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日光の関係者は木戸孝允を、歌舞伎関係者は井上馨に、少しは感謝した方がいいじゃない。

松尾正人「幕末維新の個性8 木戸孝允」(吉川弘文館)から。
木戸孝允

日光の旧観保存
東北巡幸中の木戸孝允は、日光に着いた明治9年(1876年)6月6日、満願寺三仏堂の保存を訴える町民の嘆願をうけた。木戸は翌日、天皇に供奉して東照宮神殿や宝物を見学。「堂宇は実に本邦無類の壮観なり」との感慨を抱いている。
この日光山につては、明治四年正月以降に日光県のもとでいわゆる神仏分離が進められていた。「二荒山神社と東照宮の自立をはかり、従来の二十六院と八十坊からなる日光山満願寺の縮小を命じていたのである。四年三月までに宝物・画像や勅願などの区分が断行された(拙稿「府県創設期の宗教問題」)。そして七年三月には、満願寺堂搭の排除・移転を求める二荒山神社、本地堂を説教用に据え置こうとする東照宮、三仏堂を取り壊した売却代金で本地堂などの移転を行おうとする満願寺との間で対立を生じている。結果は、本地堂を据え置くこと、その代りに三仏堂を縮小して満願寺に移転することが決まった。それに対しても町民から現状のままの三仏堂保存の訴えが噴出し、木戸への嘆願になったのであった。
日光町民は、三仏堂の縮小移転などによって、それが日光全体の衰退につながることを危惧した。木戸は、この町民の訴えに共鳴し、六月九日には京都府権知事槙村正直に宛て、「神祇官一時暴論の余波」が日光県内に残って神仏分離が強行され、町民の「嘆願も不一形」と書いている。木戸は日光の建物が極めて壮観で、「今後容易に可出来もにに有之間敷」とし、「後代の歴史」について保存いたしたいとの思いを強めた。その上で、日光の景観を失っては、その地の「不繁盛にも相成」と町民の嘆願に思いを寄せている。大久保内務卿が日光県の方針を追認していたことに対しては、内務大丞品川弥二郎に三仏堂取り壊しの中止に尽力するように求めた(「木戸孝允文書」七)。
そして木戸は、帰京後も尽力を重ね、七月三十日には、三仏堂を旧観のままに満願寺へ移遷することとし、保存費として御手許金三〇〇〇円の下賜がうけられるようにした。木戸は七月三十日、日光の三仏堂をこわして満願寺へ移し、縮小建築することに対しては、「人民云々苦情」があって種々尽力し、「其儘満願寺へ移す決せり」と記した。八月十日には、木戸自身が鍋島幹日光県令を呼び、「三仏堂旧観のままを不変」に移転することで、下賜金を手渡している。ついで、同年十二月には満願寺が東照宮内の護摩堂と輪蔵の据え置きを願い出て、栃木県から認められた。十二年七月には三仏堂が旧観のままに移築されて満願寺の本堂となり、日光の壮観が、日光町民の願いをうけて維持されることになったのである。


日光三仏堂日光・輪王寺三仏堂(画像は輪王寺ホームページから)
日光の町及び寺を救ったのが木戸孝允だったとは知らなかった。
となれば、木戸孝允がいなかったら、日光の社寺が世界遺産に選ばれることもなかったのではないだろうか。

明治維新の偉人たちがエライのは、外国のものを積極的に取り入れつつも、こういった日本の文化や建造物を守ったところにある。
当サイトでは何度も登場している井上馨だが、彼もまた日本文化の保護に務めた。「歌舞伎」や「茶の湯」が今の地位を保っているのは、彼の功績が大きいというのは、過去記事で紹介しています。
日本芸能にも大きく貢献した井上馨。 その他エピソードなど。
「市川団十郎」と「三島由紀夫」と「井上馨」
など。
市川海老蔵が「俺はのちに人間国宝になる」なんて大きな顔をして酒を呑めるのも、井上馨がいたからだ。彼がいなかったら、歌舞伎は江戸時代に流行った演劇の一つくらいの位置付けしかなされなかったはずだからだ。
だがしかし、歌舞伎関係者が井上馨に感謝の意を示したなんてことも、顕彰しようなんて話も、いまだかつて聞いたことがない。
また、日光の社寺や日光の町が、大恩人である木戸孝允に対して、賞辞・賞賛の言葉を贈ったり、銅像や記念碑でも建てようなんて話も、これまた一度も耳にしたことがない。
……。
ちょっと冷た過ぎやしませんか?
これじゃ忘恩と言われかねないよ……。

追記  最近、幕末・維新の本ばかり読んでいる。
中でも木戸孝允・桂小五郎に惚れてしまいました。暇があったら木戸孝允・桂小五郎のカッコイイところを引いていきます。
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「涼宮ハルヒの驚愕」が届きました。

5月25日は、「涼宮ハルヒの驚愕」の発売日。
涼宮ハルヒの驚愕 
アマゾンで先行予約していたものが届きました。
「驚愕」の前・後巻に、初回限定版特別小冊子「涼宮ハルヒの秘話」が付いてました。
涼宮ハルヒの秘話
まず、おまけの「涼宮ハルヒの秘話」をパラパラめくる。
スタッフの作業場所の写真が載っていて、イラスト担当の「いとうのいぢ」の本棚に東野圭吾の「幻夜」や奥田英朗の「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」を発見して、思わずニンマリする。
ほかに面白かったのは「涼宮ハルヒ」制作秘話の中のボツタイトル。
「ハルヒ伝 閉鎖空間変化自在編」というのが内容そのものだったので笑った。

では、本編へ突入、と思いましたが、細かい内容忘れてしまっている~。まずは前作「涼宮ハルヒの分裂」から読み直さないと……。
私には半年前のことですが、昔からのファンにとっては4年ぶりですか……。
過去記事 「徒然草」と「涼宮ハルヒの憂鬱」と「三島由紀夫」
まさかこのおっさんが「涼宮ハルヒシリーズ」のファンになるとは半年前には思わなかった、本人が一番驚いているくらいです。
まあ、何にせよ、アニメ・マンガ・ラノベも日本文化です。
過去記事
「アニメ・マンガ」で「文化防衛論」
アニメは日本文化を救えるか 第3回 ソフト・パワーの時代。中国がパンダなら、日本はアニメだ!

あっ、そういえば、和田アキ子が「涼宮ハルヒなんて、みんな知らないと思うけど・・・私、知らないもん」なんて言った件がありましたが、これには私も「激怒」してしまいました。事の顛末
声優さんがどういわれようと構いませんが(ハルヒ役としての平野綾は好きですよ)、作品そのものを冒涜することは許せません。
過去記事 「みのもんた、新作ハリーポッターのネタを割る。私、怒ってます!」のときと同じような感情が湧きおこりました。
まあ、それだけ「涼宮ハルヒシリーズ」が好きだということですね。

「銀」は日本人の美意識、つまり魂だということ。

司馬遼太郎 ドナルド・キーン 対談「日本人と日本文化」(中公文庫)から、「金の世界 銀の世界」という章の部分を取り上げます。
日本人と日本文化 司馬遼太郎 ドナルド・キーン

要点は、日本文化は「しぶい銀の文化」であるが、外国との交易が盛んになるとキンピカの「金の文化」になる。これを時代とともに繰り返えしているということ。
また、この「銀の文化」は日本文化特有の「美」であるが、逆に、けばけばしい金の文化は「朝鮮」や「中国」、「ヨーロッパ」で好まれるということといったことが語られています。
以下、その部分の書き起こし。興味深い部分は太字にしてみました。

(前略)
司馬  (銀閣寺を見て)今夜は、たまたま状況がよくて、三日月がかかっていまして、……さっきまでかかっていた雲がスッと晴れました。そして月光といえば淡い月光のもとで見る銀閣というのは、美といえば完璧な美みたいな感じがしました。
(中略)
キーン  ここでちょっと銀閣寺の「銀」ということを考えてみたいのですが……。要するに当時の日本人にとっては、どうしても銀よりも金のほうが大切で貴重だったはずです。もうすでに義満が建てた金閣寺があって、これから自分が建てるものははじめから前のものほどになれないということを知っていた。定義として銀は金ほど貴重ではないし、そして実際の建物からいっても、金閣寺のほうがはるかに立派であったでしょう。義政は、はじめから自分の世界に限界があると感じたのじゃないかと思います。
司馬  むしろ限界を意識的に設けておった人かもしれませんね。
キーン 自分の時代は金の時代ではなく銀の時代である、と。しかしここで私は考えるのですが、日本人の趣味からいうと、どうも金より銀のほうが合っているような気がする。金のような温かい黄色い色よりも、銀のほうが合っているような気がする。銀のような淋しい色の方が日本的じゃないかと思います。ちょうど世阿弥が『九位』で書いたように、花にはいろいろな段階がありますが、一つは銀の鉢に雪が積もっているような美しさ――――これは私にとってひじょうに日本的な美の観念です。そういう意味で、あるいはあとの時代の日本人にとって金閣寺より銀閣寺のほうが親しみやすかったのではないでしょうか。しかも東山文化の墨絵、お花、茶の湯というものは、同じ銀の世界のものとして受け取られたと思います。日本にはあらゆる趣味があるにちがいないのですが、もしも日本的な趣味を一つだけに絞ろうと思ったら、私は東山時代の文化じゃないかと思います。
司馬  私もそう思いますね。
キーン 絢爛たる『源氏物語絵巻』は、あるいは日本の絵画として最高にすぐれたものかもしれないのですが、そういうものは、二つか三つしかない。しかし、銀閣寺の東山文化の伝統を引いているすぐれた作品は、無数にある。それは日本人にとっていちばん親しみやすい、理解しやすいものだからでしょう。
司馬  日本人にとっては、ある意味では、金閣寺のほうはどうもけばけばしくて、銀閣寺のほうがしぶいと思ってしまうところがありますね。それはさっきの金・銀の比較でそう思うんでしょうね。
(中略)
司馬  さっきおっしゃった日本人の好みは金か銀かということですけど、金閣をつくる足利義満の時代というのは、東アジアの貿易圏というのがありますでしょう。揚子江より南のほうの沿岸地方に、いまの香港のようないろんな貿易港ができはじめたころで、貿易商人が日本まで来てる。日本からも行くわけです。だから、足利義満もそれにのっかって、貿易で金儲けをしたい、足利幕府というのは将軍家として貧乏ですから、金儲けのことばかり考えている。領地はほとんど有力な大名が握っているし、だから、自分の金儲けのために明へ貿易船を出すでしょう。当時そういう東アジア圏の貿易の勃興時代に義満はのっかっているわけです。だから、義満の庫にはずいぶんとお金が入った。義満を儲けさせるように具体的に動いていたのは京都の町民ですね。
(中略)
ところが足利義政にはその貿易ができなかったわけですね。義政のときになると、鎖国じゃないのに、あれはどういうわけかな、なんだか外国から受けるいろんな事情が壁一重だけれども閉ざされてしまう時代で、そういう閉ざされた感じの中から東山文化という、キーンさんのおっしゃったいわゆる<日本的>な特殊文化ができるんです。これがいわば義満の金に対する義政の銀の文化ですね。
ところが、そのずっとあとになってくると、たとえば織田信長が京都を支配することになってくると、金があざやかに復権します。盛んに彼は「洛中洛外図屏風」というのを画かせます。あれは信長のアイデアですね。信長はいま生きていたら、芸術家か何かになったんじゃないでしょうか。(中略)
とにかく金キラの極彩色で、しかも必ず必要な点景人物がいるのです。それはポルトガル人、南蛮人で、この点景人物がいなければ洛中洛外図は成立しない。日本の犬でない犬も歩いている。必ず歩いているのです。それからアフリカ人のような者もいる場合がある。それは南蛮人が従者としてつれている。南蛮的な点景が入らないと花の都の景色にはならない。
私の家にも「洛中洛外図屏風」の、まだこのあいだ書いたかと思われるようなものがあったのですよ。私はそれを虫眼鏡でさんざん楽しんだのですが、とにかく南蛮人がいっぱいいるのです。一度京都博物館で洛中洛外図屏風展という展覧会がありまして、そのときにその屏風は出陳されたたくさんの屏風のカタログだけを見たのですが、やはり全部に南蛮人がいます。
だから話は結局、金キラの金と、しぶい銀の話に戻るのですが、足利義政はそうやって日本的なオリジナルをつくったかもしれない。それによって東山時代というものがつくられたかもしれない。けれども、あとでもう一ぺん日本は膨張するんです。こんどは南中国でなくて、南蛮にひろがっていく。その時代は具体的にいったら、結局織田・豊臣時代、徳川初期、それくらいまでが日本文化の第二の青春時代で、さっき話に出たキリスト教が入ってきたり、いろんなものが入ってくるわけですけれども、「洛中洛外図屏風」で象徴されるのは、日本文化の青春みたいな感じです。東山時代というしぶい銀の時代があるのですが、そのしぶさもいい。だが金々満々も使おうというところがあるでしょう。そして、たとえばお城の屏風なんかを画く場合に、金屏風に大きな松の木を画くでしょう。あれは絵師があまりに忙しかったからだという説がありますね。つまりほうぼうでお城ができるし、大きなものを画かなければ間に合わないから、狩野なにがしの工房みたいなものがあって、ほうきのような筆で画いた。素描を先に描いておいて、弟子がいろいろ色をつけるのだろうけれども、みんな大ぶりになって豪華絢爛ですね。日本人の趣味における金の復活だと思うんですよ。あれはやっぱり足利義満の時代と同じように、世界にパッと窓が開かれていた、その気分が金だったのではないか。世界にたいして窓を閉ざすと、〈日本的〉なものが生まれる。となると、銀が復活する。日本の文化史のなかでは。このことはくり返すようですね。

キーン 何がいったい〈日本的〉であるか。日本独自のものは何か。これはなかなか言えません。たとえば陶器のなかで何が日本的か聞かれた場合、もちろん私の意見は、おおかたの人と同じような意見になります。柿右衛門のようなものじゃなくて、志野とか、織部とか、そういうものがいちばん日本的であると思うのです。ある意味ではひじょうに粗末に見えるようなもの、もちろん、わざと粗末さを出すために努力したのですけれども、きれいな伊万里焼きとか柿右衛門焼きよりも、あのほうがどうしても日本的だと私は思う。かりに中国に同じようなものがあったとしても、また朝鮮にまったく同じようなものがあったとしても、美術としてちょっと見られないような……。
司馬  つまり中国や朝鮮ではいいものとして礼遇されなかったですね。
キーン 向こうの人たちは、それは百姓が使うものか、それとも、できの悪いものと思ったにちがいないのですけれども、しかし日本人は、わざとそういう粗末な感じを出そうとして努力した。――――私が言うまでもないことですけれど、今日までひじょうに日本の影響を受けてきましたから、すでに外国人としての新鮮な目はもっていないといっていいでしょう。しかし、私はああいう作品を見ると、やはりひじょうに日本的だと思う。どうしてあれが日本的であって、日本でできた青磁が日本的でないか、よく説明しにくいですけれども、どうしてもそう感じるのです。
司馬 それはわかります。たとえば千利休という人がつまらない百姓茶碗をとり上げて、これは千金の価だと言って美の発見をしますね。利休という人は、絵を画いたこともなければ建築を造り上げたこともないし、要するに芸術家としてのいかなる創造もしていないんですけれども、道ばたに転がっているような茶碗を変な具合で発見していく点での芸術家だと思います。ただ発見してくるだけではつまらないというので、それを見ていた古田織部が、ちゃんとした茶碗をいったん割るんですね。割って接ぐんです。金と漆をこね合わせて接ぐと、接ぎ目が自然な木の枝みたいな格好になって、その色合いといい、それによってふえた重みといい、とてもいいんだといって喜ぶでしょう。割れたものを接いで喜ぶという美意識は、(日本人以外に)どこにもないでしょうね。割れたものというより、むりろ割って、それから接いで、それで創造したことに古田織部にいわせればなるわけですけれども。
キーン 西洋文化には、ああいうものはほとんどないと思います。ヨーロッパでは、たとえばレンブラントの油絵で、某々家族のなかにずっと前からだいじにされていて、いま出してみると、レンブラントが画いた当時と全然変わらないような色彩のものであったという、それが最高にいいものだということですね。つまり時間が全然ない。レンブラントの時代と現代との時間が全然たっていないように、画いた同日のような色彩の感覚があったら、最高に喜ばれるのです。ところが、私はいつかアラブ人の美学についての講演を聞いたことがありますけれども、アラブ人はそうじゃないようですね。やっぱり時代を感じないとおもしろくないという考えが強い。私はアラブ語は知らないのですけれど、バーラックという言葉がある。バーラックは、ヨーロッパの言葉バロックと密接な関係があります。バーラックという意味は、宝という意味です。しかし、私の理解したところでは、時代ととも物につく……なんというか、定義しにくい神秘なものです。だからたとえばレンブラントの絵だったら、もし当時と全然変わらないようなものを現在でも見られるとしたら、バーラックではないのです。しかし、もし三世紀前から今日まで残ってきた味とか、三世紀前からのひびがついていたら、そのときこそはじめてバーラックを感じさせるんです。それは利休の精神とそれほど変わらないような気がします。
司馬  なるほど、それはよく似ています。利休の精神どころか、いまだって、私ども京都の太秦の広隆寺で弥勒菩薩を見て、これはいいものだとほんとうに思いますけど、あれはできあがった当座は金箔か何かを押してあったんでしょう。キンキラキンのものでしょう。頭だって、何かちゃんと飾りがあったろうと思うんです。もとの塗りが全部はげて、地肌しか見えない。それも千年くらいたっていて黒っぽくなっているというので、なにかおもしろさとか美しさを感じていくというところがありますね。中国人ですと、私はあれは塗り直すんじゃないかと思います。朝鮮では必ず塗り直しますね。たとえば、法隆寺などの古い建物で、朱塗りもはげていますけれども、朝鮮だと、いちいち塗り直します。そして青、赤、ひじょうにどぎつい、どちらかといえば日光東照宮に近いような状態にしておくことを、喜ぶほうです。
(後略)

先日、ドナルド・キーンさんは、東日本大災害があって日本に永住することを決めたというニュースを聞いて感銘を受けました。(当サイト的には三島由紀夫関連でお世話になっております)http://www.news24.jp/articles/2011/04/27/10181731.html
本書を読むと、日本文化に深い愛情があるので、司馬遼太郎よりも鋭い視点が多々見られるのが面白い。

さて、ここでは、「銀=日本人の美意識、つまり魂」であるということだけでも押さえておいてください。
これは資料4になります。

吉田松陰の魂はどこへ

吉田松陰についての3回目

古川薫「桂小五郎 奔れ!憂い顔の剣士」(小峰書店)から。
古川薫「桂小五郎 奔れ!憂い顔の剣士」(小峰書店)
吉田松陰に関する場面を引用してみました。

(松陰の処刑の)翌朝、尾寺新之丞と飯田正伯が小五郎を訪ねた。ふたりとも松陰の門下である。
「さげ渡してもらうように頼んでみましょう」
彼は獄中の松陰に差し入れをするとき、ずいぶん賄賂も払ったので、牢番の金六と顔なじみになっている。役人への賄賂の分配なども金六が手配してくれるというので、小五郎は五両ばかりを尾寺に渡す。夜になって、飯田がやってきた。
「あすの昼すぎ、回向院で遺体をひき渡してくれるそうです」
回向院は、東京都荒川区南千住に現存する寺である。小塚原刑場での処刑者を埋葬するために建立された寺院で、小伝馬町で処刑された者の遺体もここにはこばれてくる。打合せどおり小五郎が伊藤利輔(のち俊輔・博文)とつれだって回向院に行くと、飯田が大きい甕と墓標にする自然石を積んだ荷車をひいてきた。
まもなく役人があらわれ、境内の西北の一隅にある藁小屋に四人を案内した。粗末な棺桶がひとつ据えてあった。
「吉田氏の死体です」
役人が指さすと、尾寺が走りよって桶の蓋をとった。首と胴の離れた人間の屍が、無造作に投げ込まれている。全裸にされていた。衣服は、刑場で死人をあつかう「小屋者」たちの手ではぎとられるのが習慣である。彼はそれを売りはらって酒代にする。
どす黒く血に汚れた首は、まさしく松陰だった。
「先生!」
尾寺が、泣き声で首をとり出し、乱れた髪をたばねた。小五郎は汲んできた水をそそぎ、松陰の顔やからだを丁重にぬぐい清めた。伊藤が、杓の柄を折り、それを芯にして首と胴をつなごうとすると、
「重罪人の死体は、後日検視があるかもしれぬ。首をつないだことがわかると、拙者らが咎められるのだ。そのままにしておいてくれぬか」
役人は申し訳なさそうにいい、四人が頷くのをたしかめてから、足音をしのばせるように立ち去った。
「かまわぬ、首はつないだままでよい」
小五郎はいいながら襦袢を、飯田は下着を脱いで松陰に着せ、伊藤は帯をといてそれをむすんだ。
「おれの着物は汚れて臭い。先生が迷惑されるから、やめておく」
といい、尾寺はうなだれて小五郎たちがはたらくのを見ている。衣類にくるまれた松陰の遺体を小五郎が泣きながら抱えあげ、甕のなかにおさめた。

涙なしには読めません。

そして、松陰が処刑される前日に書いたのが「留魂録」。
吉田松陰「留魂録」

以下、中央公論社「日本の名著 吉田松陰」の解説から。現代語訳から

松陰は、安政六年十月二十七日の朝、評定所において罪状の申し渡しがあり、その日の午前、江戸伝馬町の獄舎において処刑された。「留魂録」は、処刑前日の十月二十六日の夕方に書き上げたもので、いわば松陰の門下生等への遺書というべきものである。すでに死刑の宣告を覚悟しており、幕府役人の取り調べの様子や獄中の志士の消息を記し、松陰自身の心境と後に続く同士への遺託が切々と認められている。
自筆本は二通作られたようで、一通は、江戸の同志から萩の高杉晋作・久坂玄瑞・久保清太郎名宛に送られた。他の一通は同囚の者に託し、それが明治になって松陰の門下生の手に渡り、萩の松陰神社に所蔵されるにいたった。


以下、心に響く一文があったので、引いてみた。現代語訳から。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置まし大和魂
(私の肉体は武蔵の国の江戸の野原で滅びてしまっても、大和魂だけは、永遠に生きつづけるのだ)

……今日死を覚悟しての心の平安は、春・夏・秋・冬の四季の循環において考えるところがあったからだ。
思うに、かの農業のことをみるに、春に種をまき、夏に苗を植え、秋には刈り、冬はその果実を貯蔵する。秋・冬になると、百姓はみなその年の労働の成果を喜び、酒を造り、甘酒をつくり、村中に歓声がみちみちているのである。いまだかつて、秋の収穫期にのぞんで、その年の労働が終ることを悲しむものを聞いたことがない。
私は今年で三十歳になった。まだ一つのこともなすことがなくて死ぬのは、穀物のまだ花が咲かせず実を結ばないのに似ているから、惜しいような気持ちもする。しかしながら、この私の身についていえば、花咲き実を結ぶのときである。かならずしも悲しむことはないであろう。なぜならば、人間にの寿命には定めがない、穀物の成育のようにかならず四季を経過しなければならないのとはちがうのである。
十歳で死ぬ者は、十歳の間におのずから四季があり、二十歳にはおのずから二十歳の四季があり、三十歳にはおのずから三十歳の四季がある。五十歳、百歳には、それぞれおのずから、五十歳、百歳の四季があるものだ。十歳をもって短すぎるというのは、数日しか生命のない夏蝉を、何千年も生きているという冥霊とか大椿とよばれる長生の霊木のようにしようと欲するようなものである。百歳をもって長すぎるというのは、この冥霊や大椿の寿命を夏蝉のごとき短命にして欲するようなものだ。そのどちらも、天命に達しないとすべきであろう。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、また花咲き実は結んでいる。それが実のよく熟していないもみがらなのか成熟した米粒なのかは、私の知るところではない。もし同志のなかでこの私の心あるところを憐れんで、私の志を受け継いでくれる人があれば、それはまかれた種子が絶えないで、穀物が年から年へと実っていくのと変わりはないことになろう。同志の人々よ、どうかこのことを考えてほしい。

この魂の叫びは、松下村塾の門下生の高杉晋作や、松陰を師とした桂小五郎らに受け継がれたのだ。

これは資料3となります。

吉田松陰の母・滝も偉かった 後篇。 

小川煙村著 「幕末裏面史 勤皇烈女伝」 (新人物往来社)の「吉田松陰の母・滝の後篇」です。
前篇はこちら
吉田松陰 掛け軸

2、大いなる母の愛は輝く

杉家の総領息子梅太郎(後に民治)は家をつぎ、次男松陰は吉田家を嗣ぎ、三男敏三郎は不幸にも障害者であった(明治九年三十二歳で没す)。長女・千代は児玉祐之に嫁ぎ、二女・寿(ひさ)は小田村伊之助(楫取素彦男爵)に縁づき、三女・文は久坂玄瑞の妻となり、玄瑞、堺町御門で自刃の後、約二十年間未亡人として暮らしていたが、姉の死後、請われて楫取の後妻となり、美和と名を改めて、男爵夫人として令名があった。
三男三女の中、不幸な第三男を除いては、皆然るべき人となっているところを見ると、杉家の庭訓がいかによかったかを想像し得るのである。理屈はぬきにしても、彼らの母たる滝の子女養育が現実に美果を結んだ事は、事実が雄弁に証言しているのである。
中でも松陰は万人に傑出していた人物であるだけに、その母の母性愛は松陰の多難数奇の運命の展開につれて、惜しみなく注がれたのであった。
松陰二十一歳の折、藩の許可を得て、九州を歴遊している。この行に得た知識は松陰の生涯にかなりの影響を与えているものであった。すなわち長崎で中国語を学んだり、蘭館蘭船を訪れているほか、いたるところで文武知名の士と交際している。翌年藩主に従い江戸に行き、ここでも新しき知識と新しき経験とを得ている。さらに藩の許可をまたずして同年東北旅行をした。この時に水戸へ行ったことが松陰の勤皇思想に格段の刺激を与えることになった。しかし無断で旅行したのだから、嘉永六年には、今度は正式に藩の許可を得て、四国、京畿、中山道、江戸と旅行している。この年浦賀に米鑑が来てにわかに天下騒然たるものがあり、七月ロシア鑑が長崎に来た。松陰はロシア鑑搭乗の志を発して、長崎にやって来たところ、時すでにおくれてロシア鑑退去後であったから手を空しくして引き上げた。
安政元年(1854年)米鑑が又もや来る。松陰ときに二十五歳。金子重輔と謀って米鑑に赴き、これに乗せて貰って海外渡航を企てたが、米鑑から拒絶されたのみか、国禁を犯した罪で、長門野山の獄に下される事になったのである。
翌年十二月、野山の獄を出て家に錮せられ、三年七月萩城下郊外の椿郷の東村に松下村塾を開く。
この海外渡航失敗辺りから、母滝の心痛はますます加重して行くばかりであった。母として誰しも我が子を思わぬものはあるまい。しかも国家に御役にたちべき我が子を持つだけに、松陰の母の気苦労は一通りではない。それが大それた国禁を犯した。「思い切ってようおやりだった」と褒めてやりたい。「余りやり過ぎでないか」とたしなめてもやりたい。けれどただ良き母である彼女は、我が子のした処置については是非を論(あげつろ)わぬ。獄裡にいる松陰の身体を案じるのでもう胸は一杯である。
下獄の松陰に差し入れに奔走したのは、兄梅太郎であったけれど、その差し入れ物の一々に心づくしをこめたのはもちろん母の慈愛であるのはいうまでもない。正月の餅、橙、醤油の実等すべて松陰の好むものばかりが贈り届けられた。衣類敷物からこまごましたものまで、母ならでは心づくしの数々の温かい差し入れがあった。正月二十四日は母の誕生日である。この日特に御馳走を運び込まれた時には、多感な松陰はその日が何の日であるかを思い当たるとともに、眼に熱いものの沸くのが禁じられなかった。かくて母の心づかいに慰められ、励まされて、松陰は獄中において読書を貪ることができたのであった。
松陰の松下村塾の教育というものはいまさらあらためていうべきものでもあるまい。維新勤皇運動の大きな一部門はここから開かれたのある。その村塾に家庭的ななごやかさが溢れていたのは、松陰の母が同時に松下村塾の母であったがためであった。
門下生の自炊者に対する指導及び助力、御弁当持参者に対する心くばり。若い門下生にとっておいしい食べ物を提供されるほど大きな楽しみはない、ドッサリ量のある御馳走はどんなに嬉しいものであったろう。特に風呂を焚いてくれた時なぞは皆は大声をあげて喜んだものである。かかる松陰の母の心づくしは、松下村塾から出た明治の人材の口から永く感謝されて語られるのであった。
安政三年、梅田雲浜が長州にやってきて、ある日松陰を尋ねたことがある。折角来てくれた雲浜をもてなすには松陰の家が貧し過ぎた。然るに「御遠方をよく御出でなさいました。何はなくてもまず御一献」と母が酒肴を出した時には、松陰は有り難いと思いつつ客と夜遅くなるまで熱心に国事を語ったのである。あとで聞くと「梅田という先生は名高い御方であるから、どうにかして御馳走したいと思って」母は養母から記念として貰った笄(こうがい)と櫛とを金子に替えて、それで御馳走したのであった。これには松陰は頭を低う下げて御礼をいうほかに言葉がなかったのである。
雲浜の妻にもこれと同じ様な話があるが、維新当時の貧乏な勤皇家の家庭の女性が、よくも客を愛し、よくもその志を解していたことが、こんな話でもはっきりとわかるのである。
それに松陰は生涯妻をもたなかった上、女性との関係も絶えてなかったから、松陰の生涯における女性の心づかいは、その妹達も随分と尽くしたであろうとも、ほとんど全部を引き受けたのである。内助の妻がなかった松陰のうしろには、常に母の大いなる愛がかばいつづけていたのであった。
安政の大獄には松陰もその厄に遭った。井伊大老の専横が天下の志士を憤激せしめ、老中間辺下総守が大老の命で京都に入り、志士連を片っ端しから投獄した故、松陰は間部要撃の案を立てた。その事からして松陰は安政五年十二月再び野山の獄に投ぜられた。すべてが意の如くならず、幕府及び藩府はわからずやで、尊皇攘夷の大義が容易に貫徹されぬと知るや、松陰は生きているよりむしろ死を選んだ。それで絶食の決心をして食事を峻拒したのである。肉親の者達はこれを憂いて色々と食事を進めるが、頑として応ぜぬ。父や叔父からも懇々と諭した手紙をやるけれどもなお容れようとせぬ。
母はたまりかねて手作りの料理をこしらえ、これに思いを述べた手紙を添えて送った。手紙の中には「食事を御絶ちとか承って驚きました。それで亡くなっては不孝この上なく、口惜しい限りと思います。母は病身でとても長生きはできますまいが、それでも野山の獄にそなたが御無事に生きておられると思ったら、それをたのみにして、そなたが生きているという事だけで、母の魂の力となりますから、短気を起こさずに身体を大切にして下さい。この食品は母がこしらえたのですから、この母のために食べて下さい」と書いてあった。
実際その頃母はめっきり弱っていた。それは松陰もよく知っている。その病身の母が心を砕き身を忘れて、子に食べさせたい一心こめての手料理。もったいなさに松陰は涙ながらに食べることにした。これで松陰の絶食は破れて、家族親戚友人はては師を思う門下生がどんなに喜んだか、思うても母の愛は神々しくも大きなものである。
かほど母から愛されていた松陰は、安政六年五月二十五日江戸送りとなった。その前日藩の情けによって突然袂別のために実家へ帰ったのであった。逢うのは別れの前触れである。喜悲は同時に襲う。まして母たる滝の胸中は察するに余りある。風呂場へ入った松陰の背を流してやりながら、
「大さん、無事で帰ってくれるでしょうね」
「ハイきっと帰ります」
しかし生きて帰っては来なかった。同年十月二十七日、三十歳にして江戸伝馬町の獄において斬首の刑に処せられたのである。
出発の二十五日は五月雨のうっとうしい雨天であった。松陰を乗せた網乗物はふりそぼる雨の中を、萩から遠ざかった。これを見送った母は半ば喪心の思いがしたのである。
松陰の死後にも、母はいくその嘆きの種があったのである。婿の久坂玄瑞が元治元年七月、京都堺町御門の戦で鷹司邸に自刃した。今ひとりの婿小田村伊之助も勤皇家であったために、野山の獄に投ぜられた。明治九年には玉木親子が萩の乱で死んでいる。皆その当時では反逆者の如く見られていただけに、これに対する滝の心痛は耐えがたきものがあったのである。しかし天運はめぐり来た。王政復古し、松陰はじめ勤皇で苦労した人々は顕彰された。明治二十一年四月松陰は靖国神社に合祀、二十二年二月十一日正四位を追贈。あまつさえ明治十五年十一月世田谷に松陰神社と祀られたのである。松下村塾の門下生は、明治政府の柱石となる。偉大なる松陰の母として滝女は、上下から敬視され、畏き辺よりも恩賜の栄を辱うし、明治二十三年八月二十四日、八十四歳の高齢でこの世を辞したのである。その喪報に接して、本願寺法主大谷光尊はわざわざ弔歌一首を贈った。
 くにのため尽くしヽのみか伝へたる
  みのりの道はふみはたがへず
滝女の晩年は、この和歌にあるが如く、仏法修業に専念して、ひたすら弥陀の教えに従うていたのであった。

松陰が母の手料理を目の前にして絶食を断念するエピソードと、母・滝と子・松陰の最後の会話は印象深い話ですね。

松下村塾についての記述は、吉田松陰本人が安政五年に書いた「戊午幽室文稿」の中の「六月二十三日 諸生に示す」にあるので書き起こしてみました。(中央公論社「日本の名著 吉田松陰」現代語訳から) 

松下村塾で礼儀作法を簡略にし、形式的な規則をつくらないようにしているのは、禽獣や夷狄のまねをしようというのでもなければ、無為・自然を道徳の基準とし、虚無を宇宙の根源とした老荘の学派や、世を避けて清談のみを事とした竹林の七賢などを慕ったものではない。
ただ、いま世間でいうところの礼法が末に流れ、上っ面で軽薄なものとなっているから、誠心誠意、まごころのこもったものにしたいと考えているのみなのである。安政四年十一月、八畳一室の新塾がはじめてつくられてから、諸君はみなこの方針のもとでお互いにつき合い、だれかが病気をし、困ったりしているときには助け合い、力仕事やなにか起こった際には、それぞれ手伝いあったものだ。それはまさに一心同体、家族同様だったのである。だから、安政五年三月のこの塾の増築のときにじゃ、そのほとんどは大工の手を煩わすことなく出来あがったのだ。塾生がそれぞれ自分の仕事として協力したからである。(補注 塾の増築 安政五年二月ころから八畳一室の塾舎だけでは狭いので増築しょうという案が塾生間でおこり、その年三月に十畳半を建て増し、塾舎は合わせて十八畳半となった。現在松下村塾として保存されているのはこれである)

 松下村塾松下村塾
なるほど建物は塾生たちが手伝いをして建てたんですね。こういう家庭的な雰囲気は母親の影響が強かったのではないかと思います。

そして、この「諸生に示す」の文章の後半がいい。

僕はかつて大和の谷三山翁を訪ねたことがある。そのとき三山は言った、「私はつんぼだが、この片田舎で学問を講じている。私にとってうれしいことは、門人たちがお互いに敬愛しあい、兄弟のように仲よくしていることだ」と。そして、そのいくつかの例を挙げて説明した。僕はそれを聞いて実にうらやましかった。
そして、心中「これは徳のある人の言葉だ」と思ったものだ。諸君にはたびたびこのことはいったことがある。諸君もまた僕のその意のあるところを深く諒解し、久しい間にそれはこの塾のいわば伝統のようになった。それは中国の董仲舒の門下といえどもこれに及ばないほどなのである。そこで僕は考えた。これはやろうとすれば決してできないことはないのだ、と。またかつて王陽明の年譜を読んだことがある。そのときも思ったものだ。その門人が啓発されるのは、多くは自然を相手にした生活の間においてなのだ、と。そして、心ひそかにその理のあるところに感服していたのである。僕は陽明学者ではない。しかし、お互いの切磋琢磨は、まさにこのようなものでなければならないと思う。だから、講義に集まったり、協同で作業するのに、これまで一度も規則を設けたことはない。そして、お互いの会話に諧謔(ユーモア)や滑稽さを交えて、あたかも漢の匡稚圭(きょうちけい)が詩を説くに当たってそうしたのと同じようにしてきたのである。先ごろ、門人たちと米をつき、畑を耕したりしたのも、実はそのためだったのだ。
そころで、剣劇と水泳の二つは、武伎のうちでももっとも大切なものである。ちょうどいま夏も盛りであり、また、わが国の周辺にはしきりと外国がうかがっており、これらは一日たりともゆるがせにはできないのだ。ところが、そんなことは遊びごとだとして、実地の鍛錬を重んじないで、いたずらに日を送り、学業を怠ることは、十分に慎まねばならない。
要するに、学んでその効果を挙げるには、まずお互いに得意相接して心を通いあわせることが大切なのであり、そうすれば義も理もおのずから通ずるものである。それはこまごました礼法や規律の遠く及ぶところではない。学ぼうとする者が自得するところなくして、やたらと言葉のみ多いのは、聖賢の戒めるところである。
だが、たまたま何か得るところがあったにもかかわらず、沈黙して自分の中に固く閉じこもろうとするのは、僕がたいへん嫌うところである。
およそ読書というのはいかなる心構えですべきなのか。それは少なくともなにかを実行しようとするためではないのか。書物には昔のことが書かれている。だが、現実に行動するのは今なのである。その今やろうとすることと、本に書いてあることとは一つ一つ符号するはずはない。それが一致しなければ、当然いろいろな疑問が生ずるはずである。そうでなければ、その疑問を解き、自分で悟るには時間が必要なのだ。っして、その間にお互いに質問しあうことは、当然すぎるほど当然ではないか。
だとすれば、固く沈黙して自分の殻に閉じこもろうとするのは、自得した、語るものがないか、さもなければ相手を語るに足りないと考えている者なのである。僕の目指す志はそんなところにはない。すでに語るべき何ものもないのはやむをえないけれども、いやしくも語るべきことを心のうちにもっている者は、たとえ相手が牛づかいや馬丁であろうとも、まさに心を開いて語るべきなのである。ましてや、同友の場合にはなおさらである。
この松下村塾に相集う諸君は、要するにみな有志の士である。諸君は世の俗物どもとは異なり人一倍すぐれている。だから、僕はとくに諸君については心配はしていないけれども、たまたま感ずるところがあったので、いささか述べてみたのである。

お~、書き写しているうちになぜか涙が……。心に響きました。こんな風に諭されたら、思わず「松陰先生、わたしも弟子にしてください」と言ってしまうでしょう。
それにしても、こんな一文だけでも、塾生たちが松陰を慕う気持ちが良く分かります。

(これは資料2となります)

吉田松陰の母・滝も偉かった。前篇

小川煙村著 「幕末裏面史 勤皇烈女伝」 (新人物往来社)を読んだ。
昭和18年発刊のものを再編集(木村幸比古の解説)して、平成に再出版したもの。
幕末の女性にスポットを当てていて、「木戸孝允の妻・松子」「松尾多勢」「野村望東尼」など11人が紹介されている。
その中でも「吉田松陰の母・滝」の話が良かったので書き起こしてみました。

吉田松陰の母・滝
1、松陰の“母性訓”を通して視る母
維新勤皇の大頭目吉田松陰の事は余りにも悉知されている。松陰は忠誠の人であると共に忠孝の児であった。江戸獄中で死刑の詮議が定まったと漏れ聞いて、父母に向かって次の和歌を贈っている。
 親思ふ心にまさる親心
  けふの音づれ何と聞くらむ
痛切腸を断つ想いがある。松陰の父は長州藩士百合之助、母は同藩老臣毛利志摩の臣、村田右中の三女、滝である。この結婚は滝女の二十歳の時(文政九年)で新夫は三つ上であった。実家村田の家格は低いけれど家計はいくらか楽であったが、杉家は禄高二十六石、まず貧乏侍である。だから禄米だけでは食って行けぬ。勤仕の合間に農良仕事をする。米をつく、草鞋を作る、縄をなう、川に出かけて魚釣りをする。けれども百合之助は親譲りの読書好きで、こんな忙しい仕事の最中でも書物を離さなかったのである。妻の滝も夫を助け、子を育て、苧(お)をうみ、糸を操り、機を織り、針仕事、田草とり、稲刈り、麦作り、真っ黒になって年中働きつづけに働いた。
家は貧しいが子宝には恵まれていた。男児三人、女児四人(うち一女夭折)あった。松陰は次男である。始名「大次郎」、後に寅次郎と改む。だから家庭的には「大(だい)さん」と呼ばれていた。
松陰は五歳の折、叔父吉田大助の養子となり、爾来吉田寅次郎である。松陰が吉田家の養子となった翌年(天保六年)に、養父大助が死去したから、五十七石六斗の禄を受けて相続したが、まだ六歳の幼児であるから、すっと杉家に養われて、生みの母の手で育てられていた。養母久満は その実家へ移って独り未亡人生活をいとしめてつづけていたのである。
滝が杉家に嫁ぐ時、村田の家格が低いために、杉と同格の児玉兵右衛門の養女として縁づいたので、氏を児玉と書物にも書き残されてある。杉家は格こそ村田より上といえ、貧乏な暮らし向きの上に六人の子供を持つ母の苦労というものは並大抵のものでない。ただ子供を大きく育てればよいのというのではなく、いずれも立派な人間に育て、男児は男らしく、女児は女らしく、申し分のないように育てるには、母のになう責務はけだし軽くはない。松陰の母はそれをやり遂げたのである。中にも松陰の如き傑物を育て上げたのであるから、後年、畏き辺りから賞賜を辱(かたじけの)うしたのも道理である。
松陰がまた常に母を慕ったのも、母の労苦の多大なるをよく知っていたからでもあろう。
一家の貧窮に加え滝はさらに重い負担がおっかさぶった。姑が年老っているから、これをいたわり助けるのに骨が折れる。よしや骨が折れるとて姑に対して尽くすことは善良なる嫁の務めで、滝は少しもこれを意に介せぬ。ところが年老いたる姑だけではない。姑の妹が岸田というのに縁付いていたが、この岸田が杉の上を越す貧困で、困り抜いたあげく、一家あげて杉家へ転がり込んで来た。さなくとも苦しい杉家の世帯は、この三人家族の奇遇で一層貧の重圧を加えていった。のみならずその姑の妹というのが至って弱い体質で、とうとう病気になって臥せることになった。こうなると食うことの心配のほかに、病人の介抱というものに、相応気も身体も使わねばならぬ。気立てのよい滝は、
「他人の家に厄介になって、病気で寝ている女性(おなご)の心は悲しいものに違いない。これはあくまで慰めてあげねばなりません」
身を粉にしてまめまめしくかしずく。その親切には病人も泣いて喜ぶ。姉なる姑も我が嫁の美しい心根に感じ入って、老人であるから涙をこぼしてばかりいた。ある時他人に向かって、「うちの嫁は仏様の生まれ替わりでしょう。世の人を救おうとしてこの世に生まれ出たのに違いありません。でなければああまで優しく親切に出来るものじゃありません」と心の底から有りたがって話していた事があった。
百合之助の末弟玉木文之進は、松下村塾の開始者であって、松陰はそれを継いだのであるが、明治九年(1876年)に前原一誠が長州萩に乱を起こした時、一誠等が敗れて島根において囚われたと聞くや「萩の正気既に殲く」と長嘆して、先祖の墓前で割腹して果てた人である。その養子直人もこの乱で戦死したが、直人こそ乃木大将の実弟で、大将伝の初期の部に現れ出る人である。乃木大将自身すら玉木文之進の薫育を受けたもので、文之進は松陰の叔父らしい謹直清廉、操行は秋霜烈日の概があり、萩で厳正をいう時は「まるで玉木先生のようだ」と称したほどの人物であった。
この文之進すら兄嫁滝を目して、
「我が兄嫁は男子も及ばぬ婦人である」
と賞揚した。容易に許さぬ剛直文之進がかく言うほどであるから、他人が滝の実際の働きぶりを見て感嘆せぬもののないのは当然である。松陰の母はまずこんな女性であったのである。
松陰はまた叔父文之進の訓育を受けた。十一歳にして藩主毛利敬親の前で、山鹿素行の「武教全書」を講義した事があるが、あまりにもよくできたから、藩主からその師匠は誰であるかと聞かれ、「玉木文之進でござります」と答えた。まさにこの叔父にしてこの甥ありというべしである。

松陰は安政元年(1854年)十二月、野山の獄中から妹千代に宛てた手紙の中に次のごとき文言がある。
「凡そ人の子のかしこきも、おろかなるも、よきもあしきも、大てい父母の教えによる事なり。就中男子は多くは母の教えを受ける事また其大がいなり。さりながら男子女子ともに十歳以下は、母の教えを受けること一しほ多く、或いは父はおごそかに、母はしたし、父は常に外に出て、母は常に内にあればなり。しからば子の賢愚善悪に関する所なれば、母の教えゆるかせにすべからず。併し其教といふも、十歳以下小児の事なれば、言語にて諭すべきにあらず。ただ正しきを以てかんずるの外あるべからず。」
とて児女の養育に母性の重大性を説き、その次には、「昔の聖人の作法に胎教というものがある。子胎内に居る時、母が立ち居振る舞い言語心構え、さては食物の末まで心を用いて正しきを行えば、生まれる子は身体が正しく、器量もすぐれたものが出来る。胎内にいる子が何も知らぬ筈であるが、そうではない。凡そ人は天地の正しき気象を得て形をととのえ、天地の正しき理を得て心をととのえるのであるから、母の行為が正しければ自然感化を受けて正しく感ずるのである」とのべている。その終わりに、
 因てここに人の母たるものの行ふべき大切なることを記す。此他ちいさき事は記さずとも、人々いう所なれば略し置きぬ。
 いろはたとへにも、氏よりそだちと申事あり。子をそだつることは大切なる事なり。
以上は松陰の女訓の一節と見るべきものであるが、また松陰が現実に母から受けた感化を克明に告白したものであろう。松陰の“母性訓”は松陰の母の感化を裏付けしたものと見て至当である。しかしてそこにひめられたる松陰の母の価値が確認し得らるるのである。


松下村塾がどこか家庭的であったり、吉田松陰の中にどこか「母性」的部分があるのは、母親の影響だったのだなと納得してしまいました。
やはり、親が子に与える教育は重要なのだと、改めて思いました。

後篇に続く。
(これは資料1です)

吉川英治が見た大災害時の日本人

日本は大災害が起こる度に、その対応に苦慮し初動対応の遅さからたちまち大混乱に陥るようだ。
これは過去の大災害の様子を記したものなどを見るとよく分かる。
昭和34年の伊勢湾台風のときも日本に大きな傷跡を残したが、そのときの様子を作家の吉川英治が書き残していた。
随筆 私本太平記随筆 私本太平記
吉川英治の視点は非常に冷徹である。「遅々として進まない政府の対応」や「政府批判ばかりする国民」や「興味本位のマスコミ」を嘆きつつも最後には「原稿を書くことしかできない自分自身」にまで言及している。
短い随筆だが、さすが時代を代表する大作家だけあって、さらりと世の中の動向を書いてしまうところがすごい。
そして、これを読むと、今回日本で起きた東日本大震災と全く同じような状況であることが分かる。政府、マスコミ、国民、それぞれの対応があまりにも酷似しているのだ。
日本は大災害の度に復興してきたが、それは経済的なことだけではなかったのか。大災害が起こったときに、国全体が何をすべきなのか、そのことに対しては何ら進歩していないのではないか、そう思ってしまうほどだ。

ということで、記録のためにもその部分をそのまま書き起こしてみました。

その十六
私は小説家だが、どうも今日は小説が書けない。恥かしいが私は真の芸術家、芸術至上主義者ではないらしい。
とはいって一回分でもアナにするわけにはゆかず、この筆間茶話で今日の分は埋めることにした。醜態だが、理由はただやりきれないのである。――予報には、明日晴れとあるが、分裂したはずの十六号台風の影響か、ゆうべから雨は今日も一日じゅう窓外を打っている。で、私はついにこんな出来事を書き出してしまった。ごかんべんねがいたい。
太平記を書き、当然、そのころの世態を調べながら、私はいつも、当時のような乱世下の民衆はどんな悲惨な中に生きたかに、想到せずにいられなかった。
ところが、それにまけない悲惨な民衆が、こんどの伊勢湾台風では、目の前におかれている。六百年の昔でもない、今日の日本の真ん中のことなのだ。どうにも考えざるをえない。
挿画の杉本健吉さんは、名古屋市瑞穂区に住んでいる。私の原稿は日々健吉さんの手へ送られていく。仕事の上で一つに暮らしているようなものだ。杉本家の被害はかるくすんだらしいが、周囲はさだめしたいへんだろう。台風禍いらい、すでに半月にもなるが、読者諸氏もすでに知ってに通りの有様である。そこへ昨夜にした健吉さんからの便りにも、
――拙宅は屋根を直そうにも瓦がなく、ビニールを敷き、割れ瓦をのせています。これは全市共通なことで、大別してわれわれ程度は、被害の内には入りません。
とみえ、
かなしい事には、被災者との間にさえ、日まし感情上のヘダタリや差があり、それはあの気のどくな方々と一緒に汚水の中で腹をへらし、ローソクの灯の心細い寒夜を共にしなければ、とうてい、被災地の実感はつかめるものではありません。(中略)現地の人々のイライラと共に自分たちの同情も疲れはでてくると、それがやや実感になって真の同情となってわかって来ます。が、それでもなお自身の中には、同情にかくれて、半分は好奇心もあることに思いあたり、ゾクとしました。
といっている。

私どもの家でも、家族して、のべつ同じような胸の傷みは言いあっている。だが、どうしょうもない思いだ。そして健吉さんも指摘しているように、半分は好奇心へも傾きやすい。マスコミの報道力にしてさえ、その点では、社会の善意をよびおこすことには微少で、むしろ空転作用の方が強いのではあるまいか。
いまさらのようなものだが、こんな際の民主政体のまどろさには鬱々とせずにはいられない。政府攻撃なら、いくらでもいえるが、しかしその政府は私たちの依託機関で、首相以下の役人は、私たちが政治を託している公儀なのだ。だのに私たちには、どうもまだお上まかせの悪クセがついている。それと狭義な個人主義がむすびついて、当局がやるだろう、自衛隊がするだろう、どうかなるだろう、が抜ききれていない。そして政府の無能をののしるだけで、その政府の主人であるお互い国民のこのどうにもできない気持ちを歯がゆらないのは、どうしたことだろう。寄付金に寄贈品に町会までやってはいる。だがそれだけのことだ。現に被災地ではまだまだたくさんな生命が悲泣している。半面の人間悪も横行にまかせている。被災地にすれば「今は南北朝時代か」と疑いたくもなるだろう。

もしこれがソ連や中共の治下であったらどうか。また米国や英国ならどうか。この自国の腹部へできた重症の治癒には、国智と民力を集中して快スピードの政治力と隣人愛とを見せ合うだろう。のろのろした時は措かないはずである。だが私たちの託している権限や法規や政党事情やらで、こんなのろまな動きしかできないのらしい。これは私たち政治のあるじも怠慢だった。私たちにも責任がある。
また一つの民主国家なら、この災害を“運不運”とだけ見て、その災害を分け合わないでいいものでもあるまい。さしあたって、政府同様な政府代行機関を現地におき、それにこの急場だけの最大な発令権をみとめるもいいとおもう。皇太子や首相がヘリコプターで見て帰ったところで何の薬にもなりはしない。被災の民衆が精神的にそれで鼓舞されたなどは、むかしの日本のことである。私たちの公僕はいまだに明治、大正の古帽子がお好きで困る。

私は先年、背なかの真ん中に癰(よう・はれもの)というものを病んだ。初めは豆ツブほどな腫れ物にすぎなかった。しかしそれは命取りの重症だぞと言われたとおり以後二ヶ月昼夜のた打ちまわった。伊勢湾台風の被災地は私には“日本の癰”に思えてならない。そして戦後日本のまだ上っつらな健康でしかない民主政体という体が、よくこれに耐えるかどうかの試練であろうと思っている。

こんなことはいっても、私には能がない。ただ私は、政府だけを責めているのは一層この重患にするだけだと憂いだしたのみである。作家の私はそんな憂いも退けて小説を書くべきだろう。しかたがないから私は明日から書く小説の稿料を当分のあいだ現地の救済資金の内にでも加えてもらおう。そして現地の罹災者諸兄姉の蘇生を祈りながら毎朝机にむかったら、いくらか憂いもかろく原稿紙に向かえようと思っている。

もう一つ言いたいのは、昨今、中京方面にばかりつい気をとられているが、ほとんど同程度の台風被災者がまだあった。この八月の七号台風にやられた山間地方の被災農民たちも、近づく冬におびえているように、それはマスコミからはいつか忘れ去られている。
(昭和三四年十月九日)

新田義貞を好人物に描いた桜田晋也さんが死去。

平成23年5月10日の新聞を見ていたら、おくやみの欄に「歴史小説作家の桜田晋也氏死去」の記事が小さく出ていた。
桜田氏の本はいくつか読んだ。「叛将明智光秀」は上中下巻の大作で中々良かった。(図書館に大概置いてある)
さてその中でも、当サイト的にはこれでしょうか。
桜田晋也 「足利高氏」足利高氏」上下巻(角川文庫)
主人公は足利尊氏(この本では「尊氏」を「高氏」と作意的にしています)としていますが、面白いことに尊氏を悪役として描いているため、新田義貞が非常に好意的に描かれています。

作中から

「新田は手強い戦をいたすものよのう……」(高氏が)人に聞かれぬような小声で直義に言った。直義は一瞬はっとした様子でちらりと兄の表情を見やったが、
「正直申して、まともに一騎討ちをいたして勝てる軍勢ではござりますまい。憎き敵なれど見事と申すほかはなきことと存じまする」
“恐らく、元弘の変の折の鎌倉攻めも、このような義貞なればこそ成し得たものでござりましょう”と言いたい気持ちを抑えて直義は口をつぐんだ。そこまで言えば、兄高氏の立つ瀬がなくなろう。

とこんな感じで義貞の戦上手や性格の良さを連綿と書き綴っていて、それと比較するような形で足利高氏(尊氏)を悪く書いています。
これが、新田氏ファンにはたまりません。
しかも、この小説が新田義貞の死で終わっているため、ある意味「義貞」が主人公であるかのようになっています。
これは山岡荘八の「新太平記」や嶋津義忠「楠木正成と足利尊氏」(PHP文庫)もそうですが、義貞の死によって物語を締めることは多く、ここが時代の一区切りになっているのです。
過去記事
この時代の山場を「湊川の戦い」や「楠木正成の死」を持ってくる作家は多い。まあこれは仕方のないことでしょう。だがこれをもって、まるで足利氏のライバルが楠木正成であるかのように描くのは、大きな間違いだ。
それを通説のごとく書き連ねる有名作家や著名歴史家がたくさんいる。これはやっかいなことだ。
足利氏にとっての真の敵・ライバル関係にあるのは新田氏のみであるということがまるで分かっていないのだ。これの説明は面倒なので後日にする。(一例だけ挙げておく。「義貞の死」をもってはじめて尊氏が将軍職受け幕府を開くことになる。この意味を考えれば分かる。)

さて話を戻して、桜田晋也「足利高氏」から少し引いてましょう。
新田義貞と勾当内侍との会話から、故郷新田荘を語る部分です。

義貞はしみじみとした表情になり、
「さよう……里の近くを渡良瀬、利根の二つの大河が流れ、はるか三方を険しい山々に囲まれた大地でござる。冬は寒いが、都のごとくに雪は降らず冷えたき北風が野面を駈けめぐりまする。都に較ぶるならば何もなき片田舎なれども、都に決して負けぬものが二つござりまする」
「はて、何でござりましょう?」
「一つは夕焼けの美しさでござる。秋から冬にかけてのよく晴れた日の夕べには、西の空一面がまるで紅蓮の炎に包まれたがごとく朱に染まりまする。かような雄々しい夕焼けは都でも恐らく見られますまい……」
義貞はそう言って、縁台に立つと、すでにとっぷりと暮れかけた西の空をじっと見上げた。微かな残照のなか、あざやかな金色の宵の明星が輝いている。
内侍は夫のそのような後ろ姿を見つめながら、ともすると鬼将軍にように世間では噂されているこのお方は、少年のように無垢な魂の持ち主かも知れないと思うのであった。
やや間があって義貞は肩越しに気持ちだけ振り返りながら、
「今一つの我らが新田郷の誇りは、たとえいかなることに立ちいたろうとも、決して約束事をたがえず人を裏切らぬことでござる」
「すばらしきことでござりまする」と内侍は感慨深げに言うと、
「お聞かせ下さいませ。お館様は新田の地でいかようにお暮らしあそばされておいででしたのか」
「さよう、わが館は反町と申すところにござった。四囲には濠が回らされ、館近くには金山と申す小高い山がござる。暮らし向きと申しても別段、並の東(あずま)の武士たちとさして変わりはござらなんだ。ただ、時には百姓の訴え事を聞き、あるいは一族一門の諍い事を取り持つことなどをいたしておっただけのこと……。
反町館の北方には、笠懸野と申して、一面に葦の生い茂った、さよう、都で申さば右近の馬場などの平地がござった。鎮守の杜の祭礼の際や、正月などに笠懸の射礼を行のう所でござるが、幼き日より毎朝、家の子郎党達とともに馬で駆け回るのが慣わしでござった。
ほかにはこれと申して坂東武者と異なるところはござらなんだ。旱(ひでり)とあれば郎党を率いて渡良瀬川に水を引き、寒い年で凶作ならば、鍬や鋤を握って皸(あかぎれ)をつくりもいたしたというだけのこと……」
「まあ皸を! おお痛」内侍が本当に痛そうな顔を見せると、義貞は微笑んで内侍のところに戻り、両手をそろえて開いて見せた。
「上(じょうろう)のそなたにはお分かりにはなるまいが、古くから坂東武者の生業とはさようなものを申したのでござる。わが手をごらんじあれ。ここ数年は鍬こそ握らぬが、ほうれかように、鍬だこが数多あるのがお分かりであろう」
内侍はそのしなやかな白い指でまるで腫れ物にでも触るように恐る恐る義貞の掌のたこに触った。その可憐なしぐさを見て、義貞は思わず内侍の手をしっかりと握る。内侍は心持ち抗うたものの、目を閉じて夫の広い胸に顔をうずめる。
長い漆黒の黒髪が花のように乱れた。
「離しはいたさぬ! この義貞が命にかえてもそなたを離しはいたさぬぞ!」

と、この後も続きます。ラブコメかっていうくらい甘~い描写ですが、太平記の時代では唯一のロマンス場面なので、どうしてもこんな感じになるようです。吉川英治「私本太平記」の義貞と内侍の場面も、読んでいるこっちが照れてしまうほどの甘い場面になっていた。
ただ私としては、荒武者・東戎としての義貞とは全く違う少年のようなロマンチックな部分も持っている、このギャップが大好きなんです。(桂小五郎と幾松の関係にも似てますよね)
ここを押せば歴女にウケるかもしれない。

また本文中に出てきた地名、笠懸野の説明は過去記事で 新田一族に関連した地名・「笠懸」が消えたのは、いまさらだが口惜しい。
反町館とはいまの反町薬師のことで、こちらはWikipediaの説明で。
反町薬師 濠反町薬師 濠
反町薬師 1反町薬師の本堂

ほかに桜田晋也さんの本を検索してみたら、太田図書館ほか各所に「南北朝の名将 新田義貞」という本があるらしい。
これはあとでチェックしてみます。

おっさんもローソンの「けいおんキャンペーン」に並ぶ!

朝、車で会社に向う途中、ローソンの駐車場に「痛車」が数台止まっていた。何ごとかと寄ってみたら、「けいおん!のキャンペーン」をやっていた。どうやら、朝7時から開始(うちわがもらえる)ということで、早朝というのにとは思えないくらい店内は混んでいた。
男子のアニオタばかりかと思いきや、女子高生や若い女性も結構いた。
ということで、俄か「けいおんファン」の私も、その中に混じっていろいろ商品をゲットしましてきました。
けいおん ローソンフェア 1うちわは2つもらえました。パンも買いましたが、それは昼食で食べてしまいました。
けいおん ローソンフェアー 2空箱があったのでそれも貰ってきました。
娘は「むぎちゃんファン」なので、その分も買いました。(小学生から見ると、むぎちゃんは友だち思いの優しいおねさんに見えるらしい。う~ん納得。)

そういえば今年の春にやったアサヒ十六茶のけいおんキャンペーンの時もキャラクターフィギュアのストラップ集めましたけ。
けいおん 十六茶
もうこうなると完全な「アニオタおっさん」です。
こんなおっさんになった切っ掛けは「平沢唯がレスポールを持っているサムネ」を見たことに始まる。
理由は、けいおん関連記事で。
1、今日も部室でお茶を飲む。 「けいおん」は奥が深い!
2、「けいおん」で「アニメ・マンガで文化防衛論」を説いてもあまり分かってもらえなかったけど、めげません

3、アニメは日本文化を救えるか 第6回 アニメと神社
4、娘たちに幸せあれ!
5、アニメ一つも読み解けない朝日新聞に大新聞を名乗る資格はない。

それ以来、アニメばかり見ている……。

時間があったら、面白かったアニメまとめてみます。

平成23年度 生品神社・鏑矢祭のまとめ

5月8日は新田義貞及新田一族挙兵の日。
生品神社で毎年恒例の鏑矢祭があったようです。
いつものように仕事で今年も行けず。
取りあえず朝7時に参拝してから、出勤しました。
生品神社 110508数人の氏子の方が準備してました。

「鏑矢祭」「生品神社」についての説明等はhttp://pcscd431.blog103.fc2.com/?q=%C0%B8%C9%CA%BF%C0%BC%D2で。
ネット上では世界で一番多く「生品神社」のことを書いております。

さて、ではいつものように、「鏑矢祭」について掲載のあった新聞記事を紹介。
今年は3紙。
まず、上毛新聞
平成23年度 鏑矢祭

鎌倉幕府討伐のために新田義貞が挙兵した故事にちなんだ鏑矢(かぶらや)祭が8日、旗揚げの地として知られる太田市新田市野井町の生品神社境内で行われ、地元の生品小の6年男子45人が鎌倉に向けて元気に矢を放った
1333(元弘3)年5月8日、後醍醐天皇から北条氏追討の綸旨(りんじ)を受けた義貞は、出陣前に矢を放って戦の吉凶を占ったとされる。拝殿前で行われた神事では天下太平や五穀豊穣(ほうじょう)、子供たちの健やかな成長を願った。今年は特に東日本大震災からの復興を祈願し、氏子や関係者が「日本、がんばろう」と、ときの声を上げた。
 大中黒の紋を染めた鉢巻きに黒のはかま姿も勇ましい“若武者”たちは、元気な掛け声とともに矢を2回放った。お守りにもなる縁起物の矢を手にしようと、多くの人が落ちた矢に手を伸ばしていた。


次が朝日新聞(写真付き)

新田義貞の挙兵にちなみ鏑矢放つ 太田・生品神社
鎌倉幕府を倒した新田義貞の挙兵にちなんだ鏑矢(かぶらや)祭が8日、群馬県太田市新田市野井町の生品(いくしな)神社であった。地元の小学生が、鎌倉の方角の西南に向かって一斉に鏑矢を放った。
 鏑矢保存会によると、同祭は、元弘3(1333)年の5月8日、挙兵した義貞が矢を放って吉凶を占った故事にちなむ。
 地元の生品小の6年生男児が行い、今年は45人が参加した。はちまきに黒ばかま姿で掛け声とともに矢を放ち、「エイエイオー」と勝ちどきをあげた。
 参加した中島礼人君(11)や石川耕平君(12)は「練習をたくさんやった」「先輩のやっていた伝統行事に参加できてうれしい」と言った。保存会の力丸悦樹会長は「地域の歴史と伝統を大切に守っていきたい」と話した。


次が東京新聞

新田義貞倣い 鎌倉に矢 太田・鏑矢祭 生品小の6年男児
南北朝時代の武将、新田義貞が鎌倉に向けて兵を挙げた地とされる太田市新田市野井町の生品(いくしな)神社で八日、義貞の故事にちなんだ鏑矢(かぶらや)祭があり、地元の子どもたちが弓を手に鎌倉の方角へ矢を放った。
 義貞は一三三三年五月八日に挙兵して鎌倉へ行き、北条氏を攻め滅ぼしたとされる。出陣前に鎌倉の方角に矢を放って吉凶を占った故事が伝わる。
 生品小学校六年の男児四十五人は、鉢巻きに黒ばかま姿で竹製の弓を持ち、本殿前で神事を済ませた。東日本大震災の被災地を思いやり「がんばろう、日本」と大声で三唱した後、社務所前へ。鎌倉の方角に向いて号令とともに二本ずつ矢を放つと、見守っていた保護者らから歓声が上がった。 (中山岳)

となぜか左系の新聞で掲載があった。(朝日新聞は毎年載せている。ここだけはエライぞ)
去年掲載していた産経新聞は今年はなし? なぜ?
読売新聞も掲載なし。斎藤佑樹の関係で載せないの?(ただの想像です)

来年は行くぞ!

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