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「日本語」に関する新聞記事を集めてみました。

読売新聞から「日本語」に関して気になったものを書き起こしてみました。

平成23年1月23日 ワールドビュー
日常に溶け込む「日本」 ロサンゼルス支局長 西島太郎
ロサンゼルスのリトルトーキョーは全米最大の日本人街だと様々なガイドブックに書かれていたので、多くの観光客が集まるにぎやかな場所だと思い込んでいた。それだけに、初めて訪れた時は拍子抜けした。着任した昨秋、ダウンタウンの東にあるその街へ足を運ぶと、驚くほど閑散としている。
市内の陸運局(DMV)に運動免許に申請に行った時のこと。英語だけでなく様々な言語の交通教則本が並んでいる。スペイン語、ロシア語、韓国語、中国語、タガログ語、アルメニア語……あれ、日本語がない。カルフォルニア州政府に尋ねると、日本語版が発行されたのは1995年が最後で、今は作成されていないという。
日本人の存在感が海外で希薄になったという指摘が頻繁に聞かれる昨今、「ロスでも同じなのか」という思いが募ってきた。
日系人社会の先輩たちはどう感じているのか知りたくて、リトルトーキョーにある「全米日系人博物館」を訪ねた。ボランティアの日系2世リチャード・カラサワさん(82)が語ってくれた。
「リトルトーキョーが寂しい? そうだとしても、そんなに悪いことのようには感じられませんね。なぜなら、日系人が身を寄せ合って暮らす必要がなくなった証しなのですから」
博物館に展示された写真や資料は、戦前、戦中の日系人に対する差別と迫害のすさじまさを伝える。「日本人は学校にはいらない」「あんないまいましいやつらは今すぐ排除しろ」。そんな言葉が公然と叫ばれていた。カラサワさんも14歳で収容所に送られた。
「あなたは、今の時代の日本人で本当によかった。米国人の住宅地で堂々と暮らせるのです」
確かに、今では迫害どころか、日本の文化はロサンゼルスの風景の一つだ。
日本車だけではない。スーパーには豆腐やシイタケなどが並ぶが、ことさら「日本食材」を強調してはいない。「スシ」は、オフィス街ではメキシコ料理と並んで手軽なランチの定番だ。
日本文化が現地に根付き、溶け込んだからこそ、かえって日本の存在が見えにくくなったのではないだろうか。話を聞いているうちに、そう思えてきた。日系人たちが乗り越えてきた苦難の果てに今の「希薄さ」があるのだとしたら、それはむしろ喜ぶべきことなのかもしれない。
交通教則本についてがだ、「必要とされる言語に関して定期的に調査しているが、日本語の需要は少ない」(州政府の関係者)という。DMV窓口の係員には、「最近の日本人は英語がよくできるから、日本語版もいらないのでは。あなたも試験、がんばってね」と励まされた。口先まで出かかった不満を思わず飲み込んだのは言うまでもない。


平成23年1月24日
外国人園児 早い支援を
教研集会 日本語教育方法を報告
日本の小中学校に通う外国人の子どもが増加する中、取り組みが遅れる就学前の外国人園児への日本語教育支援の動きが広がりを見せている。茨城県で開催中の日本教職組合(日教組)の教育研究全国集会では23日、大阪市中央区の市立幼稚園の女性教諭(42)が「少しでも早い段階から日本の言葉、文化になじむことが大切」と報告した。
この幼稚園は、インド、イラン、オーストラリア、中国、韓国、フィリピン人の親を持つ3~5歳の園児9人が通園。教諭は、ピアスを身につけるなど母国の習慣を受け入れ、日本語が通じていないと感じた場合、園児に繰り返し丁寧に話し掛けるなどの工夫が行われていると報告。「外国人の園児でも知りたいという気持ちが強く、遊びの中で言葉をどんどんと吸収していく。生活に必要な日本語なら1年ほどで話し始める」と指摘した。



平成23年1月16日 シリーズ「人物語 異国の風」
ブラジル移民1世 決意の帰国
昨年末、群馬県大泉町の町営ホールは正装した少年少女でにぎわっていた。この日は同町のブラジル人学校「日伯学園」の卒業式と進級式。「センセー」。大きな瞳に巻き毛の少女が経営者の高野祥子さん(65)の頬にキスすると、周囲に笑顔が広がった。
高野さんはブラジルで30年以上過ごした移民1世。帰国後20年にわたり、日系ブラジル人たちに日本語を教え、子どもたちにはブラジルの言語であるポルトガル語も教えてきた。「卒業後も笑顔を忘れないで」。学んだ言葉がその力になったらうれしいと思う。

「ショコ、ショコ」。同級生にはやし立てられ、教室で途方に暮れた。13歳でブラジル渡った直後のことだ。どうして「しょうこ」の名前がおかしいの――。辞書を引き、「腐った卵」の意味だと知った。意味が分からなければ言い返すこともできない。言葉の重要性を知った最初の体験だ。
中国で生まれ、終戦後に帰国。小学校卒業後、農業移民として一家でブラジルに渡った。同じ移民の光雄さん(74)と19歳で結婚。食堂経営などで働きながら、4人の子どもに日本語を教えることも忘れなかった。

子育ても一段落した1989年再び日本の土を踏んだ。働き始めた大泉町の工場では、日系人と日本人の間でトラブルが続発。言葉が分からずに悩む日系人の姿に、戸惑うばかりだった30年前を思い出した。
「仕事の後、食堂で日本語教室をやらせてください」。上司に訴えたが、実現せず、心に抱えたままブラジルに戻った。「困っている人に日本語を教える」と決意し、91年に再び同町へ。光雄さんが会社に勤める一方、三女のみどりさん(39)と2人、借家で日本語教室を始めた。
生徒たちの悩みにも耳を傾けるうち、「ポルトガル語も教えてほしい」と言われるようになった。
日本で生まれ、エキゾチックな容貌でも日本語しかできない。そうした子は日本語しかできない。そうした子は日本人からブラジル人と言われ、ブラジルに戻るとポルトガル語に不自由する。果して自分はどの国の人間なのか――。そんな悩みに応えようと、後に日伯学園となる教室を開いた。「日系人の誇りを持って」。日本語とポルトガル語の両方を教え、日本人と交流するイベントなどを開くNPO活動を始めた。
ブラジルで学び、食堂経営などの商売もして、「日本の美徳とされる謙虚や遠慮は、別の国で理解されないこともある」と実感している。「はっきりと言えばよかった」と後悔したことも多い。「若い人は積極的に海外へ出て、全く違う考え方やマナーを持つ人たちと触れ合ってほしい」
18歳までを対象とする日伯学園。リーマン・ショック後の不況で、2万5000円の月謝が払えない家庭が増えた。約3年前は230人以上いた生徒は約180人に減少。学校教育法に基づく「学校」ではなく経営は楽ではないが、光雄さんと3人の娘たちが教師役などをして支えてくれる。
ブラジルの新年度は年明けから。日伯学園も17日からスタートだ。今年も、「日本とブラジルの架け橋になれる子どもを育てていきたい」と願っている。(福土由佳子)




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消えた二十二巻

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