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「銀魂」考 第7回 継承の物語

「銀魂」考 第7回 継承の物語 

銀魂の話なのに、まず、こんな話から入る。

「龍馬伝」の岩崎弥太郎役で国民的俳優となった香川照之(45)が、市川中車(ちゅうしゃ)を襲名。来年6、7月に新橋演舞場で行われる「初代市川猿翁 3代目市川段四郎50回忌追善興行」で、歌舞伎に初出演する。
 香川はスーパー歌舞伎で知られる市川猿之助(71)の息子だが、生まれてすぐに両親は別居。母親の浜木綿子(75)と暮らし、猿之助とは絶縁状態だった。25歳で父の楽屋を訪れたときも、「あなたは息子ではない」「二度と会うことはない」と突き放されたという。本人が雑誌で告白している。それが突然、2人そろって会見し、沢潟屋(おもだかや)として舞台に立つというのだからビックリだ。
「父と子の関係を修復させたのは、2年前に亡くなった藤間紫です。長年、猿之助を支え、00年に正式に入籍した舞踊家。香川に長男政明が生まれた04年ごろ、2人が会う機会を設けて、空白の時間を埋める手助けをした。そこから少しずつ、父・子・孫で過ごす時間が増えていったのです」(芸能関係者)
 27日の会見で香川は、「今年の春から父とともに3世代で同居している」と話した。関係は良好のようだ。
 来年6月の興行では、亀治郎の4代目猿之助襲名も披露される。亀治郎は独身で子どもがいないため、5代目を名乗るのは市川団子(だんこ)を襲名する政明(7)となりそう。香川もそれを望んでいるという。2011年09月29日 ゲンダイネット

なぜ、これ?って思われるでしょうが、ここで取り上げたいのは、これが「継承の物語」の一例だということ。
「歌舞伎の伝統を守らなければならない思いが強まった。」という香川の意志は、父から子へ、子から孫へ継承されるということになる。まあ、いろいろあるでしょうが、これはいい話でしょう。そして、印象的だったのは、子・政明くんがちゃんと挨拶できたこと喜んで、父・香川照之が頭をなでるという場面だった。
香川照之 継承
まさにこういうのが、父から子へ、師匠から弟子への「継承」の表徴となっている。
何が継承されるのかって? それは「魂」です。

さて、本題へ。
銀魂は魂が継承されていく物語だ。(断定)
それは師匠から弟子への「継承の物語」である。
こんなシーンがある。
神楽の頭をなでる銀さん(126話「文通篇」から。少年少女の自立の話から、神楽の父親代わりをしている銀さんが頭をなでるというシーン。決して鼻クソをつけているわけではありません)
銀魂 頭をなでる銀さん 2(これは213話「かぶき町四天王篇」、死地に向う銀さんが「後は頼む」と言って神楽の頭をなでるという場面)
家族のなかった銀時が、自分の娘のように神楽と接する姿と、神楽が実の父親に対いするような疎ましさと少しの尊敬の念とがない交ぜとなった感じ、この微妙な関係が「銀魂」物語を更に面白くさせている。(私には娘がいるので余計にここは面白く感じられるのかもしれない。たぶん銀時やお妙や桂のような「保護者目線」で神楽を見ているのだろう。「けいおん」でいうさわ子の目線だ)
そして、新八同様、神楽は銀時の弟子の関係にあるのだ。
それは、サムライ魂を受け継いでいることになる。神楽がサムライによって自分を変えようとしているのは、父への手紙で分かる。内容は第5回で。(神楽の成長物語は第8回になります。)

「継承の物語」の説明は資料編では、
第12回  「継承の物語」その1 「ゴッドファーザー」 資料編12回目
第13回  「継承の物語」その2 クリント・イーストウッド  資料編13回目
第14回  「継承の物語」その3 スターウォーズと黒澤明 資料編14回目
第15回  資料編15回目 「継承の物語」その4 「けいおん」は「継承の物語」である。
となります。
特に第12回。ここでは映画「ゴッドファーザー」の父から子への継承の場面はドンとマイケルの対話シーンにあたり、小道具としてはワイングラスが使われていました。
それに、資料編第15回では「けいおん」といった何気ない物語の中にも「継承の物語」というものが存在することを解説しました。(「さわ子→唯たち→梓」という風に「けいおん魂」は受け継がれています。何の「魂」かは本文で)

では、「銀魂」の「継承の物語」を見てみましょう。
まず、師匠や親が、弟子や子の頭をなでるというシーンが「継承」を示している場面が多いのだ。
この頭をなでるというシーンは結構あって、分かり易いのでいくつか拾ってみましょう。

銀魂 頭をなでられる3これは、映画「紅桜篇」。村田鉄子の幼少時代に刀匠の父から頭をなでられ「どんな剣を作りたいか」と訊かれるという場面。鉄子はこのとき「人を護る剣」と答えるが(これが映画の重要なテーマの一つとなっている)、ここで父から子への継承が表徴的に行われたことを示している。
銀魂 頭をなでられる銀時映画「紅桜編」の幼少時代の銀時が師匠となる松陽先生から頭をなでられる。銀時や桂、高杉の回想として師匠・松陽先生は物語の所々に挿入される。
師匠・松陽先生の魂が弟子の銀時や桂、高杉に受け継がれていったことがこの物語のキーポイントであることが随所に示される。
こうしてみれば、映画「新訳紅桜篇」は、刀匠の父から兄と妹への継承物語と、松陽先生から銀時らへの継承の物語が重なっていることが分かる。しかも同じ師匠から継承されながらも、兄と妹、高杉と桂、というように途中から進むべき道が違ってしまうことから起こる諍いや悲劇を描いていることになっている。この二重構造も良く出来た筋書きです。

ではテレビ版から。これは52話。銀時の隠し子騒動の話。
銀魂 52話 
戦いを終えた後、自分に似た赤ん坊とミルクで月夜の花見をした銀時がこんなセリフを言います。「そうさな、お前がもうちょっと大人になったら、その時に俺のことを憶えていたら、また会いに来い。そん時は(酒を)付き合うよ。あー約束だ。サムライは果たせない約束はしねぇもんだ。せいぜいいっぱい笑って、いっぱい泣いて、さっさと大人になるこった。待ってるぜ」
これは魂の継承でしょうか。
父親を亡くした赤ん坊に、両親のいない銀時が言うとまた深いものになります。

これは53話。「火消しの話」
銀魂 継承 火消し53話両親を火事で失った辰巳を引き取って面倒を見たのは火消しの頭。頭をなでているのはこの火消しの頭で、辰巳は頭のような火消しになりたいと願う。
これはまさに師匠から弟子への「継承」。

これは177話。「紅蜘蛛篇」。
銀魂 177話
師匠・地雷亜が弟子・月詠の頭をなでるシーン。

また魂を受け継ぐということでは、丸いまんじゅうを食うというシーンもある。
「かぶき町四天王編」の213話から。
銀魂 魂の大福
寺田辰五郎の仏前に供えるた饅頭。
これは饅頭あるは大福だろうが、注目したいのは「丸い」ということだ。
これは「丸い餅」の見立てではなかろうか。
なぜなら、餅が丸いのは人の魂を表しているからだ。
詳しくは関連記事
「スイカ割り=稲作農耕民の祭祀説」 その1 これは直会だ!
「スイカ割り=稲作農耕民の祭祀説」その2  スイカ=餅、つまり魂の更新を意味する!
で。
少し引けば、「魂はふたたび補充しなければならないものであったようだ。いうならば命の更新である。柳田國男は「食物と心臓」という著作の中で、餅は人の心臓、すなわち魂の象徴であると述べている。このように正月餅は新しい1年を生き抜くためのエネルギー、すなわち補充される魂として意味をもっていたのである。」となる。
銀魂 魂の大福を食らうそして、かぶき町を護ってきた辰五郎の魂を引き継ぐように、みんなで食らう。
これは「直会」のようではないか。
「祭儀の後に供えた神饌を食べる宴のことを直会(なおらい)という。直会には、神の供物を食べることで神に近づくという意味もあるが、人が食べることのできないものは供えてはいなかったという証明でもある。墓参りの際に墓前にお供えしたものを、あとで食するというのと同じ行為であり、神霊が召し上がったものを頂くことにより、神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けてもらい、その加護を期待するのである。」とあるから、まさにそうだ。
そして、銀時は辰五郎の形見の十手を手にして戦いに挑む。辰五郎は「天人」と戦い命を落とした人だ。
「かぶき町四天王編」は舞台を「かぶき町」とした狭い範囲の争いとなってはいるが、その黒幕には「天人」があり、過去の「前期・攘夷戦争」を発端としている。この篇も、「銀魂」の根本設定である、地球(日本)を貪りつくす天人(外国人)に立ち向かうサムライを描いていることになる。それは次郎長のセリフでもわかる。(この辺りは第5回)
そして、この「かぶき町四天王編」のお登勢のセリフでも分かるように、辰五郎や次郎長の魂(かぶき町を護るというのは比喩)は銀時へ受け継がれていった。そして、これは神楽や新八らに受け継がれることになるのだ。

さて他にも継承物語はある。「かぶき町野良猫篇」「星海坊主篇」や「全ての大人達は全ての子供達のインストラクター」なんてものにも「継承の物語」を見出すことができる。
その中でも、師匠と弟子の関係を明確にテーマとしたのは「紅蜘蛛篇」であろう。
銀魂 頭をなでる2松陽先生から頭をなでられる銀時はこんなことを言われます。
「屍を食らう鬼が出ると聞いて来てみれば、君がそう?  またずい分とかわいい鬼がいたものですね。
……刀も屍からはぎ取ったんですか、童ひとりで屍の身ぐるみをはぎ、そうして自分の身を護ってきたんですか、たいしたもんじゃないですか。そんな剣もういりませんよ。くれてあげますよ、私の剣。剣の本当の使い方を知りたきゃ、ついて来るがいい。これからはその剣をふるいなさい。敵を斬るためにはない、弱き己を斬るために。己を護るのではない、己の魂を護るために」
やはり銀魂で問われるのはつねに「魂」なのです。
師匠に背負われる銀時師・松陽と弟子の銀時との関係はまだ断片的にしか描かれていないが、物語「銀魂」の全体を支える最重要の骨子となっている。
「紅蜘蛛篇」において弟子を裏切るような行為をする地雷亜に銀時は怒りをぶつける。
「てめーに師匠の名を語る資格はねぇ、てめぇに荷ごと弟子うぃ背負う背中があるかぁ!」と。
銀魂 師匠を背負う弟子2最後は倒される月詠の師匠・地雷亜だが、死ぬ間際には魂の浄化が行われる。(坂田銀時の物語上の役目は魂の昇天・慰霊・鎮魂にある。これは第3回で)
そして弟子に背負われる師匠。
「弟子を荷ごと背負うのが師匠の役目なら、弟子の役目はなんじゃ、師を背負えるまでに大きくなることじゃ」という月詠のセリフは象徴的だ。
ヨーダ ルーク「ルークとヨーダ」。スターウォーズでいえば、こんな感じか。詳しくは資料編の第14回を。

銀魂 母子144話「吉原炎上篇」から、母・日輪を背負う子・晴太。親を背負う子というのもある。

この魂の継承は父から子へ、子から孫へ、師匠から弟子へと受け継がれていく。
銀魂においてもそれは行われている。松陽先生(あるいは辰五郎や次郎長)から銀時らの世代へ、そして新八や神楽の世代へと。(史実でも吉田松陰から桂・木戸の世代へ、そして木戸が面倒をみた明治・大正の政治家へと「継承」されていった。これは第5回で見た通り。)
銀魂 師匠を背負う弟子 1映画「紅桜篇」の本編ラストでは新八が傷ついた銀さんを背負ってました。「師匠を背負えるまでに大きくなるのが弟子のつとめ」と「紅蜘蛛篇」のセリフにあるように、新八は大きく成長しようとしている。
銀時は新八を本編でも「やればできる子だ」と認めてましたから、師匠から弟子の継承はすでに示めされているのだ。

まさに、銀魂は「魂の継承物語」なのです。

そして、お妙が弟・新八に諭すシーンが初期のころにあった。
「親が大事にしていたものを、子どもが護るのに理由がいるの?」と。
伝統や文化や歴史を守るとは、次の世代へと継承されなければならないのだ。
こういうのを何と言うか。
そうこれが「保守」の本質なのです。
保守の本質とは、政治体制や特定の政党を守ることでもないし、三島由紀夫が言うように「領土」や「そこに住む人々」を守るだけじゃない。(これは過去記事で)
そう、保守の本質とは、伝統や文化や歴史を守ることであり、それは受け継がれていかなければならないのだ。それを総称して「魂」というのだろう。
だから時にはその「魂」を護るために剣も抜かなければならない。(銀さんは木刀ですが)
実は、「銀魂」の根底に流れているテーマはそこにあるのだ。
だから銀魂では新渡戸稲造のいう「武士道」や「大和魂」を強く感じるのだろう。
そしてその魂は受け継がれていく。サムライは消えていなくなったが、世代を重ねても、「桜」のように日本人の中にしみ込んでいるのだ。

まだあと2回続きます。

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「銀魂」考 第6回 たましいの物語 「たま」と「神楽」と「狛犬・神子(定春)」

「銀魂」考 第6回 たましいの物語 「たま」と「神楽」と「狛犬・神子(定春)」

アニメ69話から71話の「芙蓉編」にからくり人形というものが登場する。
「科学者・林流山が製造した「からくり家政婦」がクーデターを起こす。流山が最初に創ったからくり・「たま」の涙に応える為、万事屋と源外が立ち上がる。」と説明がある。
銀魂 たま
「からくり人形」は、人間の心がない機械・アンドロイドなのですが、この「たま」は感情を表して涙をこぼします。
さてさて、このからくり人形の名称はなぜ「たま」というのでしょうか。
作中では卵割器の「卵(たま)」と神楽が名付けましたが、ここで言いたいのそういう由来とかではありません。
感情もない(つまり魂のない)モノになぜわざわざ「たま」という名を作者が付けたのかということです。
もちろん「たま」とは辞書を引くまでもなく「たましい」と同義語・同源語である。

古語辞典では「肉体に宿って精神活動を営むもの。たましい。精神」などと説明される。
日本の伝承、古語。たま(霊)、たましい(魂)とも。古文では「神」とかいて「たましい」という場合もある。
「我(あ)が主のみ霊(たま)賜ひて春さらば奈良の都に召上(めさ)げ給はね」(万葉集882) 幻想世界神話辞典 から。

つまりこの「たま」という名称も何か象徴的であるように感じられるのです。
これまで長々と見て来たように、「銀魂」は「たましい」の物語だと語ってきました。
機械(からくり)が知識を吸収し人と触れることによって人間的感情(つまり魂)を得るようになるというのが、この回のメインストーリーです。よってその感情や心の根本である魂について、この芙蓉編では、何気なく何度も語られている。
いくつかセリフから引いてみる。
「からくりが人に支配される時代は終わった。我等が女王の御魂(みたま)、帰還せい時、からくりは人に、いや神に等しき存在になる。この御魂(みたま)戻らぬことあらば……」「芙蓉の魂を身体におさめる……」「1ミクロン…ずいぶんとせこい魂だ」
「身体が消えていく。魂が…消えていく」などなど拾ってみると結構あります。
中でも、新八の一世一代の名セリフがいい。

……たまさん、それは普通の人間の勘定の仕方です。サムライは違う。
サムライ?
たとえ、あなたを見捨てて25%の確立で運良く助かったとしても、サムライは死ぬんです。護るべきものも護れずに生き残っても、サムライは死んだと同じなんです。5%しか生きる確立がないなら、その5%全てを使ってあなたが生き護る確立を引き上げる。一旦、護ると決めたものは、何が何でも護り通す、それがサムライだあ!
……出自も不明確、まして殺人の容疑がかかった者を護る? サムライ……理解しかねます。私のデータには該当するものがありません。
じゃあデータに付け加えといてください、勇者よりも魔王よりも上のところに、ついでに、女の子の涙に弱いってね!

これが序盤の対話であり、終盤のクライマックスでこの新八の魂の叫びを受け継ぐ形での「たま」セリフにつながっていく。

護るべきものも護れずに生き残っても死んだと同じ。…それはきっと志の死、魂の死を指しているんでしょう。からくりの私にはわかるはずもないと思っていましたが、少しだけ分かった気がします。私も護りたいものができました。何度、電源を切ろうと、ブレーカーが落ちようと、この身が滅びようと忘れない、だから、みんなも…私のこと…忘れないで…、そうすれば、私…私の魂は、ずっと、みんなの中で…生き続けるから…

とあって、この芙蓉編のラストのたまのセリフ「サムライ?サムライなら知ってます。……私の大切な友だちです」とつながるわけです。
「サムライ」の魂がからくりにも受け継がれるということになります。
これは 「銀魂」考 第2回 なぜ「銀の魂」なのか?で。

サムライの魂は武士階級だけのものではなく、各階級に広がり日本人の「大和魂」という民族精神となった。これを「武士道」で説いたのが新渡戸稲造でした。
そして魂は引き継がれていく連続性があるというこでしょう。三島由紀夫の文化防衛論の日本文化(大和魂)の連続性とはこういうことなのではないのか、と思う。(これは第7回で)
この芙蓉編の面白いのは、「生命の死」と「魂の死」は違うということを表しているところでしょう。
つまり、肉体は滅んでも、魂は生き続けているということを示しています。
スタンド温泉編で、旅館の女将・お岩が幽霊のレイに言う面白いセリフがあります。
「お前、たましいを粉々にされたいのかい?」
幽霊だから当然のごとく肉体的な「命」は死んでいますが、それとは別に「魂」は生きているということでしょう。
日本人がこれを見ても何の疑念を抱かないのは、生命には限りがあるが、魂は不滅であるという思想を日本人は持っているということでしょう。
物語「銀魂」では、魂は滅びることがなく受け継がれていくものだということが常に語られています。(その魂は「大和魂」です)
実は、これは「銀魂」全体に流れるテーマです。(私は作者でもないに断定しています。)

では、資料編  第27回「日本人“魂”の起源」から、「たまふり」について。 から少し引いてみます。

ほかにも「御霊代」(みたましろ)、神霊の代わりとして祭るもの。御神体。など関連する語がある。
神輿が神幸 (しんこう) する際に途中で上下左右に荒々しく揺さぶることをいいます。これをおこなうことで、乗っているご神体の霊威を高めて、豊作豊漁や疫病が蔓延 (まんえん) しないように祈願するのです。また、元気のない霊魂を揺さぶり、魂の活力を取り戻そうとする行為でもあります。

鎮魂(ちんこん、たましずめ)とは、人の魂を鎮めることである。今日では「鎮魂」の語は、死者の魂(霊)を慰めること、すなわち「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられる。しかし、元々「鎮魂」の語は「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式を指すものであった。広義には魂振(たまふり)を含めて鎮魂といい、宮中で行われる鎮魂祭では鎮魂・魂振の二つの儀が行われている。神霊や祖霊を尊んでいう語。「先祖の御霊(みたま)を祭る」など。 あるいは「霊威」(霊妙な威光、不思議な威力)のこともいう。
また「御霊祭り」の略でもある。御霊祭りは、暮れから正月にかけて行われる、家々の先祖の霊を祭る行事のことである。

古代の人びとにおける鎮魂は、決して静かなる行いではありませんでした。むしろ、衰微するたましいを甦らすあらわざだったのです
死霊はまつりによって祖霊に昇華します。死霊に“たま”を呼び戻すこと、それを通路として、死霊は、“たま”の世界によみがえってきます。死霊はただちに守護神とはなりえません。それはおそるべき〈デーモン〉であり、非業の死霊は怨霊となりました。魂呼ばい(たまよばい)や鎮魂などの通過儀礼が、死者の世にも必要になります。“たましい”のよみがえりへの期待がタマのまつりを生み出したのです。
民間の習俗に今も残留する、“トムライアゲ”や“トイキリ”などは、それらのイミアケ(忌みあげ)じたいが、死霊が祖霊になる殯の終わりをつげるものでした。鎮魂のための歌舞飲酒の行事を“アソビ”といったのも、それが魂呼ばいのための芸能であったからです。

なぜこんな記事を引いたかというと、「銀魂」世界の猥雑なバカ騒ぎは「鎮魂」や「たまふり」なのではないかということ。

それを示しているのが「神楽」です。
神楽・狛犬・桜
不思議ですね、チャイナ娘なのになぜ「神楽」という名前なのでしょうか。
考えてみると実に変なのだ。
参考資料 神楽といえば、この「神楽」だろう。

「日本の民俗芸能の一種。<おおかぐら>と呼ばれて各地に分布。本来は神官や巫女などが神がかり状態で鎮魂や託宣を行うものであったが、そこに田楽や猿楽などの要素を取り入れて、出雲流神楽、獅子神楽、湯立神楽などさまざまの種類のものができた。(日本大百科全書・ヤフー百科事典から)

そう「神楽」は実に日本的イメージを感じさせる名称であるからだ。(作者の地元北海道の地名から取ったそうだ)
それでは「神楽」に関する事柄を引いてみましょう。

(神楽とは)神への賛歌・芸能。芸能とは本来、神を讃え慰めるものであった。
これは古今東西どこも同じで、その原初の形を一番色濃く残しているのが、神楽である。
神楽は、演者が神に扮し、悪役つまり悪鬼に扮する演者を叩きのめす。そして、「神よ、あなたは強かった!」(本来こんな敬語はおかしいが)と、神の賛歌で終わる。
芸能者は、神に喜んでもらうために、演技や振り付けを一生懸命に工夫したのである。(井沢元彦の「怨霊と鎮魂の日本芸能史」から)

これら採物にちなむ歌や神徳を賛美する歌が歌われる。今日では榊の歌を選んで歌う。次に「韓神(からかみ)」の歌があり、このとき人長が輪をつけた榊の枝を持って庭燎の前に進み出て、庭燎にこれをかざすようにして舞う。次に中入りになり、酒宴となる。平安時代には倭舞(やまとまい)が舞われたり、才(ざい)の男(おのこ)による滑稽(こっけい)な芸(陪従(べいじゅう)による即興的な散楽(さんがく))などが行われた。(日本大百科全書・ヤフー百科事典から)

つまり猥雑なバカ騒ぎ。

(神楽) 日本の民俗芸能の一種。<おかぐら>と呼ばれて各地に分布。本来は神官や巫女などが神がかり状態で鎮魂や託宣を行うものであったが、そこに田楽や猿楽などの要素を取り入れて出雲流神楽、獅子神楽、湯立神楽などさまざまの種類ができた。これらを里神楽と総称して御神楽<みかぐら>と区別する。(マイペディア百科事典)

ではその田楽

田楽というのは、田の楽でありまして、豊饒のための呪術的芸能ですね。 これが平安末期に京の都に大乱入し、京の人たちが、公家から庶民にいたるまで田楽踊りを始めて、町じゅう狂ったんです。 もう一つ面白いのは、北條高時です。高時は田楽に夢中になります。ある日、彼が田楽にふけって余り騒がしいというので、家来が戸の隙間からのぞいたら、踊っている相手はみんな天狗だったという話があります。(丸谷才一・山崎正和・対談集「見わたせば柳さくら」)

「狂」ですね。銀魂世界でいう乱痴気騒ぎでしょうか。
これらは 
第3回 鎮魂とカーニバル その1 「銀魂」は怨念を残した者たちの「鎮魂劇」である
第3回 鎮魂とカーニバル その2 「銀魂」は「カーニバル」と「ええじゃないか」だぁ、だぁ、だあ!
第3回 鎮魂とカーニバル その3 「桜は死と再生の樹」と「国ほめ」
でまとめてあります。
元々は、この鎮魂のための「乱痴気騒ぎ」を神がかりで行うのが「神楽」だったということです。
その神楽を行う者は巫女である。

巫女・神子……広くは神に仕える女性の意。神社に属し補助的な神職として神楽、祈祷などをするものと、神がかり状態で神霊、死霊、生霊の託宣を伝える口寄せとがある。

となれば、なぜ神楽と定春はセットで描かれるのかがよくわかります。
巨大化した定春
定春の説明、Wikipediaから

巨大な犬のような外見をした宇宙生物で神楽のペット。(中略)地球においては大地の流れ“龍脈”が噴出する場所「龍穴」を守護する「狛神(いぬがみ)」として代々江戸で暮らしていたのだが、一緒に暮らしていた双子の巫女姉妹、阿音・百音に経済的な理由により捨てられてしまう(曰く、定春のでかさは異常)。本名なのか「神子(かみこ)」と呼ばれている。双子、と思われる兄弟は「狛子(こまこ)」。狛神には攻めを司る者と守りを司る者と必ず二体存在する為兄弟がいるが(定春は攻め、狛子は守り)、どちらが上か下かは明らかにされていない。


定春巨大化2これは巨大化して覚醒した状態。
狛犬つまり狛犬でしょう。
つまり「神楽」も「神子(定春の本名)」も舞や踊りによって、鎮魂やたまふりを行う巫女だということです。

そう考えていけば、「たま」「神楽」「神子」……、という名称が「たましい」や「たまふり」といったことのメタファーとなっていることがわかる。

鎮魂(ちんこん、たましずめ)とは、人の魂を鎮めることである。今日では「鎮魂」の語は、死者の魂(霊)を慰めること、すなわち「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられる。しかし、元々「鎮魂」の語は「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式を指すものであった。広義には魂振(たまふり)を含めて鎮魂といい、宮中で行われる鎮魂祭では鎮魂・魂振の二つの儀が行われている。
神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考える。これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが「たましずめ」である。「たまふり」は魂を外から揺すって魂に活力を与えることである。(上田正昭「日本人“魂”の起源」から)

第3回や第4回で見てきたように、この「銀魂」物語は、主人公・銀時が敵を倒すといった勧善懲悪といった単純な物語ではなく、闘った相手を慰霊・成仏・昇天させることにある。したがって、この主人公の脇に巫女的な役目の「神楽」や「定春」や「たま」がいるのは不思議ではないだろう。
登場人物につけられる名称にその物語のテーマが暗示されていることはよくあることだ。
そして、この物語が魂の浄化、魂を鎮めることにあって、そのために必要なのが、鎮魂のための歌舞飲酒の行事である「祭り」や「カーニバル」のような猥雑なバカ騒ぎなのだ。

「桜」「月」「塔」「神楽」「たま」「魂」「祭り」「カーニバル」などなど……、こうして見て来れば、物語「銀魂」は「鎮魂劇」である、というのがわかるであろう。

まだまだ続く……。

「銀魂」考 第5回 滅びゆくサムライの物語

「銀魂」考 第5回 滅びゆくサムライの物語

映画版「新訳紅桜編」、TV版では61話に、高杉と桂の対話がある。
桂と高杉

高杉、俺はお前が嫌いだ、昔も今も。だが仲間だと思っている、昔も今も。
いつから違った、俺たちの道は?

フン、何を言ってやがる。確かに、俺たちは始まりは同じだったかも知れない。だがあの頃から俺たちは同じ場所など見ちゃいねぇ。どいつもこいつも好き勝手てんでバラバラな方角を見て生きていたじゃねぇか。俺はあの頃と何も変わちゃいねぇ。俺の見ているものはあの頃から変わゃいねぇ。俺は……。
ズラ(桂)、俺はなぁ、仲間のためだ、国のためだと言って剣を取った時も、そんなものどうでも良かったのさ。考えてもみろ、その握った剣、そいつを俺たちに教えてくれたのは誰だ。俺たちに武士の道を、生きるすべを教えてくれたのは誰だ。俺たちに生きる世界を与えてくれたのは、紛れもない、松陽先生だ。
なのに、この世界は俺たちからあの人を奪った。だったら、俺たちはこの世界にケンカを売るしかあるめぇ。あの人を奪ったこの世界をぶっ潰すしかあるめぇよ。
なあ、ズラ、この世界で何を思って生きる。俺たちから先生を奪った世界をどうして享受し、のうのうと生きていける。俺はそいつが腹立しくてならねぇ!


高杉晋助高杉晋助は高杉晋作を基にしている。このマンガ・アニメにおいてかなり登場回数は少ないが、「俺はただ壊すだけだ。この腐った世界を」というセリフとともに、その存在感は群を抜いていて強烈な印象を残している。
さて、史実において、もし高杉晋作がもう少し長生きをしていたら、日本の歴史はどうなっていただろうか。
彼の持つ勇猛さ、凶猛さは、明治維新が成ったときに浮いた存在となっていたのではなかったか。
そう考えると、このアニメの高杉晋介という人物造形や桂との関係は非常に面白い。
多分、高杉晋作が明治維新まで生き延びていたなら、桂小五郎(木戸孝允)と対立したのではないか。
西郷隆盛と大久保利通が明治政府内で対立をしたような構図になったはずである。サムライ肌の西郷が高杉、実務家な大久保が木戸というように。そして西南戦争の西郷のように高杉も士族の不満分子に担がれて兵を挙げ、その一方で政府中枢にあって鎮圧兵を差し向けなければならなかった大久保のような立場に桂・木戸は立たなければならなかったのではないか、と思う。
まさに「初めの志は同じはずったのに……」という心境とともに。
そういう想像を巡らせながら「銀魂」を見ると非常に面白いのだ。(特に攘夷戦争)

そして、上記の高杉晋介のセリフに桂小太郎はこう答える。

高杉、俺とて何度この世界を更地に変えてやろうと思ったか知れぬ。だがあいつ(銀時)がそれに耐えているのに、奴が一番この世界を憎んでいるのに…俺たちに何ができる。
俺にはこの国は壊せん。壊すにはここには大事なものが出来過ぎた。
今のお前は抜いた刃を収める期を失い、ただいたずらに破壊を楽しむ獣にしか見えん。
この国が気に食わんのなら、壊せばいい。だが、江戸に住まう人々ごと壊しかねん貴様のやり方は黙ってみておれぬ。他に方法があるはずだ。犠牲を出さずとも、変えられる方法が、松陽先生もきっと……。


桂小太郎 桜音
ほんとよく出来てますね。これは桂小五郎・木戸孝允の心情をよく表していると思います。
下らないギャグアニメだとバカにしていはいけませんよ。NHKの「歴史秘話ヒストリア」よりもよほど、桂小五郎・木戸孝允のことを分かっていると思う。(資料編 第22回  桂小五郎のカッコいいところをどんどん書いていく! で。)
桂小五郎は生き延び明治維新を成し遂げた。そして、国づくりをし、後世に残る事蹟を数多くした。(過小評価され過ぎだ。もう龍馬はいいよ)
アニメの桂のセリフにあるように「俺にはこの国は壊せん。壊すにはここには大事なものが出来過ぎた。」というのは生き延びた彼の心情を表したセリフだと思う。
その桂・木戸は、政府のため、日本のために尽力しながらも、フト思ったのだ。このまま、サムライが滅びれば、サムライの魂までが滅びる、そして日本の大和魂が失なわれれば、欧米にその精神は蚕食される。これでは「国」は滅びる。そう、木戸は考えるようになったのだ。
この辺りは、資料編の
第23回  木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1
第24回  木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その2
第25回  木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その3。 木戸孝允・桂小五郎は本物の「憂国の士」であり、紛う方なき真の「サムライ」なのだ。
にまとめてあります。(とくに第25回)

さて、この「銀魂」においてのキーパーソンは、銀時や桂や高杉の師匠となる「松陽先生」だろう。
松陽先生は、史実での「吉田松陰」となる。
「紅桜編」や「ED曲」でよく登場する「教本」は実に印象的な道具立てとなっていて、桂や高杉は肌身離さず手にしていることによってかつての同志だったというディテールが描かれている。(こういう小道具の使った細かい演出上手い)
銀魂 留魂録
これは、吉田松陰の松陰が処刑される前日に書いたのが「留魂録」を思い起こさせる。
桂小五郎は吉田松陰の遺書「留魂録」を手許におき、江戸在府中の知友に回覧させていたという史実もあって、銀魂の中でこの教本が出てくると、思わず胸が熱くなる。
吉田松陰「留魂録」

詳しくは資料編の
第1回  吉田松陰の母・滝も偉かった。前篇
第2回  吉田松陰の母・滝も偉かった 後篇。 
第3回  吉田松陰の魂はどこへ
で。(特に斬首された吉田松陰の遺体を引き取る桂たちの場面は何度読んでも涙が出てしまう)
この魂の叫びは、松下村塾の門下生の高杉晋作や、松陰を師とした桂小五郎らに受け継がれたのだ。
吉田松陰の高山彦九郎的「狂」の部分を高杉晋作が受け継ぎ、冷静な「思想者」「教育者」の部分を桂小五郎が受け継いだように思える。
史実の高杉と桂はまさに松陰の「動」と「静」を分け合うように受け継いだ。そういうことを踏まえて、アニメ「銀魂」を見れば、高杉と桂の対立関係はよく出来ているのだ。
そして過去に「この国を食いつくす天人ら」と戦う「攘夷戦争」にともに参加しているという背景がある。
1攘夷戦争
銀魂ではまだ間接的にしか描かれていない「攘夷戦争」。こうした背景とともに、登場人物にその重荷を背負わせている(カセ)があるからこそ、このアニメは深みがあるのだ。いくら猥雑で馬鹿馬鹿しいアニメでも、何か特別な感情が湧いてしまうのは、この点にあるといってもいい。

さてさて、そんな松陽先生こと松陰の魂が受け継がれた「サムライ」は、銀魂世界ではどう描かれているのか。
アニメ105話・「真選組動乱編」、銀時を追い詰めた河上万斉のセリフから。

白夜叉(銀時の攘夷戦争時代の名前)、貴様は何がために戦う。何がために命をかける。もはや「サムライ」の世界の崩壊は免れぬ。(高杉)晋助が手を出さなくとも、やがてこの国は腐り落ちる。おぬしが一人あがいた所で変わりはせぬ。この国を護る価値などもはやない。天人に食い尽くされ、醜く腐り落ちるこの国に引導を渡してやるのが「サムライ」の努め。この国は腹を斬らねばならぬ。
坂田銀時、貴様は亡霊でござる。かつてこの国を護ろうと晋助とともに戦った思い、それを捨てられず、妄執し、囚われ、生きた亡霊だ。お主の護るべきものなどありはしない。


過去の銀魂考の第1回や第2回でも見たように、「サムライ」とは時代の遺物であり、消えていく運命にあるということが示されている。
明治時代初頭から木戸孝允はすでに、和魂洋才という名のもとに西洋から様々なものを積極的に取り入れてきた日本が、それと同時にその根本となるべき和魂は捨て去られてしまっているのはないか、滅びゆく「サムライ」とともにその「魂」が失われていくのではないかと、危惧していたのだ。
そう、つまり現代の日本と同じなのだ。このあたりは過去記事で。
銀魂世界では「塔・ターミナル」が日本を支配しているのを象徴的に描いているが、現実の日本も同じような状況なのではないのかということ。(精神的に)
それに抗うような形で描かれるのが「サムライ」であり、これは坂田銀時や、桂小太郎や、真選組の土方や近藤らであるのだ。
それら登場人物が活躍するのが、物語「銀魂」であって、これが歴史上の人物たちへのレクイエム・鎮魂劇となっているのだ。

その中でも、史実の桂小五郎は「おくりびと」的役割を果たしている。
高杉の死を聞いて、「国家の一大不幸」「悲嘆に堪へ申さず候。」と手紙に綴ったり、中島三郎助父子の戦死を知らされると盃をおいて嘆息しその夜は酒を口にしなかったり、大村益二郎が死んだという報をきいたときは、悲嘆のあまり声も出なかった、などなど維新以後の木戸は死んだ友人知己の上に思いをはせることが多く、「夜坐して亡友を思ふ」と題する詩を書いたりもしている。友人・知人・恩師・戦友を次々と失い、その度に嘆き悲しむ。桂・木戸の人生はその連続だった。
残された者としての責務を果たしているのか、大切なものを捨て去っているのはないのか、そう、自ら問いかけているようであった。
だからこそ後に、靖国神社設立に尽力するのはこうした背景がある。(右も左も、あそこを政争の具にしてはいけません。木戸の純粋な精神に立ち返ろうよ)
靖国 桜

アニメ42話・神楽が父・星海坊主に宛てた手紙で「サムライ」をこう評している。

私はいま「サムライ」という不思議な連中の住む「エド」という町に住んでいます。
彼らは本当に不思議な生き物です。普段はみんな弱くって、しょぼくって、ダメ野郎ばかりなのに、いざという時は「武士道」という信念で自分をたたき上げ、絶対に折れない屈強な精神になるのです。
夜兎も人間も変わりません。みんな自分と戦っています。ここでなら自分は変われる気がします。きっと自分に負けない自分になれると思うのです……。

武士道とは日本人が持っている大和魂であると詳しく書いたのは新渡戸稲造だった。
武士道については、資料編第28回 新渡戸稲造「武士道」の後半部分から でまとめてあります。
ここではその一文を引いてみましょう。

このように美しくはかない花が、風の思うがままに吹き散らされ、一時芳しい香りを放ちながら、今にも永遠に姿を消そうとしている。大和魂もこの花のようになるのだろうか。日本人の魂とは、それほどか弱く消えてしまう運命にあるのだろうか。
(中略)
武士道を象徴する花と同じく、四方に吹き散らされてしまってからも、その香りは残り、人々の生活を豊かにする。はるかに時が流れて、そのしきたりは失われ、名前すら忘れ去られてしまったついても「路傍より彼方を見やれば」、遠くどこか見えない丘からその香りが漂ってくることだろう。

とあるように、サムライの魂、大和魂の象徴である「桜」。
木戸孝允は戦没者への慰霊の祭儀のために靖国神社(招魂社)の建立に携わり、そこに桜を植えた意味はとても深いのだ。
靖国神社 木戸
だから、「銀魂」考 第3回鎮魂とカーニバル その3 「桜は死と再生の樹」と「国ほめ」のときに書いたように、アニメ「銀魂」では異様なほど桜の描写が多いのもうなずける。

新渡戸稲造の「武士道」の最後に、ある詩人の言葉を引用している。
「いづこか知らねど、近くよりかかぐわしき香り、
快きその香気に旅人は
立ち止り、その額に、大気の祝福を受ける。」
サムライの消滅とともに「武士道」は失われつつあるが、日本人が桜を愛するように、その魂までは失うことはない、ということか。
銀時と桜(125話、桜の樹を見上げる銀さん)
こんなシーンもある。花見をしながら酒を呑む銀さんの杯に「桜の花びら」が。
桜の花びら
たぶん、この桜の花とともに酒を飲んだことでしょう。
何しろ、彼は日本人の魂「大和魂」を受け継いだ「サムライ」なのだから……。

まだまだ続きます。

資料編を追加します。 第28回 新渡戸稲造「武士道」の後半部分から。

資料編を追加します。
第28回 新渡戸稲造「武士道」の後半部分
必要な部分をそのまま引用します。(「銀魂」考・第5回の参考資料となります)

使ったのは、齋藤孝編集・イーストプレス社版。
これは、現代語訳で読みやすかった。
武士道 イーストプレス

第15章 「大和魂」―いかにして日本人の心となったか

(前略)……すべての社会階級に武士道の魂がどれほど浸透していたかは、男だてと呼ばれる一種の階級が登場したことを見ても分かる。
彼らは、生まれながらにして民衆のリーダーであった。身体中男らしさの塊のような力に満ち溢れた頼りがいのある男たちだ。一般大衆を代表し、その権利を守る者として、彼らは、何百、何千という数の子分を従えていた。
子分たちは、自分の「五体と命、財産、この世における名誉」を喜んで親分に捧げた。それはちょうどさむらいと大名の関係と同じだった。気性の激しい向こう見ずな子分たちを多数従え、彼らは生まれながらの「ボス」たちは、二本差しの連中が増長しすぎるのを厳しく食い止めていた。
武士道は、さまざまな形で、それが生まれた階級以外にも広がっていく。そして、大衆の中でパン種の役割を果たし、日本人全体のための道徳規準を生み出したのである。初めはエリートだけが武士道を誇っていたが、やがて、国民全体が武士道を熱心に追求し、そこから刺激を受けるようになった。さすがに一般大衆は、武士の道徳のように高遠な倫理レベルを達成することはできなかったが、「大和魂」はついにこの島国の民族精神(フォルクスガイスト)を表すに至った。マシュー・アーノルドが定義したように、宗教が「感情に彩られた倫理性」にすぎないとすれば、武士道ほど宗教と呼ぶにふさわしい倫理体系はほとんどない。

しきしまのやまと心を人とはば
朝日ににほふ山ざくらばな

本居宣長は、国民の声にならない声をこのような歌にしている。
そう、桜は昔から日本人に一番好まれる花だった。そして、桜は日本人の国民性を表す象徴であった。本居宣長のことばの使い方に注目してほしい。「朝日ににほふ山ざくらばな」だった。
大和魂は、やわな栽培種の植物ではない。自然に成長したという意味で、野生種である。その土地の固有種である。
偶然、他の土地の他の花と共通する性質もあるだろう。だが、日本人がそれに愛情を抱くのは、それが日本生まれだからというだけではない。その洗練された美しさ、優雅さが、他のどんな花よりも日本人の美的感覚に訴えるのだ。
ヨーロッパの人々はバラを好む。日本人はそれほどでもない。なぜなら、バラには、桜のような簡素さがないからである。また、バラはその美しい姿の陰にトゲを隠している。そして、生命に対する執着のようなものを持っている。早々と散ってしまうことなく、花柄についたまましぼんでいく。まるで枯れるのを嫌っているか、あるいは恐れているかのようだ。華やかな色、強い香り、みな、日本の桜とはまったく違っている。
桜の美しさの陰にはトゲも毒もない。自然の呼び声に応じて潔く散る。色も派手ではない。かすかな香りは決して飽きがこない。色や形の美しさは、外から見えるものに限られている。その花の美しさは花によって決まってしまう。だが、香りは、命の息吹のようにうつろいやすく触知できない。だから、どんな宗教的儀式においても、乳香と没薬(もつやく)が非常に重要な役割を果たすのである。香りはどこか霊的なものがある。桜のかぐわしい香りが朝の空気を輝かせる。太陽が昇り、その最初の光が極東の島国を照らすとき、この朝の空気を吸い込むほど、穏やかで晴れやかな気分になるものはない。その空気は、いわば、その美しい一日の息吹そのものだ。

創造主自身、かぐわしい香りをかいで新たな決意を固めたという(「創世記」第八章二一)。桜の花が甘く香る季節、日本人はこぞってその小さな家を出て野に遊ぶのも不思議ではない。その期間、人々があくせく働くのをやめ、心の憂さや悲しみを忘れたとしても、彼らを責めないでほしいほしい。短いあいだの楽しみが終われば、人々は、新たな力と決意を抱いて、再び日々の仕事に戻っていく。かように、桜はいろいろな意味で国民の花なのである。
このように美しくはかない花が、風の思うがままに吹き散らされ、一時芳しい香りを放ちながら、今にも永遠に姿を消そうとしている。大和魂もこの花のようになるのだろうか。日本人の魂とは、それほどか弱く消えてしまう運命にあるのだろうか。

ここで重要なのは、大和魂を桜に例えていること。
それが消えてしまうのではないか、ということを危惧し、読者に問いかけていること。
世良田東照宮の桜 2画像は世良田東照宮の桜

第16章 永遠の命「武士道」

急速にわが国に広まった西洋文明によって、日本古来の教えはすっかり消え去ってしまったのだろうか。
もし、一つの国の魂がそれほど簡単に死んでしまうとしたら、それは悲しむべきことだ。外からの影響に易々と屈服するような魂は、貧弱な魂である。
国民性とは、数々の心理的要素の集合体である。「魚のひれ、鳥のくちばし、肉食動物の牙は、それがなければその動物ではなくなってしまう要素」である。国民性も、それと同じで、その国民になくてはならない要素なのだ。
ル・ボン氏の最近の著作には、「知性に起因する種々の発見は、人類共通の世襲財産である。性格の長所や短所は、それぞれの国民独自の世襲財産である。それらは、何世紀ものあいだ毎日水に洗われなければ表面のざらつきもなめらかにならない硬い岩のようなものだ」とある。
(中略)
意識に上らず、それゆえ抵抗できない力を持った武士道は、これまで国全体と個人を動かしてきた。近代日本の建設にめざましい役割を果たした吉田松陰は、処刑の前夜、次のような歌を読んでいる。

かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂

日本人の正直な気持ちを告白しているのではないだろうか。
きちんとした体系を持っていたわけではないが、武士道は日本人の魂に生命を吹き込んできた。わが国を動かす原動力であった。それは現在でも変わりがない。

ランサム氏は、「今日、まったく違った日本が三つ併存している。一つは、いまだ滅びずに残っている古き日本、一つは、魂のみが生まれてきただけの新しい日本、そしてその産みの苦しみのさなかにある移行期の日本である」と言った。
この見解は、ほとんどの点において非常に正しい。特に形のある、具体的な制度についてはよく当てはまる。しかし、基本的な道徳概念にこれを当てはめるには、多少の修正が必要だ。古き日本を作り出した武士道、同時に古き日本の産物でもある武士道は、移行期の日本においてもいまだに指針となる原則であり、さらに、新しい時代を創る力を持っているからである。
明治維新の荒波をくぐり抜け、新しな国の誕生という大過の中、日本という船の舵を取ってきた偉大な政治家たちは、武士道以外の道徳教養を知らなかった。キリスト教の宣教師が新生日本の誕生に功があった人々に敬意を表すのはやぶさかではないが、今のところ善良な宣教師たちにその名誉を与えることはほとんどできない。裏付けとなる証拠が何もない主張をするよりも、互いに名誉を譲り合うべしという神の命令に従うことのほうが、彼らの職業にはふさわしいだろう。
私としては、キリスト教の宣教師たちが日本のために、教育、特に道徳教育の面で貢献している部分は大きいと思っている。ただ、確かだけれども神秘的な聖霊の働きは、いまだに神聖な謎の中に秘されたままである。宣教師たちが行っていることは、まだ間接的な効果しか生んでいない。いや、現段階では、キリスト教の布教が、新しい日本の性格を形成するのに果たした役割はほとんど目に見えない。
いや、私たちを良くも悪くも駆り立てたものは、単純明快、武士道そのものである。新生日本をつくった人々の伝記を開いてみよう。佐久間象山、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。伊藤博文や、大隈重信、板垣退助、といった今も生きている人たちの回想録は言うまでもない。彼らの思想や働きに影響を及ぼしたものは武士道であったことがわかるはずだ。
極東について観察し研究を重ねてきたヘンリー・ノーマン氏は、日本が、他の東洋の専制国家と唯一異なる点は「人類が創り出されたなかでも最も厳格で、最も高遠で、最も細部まで行き届いた名誉の基準が、国民全体に支配的な影響を与えている」ところだと述べている。氏は、新生日本が今のようになった主因、新生日本を将来なるべく運命づけられている姿に形づくっていくであろう主因に触れている。
日本が変貌を遂げたことは、全世界に知れ渡った事実である。これほど大規模な活動には、当然のことながら、さまざまな動機が関係してくる。だが、最も主要な動機を挙げるとすれば、人は躊躇なく武士道を挙げるだろう。全国に貿易港を開いたとき、生活のいろんな分野で最も進んだ進歩を導入したとき、西洋の政治や科学を学び始めたとき、私たちを導いてきたのは、物質的な資源を開発して富を増やしたいという動機ではなかった。ましてや、闇雲に西洋の習慣をまねしようというものでもなかった。
東洋の社会制度や民族を間近で観察してきたタウンゼンド氏がこのようなことを書いている。
「毎日のように、ヨーロッパがいかに日本に影響を与えてきたかということが話題になる。この島国で起こった変化が完全に自然発生したものだということを私たちは忘れている。ヨーロッパ人が日本に教えたのではない。社会や軍事的な組織をどのようにするかをヨーロッパから学ぶことを日本自身が選択したのだ。そして、今のところその選択は成功している。トルコ人がかつてヨーロッパから大砲を輸入したように、日本はヨーロッパの機械工学を輸入した。それは厳密に言うと影響ではない」
タウンゼンド氏は続ける。「中国から茶を輸入したイギリスが中国から影響を受けたというのではない限り。日本を改造したヨーロッパの使徒は、哲学者は、政治家は、扇動者はどこにいるのか」と。
日本の変化を引き起こした原因は完全に日本国内にあるというタウンゼンド氏の考えは正しい。そして、氏が日本人の心理について探っていれば、その鋭い観察眼によって、この主因が他ならぬ武士道であったことをすぐに確信したはずだ。
劣等国として見下されることに耐えられない名誉心。それが最も強力な動機だった。金銭的に豊かになることや産業を発展させようという考えは、変貌の過程で後から目覚めたものである。
武士道の影響は今でも、明白であり、誰でもそれを感じることができる。日本人の生活を少し覗いてみればそれは一目瞭然である。
日本人の心の働きは、武士道の働きの一例であることがわかるだろう。人々に行き渡った礼儀の心が今新たに繰り返し話題にされるが、これは武士の生き方を受け継いだものだ。「ちびのジャップ」がどれほど身体的に強い耐久力を持ち、どれほど忍耐強く、勇敢だったかは、日清戦争の際に十分に証明された。「これほど忠実で愛国心あふれる国民がいるだろうか」という疑問は多くの人々が抱いている。これに対して「他にはいない」と誇りを持って答えるられるのも武士道のおかげである。

一方で、日本人の欠点、短所の多くも、武士道が根本にあることは認めねばならない。深遠な哲学が存在しないのはーーわが国にはすでに若手の科学者として国際的な名声を得た者がいる一方で、哲学ではそのような学者は一人もいないーー武士道の教育体制では形而上学的な思考訓練が軽視されてきたことが影響している。日本人が過剰に傷つきやすく、怒りっぽいのは名誉心のせいだ。また、外国人が見て私たちがうぬぼれていると思うとすれば、それも名誉心が曲がった形でおもてに表れているのである。
(中略)
武士道の影響力はいまだに深く強く根付いている。だが、前にも述べた通り、それは人の知識に上らない、無言の影響である。
日本人の心は、理由がわからないまま、過去から受け継いだものに訴えるものには何にでも反応する。したがって、同じ道徳観念でも、新たに翻訳されたことばで表現された場合と古くからある武士道のことばで表現された場合では、その効力に大きな差が生まれてくる。(以下略)

日本人の精神「武士道」がいかに受け継がれてきたかを述べています。
画像は吉田松陰。
松陰


第17章 武士道の遺産から何を学ぶか
(前略)
……言い古されたことばを繰り返すまでもなく、士気を鼓舞するものは魂である。
それがなければ最高の道具もほとんど役に立たない。最新型の銃や大砲も、ひとりでに弾が出るわけではない。近代的な教育制度で臆病者が英雄に変身するわけでもない。いや鴨緑江で、あるいは朝鮮半島や満州で、戦いに勝ったのは、私たちの父祖の英霊である。それが私たちの手を動かし、心を導いてくれたのだ。
私たちの父祖は、英霊は、私たちの勇ましい祖先の魂は、死んではいない。見るべき目を持っている者にははっきりと見える。どんなに進歩的な考えを持っていても、日本人は一皮むけばさむらいである。名誉、勇気、あらゆる武徳はすばらしい遺産である。だがそれは「一時的に私たちに預けられているだけで、本来は過去に生きた人々、そして来るべき世代の人々の財産である」とグラム教授は言っている。まことに言い得て妙だ。
今の私たちに下された命令は、この遺産を守ること。そして、ほんのわずかでも往古の精神を失わないこと。未来の人々に課された使命は、その精神が及ぶ領域を広げ、生活のあらゆる活動領域や人間関係にまで応用していくことである。
封建日本の道徳体系は、城や兵器類とともにぼろぼろにくずれて塵となり、そこから新たな道徳が不死鳥のように現れて、新生日本の発展の道へと導くだろうと言われてきた。
この五十年の出来事を見る限り、この予言の正しさは証明されているようだ。このような予言が実現することは望ましいことであるし、またその可能性も高いと思われるが、不死鳥は自分自身の灰からよみがえるのだということ、また、不死鳥は渡り鳥ではなく、自分の翼で思うがままに飛ぶことができるということを忘れてはならない。
「神の国はあなたの内にある」。神の国は、どこか高い山から転がり落ちてくるのもではないし、広い海原の向こうから漂ってくるものではない。コーランには「神は、あらゆる民族に、その民族のことばで話す預言者を与えもうた」とある。
日本人の精神によって立証され、理解された国の種子は、武士道の中で花開いた。だが、今やその時代は終わりつつある。悲しいことに、実を結ぶところまでいかなかった。私たちは、武士道に代わる優美と明知の源、力と安らぎの源を探してあらゆる方角を見回すが、まだそれは見つからない。不本意ながらも、詭弁家たちは、功利主義や唯物論者が考える損得勘定による哲学を支持している。功利主義や唯物論に対抗できるだけの力を持っている道徳体系は、唯一キリスト教だけである。キリスト教に比べると、実のところ、武士道は、「かすかに燃えている灯火」のようなものだ。
救世主は、その灯心の炎を、消すことなく、あおいで燃え上がらせると宣言した。救世主であるヘブライの預言者たち、特に、イザヤ、エレミヤ、アモス、ハバククなどと同様、武士道でも、支配者や公人、国民の道徳的行為に重点を置いてきた。
一方キリスト教の倫理で扱われるのはほとんど個人、キリストに個人的に帰依している人々である。個人主義が道徳的要素として力を持つようになるにつれ、キリスト教道徳は実用的に応用されるようになるだろう。
専横で自己主張の強い、ニーチェのいわば主人道徳には武士道に似た点がある。一方ニーチェは、ナザレの人「キリスト」の道徳を、卑しい、自己否定的な奴隷道徳と呼んでいる。これはニーチェらしい病的で歪んだ表現だ。私の理解が間違っていなければ、主人道徳とは、奴隷道徳へ向かう一時的な局面であり、反動である。
キリスト教と唯物論(功利主義をふくめて)はやがて世界を二分するだろう。
あるは、この二つも、将来、昔からあったヘブライ主義とギリシャ主義という対立の形に変形していくのだろうか。マイナーな道徳体系が生き残るためには、どちらかの陣営につくことになる。
武士道はどちら側につくのだろうか。はっきりした教義や守るべき定式をもたない武士道は、一つの存在として姿を消すことも可能である。桜の花のように、一陣の朝風にいさぎよく散ることもいとわない。
だが、完全に消滅してしまうことはないであろう。ストア主義は死んだか? 確かに、体系としては死んでいる。だが、一つの徳として生き残っているではないか。西洋諸国の哲学や、文明世界のあらゆる法体系など、そのエネルギーや生気は、いろんなところからいまだに感じ取ることができる。いや、人が自己を高めようと苦心するとき、自身の努力によって精神が肉体を制するとき、そこに、ゼノンの教えがいまだに生きて働いていることを私たちは知るのである。
独立した道徳規範としての武士道は消滅するかもしれない。だが、その力が地上から消えてなくなることはない。
武士道で武勇や道義心を学ぶシステムは解体されるかもしれない。だが、解体された残骸が消えてなくなってもなお、その光明と栄誉は残っていくだろう。
武士道を象徴する花と同じく、四方に吹き散らされてしまってからも、その香りは残り、人々の生活を豊かにする。はるかに時が流れて、そのしきたりは失われ、名前すら忘れ去られてしまったついても「路傍より彼方を見やれば」、遠くどこか見えない丘からその香りが漂ってくることだろう。
あるクエーカーの詩人は美しいことばで語っている。

いづこか知らねど、近くよりかかぐわしき香り、
快きその香気に旅人は
立ち止り、その額に、大気の祝福を受ける。

「はっきりした教義や守るべき定式をもたない武士道は、一つの存在として姿を消すことも可能である。桜の花のように、一陣の朝風にいさぎよく散ることもいとわない。
だが、完全に消滅してしまうことはないであろう。」
大和魂=武士道は消えていく運命にあるだろうが、解体された残骸が消えてなくなってもなお、その光明と栄誉は残っていくだろう」と新渡戸稲造は言う。そして、これを「さくら」に例えてこう付け加えた。
「武士道を象徴する花と同じく、四方に吹き散らされてしまってからも、その香りは残り、人々の生活を豊かにする。はるかに時が流れて、そのしきたりは失われ、名前すら忘れ去られてしまったついても「路傍より彼方を見やれば」、遠くどこか見えない丘からその香りが漂ってくることだろう。」と。

となれば、アニメ銀魂で散々描かれる「桜」に大きな意味があるということになるのです。
銀魂 鎮魂と再生の桜アニメ・銀魂から。

これを踏まえて、「銀魂」考 第5回 滅びゆくサムライの物語に入ります。

「銀魂」考 第4回 あの塔は何だ? 生と死とリンガ

「銀魂」考 第4回 あの塔は何だ? 生と死とリンガ

アニメ銀魂の中でよく描かれるものが「桜」や「巨大な月」そして「ターミナル」だ。
特に「ターミナル」は本編やオープニング、エンディングでかなり登場する。
これは、サブキャラクターの定春やお登勢なんかよりも登場回数は多いだろう。何気ない風景として描かれることもあるが、ここぞというときに象徴的に登場することもある。
銀魂 ターミナル2
さて、ここで資料編。
第5回  塔の話 その1 「東京スカイツリー」と「東京タワー」
第6回  塔の話 その2 「西洋の塔と東洋の塔」
第7回  塔の話 その3 「日本の塔において生の理念と死の理念がいかに相戦い、戦いつつそこに一種の調和をつくっている」

以下ことわりがない場合は、すべて梅原猛の「塔」(集英社)の本からの引用です。
梅原猛 「塔」

塔は、本来、高さへの意志を表現するものであった。しかもそのその高さへの意志は、同時に、権力の象徴であった。もう一ついえば、それは、宗教によって聖化された権力の象徴であった。

Wikipediaの「銀魂・ターミナル」の説明は以下の通り。

地球の政権を握った天人が開国の際に造った宇宙船発着の為の基地。地球のエネルギーが湧き出る場所である「龍穴」のエネルギーで動いており、江戸中のエネルギーが集束しているポイントでもある。元々の場所は、阿音と百音が狛神2匹と共に住んでいた神社だったが、それを取り壊して建造された。攘夷志士にテロの対象として狙われる事が多く、桂も時限爆弾で破壊を目論んで居た。
また、テロではないが寄生型えいりあんに侵食された際、真選組や松平の攻撃によって大きく損壊した。地下深くにはエネルギーを制御する場所があり、そこを伍丸弐號(流山)率いるからくりメイド集団に占拠されてしまった事もある。その時の戦いでエネルギーが暴発しかけるが、零號(たま)によって阻止された。
ちなみにアニメの150話の嘘最終回にてターミナルの頂上が銀時と高杉の決闘場所となって居た。

この塔・ターミナルが登場することによって、江戸(地球)は天人の支配下にあることを明示している。
だから、天人が直接描かれることはなくとも、根本的設定・世界観は守られていることになる。(OP・EDで攘夷戦争の場面が描かれているのも同様)
ここで面白いのは、このターミナルが神社を潰した跡地に建てられてるということ。つまり、日本人の魂の象徴である神社は破却され、そこに外国人による塔が建てられているというのは、日本が植民地状態であるということだ。基本設定はこういうところで常に暗示されている。
神社を潰してターミナル(45話にその経緯が描かれている)
江戸の龍脈を断つという点を追えば、ターミナルがどこに建てられているのか、ということを考えるのは楽しい。
荒俣宏の「帝都物語」的に考えによればそこは神田明神だということになるだろうし、天海の作った呪術的魔方陣であるならば寛永寺や上野東照宮あたりの上野公園あたりになるだろうし、加門七海ならば赤坂の日枝神社や東京タワーあたりだということになろうか、いやいやそれは靖国神社ではないのか(私はそう思う)……と、そんなことを考えると面白い。(まあこれは本筋ではないので、時間があったときに…)

さて、ではこのターミナル・塔は何を表現しているのか。
3つほど考えてみた。

1、支配としての塔

マグダ・レヴェツ・アレキサンダーは、塔を建造する人間の意志を、一種の高所衝動として理解しようとしている。人間は、自己を表現しようとするはげしい意志をもっている。自己の存在を誇示し、自己の存在を空中高く飛躍せしめんとする意志を、人間はその内面深く宿している。
塔は人間の生への意志、権力への意志の表現なのである。そしてその生への意志、権力への意志は、いつも無限の方向をもち、それゆえいつも未完に終わるのである。ニーチェがいうように、権力への意志はいつも己れ自らにいう。もっと多くの権力を、と。権力は権力を求めて止まず、塔は高さを求めて、止まることを知らないのである。悲劇的にすら見える、この権力への意志、そこにヨーロッパの塔の本質がある。


第一に、この世界の支配者の権力を象徴したものとして「塔」が登場しているというは分かり易いだろう。(画像はOP・EDから拾ってみた)
だから、銀時の視線の向こうにこの塔はある。
銀魂 塔・1銀さんと塔。(この構図はかなり多い。)
銀魂 桂とエリーと塔桂とエリーと塔。攘夷戦争を戦った桂が、この敵なる象徴的塔を見つめるシーンは実に感慨深い。(史実の桂小五郎と重ねてみると余計に…、これは第5回で)
ターミナルと神楽神楽と塔。
銀魂 ターミナルと服部全蔵服部全蔵と塔。こういう組み合わせもあった。(長谷川さんと塔というのもある。支配と被支配という関係か)
やはり、塔・ターミナルは、江戸の住民と対峙するものの象徴なのだろうか。
また銀時らが行く先に塔がある、という描かれ方も多い。
塔・桜

これら本編を通じても、塔・ターミナルはどこかしらに描かれている。
全話どういった場面で登場しているかチェックしようとしたが、あまりにも数が多いので、断念した。(つまりそれほど多く描かれている。)
アニメ・マンガにおいてその画面に登場するものは、作者の何らかの意図があると、細田守は言った。
やはりもっと深い意味があるのではないか、もう少し掘り下げて見よう。


2、生と死を分ける塔

この高くそびえる建物そのものが、一つの死を示しているのである。この高くそびえる建物そのものは、ヨーロッパの塔のように、永遠に高く昇る一つの意志を表すのではなく、一人の偉大なる人間の死の栄光を示すものである。ヨーロッパの塔が、限りなく上昇する生への意志を示すものであるとすれば、仏教の塔は、生と死のたえざる争いの上に生まれるといってよいかもしれない。まさにここで生は死の上にそびえ、そして死の上に高くそびえることにより、死を超克せんとしながらも、なおかつ、生は、偉大なる沈黙の死の支配を脱することができない。


銀魂 塔 次郎長銀時と次郎長の間に現れる塔。

銀魂・桂と高杉と塔桂と高杉との間に現れる塔。

銀魂 死の塔「かぶき町四天王篇」の瀕死の椿平子に現れる塔。

塔には生への意志とともに、死への省察が含まれている。限りなく上昇しようとする強い生への意志と、それにもかかわらず、人間を根本的に支配する死の意識が、すべての塔の中で、はげしく戦っているのである。この生と死の戦いは、人間存在を構成する基本的なものなのである。


この本を読んでから、アニメに「高い塔」が登場するといろいろ考えてしまう。
特に「生死」を争うようなアニメで。
魔法少女 塔魔法少女まどかマギカのOPに登場する塔。

魔法少女 塔2魔法少女まどかマギカに登場する不気味なイメージの塔。
このアニメでは他に「やたら高くそびえ立つ病院」や「塔の頂上に立つ登場人物」などが結構出てくる。これらもそういった意味があるのではないか。

ワシントン記念塔これはアメリカのワシントン記念塔。
アントワープ ノートルダム大聖堂アントワープ ノートルダム大聖堂。
西洋の塔が天に向って垂直に建っていることは「生の衝動とともに、死の衝動」があることは、資料編にまとめてある。
では、図像学・イコノグラフィー的に読み解こうとすれば、銀魂で描かれるあの塔は「生と死」を分けるものの象徴なのではないか。
映画版「新訳紅桜編」では、銀時が決闘に向う前に、その背後にあの塔は描かれる。
銀魂 銀時が決闘に向う前に出るあの塔
そして本編のラスト、激闘を終え家路に向う銀時ら一行のその先にあの塔は描かれている。
銀魂 紅桜編のラストに登場する塔
「日本の塔において生の理念と死の理念がいかに相戦い、戦いつつそこに一種の調和をつくっている……。」
アニメ銀魂における大きなテーマはこの塔にあるのではないか、そんな風に思えてならない。
だから、150話の偽最終回ではこの塔は炎上する。
銀魂・塔の炎上

もう一つ、塔に関する謎がある。
OP・EDを見ていると、本来描かれるべき場所で、あの塔が描かれていないということがたまにあることに気付いた。
塔のない銀魂3

塔のない銀魂2

塔のない銀魂1
登場人物が前に立ちはだかって、この塔が描かれていないのだ。
これらは何を意味するのか。塔の持つ死を超えたということを意味しているのか。
また、新オープニング曲「ジレンマ」では、銀時はターミナルのエレベーターに乗って頂上まで達する。
銀魂 ジレンマ
この前のシーンでは人ごみとは反対方向を一人歩く銀時(サムライが過去のものという象徴)や、過去に戦った者たちを回想するようなイメージや女性の登場人物が重なるといったシーンとともに、この塔を昇って行くのだ。
なにを意味するのか?
新たな展開があるという予兆なのか?

またこんな場面もある。本編のパロった「ギンタマン」という偽OPシーンでは、ターミナルは東京タワーとして描かれている。
銀魂 ギンタマン・何故か東京タワーこれはどういうことなのか。
わざわざ東京タワーにした意味は?

それに東京スカイツリーがどう見ても「銀魂」世界のターミナルに酷似しているのはなぜか。(まるで予言のように)
東京スカイツリーの完成予想図(画像提供:東武鉄道株式会社・東武タワースカイツリー株式会社)
これも謎だ。

実にこの「ターミナル」は解析しきれない存在だ。

3、リンガとしての塔
銀魂 ターミナル、亀頭
これを見て思うのは、リンガ、男根ではないのか、ということ。

88話では、穢れたバベルの塔=男根として、この塔を見立ている。
銀魂 穢れたバベルの塔
ちなみに、ピーテル・ブリューゲルの「バベルの塔」
バベルの塔

銀魂 アームストロング砲38話。ネオアームストロング サイクロンジェット アームストロング砲こと、男根。
このアニメは男根をネタにしたものも多い。(猥雑なギャクアニメだから、チンチンネタは多いのは当たり前だろう)しかし面白いのは、主人公銀時の股間がハンマーに変わったり、ドライバーに変わったり、ドットに変わったりすることである。このアニメで問われるのは、主人公のリンガなのだ。

(アンコール・ワット建物)の頂上は巨大な塔であるが、この塔の下には、巨大なリンガがそなえられていたのではないかと思われる。それは、おそらく小乗仏教の流行とともにその多くはとり去られてしまったが、かつてこのリンガこそ、王室の権力のシンボルであったのである。リンガとは、まことに忠実にその形を模した巨大な男性のシンボルであるが、おそらくヒンズー教の塔そのものが、男性シンボルの象徴という意味をもっているのあろう。
垂直に天に直立する意志、それは子孫生産の意志を示し、権力の意志を示し、そしてそれ以上に、形而上学的な根源的な生への意志をも示している。


銀魂・リンガと新八(150話・偽最終回)
そう考えると、常に性の衝動と戦い続ける少年・新八が、エヴァのパロディでこのターミナルことリンガの上に立つというが、実に興味深い。
男根信仰は世界各地にあり、インドではシヴァ神はリンガを象徴として崇められているし、日本でも奇祭として各地に残っている。三峰神社(埼玉県秩父)の節分の祭や諏訪神社の御柱祭りもこの一種であろう。
やはり、リンガ信仰も「死と再生」を願うものである。


ということで、第4回のまとめ。
振り返って、「銀魂」世界で描かれる「桜」「月」(月の満ち欠けは死と再生を意味する)「塔」などはすべて、「死と再生」を秘めていることになる。

ここがこの物語において重要なテーマであることは間違いない。

まだまだ続くよ。




「銀魂」考 第3回鎮魂とカーニバル その3 「桜は死と再生の樹」と「国ほめ」

「銀魂」考 第3回鎮魂とカーニバル その3 「桜は死と再生の樹」と「国ほめ」

「銀魂」考 第3回 鎮魂とカーニバル その2 「銀魂」は「カーニバル」と「ええじゃないか」だぁ、だぁ、だあ! からの続き。(少し追記しました)

歌舞伎にあれほど桜の場面が多いということの納得がいきますね。
つまり、歌舞伎そのもの農村から都市への乱入だったわけですね。文字通り「かぶいた」わけです。秩序を傾けてしまった。そういう由来と桜の連想は、のちの歌舞伎にもどこか残っていたかもしれませんね。
そうとにかく、いい場面になると、必ず爛漫と花が咲くという、実にたわいもないしかけになっているんだな。
ほんと、あれはちょっと興奮させられますね。「道明寺」「義経千本桜」から桜を抜くと、すいぶん変なものですよ。
そうそう、とにかく理屈抜きに楽しい。どうもとことどころ「こんなところで桜が咲いていいのかな」と思うときがあるんだけれども、それはちらっと思うだけのことで、すぐにいい気持ちになってしまう。そういうのが歌舞伎の桜ですね。
(丸谷才一・山崎正和「見わたせば柳さくら」から。)


銀魂 生と死の桜(映画版に登場する桜)
アニメ「銀魂」では「桜」がよく描かれる。
これが実に象徴的で、OPやED、本編中においても、桜の花びらが舞うシーンは異様に多い。
銀魂 桜舞う(エンディング曲「sanagi」から)
桜の樹そのものよりも、登場人物にかぶさるように桜の花びらが舞い散るという使われ方の方が多い。
次郎長 桜(画像は若き日の次郎長)
これには意味があるはずだ。単純に、日本=桜といった単純な発想というわけではないだろう。
思うに、桜には「死と再生の樹」という意味があるからに違いない。
「見わたせば柳さくら」からいくつか引いてみよう。(以下、引用部分はこの本から)

「桜というものと人間の死のイメージとは、ひじょうに古くから結びついています。……だから桜の花が散るということと人間の死というのは、古くからイメージの上で結び付いていたようです。」
「(桜について)詩人は美しいものに死を読み取り、その美しいものの死の中に農民たちは逆に再生のエネルギーを読み取った。」
「桜の花は極端にはかなく散っては咲き変わる。つまり松はいつも変わらないということで、一方、桜は咲いて、散って、再生するということで、両者は時間の中で永遠をとらえる」


生と死のイメージとしての「桜」
銀時と桜の花びら 1(オープニング曲「桃源郷エイリアン」から)
だから、銀さんに桜の花びらが舞うというイメージのシーンは多い。(そしてあの「塔」も。これは次回で)

また、桜には再生のイメージもある。

つまりあれは舞台装置なんですね。そこに人間がいたり、何かお祭りがあったりする世界。桜というのは「世界」をつくる植物なんですよ。ですから、まさに歌舞伎の舞台装置にうってつけであるし、同時に現実の花は、人間の花見の舞台でなくてはならないんでょうね。

田楽は狂うんですね。江戸初期の「かぶき」踊りもそうかもしれない。どうも私は、田楽や「かぶき」踊りと花見というのはうんと深いところで共通性があるような気がします。
田楽狂い、「かぶき」狂いというのは歴史の中の一回的な事件でしたけれど、花は毎年人を狂わしてくれる。
だから、やはり桜の花見というのは、日本人にとってのカーニバルの代表だと思います。


したがって、「銀魂」には「花見」というシーンは多い。(特にOPやED)
銀魂 酒と桜とおにぎり(OP曲「アナタMAGIC」から)「酒と桜とおにぎり」とはまさに日本的。おにぎりは日本人にとっての「魂」ですよね。過去記事「「こめ」「弁当」「おにぎり」で「文化防衛論」、その続編「「サマーウォーズ」と「エヴァ」と「コボちゃん」
銀魂 酒と銀さんと土方(お花見の回、総集編やジャンプフェスタなどで何回も使われた。)

……つまり並木の下に人が集まってワイワイやる、その雰囲気全体が、江戸の花っていう感じなんですね。歌舞伎の舞台というとやはり群がった桜の花が出てきますけれども、あの賑やかな感じは江戸そのものですよ。

「火事と喧嘩は江戸の華」っていうんだけれど、つまり、あれは別の見方ができるんでね。火事と喧嘩というのは、文字とおり江戸の桜なんです。どちらも血を流したり、ものを灰にしたりしますよね。そこから雄々しく蘇っているんですよ。


「銀魂」世界での花見のケンカはピコピコハンマーですが……。
銀魂 定春と土方

銀魂 花見とケンカ

歌舞伎というのは、いったいにゴチャゴチャした美なんですね。すっきりした美なら、お能に任せておけばいいのであって、歌舞伎というのは賑やかにいろいろなものが乱雑にゴチャゴチャしている。

銀魂見て思うのは、これは現代の「歌舞伎」なんじゃないかとうことだ。
花見 錦絵
歌舞伎もいまや日本の伝統芸能として高く持ち上げてられているが、江戸時代はまさに庶民が楽しむ大衆文化だったわけだから。(今の歌舞伎の地位があるのは井上馨のおかげなんだから、少しは彼を顕彰した方がいい。過去記事)

そして、桜は「大和魂」を意味するが、これは第5回で。

さて、もうひとつ、「国ほめ」だ。
丸谷才一の「忠臣蔵とは何か」から。(資料編にもあるが、要約は面倒なので、そのままここにも引用した。)

地理への関心ないし国ほめの要素がある。これは一方では、すこし前から盛んになった東西交流のあらわれであり、他方では、王朝和歌の歌枕や古代の国見にまでさかのぼることのできるものだが、丸本歌舞伎時代物は諸国名所を舞台にすることを好んだ。たとえば『義経千本桜』では、大物浦にもその気配はあるけれど、吉野山が典型的にそうだった。「吉野の花の爛漫と、吹雪にまがふ山おろし」に、もうひとつ、狐火などというしゃれたおまけまでつけてもらって、観客は居ながらにして名所見物を楽しみながら、国土を賛美したのである。この国ほめにはもちろん呪術的な意味合いがあって、古代人の場合ほど単純ではなかったにしても、賛美された国土は豊饒と安穏をもってお返ししてくれるはずだと心のどこかで期待していたにちがいない。地理に対する知的な関心や観光趣味の底で、古代信仰の名残りが脈打っていたのである。


歳時記性という要素がある。これも至って分かりやすい。例えば『義経千本桜』、伏見稲荷鳥居前の場で、梅が咲いている。下市村椎の木の場は秋で、いがみの権太が木の実を拾うコツを教える。吉野山道行の場と川連法眼館の場は春で、芝居小屋のなかで豪勢な花見酒である。四季の移り変わりで情趣を出すという狙いもあるが、俳諧の場合でも季語を支えているのは、四季の正しい循環とそれによる五穀豊穣を祈る心だった。丸本歌舞伎時代物に同じ信仰がはたらいていることは念を押すまでもない。

(「忠臣蔵」の説明から)足かけ三年にわたる出来事なのに、陽春にはじまり早春に終わり、結末は発端にきれいにつづいて、季節は円環を形づくるのである。これが人々の心に与えた不思議な感銘は、やはり見逃してはなるまい。
(仮名手本忠臣蔵は)そこでは、御殿から陋屋まで、遊所から高家の邸の炭部屋まで、征夷大将軍の弟から盗賊まで、足軽から大名の夫人までという構図によって、社会全貌が示させる。南北朝時代は江戸時代とそっくりな身近なものとなり、その異様な混淆は、年号のある歴史ではなく歴史一般を差し出す。舅殺しかもしれない猟師は忠義な武士であり、遊女は猟師の妻であり、もっとさかのぼれば武士の恋人である腰元だった。しかも、大星由良之助の向こうには大石内蔵助が透けて見え、顔世御前の面輪はまるで瑶泉院の色っぽい妹だという、事実と虚構との二重構造によって、「実は――」はいっそう込み入ってくる。大名と浪人の切腹は社会の礼法を保證し、長く長くつづく焼香の手本となるだろう。鎌倉、東海道、山崎街道、祇園、山科は日本の地誌を代表し、道行の桜と菜の花、水無月の鉄砲雨、討ち入りの雪は、この風土の暦の全体を暗示する。このような秩序のなかでこそ、巧妙に秘匿された御霊神(歌舞伎役者たちは今でも塩谷判官のことを「判官様」と呼ぶ。ちょうど「東海道四谷怪談」のお岩を「お岩様」と呼ぶように。これは明らかに御霊神への畏怖の名残りである)は天下をおびやかし、それを慰撫しようとして四十七人の浪人は画策し、供物としての首は見事に献げられ、そして茶を飲んだり、弁当を使ったりしながらゆるゆると見物していた人々は、物騒な祭儀がとどこおりなく終わったことを喜んで、一種晴れやかな祝意を表しながら、この興行は四十七人の怨魂を鎮める祭だから彼らが自分にたたることはまずなかろうと、意識下の仄暗いところで楽観することができた。「仮名手本忠臣蔵」はそういうそれまでの演劇の集大成でありながら、しかも呪術性があらわではないという点でも、当時としてはまったく新しい形、未来に向けて用意された宗教劇であった。
(中略)
この事件それ自体が、芝居ごころのふんだんにある祭祀、式次第にきちんとのっとった大がかりな祭典劇であるということを漠然と感知している……。

四季豊かな日本を描くことは、「国ほめ」につながる。これは読んでいてなるほどと深く感心した。
実はこの「国ほめ」がアニメ「銀魂」にもよく表れている。
アニメ「銀魂」を見て感じることは、春夏秋冬の四季が実に良く描かれていることが分かる。
「なに、そんなのサザエさんやちびまる子だってそうじゃないか」と言うだろう。
そうだ。確かにそこにも日本の四季や季節の行事が随所に描かれている。(「サザエさん」には日本各地の名所を紹介するようなOPもある)
参考

そう、これが「国ほめ」ということなのだろう。
だからこそ、国民的アニメと言われるのだ。日本人があれを見て和むのは、そこに日本という国を称える「国ほめ」という要素が多分にあるからだ。

歳時記性という要素が……豪勢な花見酒である。四季の移り変わりで情趣を出すという狙いもあるが、俳諧の場合でも季語を支えているのは、四季の正しい循環とそれによる五穀豊穣を祈る心だった。

日本人の好きなものは、雪・月・花でしょう。花と月は待つものです。みな共通性がある。とにかくうつろいやすく消えやすい。

銀魂・秋(ED曲「I、愛、会い」から)秋・鮮やかな紅葉。銀魂ではこの紅葉もよく描かれる。

銀魂・夏(ED曲「This world is yours」から)夏になると浜辺がよく描かれる。

銀魂 雪(ED曲「雪のツバサ」から)冬になると雪が舞う美しい場面が多く描かれる。

銀魂 沖田と月と刀とすすき(ED曲「SIGNAL」から)「沖田と月と刀とすすき」。月を愛でる日本人、このアニメには「月」が印象的に使われる。(高杉の「今日は、でけぇ月が出てるな」とか、OP・EDの巨大な月とか)
銀魂 こたつ
本編で良く使われるコタツの場面。お茶にミカンにちゃんちゃんこ……、実に日本的。

まあこれらは一例。全編を通じて表現される「日本」の四季、風景。
春になれば春の景色を、夏になれば夏の風物を、秋になれば秋の風景を、冬になれば雪景を、それぞれの季節に合わせて描いていく。まさに「サザエさん的国ほめ」なんですよ。
こういう細かいことをするギャクアニメって他にあるのだろうか。ここはもっと褒められてもいいと思う。


さてさて、第3回 鎮魂とカーニバルのまとめ。
ここまで、「慰霊」、「悲劇の死者」、「カーニバル」、「祭り」、「桜」、「国ほめ」……、これらのことを書き連ねてきましたが、これらはすべて、「鎮魂」ということを説明しているのです。
なぜ「鎮魂」なのか。
そう、今年、あの震災があったからだ。
その失われた魂を鎮める「祭り」が、いま東北を中心に全国各地で行われている。
日本人の魂の源である「祭り」を行うことが、いま必要なのだと感知しているからに他ならない。
過去記事「いま日本に必要なのは「ディズニーランド」でも「パンダ」でもない。「祭り」や「年中行事」「花見」こそいま行われるべきなのだ!

「日本人の花見は、外側から眺めるだけでなく、花の下に入って酒を飲んだり、踊ったりするするところの特徴がある。この習慣は、ウメやサクラの花の下に入ることによって、花の精気を全身で受けとめ、自分の生命力を補強するという古代以来の自然信仰のあらわれと思われる。
本来は風流の催しではなく、物忌み祓いのため、家を空けて集団で花見をしたり山遊びをするという、古代の信仰行事であった。」
「柳田国男は、死者の霊魂を慰める祀りの場所が桜の花であり、花見というのは死者の祭りをすることだった。折口信夫は、「花」というのは桜の花も基本的に先触れである、何かが出て来る、そこから稲が実る、その花は稲の豊作を予言してくれる花だった」


なぜ、「桜」を愛でるのか、そこには鎮魂と安寧を願う心があり、自然を敬意する気持ちがあるからだだろう。
だからこそ「花見」に行って死者の霊魂を慰めるために祈り、復興を願う、こういうことが行われるべきなのだ。(これは「花火大会」や「祭り」や「伝統的行事」も同様)

少し横道にそれました。
言いたいのは、桜の樹や祭り(カーニバル)には「死と再生」の意味があるということです。
銀魂 花見2


まだまだ続きます。

「銀魂」考 第3回 鎮魂とカーニバル その2 「銀魂」は「カーニバル」と「ええじゃないか」だぁ、だぁ、だあ!

「銀魂」考 第3回 鎮魂とカーニバル その2 「銀魂」は「カーニバル」と「ええじゃないか」だぁ、だぁ、だあ!
前回 「銀魂」考 第3回 鎮魂とカーニバル その1 「銀魂」は怨念を残した者たちの「鎮魂劇」であるからの続き。

「銀魂」は「九割がどうしょうもなく下品でも、残りの一割がどうしょうもなく熱く、そしてせつない。」と作家の窪美澄がいうように、そのほとんどは登場人物たちが乱痴気騒ぎを繰り広げるマンガ・アニメだ。
なぜ、これほどまでに毎回毎回大騒ぎをするのか。
銀魂 2期

もちろんギャグメインのマンガなのだから大騒ぎになるのは当たり前ではないのかと言ってしまえば、それまでだが……。しかし「銀魂」が「鎮魂」の物語だとすれば、この「狂ったような騒ぎ」にも意味があるのではないか。

さて、今回使うのは資料編、第10回 資料編10回目 丸谷才一「忠臣蔵とは何か」 その1と第11回 資料編11回目 丸谷才一「忠臣蔵とは何か」 その2です。
そして、丸谷才一・山崎正和・対談集「見わたせば柳さくら」(中央公論社)。
見わたせば柳さくら

さて、「見わたせば柳さくら」から。

都市というのは、つまり人工的な世界ですよね。日本の都市というのは、西洋や中国の都市に比べれば融通無碍なものですけれども、それでもここは官庁街であり、ここは屋敷町である、という一つの秩序を持っています。それから、たいていの場合、政治の中心ですから、法という秩序が支配しています。だから、これは広い意味でフォルムの世界だといってもいいんですよね。芸術上のフォルムから法律や制度のフォルムまで含めた、何か形のある世界ですね。これは人間の文化の営みとして必然の産物だけれども、放っておくとだんだん生命力を失います。
これに対して混沌たる生命というのは、やはり土の上のところにある。つまり農民にあるわけですね。それがときどき間歇的に都市へ流れ込んでいく。そうすると、都会人は狂うんですよね。狂って、生命力を取り戻していく。
狂うことによって回復するわけですね。
これがはっきりとあらわれているのは、芸術史の上でいうと、田楽ですね。なぜかわからないですが、猿楽と田楽というのは、どちらも能の起源にある要素ですけども、猿楽のほうは田楽のもっている、動物的なというか、あるいは多少アナーキーな力をあまりもっていないんですね。
田楽というのはいうまでもなく田の楽でありまして、豊饒のための呪術的芸能ですね。これが、平安末期の永長という時代に京の都に大乱入したことがあるんです。「洛陽田楽記」というの記録が残っています。京の都の人たちが、どれもこれも、それこそ公家から庶民にいたるまで田楽踊りをはじめて、町じゅう狂ったんです。
田楽は狂うんですね。江戸初期の「かぶき」踊りもそうかもしれない。どうも私は、田楽や「かぶき」踊りと花見というのはうんと深いところで共通性があるような気がします。
田楽狂い、「かぶき」狂いというのは歴史の中の一回的な事件でしたけれど、花は毎年人を狂わしてくれる。
だから、やはり桜の花見というのは、日本人にとってのカーニバルの代表だと思います。

民衆が狂ったように踊ったり騒いだりするのは、現体制への批判や統治者への不満が根本にあるということだ。その鬱積がたまりにたまって爆発し、民衆は狂騒することになる。
幕末の「ええじゃないか」もこれと全く同じことであり、中国や中東などで起こるデモもこの一種だろう。
これらは、為政者への不満のガス抜きの一つであった。
そして、「祭り」や「カーニバル」にも同じ作用があったというのだ。
これは丸谷才一はこれを仮名手本忠臣蔵などの歌舞伎とからめて書いたのが「忠臣蔵とは何か」だろう。(資料編で)

文化人類学者の山口昌男によれば、カーニヴァルとは「秩序の拘束から離れて気儘に戯れ日を過ごす」ことであり、未開では「王権の反秩序儀礼」としての意味を担っているという。
元禄時代の「王権」は、言わずと知れた悪政の徳川綱吉である。民衆の不満は潜在的に充満していたと考えられる。そうした民衆が「忠臣蔵」に激しい共感を寄せ、現在に至るまで愛されつづけている点は興味深い謎であり、いろいろな解釈を可能にする。丸谷はそこに「太古の祭」という原初的なエネルギーを感じとり、最新の概念を導入してその解明を果敢に試みたといえよう。横木徳久(文芸評論家)


では、これを「銀魂」世界に当てはめてみるとどうなるだろうか。

銀魂 江戸の町を威圧する塔江戸の町を威圧するように立つ天人支配の象徴「ターミナル」。
そして、その天人(華陀など)は、人間(江戸の住民たち)のことを「下等なサルども」と見下し、天人に食い殺される国(植民地状態)になった世界。
これは、第1回「銀魂」考 第1回 植民地化された「サムライの国」、その世界観で見たように、「江戸」は天人(外国人)に支配された国となっている。

となれば、「銀魂」世界で繰り広げられる大乱痴気騒ぎも一種の「ええじゃないか」や「カーニバル」なのではないか、と思われてならない。
資料編から拾ってみれば、
「仮名手本忠臣蔵」が、実は将軍調伏という恐るべき意図さえも孕んだいわゆる御霊信仰を支えとする祭祀劇であったとする新しい説」(小室金之助)
「なお、カーニヴァルが民衆の政治的鬱憤晴らしの場になることはよくあった。」「いま、狂気じみた騒がしい大乱痴気の光景が示されていた。仮面をつけた連中の波は、あらゆるところから溢れ出していた。」(丸谷才一)などとあるように、「銀魂」世界に繰り広げられる民衆のバカ騒ぎにも「カーニバル的」「ええじゃないか的」性質があるのではないのか。
このガス抜きは「祭り」や「演劇(田楽や歌舞伎)」の中にもあるというが丸谷才一や山崎和正の説だ。
何となく関連記事「伊藤洋一著「日本力」は面白い。 なるほど「中国には祭りがない」のか!

アニメ38話に「雪まつり」の回がある。
ストーリーは省略。まあ、最初は雪まつりだったものが、最後にはめちゃくちゃな雪合戦になる。
「なにをみんなやっているんですかね?」という新八の問いかけに、お登勢はこう答える。「祭りだよ」
銀魂 雪まつり
「銀魂」世界の狂乱はつねに鎮魂を伴う「祭り」や反体制への鬱積を伴う「カーニバル」的要素を含んでいるのだ。

日本語の俗語で、男女の性関係を「お祭」といいますね。お祭の本質を言い表しているように思えるのです。祭りには必ずセックスか食欲かあるいはその両方が伴っている。そういう生物的な根源のところにすでにお祭があって、やがて人間はいろいろ抽象作用のふるいをかけて、そこから信仰というものを編み出してきたのではないでしょうか

祭りと性と食も「銀魂」では物語の重要なモチーフになる。

また「銀魂」では、登場人物らが女装または男装する「異性装」や、歴史上人物の性別の逆転(「おかま」というのもある。)が多く描かれる。(ほんとに多い。前回でも触れた)
男が女装し女が男装するのはカーニヴァルにつきものであるし、「ええじゃないか」では「非日常的な女装・男装の男女の狂乱状態」(男は女装し、女は男装)であったといわれる。(ヤフー百科事典「仮装」の項目)には以下の説明がある。

ヨーロッパの伝統的カーニバルでは、異性装、動物装、異形装(想像上の怪物や道化の扮装をすること)、異階装(社会的身分を逆転させた扮装をすること)などがみられた。仮装の内容には多くのバリエーションがあるが、いずれの場合も、日常を構成するさまざまな階層的秩序(男/女、人間/動物、文化/自然など)を逆転あるいは無効にする重要な契機となっている。人間は、祝祭的空間のなかで、仮装を通じて非日常的で超現実的な存在になるのである。こうした仮装のもつ逸脱性は、たとえば「ええじゃないか」(異性装、踊り姿、半裸姿などがみられた)にみられるように、ときとして所与の文化的枠組みを超え、民衆運動の口火を切る契機となることさえある。


jxyosou
(女装する銀時と桂。ほかに柳生九兵衛や西郷など特殊な性別もこの世界では描かれる。)

「忠臣蔵とは何か」にすべてを要約したような一文がある。

「仮名手本忠臣蔵」によって味あうものは、御霊会=カーニヴァル的世界感覚とでも形容するしかない猥雑な静けさ、秩序感にあふれた混冥(こんめい)、感動と哀愁と解放と浄化である。

これはまさに「銀魂」を表している一文といってもよいであろう。

まだまだ続く。
次は「桜」、その次が「あの塔」だ。

追記
「銀魂いいよ~」とまわりに人に薦めたら、たまたま見たのが「ラブチョリス編の229話」だったらしい。
かなり引かれた。
まあ、サムライスピリッツ溢れるカッコいいバトルアニメだと思ったようだ。(映画版の「ワーさん、ナーさん」みたいに騙されたのか)
確かにこの回はヒドイかった。(褒め言葉です)
なにしろ主人公が全裸でモザイクが入るって。(ピー音、モザイク全開でしたね)
銀魂 モザイク
でも、まさにこれこそが「カーニバル」!
祭りの基本は「裸」ですから……。


「銀魂」考 第3回 鎮魂とカーニバル その1 「銀魂」は怨念を残した者たちの「鎮魂劇」である

「銀魂」考 第3回 鎮魂とカーニバル その1 「銀魂」は怨念を残した者たちの「鎮魂劇」である

前回からの続き  第2回 なぜ「銀の魂」なのか?

まず、井沢元彦「「井沢式日本史入門講座・4 怨念鎮魂の日本史」から。

物語というフィクションの世界の中で、現実には敗れた人々を活躍させる。それは、現実世界の競争に敗れ、恨みを持った魂を鎮めるためのひとつの手法だった。
こうした、現実とフィクションを切り離して使い分ける「顕幽分離主義」ともいうべき手法は、日本では鎮魂法のひとつとして古くから用いられていたものだった。物語の中なら、どうせ虚構なのだから、勝たせてやってもいいじゃないか、と考えた。つまり虚構と真実を使い分けたのです。


「銀魂」の登場人物の多くは、歴史上の人物をモデルにしている。
ここでは、名前を一文字変えたり、呼び名を変えたりしているが、元の人物は誰なのかは分かるようになっている。
これら、登場人物を見ていると奇妙なことに気付く。
怨念を残して死んだ者が多いのだ。

(登場人物名→実名……死因の順になっています)
近藤勲→近藤勇……斬首
土方十四郎→土方歳三……戦死
沖田総悟→沖田総司……病死
山崎退→山崎蒸……戦死
高杉晋助→高杉晋作……27歳で病死
河上万斉→河上彦斉……斬首
来島またこ→来島又兵衛……戦死
武市変平太→武市半平太……斬首
松陽先生→吉田松陰……斬首
徳川茂茂→徳川家茂……20歳で病没
坂本辰馬→坂本竜馬……暗殺
平賀源外→平賀源内……獄死
岡田似蔵→岡田以蔵……斬首
西郷特盛→西郷隆盛……自刃
柳生九兵衛→柳生十兵衛……死因不明、水死、惨殺

服部全蔵→服部半蔵……半蔵そのものは生き残るが、その後の二代目、三代目で改易等あって服部家は没落する。
(まあこれは、こじ付けぽいけど)

彼らは、この世に怨念を残して死んだ者たちだろう。
(銀時や桂、お伊勢らは「おくりびと」。これは後述する)

新撰組(真選組)一つとってみても、激動の時代を切り抜けて生き残った人物はここには出てこない。新撰組の中でも人気のある永倉新八、斎藤一、島田魁などは「銀魂」世界には登場しないのだ。斎藤一なんて有名な剣豪だから新撰組をモデルした物語では、当然のごとく登場してくる人物ではないだろうか。
しかし、ここには出てこない。
なぜ、近藤や沖田や土方なのか。

また、「銀魂」において高杉晋作こと高杉晋助は重要な人物である。この高杉が率いる鬼兵隊(奇兵隊)のメンバー河上、来島、武市、岡田は、まさに史実において悲惨な死に方をした者ばかりである。
高杉が出てくるが、同じ長州藩でも長生きをした伊藤博文や井上馨、山縣有朋は登場しない。
なぜ「銀魂」には無残な死に方した者ばかりなのか。

また、徳川家の将軍は、ここでは十四将軍家茂をモデルとした茂茂だ。なぜ家茂? 明治まで生き残った十五代将軍・慶喜ではないのだ。(まあ普通は最後の将軍をモデルにしそうだが)
なぜ、二十歳で病死(毒殺説・暗殺説まである)した家茂なのだろうか。

そう、この物語は、「銀魂」は怨念を残した者たちの「鎮魂劇」であるからだ。

さてここで、資料編です。
第9回  井沢元彦「怨霊と鎮魂の日本芸能史」などから。
細かいところはここを読んでもらうことにして、重要なところだけを引きます。

人はなぜ怨霊になるのか?
それは、この世に強い執念を残して死ぬからである。政治上の敗者となった、というのもあれば、思いを遂げることができなかった、というのもある。
それをできるだけ崇め、ご機嫌をとること、これを鎮魂といい、成功すれば霊は恐ろしい「怨霊」から人々を助ける「御霊」となる。
怨霊は天災(飢饉・疫病等)だけでなく人災(戦争・内乱等)をも呼び起こすものだが、御霊になると逆にそれを防ぐ方に回ってくれる。


分かり易いのは、アニメの86話、87話だろう。いわゆる「ミツバ編」といわれる回だ。
銀魂 鎮魂

簡単にストーリーを言ってしまうと、沖田総悟(総司)の姉・みつばは病弱であり、弟に看取られて死ぬ、というもの。
おっと、これはまさに史実とは正反対なのだ。
肺を患い、吐血し、死ぬのは沖田総司の方であり、それを看病し、看取ったのは姉の方だ。
つまり、「銀魂」世界では、生と死が逆転しているのだ。

これは生死だけではない。
長谷川泰三のモデルは長谷川平蔵となっているが、幕府内で出世しメキメキ仕事をした平蔵とは違い、長谷川泰三は幕府をクビになり、いまや「まるでダメなおっさん」こと「マダオ」と呼ばれている。
武蔵という人物も時たま登場するが、これは宮本武蔵をモデルとしているという。この武蔵(ぽい人)はホームレスだ。
つまり、ここでは人生の盛衰までもが逆転している。

それに、坂本竜馬をモデルにした坂本辰馬は「銀魂」世界においては、宇宙を駆け巡る商人になっているし、史実では悲劇的な死を迎えている近藤、土方、沖田は「銀魂」世界では、幕府に仕える役人(警察)になって大活躍しているのだ。
つまりこれは彼らが生きていたなら願っていた世界ではないのか。
資料編 第8回  「怨念の日本文化 幽霊編」から。

日本の幽霊たちは、実に様々である。そこに、明暗ともにきわまりない日本及び日本人の複雑な陰影の陰を見ることができるのである。
日本の幽霊たちに共通しているのは、それらが、すべて、〈一度は死んだものたち〉であって、もともとは、〈人間そのもの〉にほかならなぬものたちであったという点である。にもかかわらず、生きている間は不運に見まわれて、人間の世界から疎外されたものたちなのである。
霊界にあって、神でも仏でもなく、永遠に低迷しつつ、常に人間を恋しがっているもの。それが幽霊なのである。従って幽霊は、人間にもっとも遠く、そして人間にもっとも近い。

幽霊は、この世の人々に語りたい多くの〈言葉〉を待ち続けていたし、それをいつまでも〈語り〉続けてほしいと願いつづけていたのである。


「仮名本忠臣蔵」が新田義貞及び新田一族の「鎮魂劇」であるように、「銀魂」とはまさに現実世界の競争に敗れ、恨みを持った魂を鎮めるため「鎮魂劇」なのだ。
以下、  資料編 第26回 鎮魂の芸能から、小松左京・石毛直道・米山俊直 対談「人間博物館 「性と食」の民族学(エスノロジー) 」(文藝春秋)の一部を引く。(これは面白いので、元の記事を)

「祭りの芸能」には、「神を楽しませる」芸能のほかに、「浮かばれぬ死者をなぐさめる」芸能があるような気がしますね。

彼らの栄光や悲劇を再現というか「再生」し、ともに泣くことによって、「表」で祭れぬ霊を慰撫する
盆踊りのように、共同体の人間自身が「依りしろ」になるより、「人形」とか、専門の「俳優(わざおき)」が依りしろになって、「死者の悲劇」を再生してみせる


で、以下資料編 第9回の井沢元彦の「怨霊と鎮魂の日本芸能史」から。

それは「芸術」で怨霊を鎮魂し、人のためになる善神すなわち御霊に転換させることだ。
「芸術」といったのは、それが必ずしも芸能つまり歌舞音曲に限らないからだ。
たとえば、慰霊されるべき怨霊を絵巻物に描くという方法もある。「あなたはこんな立派な人でした。あなたはこんな素晴らしいことをなさいました」と、絵画の上で、「顕彰」するのである。たとえば菅原道真が「天神」になった経緯を描いた「北野天神縁起絵巻」などはこれにあたる。

物語というフィクションの世界の中で、現実には敗れた人々を活躍させる。これが鎮魂である。これを、昔は文学や絵巻、能などで行った。
今なら、映画やドラマとアニメとなるだろう。

では、主人公の坂田銀時は、この物語でどんな役目を負っているのか。
それが一番よく分かるのが、スタンド温泉編(アニメ131話~134話)であろう。
ストーリー説明では「霊が巣食う幽霊旅館へ来た銀時達。霊が見えるのは銀時と新八。銀時は選ばれた生身の人間として、幽霊「レイ」達のサポートでスタンド使い・お岩と戦う。」とある。
その、お岩(「千と千尋の神隠し」の湯婆婆の役どころ)にこんなセリフがある。
「スタンド(幽霊)を倒すという行為は、腕力をもって敵をねじ伏せることでも、頭を使って罠にはめることでもない。
すなわち成仏。
この世に未練を残しさまようスタンド(幽霊)たち。奴らは従属感や幸福感を得て初めてあの世に行ける。死んだ奴はあの世に行くのが自然の摂理だと?そうさ、その通りさ、だが、落ちる水がすべて盆に収まるとは限らない。どうしてもこぼれ落ちてしまう奴だっているんだ。どうしたって未練を断ち切れな奴がいる。どうしたっていえない傷を持つ奴がいる。ここにはそんな行き場のない亡者たちの唯一の場所なんだ」
成仏させる銀さん
この彷徨える霊を銀さんは「千の風になって」を歌って成仏させる、というギャグで笑わせてくれる。(よく、放送できたよね)

まさに、神道でいうところの「鎮魂、たましずめ」、仏教でいうところの「成仏」、キリスト教でいうところの「昇天」なのだ。


そういう視線で「銀魂」を見て行くと、主人公・銀さんの役目は、勧善懲悪でいうところの、ただ悪者をやっつけるといった単純なものではないのだ。
鳳仙・夜王、地雷亜、竜宮城の主・乙姫、魔死呂威組の中村京次郎などなど、彼らは銀時と戦いながらも、最後には魂の浄化を行っている。

そう、「銀魂」はまさしく「鎮魂」の物語なのだ。

神楽 どじょうすくい
画像は、彷徨える霊を成仏させるために、銀さんは三味線を弾き、神楽と新八は「どじょうすくい」を踊り、お妙は酒でもてなすという場面。これまさに、「天岩戸」だろう。資料編第27回  第27回「 日本人“魂”の起源」から、「たまふり」について。でまとめたように、これは、「岩戸の前でさまざまな鎮魂(たまふり)の儀式が行われる」というそのものなのだ。)

まさに、鎮魂に必要なのは、「バカ騒ぎ」なのだ。
だから、「銀魂」では「バカ騒ぎ」が繰り返される……。

……続く。

資料編  第27回「 日本人“魂”の起源」から、「たまふり」について。

資料編の追加 
第27回「 日本人“魂”の起源」から
上田正昭「日本人“魂”の起源」(情報センター出版局)から。
上田正昭「日本人“魂”の起源」

鎮魂、その言葉のひびきに、人は死の静寂を感じるでしょう。事実、タマシヅメ(鎮魂)の語感には、しじまの気配がつきまといます。
「タマ」の衰微が「タマシヒ」です。衰微した「タマシヒ」を振起するのが、「タマフリ」です。
唐突にみえる鎮魂=タマフリ説はたんなる思いつきではありません。宮廷における鎮魂の初見は、「日本書記」天武天皇十四年(685)十一月の条です。同年の九月から天武天皇の病状が悪化して、太陽の活力が衰えると信じられた十一月(冬至のころ)に、鎮魂の祭儀が行われました。この十一月の鎮魂祭は、その後も長く宮廷の秘儀になりましたが、天武天皇の招魂を。古訓は「ミタマフリ」とよんでいます。
(中略)
古代の人びとにおける鎮魂は、決して静かなる行いではありませんでした。むしろ、衰微するたましいを甦らすあらわざだったのです。平安時代の記録に描かれている鎮魂の呪法も、御巫が鉾や賢木をもって桶をつく所作をともないます。たましいを鎮めるのではなく、逆にたましいを発動させるのでした。
生者のための鎮魂は、死後の世界にも投影されます。通説と異なって、ケガレ(褻枯れ)ゆくたましいを振り起こして希求するタマフリが、死者に対する鎮魂のはじまりです。人は死してすぐに埋葬されるのではなく、身分によって差異はありますが、ある一定期間、屍を安置して仮の葬儀(殯・もがり)をいとなみます。このタマシヒと振起するタマフリで大切なのは、死者の魂を継承する“ひつぎ”でした。“ひつぎ”なき死霊は、怨霊の世界にとどまります。葬送のさいの鎮魂も、死者との断絶を意味するものではありません。鎮魂によって生と死とが連続していたのです。

死霊はまつりによって祖霊に昇華します。死霊に“たま”を呼び戻すこと、それを通路として、死霊は、“たま”の世界によみがえってきます。死霊はただちに守護神とはなりえません。それはおそるべき〈デーモン〉であり、非業の死霊は怨霊となりました。魂呼ばい(たまよばい)や鎮魂などの通過儀礼が、死者の世にも必要になります。“たましい”のよみがえりへの期待がタマのまつりを生み出したのです。
民間の習俗に今も残留する、“トムライアゲ”や“トイキリ”などは、それらのイミアケ(忌みあげ)じたいが、死霊が祖霊になる殯の終わりをつげるものでした。鎮魂のための歌舞飲酒の行事を“アソビ”といったのも、それが魂呼ばいのための芸能であったからです。

静よりも動。そこに日本人のいのちの思想があります。山川草木にいのちを認識する生命の観念は、この“たま”観の拡大でした。天台宗のもと築いた最澄が説いた“悉皆有仏性”や、真言宗をわが国に開いた空海が強調した“即身成仏”の教説が受け入れられた土壌もまた、このような“たま”のいのちに育まれたものでした。生霊の働きは、古代人の知恵では、和魂・荒魂・幸魂・奇魂などと表現されていますが、荒魂もまた浄なる“たま”の側面でした。荒魂は悪霊ではありません。動の“たま”でしたから、説話化された神功皇后伝承でも、和魂と荒魂とをまつることが、同時に必要とされたのです。
「禍津日(まがつび)」と「直昆(なおび)のありようも同様です。
まがなる“たま”はいわゆる悪霊ではありません。それは強烈なる“たま”の働きを“まが”と認識したのであって、「禍」という漢字の既成概念で解釈したのでは、古代人のこころとはほど遠いものになります。禍津日神は、強烈なる神であるがゆえに、狂暴な働きをなすと信じられてきました。
(中略)
後代の不浄観からすれば、「荒」や「禍」も不浄なる状態にふくまれるかもしれません。しかし古代人にとっては、「荒」や「禍」の「タマ」にはいのちが躍動する側面がありました。そのようなたくましい生命観は、古代の信仰と祭儀のなかで、大きな役割をもつ鎮魂にきわだっていたのです。

主に「たまふり」に関する部分を引いてみました。
神道、日本人の思想で、こういう「たましい」に関する部分は本当に面白いと思う。
「和魂と荒魂」なども過去記事「自己の感情コントロール その4 資料編20回目 心理学も脳科学も神道もアンパンマン考も同じことを説いている」にまとめたように心理学・脳科学と同じ様なこと言っているので、驚かされる。

「たまふり」は「鎮魂」である。Wikipediaからそのままコピペすれば

鎮魂(ちんこん、たましずめ)とは、人の魂を鎮めることである。今日では「鎮魂」の語は、死者の魂(霊)を慰めること、すなわち「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられる。しかし、元々「鎮魂」の語は「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式を指すものであった。広義には魂振(たまふり)を含めて鎮魂といい、宮中で行われる鎮魂祭では鎮魂・魂振の二つの儀が行われている。
神道では、生者の魂は不安定で、放っておくと体から遊離してしまうと考える。これを体に鎮め、繋ぎ止めておくのが「たましずめ」である。「たまふり」は魂を外から揺すって魂に活力を与えることである。
なお、津城寛文は、著書「折口信夫の鎮魂論」(春秋社、1990年)で、鎮魂とは神道の根本となる、一般に考えられているよりももっと大きな思想で、折口の有名なマレビト論も鎮魂論で置き換えられる、と主張している。

とある。
ヤフー百科事典では「天岩戸」の項目に「たまふり」が出てくる。

イワトは岩の戸、転じて貴人の墓の戸をいう(『万葉集』418~419)。神話で、須佐之男命(すさのおのみこと)の乱行を恐れて、天照大神(あまてらすおおみかみ)がこもった高天原(たかまがはら)の岩窟(いわや)の戸。天照大神がこの岩窟にこもるのは、日神、穀母神であるこの神が生命力を回復して再生するためといい、岩戸の前でさまざまな鎮魂(たまふり)の儀式が行われる。飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にあった御窟殿(みむろのとの)(天武(てんむ)紀)は、天皇の鎮魂を行う神話上の天岩屋の遺象かという。天岩戸の神格化に天石門別神(あめのいわとわけのかみ)があり、奈良県高市郡高取町越智(おち)にこの神を祀(まつ)る天津石門別神社(式内社)がある。

なるほど、なるほど、日本人の「魂」の考え方ってほんと面白いわ。
こういうの思想は抜きにしても、学校で教えてもいいと思う。身近にある神社や日本人の考えてきたことを知ることは大切だ。
そして、震災を味わった今の日本人、放射能の後遺症に悩むことになろうこれからの日本人には、特に必要となるだろう。

資料編の追加 第26回 鎮魂の芸能

資料編の追加
第26回 鎮魂の芸能
小松左京・石毛直道・米山俊直 対談「人間博物館 「性と食」の民族学(エスノロジー) 」(文藝春秋)から。


米山ーーどっちにしろ「祭りの芸能」には、「神を楽しませる」芸能のほかに、「浮かばれぬ死者をなぐさめる」芸能があるような気がしますね。それは「めでたい」、「ハレの」奉納芸に対して、むしろ、「悲しい」というか、「不吉な」というか、「夢幻的」なものだった……。
小松ーー盆踊りのように、共同体の人間自身が「依りしろ」になるより、「人形」とか、専門の「俳優(わざおき)」が依りしろになって、「死者の悲劇」を再生してみせるわけか……。
石毛ーーその俳優(わざおき)ですがね……。昼間奉納される滑稽劇の中には、やはり一種の「敗北のドラマ」がふくまれていることがある。隼人族の服属儀式といわれる隼人舞いには、隼人族が天皇家に退治され、溺れ死ぬなんてシーンがあったそうですが……。
小松ーーそりゃ、「神の御前」では、「神威に負けてみせる」ことが、相手をいい気持ちにさせ、たのしませることになるんだろう。そんなのいっぱいあるよ。岩戸神楽の一種の「ヤマタノオロチ退治」とか。神様の前では追儺雛みたいに、「鬼は外」とやられて、「ごもっともさま」と負けてみせることによって、「われわれは、このとおり、あなたにやられたときのことをよく覚えています。あなたの強いことは忘れていませんから、反抗はしません」という表現をしてみせる。
米山ーー敗戦記念日の行事に、駐留アメリカ軍の司令官を招待するようなもんですな。
小松ーーしかし、それでは共同体の側の「悲劇の英雄」が浮かばれん、というので、一つの「裏文化」として、彼らの栄光や悲劇を再現というか「再生」し、ともに泣くことによって、「表」で祭れぬ霊を慰撫する……。
石毛ーーなるほど、すると、そういう「芸能」は、日本の律令制がすすんで「御霊信仰」というか、「怨霊」の思想が広がり出すと、しだいに一般化、定着化してくるわけですか。
(中略)
石毛ーー……、たしかに能なんてそうですね。現代的な事件をあつかったものもあるが、たいていは「夢幻能」ってやつで、ワキが旧跡を訪ねると、前ジテが由来を説明し、その後ジテは、幽霊となって出て来て、当時の悲劇を再現してみせ、あとを「よろしくとむらい候え」ってあの世へすっこんでく。
小松ーー近世の歌舞伎もそうだ。歌舞伎踊りのほうは、女が、男の格好をし、男が、女の衣装をつける。衣装交換(トランスペテイスム)というのは、「もの狂い」の一種で、何かの「物の怪」や「霊」にとり憑かれた状態をあらわすし、人形浄瑠璃にいたっては、題材が、説経節や祭文から来たとはいえ、ほとんどが悲劇、非業に死んだ者や、「敗者」が主人公だ。
米山ーー近松の「心中もの」、民衆の「判官びいき」の典型的な現れである「義経千本桜」、あるいは「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」、言われてみれば、ほとんどそうですね。
石毛ーー「忠臣蔵」の「大序」で鶴岡八幡宮社頭にずらりとならんだ登場人物が、義太夫の文句の中で名前を言われるたびに、一人ずる「魂」が入って、人形ぶりで「生きて」くる……、あそこのシーンはなんとも象徴的だなあ。
小松ーーまさに、木をつなぎあわせた木偶にすぎない「人形」に、死者の霊がとり憑いて、「仮の姿」でよみがえり、生きていた当時の「悲劇」を再現してみせる。ーー見物衆が、それを見て一喜一憂し、あるいは現実の「勝者」である悪役を恨み、嘲笑し、あるいは主人公のために「涙する」ことによって、死者の修羅の妄執をいくぶんとも晴らし、慰め、祭るというわけだね。
米山ーーなるほど、心中ものが多いのは、心中死したものは、それぞれの家で、表だって祭るわけにいかんからね。
小松ーー「神」の「威光」が君臨する、「表ハレでは、討ち平らげられ、やられたもの、あるいは、「非業の死」「不浄の死」を遂げて、そういう「めでたい」ときに、神といっしょに、なぐさめるわけにはいかないもの。そういった「悲運の霊」が、「裏ハレ」の世界では、主人公になり、悲壮美の英雄になり、あるいは超人的強者になり、心中の悲劇美の実現者になる。
歌舞伎の世界に、のちに「幽霊」が登場するが、じつは「能」「歌舞伎」そのものが「幽霊」の演ずる「永遠の現在ドラマ」だと考えたほうがよさそうだ。
石毛ーーあんまりその「永遠の妄執」の世界に引きずり込まれては、あとで本当に観客の身の上に不吉なことが起こったりすると大変だからーー何しろこういう「芸能」は一種の催眠術みたいなものですからねーーときどきアクチュアルな現実生活に題材を取った、滑稽な「幕間狂言」をはさんで、観客を正気に戻しておく。でないと、テレビで視聴者が催眠術にかかったまま、解けないときみたいなさわぎが起こる。


関連資料
第8回  「怨念の日本文化 幽霊編」から。
第9回  井沢元彦「怨霊と鎮魂の日本芸能史」などから。
第10回 資料編10回目 丸谷才一「忠臣蔵とは何か」 その1
第11回 資料編11回目 丸谷才一「忠臣蔵とは何か」 その2

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