スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「銀魂」考 前口上

さてさて、これからしばらくの間、アニメ「銀魂」について語っていきたいと思います。
銀魂 1

去年の夏以降すっかり「アニメ」の魅力に取りつかれ、アニメ三昧の日々を過ごしています。
その理由は、過去記事「「今日も部室でお茶を飲む。 「けいおん」は奥が深い!」で。
これまで、ハマったのは「涼宮ハルヒの憂鬱」や「フルメタル・パニック」や「四畳半神話大系」や「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」などなど。「魔法少女まどか☆マギカ」「シュタインズ・ゲート」などはいろいろ考えさせられた。

その中にあって「銀魂」は特別だった。
200話以上あるがこれを一気見し、気に入った回は何度も見返すほどだった。
他に面白いアニメはいくらもあるだろうし、良くできたサムライ漫画は他にもたくさんあるだろう。
だが、「銀魂」は他とは何か違うものを持っている。下らないギャグアニメなのに、時たま心を揺さぶられるほど琴線に触れる
のだ。そして「良くできてるな」と腕を組んで感心してしまう。
何故だ! 「銀さんのくせに」「銀魂のくせに」……。
私が銀魂に魅せられたわけはどこにあるのだろうか、それを自分なりに考えてみたのである。
そのための資料編でした。(「けいおん」のときは、ただ長くて、それでいてまだまだ書き足らなかったことを反省し、今回は資料を別にすることにした)

さて、その前に、文藝春秋「オール読物」(2011年 5月号)に「銀魂」についてのコラムが載っていたので、引用してみた。
書いたのは、作家の窪美澄という方。「山本周五郎賞」作家だけあって分かりやすくポイントを押さえてある。

「OH!マイヒーロー 死んだ目をしたあの人」
「銀魂っておもしろいのよぅ」と教えてくれたのは、一人のママ友だった。
今から6年前、コドモが中学校に入学したばかりの保護者会。終了後、教室の壁に貼られた「自己紹介カード」なるものを見ていると、「好きな漫画は?」という質問に、たくさんの生徒が「銀魂」と書いていることに気がついた。そばにいたママ友に「ぎんたましい、って何?」と何気なく質問を投げかけたことで、私はこの漫画にずぶずぶとはまっていくことになるのだった。
正確には、ぎんたま、と読む。
「週刊少年ジャンプ」で現在も掲載中、空知英秋氏による「SF人情なんちゃって時代劇コメディー」である。主人公は銀髪で天然パーマの侍「死んだ目をした(だが、いざという時はきらめく)坂田銀時、通称、銀さん。そこにさびれた剣術道場の跡取りである志村新八、戦闘種族・夜兎族の少女、神楽がからみ、この三人が働く便利屋「万事屋銀ちゃん」をベースに、話は進む。
「あなたが夢中になっている銀魂って、どんな話なの?」とよく聞かれるのだけれど、まぁ、とにかく、最高にくだらなくって、超下品(ほめ言葉です!)。人にすすめるのも正直憚れる漫画である。銀さんを初め、登場人物も皆、揃いもそろってだらしなく、弱く、不器用で、問題山積みの人たちなのだ。
しかし、そんな登場人物たちが、必死で何かを「護ろう」とする。「護ろう」と決めたもののためには、なりふり構わない。九割がどうしょうもなく下品でも、残りの一割がどうしょうもなく熱く、そしてせつない。その配合バランス、「返し」の見事さにうなってしまう。
母親たちに人気が高いのもうなずける。子育てしにくいこの国で、コドモとともに生きていくことは、体と心をひどく消耗させることである。それでも、母親は必死で子どもを「護ろう」とする。
そんなふうに日々、格闘している人たちには、銀魂のがむしゃらさは他人事とは思えない。そして、傷だらけでも、何かを護ろうとする銀さんの姿に胸をときめかせる奥様も多いことだろう。
「崖っぷちですかコノヤロー!!」。「クイックジャパンvol・86」銀魂特集の表紙で、銀さんがそう叫んでいる。この原稿を書いている現在、日本はまさにギリギリの崖っぷちにいる。銀さんなら、この状況をどう生きて、何を護るのだろう。そう想像させてしまうのは、たとえ、死んだ目をしていようとも、銀さんが正真正銘のヒーローに違いないからだ。

まあ、もうこれで十分に説明されていると思います。ほんと上手いなぁ。
死んだ魚の目をした銀さん「死んだ魚の目をした銀さん」

いざという時にはきらめく銀さん「いざという時にはきらめく銀さん」
たまに物凄くカッコよくなる主人公。これがすこぶるいい。思わず「銀ちゃんカッコいい」と画面に向って叫んでしまうほど、まるで映画「蒲田行進曲」の平田満のように……。(つまり私はこの年代のおっさん)

このコラムに「九割がどうしょうもなく下品でも、残りの一割がどうしょうもなく熱く、そしてせつない。その配合バランス」とあるように、この熱くせつない一割の部分をむりやりに広げて、考察してみます。まあ、これはある意味「無粋な事」でしょうね。銀さんに「やぼなことするなよ」と笑われそうですが……。

さて、これから「銀魂」考を始めますが、予定としては以下の通り。
第1回 植民地化された「サムライの国」、その世界観
第2回 なぜ「銀の魂」なのか?
第3回 カーニバルと鎮魂
第4回 あの塔は何だ? 生と死とリンガ
第5回 滅びゆくサムライの物語
第6回 「たましい」の物語
第7回 継承の物語
第8回 成長の物語
第9回 鎮魂は継承されなければならない


取りあえず今回は、前章として1話だけ挙げておきます。
銀魂とはどんなアニメ(マンガ)か、と訊かれて、銀魂ファンなら、長編のシリアスもの、ギャグ満載の短編ものを挙げるでしょうが、ここでは、何の変哲もない普通の回を典型的銀魂物語の一例として挙げておきます。

206話「「看板屋の看板娘はもう面倒なんで二枚の板と呼べ」から。
番組サイトのストーリー説明には「どうやらキャサリンに恋人が出来たらしい・・・。全く信じない銀時だったが、恋する乙女の美しすぎる変貌を目の前にして動揺を隠せない。
相手はスナックお登勢の常連客の、末次郎という実業家。キャサリンは彼と一緒に店を出すことを決意しかぶき町を去ることに・・・しかし、お登勢は祝福どころか「そのツラ、もう見ないですむと思うと清々する」と冷たくあしらう。そして別れの日がくるが・・・。」とある。
さてさて、細かいストーリー説明は省きますが、簡単に解説すれば、結婚詐欺師に金を巻き上げられた仲間のカネを主人公の銀さんが、悪人を懲らしめてカネを取り戻す、というのが基本ストーリーとなっています。
さて、普通のアニメ・マンガなら主人公が活躍するところをメインに描くはず。しかもそれはカッコいい大立回りがあって然るべきで、少年マンガ(ジャンプアニメ)に求められるのは派手なアクションシーンだと思います。
だが、本編を見れば分かりますが、そのシーンは極端に短い。(銀さんが単身、悪人のところに乗り込んでカッコいい啖呵を切るところまでしか描かない。)水戸黄門のような時代劇に見られるクライマックスの立ち回りはないのだ。
アクションシーンによって得られるカタルシスよりも、「銀魂」世界において、もっと大切なものがあるということなのだ。
「銀魂」物語において大事なこととは、
銀さんと酒
酒を飲んで、語らい。
銀さんと酒2
誤解を解き合い。
月と雪と酒と涙
月みて、雪みて、酒が飲める、そこに涙がある。

洞爺湖
そして、護るために行動する(剣を抜く、まあ銀さんは木刀ですが)までの経緯や理由が重要だ、ということなのです。
ここを描くことに十分に時間を割いている。
まあ、それが「たましい」なのでしょう。(この「魂」を次回以降考えていく)

これが、少年マンガ(ジャンプ)、しかも夕方6時からの放送だというから、面白い。
大人のファンが多いというのもうなずけますね。

ということで、こんな感じで10回ほど続けます。
スポンサーサイト

資料編のまとめ

ここで資料編をまとめてみました。
資料を集めるくらいなら1カ月くらいだと思っていましたが、これだけで半年近くかかってしまいました。

第1回  吉田松陰の母・滝も偉かった。前篇

第2回  吉田松陰の母・滝も偉かった 後篇。 

第3回  吉田松陰の魂はどこへ

第4回  「銀」は日本人の美意識、つまり魂だということ。

第5回  塔の話 その1 「東京スカイツリー」と「東京タワー」

第6回  塔の話 その2 「西洋の塔と東洋の塔」

第7回  塔の話 その3 「日本の塔において生の理念と死の理念がいかに相戦い、戦いつつそこに一種の調和をつくっている」

第8回  「怨念の日本文化 幽霊編」から。

第9回  井沢元彦「怨霊と鎮魂の日本芸能史」などから。

第10回 資料編10回目 丸谷才一「忠臣蔵とは何か」 その1

第11回 資料編11回目 丸谷才一「忠臣蔵とは何か」 その2

第12回  「継承の物語」その1 「ゴッドファーザー」 資料編12回目

第13回  「継承の物語」その2 クリント・イーストウッド  資料編13回目

第14回  「継承の物語」その3 スターウォーズと黒澤明 資料編14回目

第15回  資料編15回目 「継承の物語」その4 「けいおん」は「継承の物語」である。

第16回  自己の感情コントロール その1 アンパンマン考の続きから

第17回  自己の感情コントロール その2 資料編17回目 発達心理学から1

第18回  自己の感情コントロール その3 資料編18回目 発達心理学から 2 

第19回  自己の感情コントロール その3 資料編19回目 発達心理学から 3

第20回  自己の感情コントロール その4 資料編20回目 心理学も脳科学も神道もアンパンマン考も同じことを説いている

第21回  「日本文化を継承するものが日本人だ、と思う。 」その2

第22回  桂小五郎のカッコいいところをどんどん書いていく! 

第23回  木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1

第24回  木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その2

第25回  木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その3。 木戸孝允・桂小五郎は本物の「憂国の士」であり、紛う方なき真の「サムライ」なのだ。

第26回  鎮魂の芸能

第27回  第27回「 日本人“魂”の起源」から、「たまふり」について。

第28回 新渡戸稲造「武士道」の後半部分

第29回 「復興と桜と継承」 新聞から切り抜き

よしよし、資料はだいたい揃ってきたので、始めますか。

テレビのゴールデンタイムで新田義貞が主役だった件

TBSの「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」の2011年9月19日放送分が「鎌倉幕府滅亡の危機!」だったという話を聞きいた。
検索すると番宣には、「鎌倉幕府滅亡の危機!幕府の実権を握る北条氏への不満が各地で爆発!後醍醐天皇の号令で反乱軍が決起!そしてついに、新田義貞率いる6万の軍勢が鎌倉を包囲! 」とあった。
なに!新田義貞だと!
さっそく探してみて見た。お~、なんと「新田義貞の鎌倉攻め」がメインだった。
キー局のゴールデンタイムで、「新田義貞」の名が連発されるという奇跡が起こっていたのか。
まさに胸熱!(こういうときに使うのか)
ということで、画像を拾ってみました。
新田義貞、ついにゴールデンタイム1

新田義貞ついにゴールデンタイム7


新田義貞ついにゴールデンタイム6

新田義貞ついにゴールデンタイム9

新田義貞ついにゴールデンタイム10

とこんな感じで、まさに義貞フェスティバルですね。狂喜乱舞状態となってしまいました。

新田義貞ついにゴールデンタイム3

新田義貞ついにゴールデンタイム2

ボードを使って家系図の説明までありました。
ボードには「新田義貞vs足利高氏 因縁の対決」とちゃんと新田義貞を先に名前を挙げて表記している。
「日韓戦」を「韓日戦」とフジテレビはバカな表記をしていたが、やはり名前の前後はとても大切なのだ。
過去記事「奇説その3  経済欄で、「御霊信仰」?

新田義貞ついにゴールデンタイム8
義貞を「反骨の上州武士」と説明。まさに上州気質が新田一族にはある。
過去記事「新田一族の話題。「斎藤佑樹」と「今治市」と「福井県」と「天地人」

新田義貞ついにゴールデンタイム11
「群馬県太田市」が出る。全国放送で太田市の名前が出るのは、他には「斎藤佑樹」くらいだろう。
そして、足利高氏(尊氏)ら足利一族は栃木県足利市と説明がある。
ここで、新田一族の本拠地として、群馬県「新田市」とならないのが寂しい限りだ。(歴史的にも、知名度的にも「新田市」であるべきだろう。昔は新田郡太田町だったのだから)
過去記事「「新田市を誕生させる会」発足。いまこそ新田源氏の名を地名に!

新田義貞ついにゴールデンタイム13
この手の歴史モノの番組では珍しく新田義貞を非常に好意的に描いている。(楠木正成を英雄的に描くため相対的に義貞はよくは描かれないことが多い)
それに、女子アナに「新田さん素敵!」なんてことも言わせる。
鎌倉攻めで「新田さんもちょっとイイかな~♡」だったら、勾当内侍の話なんか出たら惚れてしまうだろうよ。

ということで、全体的には新田義貞メインでよい内容だった。しかし、問題がないわけではない。
新田義貞ついにゴールデンタイム12
義貞が稲村ケ崎で投げた黄金の刀が何故か、後醍醐天皇から下賜されたものになっている。
そんな話は聞いたこともないし、事実だとすれば、大発見だぞ。
つまり大ウソなのだ。
なんの意味があってこういう脚色をするのか、不思議だ。
天皇から頂いた刀を投げるほど、真剣に神に願ったという話にしたかったのだろうけど……。
しかし、何度も書いているが、番組の構成に合わせて話を創作するのだけはやめて欲しい。
これはすべての歴史モノにいえること。
過去記事、NHKの「歴史秘話ヒストリア」は捏造番組


それに相変わらず、ゲストのコメントはウザいの一言だ。はっきり言ってここはいらない。
松嶋尚美は耳触りなキンキン声で、間抜けなことを言っているし、このような歴史モノに全く合わない。それでいて知ったかぶりをする。(歴女が最も嫌うタイプでは?)
TKOの自分らの例え話など関係ないし、何よりも面白くもないので、聞きたくもない。
だが、最もアホだったのは菊川怜だ。「北条高時は性格が悪かったんじゃない」「義貞の投げた黄金の刀はあとで取りにいったに違いないわ」「私たちの祖先も元をたどれば源氏か平家なのかも」などなどトンチンカンなコメントを連発させていた。
最高学府の東大出でこの程度なのか、悲しくなる。小学生なみの発想、いや韓国ドラマを見過ぎて思考能力が低下しているおばちゃん並の感想しか言えないとは……。
宮崎美子も佐野史郎も芸能界では一応知識人なのだから、もう少し気のきいたコメントができないものか。(専門的知識を言えというのではない、ポイントを押さえた言葉が聞きたいのだ。この後の歴史がどうなるか分かっているのに、知らないという素振りをみせながら何かを言わなければならない、それがわざとぽく、聞いていてイライラするのだ)
つまりこの番組の問題点は松嶋尚美とゲスト陣らのコメントなんですよね。
過去記事「TBS「テレビ世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」は久々の最悪歴史モノ番組だ!

まあ、それでも新田義貞をメインで取り上げてくれたことには感謝します。

いや~、やはり鎌倉末期から南北朝時代ってホント面白いわ。
義貞の鎌倉攻めだけでもこれだけ面白いのだから、もっとテレビやメディアでやって欲しい。(イデオロギーは抜きにしても)
戦国時代・幕末時代・江戸時代(特に忠臣蔵)に飽きたら、次は太平記の時代ですよね。
「三国志」とか「水滸伝」とかいった結構込み入った話も日本人にウケるのだから、十分にイケると思うのだが……。


追記
自分で書いた昔のものを見たら、こんなのがありました。
「新田義貞」がテレビ番組のクイズに出題されました! 回答したのは…
懐かしい……。

木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その3。 木戸孝允・桂小五郎は本物の「憂国の士」であり、紛う方なき真の「サムライ」なのだ。

木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その3
前回の続きで、今回は資料編の25回目

またまた、村松剛の「醒めた炎」から引いていきます。
今回は、岩倉使節団の場面です。
岩倉使節団(左端が木戸孝允)
木戸らが進めてきた洋化政策だったが、ここにきて彼は日本の将来を案じ始める。
和魂洋才という名のもとに西洋から様々なものを積極的に取り入れてきた日本だが、それと同時にその根本となるべき和魂は捨て去られてしまっているのはないか、滅びゆく「サムライ」とともにその「魂」が失われていくのではないかと、木戸は危惧し始めるのだ。
また、師や同志や友を次々と失っていった彼が、残された者としての責務を果たしているのか、大切なものを捨て去っているのはないのか、そう、自ら問いかけているようであった。
以下、引用した箇所にはそれがよく表れている。
この数年後には木戸は「憂国の情」を持ったまま亡くなってしまうから、余計にその寂寥感が重なって、何度読んでも感動してしまう。
そして、木戸孝允は本物の「憂国の士」だ!と読み返す度にその思いを強くする。

以下、「遣外使節団」の章から。

(アメリカとの条約交渉の場面)
木戸は伊藤博文や森有礼に動かされて条約改正の交渉をはじめたことを後悔しはじめた。
伊藤にたいする不信の念が、木戸の心にきざしたのはこのときからだった。安政の末いらい信頼しきって引き立てて来た伊藤が、アメリカに心酔している森のような若者(当時26歳)と組んで軽々しく走り回っている。
森は外交官でありながら、日本の風俗を外国人のまえで平気で罵倒していた。(彼が日本語を廃して英語を国語にしようと本気で考えたことは、ひろく知られているだろう)
こういう「洋化派」の言動を、木戸はサン・フランシスコに着いたときからにがにかしい思いで見ていた。彼は海外生活のわずかばかりの経験をもとに欧米の文明を賞賛し、日本の「百端そなはらざるを」批判する。
「その心多くは(日本を)罵るにありて、歎ずるにあらず」(杉山孝敏宛書簡十二月十七日付)
西洋と日本とのあいだの目もくらむような工業力の差に驚き、彼らは自国の文明そのものを否定するまでにいたる。のちに鹿鳴館の茶番劇を生む浅薄な拝外主義の台頭を、木戸は憂慮しはじめていたのである。
在外経験のない理事官たちを、西洋を少し知っているというだけの理由で書記官が愚弄する。同胞にたいしてさえそうだから、将来アジアの後進諸国から留学生が来日したときに、日本人はどういう態度をとるか。
「米国のわれを待つと同じからざる。必せり。」
洋化派官僚群の総帥だった木戸が、渡米以後は開化の将来に深刻な危惧を抱いた。逆にそれまでは洋化政策に慎重だった大久保の方が、佐々木高行の表現によると「飛切の(洋化の)風に化せられたる光景」だった。
(中略)
森有礼の独断専行の行為に岩倉具視が激怒し、満座の中で叱りつけることまでした。
木戸の日記には「大使、大いに森の平常愛国の情の薄きを責む。」
(中略)……
森有礼に対する木戸の怒りは、当然ながら激しかった。彼は後に森を、「森無礼」と呼ぶにいたる。
「森少弁務使のごとき、名利のためにわが政府を誹謗し内恥を外に売る。彼の米に心酔する、もとより米人もまた及ばず。」(井上馨宛書簡)
アメリカ人よりもアメリカびいきのこういう軽薄な開化派が国家にもたらす害悪は、単に外交問題にかぎらないだろうということを、木戸はこの時期いくどか書いている。

軽薄な開化派に国を誤らせないためにも、国家の基本(木戸が構想した三権分立)をととのえなければならないと彼は思っていた。渡米前の木戸なら、こういうことはまず伊藤博文に相談しただろう。
ところが伊藤は森の口車に乗って不用意に条約改正の交渉を推進し、委任状がいるといわれて日本に帰ってしまった。再度アメリカにわたってからも、彼は日本をキリスト教国にすることを、木戸に進言しているのである。
キリスト教国以外に野蛮、未開の国と、欧米人は盲信していた。日本人全体が切支丹に入信すれば、先方は満足するにちがいない。

現代にもこういう軽はずみな人が多くいる。自国・日本をバカにして、欧米あるいは中国・韓国といった他国をやたらと礼賛する人たちが……。「グローバル化だ」「日本はムラ社会だ、内向きだ」「他国を褒めないのはレイシストだ」と騒ぎ立てて、国を愛でることを言うとたちまち右翼だ・ネトウヨだといってバカにする人たちだ。
こういう軽薄な輩が国を誤らせるのだろう。明治時代にあって、木戸はこの危うさに気付いていたのだ。

そして、青木周蔵を呼んで、話を聞く場面がある、これが実にいいのだ。
青木周蔵(青木周蔵、目力スゴイ。)

欧米人はどうしてこうもキリスト教に熱心なのかと木戸はたずね、青木はキリスト教がヨーロッパで演じて来た歴史的役割について簡単に説明した。(説明している最中に、部屋に伊藤が入ってきた)
青木はのちにカトリックに(さらにのちにプロテスタントに)入信した男であって、キリスト教にはこの時期から好意的だった。彼はキリスト教の長所を挙げ、人間社会にとって宗教は大切だろうと答えた。
しかし木戸が使節団の一行中にはキリスト教国化をとなえ、天皇以下政府高官の全員がキリスト教徒になってしまえば条約の改正も容易になると説くものがいるといい、この意見についてどう考えるかときいたときには色をなして反対した。彼はヨーロッパ中世いらいの血で血を洗う宗教戦争の歴史を説明し、日本でいま政治的打算から国民にキリスト教を強制したら、国内いたるところ、擾乱の発生を見るにいたりましょう。
青木の留学先であるドイツは、宗教戦争によってヨーロッパ諸国中最大の犠牲を払わされた国だった。三十年戦争はドイツ各地に地獄絵巻をくりひろげ、国土は荒廃してゲルマン帝国は事実上解体される。
帝国を再建するには、二百年後のビスマルクの登場を待たなければならなかったのである。そのような悲惨を日本が経験するのを坐して見ることは、日本人として到底忍び得ないと彼はいった。――もし強いて本件を実施せらるるのであれば、まず私の首を刎ねてからにしていただきたく存じます。
木戸はしばらく感に打たれたようにだまっていたが、突然伊藤をはげしく叱りつけた。
日本のキリスト教化を伊藤はかなり執拗に説いていたらしい。
「米国の宣教師や浮薄な政治家の言をきいてこれに動かされ、軽挙妄動に走るとは何ごとであるか。
国家を乱すようなことになっては陛下にたいしても恐懼に絶えぬと、木戸は伊藤を睨みすえていった。手付利助のむかしいらい、彼が親分の木戸からこれほど怒られたことはなかったであろう。
(中略)
伊藤がアメリカ到着後まもなく日本耶蘇化論を口にしはじめたことは、佐々木高行もその日記に書いている。
「耶蘇教国にならずては、とても条約改正も望みなく、かつ日本の独立もむつかしくと伊藤などは信じたるなり。」攘夷は論外であるにせよ宗教、風俗等万事白人国に追従して、「独立国の特殊精神まで犠牲にし」たのではいったい何が独立かと、佐々木は憂憤をこめていう。
「いよいよその精神なれば、苦心は無用、はやく(日本を)欧米州に熨斗をつけ渡す方安心ならん」
キリスト教への警戒心が幕末攘夷思想の中核を形成していたことは、この稿のはじめで詳述した。キリシタンの再侵入は、鎖国いらい幕の脳裏を去らない悪夢だった。
ペリーが黒船をひきいて航海に出ようとしたとき、日本との交渉を円滑にすすめるためには宗教問題には一切触れるなとフォン・シーボルトが彼に忠告している。忠告されるまでもなくペリーの方は、キリスト教への言及がこの国ではタブーであることを百も承知していた。しかし彼の恫喝外交は日本中を震撼させ、攘夷論の波が澎湃として起こる。
キリシタンの排撃と国体認識の徹底の要とを説いた会沢正志齋の「新論」が攘夷家必携の書となり、会沢の国体論に共鳴した吉田松陰はみずから水戸学の信奉者と公言した。
攘夷の実行が不可能であることがその後明らかになるとともに、討幕派の尊皇攘夷論は尊皇開国論への急旋回をとげる。開化を急がなければ日本は生きのびられないという認識も、次第に新政府首脳部のあいだに浸透していた。だが皇室以下日本全体のキリスト教化となると、問題の性質は技術革新や諸制度の洋式化とは根本的にことなる。
条約改正の交渉上多少の利益があるかも知れないということを理由に、伊藤は日本の文化伝統そのものを犠牲に供することをあえて主張したのである。(伊藤はこのころ、共和制の採用を考えていたという説もある「維新伝疑史話」)
大嘗祭をはじめとする宮中祭儀が一神教と両立するはずがなく、キリスト教徒の天皇とは語義矛盾といってよい。
伊藤のいいぶんにしたがえば、伊勢の皇大神宮のかわりに大教会堂を建てねばならない。それでも松陰の門下かと、木戸はいいたかっただろう。

この本にはこういったキリスト教や諸外国の思惑が良く書かれている。実にいい本だ。
そして、「それでも松陰の門下か」と木戸は言いたかったとあるように、木戸は吉田松陰の思想を良く理解していたのだ。(開明派であったが、その精神を受け継いでいた。)

伊藤を寄せつけなくなってからの木戸は、ロンドンでも次の訪問さきのパリでも青木を相談相手にした。青木は木戸に、プロイセン型の憲法の採用をすすめた。
アメリカもフランスも共和制でイギリスには成文憲法がない以上、大国ではプロイセンの憲法がこの時代の日本人にはもっとも親しみやすい。ただしコンスティテューションの訳語として憲法の語が用いられるのはまださきのことであって、青木は単にコンスティテューションというか、あるいは政規ということばをつかった。
「フランスのコンスティテューションは、誤謬の主義をもって構成されたものであります。フランス人のとなえる自由主義は結構だが、権利同等を主張して貴族、騎士の伝統的特権を奪い、その結果社会の秩序を破壊するにいたったと、青木は木戸に説いた。イギリスにもプロイセンにも貴族院があり、貴族、士族は当時なお相当規模の保有を許されていたのである。
プロイセンでは貴族は軍人や役人として働いたのちに多くが故郷に帰って無給の村長となり、地方行政につくしていることを青木が説明して、日本でも華士族をそのように処遇するべきであるというと、
「木戸翁は、聞きをはつて落涙数行」(「青木周蔵自伝」)
涙を流して、彼の主張に賛成した。青木が自伝で翁と呼んでいる木戸は、数え歳で三十九歳だった。
武士は道徳上の鑑として生きよと、江戸の武士道は教えてきた。農工商三民の上に武士は徒食しているのだから、貧しさに耐え廉恥を重んじ、社会の手本となるように行動しなければならない。
山鹿流、北条流等の各種の兵法書がもっともつよく強調したことがらがそれであり、山鹿流軍学の家を継いだ吉田松陰は武士のもつ社会的責任をくりかえし弟子に説いた。
「『士は、農工商の業なくして三民の長たり』と(山鹿素行の)云ふ所へ、深く工夫を凝らしたまへ。」(「武教全書講録」)
廃藩置県によって武士の大部分が仕事を失ったあと、木戸は士族が賤業につくことを禁じようとして、何が賤業とするかの類別ができにくいために結局諦めた。士道が失われることを、彼はおそれたのだろう。
ところが留守政府が内定した秩禄処分案では、すでに削られている華士族の家禄をさらに三分の二に削減し、その六年分を債権で買い上げることになっている。これでは七、八年後に、路頭に迷う旧武士が続出するはずである。
青木からプロイセンやイギリスの貴族、騎士の地位を開き、日本の士族の将来を考えて、木戸は涙を見せたのだろうと思われる。彼はそのあと西郷以下留守政治の要路に手紙を書き、家禄召し上げ方式の緩和を切々と訴えた。
「七八年の後(士族は)なすところを知らず飢餓路頭、しからずんば小賊窃盗おのれの心を破り風俗を乱れるもの必して少なからず」すでに内定した政策に口をはさむのは恐縮ながら黙視することもできないので、「この段御容赦下さるべく候」


勝海舟は金銭面で旧幕臣たちを救おうとした。西郷隆盛は武士の魂を守ろうとして最後は自ら兵を挙げた。木戸は政府内部にあって政策面で武士たちを救おうとした。
幕末維新を推し進めた偉人たちは、みなサムライを守ろうとしたのだ。(封建主義を守ろうとしたわけではない)
サムライが滅びれば、サムライの魂までが滅びる。日本の大和魂が失なわれ、欧米の精神に侵されれば、国は滅びる。
そう、木戸は信じていた。
これは、自国のアイデンティティを失った清や朝鮮を見れば明らかなことだった。己の国の根幹を成す精神を無くせば、国など簡単に崩れる。(魂を文化と置き換えてもいい。だから自国の文化を守ることは大切なのだ)
開国派の自由主義的立場であった彼だが、その精神や魂は大和魂そのものだった。
その精神はどこから受け継いだのか。
やはり、吉田松陰の影響を多分に受けていたからに相違ないのだ。

ここで、資料編の最初に戻ってきましたね。
過去記事「吉田松陰の魂はどこへ。
前回、前々回見てきたように、彼は「おくりびと」であり「魂の継承者」であるのだ。
そして、木戸孝允・桂小五郎は紛う方なき真の「サムライ」なのだ。

これで、「木戸孝允のいいところをどんどん書いていく編」は一応終わり。

だいぶ資料がたまってきました。
さあ、始めましょうか!

木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その2

木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その2
前回の続きで、今回は資料編の24回目

村松剛の「醒めた炎」から引いていきます。

1、木戸孝允と福沢諭吉。

木戸が病床につく少しまえに福沢諭吉が九段坂上の邸を訪れ、これ以上職にとどまっておられても衆人の恨みを買うだけですといった。(当時、征韓論で木戸は急進派と保守派の板挟みとなっていた。)福沢は木戸と文部大輔田中不二麿の紹介で知り合い、三月いらいくどか会っている。
木戸の漸進主義が、この啓蒙家には理解できた。それだけに木戸が非難の集中砲火を浴びながらなお大久保を協力している姿が見るにしのびなかったのである。
福沢の厚情に、木戸は感謝した。
「余、実にその心切(親切)に感ずるといえども、」いまはやめるわけには行かないと、その日記のなかでいう。

なるほど、木戸と福沢の考え方は似ていると思う。それが良く表れているのが両者の「天皇観」であろう。

(トルコの革命など)これらの一連のことがらが、皇室の問題を木戸に改めて考えさせた。明治政府は天皇という歴史的な権威をいただいて反対勢力を封じ込め、矢次早の改革を断行して来た。
その肝心の皇室がヨーロッパのどこの国の王室とくらべても貧しく、皇室の子弟教育さえろくに行われていない。焼失した宮城再建のめどさえ立たないのは日本自体が貧乏だから仕方ないとしても、史上最初の東北巡幸のために用意された御手許金もわずかなものだった。
各地の開発功労者や病院などの下賜された金額は、水害にあった二百十八箇村への撫恤金四千五十円を含めて、総額八千円にみたない。御下賜金の件数は、約二十件だった。(「明治天皇紀」による)
八千円は参議一人の年俸を、多少上回る程度の金額である。宮廷費が宮内省予算の枠内にあるかぎり、御手許金を多くはつかえないだろう。
政府は人民のための政府であるという木戸の日ごろの信条からいえば、皇室も人民とともにあらねばならなかった。しかも民心は、急速に変化して行く。
明治四、五年のころは幕藩体制への復帰を求める一揆が各地で起こっていたのに、いまは小学生の子どもが天皇の権限を口にしている。皇室の威信をたかめ、皇室と国民とのつながりをつよくするためには、皇室自体の財産をつくって御手許金をふやし、適宜国民の福祉にまわせるようにしておかなければならない。
木戸はそのことを岩倉に、書面をもって上申した。
「帝位の貴重を保ちなされ候己上は、おそれながら皇室相当の富有は占隨せられて、王子貴族も実にその御品位ござなくては何をもってその貴重なるものを保ちなされ候や」(七月二十四日付)
学校や貧民院、病院等を時機に応じて援助できるだけの内帑金は、つねに準備しておく必要があると彼はいう。

これと同じようなことを福沢諭吉は「帝室論」で書いている。
その部分は過去記事で引用しているので、そちらを参照してください。「勝間和代の「皇室はコスト問題」発言にモノ申す。
また、「学問之独立」「帝室論」には、皇室が文化・学問・芸術の保護者となるべきといった主張があり、これも木戸と同意見であった。過去記事・「園遊会」と「福沢諭吉」

これらは、現在の皇室(サヨク用語的には天皇制)を考える上で大切なことだと思う。
日本の歴史・伝統の象徴として、文化概念としての天皇……、日本の偉人たちはみなこれを考えた、福沢諭吉然り、三島由紀夫然り、新井白石然り、戦前の偉大な哲学者、西田幾太郎や和辻哲郎たちもだ。(これらの人々の主張はあとでまとめてみたい)
上山春平「日本の思想 土着と欧化の系譜」(岩波書店)にこんな一文がある。「明治のリベラリストは、透明な近代主義者でもコスモポリタンでもなく、江戸時代の文化と習慣をたっぷりと身に付けた強烈な愛国者である場合がむしろ多かったのである。そういった人物が、祖国を愛するがゆえに政治や学問の近代化を主張したのである。」
これに代表される人物が福沢諭吉だが、木戸はこれにかなり近い思想であった、と思う。

さて、次は、2、木戸の政治スタイル

①木戸がやかましく抗議したせいか留守政府は元帥の階級を一年足らずで廃止し、明治六年五月に西郷を改めて参議兼陸軍大将に任じた。つまり元帥が大将に、降格された。
しかし木戸としては元帥だろうと大将だろうと、そもそも政治家が現役の軍人を兼ねることが気に入らない。政治家と軍人の職分を分けるのが文明国の「政体の美」であり、日本もこれを見習うべきであると、木戸は海外に出るまえから山縣に説いていた。
軍の采配は欧米諸国では「帝王の隊は帝王、共和の国はその統領」が握っていると彼はいう。それを考えれば日本の統帥権は、元首である天皇に直属しなければならない。明治憲法によってのちに明文化される統帥権構想を、彼は主張したのである。
統帥権は昭和に入ってからは、逆に軍人による国政専断の道具に使われる。明治憲法をつくった人々には、想像もできなかった事態であろう。
政治家が兵権を握れば、軍は一政治家の私兵になる。木戸はそれを恐れて、西郷が近衛都督、陸軍元帥(後に大将)に任命されたとき猛然と反対したのである。

文化の象徴である天皇に軍の統帥権を持たせるべき、という考え方は福沢諭吉や三島由紀夫にも通じる考え方なのだ。これは福沢も何度も主張しているところだ。ただ三島がこれを言うと「天皇に軍隊なのか」とサヨクに非難され、世間では曲解されている。いまこういうことを考え直す時期にきていると思う。
これを説明するのは容易ではないから省略するが、木戸の理想としたことも、福沢諭吉の考えていたことに近いということだ。

では、岩倉使節団や征韓論のころの木戸の政治スタイルを拾ってみましょう。


②彼は青木周蔵を助手に、ヨーロッパ各国の政治制度をしらべてから帰るつもりでいたのである。諸省間のいがみあいの調整などよりは、日本の将来のためにその方がはるかに大切だとこの男は思っている。

③セント・ペテルスブルグに滞在中に、青木周蔵が一夜眠れないままに地方行政についての本を読んでいると、木戸が突然部屋に入って来て、「何を読んでいる」
青木が大要を説明すると、「ちょっと待ってくれ」
自室に引き返して筆と硯を持参し、青木の訳読する文章を筆記しはじめた。使節団は欧米諸国の諸施設を、国会、裁判所、学校、兵器工場から孤児院、動物園にいたるまで、驚くほど精力的に見てまわっているが、とくに渡欧後の木戸の勉強ぶりは全権副使というよりは留学生に近い。
「木戸翁回歴中すこぶる勉強にて、各国の形勢にも熟通につき、……」と伊藤博文は大久保利道宛の手紙でいう。

③木戸は萩で山田顕義からの書状を受け取り、薩摩系の対清強硬論が堂上を支配していることを知った。木戸は憤激してその日記に「天下蒼生のため慷慨にたえざるなり、数百年の進歩を妨害することこの一挙にあり」
帰郷後木戸は、貧窮した士族や脱隊騒動の救済に奔走していたのである。物価の高騰と減封とによって武士の生活は逼迫していたが、ことに諸隊騒動に加わった兵たちはわずかな賞典禄を召し上げられ、毎日の食事にこと欠く状態だった。
木戸の帰国をきいて脱隊兵の残党があい継いで彼を訪れ、その窮状を訴えた。木戸は同情して、旧知のものには当座の生活費を与えている。伊藤博文宛の彼の手紙によると、
「僕一身にとり候ても旧知縁者のために散財せしこと数百金、世間の事情は少しも相変わらず飢餓日に迫り候ものも少なからず、」(八月二十四日付)
土民を貧窮に泣かせておいて、いったい何のために戦争かと彼は思っていた。

④(征韓、台湾出兵に大反対した木戸)
人民を保護するのが自分の管轄する内務省の任務であるのに、内務省には予算がなくて巡査の数が不足し、「兇賊暴徒出没するものいまだ止まず」と彼は意見書でいう。文部省に関して政府は「国内不学の戸なく不学の民なく」と宣言しながら、旧幕時代の教育費が年間三百両を越えたのにして現在の文教予算は三十万円にすぎない。
幕藩体制下では幕末に藩校数二百六十をこえ、寺子屋、私塾は二万ないし三万に達し、識字率という点からいえば(教育全般の質を問わなければ)、日本は同時代のアメリカはもちろん、ヨーロッパのたいていの国よりは上だった。教育費三百万両という木戸のことばは、幕府と諸藩との学校経営費の推定総額だったのではないかと思われる。
台湾まで出ていくくらいなら、そのまえに樺太でロシア人の暴行にあっている同胞をなぜ救おうとしないのかと木戸はいう。樺太南部は、日本の属領である。
征台作戦発動の上奏文に木戸はだたひとり、署名を拒否した。
(中略)……。
出兵の戦費に関しても、大隈、西郷は呆れるほど楽観的だった。三月末の閣議で木戸が戦費の捻出方法をたずねると、大隈は「五十万の用意があります」と答える。五十万で足りるという保証がどこにあるのかという木戸の質問にたいしては、戦費がそれ以上にかさんだら西郷は腹を切るといっていますと彼は答えた。これでは、予算の説明にはならない。木戸は怒って、「かかる国家の大事を、死をもってうけあうと申すは野蛮である。」
国民の生活に責任のある政府の幹部が、口にしてよいことばではないと木戸はいった。
(中略)……。
木戸にしてみれば、馬鹿馬鹿しいかぎりだった。佐賀の乱鎮圧のためにぜひ内務卿をひきうけてほしいと大久保に懇願され、病いをおして内務文部の両相兼務という劇務についたら、いつのまにか薩人たちが起こした台湾征討論の潮のなかにおかれていた。
四月二日に上奏文への署名を拒否してからは、彼は参議としての登院をやめ、江藤新平の処刑の報がはいるのを待って長文の辞表を三条に提出した。国内三千万の人民の保護が政府当面の急務であるという持論を、ここでも彼は繰り返す。
「深く思う、国は人民によりて立つ名、政府は人民を安んずるの称なり」これはほとんど、「主権在民」の論に近い。この時代の閣僚中でここまで考えていた男は、木戸だけだった。

⑤青木周蔵が岩倉の言葉を伝えに木戸の家に帰ってきた。(青木周蔵は帰国後、木戸の家に寄宿していた。)
木戸は二階の自室で彼を待っていた。青木は岩倉のことばを逐一報告し、辞任には自分も反対でありますといった。
「一身をいさぎよくするだけが、宰相のみちではありません」青木のはなしを聞き終わると、木戸は突然目の前の桐の長火鉢をもち上げて放り出した。青木の回想によれば、「熱灰は室内一面に飛散して、燈火もそのためにその明を没し、灰火は散乱して畳を焦がすにいたり、」物音に驚いて松子と居候の桂太郎とが、階段を上がって来た。木戸は二人に、「お前たちの知ったことではない。さがっておれ」
青木にはきみに投げつけたのではないと、涙を浮かべていった。火鉢を彼が投げつけたかった相手は、たぶん岩倉だったであろう。

ランダムに引いているので何のことだか分かりづらいとは思います。ただ、ここで言いたいのは、明治維新を推し進めてきた木戸が、このころから焦燥感や違和感を抱いていたということだ。これは自分の体力・寿命が尽きかかっていることも関係していた。(明治10年に死去している。)そして何よりも、自分の思い描いていたものと、政府の進む道が違うものになっていることへの悔恨の情さえ滲ませている。
また同時に、幕末維新のとき失った友や師への「申し訳ない」といった感情を抱いたに違いない。
木戸がそういった心情を常に持っていたことは前回の例でも分かるだろう。


木戸がもう少し長生きしていたら、日本の政治は変わっていただろう。
それは、半島・朝鮮や大陸・清に対する政策に大きな変化があったであろうからだ。この後に続く「日清戦争」「日韓併合」……「在日問題」にも違う形で影響を与えたに違いないのだ。
そう考えていくと、「歴史」はやはり面白い。

続く……。

木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1

木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1
これは、資料編の23回目となります。
過去記事としては、「桂小五郎のカッコいいところをどんどん書いていく!」のときに、桂小五郎時代のいいところを書いたので、今回以降は木戸孝允時代から拾っていきます。
ほかに木戸孝允の関連記事としては、
日光の関係者は木戸孝允を、歌舞伎関係者は井上馨に、少しは感謝した方がいいじゃない。
吉田松陰の魂はどこへ
となっています。

ということで、引いていくのは、木戸孝允の生涯を描いた名著、村松剛「醒めた炎」(中央公論社)から。
村松剛「醒めた炎」
「醒めた炎」はいい本ですよ。
幕末・維新の流れを掴むには最適な本だと思う。(諸外国の思惑やキリスト教と日本の関係もよく分かった。)
特に後半、木戸孝允側から明治維新を見ると、大久保・西郷らの薩摩側から見るのとはまた違って、この時代の動向がよく掴める。
司馬遼太郎が、「明治になってからの木戸は大した働きがない」とよく書いていますが、そんなことはない。木戸が明治維新の中心的役割を担っていたことがこの本でよくわかります。(司馬が良く使う技法で龍馬や高杉や西郷・大久保を英雄的に描くために、それに対する人物を作為的に悪く書く。木戸をはじめ伊藤博文や井上馨なんてヒドイもんです。)

この本は、図書館で借りて一読して、気に入ったので、アマゾンで購入。(古本で、文庫1・2巻と単行本の下巻の変則で入手。文庫版第4巻は定価が千円くらいなのに、今は1万円近くもする。)
この名著が絶版とはどういうことですか。ただちに復刻をお願います。
今回、ちょっと引用しようと読み返してみたら、付箋だらけ、ドッグイアだらけになってしまいました。
醒めた炎 付箋

ほんとなら全文引用したいくらいですが、今回は必要なところだけを順序関係なく引いていきます。

1、木戸孝允の人柄

①「桂は温和で紳士的な態度において、きわだった人物だった。しかしその背後には軍事的にも政治的にも最大の勇気と決断力とを蔵しているのである」アーネスト・サトウ「日本における一外交官」

②岩倉は大久保利道にたいしては、若い微士を呼ぶときと同様に、「大久保」と名前を呼び捨てにしていた。それが木戸の場合は、「木戸さん」である。長州藩の児玉愛二郎の談話によると、「木戸さん、といって「さん」の辞をつけて(岩倉が)呼ばれるのは、実に木戸公ばかりである」

③「新聞雑誌」は、木戸の発案によって創刊された。彼は前年の暮に品川弥二郎に宛て出した手紙で新政府の役人の頑迷さを嘆き、「みな政治あっての人民の心得にて、人民あっての政府あるを悟らず、嘆息しごくにござ候」開化の推進には民衆啓蒙のための情報機関が必要であることを、彼は力説した。
「一つの新開局をあひ開かせたく、内国のことはもとより外国のこともことごとくわが人民の心得にあひなり候やうのことはすべて記載させ、偏国偏藩にいたるまで流布つかまり候やういたし候へば、自然と人民誘導の一端ともあひなり申すべく候」
新聞局は政府が直接開設するのではなく、刊行は民間にゆだねて政府批判の記事もときには掲載するようにしなくては、読者の信頼は獲得できないとも木戸はいっている。


そして、面倒見の良さから木戸のところには人が集まってくる。

①使節団の一行は七月十四日にリバプールに上陸し、汽車で同日の深夜ロンドンに着いた。青木と林とが木戸を訪れたのは、翌々日の十六日だった。
ロンドンには木戸の養子正次郎(妹の子)が、前年いらい留学している。また木戸のロンドン到着を知って多数の長州系の在英留学生たちが、毎日のようにホテルを訪ねて来る。
「頃日客絶えず、あたかも東京の家のごとし。」(「木戸孝允日記」)
ホテルの彼の部屋は、書生の溜まり場のようになった。

②陸軍小佐・桂太郎(のちに大将、首相)がドイツから帰国したのが、……独身の桂は、帰国後しばらく木戸の邸に寄宿する。
参謀局を行政から分離すべきであるという建議書を、桂は木戸の邸に寄寓しているあいだに書いているのである。木戸の邸には山田顕義(陸軍中将、のちに日本大学を創設)、鳥尾小弥太(陸軍中将、のち子爵)、三浦梧楼(陸軍中将、韓国公使で大正時代の政界の黒幕)などが寄宿していた。

③(陸奥宗光について)薩長中心の政府にあって、海援隊出身の紀州人を、政府は仇敵視した。それでも木戸は陸奥の資質を買い、島津、岩倉両大臣からの強硬な反対にあっても彼の登用の件は頑として譲らなかった。

④大隈重信はこのころ木戸に傾倒していて、「真に木戸の書記のごとし、」と佐々木高行が日記に書いている。

木戸が部下を引き上げて推薦したり、若い軍人や書生や下級役人を木戸の家に寄宿させたり面倒を見ていたといった話はほかにも随所に出てくる。これは長州出身者に限らなかった。だから木戸を頼ってくる人も多かったのだ。面倒見の良さは、吉田松陰の影響が大きかったのではないだろうか。そういう意味において木戸は最も松陰の精神を継承しているといえる。(松陰の狂の部分は高杉晋作が受け継いでいる。木戸と高杉は実に対照的だ。)

2、送り人としての木戸孝允

①高杉の死を聞いて、「国家の一大不幸」「悲嘆に堪へ申さず候。」と河瀬安四郎宛の手紙に綴った。
安政以来の同志は、もうひとりもいなくなった。
明治になり、萩から下関へ向かう途中、周布と高杉の墓を詣で、ついでに高杉の愛人だったおのうを見舞っている。おのうは喜び、彼のあとを追って長崎までついて行く。
髪を落として、おのうは梅處と名乗っていた。高杉とおのうとの二人をかくまっていた日柳燕石はその姿を見て感慨にたえず、「故人は鬼となり美人の尼」と詠じている。……燕石は三年前に二人を長州に逃亡させたあと捕らえられて獄中にいたから、高杉の墓所はこのとき木戸に案内されてはじめて訪れたのである。

②中島三郎助父子の戦死を知らされた。(中島は小五郎時代の木戸に造船術の手ほどきをしてくれた男であり、剣の斎藤彌太郎、兵法の江川太郎左衛門とならんで、三人の恩師のひとりだった)
……函館の戦いの報告をききながら盃に口をつけようとしていた木戸は、中島の戦死を知ると盃をおいて嘆息し、その夜は酒を口にしなかった。古武士のような中島の性格を知っていただけに、こうなることを彼はまえから危惧して、前年の秋に天皇に供奉して東京に来たときには中島の所在をさがしたのである。
しかし当時すでに中島は、艦隊とともに北方に去っていた。
「もし面会することを得て維新の真意を語り知らせたら、あのような人物を殺さずにすんだであろう。」
そういう嘆きを、木戸はのちのちまでくりかえす。彼は中島の娘のお六を明治九年にひきとり、自分の養女にしようとまでした。

③大村益二郎が死んだという報を東京できいた木戸は、悲嘆のあまり声も出なかった。「実に痛歎残意、かなしみ極て涙下らず、茫然を失うがごとし」(日記、十一月十二日)
大村に彼がはじめて会ったのは吉田松陰の江戸送りの少し前だから、十一年のむかしになる。それいらい大村をつねに「先生」として遇し、藩に推挙してついに新政府軍政の中軸に座らせた。
木戸が本当に気を許して話のできる相手は、長年の子分の伊藤博文をべつとしていまは大村だけだった。二人で兵制の大改革に乗りだそうとしていた矢先の死であり、まさに「茫然自失気を失うごとし」の思いであったろう。

④木戸は広沢の死を告げられたとき、しばらく声も出なかった。
兄弟を失ったよりも悲しいと彼は日記に書き、広沢から最後に受け取った手紙を読み直しては涙を流した。この手紙で広沢は、廃藩置県こそが富国強兵の基礎であると論じている。……版籍奉還には消極的だった広沢も、この時期には日本の自立自衛のみちは封建制を根絶するほかにないと、考えるにいたっていたのである。大蔵、民部両省の分割問題では彼は大久保のがわについたとはいえ、その件を除いては木戸にとってつねに貴重な政治的伴侶だった。
木戸が長州出張のために数ヶ月東京を留守にしたときは、広沢はいくども留守宅を見舞い、松子(幾松)の相談相手になっている。木戸が明治二年の夏いらい閣外にいられたのも、広沢が長州藩の代表として参議の席に座っていたおかげだった。……広沢が第一の標的とされたのは、脱藩兵騒動の処分にあたったことのほかに、参議兼民部省御用係、東京府御用係として、政府内での権勢が巨大化していたからだろう。木戸の身代わりをつとめて殺された、といえなくもない。それだけにいっそう、木戸の気持ちはつらかった。
木戸は犯人検挙のため臨時裁判所を開かせたり、密偵を雇い事件捜査を続け、その努力は死ぬまで放棄することはなかった。

⑤山口で毛利敬親が死去した。木戸は悲嘆にくれ「痛歎のいたり悲泣言語に絶し候」(日記)

そして靖国神社建立の件もいい。

⑥招魂場の発案者は大村益次郎だった。長州には殉難者、戦死者の招魂場が元治元年いらい約二十箇所につくられていて、そのいわば中央版が東京の招魂場になる。
大村はこのころすでに、徴兵制度による国民軍の樹立を考えていた。諸藩の藩兵を廃止して国家の軍隊に改編する以上、戦没者への慰霊の祭儀も諸藩によってではなく、当然国民的規模において行われなければならないだろう。
木戸は大村の提案にただちに賛同し、議定、参与たちを説いた。維新以後の木戸は死んだ友人知己の上に思いをはせることが多く、「夜坐して亡友を思ふ」と題する詩を書いたりもしている。
「一穂の寒燈眼明を照らす  黙坐沈思無限の情  首をめぐらせば知己人を見ず ……  世難多年萬骨枯る」
吉田松陰、周布政之助以下、長州藩の古くからの志士は殆どことごとくが難に倒れているのだから、「萬骨枯れる」の感慨は彼の場合ひとしおだったであろう。
招魂場の設立は驚くほどのはやさですすめられた。大村が木戸に会って計画を説明したのが六月四日であり、十日には政府がこれを承認して二十九日に九段坂上で開場の式典が挙行される。
最初に合祀されたのは、戊辰の役の戦死者三千五百八十八人の霊である。祭主は仁和寺宮嘉彰親王が務め、勅使の差遣があったあと相撲の奉納仕合も境内で行われた。
正式の名称は招魂社で、のちに靖国神社と改められるのだが、当初の長州人のいい方にならって招魂場とも呼ばれた。七月四日には花火が打ち上げられ、木戸の日記によれば、「昼夜群衆、人聲暁にいたりてやまず」
深川の色町が明治三年に火事で焼けたとき、岡場所をほかに移すという噂が広まり、心配した妓楼の主人や関係者数百人が毎晩提灯をさげて招魂場を日参した。

「維新以後の木戸は死んだ友人知己の上に思いをはせることが多く……」といった彼の心情を思うとこちらまで胸が痛くなる。木戸の心の中には常に「生き残ってしまった」という意識が常にあったのではないのか。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし  生きて大業のみこみあらばいつでも生くべし」として生きて大業を成した木戸だが、生き残ったことで、先に逝ってしまった人たちのいろんな思いや願いや大望までも、すべて背負ってしまったことになる。
1877年・明治10年に大病を患って木戸は没するが、そのとき45歳だった。
若い。若過ぎる。
木戸孝允の人生とは、まさに気苦労の多い一生だったのだ。
そして、靖国神社といえば桜が有名ですが、ここに桜の木を植えたのは木戸孝允だった。
靖国神社 木戸
「靖国神社と桜の縁は古く、明治三年、木戸孝允公によって神苑に染井吉野が植えられたのが始まりと伝えられています。
現在、靖国神社の境内には、染井吉野をはじめ、山桜・寒桜・富士桜・緋寒桜・枝垂桜・ウコン桜など約六百本の桜があります。 その中には、東京の桜の開花を観測している標本木が含まれており、標本木に五、六輪の花が咲くと気象台から東京の桜の開花が発表されます。」とある。

鎮魂に桜……、サムライに神社……。
靖国神社 木戸孝允画像はここから。「http://www.tachikawaonline.jp/local/sakura/tyo_17_chiyoda_yasukuni.htm
木戸孝允さんはいい人です。

続く……。

新田義貞の自動販売機とうちわと蘭奢待

群馬県太田市にある「ジョイフル本田新田店」の店頭にある自動販売機を見たら、「新田義貞」だった!
新田義貞・自動販売機2

新田義貞・自動販売機1
コカ・コーラさんエライ。
群馬県知事選
元絵は「新田義貞公出陣の図」(新田神社蔵)ですね。
「群馬県知事選」のポケットテッシュの図柄にもなってました。

そして、自動販売機の側面を見ると!
新田義貞・自動販売機3
生品神社にあった新田義貞像ではないか!
過去記事
大変だ! 生品神社から新田義貞の銅像盗まれた!

義貞公の銅像再建に向け募金開始。しかし今は厳しいのでは……。

こんなところで見られるとは……。
ついでに売上の一部を銅像再建の資金を回してもらってはどうでしょうか……。(そういう募金の仕方があるようだ。「OSAKAあかるクラブ支援自動販売機」、これもコカ・コーラか)

さて、新田義貞うちわの22年度版があったので、画像を載せておきます。
新田義貞うちわ22年度版
これで7個目です。
過去のものはここで
太平記の巻十七「金崎船遊事付白魚入船事」の場面かと思ったが違うようだ。このときは、恒良・尊良親王が琵琶、洞院実世は琴、義貞は横笛、脇屋義助は笙の笛、川島惟頼が鼓などの打物で合奏したことなとになっているから、この場面ではない。ではどの場面かな?

さてさて、新田義貞関連の記事で、平成23年9月18日付 読売新聞にこんな記事が。

第63回正倉院展(10月29日~11月14日、奈良国立博物館)を前に、多彩な宝物の魅力を紹介する「正倉院フォーラム2011大阪」(読売新聞社、NHK大阪放送局主催)が17日、大阪市中央区の松下IMPホールで開かれ、約700人が様々なエピソードに耳を傾けた。
 今年出陳される62件の宝物から、杉本一樹・宮内庁正倉院事務所長が、織田信長ら権力者を魅了した逸話を持ち、最も注目を集めそうな香木「黄熟香(おうじゅくこう)」(通称・蘭奢待(らんじゃたい))など十数件の来歴や見所を解説。
 岡本彰夫・春日大社権宮司と関根俊一・帝塚山大教授による対談では「幾多の自然災害を乗り越え、これだけの品が伝わったのは奇跡。世界でもほとんど例がない」などと、1200年余りの時を経て宝物が公開される意義を語り合った。
 また、中国古箏(こそう)奏者の伍芳(ウーファン)さんが童謡「里の秋」などを披露。美しい音色に観客席は魅了されていた。

どこが義貞と関係があるかって、それは「蘭奢待」です。
やはり「仮名手本忠臣蔵」は新田義貞及び新田一族の鎮魂劇」なのですよ。


新聞読んでも、テレビを見ても、ネットを見ても、「韓国、韓流」って。それじゃ、もう寝るしかないじゃん。

朝日新聞ってつくづく変な新聞だと思う。
平成23年9月13日の社会面には、「鉢呂前通産産業大臣の放射能失言問題」や「大阪地検特捜部のフロッピーディスク改ざん事件」といった記事に混じってこんな変な記事が載っていた。

新韓流雑誌、店頭に 現地の最新情報、日本語で編集
取材・日本語での編集・印刷のすべての工程を韓国国内で行う韓流雑誌「韓スタイル」が12日、日本全国の書店で発売された。韓国誌を翻訳して日本で販売する例はあったが、最新情報を現地で日本語で編集するケースは極めて珍しい。
隔月刊で発行部数は5万部。これまでインターネット上で予約した日本の読者向けに約5千部を通信販売していたが、日本の中堅出版社、ワニブックスと提携することで日本全国の書店での販売が実現した。ワニブックスの担当者、吉本光里さんは「現地発なので日本の韓流より情報が早い。オリジナル写真や宣伝写真が多く載っているのも強み」と話す。自然派コスメやマッコリなど、掲載される広告も韓国企業のものが中心だ。(竹端直樹)

これはバカとしか言いようがない。事件や事故などを伝える一般紙面の欄に「宣伝・広告」が載っているだけでもおかしいのに、しかも「新しい韓国情報の雑誌発売!」って、なに?
そして、問題なのはこの雑誌に掲載される広告が「韓国企業」だということ。
まさしく韓国の芸能といいつつも、韓国の企業を広めることが目的なのだ。
なるほど、韓流が国策だというのが良く分かる。
それを日本の一流新聞(?)が大きく伝えるとは、この国のマスコミとは笑える存在ですね。
過去記事「「韓流ブーム批判」をする人って暇な人なんだって、と朝日新聞が言ってますけど……。
そして、同日のコラムに内田樹のアホ記事がある。
読んでいて気分が悪くなった。(後日、載せてみます)
ほんとこの人は「卑怯」なんですよ。

もう、新聞はいいや、テレビでも見るか。
なに!フジの韓国ドラマはまた3時間連続に戻ったのか……、BSは相変わらず韓国ドラマばかりか。もはや吹き替えでもないから、「カムシミダー」「アニハセヨー」って、これはどこの国の放送局。

あ~もういいや、ネットでも見るか。
うわあ~、ここにも胸糞が悪くなる記事が……、
http://tv.jp.msn.com/features/column_otona/article.aspx?cp-documentid=5374318&page=2

石原壮一郎の月刊「ニュース!大人気ない発言大賞」
不思議で仕方ないのですが、韓国や中国のことになると感情をあらわにいきり立つ「自称・愛国者」の人たちは、何が楽しくてやってらっしゃるのでしょう。もちろん、きちんとした信念に基づいて自分の意見を堂々と主張してらっしゃる方は、大いにけっこうだと思うし、敬意を表させていただきます。
 しかし、ネット上でもっぱら匿名で口汚い言葉を使って韓国や中国を罵ったり、二言目には「そういうことを言うあいつは、きっと日本人じゃない」とレッテルを貼ったりして気持ちよくなれる感覚が、まったく理解できません。まさかとは思いますが、もし「自分が日本人であること」にすがってプライドを保とうとしているんだとしたら、そんな情けない了見で頑張っている自分にふと気づいて激しく落ち込みそうなもんです。
 いや、きっと私が無知なだけで、もっと崇高な理由や目的があって暴れてらっしゃるんですよね。ただ、たとえそうだとしても、けっしてそうは見えませんけど……。
 話が大きくそれました。すいません。この高岡蒼甫さんの発言のきっかけは、7月23日のツイッターへの書き込みでした。「正直、お世話になったことも多々あるけど8は今マジで見ない。韓国のTV局かと思うこともしばしば。うちら日本人は日本の伝統番組を求めていますけど」などと発言。それが波紋を広げていろんな騒動に発展し、高岡さんは事務所を辞めることになります。
 その後、8月5日付の「高岡蒼甫 本人ブログ」で、「このままじゃ着地点が一向に見えないので一回休憩に入ります」と、騒動から身を引くことを宣言。ただ、騒動自体は収まらず、8月7日にはフジテレビの本社前で「偏向放送」に抗議するデモが行なわれました。これを書いている時点ではどうなったかまだわかりませんが、8月21日にも再度デモが行われる予定だそうです。
教訓:「大人げない言いっぱなし力」が、さらなる大人げなさを引き寄せた
 高岡さんのフジテレビ批判は、言い方は荒っぽいし首を傾げたくなる内容ではありますが、ちゃんと自分の名前を出してリスクを背負って世の中に釘を刺そうとしたんですから、それはそれで尊重すべきだと思います。ま、いったん「妻も同じ思想」と書いて、あとでそれを否定するなど、勢いにまかせた大人げない暴走を見せてくれたのはご愛嬌。そして、ご本人は早々に「一回休憩に」入ってしまいました。
 ところが、ちょうどいい広告塔というか、前面に押し出して弾よけにできる存在を見つけて元気になっちゃった人たちが、ここぞとばかりに張り切り出します。高岡さんの「大人げない言いっぱなし力」をきっかけに、大人げない尻馬に乗り力や、大人げない単に騒ぎたいだけ力を発揮する人たちがワラワラと登場しました。
 ご意見を表明なさるのはけっこうですが、願わくば近隣諸国をはじめとする世界の人たちが、「日本人っていうのは余裕のカケラもなくて、ケツの穴の小さいことばかり言っている大人げない人たちだなあ」というイメージを抱きませんように……。

そしてこの記事がMSN産経のサイト。つまりフジ・サンケイグループって、笑うしかないよね。
これじゃ、反論する気にもなれない。

もういいや、動画サイトでもみるか。
ニコニコ動画でも見るか。
ううう、あああ~、ここにも胸糞が悪くなるものがあった。

増谷キートンが韓国で あの浅田真央のモノマネ披露

これはヒドイわ。
ラサール石井の真央ちゃんに対する発言くらい、ムカつくわ。
「浅田真央」や「なでしこジャパン」、「イチロー」や「男子サッカー」は日本の宝だから、日本人は敬意を持って接しなければならない。
それなのに、この3流芸人は、韓国にまで行ってこんな国辱行為をするとは。
そりゃ、韓国人に受けるだろうよ、日本人が日本人をバカにするんだから、もう朝鮮人には最高だろうよ。(発狂してるよ~)

新聞読んでも、テレビを見ても、ネットを見ても、「韓国、韓流、k-POP」って。

あの人たちが「嫌なら見なければいい」って言ってたけど、それじゃ、じゃもう寝るしかないじゃん。

分かった、もう寝るわ。

関連記事
「フジテレビの韓流ごり押し問題」のまとめ
いま日本は滅亡の危機なのか? 何かおかしくないか?
「嫌なら見なければいい」は禁句、そして「フジテレビ抗議デモ」は革命です。

震災から半年。 不思議だと思った話。

震災から半年。
不思議だと思った記事。
平成23年9月11日付 朝日新聞から。
http://digital.asahi.com/articles/TKY201109100599.html?ref=comtop_middle_openからそのままコピペ。
当日の新聞では一面に載っていた。

「原発が爆発します」自衛官告げに来た 検証・住民避難
東日本大震災発生から4日目の3月14日午後9時40分すぎ。福島県南相馬市役所1階にいた江井(えねい)芳夫課長(56)は、正面入り口から入ってきた迷彩服姿の自衛官が発した言葉に驚いた。
 「原発が爆発します。退避してください」
 自衛官は階段を駆け上がり、各階で「100キロ以上離れて」と呼びかけた。
 25キロ南の東京電力福島第一原発では、12日午後3時36分に1号機で爆発が発生。約3時間後、政府は半径20キロ圏内に避難を指示した。南相馬市では1万4千人の避難が翌日までにほぼ終わったが、この日の午前11時1分、今度は3号機で爆発が起きていた。
 原発の状況は、放射能汚染は……。市は情報を集めようにも、地震と津波で通信網がやられ、外部とつながるのは災害用の衛星携帯電話一つだけ。県の災害対策本部からは情報がほとんど来なかった。
 駐車場の自衛隊車両は赤色灯を回し、内陸方面に向かっていく。職員たちは色を失った。
 7万人の市民をどうやって100キロ動かすのか。高野真至主査(41)は「防災無線で流せばとんでもないことになる」と思った。自衛隊がなぜ動いたのか、いまも分かっていない。
 情報は正しいのか。急いで県の災害対策本部に真偽を確かめた。「原発にそうした動きはない」と確認が取れたのは午後10時5分ごろ。その10分後、桜井勝延市長(55)も県から同じ回答を得た。市職員が説明のために避難所を回った。
 しかし、市民は目の前の光景を信じ、情報はメールや口づてで広がっていた。避難所を出ていく人が続出。石神第一小学校では、1100人の避難者が翌朝には800人に減った。
 ほかの自治体でも、情報の乏しさが混乱を生んでいた。
 南相馬市で自衛隊に動きが出始める少し前の14日午後9時ごろ。第一原発の西25キロにある葛尾村役場では、松本允秀(まさひで)村長(73)らがテレビを囲んで情報収集していた。電話はすでに使えなくなっていた。
 役場裏の浪江消防署葛尾出張所から消防職員が駆け込んできた。
 「消防無線で聞いたんですが……」。第一原発の南西約5キロにある指揮所・オフサイトセンターに撤退の動きがあるという。国や県、東電などの幹部が集まり、事故の制圧にあたっているはずだった。
 「我々で避難の判断をするしかない」。決断した松本村長は午後9時25分、防災無線で村民1500人に避難を指示した。
 オフサイトセンターは震災当日から機能を失っていた。停電したうえ非常用電源は故障。電源は12日午前1時ごろに復旧したが、屋内で使える電話は1台だけ。ファクスは使えなかった。14日午前11時すぎに内部の放射能汚染が分かり、15日に閉鎖した。
 もう一つの拠点、県の災害対策本部は、耐震性に難がある本庁舎を避け、隣の自治会館に置かれていた。初めは電話5台とファクス2台、防災無線2台だけ。ファクスは大量の送受信ですぐにパンクした。市町村に電話連絡しようにも、ままならない状態だった。
 情報伝達と対応の拠点となるべき二つの拠点が機能を失い、市町村は孤立していた。15日朝、第一原発2、4号機で相次ぎ爆発が発生。政府は午前11時、半径20~30キロ圏内に屋内退避を指示した。原発の状況がつかめない中、市町村は判断を迫られた。=肩書は一部当時

実に不思議な話だ。
「原発が爆発します」と告げに来た自衛官、今もってどの部隊のどの隊員か分かっていないという。
自衛隊という組織の中で単独行動ができるとも思えないし、まして被災地の混乱に拍車のかかるようなことを個人判断で自衛隊員がするとも思えない。
では上からの命令? でもそんな司令も出てないようだ。(厳格さを求められる組織の中で勝手な行動は許されるはずもない)
TBSの「朝ズバ」でもこれを取り上げ、これが自衛官であれば調査すれば分かるはずだ、それが分からないのだから自衛隊を装った人が行ったのではないか、と解説していた。
もし、そうだとしてもなぜそんな手の込んだことをするのか?
あの状況下で自衛隊の真似をして何の意味があるのか?
それに、内部事情に詳しく、これから起こる原発の爆発という事実を知っている人など、この時点でいたのか?
どれにも合致する人はいないのだ。
まさしく、「謎の人物」だ。

では3月14日の福島第一原子力発電所の状況はといえば、以下の通り。Wikipedia「福島第一原子力発電所事故の経緯

13時25分、それまで安定していた2号機でも原子炉内部に冷却水を送り込むことができなくなったため、「冷却機能喪失」として原子力災害対策特別措置法第15条に基づく特定事象の通報を行った。これにより2号機の原子炉の水位が下がったため、
16時34分より海水の注水による冷却が開始された。
19時45分、2号機の冷却水が大幅に減少し、燃料棒がすべて露出した。14日夕方より海水注入を行っていたが、ポンプの燃料が切れて注入できなくなっていた。東京電力は20時頃から再び海水注入を開始し、次第に水位は回復した。
21時37分、福島第一原発の正門付近でこれまでの最高となる3.130ミリシーベルト/時の放射線を観測。
22時7分、福島第一原発の10km南に設置されていた放射能のモニタリングポストで、通常の260倍にあたる9.6マイクロシーベルト/時の放射線量が観測された。
23時39分、2号機の「原子炉格納容器圧力異常上昇」により、原子力災害対策特別措置法第15条に基づく特定事象の通報を行った

自衛官が避難を告げに来た時刻が午後9時40分すぎで、原発付近で放射能が観測されたのが9時37分、10km付近で観測された時間が10時7分。
つまりこの自衛官は、原発が爆発するという情報をどこで知ったのか。原発内部情報に詳しいお偉いさんなら動けるはずもなく、すぐに南相馬へと行けるという状態でもないだろう。(しかもなぜ南相馬市役所だけ?)

しかも翌日(この数時間後)の3月15日に、原発の爆発・火災があって、放射能は関東全域に振りまかれることになる。
そうこの日にあの出来事が起こった。
まるでこの人物が未来を予測したかのように……。

もし近い将来タイムマシンができたら、何に使うだろうか。
本能寺の変の真相を見てみたい、写楽が誰なのか知りたい、邪馬台国はどこだったのか確かめたい……。
でも、被災地の子孫がタイムマシンに乗ることができたらどうだろう。
平成23年の3月の東北へ行って、少しでも被災された人を助けたいと思うのではないか。(あるいは特定の誰かを)
SFチックな話だが、そうでもなければ説明がつかない。
原発が爆発します、と事実を告げに来た自衛官、あたたはだれですか?
そして私に教えてほしい。
これから被災地はどうなるのか、日本はどうなるのかを
……。

すいません、妄想が過ぎました。
ハルヒやマギカやシュタゲやらを見過ぎたようです。

でも、あなたが未来から来た人なら、
一言言って欲しいんですよ。
大丈夫だ、問題ない」と……。     

震災から半年、で思うこと。

震災から半年。
これはヒドイと思った話をコピペしてみた。
詳しいのは、平成23年11年9月9日付のスポーツ報知、なぜか「フジテレビ」とからめている。 http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20110908-OHT1T00305.htm

 東京電力福島第1原発の事故発生後、風評被害に苦しむ福島県の農家らを支援するため、福岡市内のショッピングモール「マリノアシティ福岡」内で17日にオープン予定だった「ふくしま応援ショップ」の中止が8日、決まった。先月下旬の計画発表後、放射性物質の拡散を不安視する市民らから「不買運動を起こす」「(韓流問題で抗議デモを受けた)フジテレビみたいになりたいのか」といった抗議がメールや電話で寄せられたため、苦渋の決断に至ったという。
 「ふくしま応援ショップ」プロジェクト事務局によると、同店舗の計画は4月下旬にスタート。マリノアシティ福岡内の直売コーナーに店を構え、今月17日から福島県産の農産物を販売する予定だった。先月26日に記者発表し、開店準備を進めていた。
 消費者が抱える不安を考慮し、生鮮食料品の取り扱いはなし。店頭に並べるのはジャムやうどんなど、震災前に原材料が収穫された加工品に限定した。さらに全商品に放射線量のテストを行い、国の暫定基準量の10分の1以下であるかどうかをチェックするという、徹底した管理態勢を敷く方針だった。
 にもかかわらず、先月末から今月初旬にかけ、インターネットの掲示板「2ちゃんねる」で、ショップに対して批判的な書き込みが相次いだ。その後、マリノアシティや、店の運営母体である「九州産直クラブ」に対し、抗議の電話、メールが約30件寄せられた。内容は「福島からトラックが来るだけで放射性物質が落ちる」「(マリノアシティの)不買運動を始めるぞ」といったもの。さらに、先月下旬に「韓流偏重だ」などとして抗議デモを受けたテレビ局を引き合いに出し「フジテレビみたいになりたいのか」などと脅迫めいた抗議もあった。
 九州産直クラブは、マリノアシティ全体に迷惑や影響が及ぶことを懸念し、7日に出店の断念を申し入れた。今後は別の形での展開を模索することになる。プロジェクト事務局の吉田登志夫さん(59)は「風評被害とはこういうものなのかと痛感しました。残念というほかありません」と肩を落としつつも「これからも福島県とのつながりを作っていきたい」と話している。

福岡の方々がこんな薄情な人たちばかりではないとは思いますが。ただ、こんなことばかりしていると、福岡県がこれから何らかの災害に遭っても、だれも助けようとは思わなくなってしまうだろう。
まあ、日テレ系列の福岡放送がTwitterで韓流批判をした高岡蒼甫を『人種差別主義者』と痛烈に批判した県民性だけに、この県の人たちは「差別」には敏感な方たちだと思いますが……。

ただ、これからこういう話は増えていくだろう。
これが、東北や関東の人たち(とくに子どもたちの結婚や妊娠)への差別とつながっていくのだ。
目に見えない陰湿なイジメのような差別や日本人同士が疑いの目をむける疑心暗鬼の種となっていく。そして日本人の中で「放射能汚染地」(真偽など関係なくただ出身地だけによって)による「優劣」が付けられることになるだろう。
そう、「震災」や「原発」「放射能」は日本に新たな「差別」を生んだのだ。賃金格差や年代格差などといった「差別」とはまるで比較にならない大きな禍根となったのだ。
これは日本人がこの世に存在する限り、この先ずっと残ることになるだろう。
悲しいが、それが現実だ。

そしてこれを利用して、日本の分断を画策する人たち(特定の団体や国)にとって格好のエサを与えてしまった。
日本人がまとまり、日本が一つになろうとすると、必ず湧き出る「左巻き」の人々にとっても。
過去記事・「東日本大震災で思うこと。 「自粛ムード」反対する人たちって」
また、「JAP18」の木下悠貴みたいなやつらも、日本人同士がいがみ合い憎しみ合う姿を見て、コソコソ喜んでいることだろう。
悔しいが、これも事実だ。

では、日本の未来はどうなるか。
円高に景気低迷、企業の海外移転による産業空洞化……、日本人の出生率低下による人口減少、急速な高齢化により労働人口の低下、老成社会による総体的なパワーの減退……、道州制、外国人参政権、人権擁護法案、移民1000万人……、在日朝鮮人の暗躍、韓国による朝鮮文化の汚染、中国の軍事的台頭、アメリカの極東対策の思惑……などなど。
そのうち日本は、分断し、分割され、日本人は「日本」人でなくなるだろう。
どう見ても日本は将来衰退していく。
無念だが、こらが日本の真実だ。

だからこそ、今はつながっていたいじゃない。
もう、魂で結び付く「絆」しかないんだ。
そう思う。

 | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

08 | 2011/09 | 10
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  └ 月別アーカイブ
        └ 2011年09月
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。