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テレビ朝日の捏造・偏向報道はお家芸なので今さら驚きませんが……。

AFCアジアカップ2011 カタール大会の日韓戦も良かったですが、相変わらず、日韓戦は場外乱闘も面白いですね。
浅田真央・キムヨナとか、WBC・ワールド・ベースボール・クラシックで韓国の選手がマウンドに太極旗を立てたとか……。
(過去記事1過去記事2)
今回の韓国の奇誠庸(キ・ソンヨン)による「サルまね」問題なんて笑ってしまうような話だが、まあ、こういった騒動も、日韓対決に付き物の恒例行事みたいなもんです。

さてさて、それにしても「テレ朝」って、いつも通りやってくれましたね。

「旭日旗映像は別試合のもの」 テレ朝が謝罪 (J-CAST)
サッカー日韓代表選の韓国選手による「サルまね」問題で、その発端と指摘された観客席の旭日旗映像を巡り、テレビ朝日が日韓戦のものだと紹介したのは全く別の試合の観客席映像だった。テレ朝は2011年1月28日、情報番組「ワイド!スクランブル」で「お詫びして訂正します」と司会者が報告した。

問題の映像は前日の同番組で放送された。韓国のテレビ局が紹介した観客席映像を写真パネルにして、「旭日旗」部分に丸印をつけて「この部分です」などと紹介していた。しかし、実際には、10年6月のサッカーW杯南アフリカ大会の日本対オランダ戦の映像だったと説明した。
2011年1月28日

http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/n_tv_asahi__20110128_2/story/20110128jcast2011286761/
ほんと、テレ朝、朝日新聞の反日捏造報道は「お家芸」なので今さら驚きませんが……。それにしても、どれだけ「朝鮮」びいきなのか。

ちょっと、テレ朝とサッカーがらみで思い出したものがあったので、書き起こしてみました。
明石散人「アカシックファイル 日本国大崩壊」(講談社文庫)から
(明石氏と秘書・村上の会話という形式の本)

「今回のサッカーW杯における韓国は、何の手順も踏まずにいきなり日本の国家主権を蹂躙し、日本側はその意図するところを充分知りながら泣き寝入りだ。韓国は強硬に押せば日本が屈服すると、端から舐めきっていたとしか思えない」
村上の目の前にサッカーW杯期間中の朝日新聞をぽんと投げ出すと、村上が「やっぱり」という顔をした。
「これはサッカーW杯の公式ポスターに使われたものですね。実を言うと、私もこのポスターに疑問を感じていたのですが、明石さんがこの問題に一言も触れなかったので不思議でした。それでサッカーW杯も終わって過去のことになりましたから、今日は敢えてW杯のことを話題にしようと思って……、これってやっぱり変ですよね」
村上は最後の方の言葉を一つ一つ噛み締めるように言った。
「変どころじゃない。もう常軌を逸している。これを受け入れた日本サッカー協会の長沼・岡野コンビは狂ってるよ。長沼・岡野両氏だけじゃない。このことをジャーナリズム、政治家・文化人は軽く考えすぎた。とにかく、大東亜戦争以後の現代世界史の視点から観察しても、これほどの侮辱行為を他国に強要した国はないし、こんな屈辱を受け入れた国もない」
「日本サッカー協会は統一ポスターとしては一種類しか認められないので、日本国内でのロゴもKORIA JAPANとなっても止むを得ない、こんな説明をしてましたけど……」
「それは理由になってないよ。この屈辱ポスターの成立過程、そして結果的に日本国内のポスターまでがKORIA JAPANとKORIAが先になるようなことを長沼・岡野両氏が『止むを得ない』程度の理由で認めたのだとしたら、これはもう国家主権の定義すら知らない馬鹿コンビしか言いようがない。だいたい、最初に発表されたポスターはちゃんとJAPAN KORIAだった。無論、JAPANの文字の色は所謂ジャパンブルーの青で、KORIAは赤だ。それが、韓国側のクレームで差し替えられたポスターになると、驚いたことにKORIAのスペルにジャパンブルーが使用され、JAPANが韓国色の赤になっている。韓国側はあのW杯ポスターに『韓国は日本を制圧し、日本は韓国の手下になった』と手を叩いて喜んだそうだ。日本でやるのに相手国の名前を先に出すような国がどこにある! あのアメリカでさえ、日本国内で二国間を呼称する時は日米安保条約、日米首脳会議等とするし、日本政府に対してアメリカの名をなんて強要しない。中国の江沢民にしたってそうだ。日本が日本国の立場で日中友好条約と呼称することにいちゃもんなんかつけないよ。そもそも自国の名を先にするのは当たり前のことであり、そこに干渉するのは二国間が植民地以下の関係にあるという以外ありえない」
「でも明石さん、テレビ朝日のニュースステーションなどはKORIA JAPANどころか、日本語で『韓日共催』を連呼し、画面左下に出るW杯キャラクターには『韓日君』という名前までつけていましたが」
「W杯期間中のニュースステーションは常軌を逸していたよ。久米宏さんといえば日本を代表するジャーナリストと認識されている。その彼が韓日共催だの韓日君だのと何の疑念もなく連発しているのを見れば、大概の視聴者は他国名を先に呼称することを普通のことだと思ってしまう。あのニュースステースョンの姿勢には言葉がないよ

村上が溜息を吐きながら大きく肯いた。
「さすがに、あそこまでいくとどうかと思いますね。百歩譲ってKORIA JAPANが統一名称だとしても、何も日本語まで『韓日』と韓国名を先にするのはおかしいですよ」
恐らくテレビ朝日か朝日新聞の大幹部が久米氏に『韓日』とするように指示したのだろうが、いくらなんでも受け入れる久米氏も久米氏だ。一日座ってギャラは500万円だという噂もあるから、金のためなら何でもありの拝金主義商業ジャーナリストの典型ってわけだが、臆面もなくあそこまでやると、もう怒りを通り越して笑うしかない

とこんな感じで、この後に、日韓W杯は実のところ韓国主催で日本はサポート国であって共催ではないといったことや、国際柔道連盟の会長が韓国人であったことなどに触れて、韓国の国家戦略にまんまと乗せられている日本を散々嘆いております。

さて、こういうのを見ても「テレ朝」「朝日新聞」が韓国・朝鮮に肩入れして、捏造報道するのは昔から行われていることが分かりますね……。
気を付けないといけません。
偏向報道の過去記事
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新田一族の本拠・群馬県太田市出身の森田あゆみ選手を応援しょう! 

もっと森田あゆみ選手のことを報道してよ!!

森田が金星!ストレート勝ち/全豪テニス
<テニス:全豪オープン>◇2日目◇18日◇オーストラリア、メルボルン・ナショナルテニスセンター◇男女シングルス1回戦
 世界74位の森田あゆみ(20=キヤノン)が全豪初勝利を金星で飾った。第27シードのアレクサンドラ・ドゥルゲル(21)に6-4、6-4の1時間24分でストレート勝ち。4大大会対シード選手6度目の挑戦で、初めての金星につなげた。
 森田は、フォアハンドが好調で、攻守がかみ合い、ドゥルゲルとの打ち合いを制した。第2セット4-1から4オールに追いつかれるも「これまでの経験で学んだ。ゼロからスタートすればいいと思えた」と気持ちを切り替え、そのまま難敵を振り切った。<2011年1月18日 日刊スポーツ>


森田あゆみ選手が海外で活躍してもマスコミ報道されることは少ない。同じテニスでも、クルム伊達公子や錦織圭のことばかりに注目が集まるのは仕方ないとしても、今や日本女子テニスを代表する選手となった森田あゆみをもっと取り上げてもいいんじゃない。

過去記事 北京オリンピック代表・森田あゆみ選手は太田市出身。ということは……。

さて、その森田あゆみは、群馬県太田市出身だ
平成20年8月6日、読売新聞群馬版から
森田選手2
私の好きな記事はこれ。まさに新田一族の家紋「大中黒」(太田市の市章)を手に持つ姿。
もうこれだけ、応援してしまうのだ。
ということで、全国の新田一族、新田一門の末裔の方々、新田氏・南朝関連の神社の方々、新田氏家臣の末裔の方々、児島高徳、三宅氏末裔の方々、新田一族ファンの方、森田あゆみ選手を応援しましょう。

それにしても、同じ群馬県太田市出身の斎藤佑樹の報道は少し異常じゃありませんか。
こういった加熱報道を見れば見るほど、私の応援熱は下がっていくような気がするのですが……。
そして、彼の地元愛も薄れているような気がする。ちと最近複雑な心境なのだ。

マイケル・サンデルか池田信夫か、どちらが正しいのか? 大震災のときだけコミュニティーの大切さを問うのでは意味がない。

私の住む町内では、数年ごとに町内会や育成会の役員が持ち回りでやってくる。
当然、我が家にもその順番は回ってくるのだが、これが結構、面倒くさい。
「やれ、夏祭りだ」「廃品回収だ」「夏休みのラジオ体操だ」「登下校の見回りだ」などなど、とにかくやることは沢山ある。
その度に、出向かなければならないのだ。(まあ、私は仕事にかこつけて、奥さんに任せているときもあるが……。)
だが、そこで、近隣の方々とコミュニケーションを取ることになる。
「あそこの婆さん、腰が悪くって入院しているんだと」「あの息子さんいま東京の○○会社へ行ってるだって」「上の子は来年小学校、あっ腹の子は春には生まれます」……。そんなよく見かけるご近所のコミュニケーションだ。
しかし、こういうのが大切なんだな、と思うようになった。こういった小さな交流の積み重ねが、地域のコミュニティーを形成していくのだな、と感じたのだ。そうなれば、煩わしい「町内会」も「育成会」も地域コミュニティーにとって必要なのだと気付いた。(そこで「神社」の役割・重要性が出てくるのだが、これはまた別の機会で)
世間では「無縁社会」「消えた高齢者」「幼児虐待」……。地域のコミュニティーがもう少し活発であれば防げたのではないか、ということをよく聞くようになった。
地域コミュニティーの大切さは、こういったことに身を持って参加して初めて気付くことなのだろう。いくらテレビや新聞の報道を見聞きしても、それはなかなか分からないことかもしれない。


さて、遅ればせながら最近、マイケル・サンデル教授の本を読んだり、撮りためていたNHKの「ハーバード白熱教室」を見たりしている。
マイケル・サンデル「ハーバード白熱教室」

これについてまとめて見ようかと思ったら、読売新聞にいい記事があったので、書き起こしてみた。
平成23年1月11日 「日本の改新 第一部 識者に聞く マイケル・サンデル」

「無縁社会」の話をしよう
日本の孤独死や不明高齢者の問題は、痛ましい悲劇だ。コミュニティーの喪失がもたらしたいえよう。「無縁社会」の原因は何か、自問する必要がある。原因のひとつは、現代の市場主義がもたらした豊かさだろう。それに極端な個人主義が加わり、社会の結束に課題を投げかけている。現代社会の道徳的な側面について、国民的なディベート(議論)を起こすことが第一だ。個人個人の責任について、道徳的にしっかりしたディベートなくして、コミュニティー侵食の裏に潜む問題に対処できない。
日本ではこの数十年で貧富の格差が拡大した。医療や教育、老後の介護を受けるのが困難となっている。市民としての義務は何か。我々は若者や高齢者にどんな義務を負っているのか。こうしたディベートは避けて通れない。
一つの正しい解答が得られるか、保証はないが、やってみなければわからない。開かれたディベートにより、他者の視点をもっと知ることが出来る。ディベートとは、お互いを尊敬し、相手に耳を傾け、共通点を見出そうとすることだ。
核家族化や若者の大都市思考は手ごわい問題だ。お年寄りの面倒を見られる大家族がなくなり、若者も大都会に出る。コミュニティーが高齢者に対して責任を共有できる、新たな仕組みを作る必要がある。解決策は地域ごとに異なるだろうが、コミュニティーが「共通善」とみなしたものでなくてはならない。
都市型の生活で、核家族化を無理に阻止するのは不可能だし、望ましくない。代替案が必要だ。市民社会が手がけるのが理想だ。宗教的な共同体が担う場合もあれば、町内会が担うこともあろう。国家が支援できるが、国家に完全に頼ることは難しい。かつて大家族が担った役割を果たすには、市民社会から発生したものが好ましい。
古代ギリシャの哲学者アリストテレスは正義と「善き生」のつながりを重視した。善き生とは、市民が美徳を育んでいける生き方だ。美徳は、市民が個人としてだけでなく、共に生きることによってはじめて育まれる。
これは個人の自律を第一と考える立場と緊張関係にある。ドイツの哲学者カントが唱えた自律的な行動を重視する考えは、非常に強力な視点だが、伝統的なコミュニティーとは相いれない。現代社会において、カント的な思想とどう折り合いをつけるか考えることも重要だ。
日本でのディベートでも、伝統的、歴史的な価値観についての考察が出発点になるだろう。だが、それだけでなく、伝統に根ざす価値観をどう現代に生かすかについても考えなければならない。
コミュニタリアン(共同体主義者)にもいくつかの立場があることを説明したい。その保守派は、コミュニティーが尊重する価値を絶対視するが、私はこれではいけないと思う。別のコミュニタリアンは、伝統や歴史の価値を重視しつつ、疑うことを容認する。コミュニティーが持つ価値は非常に重視だが、本当にそれでいいのかと絶えず問い続けることが大事だ。
ディベートでは、人によって異なった結論を導き出し、意見の不一致が浮き上がることもある。重要なのはディベートを通して、大きな哲学的な考えや、価値観を明るみに出すことだ。
地球規模の課題が増えている今日、ディベートを通して他者の考えを知ることの重要性は一層増している。例えば地球温暖化問題。各国の間で、危機感は一様ではないし、温暖化対策の負担はどうしたら公平に配分できるかについて意見は割れている。それでも未来の地球、未来の世代のことを考えて、何ができるか議論することが大事だ。
ディベートは、同時に様々な場で並行して行われるべきだろう。ひとつは大学だ。私が東京大学を訪れた時、安田講堂び1100人が集まり、3時間にわたってハーバード大と同じようなディベートを行った。
私の日本の友人は、「日本の学生は恥ずかしがり屋で議論したがらない」と言ったが、ある学生は「我々は新しい世代だから、議論をしたい」と言ってくれた。日本の若い世代には、哲学的な問題について、ディベートをしたいという渇望と意思が間違いなく存在する。ささやかなディベートする機会をもっと作ってほしい。大衆の興味や関心をあおるタブロイド紙的な報道では、ディベートの場を生活の中で作ればいい。
メディアにも、論理を真剣にディベートする機会をもっと作ってほしい。大衆の興味や関心をあおるタブロイド紙的な報道では、ディベートの中心となるべき倫理問題から大衆の目がそられ、公共の重要な問題が置き去りにされてしまう。インターネットのブログでも、どうでもいいゴシップが幅を利かせる傾向が強まっている。
社会正義や平等、富の公正な配分、貧富の格差、家庭やコミュニティーの浸食、政府のあるべき姿といった重要な話題に正面から取り組むのがメディアの役目だ。

聞き手 ニューヨーク支局長 吉形祐司
道徳、正義、お年寄りへの思いやり。サンデル氏は、私が子供の頃、地域や学校でよく耳にした言葉を何度も耳にした。今の日本を顧みて赤面した。サンデル氏が「無縁社会」の解決策を示してくれたわけではない。ディベートを提唱することで、日本社会と日本人に対して「解を求めよ」と迫ったのだ。

コミュニティーの再生を重視するマイケル・サンデル教授の考え方について、小林正弥・千葉大学法経学部教授に解説してもらった。

コミュニタリアニズムの立場には、二つの重要な軸がある。一つ目として、サンデル教授は、正義などの公共的問題を考えるときに、善などの倫理的・精神的なものが大事だという。善き生、善き生き方の問題を論じながら公共の重要な問題は議論できないと述べる。二つ目は、サンデル教授も強調する共通性、共同性を重視する。一方で善、一方で共通性。両方合わせると、「共通善」というアリストテレスに始まり、サンデル教授が常に強調している考え方が出てくる。
共通善こそ、コミュニタリアニズムの考えの中心になっている。サンデル教授は、米国でも、市場経済発展に連れ、コミュニティー(地域社会)、共同体が弱体化したという。個人の権利を重視するリベラリズム(自由主義)が制覇した反面、官僚制と市場主義がどんどん大きくなり、自己統治ないし自治の場であったコミュニティーが衰弱してしまう。これが、今日の民主主義政治の問題だという。教育のあり方、福祉のあり方など、市場原理だけで考えるべきではないことまで、すべて市場原理で決まってしまうことを教授は批判している。
日本のようにもともと共同体が強かった社会でも、市場経済の発展の結果、米国と同じことが起きている。高齢者行方不明、幼児虐待、無縁社会といった問題は、日本社会で、家族、コミュニティーの崩壊、弱体化が深刻になっていることを映し出している。
家族、コミュニティーの弱体化を前にして、道徳的な保守派であれば、昔の共同体を復古させ、昔の家族のあり方を取り戻す必要があると論じ、政府はそのための法律を作るべきだと主張するだろう。しかしサンデル教授は、単純に昔に戻れという議論はしない。時代は展開するので、その中で、新しいコミュニティーの形を見いだしていくことが大事だと考えて、そのための議論を呼びかける。そして、米国なら米国の、日本なら日本の文脈で議論していくことも重視する。
日本では戦前、神道、儒教の考え方が道徳の基礎にあった。これが戦後、否定され、伝統的な宗教の弱体化が道徳性や精神性の喪失につながっている。これを埋めていくことが社会全体として求められる。サンデル教授は、アリストテレス以来の美徳の促進を正義とする考え方を提起しながら、今、どういう共同体が可能か議論している。日本では、日本の伝統、東洋の伝統も踏まえて議論することが大事だろう。

ふむふむ、なるほど、なるほど。
私のささやかなコミュニティー参加から得た考えを、文章にするとこういう風になるのだろう。
私のように教養も文章力も足りない人間は、自分の意見を代弁してくれる言葉を、先人や賢人の中から見つけ出すことが重要となってくる。問題はそれが見つかるかどうかだ。だから自分の意見に合うものが見つかったときは、それを全面的に支持することになる。(私の場合、福沢諭吉とか三島由紀夫とか新井白石とか)
そういったことで、私はマイケル・サンデルの「コミュニタリアニズム(共同体主義)」に賛同する。

さてさて、その一方で、「無縁社会」に関する記事で、身震いするほど恐ろしいものを読んだ。
池田信夫の記事だった。
一部引用。全文は元サイトで。http://news.livedoor.com/article/detail/5253964/

……そして誰もが、最期はひとりで死ぬ。死ぬときは無縁であり、コミュニティなんて幻想にすぎない。人生が幸福だったかどうかは、死ぬとき「あれをやっておきたかった」と思うか、「やりたいことはやった」と思うかではないだろうか。その意味では、もう朽ち果てるしかない日本型の有縁社会を延命することは、人々を不幸にするだけだと思う。

これを読んだときは背筋が震えるほど怖い考えだと思った。そして真っ先に思ったのは、福島瑞穂の「家族解散式」だった。基本は同じ。これを社会主義というのではないか。
論理的に難しいことは私には書けない。しかしこういった考えが、人間社会を真っ向否定しているのではないかということを、本能的に感じるのだ。
これはどんなホラー映画よりも怪談話よりも、恐ろしいことだ。
こんな人だから、「共通善」「共同体主義」「コミュニティー重視」のサンデル氏を取り上げても、ひどく貶している。
アリストテレスの引き写しだとか、新しいものなど無いとか。
だが、人間社会の根本に関わることに古い論理も新しい論理もない、そう思う。
で、池田信夫の他の記事を読んでみた。
「古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムをつくるしかない」「日本人が苦手な英語を勉強して「国際化」するより、移民を自由化して東京を国際都市にするのが早道である。 」「関西は独立しろ」「子育ては人生の浪費」……。
どれを読んでも受け入れらないものばかりで、私は池田信夫とは全く合わないようだ。(あくまでも私の主観の問題であり、賛同する人は支持すればいい)
私にはこの人を持て囃す理由が分からない。

また、ラジオ文化放送「吉田照美のソコダイジナトコ」では、吉田と評論家・内田誠が「大学生の就職難」について語っていたとき、「若者には家族や社会のしばりがあるから……。昔だったら学生運動とかで爆発させていた。今の学生はそんな力もない」ウンヌンカンヌンいろいろと喋っていた。
何なのだろうか。
社会も家族も個人を縛るものでしかない、と思っているのだろうか。
こういう行き過ぎた個人主義こそが、まさに上記サンデル教授が指摘するところだ。

池田も吉田も内田も福島もみな同じ年代。つまり団塊世代からシラケ世代と言われる世代なのだ。
学生運動に憧れた世代。つまり、かつての日本の善きあったものを旧弊・悪弊と見なし、排除・批難することをカッコいいと思っている年代。地域コミュニティーを破壊して良しとし、やたらと己のみを顕示して、個人主義を崇拝をする世代。そんな戦後民主主義教育をサヨク教授からたっぷりと仕込まれた世代なのだ。
世代論は好きではないが、やはりこういうのを見ると「この年代」が他の世代から非難されるのはよく分かるというものだ。

随分と横道に反れてしまった。
この辺で本題の「地域コミュニティー」のまとめ。
平成23年1月18日付・読売新聞の社説から。

阪神大震災16年 地域の絆で防災力を高めたい
 阪神・淡路大震災から16年の17日、被災地では「鎮魂」の灯(あか)りがともされた。大震災の様々な教訓を生かし、地域の防災力を高めることが、何より急務である。
 地震や風水害への備えは十分だろうか。地域や住民の取り組みを国や自治体が支えるとともに、広域に及ぶ応援体制を強化する視点が欠かせない。
(中略)
 孤独死や行方不明高齢者が相次ぐ「無縁社会」が問題になっている。万一に備えて地域の絆を深めておかねばならない。行政による「公助」と住民の「自助」、そして双方が支え合う「共助」の意識を高めることが、大切だろう。

人は何か大きな問題が起こらないと、何が大切なのかに気付かない。
こういった大きな災害になって、初めて地域コミュニティーの重要性に気付く。
でもそれでは遅い。
普段から、地域コミュニティーに参加すること、人の縁を大切にすること、それが大事なのだと意識すること、単純だが、これに尽きる。

だから、池田信夫のように「そんなの面倒臭い、いらねぇ、子育ては人生の浪費」、吉田照美や内田誠のように「家庭や社会は個人を縛るもの」、福島みずほのように「子どもが大きくなったら家族は解散する」などと言っている人たちは、地域コミュニティーや人の縁の必要性がないのだから、災害があっても助ける必要などない。

食文化って大事だとつくづく思う。

先日、会社からの帰宅途中ラジオを聴いていたら、若い女の子たち(アイドルグループか声優さんたちか分からんかったが3人くらいだった)が、やたら「ベトナム料理が美味しい」といった話をしていた。
「フォー」だとか「香草のスープ」だとか「ライスペーパーの春巻き」だとかいったことで延々と「ベトナム料理」についてワイワイと喋っていた。最後には「行ってみたいよね、ベトナム」「うん、うん、行こう!」なんて感じで盛り上がっていた。
彼女らにとってベトナムは「憧れの国」なのだ。
私はおっさんなので、「ベトナム」なんて聞くと、「ベトコン」や「べ平連」、映画「フルメタルジャケット」なんてものを思い起こしてしまうが、いまの若い子は「ベトナム」というと美味しい料理を思い浮かべるようだ。ベトナム戦争といったマイナスのイメージなんて消え去っているのか、いや、まるでそんなこと自体がないかのようだった。
「食」というものはその国のイメージを良い方向に向かせる作用があるらしい。
実際に国際交流も「食」から入ることが多いというし、中国も韓国も嫌いだという人に、「じゃ中華料理や韓国料理食わないのか」と突っ込まれて、「いやそこは認める」といった人もいた。

その国の料理のファンが、その国そのもののサポーターになるといったこともある。
おっと、これは過去記事「アニメは日本文化を救えるか  第5回 こんな時代だからこそ、海外で日本文化を広めて日本ファンを増やそう。切っ掛けは「タイ焼き」から?……。」と同じような内容ではないか。

こんな何気ないラジオ番組の駄話でも、「食文化」というものは大事なんだな~とつくづく感じたのだった。

さて、ここで引用。平成23年1月12日 日経流通新聞から。

インドで日本食普及へ
経済成長に伴い肥満や健康不安が社会問題化しているインドで、ヘルシーな日本食を普及させようと奮闘しているビジネスマンがいる。日本食輸入商社マイド・インディア(ムンバイ市、ハリー・チェン代表)のディレクター、アヌジ・ジョダニさん(23)だ。日本の大手食品メーカーの商品をインドの小売店などに積極的に売り込み、売上高は順調に増加。日本とは全く異なる食文化を持つインドでも日本食は「富裕層の間で確実に広がってきている」と手応えを感じている。
ムンバイの食品スーパーの一角にはエスビー食品の練りワサビ「WASABI」やキッコーマンの「特選丸大豆しょうゆ」が並ぶ。
それらを卸しているのが2007年設立のマイド社だ。現在ではムンバイのほか、デリーやハンガロールなど30ヵ所の小売店で50~60アイテムを扱うまでになった。
マイド社は日本のマーケティング会社、ラディッタ(東京・港)の子会社。マイド社で実務を取り仕切るのがアヌジさんだ。スキニータイプのジーンズをはき、高機能携帯電話「アイフォーン4」を愛用する普通の若者だが、日本への思いを語る時は目の色が変わる。
インド人は宗教上の理由でベジタリアンが多い。彼らは動物性たんぱく質を摂取しない代わりに糖分や油分でカロリーを取るため、所得向上が著しい都市部を中心に肥満が増えている。アヌジさんはそんな“現代病”にビジネスチャンスを見出した。
例えばみそ。10年10月には、ますやみそ(広島市)と組み、パッケージを英語表記するなど初めてインド向け商品を投入した。2ヵ月で300個を販売するなど上々の出来で、「日本から食品を輸入すると関税などで割高になるが、それ以上の価値がある」とみる。
目下、ムンバイの高級レストランに朝食を調理するシェフを派遣するサービスなど事業の多角化に挑んでいる。インド人の若者の挑戦は続く。

なるほど、インドでわさび、醤油、味噌か。これは面白い。
それも、すべては日本ファンのインド人が始めたことだ。
韓国人に納豆、ロシア人に日用品、中国人に炊飯器が売れているというのは過去記事で紹介しましたよね。(過去記事)
日本を売り込めといって「原子力発電」や「新幹線」といった大型プロジェクトばかり注目されるが、実は、こういう地道な活動の方が「日本ファン」を増やすことになるのではないか、と最近とみに思うのだ。
ここ数年、当ブログは「日本文化を世界に広めることが日本を救う」という趣旨で書き続けている。
「日本文化」を高めることこそが、日本再生のカギになると信じているからだ。
詳しくは過去記事で。
「日本文化」を売り込むことが閉塞感の打開策になるのでは……。
「こめ」「弁当」「おにぎり」で「文化防衛論」
「こめ」「弁当」「おにぎり」で「文化防衛論」。「サマーウォーズ」と「エヴァ」と「コボちゃん」
などなど。

ラジオ番組の若い女の子が「食」から、その国に憧れるように、日本も食文化を広げることが「日本ファン」を増やす。
これが「日本を救う」と思う……。

これあとでつながります。

日本の漢字は「クロスカップリング」

【韓国】民法、「ハングル化」へ 日本式の漢字語できるだけ削除し、来年3月めどに国会に提出 という記事を読んだ。
韓国が漢字を排除してハングル文字化しているというのは今に始まったことでない。ただそれによって韓国の思考能力がかなり低下しているという話はよく聞くところだ。
そして、韓国からノーベル賞受賞者が出ないのはその所為だということもよく言われる。(ただし怪しい平和賞だけ一人いるが…)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1339650548
この件で検索すると結構出てくる。韓国でノーベル賞受賞が出ない理由として「言語」「漢字排除」を挙げるものは多い。

なぜ韓国から学術分野のノーベル賞が出ないの?
日本の新聞はまだ一日に二度、朝刊と夕刊を発行する。朝刊40ページのうち、5ページの下段は冊広告だ。冊広告は1面から始まって5面まで配置される場合が多い。最も高い1面広告は本、それも堅い専門書籍の広告で埋めるのがほとんどすべての日本の新聞の長い伝統だ。
読者が朝、新聞を開いて初めに目にするのが広告だ。真剣な気持ちで一日を始めることになる。
世界で世論形成に新聞が最も大きな影響を及ぼす国は日本だけであろう。
最近の世論調査を見れば日本人の漢字の実力(漢字力)が強くなっているという。日本の小学生の漢字力は韓国の大学生よりはるかに優れている。韓国の学生たちは慶州遺跡の説明をまともに読めないが、修学旅行に来た日本の小学生は漢字が混ざった説明文を読んであらましを察する。
1945年、日本を占領統治し始めたマッカーサー司令部は一時、日本人たちの軍事的伝統を抹殺するため、学校から剣道など武道教育を禁止させた。漢字を廃してアルファベットを書くようにしようとする政策を検討してあきらめたこともある。
東アジアで漢字廃止運動は改革家と共産主義者などが最初に始めたが、韓国の場合は保守的な人々までこれに便乗、韓国語を半身不随にしてしまった。母国語を守れない保守は体制を守ることができない。 日本のメディア出版人は日本語を美しく育てるよう努力している。韓国のメディア出版人はハングル専用で母国語を毀損し汚し、(漢字)文盲率を高める先頭に立った。高級読書が不可能になった国からエリートが出るわけがない。韓国のメディア、出版人は結局自分たちの墓穴を掘ったわけだ。韓国と日本の水準差は母国語を大事にする報道人と母国語を亡ぼす報道人の差でもある。 国語は祖国だ。
<ニューデイリー(韓国語)2010/09/20 趙甲済(チョ・カプジェ)/チョ・カプジェドットコム代表>

まさにこの通り。 「国語は祖国だ」というのは藤原正彦の言葉そのもの。やはり自国語は大事ですね。
そして、小駒勝美「漢字は日本語である」(新潮新書)から。

親の名前を漢字で書けない韓国人
日本語の中に字音語が占める割合は、50~60パーセントと言われる。半分強、といったところだ。そしてそれよりも字音語を多く使っているのは韓国で、韓国語に占める割合は60~70パーセントである。
ところが、韓国では、漢字を訓読しなかったために、自国語と字音語を密接に関連させることができず、漢字は日常生活ではほとんど使われなくなってしまった。
日本語でいえば、すべて平仮名で書いているようなものである。
漢字を正しく書けない人は非常に多いそうで、これを憂慮する向きも多い。
韓国の新聞『朝鮮日報』が1999年2月11日付の紙面で報じたところによると、ある高校で3年生のひとクラス50人に両親の姓名を漢字で書いてもらったら、60パーセントにあたる30人が正しく書けなかった。また、新入社員教育に漢字能力評価試験を含めている某国営企業では、新入社員たちの平均点百点満点で40点程度に過ぎなかった。
<「漢字文盲」このままではだめだ>というタイトルと、<ハングル世代社会的意思疎通に支障>という小見出しを付けたこの記事は、「ハングル専用教育」を受けた世代が、社会生活の序盤から、漢字のために困難にぶつかる状況を憂慮している。
韓国では、1970年に朴正煕政権が普通教育での漢字教育を全廃した。中国の遺産であり、日本植民地時代の遺産でもある漢字を追放し、ナショナリズムを高揚させる狙いである。
したがって、40代を境目にして、それ以降の世代は漢字を使いこなすことができない。1998年に金大中大統領が「漢字復活宣言」を発表し、鉄道駅の漢字併記などを行う一方、学校でも少しは漢字を教えるようになった。しかし、それは日本における漢文の授業のようなもので、日常生活に直結するものではなくなっている。
いま韓国の街にはほとんど漢字は見られない。たまに漢字を見つけると、それは中国人や日本人の観光客目当ての看板である。

ということで、いま韓国は漢字学習に力を入れ始めているようだ。
平成22年11月11日 読売新聞 くらし・教育面「世界から 韓国」から。

漢字学べる漫画ヒット
日常生活では漢字をほとんど使わず、主に民族固有のハングルにより表記を行う韓国で、楽しく漢字を学べる小学生向け学習漫画「魔法千字文」が長いヒットを続けている。
主人公の孫悟空が冒険の途中、漢字の魔法を武器に悪者に立ち向かうストーリーだ。
敵が巨大なため自分を大きくしたい時は「大」、敵の攻撃をよける際は「避」などと叫ぶ。登場する漢字の意味を解説するページや、書き取り用のマスも用意されている。2003年の発売以来、18巻約1200万部が売れている。
日本と同じ漢字文化圏の韓国では、朴正煕(パクチョンヒ)大統領時代の1960年半ば以降、学校での漢字教育が制限されてきた。現在、小学校では教科書がすべてハングルで表記され、必修漢字もない。中学校、高校でも選択科目の漢文で教えるのみだ。
とはいえ、漢字語は韓国語の7割を占めており、漢字を知らなければ言葉の意味を正しく理解し、語彙力を高めるのは難しい。こうしたことから、版元の出版社「ブック21」の金永坤社長は、「漢字を習わなかった『ハングル世代』に懸念が広がり、『子どもに漢字を学ばせたい』という需要を生んだのでは」と分析する。
近年、漢字の本家、中国との結び付きが強まっていることや、「漢字ができる子は学業成績も良い」とのデータが発表されたことも、漢字学習熱を下支えしているようだ。
今夏、映画化され、来年5月からはテレビアニメとして放送されることも決まった。魔法の漢字は、画面に大きく表示される。<後略>(ソウル 仲川高志)

「漢字」能力を高めることが学習能力を高めることにつながる、ここに気づいたようだ。だが韓国国内はいまだ両論に分かれて対立しているらしい。

で、上記スレにはいいコメがかなりあって、なるほどと思ったのが以下のコメ。

漢字はそもそも普遍性が高いことからアジア周辺国で広く利用されたこともありますし、造語性が高いことや学術用語には向いている特性があります。
日本が一歩誤れば欧米の植民地化されそうだった19世紀になんとか政治改革を行い一斉近代化をおこなって明治維新をやり遂げたのは、漢字や漢語をうまく活用し西洋技術や思想をうまく吸収したことと、西洋文化の漢籍表現によって国内の幕藩体制維持派を説得できたこともありますね。

日本人のノーベル賞受賞者が多い理由に、自国の言語と漢字を上手く組み合わせて使っていることが(学術的)思考能力向上に影響しているためだ、ということを挙げる人はかなり多い。

では、漢字を使うからノーベル賞受賞者が多いというのなら、日本よりも漢字の本場・中国の方が多いはずだ、という反論の声もあるでしょう。
で、ここで再び、小駒勝美「漢字は日本語である」から引用。

漢字は日本固有の文化
……このような漢字人気は、もはやブームというより、面白くて奥深い漢字の魅力を改めて評価しようという気運が定着した、と見ていいのだろうと思う。
日本固有の豊かな文化である漢字を楽しもう、という意識が定着してきたのである。
そんなことを言うと、
「漢字が日本固有の文化だって? 漢字は中国で生まれたものではないか」という反論が聞こえてきそうだ。
たしかに漢字のルーツは中国である。今から三千五百年も昔の紀元前一五〇〇年頃、殷の時代に使われた甲骨文字が発掘されている。この甲骨文字は見た目にも素朴なものだが、詳しく調べていくとすでに高度に進化していることがわかった。そのことから、漢字はさらに古い時代があったのではないかといわれている。これが日本へ伝わったのは今から二千年ほど前、実際に日本人の手で使われるようになってからも千五百年ほどの年月が経っている。
しかし、現在、日本で使われている漢字は、長い歳月を経て、さまざまな日本式改良を施された、わが国独自のものである。中国にない訓読を駆使し、送り仮名という画期的な発明を加え、見事に日本語のなかに組み入れたのは、まぎれもなく日本の英知なのである。さらに、日本は和製熟語を作り出して漢字の利用範囲を大きく広げた。
一方、本家本元の中国で、漢字の字体を大幅に簡素化した「簡体字」が使われるのはご存じの通りである。学校で簡体字を教え、出版物でもほとんど簡体字を使って、伝統的な字体である「繁体字」は影が薄い。中国では、簡体字は繁体字からさらに進化した漢字である、と考えているようだがはたしてそうだろうか。
中国へ逆輸入された日本製の熟語も数知れない。正式国名である「中華人民共和国」の「人民」も「共和」も古典の中にあった言葉に日本人が新しい意味を与えた言葉なのだ。
これではもはや、生まれこそ中国でも、漢字は中国のものなどとはとても言えまい。
現在の日本の漢字は、アレンジとソフィスケィート(洗練)が得意な日本で豊かに育まれた、世界に誇れる日本の文化なのである。

日本人は、漢字をそのまま使ったのではなく、加工し応用し使い易いようにした。この独自のアレンジは、漢字に限らず「日本文化」の大きな特長といえる。文化は何でもその「分岐点」にある。詳しくは過去記事で。
また黒川伊保子「日本語はなぜ美しいのか」(集英社新書)から引用。

日本人の識字率はなぜ高いのか
音韻と文字の関係も、各国でさまざまだ。
日本語は、音声認識の一単位にカナ一文字を与えている。したがって、意味が分からなくても、聴き取れれば、書き取れる。中国語は、音声認識の一単位であるピンインに、複数の漢字がリンクしている。したがって、聴き取れても、意味を理解した上で漢字を駆使しないと書き取れない。つまり、日本人は数十のカナを覚えればなんとかなるが、中国人は四〇〇を越えるピンインに何千という漢字がぶら下がっていて、その体系を知らなければ、認字できないのである。
アルファベット文化の人たちは、音韻単位と表記単位が一致していないので、聴いたように記載しても文字記号にならない。また、文字を見たように発音しても、それが正しい発音だとは限らない。中国語と同じく、ある一定数の単語(文字列)を知らなければ、認字できないのである。
日本人の認字率が高いのは、幼い頃に、まず音韻と一致したカナ文字によって、気軽に文字に親しめるからだといわれている。やがて、発達段階に合わせてゆっくりと漢字を増やしていく。この方式だと、ほとんど落ちこぼれを作らない。

日本語は、漢字のみならず、ひらがな、カタカナ、外来語などを組み合わせによって成り立っている。もうすでに中国の漢字とは全く違う文化として発達しているのだ。そして、この複雑な言語の組み合わせ(カップリング)が、思考能力を高めることにつながっているといえるのだ。

ではここで、ノーベル賞化学賞を受賞した根岸英一さんと鈴木章さんの研究業績を見てみましょう。
平成22年12月11日 読売新聞から引用。

カップリングは「お家芸」
根岸さん、鈴木さんがノーベル賞を受賞した業績は、2種類の有機化合物を狙った部位でくっつけるクロスカップリング。高血圧の治療薬、抗生物質などの医療品のほか、液晶などの工業生産に大きな恩恵をもたらした。この反応で重要なのは、結合する部位につける目印物質と触媒に何を用いるかだ。クロスカップリングの発展は触媒と目印物質の検索の歴史であり、多くの日本人が支えてきた。
触媒は、自分自身は変化せずに、反応を促進させる物質。中央大学の檜山爲次郎教授は「お見合いの仲人のようなもの。カップルになる二つの物質とそれぞれ反応した後で、最終的に両者を結びつける」と説明する。触媒には、鉄や銅、ニッケル、プラチナなどの金属を使う。金属原子の中を飛び回る電子の動きが複雑で、反応が安定しないという性質が触媒に向いているからだ。
日本人が触媒を工夫し、クロスカップリングの礎を築いたのは、1960年代にさかのぼる。
〈中略 辻二郎のパラジウム触媒、溝呂木・ヘック反応、熊田・玉尾カップリング、薗頭・萩原カップリング、小杉・右田カップリングなどに続き…〉
88年に、ケイ素を使ったカップリングを開発した檜山教授は「日本が一流国の仲間入りをし、自信を持った時代、研究者も自分の好きな物質に惚れ込んで追求してきた」と、お家芸を支える層の厚さを指摘する。
この中で、2人にノーベル賞が贈られたのは、「亜鉛を使って、穏やかで扱いやすい反応を実現した」(根岸さん)、「(鈴木カップが)最も応用範囲が広がった」(鈴木さん)点にある。檜山教授は「異分野の研究者によるユニークな発想を取り込めば、クロスカップリング反応は、さらに多くの成果が期待できる」と話す。

お~、まさに、「クロスカップリング反応」とは日本の「漢字」のことじゃないですか。
日本の得意技は「組み合わせ」だ。
中国から輸入した「漢字」をそのまま使ったではなく、加工し応用し使い易いようにした。まさにクロスカップリングそのもの。言うなれば、日本文化の特性を生かした研究が「ノーベル賞受賞」を生んでいることになる。

ノーベル賞受賞者の数で国のレベルを計ることはできないかもしれない。
しかし、こういったところに、それまで培ってきた国・民族の特長は出てくるものなのである。
伝統・文化は一日では成らない。長い年月を経て形成されるものである。
これをあっさり捨て去ることは簡単だろう。
韓国が漢字を捨てたように、中国が文化大革命で自国の文化を破壊したように。
だが、それは失くしてしまったあとになって、大事なものだと気付くのだ。
でもそのときはもう遅い。

ノーベル賞化学賞や文学賞といったものは個人に与えられるものではあるが、やはりその受賞者が受けた教育・文化を色濃く受け継いでいることになると思う。
そして今回の受賞者は、まさに日本人の特性を生かしている。

こういうのを大事にしたい、と常々思う。

「日本の伝統・文化」を守りましょう。

なに~「やぎ座」は「保守」だと!

平成23年1月6日 読売新聞の下段書籍広告にぶち抜きで、石井ゆかり「12星座シリーズ・山羊座」(WAVE出版)という本が載せられていた。
私は「やぎ座」。
気になってこの新聞紙面の「やぎ座」の部分を読んでみる。

山羊座の人の多くは、芸術的な才能に恵まれています。五感が優れていて、すばらしい感性の持ち主です。「本物」を尊び、長い時間の流れに洗われてきた丈夫な価値を愛します。山羊座の人は伝統的な価値観を深く尊重します。文化財をまもることや古い伝統の美新しい命を与え続けることは、山羊座の人の「使命」のようになっています。今だけしか通用しないような薄っぺらい価値は、山羊座の世界にはまったくそぐわないのです。
(中略)
一般的には「努力家」「現実的」「地味」「慎重」などといわれる山羊座ですが、この暗いくすんだイメージは、実際の山羊座の人々にはほとんど当てはまりません。彼らは明るく、パワフルで、タフで、楽しむことに貪欲で、行動的で、活発です。

吹いた。
これじゃ「やぎ座」って、まさに「保守」じゃねか!

これが「使命」なのか。
ということで頑張ります。

2010年・平成22年の当サイトのまとめ。そして今後の方針。

毎年恒例の年間集計をしてみました。(2010年・平成22年度です)

これまでの総アクセス数が42万となり、2009年の同時期の集計では24万(2008年は10万)でしたから、去年からは見て、18万アクセス数が伸びるという結果となりました。
1日平均では、昨年の330から、500と非常に伸びました。

平均ブログアクセス数をまとめた「ブログに関する調査」のサイトを見ると、「1日の平均アクセス数が50以下のブログが8割以上」、「500以上のアクセス数は全体の2パーセント以下」とある。
当サイトは、商業サイトでも芸能人サイトでも人気ブロガーサイトでもない、完全な個人「自己満足」サイトであって、そのサイトが日平均500以上となっているので、アクセス数はそこそこ多いのではないかと思います。(まあ、これも自己満足です。)

さて、目安としている拍手数は、2008年までが903個、2009年までが2400個(1300個増)、2010年までが4000個(1600個増)となり、こちらも微増。
ただし、アップさせた記事数は昨年が192に対して、今年が145となり、こちらは、かなり数を減らしてしまいました。更新頻度は下がっているのに、アクセス数と拍手は増えたという結果になった。
では、その分、質が上がったのか、良質な記事が増えたのか、といえば実はそうでもないようです。
傾向としては、今年書いた記事に拍手が付いたわけではなく、過去の記事について拍手がついていることが多く、見られている記事も過去のものが多いようだ。
今年の記事で、20以上の拍手が付いたものは、「日本人はなぜ「神社」に行くのか!」と「今日も部室でお茶を飲む。 「けいおん」は奥が深い!」しかなく、シリーズものでは「「アニメは日本文化を救えるか」シリーズと「美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!」シリーズが合計で20以上に達しただけだった。
これでは「ダメ」ですね。

記事の傾向としては、前半は「神社」に関連した記事が多く、夏以降はアニメに関する記事が増えた。
全く違うようだが、これは大枠としてはすべて「日本文化」に関したものであって、これが2010年の当サイトの「テーマ」だったといえる。
そして、昨年の民主党政権以降からは「政治・時事ネタ」も一気に増えた。これをパッと読んだ人からは、このサイトが「ネットウヨのサイト」と思った人も多いようで、サヨクぽい人から変なのコメを多く戴いた。(まあ削除&スルーですけど)

さて、もう一つ、記事数が減ったのにアクセス数が伸びた理由としては、あらゆるところにこのサイトのリンクが貼られ、サイト紹介などがあって、それよってアクセスが伸びたようだ。(リンクを貼って頂き、ありがとうございます。)
朝日ドットネット、日本文化記事のまとめ、ヤフー知恵袋、ツイッターのリンクなどなど。


さて、それでは、今年はどの方向に進むか、ということですが、これが大問題です。
実は、ひとつ考えていたことがあって、それを書き進めているのですが、これが思うようにいきません。
ドン詰まりです。
昨年の秋から始めたのですが、「文才」が全くないため、構想はあるのだが文章にできない。
これって、とても苦しいことで、あまつさえ「文才」のある人へ軽い嫉妬さえ覚えてしまうほどだ。(水嶋ヒロにさえ嫉妬するほど重症だ。)
もう、自己嫌悪に陥りそう。
それでも、死ぬまでには書いてみたいことなので、そちらにも重点を傾けたい。
従ってそこに時間を割きたいので、当サイトはおざなりになるかも……。
それとも、思い切って、未完成でも載せちゃうかという手も……。

その辺で、いま悩んでおります。


「萌えキャラで盛り上がる足利」と「無策・放置の太田(新田)」。参拝客が少ないのはやはり寂しいよ……。

初詣は、まず最初に「生品神社」に行くことにしている。これが我が家の毎年の恒例行事だ。
今年も参拝したが、参拝客は相変わらず少ないようだ。
生品神社 初詣
社殿は朽ちかけ、鳥居は色あせている。実に寂しい限りだ。
過去記事

今年は「御守矢」を買った。
生品神社 御守矢
生品神社 御守矢 新田義貞公挙兵の地金の台紙に黒で「新田義貞公挙兵の地」の文字が、超カッコいい。

そして、境内では、斎藤佑樹の持っていたというお守りを売っていた。
斎藤佑樹 お守り
知らないとはいえ、この元ネタを書き続けてきた私に、氏子の方が熱心にこれを勧めていたのには、思わす笑ってしまった。
過去記事
生品神社お守り

さてさて、先日(12月27日)、日経流通新聞を見ていたら、「萌え、ゆるキャラの寺社」の記事の中に、足利織姫神社のことが取り上げられていた。
日経新聞 織姫神社
東京の了法寺、埼玉の鷲宮神社などのように萌えキャラを全面に出して参拝客を増やしているというのだ。
気になったので検索してみた。
足利ひめたま製作委員会 公式サイト」を見るとかなり本気のようだ。
足利 ひめたま
また、「足利市の有名神社が萌えキャラに? 足利「ひめたま」キャラクターデザイン・奥田泰弘氏インタビュー」の記事を読むと、アニメ「魔法少女リリカルなのは」のキャラクターデザインを担当する人気アニメーター・奥田泰弘に仕事を依頼した経緯が書かれている。
こういう風に神社を取り上げることへの賛否はいろいろあると思う。(無作法な参拝者が増えたことは許せないが…)
しかし、やはり参拝客が増えること、それまで寺社に無関心だった若者を取り込むことが出来るなど、メリットも大きい。何より参拝客が少なくて寂れていく神社を見るのは、どうもつらい。(生品神社のように……)

いつも思うのだが、足利市はこういうことが「上手い」と感心する。
「足利尊氏」や「相田みつを」といった足利出身者を観光に生かしているし、NHK大河ドラマ「太平記」のセットをうまく利用して観光案内所の施設にしたし(太田市はすべて廃棄した)、森高千里のヒット曲「渡良瀬橋」の記念碑を作り観光スポットにしたり、ゆるキャラ「たかうじ君」を作って時流に乗ろうとしている。
過去記事
一方、太田市は……。
いつまでも「焼きソバ」じゃ仕方ないだろう。
(元旦放送のTBSテレビ「ニューイヤー駅伝」の中で、太田市長が屋台で焼きそばを自ら焼いて、太田市の名物としてアピールしていたが、「アホ」みたいだった。「そんなことやるより、することあるだろう」って突っ込んだのは私だけではないはず……、過去記事)

新田氏関連の寺社が寂れていく一方で、太田市の歴史文化への無策ぶりは目を覆うばかり。
ライバルの足利市を見ると、その力の入れように大きな差があることは歴然だ。

ほんと、どうにかならないものか。

過去記事「群馬県が東毛の歴史文化観光に力を入れるって言ってもどうも本当だとは思えない。

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消えた二十二巻

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