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アニメは日本文化を救えるか 第7回 これからの「クールジャパン」は、消費される文化を目指すのではなく、日本文化を広め、深める道を進むべきではないのか。

アニメは日本文化を救えるか 
第7回 これからの「クールジャパン」は、消費される文化を目指すのではなく、日本文化を広め・深める道を進むべきではないのか。

まず、疑問を感じた記事が出ていたので、そのまま転載しておく。
日刊サイゾー http://www.cyzo.com/2011/02/post_6557.html

朝日新聞までもが危惧し始めた「世界に広がるオタク文化」の幻想と危機的状況 もう「世界に広がるオタク文化」の幻想を見る時代は終わった。
2月7日付の朝日新聞の別冊紙面「GLOBE」が「MANGA、宴のあとで」と題して、日本のマンガ・アニメが持て囃されているはずのフランスとアメリカで売り上げが伸び悩んでいる現状をレポートしている。
 秋葉原で外国人観光客を見かけることは珍しくなくなった。世界のあちこちでオタクイベントが開催されていることはニュースにもなる。YouTubeなどの動画投稿サイトでは、世界のあちこちで、コスプレしてダンスするオタクたちの姿を見ることができる。
 それなのに売り上げが伸び悩むとは、どういうことか? 「Nesweek日本版」が「萌える世界」と題して世界に広がる萌え文化を紹介したのは2007年3月のこと。それから4年余りの間に何が起こったのか?
答えは簡単である。最初から日本のマンガ・アニメが世界のあちこちで持て囃されているというのは、幻想に過ぎなかったのだ。
 そもそも、「クールジャポン」なんて言葉が流行した07年頃、アメリカでもヨーロッパでも、アニメ関連の市場は縮小が始まっていた。アメリカで、日本のアニメおよび関連商品の売り上げがピークに達したのは03年頃。テレビでのアニメ放映時間も07年9月をピークに減少を続ける一方だ。
 フランスでは日本のマンガが数多く翻訳出版されているが、とにかく売れない。先の旭の記事では、『デトロイト・メタル・シティ』が5,000部程度しか売れなかったことを記している。もちろん、これはヒドイ例だ。ジャンプ作品はある程度人気を博しているが、それでも08年に発売された『NARUTO』の単行本が22万部売れた程度に過ぎない。
 と、読者の皆さんは「ちょっと、データーが古いのではないか?」と思ったかも知れない。その通りである。
 ところが、そもそもアメリカやヨーロッパにマンガやアニメの市場がどの程度の規模で存在しているのかを知るのは、かなり難しい。こうしたデータを収集している組織としてはJETRO(独立行政法人日本貿易振興機構)が有名だろう。ところが、この記事を書くにあたって久しぶりにサイトを覗いてみたのだが、欧米圏に関しては新しい調査報告が、あまりなされていない。こうした状況を見ても、あたかも日本のマンガ・アニメが巨大なブームを引き起こしているような状況は、幻想としか思えない。
 一方で、日本のマンガ・アニメを求める「濃い」ファンもちゃんと存在する。彼らの存在は大きく見えるが、数は限られたものに過ぎないのだ。
 フランスで開催されたオタク系イベントの日本側窓口となったコーディネーターからは、こんな話も。
「日本のオタク事情に極めて詳しいファンは存在します。例えば、『東方』のファンはフランスにもいるんです。ただ、フランスで『東方』を知っている人は200人程度じゃないでしょうか」
 筆者は一昨年に、ある週刊誌で「日本のマンガ、実は世界でウケてない!」という少々煽り気味のタイトルで日本国内での幻想と海外での現実とをレポートした。しかし、この記事の反響の多くは批判的なものだった。
 だが、今となっては、このレポートは正しかったと言わざるを得ない。
 国内需要が縮小していく中で、海外に活路を見出すのはビジネス上、当たり前のことである。だが、海外には、まだ山と溢れる日本産のマンガやアニメを受け入れるだけのすそ野が出来上がっているとは言えない。
 例えば、日本ではオタクだけでなく幅広い客層を集めるスタジオジブリの作品群も、欧米では、さほど興行収益を上げてはいない。国内ではさまざまな海外映画祭での受賞が派手に報じられているが、それが集客には結びついていないのが現状なのだ。
 だからといって、縮小する一方の国内の需要に頼っていては、マンガ・アニメの壊滅は必至だ。これまで、多くの人は、海外には既に作物が豊富に実る豊かな土壌の楽園があるち勘違いしていた。だが実態は、これから畑を耕してまだ日本のマンガ・アニメを消費する人々を育てていく段階だったのだ。
 カギとなるのは、日本のように子供から大人まで、年齢を重ねてもマンガやアニメを消費するライフスタイルをどうやって普及させていくかということ。サブカルチャーの一分野として、日本のマンガ・アニメを消費する人々だけをアテにしていては、先はない。
 別段、批判するわけではないが『朝日新聞』が、多くのページを割いて、海外のマンガ・アニメの不況を記すということは、状況は更に先に(悪く)進んでいるということだ。日本のマンガ・アニメの未来を考えるならば、もう、夢を見ている暇はない。(文=昼間たかし)

どうでしょうか。確かに後半の部分はいいだろう、『年齢を重ねてもマンガやアニメを消費するライフスタイルをどうやって普及させていくか』という課題を示している点はいい。だが「世界に広がるオタク文化」や「クールジャパン」は幻想であり、それは日本のマスコミが勝手に作っているのだ、というのは煽り過ぎではないのか。
それに、かの大新聞で権威のある(?)朝日新聞が言っているのだから俺の言っていることは間違いない、ということを誇示したいのか、そこが鼻についてイヤな文面だ。
そもそも「売れている」「ヒットしている」「消費」という基準で「文化」を語るべきなのだろうか。
「文化」を「売れる」「売れない」という市場論理に当てはめること自体が間違っているのではないだろうか。
海外で日本のマンガが売れていないから、ジブリ映画の興業成績が悪いから(NARUTOが22万部売れているだけでも凄いと思うが、日本のものでそんなに売れる本はないだろう)という理由でもって、クールジャパンは幻想だという論はおかしい。
まずこの記事を書いた「昼間たかし」を検索してみると……、これが、酷いサヨク。
それに朝日新聞は、日本にも「文化大革命」が起きて中国の属国になることを願っている新聞社ですから、そこが「クールジャパンは幻想だ」という論を張るのはもっともなことでしょう。
この自称ジャーナリストが、俺の考えていることが天下の朝日新聞と同じだ、といったことで舞い上がっているのが笑える。

そもそも「クールジャパン」って、「文化」って、何なのだろうか。

例えば、外国人が思い浮かべる日本を代表する文化「相撲」や「歌舞伎」はどうだろうか。海外で売れるものなのか。そうではないだろう。これらは日本をイメージし象徴する文化である。
浮世絵はどうだろうか。これも日本を象徴する文化だが、元々海外で売り込んで認められたものではない。陶器の包装紙だったものが欧州に渡り、これを見たゴッホやマネやモネらなどが衝撃を受け、その彼らが印象派を生み出し、西洋絵画に大きなの影響を与えることになる。これが欧米の「ジャポニスム」となって、日本文化の愛好家・心酔家が多く作ることなった。
現在でも、海外の美術研究家や絵画ファンは、日本の浮世絵を見れば、そこに特別の感情を抱いている。彼らは日本文化のよき理解者となり、日本そのものに友好的意識を持ってくれることになるのだ。
そういう現象こそが重要なのである。
文化は、「売り」「消費させる」といったことを優先させるのではなく、「広がりや深度」を重視せよということだ。
過去記事(「渡辺千賀の「日本はもう立ち直れない」と忌野清志郎と小室哲哉」)
政府・役人が「ジャパンクール」を推し進めようとすれば、数字や経済効果ばかりを追い(業績を数字で計ることしか役人や企業は考えない)、結果、「文化」を広めるという視点は必ずや見過ごされることなる。
だから「文化」をそういう視点で捉えてはいけないし、ましてジャーナリストや新聞社がその視点のみに立って「文化」を論じるのは大きな間違いである。
詳しくは過去記事「アニメは日本文化を救えるか」シリーズで。
第1回 アニメでカネ儲け主義に走れば、アニメ文化は衰退する。
第2回 アニメと日本語
第3回 ソフト・パワーの時代。中国がパンダなら、日本はアニメだ!
第4回 文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。
第5回 こんな時代だからこそ、海外で日本文化を広めて日本ファンを増やそう。切っ掛けは「タイ焼き」から?……。
第6回 アニメと神社

ソフトパワーを生かして国(民族)のイメージを上げ、その国(民族)のファンを増やす。
当サイトで主張しているソフトパワーによる「文化防衛論」が重要なのだ。
アニメ・マンガそれ自体の売上云々といったことに重点を置くのではなく、「マンガ・アニメの海外への広がり」によって日本文化を知ってもらい、熱狂するような日本ファンを作ることこそが必要なのだ。
それは櫻井孝昌氏や杉山知之氏が主張することである。
だから、マンガやアニメが爆発的に売れて(消費されて)いないから「日本文化は広まっていない」「クールジャパンは幻想」という論理は道を違える元になる。
何でも経済効果で物事を計るとものの本質を見失うことになるのだ。

さて、もう一つ気になった記事を。こちらはいい記事。
朝鮮日報2011年02月12日http://news.livedoor.com/article/detail/5338429/【コラム】誰がチェ・ゴウンさんを殺したのか

昨年5月、映画監督のクァク・ジギュンさんが「仕事がなく、苦しくてつらい」と書かれた遺書を残して自ら命を絶ったというニュースが流れ、世間は非常に驚いた。しかし、そのことはたちまち世間から忘れ去られていった。6カ月後の昨年11月、シンガーソングライターのイ・ジンウォンさんが半地下の部屋で倒れ死亡したときも、殯(ひん)所(出棺まで棺を安置する場所)にはインディーズ・ミュージシャンたちが訪れただけだった。そして今回、シナリオ作家のチェ・ゴウンさんが「残ったご飯とキムチをください」と書いたメモを残し死亡していたことが、十日後の今月8日に分かった。わずか9カ月の間に、芸術家3人が、あまりに寂しい姿でこの世を去った。なぜ、こうした悲劇が繰り返されるのか。

 3人はいずれも「無名の芸術家」ではない。映画『冬の旅人』の監督を務めたクァクさんは、一時は人気の映画監督として活躍したが、2000年代に入ると次第にその存在は忘れ去られていった。イ・ジンウォンさんは、弘益大エリアでは有名だったが、テレビには出演できなかった。チェ・ゴウンさんは、韓国国内の映画祭で受賞した実績はあったが、脚本を買ってくれる人がいなかった。
 3人の共通点は、創作活動以外に仕事がなかったという点だ。3人とも映画や音楽に対する愛情があまりにも強く、芸術家としてのプライドが高すぎたため、本業以外の「お金になる仕事」に取り組むことができなかった。
  3人の死を、(映画や音楽関連の)市場のせいにすることはできない。利益が出る方に流れる資本が、彼らにそっぽを向いたのは事実だが、だからといってすべての責任があるわけではない。売れないシナリオを書き、ヒットしない歌を歌い、ヒット作を生み出せない芸術家は、冷たい市場の片隅に追いやられてしまうのが現実だ。
 だが、彼らの貧しい生活や孤独な死に対し、政府にもある程度の責任はある。芸術家がどれだけカネを稼ぐかは、芸術家自身の仕事次第だ。だが、芸術家たちが三度のご飯をきちんと食べ、健康診断を受け、温かい部屋で冬を過ごせるようにするのは国家の仕事だ。それがすなわち、福祉政策と文化芸術政策の要点の一つだ。
 ところが政府の大衆文化政策は、もっぱら「カネになる方向」に集中している。文化体育観光部(省に相当)の前長官は就任直後、大手芸能プロダクションが運営するカラオケ店で記者会見を開き、「韓流」あるいは「新・韓流」を掲げ、大衆文化を輸出産業であるかのように取り上げた。海外で稼ぐアイドルグループを政府の予算で支援する一方、国内で活動しながら日の目を浴びないミュージシャンからの支援申請は突き返したのだ。
 すべての映画監督が大ヒット作を生み出す国や、すべてのミュージシャンがダンスミュージックをヒットさせる国は、発展途上国だ。先進国とは、芸術映画や実験的な音楽を着実に創り出せる国のことだ。
 クァク・ジギュン監督が部屋で練炭を燃やしながら、「つらい」と遺書をしたためたとき、どんな心情だったのだろうか。イ・ジウォンさんが「どんなに音楽が好きでも/ラーメンだけでは生きていけない」という歌詞を書いたとき、どんな気分だったのだろうか。チェ・ゴウンさんが残したメモに記された「恥ずかしいけれど」という言葉が、とりわけ気になる。チェさんを死に追いやったのは、飢えではなく、恥ずかしさだったのだろう。
 その恥ずかしさの責任は、生きているわれわれが背負うべきものだ。韓国とは、32歳の芸術家が、閉ざされた部屋で孤独死に至るまで放っておく国なのだ。国内総生産(GDP)世界15位の経済協力開発機構(OECD)加盟国に加わり、主要20カ国・地域(G20)首脳会合を開催するまでに成長した大韓民国で、三流映画のような悲劇が相次いで起こったという現実が、恥ずかしく思えてならない。
韓賢祐(ハン・ヒョンウ)大衆文化部次長待遇

何かこれ、日本のアニメ業界の労働環境に似ている。それに日本の政府が掲げるような「経済的効果のクールジャパン」もこれと同じようものだろう。
何よりも「すべての映画監督が大ヒット作を生み出す国や、すべてのミュージシャンがダンスミュージックをヒットさせる国は、発展途上国だ。先進国とは、芸術映画や実験的な音楽を着実に創り出せる国のことだ。」これまさにその通りだ。
ヒットさせる、売れるものを作る、といったことばかりを追求すれば、いつしかツマラナイ平均的なものしか作られなくなる。
「文化」は独自性に価値があるので、経済至上主義に合わせれば、その文化はグローバル化という名の下に呑みこまれてしまうだろう。(日本文化のアメリカ化、中国化)
だから、上記にあるよう「昼間たかし的見方」「朝日新聞的論理」売れていない(消費されない)からクールジャパンは幻想→売れるものを作れ」論理展開は間違いなのだ。
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中島知久平と新田義貞  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回

新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回
中島知久平と新田義貞 


久々の「新田義貞伝承を追う!」シリーズ。
日本に危機が訪れると、新田一族の伝承(児島高徳も含む)を持つ者が必ず現れ、陰で活躍するといったことを追ったものが、このシリーズのテーマです。ほんとうにこれが不思議なもので、必ず新田伝承を持った人物が出てくる。なぜでしょうか。
当サイトでは、これまで、天海、明智光秀・明智秀満、井上馨、渋沢栄一、新井白石、正田家(美智子皇后陛下)と書いてきて、今回が中島知久平です。(高山彦九郎、徳川水戸家、坂本龍馬、と続く予定)
戦前・戦中においては中島知久平がその役割を負っているかのようです。
中島知久平 新田神社金山の頂上にある中島知久平像。 ここに新田義貞及び一族を祀った新田神社がある。
新田義貞願文 中島源太郎 
その脇には中島知久平の息子・中島源太郎(衆議院・元文部大臣)による「新田義貞願文」の碑がある。そうあの願文ですよ。太平記巻十七 義貞北国落ち前に日吉大社を詣でたときに奉った願文。
『願ワクバ往路万里ノ末マデモ擁護ノ御眦ヲ巡ラサレ、再度大軍ヲ起コシテ朝敵ヲ滅ボス力ヲ加エ給エ、我レ、タトエ不幸ニシテ命ノウチニ此ノ望ミヲ達セズトユウトモ、子孫ノ中ニ必ズ大軍ヲ起ス者アッテ、父祖ノ屍ヲ清メン事ヲ請ウ』のこと。詳しくは「東毛奇談」で。

中島知久平 銅像 尾島尾島役場にある「中島知久平の銅像」 

中島知久平像 岸信介中島知久平像には「元内閣総理大臣 岸信介」の名がある。

また経歴や中島飛行場については、過去記事において軽く触れているので、そちらをまずは参照してください。
二十歳の三島由紀夫 その1 三島は二十歳のとき群馬県太田市(新田)にいた!
美智子皇后陛下は新田一族の末裔であるから、この国を、皇室を守っている!その5 シリーズ第25回
「富士重工・スバル」と「新田義貞せんべい」と「新田一族」

また中島飛行機については長島芳明さんのブログに詳しく、また本にも書かれる予定なのでそちらを。

スバル 矢島工場とりあえず、「富士重工・矢島工場」の写真を。スバル・レガシーとともに飛行機が展示されている。

さてさて、ここでは、中島知久平と新田義貞の関係についてのみ、手島仁著「中島知久平と国政研究会」(みやま文庫) から抜き出しておきます。

新田公挙兵六百年祭
新田神社と葉住利蔵
福井県福井市には新田義貞を主神とする藤島神社がある。同社は義貞が延元三年(1338)に戦死したと伝えられる燈明寺畷に、万治3年(1660)、福井藩主松平光通が石碑を建て、明治三年(1870)に同茂昭が小祠を建立したものを、同九年に別格官弊社に指定し、地名の藤島を社名としたものであった。
群馬県では、明治元年に幕末の新田勤王党を結成し、金井之恭とともに太政官へ出仕した橋本多賀之助が、新田神社と高山神社造営の建議書を太政官へ提出した。同三年に新田郡の荒牧孫三郎らが金山城本丸跡(山頂)に創建することを岩鼻県に、同六年には「新田神社創建願」を当時所管であった栃木県に、それぞれ提出した。同年許可がおり翌年に井上馨らの協賛を得て着工、同八年新田俊純ら新田義貞の末裔が社号を「新田神社」としたい許可願を提出し、許可となり社殿も完成。翌九年県社、同十二年に県社兼郷社となった。
新田郡では、新田神社を藤島神社と同じ別格官弊社に昇格させようという運動が起こった。その中心は葉住利蔵であった。衆議院議員となった葉住は、明治四十四年に新田家の縁戚にあたる井上馨を介して宮内省へ誓願書を提出したり、原敬内務大臣にも談判に及んだ。誓願書には三上参次に監修者になってもらい、岡野精一に「新田氏勤王事蹟」を纂述させたが、実現しなかった。武藤金吉も大正十年三月二十二日、横田千之助・鳩山一郎らを賛成議員に「県社新田神社合祀昇格に関する建議」を第四四帝国議会に提出した。同建議は採択されたものの実現には至らなかった。豊国覚堂によれば、葉住は新田神社昇格運動を勤王の念から行ったのに対して、武藤は新田郡の選挙民のために建議書を提出しただけであった(「上毛及上毛人」一九五号)。
皇太子裕仁が大正十年(1921)にヨーロッパ諸国を視察すると、葉住は、「摂政宮御渡欧記念」として翌年五月に太田町へ金山図書館を建設し、皇室中心主義の鼓舞と思想善導に役立てようとした。皇太子にならって同十二年に長男利次と義兄渋沢直一(金蔵)を伴い、ヨーロッパ21ヵ国を視察、帰国後に東京と群馬県内で20回に及ぶ講演会を開いた。講演会は、「世界中で唯一の崇敬賛美すべきの国体を有して、日本人が世界のすべての国民より幸福な国民である。それは忠孝の大義を有するからである。帝国々体が一般国民に反映して生活が安全を得ているからである。そして治国天下の大策は、政争をさけ妥協交譲による政治である」とする「愛国的大宣伝」であった。「上毛及上毛人」一一五号。
知久平は武藤金吉の後継者であったが、その政治的な活動を見ると、皇室主義、国家主義、非政争主義など葉住の遺訓を受け継いだといえる。

ここで登場する井上馨の新田神社創建などは「上州遷都論」のときにまとめてあります。
高山神社 正面 高山彦九郎高山彦九郎を祀る「高山神社」。閑散としていますが、社殿は立派です。吉田松陰を知るにはまず高山彦九郎を知らねばならないのに、現在では忘れ去られた存在となっています。 
高山神社 中島飛行機高山神社境内の手水舎をよく見ると「六百五十年祭 中島飛行機」とあります。
高山神社 中島知久平高山彦九郎を祭神とする「高山神社」にある碑。ここに協賛者筆頭として中島知久平の名が見える。
高山彦九郎の生誕地は細谷村で、中島知久平の出身地・尾島の押切はすぐ近くである。地元の偉人として中島は高山彦九郎を尊崇していた。

群馬会館の新田義貞像
昭和天皇の御大典を記念して群馬県では、県庁舎と群馬会館を建設し、同会館は昭和五年に完成した。同会館は「産業の殿堂」として建設され、当時、群馬の実業界を代表する知久平と上毛新聞社長・篠原秀吉は、「群馬県の三大先覚の像」を寄贈した。知久平は「勤王の忠臣新田義貞」の銅像、篠原は「勤王の志士高山彦九郎」と「幕臣・小栗上野介忠順」のレリーフで、制作者は佐波郡連取村(伊勢崎市)出身の鋳金工芸家・森村酉三であった。(森村は高崎の白衣大観音の原型製作者として知られる)
新田義貞の銅像(像の高さ四尺五寸、台座の高さ五尺)は群馬会館一階の広間に安置され、高山彦九郎と小栗忠順のレリーフは二階広間休憩室の壁にはめ込まれた。銅像は戦争で供出されたが、レリーフは現在も同会館にある。制作にあたり森村は各方面から資料を収集し、新田義貞は勤王の義気に燃える義貞を理想化するため、台座の上を洗う波、稲村ケ崎の劈頭から剣を投じようとする姿とした。高山彦九郎は京都三條大橋から皇居を遥拝して悲憤の涙に咽ぶ姿、小栗忠順は羽織袴の上半身で、徳川幕府の産業経済金融を一身にになったその手腕を偲ぶ姿となった。(『上毛』昭和5年2月10日・5月11日・6月19日、『上毛及上毛人』155号・158号)。
<中略>
昭和三年十一月に知久平は、井上理三郎(元館林税務署長)らが尾島町武蔵島の花見塚神社境内の新田義貞の首塚・勾当内侍(義貞婦人)の墓と伝える五輪塔のそばに、「勾当内侍遺墳碑」を建てると、最高額の百円を寄贈した。題額は金子堅太郎によるものであった。


勾当内侍の碑 花見塚神社勾当内侍遺墳碑。
碑の背面には「中島知久平」の名がある。
新田氏関連の寺社を巡って、昭和初期に建てられた碑を見れば必ずといっていいほど「中島知久平」の名前を見つけることができる。

挙兵六百年祭
知久平が幼少期から育んできた天皇主義・皇室中心主義を国民教化運動としたのが、「新田義貞公挙兵六百年祭」をはじめとする新田義貞の顕彰事業であった。第六四議会(昭和七年十二月十六日~八年三月二十六日)では思想問題が政治問題化し、斎藤実首相は施政方針演説で、「今後モ益々政治、教育其他各方面ニ於テ思想ノ善導ニ努力シ、不祥事ノ根絶ヲ期シタイト思ヒマス」と述べた。
挙兵六百年祭は昭和八年五月八日が挙兵から六百年にあたることから計画され、知久平は委員長に就任し、市政会館事務所内と太田町役場内に「新田公挙兵六百年記念碑建設会」を設け、国政研究会理事長中村藤兵衛を発起人総代とした。同会は金沢正雄県知事や各郡市教育会関係者、県出身の衆議院・貴族院議員、岡田啓介首相をはじめ内相・文相・衆貴両院議長、県内の旧藩主、野間清治らを賛助員とする大規模な組織であった。
事業内容は、①挙兵の地・生品神社と新田家累代の菩提寺・金龍寺に「新田公挙兵六百年記念碑」を建設。②群馬県出身で東京帝国大学史料編纂官兼助教授・中村孝也が執筆の「新田義貞公」(一万部)、「鎌倉攻」(六万部)、「笠懸野」(五千部)を作成配布。③中村作詞で群馬県出身の井上武士作曲の記念歌「五月の空」(小学児童合唱歌)と薩摩琵琶歌「新田義貞公」・筑前琵琶歌「天竜川」、中村作の児童劇「鎌倉攻」の制作などであった。「新田義貞公」などの書籍は、小学校尋常五年生以上と中学生に配布され、中村と鈴木孝雄陸軍大将の講演会や記念歌と児童劇が太田町で上演されたほか、東京中央放送局で「新田公の夕」という特別番組が編成された。また、野間の経営する講談社発行の「雄弁」「少年倶楽部」「幼年倶楽部」などの雑誌でも取り上げ、メディアを動員した国民教化運動となった。(「上毛」昭和八年四月三十日・五月一日・七日・九日)。

中島知久平の政治家としての力の凄さが、「新田公挙兵六百年記念会」これ一点をみただけでも分かります。衆議院・貴族院議員、岡田啓介首相をはじめ内相・文相・衆貴両院議長、県内の旧藩主を動かすほどだったんですから。
それに講談社創業者の野間清治(群馬県出身)をも巻き込んで、これって、今でいうメディアミックスじゃないの。
お~、新田義貞でメディアミックス! 夢のようです。(歌舞伎・芝居でも新田義貞及び一族は取り上げられることも多かったので、当時は本当に人気があったんですね。今では考えられませんが……)


金龍寺の碑は徳川家達が「左中将 新田公 誠忠碑」と揮毫し、撰書は碓井郡出身で学習院長の荒木寅三郎が担当。生品神社の碑は徳川家達が「新田公挙兵六百年記念碑」と揮毫し、国分青崖の漢詩が刻まれた。知久平は祭典の意義を「我が新田公は忠臣であり、寡兵よく逆臣の大軍に向った大勇こそ大いに学ぶべきことと思ふ。今年は丁度六百年に当るので精神教育に資したい意味で記念碑を建設した訳である。新田公を思ひ起こす度毎に今後の青年も奮起して来るであろうことを信じて居る」と語った。(「上毛及上毛人」一九四号)
祭典に皇室から金百円の祭粢料が下賜され、関係者は歓喜した。委員長の知久平が五月六日に宮内省に出向き、湯浅倉平宮内大臣から祭粢料を拝領した(「上毛」昭和八年五月六日)。
知久平は生品神社境内に、次の文字を刻んだ石碑を建てた。「昭和八年五月八日ハ新田義貞公挙兵六百年ニ相当スルヲ以テ記念碑ヲ建設シ祭典ヲ執行スルニ当リ事、天聴ニ達シ畏クモ祭粢料御下賜ノ御沙汰ヲ拝シ光栄アル式典ヲ終レリ 爰ニ御沙汰書ヲ刻シ後世ニ傳フ云爾 昭和八年十月 新田公挙兵六百年挙兵六百年記念碑建設委員長 中島知久平」
昭和九年十月十日、「非常時国民の精神作興」に役立てることを目的に、「新田公会」が金沢県知事によって建設され、総裁に徳川家達、会長に金沢正雄、副会長に星子県学務部長と中村藤兵衛、顧問に新田俊純、評議員に知久平、野間らが就任した。同会は新田一族の遺蹟・遺物の調査保存、史料の収集・編纂刊行、「帝都に義貞公の銅像」建設、講演会のほかに、同十三年の戦没六百年祭と新田神社に子孫・一族・郎党を合祀し、同社の社格を別格官弊社とすることを課題とした(「上毛」昭和九年十月七日・十一日、「上毛及上毛人」二一〇号)


金龍寺 新田義貞公誠忠碑金龍寺 新田義貞公誠忠碑

金龍寺・案内板 2金龍寺・案内板 2

金龍寺 案内板金龍寺 案内板

金龍寺・扁額金龍寺・扁額

戦没六百年祭
昭和十二年四月十八・十九日、東京から松平頼壽伯爵・酒井忠正伯爵・奈良武次陸軍大将・深井英五前日本銀行総裁・中島知久平・峰岸米造東京高等師範学校教授・新田公会副会長中村藤兵衛らを貫前神社隣の東国敬神道場に迎え、新田公戦没六百年祭の打合会が行われ、その後、長楽寺・総持寺・生品神社・新田神社などの遺蹟を視察した。七月六日には君島清吉県知事が東京で新田公会幹部会を開催し、本格的な準備が始まった。幹部会には鉄道大臣に就任したばかりの知久平や文部大臣安井英二、徳川圀順・松平頼壽・新田義美・徳川家達・中村藤兵衛などが集まった。
福井県の藤島神社では「新田義貞公六百年大祭」が昭和十三年五月二十二日から二十四日まで営まれた。群馬県これに呼応し、知久平が中心となり、奉賛会を結成して祭事にあたることにした。事業は新田神社での大祭、金龍寺・大光院・正法寺・照明寺・円福寺・安養寺・長楽寺・総持寺で大供養を行い、国民精神総動員運動を兼ね各種の教化行事を行った。五月二十三日には、知久平が「新田公殉節六百年記念碑 鉄道大臣 中島知久平書」と揮毫した碑が、金龍寺に建立された。撰分は中村孝也であった。(「上毛及上毛人」二五三・二五四号)。
新田郡世良田村では、村内有力者二三〇名を網羅して「新田公奉賛会」(会長・粕川宗造村長)をつくり、事業計画を立て、新田館址としてゆかりのある総持寺に記念碑(新田館址碑)を建て、小学校には新田義貞の銅像を建立した。記念碑の篆額は政友会総裁となった知久平で、碑文は中村孝也であった。「新田館址」の石標は、川岸文三郎陸軍中将が書いた(「上毛及上毛人」二七七号)。これは、紀元二千六百年(昭和十五年)を記念する事業でもあった。
さらに、昭和十六年には同村の村長・粕川宗造、村議・大野道衛、長楽寺住職鹽入良善らが「新田一族竝従臣忠霊供養塔建設会」を組織し、中島知久平・川岸文三郎・新田俊純・薄田美朝県知事らの支援を得て、「新田一族竝従臣忠霊供養塔」(花崗岩の十三重塔)を建設し、義貞の挙兵日の五月七日に「忠霊供養法会」と中村孝也による講演会が行われた(「上毛及上毛人」二八七号)。
自己顕示や売名行為が嫌いで、揮毫を頼まれても断るか、「―」という文字きり書かなかった知久平が、猛烈な天皇主義者であったゆえ、新田義貞挙兵六百年祭をはじめとする事業では、石碑への揮毫に応じた。これらの石碑は、書嫌いに知久平の文字を見ることの出来る数少ない遺蹟となった。刻まれた文字を見ると、知久平は達筆であった。

それにしても義貞戦没六百年祭に参加したメンバーがスゴイですね。日銀総裁や大臣、知事、学習院長などなど。いま義貞に関する式典を行っても市長クラスしか来ないでしょうね。
長楽寺 新田一族供養塔画像は、長楽寺にある「新田一族供養塔」

さて中島知久平の生家は、尾島町押切(合併し、太田市に編入)にある。
中島知久平 新邸中島知久平 新邸。外からしか中の様子は窺えないが、建物や蔵、車寄せの玄関など、かつての栄華がわかる。ただいまは屋根も朽ち果てていてかなりボロボロだ。太田市が改修するという話もあるようだが、反対派がうるさいらしい。文化財・歴史建造物・歴史的価値のあるものをすべて放置してきた太田市のことだから、また捨て置かれることだろう。ほんと市民に何の利益のない英語学校なんかに金を使うなら、こういうところに使って欲しい、と思う。
中島知久平 新邸 門中島知久平 新邸 門

この一帯は、新田氏関連の遺跡に溢れている。
満徳寺、勾当内侍関連の儀源寺や花見塚神社、そして利根川の川向うが埼玉県深谷になる。(渋沢栄一の菩提寺は新田氏関連の華蔵寺)
市内へ向かえば金山、呑龍さんの大光院、金龍寺。旧新田町方面へは斎藤佑樹とも縁が深い生品神社、反町薬師。
そして、この川を上がっていけば世良田東照宮や長楽寺へ、そして、幕末の志士に影響を与えた高山彦九郎の生家があり、下っていくと大泉町にある児島高徳の墓・高徳寺へ、さらに下ると館林へ行き美智子妃陛下を生む正田家へ続くことになる。

大きな地図で見る

中島知久平がこの地に生まれた意味は大きい。

続く。

ナゾ……。 追記しました。

タイムマシンがあったとする。
数年後でもいいし、数日後でもいいが、とにかく未来の自分がやって来た。
そのときケータイ電話も持って来たとする。
そのケータイは現在の自分が持っているものと全く同じだ。
では、そのケータイ電話に電話をかけてみよう。
鳴るのはどちらだろうか。
1、両方鳴る
2、どちらも鳴らない
3、現在の自分の方だけ鳴る
4、未来から持ってきたケータイが鳴る
5、それとも、「お客様がおかけになった電話は電波の届かない場所にいるか……」といったアナウンスが流れる
果してどうなるのか。
いまこんなことで悩んでいる。

いっそNTTに訊いてみるか。
キチガイ扱いされそうだが……。

追記
拍手の方にコメントが付いていました。
木枯らし文三郎さん「答えは『2』。補足すると話中。 携帯電話には個体識別番号があります。同一なものには、自分の電話にかける行為と一緒。ためしに、自分の携帯電話に、自分の番号でかけてみてください。話し中になります。その現象と一緒です。(と、思います)」
とありました。コメありがとうございます。

しかし、ちょっとこれは私の説明不足だったようです。
未来からきた自分が自分のケータイに電話するという意味ではなく、全く違う電話でそのケータイ番号に電話するという状況になったとき、どちらが鳴るか、ということです。
つまりこういうことです。
数日未来の(A)がタイムスリップして、現在にきた。そのときケータイをもっている。未来のAは現在のAをある目的をもって監視している。
そこに何らかの危機が迫り、それをたまたま見ていた友人のBがAのケータイに電話をする。
そのとき、鳴るのは、現在のAのケータイか、それとも未来のケータイか、または鳴らないのか、どれだということ。(どちらにつながるのか、またはつながらないのかで、それ以後の話は変わってしまう)
または、未来のAが友人Bへコンタクトを取るためケータイで電話をする、そのとき未来から持ってきたケータイで通話はできるか、ということ。
要は、タイムスリップ・タイムマシーンなどの小説を書こうとした場合、未来から持ってきたケータイは使えるのか、これを小道具として使ってもおかしくなのか、ということです。

おっと、これではタイムスリップ(歴史改変)ものを書こうとしているのがバレバレになってしまう。

NHK「歴史秘話ヒストリア」で後醍醐天皇が取り上げられるが、新田義貞については一言も触れず。残念。

大して更新もしていないのに、ここのところアクセス数が多くなっていると思い、アクセス解析してみたら「南北朝時代」の検索で来ていることが分かった。
どうやら、平成23年2月2日・NHK「歴史秘話ヒストリア」で「折れない、負けない、くじけない~風雲!後醍醐天皇がゆく~」といったものが放送されて、ここで南北朝時代が取り上げられていたようだ。
番組ホームページ
早速、動画サイトでみて見た。

う~ん、内容はいいんだけど……。
残念なことに、全く新田義貞及び新田一族に触れていなかった。しかも、北条氏を討った鎌倉攻めについてさえ一言もない。
なんだよこれ。
それに、南朝方の武将って、楠木正成と名和長年しかいなかったかのような内容。ダメじゃん。

それに解説が、本郷和人って。
本郷和人ってあまり好きじゃない。特に「人物を読む 日本中世史―頼朝から信長へ」(講談社選書メチエ)が最悪で、あの軽いノリで歴史を語られると、どうにも私には肌に合わない。(新田義貞については、分かりもしないのに戦下手と書いたりする。)

テレビで「南北朝時代」を取り上げのが久々だっただけに、残念だった。
この時代をやるのなら2時間くらいかけないといけないかも。
それでも新田義貞及び新田一族は大して登場しないだろうけど……。

日本文化を継承するものが日本人だ、と思う。

読売新聞で毎週日曜日に「人物語 異国の風」という特集記事が載る。
日本語を教える日系ブラジル人、能の師範となったオーストラリア人、屏風絵師となったアメリカ人といった方々を紹介している。これが結構面白い。
過去記事
本文の説明に「外国から日本へやって来て、住み続けることを選んだ人たち。様々な壁を乗り越えながら、日本に何かを残してくれています。その姿を描きます。」とあった。
なるほど記事を読むと、外国人が日本文化を受け継ぐには数々の困難があるようだ。だがその困難を乗り越えた末に得た功績は、変えがたい喜びとなっているようで、それが文面から伝わってくる。
本当に彼らには感心してしまうし、何よりも日本文化を伝えてくれることに感謝したい。

最近、テレビ番組や雑誌などで、日本の伝統芸能を受け継ぐ外国人が紹介されることがよくある。温泉旅館の女将や刀鍛冶なんて、いかにも「日本的」なものに魅入られる人もいた。
そして、彼らの言葉を聞くと、日本(日本文化)を愛している方が多いことか。実に「日本人以上に日本人」なのではないかと思うほどで、本来日本人が持っていなければならない「日本人の魂」を、彼ら外国人の方々の方が持っているようだ。
日本文化を守る人が、日本人であるとするならば、彼らも「日本人」といえるだろう。

さて、「日本人とは何か」と聞かれてどう答えればいいのか、ふと悩むことがある。
実際、何をもって日本人なのか、右か左でその返答は大いに違う。
ただ、私は三島由紀夫の晩年の評論に触れてから、「日本文化を継承するものが日本人」だと思うようになった。
日本文化の中には無論、歴史や伝統も含まれる。(もちろんアニメやマンガも日本文化だ。)
過去記事
だから日本の文化・歴史・伝統を否定する者は、日本国籍を持とうが、日本人の血が流れていようが、それは日本人ではないと思う。(あくまでも私の考え)

とここで、サッカーの李忠成選手。
李忠成が日本に帰化している在日韓国人4世ということで、様々な意見や批判的・好意的なスレや記事を見た。
それに韓国民の反応も読んだ。相変わらず日中韓は場外乱闘が相変わらず面白い。
過去記事

李忠成は「日本の文化に感謝している。日本に恩返しができて本当に良かったと思います。」と言っているし、「日本サッカーの英雄になったイ・チュンソン、“ぼくの姓は、り”」韓国語読みのイ・チュンソンではなく、「李忠成」と書いて「り ただなり」と読む日本代表選手であることを強調していることなどといったことを見ても、上記「人物語」のような外国人と同じ日本文化を継ぐ者であり、まさに日本人だといえるだろう。
同様に、サッカー選手の田中マルクス闘莉王やラモス瑠偉、帰化した外国人相撲取りの高見山や武蔵丸、帰化するであろう白鵬も日本文化を受け継ぐという点から見ても十分に日本人なのだ。

昨年、群馬県桐生市で、女子小学生がイジメで自殺する事件があった。そのイジメの主な理由が、母親がフィリピン人で「日本人ではないから」といったものであった。
こういうことはあってはならないことだ。
「日本文化を受け継ぐ者が日本人である」という観点に立ってみれば、外国人の方が日本にやって来て日本人を生んで育ててくれることに感謝しなければならない。日本人の女性が子どもを産まなくなった今、日本文化を受け継ぐ子どもを生む外国人の方を誹謗するような日本人は日本人ではない。(分かりにくい表現でごめんなさい)
外国人が多く住む群馬県太田市(勤務地は大泉町)にいる私は、特にそう感じるのだ。
外国人だといってすべてを排他的にする偏ったネトウヨはよくない。
反日活動をする人(日本人でも)こそ叩くべきなのに、日本人ではないという理由だけで、外国人を排除しようとすることには大いに反対したのだ。

日本文化を守る人が日本人、この観点で見て行けばよいのである。

「日本語」に関する新聞記事を集めてみました。

読売新聞から「日本語」に関して気になったものを書き起こしてみました。

平成23年1月23日 ワールドビュー
日常に溶け込む「日本」 ロサンゼルス支局長 西島太郎
ロサンゼルスのリトルトーキョーは全米最大の日本人街だと様々なガイドブックに書かれていたので、多くの観光客が集まるにぎやかな場所だと思い込んでいた。それだけに、初めて訪れた時は拍子抜けした。着任した昨秋、ダウンタウンの東にあるその街へ足を運ぶと、驚くほど閑散としている。
市内の陸運局(DMV)に運動免許に申請に行った時のこと。英語だけでなく様々な言語の交通教則本が並んでいる。スペイン語、ロシア語、韓国語、中国語、タガログ語、アルメニア語……あれ、日本語がない。カルフォルニア州政府に尋ねると、日本語版が発行されたのは1995年が最後で、今は作成されていないという。
日本人の存在感が海外で希薄になったという指摘が頻繁に聞かれる昨今、「ロスでも同じなのか」という思いが募ってきた。
日系人社会の先輩たちはどう感じているのか知りたくて、リトルトーキョーにある「全米日系人博物館」を訪ねた。ボランティアの日系2世リチャード・カラサワさん(82)が語ってくれた。
「リトルトーキョーが寂しい? そうだとしても、そんなに悪いことのようには感じられませんね。なぜなら、日系人が身を寄せ合って暮らす必要がなくなった証しなのですから」
博物館に展示された写真や資料は、戦前、戦中の日系人に対する差別と迫害のすさじまさを伝える。「日本人は学校にはいらない」「あんないまいましいやつらは今すぐ排除しろ」。そんな言葉が公然と叫ばれていた。カラサワさんも14歳で収容所に送られた。
「あなたは、今の時代の日本人で本当によかった。米国人の住宅地で堂々と暮らせるのです」
確かに、今では迫害どころか、日本の文化はロサンゼルスの風景の一つだ。
日本車だけではない。スーパーには豆腐やシイタケなどが並ぶが、ことさら「日本食材」を強調してはいない。「スシ」は、オフィス街ではメキシコ料理と並んで手軽なランチの定番だ。
日本文化が現地に根付き、溶け込んだからこそ、かえって日本の存在が見えにくくなったのではないだろうか。話を聞いているうちに、そう思えてきた。日系人たちが乗り越えてきた苦難の果てに今の「希薄さ」があるのだとしたら、それはむしろ喜ぶべきことなのかもしれない。
交通教則本についてがだ、「必要とされる言語に関して定期的に調査しているが、日本語の需要は少ない」(州政府の関係者)という。DMV窓口の係員には、「最近の日本人は英語がよくできるから、日本語版もいらないのでは。あなたも試験、がんばってね」と励まされた。口先まで出かかった不満を思わず飲み込んだのは言うまでもない。


平成23年1月24日
外国人園児 早い支援を
教研集会 日本語教育方法を報告
日本の小中学校に通う外国人の子どもが増加する中、取り組みが遅れる就学前の外国人園児への日本語教育支援の動きが広がりを見せている。茨城県で開催中の日本教職組合(日教組)の教育研究全国集会では23日、大阪市中央区の市立幼稚園の女性教諭(42)が「少しでも早い段階から日本の言葉、文化になじむことが大切」と報告した。
この幼稚園は、インド、イラン、オーストラリア、中国、韓国、フィリピン人の親を持つ3~5歳の園児9人が通園。教諭は、ピアスを身につけるなど母国の習慣を受け入れ、日本語が通じていないと感じた場合、園児に繰り返し丁寧に話し掛けるなどの工夫が行われていると報告。「外国人の園児でも知りたいという気持ちが強く、遊びの中で言葉をどんどんと吸収していく。生活に必要な日本語なら1年ほどで話し始める」と指摘した。



平成23年1月16日 シリーズ「人物語 異国の風」
ブラジル移民1世 決意の帰国
昨年末、群馬県大泉町の町営ホールは正装した少年少女でにぎわっていた。この日は同町のブラジル人学校「日伯学園」の卒業式と進級式。「センセー」。大きな瞳に巻き毛の少女が経営者の高野祥子さん(65)の頬にキスすると、周囲に笑顔が広がった。
高野さんはブラジルで30年以上過ごした移民1世。帰国後20年にわたり、日系ブラジル人たちに日本語を教え、子どもたちにはブラジルの言語であるポルトガル語も教えてきた。「卒業後も笑顔を忘れないで」。学んだ言葉がその力になったらうれしいと思う。

「ショコ、ショコ」。同級生にはやし立てられ、教室で途方に暮れた。13歳でブラジル渡った直後のことだ。どうして「しょうこ」の名前がおかしいの――。辞書を引き、「腐った卵」の意味だと知った。意味が分からなければ言い返すこともできない。言葉の重要性を知った最初の体験だ。
中国で生まれ、終戦後に帰国。小学校卒業後、農業移民として一家でブラジルに渡った。同じ移民の光雄さん(74)と19歳で結婚。食堂経営などで働きながら、4人の子どもに日本語を教えることも忘れなかった。

子育ても一段落した1989年再び日本の土を踏んだ。働き始めた大泉町の工場では、日系人と日本人の間でトラブルが続発。言葉が分からずに悩む日系人の姿に、戸惑うばかりだった30年前を思い出した。
「仕事の後、食堂で日本語教室をやらせてください」。上司に訴えたが、実現せず、心に抱えたままブラジルに戻った。「困っている人に日本語を教える」と決意し、91年に再び同町へ。光雄さんが会社に勤める一方、三女のみどりさん(39)と2人、借家で日本語教室を始めた。
生徒たちの悩みにも耳を傾けるうち、「ポルトガル語も教えてほしい」と言われるようになった。
日本で生まれ、エキゾチックな容貌でも日本語しかできない。そうした子は日本語しかできない。そうした子は日本人からブラジル人と言われ、ブラジルに戻るとポルトガル語に不自由する。果して自分はどの国の人間なのか――。そんな悩みに応えようと、後に日伯学園となる教室を開いた。「日系人の誇りを持って」。日本語とポルトガル語の両方を教え、日本人と交流するイベントなどを開くNPO活動を始めた。
ブラジルで学び、食堂経営などの商売もして、「日本の美徳とされる謙虚や遠慮は、別の国で理解されないこともある」と実感している。「はっきりと言えばよかった」と後悔したことも多い。「若い人は積極的に海外へ出て、全く違う考え方やマナーを持つ人たちと触れ合ってほしい」
18歳までを対象とする日伯学園。リーマン・ショック後の不況で、2万5000円の月謝が払えない家庭が増えた。約3年前は230人以上いた生徒は約180人に減少。学校教育法に基づく「学校」ではなく経営は楽ではないが、光雄さんと3人の娘たちが教師役などをして支えてくれる。
ブラジルの新年度は年明けから。日伯学園も17日からスタートだ。今年も、「日本とブラジルの架け橋になれる子どもを育てていきたい」と願っている。(福土由佳子)




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消えた二十二巻

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