといっても非常に難しい。またいわゆる日本精神というものを日本主義と解釈して危険視する者も多いが、それはあまりにも純粋化して考え、精神化し過ぎている。目に見えないものを守れということは、とかく人を追い詰めていくもので、追い詰められると腹でも切るよりほかなくなってくる。
だから私は、文化というものを、そのように考えない。文化というものは、目に見える、形になった結果から判断していいのではないかと思う。従って日本精神というものを知るためには目に見えない、形のない古くさいものとは考えずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思えるものを並べてみろ、そしてそれを端から端まで目を通してみろ、そうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやって守ればいいかを考えろ、というのである。
歌舞伎、文楽なら守ってもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまっただ」などという頽廃的な文化は弾圧しなければならない―というのは政治家の考えることでことだ。私はそうは考えない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももっと頽廃的なものがたくさんある。それらを引っくるめたものが日本文化であり、日本人の特性がよく表われているのである。日本精神というものの基準はここにある。しかしこれから外れたものは違うんだという基準はない。良いも悪いも、あるいは古かろうが新しかろうが、そこに現れているものが日本精神なのである。従ってどんなに文化と関係ないと思っている人でも、文化と関係のない人間はいない。歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが頽廃的であっても、そこに日本人の魂が入っているのである。
私は文化というものをそのように考えるので、文化は形をとればいいと思う。形ということは行動することである。特攻隊の行動をみてわれわれは立派だと思う。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には「バカ・ボム」といわれるだろう。日本人のいろいろな行動を、日本人が考えることと、西洋人の評価とはかなり違っている。彼らから見ればいかにバカ気たことであろうとも、日本人が立派だと思い、美しいと思うことがたくさんある。
西洋人からみてバカらしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、不道徳なものは全部やめようじゃないか―という文明開化主義である。西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はバカらしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、そういうものを全部否定していったら、日本に何が残るか―何も残るものはない。
日本文化というものは西洋人の目からみて進んでいるか遅れているかとか判断できるものではないのである。従ってわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかったことを知らなければならない。西洋の後に追いつくことが文化だと思ってきた誤りが、もう分かってもいい頃だと思う。

天皇は日本文化の象徴体現者である。
再び防衛問題に戻るが、この防衛論から出発して“何を守るか”ということを考えなければならない。私はどうしても第一に、天皇陛下のことを考える。天皇陛下のことを考えるとすぐ右翼だという人は多いが、憲法第一条に掲げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。天皇陛下を政治権力とくっ付けたところに弊害があったのであるが、それも形として政治権力としてくっ付けたことは過去の歴史の中で何度かあった。しかし、天皇陛下が独裁者であったことは一度もないのである。それをどうして、われわれは陛下を守ってはいけないのか、陛下に忠誠を誓ってはいけないのか、私にはその点がどうしても理解できない。
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもっている国家を裏切るという左翼的な考えの人が多い。しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきている文化の象徴である。そういうものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考えている。なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。日本文化を守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、政治的偏見に惑わされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには言論の自由を保障する政体が必要で、共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。
このように守るべき絶対的主体を、現実の場で具体的に守るにはいかにあるべきかを、幾つか例証をあげて明らかにしたい。

最後の防衛力は魂である。
まず核の問題について考えると、過去において私が話してきたことはみな精神問題というか、心構えというもので、武器についてはまだ話したことがないのだが、核については私はいろいろな点で疑問をもっている。まず核の欠点は何かと考えると、国内に使えないという点がある。
たとえばパリの騒ぎにしても、あれはドゴールが政治的手腕で解決したが、もし、内戦にまで発展したとしても、内戦に核兵器は使えない。アメリカでいくら黒人暴動が起こっても、黒人暴動で核は使えない。ベトナムでは使えたかもしれないが使わなかった、ということを考えると、日本にこれから危機が起こるとすれば間接侵略形態においてだろう。中共もソ連も海を越えて攻めてくるかどうかわからないが、そうすると国内戦の様相を考えた場合、一方の政治権力をもっている側も核を使うことができない。その間に反対側の政治勢力に完全に押しいられてしまうということも、十分あり得るのがいまの情勢だと思う。防衛問題も、こと陸上自衛隊については、間接侵略にどう対処するかということに一番重要な使命をもっていると思う。
先日衛藤瀋吉氏が書いた評論に「間接侵略に対処し得るのは最後は魂の問題である、武器の問題ではない」と書いてあるのをおもしろく読んだ。衛藤氏は社会党と政権交替してもいいというようなことを発表する人だから、私は氏の意見を全面的に是とするものではないが、この評論には一面間接侵略というものの本質をよくみられていると感心した。私はそういう場合に立ち至ったら、魂がしっかりしていなければ、いくら武器を持っていても何もならないと思う。国民一人一人が断固としてこれを守るという気持ちがなければ何もならない。武器より先に魂の問題であって、極端にいうならば、武器は日本刀でもいい。
間接侵略において日本人一人一人の魂がしっかりしていたら、日本刀で立ち向かっても負けることはないと思う。もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通の近代兵器は自衛隊に装備されていても、私はやはり市民武装という形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思う。勿論、ほんとうに日本を守ろうと思っていない者には持たせられないことはいうまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱われていることに対して、甚だ残念に思っている。日本刀を美術品とか文化財として珍重するのはおかしなことで、これは人斬り包丁だ―と私は刀屋に冗談話をするのだが、日本刀のように魂であると同時に殺人道具であるというのは、世界でも稀なものであろう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊に武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに向けるべきか、ということこそ問題だと思う。日本文化を守るためには、場合によれば親兄弟でも撃たなければならない。そのくらいの決意をもって、現在自衛隊は武器を磨き、操作しているということに、私は非常な疑問を抱いている。
これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざというときには上官の命令で弾を撃たない、池田さんのおっしゃった方に向けて撃つ」といったという。こんな軍隊は珍しい軍隊で、このように、いざというときにどっちへ弾が行くのかわからいというのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対して偽善や綺麗事であってはならない。自衛隊は、平和主義の軍隊であり、平和を守るための軍隊に違いはないが、もっと現実に目覚めて、一人一人高度の思想教育を行わなければならない。そうでなければ毛沢東の行っているあの思想教育に勝てないと思う。そうでなければ、日本の隣にある、このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことは不可能なことを、私は痛感するのである。

民族主義の強調には危険伴う
またこのごろ自主防衛議論になかで民族主義の涵養というような言葉が使われているが、民族主義というものはどっちにも利用される武器で、本来日本で民族主義云々というのはおかしい。日本には民族主義は不必要なのである。われわれは日本人であり、日本に住んで日本語を話している以上、民族主義をことさらに云々する必要はない。民族主義運動とは、自分の国を取られたり、親子兄弟が会いたくても会えない状態にあって、自分の国に返す運動をいうのである。あるいは自国の文化を自国に呼び戻す運動であり、無理やり引き離された国民を再び一緒にさせようというのが民族主義運動で、日本に民族主義運動というのはあり得ないと思う。もしそれがあるとすれば、日本は外国の捕虜になっている。いまのままで行くとアメリカの完全な奴隷にされてしまい、アメリカの前線に立って他国に対して黒人と同様に銃弾の的にされてしまう―という考え方だ。われわれが民族主義を唱えないと外国にしてやられるという危機に立ったときにしか、日本の民族主義運動はあり得ないと思う。
私は日本の民族運動とか、民族を守るために、ということは、どっちの側からも利用できるために非常に危険な言葉だと思う。ナチスがはじめのうちに民族主義をうまく利用していたことでもそれは証明される。民族主義というのはこのように利用されやすいものなので、この陥穽に陥らないように気をつけなければならないが、日本人はものごとの判断においてその危険性が非常に多い。

死を高く評価する日本人

ドナルド・キーンというアメリカ人がおもしろいことをいっている。幕末に来日した外国人旅行記を読むと「維新前の日本人はアジアでは珍しく正直で勤勉で、清潔好きで非常にいい国民である。ただ一つだけ欠点がある。それは臆病だ」と書いている。ところがそれから五、六十年後は、臆病な国民どころか大変な国民であることを世界中に知らせたわけだが、それがまたいまでは、再び臆病な日本人に完全に戻ってしまっている――というのである。
しかし鯖田豊之氏にいわせると、日本人は死を恐れる国民だといっている。これは面白い考え方だと思う。確かにアメリカはベトナム戦争であれだけの死者を出している。日本人だったら大変な騒ぎだと思うが、羽田空港などで戦地に赴くアメリカ兵士の別れの場面を見ていても、けろりとしているが、日本人だったらそんな具合に淡々として戦場に行けるものではない。まず千人針がつくられる。日の丸のたすきを掛け、涙と歌がついて、悲壮感に溢れてくる。そのほかいろいろなものが入ってくる。それらが死のジャンプ台にならなければ、どうにも死ねない国民なのだ。
私はインドへ行って死の問題を考えさせられたのだが、ベナレスという所はヒンズー教の聖地だが、そこでは人間が植物のように死んでいく。死骸がそこらにごろごろあって、そばでそれを焼いているのに平気である。これは死ねば生まれ変わると信じているためで、未亡人など、自分も死んだら死んだ亭主に会えるといって、病気になるとお経を読んで死を待っている。このインド人のような植物的な死に方は、日本人にとても真似できないだろう。日本において死は穢れだとされていることもあるが、日本人というものは非常に死の価値を高く評価している。だから、たやすく死んでたまるかということで、従って切腹で責任を果たすということにもなるわけだ。
私たちは、そういう死生観にもとづいて、文化概念としての栄誉大権的な天皇の復活をはからなければならないと思う。繰り返すようだが、それが日本人の守るべき絶対的主体であるからだ。

ついでに「日本文化の総体」としての「皇室」、国家=文化を守ることが必要なのだから、その下に軍隊をつけよ、と主張したのは福沢諭吉である。(私が主張する福沢諭吉と三島由紀夫と新井白石の「皇室観」が似ているというのはこういうところにある。これはいつか後述する。関連記事)

私がここのところ、アニメ・マンガ・米・弁当・神社に集う歴女やアニオタ・パワースポットなどを取り上げてこだわるのは、そこに「日本文化」があると考えているからだ。
守るべきは「日本文化」ならば、サブカル好きやアニオタも婚活の神社巡りの人も、何が今の「日本」に大事なのか、「日本」が失われればあなた方の好きなものも欲しているものも失われてしまう、ということに気付かせることが必要となってくるのだ。(中国語でしゃべるアニメが見たいのかい? 初詣も神社巡りもなくなって「韓国キリスト教会」に通うのかい?過去記事日本人にとっての神社)
みんなにこの危機感を感じてほしい、その一念で書き続けている。

三島の晩年の対談や論文を読むとの悲愴なまでの「危機感」を感じる。(実は二十歳のときにも同じ主張をしているのだが、これは後述する。関連記事)
この危機感はなんだろうか。
失われゆく「日本文化」……。
「文化=国家」、文化を失えば、その国家、民族も消えていくことになる。
過去記事
三島は40年前にそれを悟り、いまに予言したことになる。

いまの日本は実は「危急存亡の秋」なのではないか、そう痛切に感じている。
でもこれを感じているのは私だけではないはず……。
いまの世の中(特に政局)を見ていると……そう、思うでしょう?

「けいおん」で「アニメ・マンガで文化防衛論」を説いてもあまり分かってもらえなかったけど、めげません

「新田市を誕生させる会」、こちらの会合を先日行いました。
ただこれが、本題そっちのけで、おっさんが集まって駄話をするという会合です。
三船敏郎はネコバスだ」とか「小沢一郎を成敗する」とかいった話を延々とするというもの。
で、今回は、「アニメは日本文化か?」ということで、私がひたすら「アニメ・マンガで文化防衛論」を説くというもでした。
そこでお題にしたのが前回書いた「けいおん」。
「けいおん」も「AKB48」も同類だと思っているような他のおっさんたちに、「これは少女の成長物語だ」「けいおんの中にみる日本文化」とか、果ては「むぎちゃんが…」「あずにゃんが…」と私が説明するという何とも傍から見たらとても気持ち悪い状態になってしまいました。

私にとっては、アニメやマンガの中に登場する、「神社・仏閣」や「米やおにぎりや弁当」や日本的挨拶「お辞儀」や「いただきます」といった些細なことまで気になって仕方がない。
(例えば「けいおん」の主人公・唯の自宅の隣は神社。左端に鳥居が見える。考えてみると変な構図だ。この神社は物語に何の関係もないが、何度も何度も出てくる。)
「けいおん」 神社
こういうところが大事。
なぜかといえば、そんな日本人が何気なく普段接していることが、他国からみればそれは「日本独自の文化」だとということになるからだ。
いまは動画サイトで「日本のアニメ」は世界各地で見られ、影響を与え、愛されている。(英語やポルトガル語、中国語の字幕や吹き替え版まである)
つまり、日本文化を世界に配信していることになる。
これは、実は思っている以上にすごいことなのだ。
「文化力を高めることが、その国(民族)を守ることになる」ということを信じて疑わない(極論すれば、三島由紀夫や福沢諭吉や新井白石はこんなことが言いたかったと思う。)ので、最近はこんな記事が増えました。
カテゴリー「日本文化」で。

とそんな感じで、口角に泡を飛ばして熱弁しましたが、あまり支持されませんでした……。
まあいいんですけど……。分かってくれる人が少しでもいてくれれば……。

ただ、みんな「政治好き」なので、「日米同盟は織田信長政権下の徳川家康に似ている。ならばそこから得られる教訓もあるはずだ。」の記事は少々褒めてもらいました。

またぼちぼち更新していきます。
ただ、今月は1回しか更新していないのに、アクセス数は伸びているという事実。
これってやはり「けいおん」の記事によるものだろう。
こういうネタもたまには入れていきます。(「物語を物語る」というサイト名でもあるように、もともとそういうサイトのはずだったので…。)



今日も部室でお茶を飲む。 「けいおん」は奥が深い!

 最初に弁明。
「NO,Thank You!」を聴いて感動したという勢いに任せて、「けいおん」について書きます。
けいおん ED

今までのようにまとまった内容ではありませんが、とりあえず載せてみました。(思ったままを長々と綴っているので、何が書いてあるのか分からないかもしれませんし、純粋なファンは怒るかもしれない。その辺はご容赦ください。)
また、当ブログの最近の傾向とは少々違いますが、前に書いた「時をかける少女」をめぐる話と似たようなものになっています。

、切っ掛け(ここから書くのには訳がある)
このところ転勤等で仕事が忙がしく、帰宅するともう身も心もクタクタだ。そんな疲労困憊状態なので、やりたいこともなかなかできない。それじゃ、休日にまとめてやろうとすると、これも無理。いまは夏休み時期なので、町内会の納涼祭やら娘のラジオ体操の朝の準備やらだとか、とにかく次から次へとやることが増えていく。
会社に、地域社会に、家庭に、といろいろ大変なのだ。今となっては学生のころのように好きなことをして過ごした夏休みが懐かしい。
大人になるというのはこういうことなんだと、つくづく感じている。
で、そんな疲れた心身を癒すのは、娘の寝顔とネットの動画サイトで音楽を聴く(見る)ことだ。(酒の飲める人ならビールでも飲んでといったところでしょうが……。)
過去記事「深夜のロック三昧
最近はこんな感じ。
それにしても、青春時代に聴いていた「音楽」っていうのは、いつまでも忘れないもので、聞けば「あのころ」の時代まで自分を引き戻してくれる。「音楽」にはそんな不思議な力がある。(私の場合は80・90年代の洋楽ロックですが、人によってそれぞれ違いますよね)

いまの自分を癒すものが、過去の自分が熱狂していたものだったというところに気が付いて、少々奇妙な感じがする。

さて、私が好きなのは、素人さんがコピーする「ギターを弾いてみた」みたいな動画。
見続けていくと関連動画の中で、やけに「けいおん」をコピーする人が多いことに気づく。
「けいおん」って萌えキャラの女子高生の話かな位の知識しかなかった私だったが、レスポールを持つカッコいい姿のサムネにそそられて試しに幾つか見てみた。
「GO! GO! MANIAC」「Don't say lazy」「ギー太に首ったけ」などなど……。
お~こりゃなんだ、これはスゴイぞ!と感嘆することしきりで、ただもう驚愕するのみだった。
邦楽を聴いて鳥肌が立つというのも久しぶりのことだった。
私の中でのアニメソングとは、娘がよく見る「プリキュア」や「きらりんレボリューション」、「リルぷりっ」、「ジュエルペット」などで流れるような「アイドル」ぽいものだと思っていた。それがここでは全く違っていた。私が思っていたアニソンというものの範疇を軽く超えていたのだ。
だとしても、昔ギターを少々かじり、洋楽ロックを聞きまくっていた自分が「けいおん」の音楽を聴いて、すんなり受け入れてしまう要素がどこにあったのだろうか。
よくよく考えてみると、「Listen!!」のキーボードの音や「Don't say lazy」「NO,Thank You!」のギターのリフや、「Utauyo!!MIRACLE」のベースの入り方などなど、どこか「懐かしい音」なのだ。若い人には分からないかもしれないが、ロック全盛のあのころの懐かしい「雰囲気」がここに入っているのだ。(中年おじさんバンドがコピーするという話も納得できる。TBSラジオ「現場にアタック」)
だからこそ、昔のロックファンの私にも違和感もなく、これをすんなりと受け入れることが出来たのだろう。(コピーしたくなるような楽曲というのは良い曲だという証拠)

さて、そこから気になってアニメの「けいおん」の本編を見始めることになった。この物語に没入する切っ掛けは「音楽」だったのだ。(ここが重要)
K-on

それからというもの、一カ月ほどかけて1期の14話と2期の19話(現時点)までを立て続けに何度も何度も見た。
もういい歳したおじさんが、仕事から帰ると、夢中になって「けいおん」を見た。疲れた心身を癒すため、とにかく見るのが楽しみになるほどハマったのだ。
これは決して「キャラ萌え」しフィギュアを集めるなどというハマリ方でもなく、特定の声優ファンになるというものではない。(念のため)
では、どこに「はまった」かといえば、(もちろん学園もののギャクアニメとしてみても抜群に面白いが)この物語には何か「特別なものがある」と感じたからに他ならない。
他に、いくらでも面白いアニメや良くできたドラマはあるだろう。
しかし、短期間に通して見続けていくと、「けいおん」は「おもろい」ということ以上に「深い」ものがある、そう気が付いたのだ。
その深みとは、「けいおん」には、音楽性を含めて物語の中にすでに「郷愁」が含まれているということだ。(詳細は後述する)
むかし自分を熱狂させた「音楽」で癒されていた現在の私が、いま「けいおん」に癒されているのは、そこに「ノスタルジック」なもの感じ取って、そこに感応していることにあるのだ!

さて、ここからダラダラと書き継いでいきます。(無駄に長いだけかも……)
まずはここで、これから展開する話のポイントを整理しておきましょう。
1、私がこの物語を「父親の目線」で見ていること。この視点から彼女らを応援しているということ。(大人視点がある=「さわ子」先生の視点) 
2、唯の成長物語であること。
3、唯は何が大切かをすでに掴んでいるということ。
4、そしてこの物語は「卒業」と「大人になること」をテーマにしている。
結、この流れでいけば唯は継承者となる。
ということになる。
さて、唐突だがここで「物語の定義」を挙げておく。

多くの物語の基本構造は、主人公が数々の試練を乗り越えて成長していくことにあり、主人公の冒険の旅や人間が成長していく話が、我々ひとりひとりの「人生」そのものと微妙に重なることによって、共感や感動が生まれてくる。物語の本質は主人公の「学び」であり、成長の過程としての人間の人生そのものが、反映されているからこそ、多くの人が物語にひきつけられていくのだ。(『ショートムービー研究所』「物語をつくる」サイトを参考しました。
http://www.gselect.com/gauzine/46/index.html)

まさに私がこの物語に引きつけられた理由を書いていきます。

、主人公らを見守るような「大人」が入り込む視点が用意されている。

梓「何であんなに新歓ライブに感動したのか分からなくなりました……」
律「よし、演奏するか。その時の気持ちを思い出させるためにさ」
1期・9話から


律が梓に言うこのセリフは劇中の登場人物だけに向けられているものではない。このメッセージは観客にも向けられている。音楽には不思議な「力」があって、それは人と人を結びつける力もある。1期・1話で唯が軽音部に入部する切っ掛けとなったのも、律らの演奏を聞いたからだ。(演奏の巧拙は問題ではないということ)
「音を合わせるって楽しいよね」という唯らの言葉のように、彼女らを結び付けているのは「音楽」である。(お茶やケーキなど飲食もあるが、これは後述)
三島由紀夫は「金閣寺」の中で「音楽」についてこんな表現をしている。
「音楽は夢に似ている。と当時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒状態にも似ている。……音楽は、この反対のものを、時には逆転させるような力を備えていた。」
音楽は、夢のような思い出にもなり、覚醒させる力(つまり呼び起こす力)もにもなるといった意味でしょうか。
もし、彼女たちが大人になり、再び会うことがあるとすれば、あの時の「音楽」が思い出となって語られることになるはずです。(第2期・10話「先生!」のさわ子の逸話につながる。後述する)
一瞬にして青春時代に引き戻す魔力が「音楽」にあるのだ。
音楽や楽器はいつでもその人のその時代に引き戻してくれる。(私のように) 
特にロックにはその力が強烈に備わっている。

「けいおん」を見た私も「あの時代」に引き戻されたわけだが、どんなところだったかいくつか挙げてみると、
唯が床にベタリと座ってギターの練習をする様子とか、律が公園にあるタイヤをステックで叩く姿とか、澪が欲しい楽器の前で買おうか買うまいか逡巡するところなど、そういった何気ない描写が、私の昔の思い出と重なってくる。
人の思い出は人それぞれなので、どこに感応するかは人によって違うが、登場人物と観客との「共通体験」が多ければ、その物語に感情移入出来るということなので、まさにその通りだろう。

また、音楽的な「懐かしさ」も随所に現れる。
さわ子の回想シーン場面で流れるギターがジェフベック風だったり、時々ジミヘンやザ・フーといった名前が飛び出したり、さわ子のギターが白いフライングVだったりする。(私は思わずマイケル・シェンカーを思い出した。最初に練習したのが"Into the Arena" だったので……)、
また「渡り鳥でコージーパウエル(澪のセリフ)」って女子高生がそんなこと言うか、とか、フライングVもどうせなら水玉模様のランディ・ローズモデルにすればいいのに、とか私らの年代しか分からない突っ込みも入れながら見ている。

観客は物語を見ながら常にいろいろなことを考えている。物語の登場人物に感情移入をしていればいるほど、物語の中に没入していき、自分と登場人物を重ね合わせる。
つまりこの物語は、かつてのロックファンも懐かしんで見ることも出来るのだ。
そう、「けいおん」の根底に流れているものは「郷愁」である。
アニメ版では、「木造の校舎」や「教室や階段、校舎」「校歌を歌う学生」、「桜の花びら」「カメの置物」「カセットテープや古いラジカセ」、そして「青空」などなど、これらは郷愁を誘うように、ギャグとギャグの間に差し込まれてる。だから見ていて時折「切なさ」を感じたり、「大人になるという不安感や焦燥感」(特に2期)といったものを感じるのはそのためだ。

さて、もう一つ私が「けいおん」にハマったのは、この物語を「父親目線」で見ているということだ。

この物語でよく登場するセリフがある。それは、「小学生かっ」という突っ込み。
このアニメにおけるギャクに、女子高生が小学生のような言動をするようなところが多く使われている。
例えば、どこにでもシールを貼る、虫よけスプレーをシューとしたいとねだる、ショートケーキのイチゴへの執着心とか、食事前にアイスを食べたがる姿とか……。
小学校低学年の娘を持つ私にはよく分かるが、これは本当に、日常的によくある事ばかりである。
また澪のようにどこか恥ずかしがりで怖がりで、律のようにいたずら好きで、梓のように夏はすぐに日焼けしてしまうところなどなど、もうまるで自分の娘と重ね合わせている。
「お母さんにとっては、澪ちゃんいつまでも子供なんだね。」(2期・3話)という唯のセリフがある。
私は自分の娘の行末を案じるような目線で彼女たちを見守っているのだ。

この物語には唯たちを温かく見守る視線が確かに存在する。しかし、この物語には「親のような存在の大人」が全く登場しない。(先生の「さわ子」や唯に親切な「おばあさん」くらいか)
考えてみれば不思議な世界である。
しかし、彼女らを見守まもろうとする「大人」の視点がここにはある。
矛盾しているが、こういうことだ。
彼女らの親が登場すれば、その保護者である親の視点を通して、彼女らの成長物語を見ることになる。それは特定のキャラクターが設定され、その視点を通して彼女らを応援することになる。だが、そのキャラクターに感情移入できなければ、この物語についていくことができない。
要は、親を登場させないことによって、逆に主人公らを見守るような「大人」が入り込む視点が用意されている、ということだ。(この説明はなかなか難しい。)
私のようにすでに大人になった人間が、まだ大人になっていない(大人になろうとしている)娘を見守るという保護者的視点は、親が登場しないことによって、この物語に入り込む場所が存在していることになる。(またまたこの説明も難しい)
物語上主人公を導く者としての役目を負うキャラクターは必ず存在する。そして、物語上この「保護者的視点」を集約させて表しているのが、実は「さわ子」という存在なのだ。(これが明確に表れるのは2期・10話「先生!」である。過去記事でいえば、アニメ版「時をかける少女」の芳山和子にあたるだろう。)
「新歓ライブ」や「文化祭ライブ」では会場の端で常に彼女らを見守っている。
つまり私もこの視点に立って見ているのだ。
けいおん さわ子先生

何を見ているのか、それは彼女らの「成長」を見ている。
そして、さわ子を含め私のような大人はよく知っている、音楽(特にバンド)は若いうちに出来る一時の情熱であるということを。
だからこそ、そこに情熱を傾ける「今」が大事だということを身を持って体験している存在なのだ。

私のように音楽からこの物語に入った者は、ロックをやる部活「軽音部」などというものに熱中する少女たちに自分を重ねて応援したくなるのかもしれない。(ケーキばかり食べてあまり練習していないが……。だがそこが面白いところでもある)
また、私のように子供を持つ親には、青春を謳歌している彼女らにエールを送りたくなるのかもしれない。(ただそれを臭い青春ドラマにしていないところがいい。)

一見「けいおん」はゆる~い女子高生萌えアニメに見えるが、実は「青春ドラマの王道」がその根底にあるのだ。

、成長物語

この物語が、大きな流れにおいて「少女の成長物語」であることに異論を挟む者はいまい。
「少女の成長物語」という点において「時をかける少女」や「千と千尋の神隠し」と同じような系譜にあるといっても過言ではない。
過去記事で同じようなこと言っているので参照してください。

で、それを明確に表しているのが第1期の初回第1話と最終回12話の対比である。
1話の冒頭と12話の終りで成長の後が見られる。(詳細は他のサイトでも散々語られていますので、そちらを)

「そういえば入学式の時もこの道を走った。何かしなきゃと思いながら、何をすればいいんだろうと思いながら……。このまま大人になっちゃうのかなって思いながら……。
ねー、わたし、あのころのわたし。心配しなくていいよ。すぐに見つかるから、私にもできることが、夢中になれることが……、たいせつな、たいせつな、たいせつな、場所が……」(1期・12話)
と唯に独白させている。
もうすでに唯は何が大切かを掴んでいるのだ。
天然ボケのような愛すべきキャラクターで造形されている唯だが、確実に大人への成長をみせている。
ジェームズ・ボネット著「クリエイティブ脚本術」(フィルムアート社)から一節引いてみます。

①アーキータイプ(元型、典型) ヒーロー(エゴ)欲望
発生期のエゴ  今にも目覚めてヒーローに形を変えようとする時期。意識を確立するプロセスに入ろうとするのは意識自身が欲していることでもある。成長したいという望み、人生において何か意味のあることをしたいという望み、何かに貢献して、潜在能力をすべて使いという望みは意識が持っている。
問題を認識したり、責任を自覚したり、誘惑に耐えたり、幸福を分け合うといった発想は人の中から芽生えてくるものであり、それはエゴの利己的でない、ポジティブな側面であるということができる。
物語における発生期エゴは自分自身を証明する前の物語の序章の部分の主人公にあたる。「スターウォーズ」ではオビワンに出会う前のルーク、街でぶらついていたころの「ロッキー」、「羊たちの沈黙」ではレクターに会う前のJ・フォスター、「恋に落ちたシェークスピア」ではビィオラに会う前のシェークスピア。観客はヒーローを見極め、そのヒーローは観客を引き込んで、物語が推移(ヒーローの心理変化)しながら導いていく。 ヒーローがエゴの元型であればある程物語の受け手は強くヒーローに自分を重ねることになる。そしてヒーローが自分もそうなりたいと思えるような存在であったなら、その物語は受け手の人生に大きな影響を与える。

唯はまさしくこれに類する。そして、何が大切かを「けいおん部」(つまり日常)の中で掴んでいった。
「けんおん」を見ている者は、ギャグの面白さとキャラクターの造形によって笑いながらも物語に引き込きこまれ、彼女らと時間を「共有」することによって共に「共通体験」をしている。主人公らに感情移入した我々は、結果、彼女たちの「成長」を見守ることになる。
だから、高校の入学式で始まったこの物語は、彼女らが成長し高校を卒業すればそこで一定の終りを見せるはずである。彼女らが高校(つまり「けいおん部」)を卒業すれば、彼女たちと同じ様に感動もすれば、また同時に物語の終了という「悲しみ」を味わうことになる。

さて、女子高生のゆるーい日常アニメに心を動かされたのは、何よりもしっかりとした「少女たちの成長物語というテーマ」が根底にあるからに違いない。
これは別に「殺人事件が起きたり」「甲子園に行ったり」「モビルスーツを着て敵と戦う」なんて特別なストーリーなどなくとも十分に心を掴む物語が成り立つことを証明している。
それは、日本のアニメやマンガの幅の広さと物語性の高さを、こんな「萌えキャラアニメ」でも窺えることができるのだ。
それに引き換え、最近の日本のドラマや映画はどうであろうか。
誰が別れただのくっついたなどというどうでもいい恋愛話や、やはりこいつが犯人だったとか実は死んでいなかったとかいった観客を小馬鹿にしたのような推理ものドラマや、聞いたこともない難病にかかった主人公が余命数か月で出演者が泣きまくる(お涙頂戴を観客に要求する)ドラマや、正面切って「青春は素晴らしい」などとわめく青臭い説教臭いドラマや、金属バットを振り回して暴れまわり他人をボコボコにして「これも青春だ」などとのたまう作者自己満足映画……などなど、そんな話ばかりを見せられている。
だからこそ、過激な出来事も劇的な事件も起こらないこんな「ゆる~い日常アニメ」が逆に私には新鮮に映ったのかもしれない。
ただ人によってどこに感応するのかが違う。「ルーキーズ」のような臭いドラマにも感動する人がいるくらいだから「けいおん」を見てつまらないという人がいてもそれはそれでいい。人によって、感応するところは違うし、ましてそれを「特別」なものと感じるのは人それぞれだから。
(話がかなり横道にそれました。元の話に戻します。)
『ショートムービー研究所』「物語をつくる」サイトからの引用
http://www.gselect.com/gauzine/46/index.html

「英雄伝説の基本構造」によると、多くの物語は主人公が数々の試練を乗り越えて成長していく過程を描いたものであり、主人公の冒険の旅と観客の人生の旅が重なることによって共感や感動が生まる、という側面があることを書きました。
物語というのは、時間的経過によって起こるある種の「変化」を描く芸術でもあり、その変化は、主人公の「学び」や「成長」によって象徴的に表現されていきます。主人公のキャラクターを造形していく場合も、その「変化」を前提に考えていく必要があるようです。
主人公の変化を考えていく場合も、やはり「思考」と「感情」の変化が重要になってきます。何らかの出来事をきっかけにした主人公の内面的変化が「行動」という外面的変化に反映されるためには、「思考」や「感情」に何らかの変化が起こっていく必要があります。
キャラクターを作る場合にも、変化によって成長する前と、成長した後の対比やコントラストが明確になっているほうが、物語の展開もメリハリがつきます。ただ、その変化や成長に真実味があるかどうかは、その変化の過程における主人公の微妙な内面的変化がよりリアルに描かれているかどうかにもかかってきます。人間、そんなに急にはなかなか変化できないものなのですが、その変化に説得力があるかどうかは、物語の展開や出来事の内容が関係してきます。もちろん、すべての物語にリアルさを追求する必要もなく、荒唐無稽に唐突に変貌する主人公がいても、それはそれでおもしろいかと思います。

さて、この物語が全体を通じて「少女たちの成長物語」だというのは随所に表されています。
特に2期に登場する「カメ」は唯の成長を象徴している。
2期・11話「暑い!」
梓「水槽に合わせて大きくなるらしいので、成長させるには水槽を替えないといけないそうです。」
澪「そうか、脱皮しているということは……」
唯「トンちゃん(カメ)も成長したがっているんだよ」
といった分かりやすい会話でも分かるし、「そうだ、私たちも脱皮すればいいんだ!」唯の何気ない言葉にも表れます。(これもギャグで落としてますが)
このカメについての解説は他サイトにいいものがあったので、リンクしておきます。
http://ameblo.jp/cola-tea/entry-10555338382.html
2期9話「期末試験!」の回では、唯がいつも親切にしてもらっている「おばあさん」に頼まれ、町内会のお祭りの行事に参加するという地味な話がある。大きな展開を見せる回ではないが、唯はここで大きな経験を積むことになる。
それは社会とのつながりを持ち、地域のコミュニティーに自主的に参加したということだ。これは大人になるという意味において彼女のとって大きな進歩となっている。「大人になる」というと「性的経験」ばかりが強調されるが、実社会においてはそうではない。社会とつながりを持つというのは「大人」へのステップの一歩となる。
佐藤有耕編「高校生の心理」(大日本図書)

何かの委員や役員を経験したことのある人は、はじめてそれを経験したときのことを思い出してみるとよい。そのとき、緊張と不安とともにどれだけ晴れがましい気持ちだっただろうか。その役割をうまくこなすことができたときにどれだけ充実感があっただろうか。そのような「役割期待に沿おう」とする気持ちが、人を変化させるのである。

これは、マズローの欲求段階説にあたるだろうか。
そして、この回において おばあさんは「さわ子」と同様に、物語上、唯を見守る支援者であり、主人公を「大人になるという」物語の終着点へ導く役目の一人となっている。(唯の幼時からの回想シーンでも分かる)
つまり唯ら登場人物を応援する意味において、私もこのおばあさんの視点で見ていることになる。

さて、「けいおん」では「空」のシーンが異様に多い。
そして、「風船」というのも印象的に使われている。
2期10話「先生!」さわ子の卒業の回想シーンでは青い風船が上がるシーンがある。
けいおん さわ子卒業

1期・6話「学園祭」では、唯たちの演奏が始まる前に風船が上がる。初ライブであり、唯の成長一つとしての象徴のようだ。
けいおん 風船1
そして風船は「夏フェス」「最終回」でも描かれているので、成長の暗喩なのではないか、と思う。
風船は空に舞い上がるまでが「つぼみ」の状態であり、それが空に上がることによって、成長を表しているのかもしれない。
オープニング曲では、空に「虹」が出て指を指すシーンもある。
けいおん 虹

さて、「かきふらい」の原作も読んでみた。
けいおん 原作
これを読んで知ったことだが、こういった「成長物語」としての印象的シーンはアニメ版で味付けされたものだった。となれば、アニメ化にあたり付加された部分(音楽も含め)に私は感応しているともいえる。(「京都アニメーション」の思うつぼにハマったのか。……まあそれでもいいんですけど)

主人公らが成長して、いかに大人になるか、その過程を描くのが、「青春ドラマの王道」だ。
しかし安ぽっい青春ドラマはこれを「恋愛ドラマ」にして、性的経験に重点を求める。しかし、このドラマが他を圧しているのは、恋愛を排して、日常やギャグ、キャラクターの造形のみでそれを表現しようとしている点にあり、それで十分に成功していることにある。
性的体験が豊富であることが「大人になった」とは決していえない。むしろ精神年齢が低いほど、恋愛経験や性的経験が多ければ多いほど「大人になった」と考える向きがある。その傾向のもとに作られる恋愛至上主義ドラマがいかに多いことか。またこれらがいかに見るに堪えないほど程度が低いことか。
「モテたい」「いつも恋をしたい」といった恋愛欲望と「金もうけをしたい」「金持ちになりたい」といった金欲願望、そんな欲望を叶えることが「幸せ」だという世の中の風潮があって、またそれを一層煽るようなドラマやアニメが作られることが多い。
そんな中でありながら、「けいおん」という物語は「恋愛・性的経験を一切用いずに友情と自己実現だけで少女の成長物語を成立させたこと」ここに大きな成功のカギがある。(まあ多少の「百合」と「萌え」はありますが…)


、すでに掴んでいる唯
さて、この章が問題です。別にここはなくてもいいくらいなのですが、どうしても気になったところなので、まとまってはいませんがとりあえず載せてみました。

ポイントは「唯は、何が大事かということを掴んでいる。いやすでに悟っている」ということです。
唯の言葉を一々取り出して見ると、これが中々奥深い。時に彼女が発する名言にハッとすることさえある。
「ほ~げ~」と天然ボケを炸裂させている唯だが、直感的な天才型(「長嶋茂雄のようなタイプ」例えが古っ)で物事に囚われないという性格であり、ある意味これは「直観」に近いかもしれない。
(2期16話「先輩!」の中での「ピンクだね」「もう一回トイレ入ったね」といった感じに、見たままを直観的に捉えるタイプである。それは音楽にも表れていて、チューナーを使わずにチューニングができる絶対音感があるとか、楽譜や音楽記号が読めないが演奏は出来るとか、取扱説明書を読まないといった、物事を論理的に考えるのではなく感覚的天才型なのである)

いくつか例を挙げてみます。
2期・16話「先輩」
少し自信を持てなくなった梓に唯はこんなことを言います。
梓「このくらいでないと私ではないですよ。……」
唯「あ~あずにゃんはなかなか難しいこと考えるんだね。私はあんまり考えたことなかったな。う~んだってさ、あずにゃんはあずにゃんだもん。りっちゃんはりっちゃんで、みおちゃんはみおちゃんで、むぎちゃんはむぎちゃんだもん。だから、私そんなこと考えたことなかったや」

何か、これなんかまるで禅問答みたいですが、よくよく考えてみると結構深い。
唯は語彙が少ないので饒舌には語ることはないが、本人は何が大切なのかを既に悟っている。
ここでは、それは個人の個性を尊重するという「みんな違っていい」の金子みすずの境地まで達しているといえる。過去記事
これは、唯「あずにゃんは、バナナ(ケーキ)だと思う。だから取っておいて」(2期・1話)というセリフでは、いない人の分を取って置いてあげるというシーンがある。唯は「他人への思いやり」を十分に持っていて、自己を認め他人を認めるという意識も持っている。

2期・17話「部屋がない!」から
唯「大切な大事なもの いつもそばにいてくれる。 でもそれが当たり前になっていると気づかない」

これは、諦観した高僧のようだ。
境野勝悟著「道元・禅の言葉」(三笠書房)から引いてみる。

幸福を外に求めない(「大衆をして受用し、安楽ならしむべし」<典座教訓>) 
なぜ「おいしいもの」が人をしあわせにするのか?
うまいものを食べたときほど、楽しいことはない。「ああ、うまい。ああ、おいしい!」とありがたく思ったときは、どんな人でも、苦しみや悩みが、サッと消えてしまうだろう。
わたくしたちは、どんな修行をしても、安らかで楽しい気分を外に求めて、それをつかんだ人は一人もいない。極楽世界を、世の中に探しても、どこにも見つけることはできない。たとえ、探したとしても、二、三年もすれば飽きてしまう。 浦島太郎も竜宮に飽きてしまった。
「食事がうまくて嬉しい」「こんなにおいしくて幸せ」こう感じたとき、実は、幸福を外に求めないで、自分のままで、自身が安楽な仏様になっているのである。人は、食事をいただいて、心安らぐ仏になるのだ。

たしかに「けいおん」では食事のシーンは多く、みな食べているときは幸せそうな笑顔を浮かべている。そして上記記載の「思い悩む梓に諭すように言ったあと、こう言います「あ~、むぎちゃんのケーキが食べたい」と。もちろんギャグの形になっていますが、「食べる」という行為の中に真理があると諭しているようで、唯はまさしく「悟得者」のようです。
「けいおん」には食べる、飲むというシーンが異様に多いが、これは結構、「生きる」という意味において真理を突いているのではないかと思える。(私的には「弁当」のシーンが多いのはうれしい。過去記事「こめ」「弁当」「おにぎり」で「文化防衛論」。「サマーウォーズ」と「エヴァ」と「コボちゃん」)

ほかにいくつか挙げてみます。
けいおん 「無心でお茶を飲む」

無心でお茶を飲む(「他人にしたがひてうるにあらず」<道得>)
趙州和尚の所へ、禅僧たちが教えを請うてやってきた。趙州さんは、玄関にやってきたある僧に、「あなたは、これまで、この寺へ来たことはありますか」といった。「ハイ、何度かあります」「ああ、そうか、じゃ、お茶を飲んでから帰りなさい」と……。次の僧にも、「あなたは、これまで、この寺へ来たことがありますか」「いえありません」「ああ、そうか。じゃ、お茶を飲んでいらっしゃい」……。すると、趙州和尚のわきでこの話を聞いていた院主さんが、「なぜいままで寺へ来なかった人にも、『お茶を飲め』というのですか」とたずねた。趙州和尚は院主さんにも「あなたもお茶を飲んでいらっしゃい」といった。
仏教の悟りを他人から教えてもらおうとしても得られない。どんな偉いお坊さんから言葉で説明されても、他人から得ることはできない。お茶をグッと飲む瞬間、理屈抜きで「ああ、うまい」と感ずる生命の尊い力を、自分で自分の体の中に発覚するのが仏教の悟りだ。寺へ来ようが来まいが、お茶の味は、だれでも同じではないか。

けいおん部で問題が起こったとき、行き詰まったときに、唯らはどうするか。そうまず「お茶」を飲むんですね。この達観した感じはなんであろうか。

「いま」力を出すことに専念する(「うを水ゆくに、ゆけども水のきはなし」<現成公案>)
「うを水ゆくに、ゆけども水のきはなし」とは、魚が川や海を泳ぐときに、けっして、あそこまで泳いで行こうというような目的は持っていない、ということである。道元の提唱する生き方は、「無目的」の生き方である。明日、あさって、一年後、二年後に目標を定めて、今日を生きることではない。今日自分がしようと思うこと、いま自分がしなくてはいけないことに没頭して、明るく元気に「いま」を生きることなのだ。その努力の結果については、一切、自然まかせだ。そこには、競争はない。みんなで、自分を自分らしく、信じ合って、仲良く生きていく。

1期9話「新入部員」での澪のセリフ「やっぱり私はこのメンバーとバンドするのが楽しいんだと思う。お茶を飲んだりダラダラすることもあるけど、それも必要な時間なんだ」メンバーみんな悟っているような感じです。

1期・8話「新歓!」での唯と憂、姉妹の会話。
憂「軽音部の一番いいところって何?」
唯「楽しいところかな」
憂「楽しいって?」
唯「楽しいは楽しいだよ

これも深いです。
今度は、ジェームズ・ボネット著「クリエイティブ脚本術」から引く。

人生の中で一つの勇気ある行動がいかに大きな違いを引き起こすかということだ。……ちょっとした勇気ある行動が人生の未来を大きく変えてしまうことだって少なくはない。その事実を知っておくことはとても意味のあることだ。
最後の例としてお伽話「アガ・ババ」を挙げてみよう。若き主人公のアガ・ババは大冒険の途中、魔女の家で休憩をとる。魔女は彼の冒険を遅らせようと難しい質問をぶつけてくる。「真実とはなんだ」とか「世界の終わりはやってくるだろうか」などといった類の質問だ。そこで賢い主人公は魔女に「黙ってさっさと食べる物をもって来なさい」と言う。
この物語が語っている英知はごくシンプルなもので、行動が必要なときには、実態のわからないものに気をとらわれるなということだろう。たとえば仕事をみつけなければならないときに、答えの出ない問題や無限性について家のなかでうだうだ考えていても何の解決にもなりはしない。これだけでもすでに三つの大切なアドバイスを得たことになる。自分自身を変えれば運命を変えることができる、ちよっとした今日の勇気が未来の人生に大きな影響を与える。そしてその行動が行動が必要なときには計測が不能なものにこだわるべきではない。これからもまた少しずつ蓄積されて導きだされたものであり、一つ一つの物語が、秘められた真実のほんの一部を会間見せてくれているにすぎない。こういった一つ一つの情報を蓄積して、自分に役立つ百幾つもの情報として受け止めることができれば、もう怖いものものなどない。自分が何をすべきなのか自分でしっかり理解できることだろう。

「楽しいは楽しい」という答えはスゴイ。これは「悟りを開いた人」の境地だ。

2期10話「先生!」の回では、こんな自問がある。
大人ってすごいよね。私も大人になったら大人になるのかな
これも深い。補足すれば「私も大人のような年齢になったら、大人のような行動ができるかな。私もちゃんとした大人になりたいな。」といった意味となろうか。
以下、佐藤有耕編「高校生の心理」から引いてみる。

高校時代に直面する問題は、自分の人生と向き合うきっかけになる問題である。自分と向き合い、自分の人生を賭けていくものに出会うことができ、それを精一杯生きるなら、高校時代はその人の人生の中でかけがえのない時期になる。もっと後で人生の目的を見出す人もいるのだが、15・6歳はそのはじめての機会に成り得る時期である。それまで親や社会一般がよいとしてきた価値観に疑問を感じ、自分の価値観を創ろうと模索している状態をモラトリアムという。そして、自分の人生の目的に向かって、自分の人生を賭けて生きている状態をアイデンティティの確立した状態という。高校時代にアイデンティティを確立するのは、現代の日本ではむずかしいかもしれない。でもときどき心を澄まして、自分自身に向かい合うと、自分が人生の目的を決めるという問題にぶつかっていることに気づく。モラトリアムの時期を生きていることを自覚し、迷いながらモタモタしている状態を生きていくことが、アイデンティティを確立には必要不可欠なのだと疑問をもち迷いながら歩んでいくその過程を楽しんでみてはどうだろうか。

これは、現役高校生に向けたメッセージとなっている。最後の問いかけ、「楽しんでみてはどうだろうか」というという問いに、唯らけいおん部のみんなは見事に青春を謳歌していると言えるのではないか。

2期・12話「夏フェス」から。
散々プロの演奏を聴いたあとで、唯「でも私たちの演奏のほうがスゴイよね」と言います。
そこにいたメンバー全員が唯は何言ってんだと突っ込みを入れますが、すぐにその真意を知って、
澪「そうだよな。放課後ティータイムの方がスゴイバンドだよ」
梓「そうです。私たちはプロにも負けません。」
唯「これからもずっとみんなでバンドできたらいいよね」
全員「うん」
澪「ずっと、ずっとな」


これは決して「演奏が上手い、下手」ということを問うているわけでありません。
唯「これからもずっとみんなでバンドできたらいいよね」というのはまさに反語的であり、バンドが永遠に続くなどとはみんな思っていないだろう。だから「いま」が大事、みんなとこうして過ごしていられるこの瞬間が大事だと、皆が感じているに違いない。(ここは十分大人になった「父親目線」で見ると余計に切ないのだ!)

「いま」に満足する (知足<八大人覚>)
知足とは、いままで得たことに、満足して、心安らかに生きることである。ああ、こうして六十歳まで生きられて、ありがたいことだ大好きな人と出会えて、まことに、幸せだ。どうにか三食無事に食べられ、みんな健康で、もう文句をいうことは一つもない……と。いままでの自分が得た生活を振り返って、文句をいわず、ああよかった、と満足して生きる。これを知足の生活という。人生、欲をいえば限りがない。ああ、これでよかったのだと「足る」を知れば、だれもが、簡単に苦痛から解放されるのだ。人生の悩みを消すのは、簡単なのだ。将来に欲を張らず、いままでの人生の何か一つにでも満足して感謝すれば、心はすぐに安らかになる。

大声を出して笑う  (「凡界の測度にあらざるなり」<夢中説夢>)
友だちとビールを飲んで、盛り上がってくる。と、ちょっとしたことでも妙に面白くなって、みんなケラケラ笑う。こんなに大声で笑っては、はずかしいと思っても、止まらないで、ギャーギャー笑ってしまう。
人間が、なぜ笑うのか。現代の先端を突っ走っている科学者たちがどうしても、解明できない。笑うと原動力は、学者の科学的な頭では、どうしてもその実態が捉えられないのだ。
人間は、頭でわからないものは、価値がないと思って無視する。それが、不幸のもととなる。それが傲慢のもととなる。実は、頭で捉えられないものが、わたしたち一人一人の人生を支えていたのである。
趙州和尚の所に、二人の僧がやってきて、「仏とは何か」と問うた。そのとき趙州は、「うわっははっ、うわっははっ!」と大声で笑った。趙州の「呵呵大笑」(かかたいしょう)という。自分の中に、笑ってくれる仏がいる、という考えだ。

「幸せ」に理屈はいらないのかもしれない。
オープニング曲「Utauyo!!MIRACLE」の歌詞
大好き 大好き 大好きをありがとう
歌うよ 歌うよ 心こめて今日も歌うよ

とあるように感謝と愛と笑顔にあふれている。
「対面すれば破顔」<仏向上事> 「破顔」とは、笑うことである。社会生活や家庭生活の中で、笑顔一つが、どんなに平和な幸福をもたらしているか。
「けいおん部」の彼女らは笑顔で満ちている。
けいおん 笑顔
そしてそれを見ている私も笑顔になる。
これだけで、この物語は私にとって「特別なもの」になっているのだ。

、この物語は「卒業」と「大人になること」をテーマにしている。

唯にとってギター(ギー太)は楽器であること以上に、友であり、恋人でもある。それは仲間とつながる道具でもあり、社会とのとながりをもつことのできるモノでもあり、自己実現をする道具でもある。
唯が高校に入学したてのころの「不安」を一気に打ち払ったものが「ギター」である。
けいおん 唯とギー太

ジェームズ・ボネット著「クリエイティブ脚本術」から。(以下、物語上のキャラクター説明はこの本からの引用)

主人公が成長し、物語が進んでいくためには、より大きな、高い次元からの力が必要となる。それは傑出した力(例えば、ソロモンの泉、魔法の力、最終兵器、タイムマシンなど)や潜在能力(本人の能力、知力体力、または愛、財力など)またはエデンの園、ユートピア、未来の国など場所として描かれることもある。これらを手に入れた主人公は新しい展開をする。
これがアンチヒーローの手に渡ることもある。これは魔法だったり、世界を滅ぼす最終兵器だったり、ドラキュラの牙だったりする。

唯とギターの関係はこのようになる。物語上では、唯が大人になるステップアップの道具として「ギター」が使われていることになる。
だが、唯のギターもプロにでもならない限り、それもいつかは卒業することになる。(または趣味という形として存続していくこともある。例えば、私やさわ子ように)
音楽(あるいは部活動)が、一時的情熱であることを「大人」は十分に知っている。さわ子や2期・10話に登場する友人がそれをよく表現している。
2期・10話「先生!」 
さわ子の同級生で軽音部だったクリスチィーナは唯のギターを手にして「久しぶりだな」と言う、このことからみてもギターに長い間触れていないことが分かる。つまり高校時代にあれほど熱中した「音楽」から離れてしまったことになる。
ギターを弾くクリスチィーナを見て、唯は「何かかっこいいな」とつぶやく。
これは、未来の自分を暗示しているのだ。
そして、「大人ってすごいよね。私も大人になったら大人になるのかな」という禅問答のようなセリフを言うシーンにつながるわけだ。(この後、唯は「お茶」を憂に頼む。象徴的に。)

また、クリスチィーナのセリフ(唯たちの妄想場面で)音楽は魂で奏でるものでしょ。魂があれば楽器なんかなくても音は聞こえるはず。というのも意味が深い。
音楽や楽器が過去のものとなり、今の自分を慰めてくれる「魂」のような存在になる、といった意味に取れる。(「序、「切っ掛け」で示したように現在の私)
そして唯は仲間にこんなことを言います。
1期13話「冬の日」、唯はみんなに「私をおいて大人にならないで」と。
佐藤有耕編「高校生の心理」(大日本図書)から。

みな15・16歳のときに、「自分はなぜ生まれ、どう生きたらよいのか」という人生の問題にぶつかり、自分の答えを見出そうとし始めている。「人生の問題にぶつかり、自分なりの答えを見出そうとし始める」
高校生が迷うことは無駄ではない。高校生の迷いやとまどいは、人生の問題につながっているのである。
自分の意志で自分の道を決定することを、周囲から要請される。それらの結果、これまでの安住の地から脱出しようと試みるのである。


高校3年生になった唯たちに、先生のさわ子は言う。
「あなたたち1年って短いわよ」2期1話
さわ子は「指針を与える存在」であり、唯たちを「卒業(大人への成長)に導く役目」が与えられている。

知識、知能、理解力、判断したり、クリエイティブな思考をしたりするキャラクターの感情タイプ同様、大きな欲望をもった存在として描かれない。すなわち主人公に示唆をする役割となる。ヒーローがそのゴールを成就するのに必要な知識をもっているということだ。「スターウォーズ」のヨーダ、「ゴースト」のw・ゴールドバーグ、「ライオンキング」のシャーマンヒヒのラフィキなど。<中略> これらのキャラクターは主人公を愛し、育み、守り、社会的な責任を教えてくれる存在である。またどのような職業についたらよいかアドバイスをしたり、他人や社会とのかかわり方について助言したり、感情的な問題の解決を手伝ったりする存在となる。これらのキャラクターはべつに両親である必要はなく、友人、同僚、親類、赤の他人でもよい。
ネガティブキャラとしては、魔術師、魔女、裏切り者、邪悪な天才などとして描かれる。彼らはホールドファスト(変化を嫌う衝動のこと)に残忍な陰謀を授けたり、暴君へ導いたりする

まだ成長しきっていない唯らを大人になる=卒業まで導くのが「さわ子」の役割となる。(無論、全編ギャグ満載なので、「さわ子」もユニークなキャラクターに造形されているが、全編通して見れば、それは良く分かる)
だから、軽音部出身のさわ子は、唯らと過去の自分を重ね合わせて、「青春時代の今が大切である」と彼女らをサポートしていることになる。ライブでは片隅で彼女らを見守り、ピンチの時は手助けをする。(唯の替わりにギターを弾く、1期12話など)

唯たちけいおん部の少女たちの成長物語として欠くことのできないエピソードが「進路」であり、「先生」であり、「お茶会」である。
2期7話「お茶会!」
唯「なんか大人の発言」
むぎ「女子大生だもんね」
りつ「卒業して大人になって澪ファンも卒業したってことか」
梓「そんなことはないですよ…(否定する)」
澪「私も卒業したら、そんな風になちゃうのかな……」
律が勝手にナレーションを入れる「そのとき澪の心には友人たちと過ごした日々が走馬灯のように……」
とギャグにしているが、彼女たちの卒業後の不安感を表している。
「お茶会」に登場する先輩がここに出席しなかったことが重要だ。すべては思い出として語られる。
だから、「青年よ 大志を抱け」のクラーク博士像の前にいるのは、ベタではあるが実に象徴的である。
けいおん 「大志を抱け」

この物語が「卒業」をテーマにしたものだから、そこに情熱を持っている今が大事ということをこの物語は全編を通じてテーマとしている。

この物語が始まる第一回目のファーストシーンは何かといえば、それは唯の「中学の卒業写真」である。
そこで聞こえてくるのが「カチカチ」と時間を刻む時計の音。
高校入学式の日から始まる物語は、卒業する日つまり終幕に向かってカウントダウンをすでに始めているのだ。

これは「カメ」が象徴していることで、ゆっくりであるが確実に進む時間を意味している。
カメは時間の象徴でもある。
それはカメのようにゆっくりとであるが、確実に時を刻んでいる。
けいおん かめ

この物語の特徴は「目的を達成して終わるのではなく、時をもって終了するということ」にある。
学生時代は本人たちが望もうが望むまいが、時がくれば否応なしに終わる。
それは、大人になることは、青年期の「情熱」も終わることを意味する。
つまり、楽しい高校時代を描いているが、それは「卒業」への道筋を描いていることにもなる。
したがってこの物語のクライマックスは「卒業」にあり、(その後の「女子大受験」は後日談に過ぎない)、ともに物語を通じて「共通体験」をしている観客もここで、大きな感動とともに、「卒業」=「終幕」という切なさに包まれることになる。


2期・12話「夏フェス!」から。
唯「でも私たちの演奏のほうがスゴイよね」
……
澪「そうだよな。放課後ティータイムの方がスゴイバンドだよ」
梓「そうです。私たちはプロにも負けません。」
唯「これからもずっとみんなでバンドできたらいいよね」
全員「うん」
澪「ずっと、ずっとな」

そう「放課後ティータイム」は永遠には続かない。それを彼女らは知っている。永遠に続かないということを主人公たちもしっかりと意識しているし、それを、観客にも意識させている。何か祭りの後の虚しさにも似ている。(それをよく知っているのが「さわ子」である。)

2期1話では唯が「桜の花」に見入って、その花を拾い集めるという心を掴まされるシーンがある。(「けいおん」が凡百のドラマや映画と一線を画すのは、こういう美しいシーンがさりげなく挿入されているところにある。)
けいおん 桜の花びらを拾う唯
唯はすでに何かを掴んでいるので、そこに「時の経過による無常感」を感覚的に得たのかもしれない。
良寛の俳句にこんな句がある。
「散るさくら 残るさくらも 散るさくら」
境野勝悟の解説では「毎年、同じように美しく咲き、しかし、あっという間に散る。そこに宇宙の法がある」楽しければ楽しい日々ほど、終わりが近づくさみしさが際立つ。この物語は「終わり」に向かって着実に進んでいるからこそ、「切なさ」を感じることができる。ここに私は郷愁を感じ、ある種の「仏教的真理」を見ることになる。
高校時代というのは、長い人生において異質な時間であり、特別な時間である。しかもそれはあまりにも短い。
その時期を無為に過ごすことも多く、青春がすばらしいという臭い言葉も、その時は気が付かない。それを知るのは大人になってからである。

この物語は、恋愛や家族の話を削除することによって、より明確に成長物語を際出させている。
各々の人が「特別なもの」を知る(得る)ということが大事である。
唯たちは日常の中でそれを掴んでいった。(紬は着実に「社会的経験」を積んでいくところでも分かる)
だからこそ、そこに気づこうとする物語りの登場人物たちを応援してしまうのだろう。
私は、これからこういった時期を迎えることになる自分の娘に重ねてしまうのだ。

倉田百三の名言「青春は短い。宝石の如くにしてそれを惜しめ。」がこの物語に合っている。

 この流れでいけば唯はさわ子の継承者となる。(だたしここは蛇足部分。)

では、卒業後の彼女たちはどうなるのだろうか。
原作では、女子大学を4人が一緒に受験するということなっているので、このまま継続して「けいおん 女子大編」が作られるだろう、と思っていたら、合格発表を持って原作も終了するという。
寂しくもあるだろうが、これを「少女の成長物語」とするなら、ここで終了というのが最もいい終わり方だろう。(むろん「女子大編」「後日談編」があってもいいが。)
ただ、この物語を「保護者的視点」で見ている私は、彼女らがどのような将来を迎えるのかがとても心配なのである。(ここまでアニメのキャラに引き込まれるというのも珍しい)
無粋ではあるが、どうなればこの物語がどのような終着点を向かえれば綺麗に収まるかを少々考えてみた。
結論からいえば、「さわ子の継承者は唯である」ということだ。
この物語の題名が「けいおん」つまり「軽音部」ということであり、これは「平沢唯とズッコケシスターズ」とか「にぎりこぶし」とか「放課後ティータイム」とかではないということである。
あくまでも「けいおん部」という場所が舞台であるということ。ここが重要。
けいおん 校舎(桜が丘女子高校の校舎、この「音楽準備室」が舞台となっている)
もし続編があるなら、「けいおん部」を舞台としなければならない。ここを踏まえればならない。

さて、多くの映画、ドラマで展開される物語の一つとして、「伝説の継承」というものがある。教授されていた者が成長し、今度は教授する側に回る。世代が変わって、新たな主人公たちを物語のゴールへ導くという流れだ。
代表的なものに、「スターウォーズ」のヨーダ→クワイ・ガンジン→オビワンケノービ→ルーク・スカイウォーカーといったものや、「ゴッドファーザー」の父から息子、黒沢明監督「赤ひげ」の老医師(三船敏郎)から若い医師(加山雄三)へ、ロン・ハワード監督の「バックドラフト」の兄から弟へ、「役割」や「権威」などが世代代わりとともに移行していくということ。
となれば、「けいおん」では唯がさわ子の後継者になるということだ。
2期10話「先生!」さわ子の卒業の回想シーンに上がる風船と1期6話「学園祭」で唯たちの演奏が始まる前に風船が上がるシーンの類似。(画像は上記)

担任に提出する進路希望を突き返されるシーンは後の唯の場面と同じ。
けいおん さわ子と先生(2期10話「先生!」さわ子の回想シーン)

けいおん さわ子と唯(2期8話「進路!」さわ子は唯と律の進路希望の用紙を突き返す)
だが、この後にさわ子の顔のシーンが入る。

けいおん 昔を思い出すさわ子
遠くを見つめる顔で、昔を懐かしむような表情だ。セリフがあるとすれば、「昔の私と同じだわ…」とつぶやくはずである。

原作では2巻にこんなシーンが、
けいおん さわ子の先生
けいおん部部室で寛いでいるさわ子先生を他の男の先生が怒っている場面。
そして、生徒の律に「お前らもこいつが顧問で大変だろうがちゃんと面倒を見てやってくれ」と男の先生が頼みます。この男の先生はさわ子の学生時代の先生だった。つまり上の画像にあるさわ子の担任教師である。

唯がさわ子の「継承者」となる伏線はあちこちで見られ、上記でも検証したとおりである。
唯が女子大を卒業し、桜が丘女子高校の先生となり、けいおん部の顧問となる。つまり「さわ子」の役目を負うことになるというのが、これがこの物語の自然な流れだと思う。
つまり「唯の先生編」だ。
(そして、私の妄想は広がり、資産家の娘の紬が桜が丘女子高校を買い取って「理事長」、澪は教えるのが上手いからやはりこの女子高の教師、律の弟と梓が恋人同士となる(この恋愛フラグは立っている)ので義理の姉妹……)
2期17話にこんな会話がある。(工事で使えなくなった部室に帰ってきた場面)
「帰ってきたよ! 帰ってきましたよ~ 生還したよ!」
律「何かいいな」
梓「ほっとします」
唯「ここで練習できるなんてありがたいよね」
澪「改めて実感するな」
紬「もう、あっちこっちうろうろしなくていいのね」
「いいんだよ、毎日ここに来ていいんだよ」

そう彼女たちには帰る場所がある。

それは、けいおん部の部室「音楽準備室」。
そして、唯は先生となって、この場所に帰ってきてこう叫ぶはずです。
「帰ってきたよ! 生還したよ!」と。
けいおん 「帰還したよ!」


ということで、長々と書いてきましたが、これでも書き足らない。
まあそれだけ魅力ある物語だということです。

追記
8月18日放送、第20話「またまた学園祭!」を見ました。
今回は学園祭ライブを中心にした内容。高校生活最後の唯らの学園祭なので総括的なものとなっていた。(まるで最終回のようだった)
この物語において「学園祭」は一つの節目となるものあり、「けいおん部」の彼女らにとっての成長や変化が毎回みられる。
そこで空に何かが上がると予想していて、そこに注視していたら、一つに上がっていたのはアドバルーンでした。
「けいおん!!」 空に上がるアドバルン

そして終盤、けいおん部全員が涙という後でのシーン。
「けいおん!!」 空を舞う鳥 象徴
空には鳥が舞い上がるシーンが挿入されていました。
その数5羽。つまり、けいおん部5人を象徴してます。

上記で示した通り「成長」と「卒業」(ここで言う「卒業」とは学校を卒業するという単純な意味ではない)のメタファーであることは間違いない。
「サマーウォーズ」「時をかける少女」の細田守監督はラジオのインタビューで「アニメでは描かれるものすべてに作者の意図や意味が込められている」(TBSラジオの「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」)と言っているくらいなので、象徴的に挿入されている「空」に、何かが付け加えられていれば、それには重大な意味があると考えられる。
となれば、「最終回」でも空に何かが描かれるのではないか、というのが私の予想です。

さて、もう一つ。
さわ子先生である。
「けいおん!!」 さわ子とその先生 師弟、継承
ここ数回のさわ子の描かれ方が興味深い。
上記であるように「さわ子」というキャラクターは「主人公らをゴールへ導く賢者(ここでいう賢者とは、人生の先輩といった意味である。上記参照)」であり、「保護者的視点でいう見守る人」である。
学園祭で「さわ子」は何をしていたかを見れば分かりやすい。
彼女は学園祭で衣装をひたすら作るという形で描かれている。これは「けいおん部」を含めこの女子高の生徒が「輝く」ためにしていることであり、完全なサポート役にあって、決して自分のためにやっていることではない。(目の下にクマをつくりながら)
この意味は、彼女の役割が「保護者的視点」「物語の終着に導く者」にあり、彼女の「グッドジョブ」とは自分の生徒たちが「輝く」ことにあり、完全な「見守る役」という設定がこれで明確であろう。(この物語で登場する唯一の大人。私の視点もここにある。)
そして唯ら(他の生徒も含む)が「輝ける」のが今だということをさわ子先生は十二分に知っている。
さわ子が「ネコ耳」や「メイド服」を生徒に見つけさせることに異様にこだわるのは、これがその年代にしか合ない特有のものであり、(「年がいったら出来ない格好」というのは唯や律らも良く知っていて、それを口にする。)「若さを味わえ」という意味があるのではないか。決してさわ子が自分自身で身につけるわけではないのだ。

そして添付した画像には、さわ子先生の先生が登場してました。
お~、見事なまでの「継承」表現でした。(これでは分からないでしょうが……。これは継承なのです。) 

あと一つ。
挿入歌で「ごはんはおかず」がありましたね。
私は、アニメに出てくる「ご飯」や「おにぎり」「弁当」に関心があるので、これについても興味が惹かれました。これはあとでまとめてみます。
関連記事「こめ」「弁当」「おにぎり」で「文化防衛論」
最後に律のセリフ「日本人だったら、コメ食え、コメ!」(2期・16話「先輩!」)

追記の追記
第21話「卒業アルバム!」の中で、唯に「さわちゃん先生みたいになりたいな!」と語らせていました。

まさに私の予測通り?
この物語の着地点は「唯がさわ子の後継者になる」というものですが、その伏線が張られたということでしょうか?

これ実にいいラストだと思いますが……どうでしょうか。

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