スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「成熟日本 これからは文化」

なるほどと思った新聞記事から。
平成22年12月7日付け 読売新聞

成熟日本 これからは文化  シュベツェール・仏ルノー名誉会長
欧州で日本の発信拠点になっている「パリ日本文化会館」の仏ルノー名誉会長のルイ・シュベツェール氏(68)がこのほど来日し、本紙と会見した。
同氏は「日本は今、閉塞感にとらわれていると聞くが、成熟した先進国にとって本当の進歩とは何かを考える時期に来たからではないか。これからの日本で重要な役割を果たすには文化だと思う」と述べた。
(中略)
シュベェール氏は「その国の文化に関心を寄せない限り、経済進出しても本当の成功はない」というのが持論で、「それぞれの文化に固有の価値と特性がある。フランス人は仏文化の普遍性を信じがちだが、それは違う。異文化に接する時こそ、謙虚でなければ」と話した。
同会館は日仏の官民が協力し、1997年に開館した。日本の伝統芸能から近現代芸術まで多様な展示会を開催し、「断片的だった欧州での日本紹介が一貫性を持てるようになった」と同氏は語った。
(調査研究本部主任研究員 池村俊郎)

シュベェール氏は、ルノーと日産の提携で腹心のカルロス・ゴーン氏を社長に送り込んだ人物。アフリカでの医療活動でノーベル平和賞を受けたシュバイツァー博士は大叔父にあたる、という。

スポンサーサイト

「徒然草」と「涼宮ハルヒの憂鬱」と「三島由紀夫」

いろいろなものを心のおもむくままにつなげてみましたシリーズ。

仕事帰りや移動中は、車中でラジオをよく聴く。
土曜日の夕方は、NHK第2ラジオで、古典講読「耳で聴く、徒然草に学ぶ精神世界」なるものを放送していて、これを聴いている。
最初は何気なく耳を傾けていたのだが、何回か聴いているうちにだんだん面白くなってきた。
吉田兼好の「徒然草」は、若いころに南北朝時代の資料として読んだはずだが、そのときは説教臭くって、どうも取っ付きにくいなぁ~という印象しか持てなかった。
だが、この講座を聴くうちに、「吉田さん、いいこと言うじゃない」と感心させられることしきりで、教訓めいた話も現代の処世術に通じるものがあると、思わぬ発見もあった。
もっと「徒然草」が読みたいと思って、検索してみると、これが現代語訳でネットに全文掲載されている。
徒然草 新訂ブログ版 (超現代語訳です。これはとても読みやすく、実に分かりやすい。)
この年齢になって、改めて読み返してみると、斜に構えた物の見方や、超然としたもの言いなどが、いまの私にはぴったりと肌に合うようだ。(それだけ私が年をとったということでしょう)
それに、結構、変な話や奇妙な話も多く書かれているということも分かった。
大根が救ってくれた話(六十八段)とか、豆がしゃべる話(六十九段)とか、妖怪・猫又に襲われたらと思ったら飼い犬だったといった笑い話(八十九段)、などといった奇妙な話もあれば、一七五段の酒の話などは市川海老蔵に読ませたい話だし、動物愛護のような百二十八段、ギャンブラーの極意なんていう百二十六段も、現代に合っている。
その中でも、驚いたのが第七十一段。
内容が「デジャブ」そのものなのだ。

人の名を聴くと、すぐにその人の顔が心に浮かんでくるような気がするのに、本人と実際に会って見ると、想像どおりの顔をした人はいないものだ。
遠い過去を記した物語を聞いても、現在ある人の家の、あの付近で起こった出来事だろうかと推測され、登場人物についても、現にいる実在人物になぞらえてしまうのは、人間誰もがこんなふうな心理になるものなのだろうか。
また、何かの機会に、今、人が言っていることも、我が目で見ている物も、我が心に浮かぶことも、いつだったか、過去にもあったという気がする。確かな時間は思い出せないけれど、確実に存在したという気持ちがするのは、自分だけだろうか。

(角川ソフィア文庫「徒然草」の現代語訳から引用)
スゴイですね。Wikipediaの「既視感」の項目をみると、「20世紀にフランスの超心理学者・エミール・ブワラック が……」とあるが、吉田兼好はすでに十四世紀からこんなことに気づいていたというのだ。
こうみていくと、吉田兼好は鋭い観察者だということでしょう。

さてさて、話は大きく飛ぶ。
先日、アニメ「涼宮ハルヒの消失」を見た。
いい、最高にいい。たぶんこういうのを傑作というのだと思う。
涼宮ハルヒの消失
オタク限定、オタクアニメというレッテルを貼られているが、そんなものを取っ払ってしまうほどにいい出来なのだ。

私自身は、今年の夏の「けいおん」ショックがあって以来、アニメを狂ったように見始めている。そこから、時代を遡って有名どころのアニメを見ているのだが、中でもこの「涼宮ハルヒの憂鬱」は突出していると思う。
あまりにも面白かったので、谷川流の原作も全巻読んでみた。
涼宮ハルヒの憂鬱 原作
2003年の発刊だから、7年間続いているシリーズを、私はこの数カ月でまとめて原作を読み、アニメを見たことになる。(しかも最初は、何の予備知識のない状態から始まった。)
短期間でかなり濃密な「ハルヒ体験」をしたのだ。
(そして、これをキッカケにして、ライトノベルも侮れない存在だ知り、これらにも手を伸ばすようになった。)

元々SFぽいものは好みだった私。(宮部みゆきの「蒲生邸事件」東野圭吾の「パラレルワールドラブストーリー」佐藤正午の「Y」など)
だが、これにハマった理由は別にあって、主人公「キョン」の独白・語りにあった。(細かいところをいちいち書こうと思ったのだが、それは別の機会にします。)
また、キョンは「観察者」であり、吉田兼好のような達観した視点や、斜に構えた皮肉屋的要素も十分持っている。デジャブや奇妙な体験する吉田兼好といったそんなところも似ている。
(ここで強引に、「徒然草」と「涼宮ハルヒの憂鬱」をつなげてみました。)

それにしても、キョンの「例え」は上手い。これは絶品だ。

そして、「消失」の一場面で、「徒然草」を教える先生の場面が出てきて、ちと驚いた。
涼宮ハルヒの消失 徒然草お~!

そして、またまた、話は飛ぶ。
実は、この「涼宮ハルヒの消失」については過去に触れていた。
「アニメ・マンガ」で「文化防衛論」の記事。
2月6日のこと、「涼宮ハルヒの消失」が劇場公開される日の朝に並ぶファンらを少し皮肉った感じで書き始めて、三島由紀夫の文化防衛論とアニメ・マンガを組み合わせた記事だった。
このとき、まさか自分が「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズにハマるとは思いもしなかっただろう。
こうしてみると不思議なものだ。

そして、ここで、三島と「涼宮ハルヒの憂鬱」を強引につなげてみる。
「涼宮ハルヒの消失」を見て思ったのだが、キョンって三島由紀夫の「豊饒の海」に登場する本多繁邦のようだ。彼も物語の語り手であり、観察者である。
「涼宮ハルヒの消失」のキョンがハルヒを探す様子が、私には、「豊饒の海」の本多が松枝清顕の魂を探し求める姿と重なって見えたのは、同時期に三島を読んでいたからだろうか。(特に第三巻「暁の寺」のジン・ジャンを探すところ)
また、自称宇宙人の家族が登場する「美しい星」も三島が書いたSF小説にも、一種共通するところがあるのも面白い。


追記
 最新巻「涼宮ハルヒの驚愕」が2011年5月25日に発刊されるという。
新刊を待ち遠しくなる気分になるのは久しぶりのことだ。
それはラノベであろうと関係ない。本来、本を楽しむとはこういうことなのだろう。

クリスマスにスシを食べる日本人。

この時期になると、スーパーやGMSも本格的にクリスマスモードへと突入して、チラシにはx'mas商材が大きく掲載されることになる。
クリスマスに寿司を食べる日本人

これらを見ると、年々「寿司」や「刺身」の方が、「クリスマスケーキ」よりも大きく扱われているように思われる。
「特別な日 手巻きすしパーティーをしょう」「ちらし寿司も」なんて言葉も見える。
クリスマスにスシを食べる日本人。
実に面白い。
キリスト教徒にとってこの日が大変重要であって、そこを日本人が理解し、その風習に従って、これを祝うのなら、それはそれで問題ないだろう。
しかし日本人は違う。
聖夜に、クリスマスとは何の関係もない寿司・刺身を食う。
またこのことに対して何の疑いを持つこともない。
よくよく考えてみれば、これはとても面白いことなのだ。
クリスマスに寿司を食べる日本人 2

クリスマスの宗教的意義などとうに消え去っていて、日本人にとってこの日は、日本人のための、日本人による「特別な日」になっているということを意味している。つまり「ハレの日」になっているのだ。
クリスマスケーキが日本人にとって「直会」であることは何度か書いているし、日本人が海外からやってくる文化を取り入れ(マレビト信仰)、そこに自分の文化を融合させ独自の文化を作ってきたことも何度か書いているので、今回その部分は省略。
過去記事 「クリスマスにケーキを切り分けて食べる意味は?」、「サンタクロース=恵比寿、大黒?」
恵方巻きとは何か その2 恵方巻きとは正月行事の凝縮されたものではないのか(仮説)

面白いのは、この日ほど様々な国の食文化を味わう日はないということ。
ケーキが「洋」なら、寿司は「和」。
ピザやパスタが「イタリア」なら、ワインは「フランス」、チーズは「欧州」、クラッカーは「イギリス」、チキン(七面鳥)やポテトチップスなどは元をたどれば「アメリカ」産(ハーゲンダッツのアイス、ケンタッキーのチキンやマクドナルドのチキンなんて人もいる。)、カレーは「インド」(この日は高級カレーという家庭もあるようで、クリスマス商品としてチラシに掲載されることも多い)、牛肉は「オーストラリア」のオージービーフ……。
また、焼肉パーティーなんてところもあるようで、そうなれば「韓国料理」となり、酒もワインではなく「マッコリ」だったり「ジンロ」だったりする。
飲料だって、ビール(国産がほとんどだが、この日は特別なので海外モノのハイネケンやバトワイザー)や、ケーキに合う「紅茶」(英国)「ウーロン茶」(中国)、「緑茶」(日本)、コカコーラ(米国)、炭酸のペリエ(フランス)……などなどとなり、まさに食の万国博覧会。ちょっと挙げただけでもこれだけあるので、ほかにももっとあるだろう。
それでも、さすがに、クリスマスに中華はないだろうと思っていたら……、
クリスマスに中華
「エビチリ」があった。(味の素の「クックドゥー」)

こう見ていくと、日本人は外国の(食)文化受け入れていることに何の抵抗感がないのではないかと、つくづく思う。
日本はよく「閉鎖的」「内向き」「島国で排他的」「ガラパゴス化して他の文化を排除している」などといわれて、散々批難されことがある。
果してそうなのだろうか。
クリスマスの例を見ても分かるが、外国の文化をこれほど柔軟に取り入れつつある国は、他にはあるまい。

それでいて、自国の文化を保っている。
実にユニークな国なのだ。
(日本には自国の確固たる文化の基盤がある。だからこそ他文化を受け入れる余地があるということなのだ。裏を返せば、その根幹を守らなければならないということ。)

司馬遼太郎はかつて、何でも自分の中に取り入れて、己のものとしてしまう日本の独特の文化を「胃袋の文化」と称した。
確かにそうかもしれない。
クリスマスにケーキを食いながら、寿司もピザもワインも食す。
みんな胃袋の中に押し込めて、「食文化」を楽しんでしまう。

そう思えば、日本人がクリスマスに寿司を食うという現象も、日本人の特性を考えれば、何の不思議もないということなのだろう。

 「日露開戦」と「日清開戦」を放送する合間に得意の「NHKスペシャル」を割り込ませるとは芸が細かい。(笑)

平成22年12月19日のテレビ番組表を見て吹いた。
NHK 夜19時30分から 坂の上の雲 第8回「日露開戦」、夜23時から蒼穹の昴(13)「日清開戦」
同日の夜に、「日露開戦」と「日清開戦」って。しかもドラマで。
偶然にしても笑ってしまう組み合わせだ。

しかもその間に、21時からNHKスペシャル「私たちは核兵器を作った」っていう何となく「左」ぽいものを挟んでくるあたりがいかにもNHKらしい。
それにしても、ここ最近のNHKって「沖縄基地問題」「日米安保」「あの戦争」「戦争責任」といった偏ったドキュメンタリーばかりを特集しているが、これが感傷的で実に気味が悪い。その数が異常で、かなりの頻度なのだ。(教育放送を含め)
これを繰り返すことによって、この偏向した思想を国民に刷り込もうとしているのだろうか。
そして、来年の1月から「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」といった題名のNHKスペシャルがあるという。もう題名だけでその内容が知れる。それは、いかにも自虐的史観に満ちたものだろう。
尖閣問題、朝鮮半島の問題、中国の膨張による危機感など、世の中が「右化」しているということへの警鐘のつもりなのだろうか。それとも、私たちNHKが、国民を「平和」「正義」に導いてやるといった「聖者」にでもなったつもりなのだろうか。
とにもかくにも、最近のNHKは偏りがヒドイ。

さてさて、「日露戦争」「日清戦争」ということで、むかし読んだコラムを思い出した。
これ、再読したら、ほんといい内容だったので、転載してみました。
高山正之「変見自在 スーチー女史は善人か」(新潮社)から。

小日本論の愚
四国のどこかで「ほてい葵が咲きました」と先日のテレビでやっていた。
金魚鉢によく似合う、葉の付け根がぷっくり膨らんだ水草で、それが水辺に浮かんでヒヤシンスによく似た薄紫の花を咲かせていた。
原産は南米と言われる。いつ頃こっちに渡ってきたのかは定かではないが、今から百年前にはハノイのグラン・ラック(大湖)の水辺にほてい葵が咲き乱れていたと、仏文学者・小松清が書いている。

この花をベトナムの人たちは「日本の花」と呼んでいたという。
その縁起について小松は「日本が日露戦争に勝ったとき、だれかがこの花を湖に植えた。花は幾年かのうちに増え、だれ言うとなしに『日本の花』と呼ぶようになった」とベトナム人の話を紹介している。
そのころベトナムはフランスの植民地だった。
十九世紀半ば、英国が阿片戦争で中国へ阿片売り込み権を獲得し大儲けをしていた。
フランスはそれが羨ましくて中国に戦争を吹っかけた。清仏戦争だ。そして勝って中国の属国領のベトナムを賠償として頂戴した。
フランスは早速、人頭税に酒税、結婚税、葬儀税と思いつく限りの税金を課すと同時に阿片専売公社(レジ・オビウム)を作ってベトナム中に阿片を売りまくった。
ベトナム人はあこぎなフランスに腹を立てた。でも相手は宗主国の中国も敵わなかった。
身の不運と諦めていたところに、そのフランスよりももっと大きいロシアを同じ肌の色をした日本人がやっつけたという話が届く。
その武勇は歌謡師(カーザイ)が村々を流して伝えた。人々は興奮した。我々も白人のくびきから脱することができるかもしれないと思った。
国士の潘佩珠(ファンボイチャウ)が日本に密航した。彼の手引きでベトナム王朝の皇子クォンデをはじめ二百人もの若者が密かに渡日した。
いわゆる東遊(トンズー)運動で、彼らがその後のベトナム独立の礎となるが、そのなさかに見馴れぬ水草が美しい花を咲かせた。
「日本の花」と名づけたベトナム人の夢と期待がそこに感じられる。
今年が百周年となる日本の対ロシア戦争の勝利はこのベトナムの例のように第三世界の国々に大きな影響を与えた。日本の存在は限りなく大きかった。
日本はそれを疎ましく思う米国と戦って、敗れてしまうが、それでもなおその影響力は消えなかった。
例えば国際政治の世界では「軍事力がその国の国際影響力を決める」が定説だった。しかしカルフォルニア大のリチャード・ローズクランス教授は「軍事力がなくとも経済力で国の地位は高められる」学説を出した。
モデルは戦力を持たずに世界第二位の経済大国になった日本だった。
第三世界が独立ラッシュを迎えた六〇年代。そうした国々が満足に成長していけるかどうかが焦点だったが、ケネディ政権の特別補佐官ウォルト・ロストゥは「国家は放っておいても農業社会から工業化社会に脱皮し、大量消費経済を実現する」段階的発展論を説いた。
これもモデルは日本。資源もないのにここまで発展したのだから、資源だらけのアフリカ諸国など何の心配もないというわけだ。
もっとも、この理論通りに成長を遂げたのは台湾にシンガポール、マレーシアなど日本の影響を受けた地域に限られた。
それ以外の国々は社会主義論を採用して、みな破綻していった。
日本の影響を強く受けながら社会主義に走った中国と北朝鮮は、ある時期まで何とかその影響力の残滓で持ち堪えたものの、破綻は免れそうにない。
日本の大きさを改めて思い知らされるが、そんな日本を「小さな国」と言ったのが武村正義だ。中国に魂を売った政治家の一人で、中国人の言う「小日本」をそう訳したものだ。それを同じ心根の朝日新聞が名言ともてはやし、念を入れて添谷芳秀・慶大教授に「日本は二流国たれ」と小日本論を書かせた。
この新聞は北朝鮮代表が「今度は席を蹴立てなかった」と喜び、「金正日が前向きの発言をした」と言っては感激して見せる。
相手がどんな半端国家でも日本はその顔色を窺う。それほど日本は小さいと思い込ませたいらしい。
支那朝鮮に会釈の要なしと諭吉は言った。まして媚びなどもっと必要ない。(二〇〇五年八月四日号)

このベトナムの話いいですね。アジアにとって日本はどういう歴史的役割を果たしたのか、「日清戦争」「日露戦争」とはアジアにとってなんだったのか、自虐史観を抜いて、もう一度、考え直す時に来ているのではないか、と思います。(全否定も全肯定もよくない)

それに「軍事力がなくとも経済力で国の地位は高められる」というのが文中に出てきますが、ここに「文化力」を加えてもいいと思う。
過去記事「自国を守るものは、軍事力と経済力、そして文化力。
福沢諭吉も三島由紀夫も新井白石も、自国の文化力を高め、自国の防衛を考えることが、日本を守る、と唱えています。

そういったことを踏まえ、「坂の上の雲」や「蒼穹の昴」、そして偏った「NHKスペシャル」を見れば、少し違った見方ができるのではないでしょうか。

ハムスターが死んで「お隠れになる」はないだろう。

細かいことだが、気になったので書いておく。

平成22年12月17日放送分、フジテレビ「ペケポン」の一コーナー「MAX敬語」の場面でのこと。
「社長のハムスターが死んだから……。」という「死んだ」という部分を敬語に変えろという問題。(細かい点は省略)
この答えがなんと「お隠れになる」というものだった。
これは明らかにおかしい。

「お隠れになる」という言葉を辞書(検索でもいい)で引けばすぐ分かることだが、これは「身分の高い人、また目上の人が死ぬこと。」という意味で使われるのが普通だ。
Wikipediaの「崩御」の項目にはこうある。

またお隠れになるとも表現する。この表現が日本の皇室について用いられる理由としては、日本神話において天皇は神の末裔であり、一般の人間とはかけ離れた存在という思想背景があったためと解釈する説がある。天皇が太陽神の子孫であるという思想、すなわち「天皇の死去=太陽が雲に隠れる」から来ているともされる。「雲隠れ」についても、現在では単に姿をくらますという意味合いで用いられるが、もともとはこれに由来する語である。

ここにもあるように、皇室の方々の死の尊敬語として用いるのが一般的だ。
だが、この番組は酷過ぎる。これを、もはや人ではなく、動物・ハムスターにこの言葉を使うことが最上の尊敬語だというのだ。
どうかしている。
これは、ただの単純ミスとか、アナウンサーの言い間違いとかいったレベルではない。
スタッフや出演者や関係者がいて誰も異を唱える人がいなかったのか。

しかも、番組では監修役として、名古屋大学 町田 健 教授なる人物が出演していて、これを偉そうに解説していた。
これが大学教授? (しかも言語学が専門って)
敬語云々より、まず常識がないだろう。

バラエティー番組が何をやってもいいが、どうもこういう間違いは許せない。
過去記事
またテレビ朝日で反日放送か!? 天皇陛下を天王陛下とテロップ
池上彰のテレビ番組の偏向放送が酷かった。

こういうところから権威は汚されていくのだろう。

カルピス群馬工場って館林にあったのか!

何気なくテレビをみていたら、CMで「カルピス群馬工場」云々といったことが流れていた。
気になって検索してみたら、これが長澤まさみのカルピスのコマーシャルだった。
カルピス群馬工場 長澤まさみ
そして、その「群馬工場」の場所というのが、何と「館林」だった。
館林!!!
知らんかった。
まさか群馬の東毛地区に「カルピス」の工場があったとは。


当サイト的には、結構「館林」は登場します。
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!シリーズ の正田醤油や日清製粉。
新田氏関連ニュース。「里見氏」と「榊原康政と俳優・川野太郎とつつじが岡公園」のつつじが岡公園、などなど。
仕事関係でこの辺りに行くことは多いので、デジカメで工場の外観だけでも撮ってこようかな。

追記 カルピスのCMっていいですよね。保母さん役の長澤まさみが最高にいい。彼女の魅力がよく出てると思う。これが彼女の正しい方向性だと思うのだが……。

毎年恒例の一言、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」は新田一族の鎮魂劇である。

12月14日は、赤穂浪士討ち入りの日。
毎年、この日には同じ文章をUPさせている。
ということで今年も、恒例の一言。

歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」は新田一族の鎮魂劇である。

理由は……、ここで

で、今年は少し追記。
忠臣蔵や赤穂浪士の事件を南北朝時代に合わせて見ていくと、結構面白いことになる。
吉良氏と上杉氏が親戚関係なのは、元をただせば「足利氏系」であることが縁であるし、吉良家が高家筆頭という高い地位にあったのは、徳川家に「新田氏」の系図を差し出したからと言われる。
そして、浅井家の所領は「赤穂」だが、ここには「児島高徳の墓」がある。
参考サイト、妙見寺、赤穂民報「奈良・吉野に向かい児島高徳を遥拝」、「児島高徳卿の遺徳偲ぶ遥拝所再建
赤穂と児島はまさに「塩」つながり。
などなど、結構関連がある。

歴史は連続的につながっている。鎌倉時代、室町時代、江戸時代、と年代的にスパッと区切れているわけではない。前の時代に遡って調べていくと、意外なことが分かったりするものなのです。

ということで、そんなことを寄せ集めたのが「東毛奇談」です。
そして、なぜ徳川家康は新田源氏を名乗ったか?
これがすべてのナゾを解くカギとなる。


あ~、「東毛奇談」のサイトもアクセス数がやっと2万か。
死ぬまでに、続編書かなきゃ。
予定としては「ライトノベル風にしょうかな……」と思っています。
(誰に頼まれたわけでもありませんが、まあ、自己満足ということで)

いつの間にか、日本はアジア第3位。 このままでいいのか?

かつて日本は世界第2位の経済大国といわれた。
日本国民も「米国に次ぐ大国だ」とうぬぼれ、思い上がっていた。
しかし、日本は、いまや中国に抜かれて経済世界第3位といわれ、各分野では韓国にも競い負けしているような状態であって、以前の活力はまるで見られない。
日本の凋落は経済のみならず、文化・教育・スポーツでも同様だろう。
2010年アジア競技大会の金メダル獲得の数そのものが、いまの国の勢いを表しているように思えてならない。
中国・199個、韓国・76個、日本・48個……。

日本は、中国、韓国の後塵を拝して「アジア第3位」に定着しようとしているのか。
そんな懸念を持って新聞記事などを読んでいくと、その思いを強くしてしまうのだ。

以下、ここ一週間の読売新聞で、そんなことを感じた記事を並べてみました。
12月8日

ミャンマー熱い「韓流」
【バンコク=深沢淳一】「韓流」ブームがミャンマーにも到来し、軍政下で経済が困窮する中で国民のささやかな楽しみになっている。
 若者は韓国スターのファッションをまね、中年女性はドラマに夢中だ。
 11月下旬には、韓国大使館など主催の「第5回韓国映画フェスティバル」でミャンマーを訪れた俳優のソン・イルグクさんと女優イ・ハナさんを一目見ようと、ヤンゴンの空港にファンが殺到する一幕があった。この模様は、普段は軍政関係の記事で埋まる国営紙も、写真を7枚も使い、2ページを費やして詳しく報じた。
 国営テレビは夜のゴールデンアワーに韓国ドラマを放映しており、「テレビが少ない農村部の人々も、韓国人俳優の名前は知っている。娯楽が少ないミャンマーで最も人気があるのは韓国ドラマだ」(地元記者)と言われる。
ヤンゴンには韓国ブランド専門の輸入衣料品店がある。他の店では25ドル~30ドルで買えるジーンズが50ドル前後するが、若者でにぎわっている。女子大生のチョ・チョさん(23)は、「服やヘアスタイル、メークをまねたい。韓国映画はファッションも注目して見ている」と話す。
KポップのCDもショッピングセンターで簡単に購入できる。「若者向け雑誌の多くは韓国のファッションを必ず紹介している」と女子大生のハイ・マンさん(19)。
親日国と言われたミャンマーだが、地元記者は「韓国の影響力が強まるにつれ、日本文化の存在感はミャンマーから少しずつ消えつつある」と指摘している。

読売新聞のサイトでは、前半部分しか掲載されていない。この記事の要は、「韓国の影響力が強まるにつれ、日本文化の存在感はミャンマーから少しずつ消えつつある」という部分なのに……。
それにしても、こんな小さな記事からでも、文化・芸能における日本のアジアの影響力は小さくなりつつあるというのがわかる。

 12月7日 文化面「記者ノート」から 

アジア大会 日本囲碁界に宿題
冷や汗ものの銅メダルだった。中国・広州で行われたアジア競技大会囲碁種目。日本代表は男子団体が3位決定戦で中国台北に3勝2敗で辛勝し、なんとか銅メダル1個を獲得した。
女子団体は4位、ペア碁は惨敗。日本代表チームの監督をい努めた大竹英雄・日本棋院理事長は帰国後、「胸を張って報告できる結果ではなかった。深くおわびしなければならい」と語った。10年後に国際棋選で優勝できる戦略が求められる。
囲碁は開催国である中国の要望で初めて正式種目として採用された。近年の国際棋戦の成績を見れば、中国・韓国の壁は当初から厚かった。日本代表は「金を狙う」として出発すたが、「複数のメダル」が腹蔵ないところだったろう。
大会が始まってみると、中国、韓国との意気込み、準備の差は歴然だった。両国は「国旗を背負って」という意識を隠さなかった。選手は選抜戦で決め、事前合宿も念入に行ってきた。専属のトレーナーもつけ、勝負のこだわりをむき出しにした。日本の合宿は1回だけ。国際棋戦のひとつというとらえ方があったことは否定できない。
終わってみれば韓国が金を独占。中国は銀が三つ。大会を通じて見えてきたことは、囲碁の文化性を大切にする日本と、勝負に徹する中国、韓国とのギャップが広がってきたことだ。
相手の時間切れを狙う作戦も見られ、大竹理事長は「囲碁に求めるものが違うことを強く感じた」と話した。
国際棋戦の比重が大きくなる中で、このギャップをどう考えればいいのか。
勝負を二の次にするわけにはいかない。そんなことはファンが許さない。主将として出場した山下敬吾九段は「勝負も内容もいい結果を残すしかない」と言う。
日本囲碁界として国際棋戦対策の具体的なビジョンを示す必要があるだろう。(岡崎裕哉)

これは興味深い記事。アジア大会で囲碁が競技になっているというのも驚きだが、韓国が中国を圧倒していることや、日本が惨敗だったということをここで初めて知った。
韓国・中国は、こういうところでも「国旗を背負って、という意識」を持ってくるのか。日本では、こういう意識を全面に出すと「変に騒ぎ出す人々」がいるから、国対抗では弱くなってしまう。

12月9日 経済面「EV始動(下) 電池開発 焦る日本。中国、韓国 国挙げて猛追」から。

「……今秋、電池業界に強い衝撃が走った。韓国のLG科学が仏ルノーに電池の供給すると発表したためだ。LGがルノーに提示した価格は「日本製の半値」(関係者)といわれ、「日産・ルノー連合はNEC製の電池を使う」との見方が覆された。LGは、米ゼネラル・モーターズ(GM)、フォードモーターなどへの供給も決めた。
日本勢は、高い技術を持ちながらも、欧米自動車大手との大型契約にこぎつけた例は少ない。
<中略>
イオン電池の世界出荷実績(今年7月~9月)は、サムスンが2四半期連続で世界首位となり、日本最大手の三洋電機を上回った。
韓国は15年までに電池を含む環境産業の育成に官民合計で40兆ウォン(約2兆8000億円)を投資する。これに対し、日本政府が環境関連の工場立地などの支援に配分した予算は09年~10年度合計で約1400億円にとどまる。
中国も猛追している。中国政府はエコカーや電池産業の育成に今後10年間で1000億元(約1兆2000億円)を投入するとみられ、携帯電話向けの電池メーカーだった「BYD」などの参入も相次ぐ。
かつて日本が優位だった半導体や液晶パネルでは、韓国や台湾に逆転された。EV用電池で「悪夢の再現」(経済産業省幹部)を避けるためには、「政府の全面的な支援、官民一体の戦略」を早急に打ち出す必要がある。

海外での競争に韓国や中国に競い負けしているというのは、これだけじゃないから、いまさら驚かないが……。新幹線しかり原発しかり。

今度は中国の教育。12月12日 編集手帳から

 国際学力調査(PISA)で上海は、読解力、数学的応用力、科学的応用力の3分野のトップを独占した。初参加でいきなりの「三冠」である。なのに地元メディアの評価は驚くほど冷静だ◆政府系の新聞は<冷静に『1位』を考える>の見出しで、「得意になるのではなく、弱点を克服して改革を進めよ」と記者が書いた。大衆紙も<必ずしも誇るに値しない>との題で、「知識教育、受験教育の結果にすぎない」とする大学教授の話を紹介した……。


12月12日 コラム「地球を読む」山崎正和の一部を抜粋から

阪大総長が中国の一流大学を訪問したさい、学長から受けた打診は衝撃的だったという。要は日本の大学から教授を招聘したという話だが、先方の求めは即戦力的な応用科学の学者ではなくて、数学や物理学など基礎科学の研究者だというのである。当の学長は国家の文教政策にも影響力の強い人物だというから、中国の知的建国の百年の計は端倪すべからざるものがあるといえよう。

中国は、日本の明治時代の「国家百年の計」を目指している。現代日本の繁栄は、明治時代から教育政策の積み重ねがその礎となっているのは明らかである。
12月11日 ノーベル化学賞受賞者 根岸栄一氏と鈴木章氏、野依良治氏の対談が掲載されていたが、これを読むとよく分かる。
その中から鈴木氏の弁から

個人的な意見ですが、ノーベル物理学賞、化学賞が最近目立つ背景には、科学、教育を大切にしてきた明治政府の国家的なサポートがあったと思います。江戸から明治になって、富国殖産の掛け声のもと科学技術を整備しました。中国、韓国が今、科学技術の振興に力を入れていますが、そう簡単に達成できるものではない。
日本の10倍の研究者がいる中国が、日本の10倍のノーベル賞をもらえるわけではない。これは決してレベルの低いという意味ではなく、科学技術の発展には、時間とお金がかかるということです。だからこそ、日本はいま科学技術を大切にする雰囲気を作り出さなければならない。


中国や韓国が国を挙げて、文化・教育・スポーツ・科学技術に力(カネや人)を注いでいる。
一方、日本はどうか?
「世界は、科学技術こそが国力の源泉であるという共通認識があり、競争の時代である」と野依良治氏と語り、具体的な数字を挙げて現政権を痛烈に批判しています。
愚かな民主党政権は、事業仕分けといった悪行で、文化事業や科学技術予算を削り、結果、国の活力を失わせてしまった。

数百年後、歴史を振り返ってみて、これが日本の衰退の一因であったと気付くのだろうか。だがそれではもう遅いのだ。そのとき中国や韓国(朝鮮)が、百年の計を持って繁栄を築いているだろう。

このまま日本が「アジアの第3位」の位置に甘んじていれば、いつしか経済にみならず、文化も領土も失うことになる。
そんな危機感を持っていなければいけない。

娘たちに幸せあれ!

娘が通う小学校では、給食の時間になると、放送委員がお気に入りの音楽を選んで、全校放送するのだという。
ある時は、「AKB48」や「嵐」や「いきものがかり」といったいま流行りの曲がかかったり、また別の日には「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」や「ドラえもん」といったポピュラーなアニメソングが流れたり、と様々なものが放送されるそうだ。

そんな中、「新世紀エヴァンゲリオン」の「残酷な天使のテーゼ」が流れたときは、教室の何人かのお友達がこれに反応して、「あっ、これ家のお父さんが見ているよ」といったそうだ。(もしかしたら、パチンコ好きの親という人もいただろうか。)
うちの娘もすぐに分かったというから、親の影響というのはこういうところでも出るんですね。

ある日のこと、「けいおん」の「GO! GO! MANIAC」が流れたそうだ。(お~、ちょっと騒がしかったのではなかったか)
小学校低学年で、これに反応したのはうちの娘と、他にもう一人しかいなかったという。
そして、「けいおん!知ってるの?」ということをキッカケにして、この子とお友達になったそうな。
いまでは大親友。お家にも遊びに来るようになった。
そのお友達が書いた「むぎちゃん」
けいおん むぎちゃん
上手い。驚いた。小学校低学年で、これはスゴイ。

もとの絵はこれ。
けいおん 4巻

最初、元の絵の上に白紙を敷いて、写し絵のようにして書いたのかと思った。しかし、比べてみると寸尺が合わない。(一回り小さい) 見ながらそのまま書いたようだ。しかも簡単にスラスラと書いてしまったという。
こういうのを一種の才能っていうんでしょうね。(「子どもの才能」の過去記事)
感心してしまいました。
聞けば、このお友達、母親がいないという。
2歳の時に両親が離婚して以来、父親と二人暮らしだという。
もしかしたら、お家で一人の時間が多くって、お絵かきをしているうちに、上手くなったのかもしれない。(一人で遊ぶといったらお絵かきくらいしかないですから。)
そんなことをしみじみ考えながら、また「むぎちゃん」を見る。
「むぎちゃん」に吹き出しでセリフが書いてある。

「こんにちは!」

なんかいいな~。
「けいおん」っておんなの子の友情物語(そして成長物語)だから、これをキッカケにして娘とお友達との友情が結ばれたことに何か「縁」を感じてしまう。
過去記事「今日も部室でお茶を飲む。 「けいおん」は奥が深い!」

あ~、こういう子こそ、将来幸せになって欲しい!

そんなことを願ってしまった師走の夜でした。

権威とは。 紅白歌合戦と韓国芸能人

またまとまりのない文章を長々と書いてしまった。
すんません。


この時期になると、日本で活躍したプロ野球選手が、アメリカ大リーグに行くか行かないかといったことで話題になる。
野球選手にとって大リーグは、「憧れ」の場所である。それは、日本でプレーするのとは、また違う「特別」なものがあるからに違いない。そこには金銭以上の「何か」があるのだ。
そして、イチローのように、米国人も認めるような活躍を見せれば、まさに日本人を代表する国民的ヒーローとなる。「日本人がアメリカ人に認められた」、こんな感情が浮かぶのは、アメリカが野球の本場だと誰もが認めているからに他ならない。

どんなものにも“本場”というものがある。その道を目指すものは、そこに行くことを“夢をみて”、努力する。ましてその地で活躍するようなことになれば大変な“名誉”となるのだ。

こういったことはいくらでもある。ゴルフの石川遼がマスターズに出場すればスゴイこと思うし、日本のテニス選手(森田あゆみ)がウィンブルドンに出場したとか、サッカー選手がセリエAに行くとか聞けば、もうそれだけで、日本で賞金を稼ぐ人たちよりも、「別格」の選手として扱われることになるだろう。
また、渡辺謙のようにハリウッド映画に出演なんてことになれば、役者として一枚も二枚もランクが上がり、ミュージシャンがロンドンやLAの有名スタジオで録音した、全米進出でビルボードチャートランクイン(オリコンなんて目じゃない)、B'zの松本孝弘がグラミー賞にノミネートなんてことになれば、たちまち日本人は彼らを尊敬のまなざしで見つめることになる。
他には、本物のフレンチシェフになるためにパリに行く日本の若者、クラッシック音楽を学ぶためにウィーンへ行く若き音楽家、ブロードウェイを目指す名もなき舞台俳優……そんな話もよく聞く。
その道のプロとして認められるには、本場となっている場所に行って活躍することが「一流の証」のようになってくるのだ。

なぜか。
本場に行けばカネが儲かる? もちろんそれもある。だが、実際は、日本に残ってそれ以上にカネを稼ぐなんてこともできるはずだ。(大リーグ行きを拒否して、日本に残るプロ野球選手もいた)
要は、名誉、栄誉、ステイタスアップ、格を上げる……などといったものがそこにあるからだ。大リーグやウィンブルドンやビルボードやブロードウェイといったその道の本場には、それを裏付ける「担保」があるということだ。
そこには、積み重ねられた実績があり、刻まれた歴史があって、それが伝統となっていく。
これが「権威」となる。
“本場”には「権威」があるからこそ、人は尊敬する。
広辞苑には「権威」の意味として、「他人を強制し服従させる威力」と記述されているが、一般の人々は「権威」に対して、こんな否定的に捉えていない。いや、逆に求めている面さえある。
人は、この「権威」にめちゃめちゃ弱いのだ。

もっと例を出そう。
ベストセラーの本を一冊も出したことがない作家でも、「直木賞」や「芥川賞」を受賞した人と知れば、それだけで敬意を払われるだろう。
大学教授がノーベル賞を受賞したとなれば、たちまち上へ下への大騒ぎとなる。何を研究したか知りもしないが、とにかくリスペクトしまくる。
ただ、ここにあるのは賞という権威だ。
もちろん受賞者にも敬意を表してはいるが、実のところは、この権威に頭を下げていることになるのだ。(実際、ノーベル賞を受賞するまで、その人の業績は世間に知られているわけでない。)
この賞というものも、そこに「歴史や伝統、権威」があるかないかで、雲泥の差が出てくる。
歴史も浅く、伝統のない賞を受賞したからといって、誰も見向きもしないだろう。そこには賞としての権威がないからだ。
例えが悪いが、ウソ八百を書きまくる「朝日新聞」の記事も、実情を知らない多くの一般人は信用・信頼を寄せてしまう。
それは朝日新聞という「権威」がそこにあるからに他ならない。
東大出のタレントが芸能界にいる。大してかわいくもないが「東大」出身という肩書だけで、かなりチヤホヤされる。
ここには歴史・伝統を誇る「東大」という「権威」があるからこそ、彼女らを特別扱いにしてくれるのだ。


さて、長々と前置きを書いた。
本題はここから。
こんな記事を読んだ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101125-00000081-scn-krここから転載。

NHKは24日、第61回紅白歌合戦の出場歌手を公式に発表した。出場が取りざたされていた韓国のグループ「少女時代」や「KARA」の名はなく、韓国では「日本の歌謡界がKポップ(K-POP)歌手をけん制した可能性もある」との見方が出た。
 日本の芸能界では2010年、韓国から進出した「KARA」と「少女時代」が独特の振り付けなどで話題を呼び、オリコンランキングでも上位に登場するなど活躍した。韓国では「ガールズグループの快進撃」を連日報道、紅白への出場にも期待を寄せた。予想でもたびたび両グループの名前があがっていたため、「ほぼ確実」との見方が強まっていた。
 しかし結果は、Kポップ歌手はいずれも、紅白出場を果たせなかった。韓国では複数のメディアが「なぜ?」と、理由を分析した。出場枠の削減による競争の激化なども理由に挙げられたが、「Kポップの人気が高まり、日本の歌謡界がけん制した可能性がある」との主張も出た。
 韓国の芸能関係者は「日本の歌謡界がKポップの狂風に、ある程度の危機感を感じたのは事実」、「国内最高のイベントの紅白歌合戦をめぐり、自国の音楽を守ろうとするけん制の動きがあった」などと分析。日本での活動成績と人気を勘案すると、「紅白に、問題なく出場できたはず」と主張した
 韓国メディアは「今年の紅白出場の圧倒的、最高の話題は、Kポップ・アイドルの出場だった」と論じ、除外されたことに「日本の歌謡界も驚きの雰囲気だ」と伝えた。(編集担当:金志秀)

韓国人にとって「紅白歌合戦」とは何なのだろうか。まるでノーベル賞の受賞を逃したかのような扱いである。
まず、ここに驚く。
韓国芸能人が“ケツ振りダンス”で「紅白」に出ようが出まいが、裏でどんな駆け引きがあったなんて話に、私は全く興味がない。また、小倉智昭が、こんなに韓国人歌手は売れているのに紅白に出ないなんておかしい、と言って激怒していたなんてこともどうでもいい。(この小倉の音楽評論家もどきの解説はウザいが……)、それに植村花菜の「トイレの神様」はフルコーラス歌うと長過ぎるから「それは許さん」と和田アキ子がイチャモンを付けたとかいったそんな話なんてのもどっちでもいいことだ。(ただし、植村花菜なんて来年にはいないんだから、和田アキ子の歌う時間を削ればいいんじゃね~という声には賛成する)

私の関心事は、韓国芸能人が、なぜここまで日本の「紅白歌合戦」に出ることにこだわるかということだ。
そして、なぜこのことが韓国内で大きな話題になるかということだ。


面白いのは、Kポップ歌手らが、日本のミュージシャンが全米進出を狙って英語の曲を歌うように、「日本語」で歌を歌い、必死になって覚えたであろう「日本語」をしゃべり、日本のバラエティー番組に出まくっているという点だ。
そこで、「日本文化」に溶け込もうとしていることに、気味の悪さを感じる。(または、そういう好印象を世間に刷り込もうというのが見えて、イヤな感じがするが……。まあそれでも、韓国語の歌を歌われるよりはいいが。)
これはインタビュー記事や出演番組を見ると分かる。(好きな食べ物に日本食を挙げてみたり、日本のファッションや文化を褒めまくってみたり、「日本のデパートはいい、韓国にはない」、といったことだ)
それに日本のマスコミ側も、韓国のテレビ番組で日本人に質問するような、竹島の問題や歴史認識の問題といった、政治的な質問を全くしない。まして、韓国は北朝鮮からの砲撃を受けて、「お国がそれどころではないだろうに」といった意地悪なことは言わない。(そういうことを訊けば面白いのに……。反日教育を十分に受けているのだから、嫌いな国に行って、金のためにケツを振って踊るのなんか「本当はヤダ」って本音が出るかもしれないのに)
韓国ネチズンらは、彼女らが、韓国の芸能界をほったらかしにして日本のテレビを優先させることに、怒っている、とういう話も聞く。
数十年前までの韓国は、「日本文化」は敵国の文化といった扱いで、国を挙げて「日本文化」の流入を禁止してきた。
それが、いまや日本の「紅白歌合戦」に出るか出ないかで大騒ぎしているというのだ。
不思議な国だ。
その辺を韓国人はどう思っているのか、訊いてみたい。

もし韓国に、紅白歌合戦のような番組があって、そこに日本の芸能人が出場するなんて話があったとしても、日本人は「ふ~ん」と思うだけでニュースにもならないだろう。
もしかしたら、日本で最近見ないと思ったら、そんなところで出てるの? と「都落ち」くらいにしか思わないだろう。
でも、「少女時代」や「KARA」は韓国でトップアイドルだという。
もし、日本のトップアイドルが、日本をほったらかしにして韓国へ行って、「韓国語」の歌を歌い、韓国に媚を売るような真似をしたら、どうなるだろうか。
ネットウヨでなくても、何かヘンな感じがするのではないか。
もうこの時点で「トップアイドル」ではない、と思うだろう。
でも、韓国人から見て、韓国芸能人が日本に来て活躍することは「トップアイドル」の証明になるのだというのだ。
韓国芸能人にとって日本は、日本のプロ野球選手がアメリカ大リーグに憧れるような、そんな構図なのだ。
となると、「少女時代」や「KARA」らは、日本のイチロー並の「英雄」扱いとなり、「紅白歌合戦」に出るということは、「大リーグオールスター」に出るくらいの価値があるということなるのだろう。
まさに日本が“本場”なのだ。
それに、「紅白」にはそれだけ「権威」があるということだ。(最近の日本人はそんなに感じていませんが)
繰り返しますが、「権威」とは「歴史・文化・伝統」の上に成り立つ。
「紅白」は、長い歴史と実績が積み重ねられ、すでに(日本)文化の一つとして認識されている。
「紅白」の権威はこれによって裏付けされているのだ。


韓国芸能人にとって日本進出が一つのステイタスアップ・格上げの一つになっていることは間違いない。

そこには、隠された「日本への憧れ」や「(芸能)文化的には、韓国よりも日本の方だ」と自ら認めていることに他ならない。
アジアの音楽祭が中国で開催されるというが、彼女ら韓国POP歌手は出場を辞退したという。
中国で開かれる音楽祭よりも、日本のフジテレビのFNS音楽祭やテレ朝のミュージックステーションの特番を選ぶくらいだ。
これは、韓国芸能人が、日本を“本場”だと考えていることの証拠だ。(だから「紅白」に出してもらう、出してもらえない、といったことで大騒ぎするのだ)
裏を返せば、韓国にはこういった芸能の「権威」にあたるものがないということだろう。
経済成長でカネはあっても、アジア大会で日本より金メダルをいくら取っても、おばさん好みの韓流ドラマをいくら作っても、そこには「権威」というものがないのだ。

権威は、長い歴史と伝統と文化の上に成り立っている。
「芸能・文化に関する権威」が、韓国にはないが日本にあるということではないのか。

しつこいが繰り返す。その「権威」は歴史と伝統と文化の上に成り立つ。
福沢諭吉はこの権威を「尊皇論」の中で、ダイヤモンドと石ころの差、古木・銘木と普通の木の差に例えてこれを説明している。現代語訳1現代語訳2現代語訳3

日本はこの「文化と歴史と伝統」=「権威」を守ってきた。

その「歴史や文化や伝統」を日本帝国軍に壊されたと朝鮮人の彼らは口ぐちに云う。
だが、その権威を求めて、かつて敵と見なした国にやってくるのだ。
卑猥なダンス(ケツを向けてくるのは発情したメス猿がする行為だ)や場末のストリップのような踊りを見せるために……。


さて、長々と書いた。
結論は、日本には「文化と歴史と伝統」があり、それを昔からずっと守ってきたということ。
それがいま、「権威」となっているということだ。

中国4000年の歴史などというが、あれはウソだ。
中国は「文化大革命」で、自国の歴史と伝統と文化を自己否定し、自ら破壊した。結果的に彼らは彼ら自身で国の権威を貶めてしまった。
だから、「孔子さま」、「伝統的な古典演劇・京劇」なんてまるで長い歴史があるかのように、いまさら広言しているが、信用してはいけない。文化大革命で真っ先に攻撃対象として、徹底的に抹殺しようとしたものを、いま国の「歴史・文化・伝統」の象徴としているのだから。
そんな国に歴史・伝統を語ってほしくない。過去記事

左翼思想は「現実の秩序や伝統や歴史を否定し、これを憎悪する思想」であり、「権威」というものを破壊することを目的とする。
平成21年に出された放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会のバラエティー番組への意見書の中にこんな一文があった。
「(バラエティー番組の功績として)古い秩序や権威を笑い飛ばし,いま世の中を窮屈にしている常識や社会通念を揺さぶって,人々に新しい現実を見せ,新しい感受性に目覚めさせてきた……」
なぜ権威を笑い飛ばすことがいいことなのか、まるで分からない。(BPOがこんなことをいうくらいだから、今のテレビ番組が下品で、卑劣で、非社会的なものばかりが作られるようになる。)
むやみやたらに権威を笑い物にすれば、それは何でもありの風潮を作り出し、秩序のない世の中になる。今の日本社会を見れば分かるだろう。
「権威」を汚し、壊滅させようという社会こそ、中国で起きた「文化大革命」と同じである。

繰り返す、「権威」は「歴史・文化・伝統」の上に成り立っている。
それは、一日、二日で出来るものではない。長い時間をかけて作られていくものだ。
しかもそれは、一度壊せば、元には戻らない。
まして、他の国にはないものなのだ。
この権威に憧れ、人はここにやってくる。(韓国芸能人のように)

この権威を守ることが、日本を守ることになる。
長い歴史を誇る日本には、他にも多くの「権威」があるはずだ。
今回の「紅白歌合戦」なんて些細なこと一つ取って見ても、そこには韓国芸能人が憧れるような権威があるということだ。

そう、もっと日本を象徴する歴史・文化・伝統、権威があるではないか、ということ。
そこを守ろう。
それが、国の威信となり、日本を守るのだ。
過去記事、ここにつながります。


三島由紀夫の「文化防衛論」を極めて単純化し、ごくごく簡単に説明するとこういう風になると思う。
だから彼は、中国で文化大革命(歴史・文化・伝統・権威の破壊)が起こったとき、真っ先に反対声明を出している。
日本にこのようなことが事態が起こらないように……。

過去記事と、結局、最後の結論はここに戻ってしまう。

 | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

11 | 2010/12 | 01
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  └ 月別アーカイブ
        └ 2010年12月
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。