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木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1

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木戸孝允のいいところをどんどん書いていく、その1
これは、資料編の23回目となります。
過去記事としては、「桂小五郎のカッコいいところをどんどん書いていく!」のときに、桂小五郎時代のいいところを書いたので、今回以降は木戸孝允時代から拾っていきます。
ほかに木戸孝允の関連記事としては、
日光の関係者は木戸孝允を、歌舞伎関係者は井上馨に、少しは感謝した方がいいじゃない。
吉田松陰の魂はどこへ
となっています。

ということで、引いていくのは、木戸孝允の生涯を描いた名著、村松剛「醒めた炎」(中央公論社)から。
村松剛「醒めた炎」
「醒めた炎」はいい本ですよ。
幕末・維新の流れを掴むには最適な本だと思う。(諸外国の思惑やキリスト教と日本の関係もよく分かった。)
特に後半、木戸孝允側から明治維新を見ると、大久保・西郷らの薩摩側から見るのとはまた違って、この時代の動向がよく掴める。
司馬遼太郎が、「明治になってからの木戸は大した働きがない」とよく書いていますが、そんなことはない。木戸が明治維新の中心的役割を担っていたことがこの本でよくわかります。(司馬が良く使う技法で龍馬や高杉や西郷・大久保を英雄的に描くために、それに対する人物を作為的に悪く書く。木戸をはじめ伊藤博文や井上馨なんてヒドイもんです。)

この本は、図書館で借りて一読して、気に入ったので、アマゾンで購入。(古本で、文庫1・2巻と単行本の下巻の変則で入手。文庫版第4巻は定価が千円くらいなのに、今は1万円近くもする。)
この名著が絶版とはどういうことですか。ただちに復刻をお願います。
今回、ちょっと引用しようと読み返してみたら、付箋だらけ、ドッグイアだらけになってしまいました。
醒めた炎 付箋

ほんとなら全文引用したいくらいですが、今回は必要なところだけを順序関係なく引いていきます。

1、木戸孝允の人柄

①「桂は温和で紳士的な態度において、きわだった人物だった。しかしその背後には軍事的にも政治的にも最大の勇気と決断力とを蔵しているのである」アーネスト・サトウ「日本における一外交官」

②岩倉は大久保利道にたいしては、若い微士を呼ぶときと同様に、「大久保」と名前を呼び捨てにしていた。それが木戸の場合は、「木戸さん」である。長州藩の児玉愛二郎の談話によると、「木戸さん、といって「さん」の辞をつけて(岩倉が)呼ばれるのは、実に木戸公ばかりである」

③「新聞雑誌」は、木戸の発案によって創刊された。彼は前年の暮に品川弥二郎に宛て出した手紙で新政府の役人の頑迷さを嘆き、「みな政治あっての人民の心得にて、人民あっての政府あるを悟らず、嘆息しごくにござ候」開化の推進には民衆啓蒙のための情報機関が必要であることを、彼は力説した。
「一つの新開局をあひ開かせたく、内国のことはもとより外国のこともことごとくわが人民の心得にあひなり候やうのことはすべて記載させ、偏国偏藩にいたるまで流布つかまり候やういたし候へば、自然と人民誘導の一端ともあひなり申すべく候」
新聞局は政府が直接開設するのではなく、刊行は民間にゆだねて政府批判の記事もときには掲載するようにしなくては、読者の信頼は獲得できないとも木戸はいっている。


そして、面倒見の良さから木戸のところには人が集まってくる。

①使節団の一行は七月十四日にリバプールに上陸し、汽車で同日の深夜ロンドンに着いた。青木と林とが木戸を訪れたのは、翌々日の十六日だった。
ロンドンには木戸の養子正次郎(妹の子)が、前年いらい留学している。また木戸のロンドン到着を知って多数の長州系の在英留学生たちが、毎日のようにホテルを訪ねて来る。
「頃日客絶えず、あたかも東京の家のごとし。」(「木戸孝允日記」)
ホテルの彼の部屋は、書生の溜まり場のようになった。

②陸軍小佐・桂太郎(のちに大将、首相)がドイツから帰国したのが、……独身の桂は、帰国後しばらく木戸の邸に寄宿する。
参謀局を行政から分離すべきであるという建議書を、桂は木戸の邸に寄寓しているあいだに書いているのである。木戸の邸には山田顕義(陸軍中将、のちに日本大学を創設)、鳥尾小弥太(陸軍中将、のち子爵)、三浦梧楼(陸軍中将、韓国公使で大正時代の政界の黒幕)などが寄宿していた。

③(陸奥宗光について)薩長中心の政府にあって、海援隊出身の紀州人を、政府は仇敵視した。それでも木戸は陸奥の資質を買い、島津、岩倉両大臣からの強硬な反対にあっても彼の登用の件は頑として譲らなかった。

④大隈重信はこのころ木戸に傾倒していて、「真に木戸の書記のごとし、」と佐々木高行が日記に書いている。

木戸が部下を引き上げて推薦したり、若い軍人や書生や下級役人を木戸の家に寄宿させたり面倒を見ていたといった話はほかにも随所に出てくる。これは長州出身者に限らなかった。だから木戸を頼ってくる人も多かったのだ。面倒見の良さは、吉田松陰の影響が大きかったのではないだろうか。そういう意味において木戸は最も松陰の精神を継承しているといえる。(松陰の狂の部分は高杉晋作が受け継いでいる。木戸と高杉は実に対照的だ。)

2、送り人としての木戸孝允

①高杉の死を聞いて、「国家の一大不幸」「悲嘆に堪へ申さず候。」と河瀬安四郎宛の手紙に綴った。
安政以来の同志は、もうひとりもいなくなった。
明治になり、萩から下関へ向かう途中、周布と高杉の墓を詣で、ついでに高杉の愛人だったおのうを見舞っている。おのうは喜び、彼のあとを追って長崎までついて行く。
髪を落として、おのうは梅處と名乗っていた。高杉とおのうとの二人をかくまっていた日柳燕石はその姿を見て感慨にたえず、「故人は鬼となり美人の尼」と詠じている。……燕石は三年前に二人を長州に逃亡させたあと捕らえられて獄中にいたから、高杉の墓所はこのとき木戸に案内されてはじめて訪れたのである。

②中島三郎助父子の戦死を知らされた。(中島は小五郎時代の木戸に造船術の手ほどきをしてくれた男であり、剣の斎藤彌太郎、兵法の江川太郎左衛門とならんで、三人の恩師のひとりだった)
……函館の戦いの報告をききながら盃に口をつけようとしていた木戸は、中島の戦死を知ると盃をおいて嘆息し、その夜は酒を口にしなかった。古武士のような中島の性格を知っていただけに、こうなることを彼はまえから危惧して、前年の秋に天皇に供奉して東京に来たときには中島の所在をさがしたのである。
しかし当時すでに中島は、艦隊とともに北方に去っていた。
「もし面会することを得て維新の真意を語り知らせたら、あのような人物を殺さずにすんだであろう。」
そういう嘆きを、木戸はのちのちまでくりかえす。彼は中島の娘のお六を明治九年にひきとり、自分の養女にしようとまでした。

③大村益二郎が死んだという報を東京できいた木戸は、悲嘆のあまり声も出なかった。「実に痛歎残意、かなしみ極て涙下らず、茫然を失うがごとし」(日記、十一月十二日)
大村に彼がはじめて会ったのは吉田松陰の江戸送りの少し前だから、十一年のむかしになる。それいらい大村をつねに「先生」として遇し、藩に推挙してついに新政府軍政の中軸に座らせた。
木戸が本当に気を許して話のできる相手は、長年の子分の伊藤博文をべつとしていまは大村だけだった。二人で兵制の大改革に乗りだそうとしていた矢先の死であり、まさに「茫然自失気を失うごとし」の思いであったろう。

④木戸は広沢の死を告げられたとき、しばらく声も出なかった。
兄弟を失ったよりも悲しいと彼は日記に書き、広沢から最後に受け取った手紙を読み直しては涙を流した。この手紙で広沢は、廃藩置県こそが富国強兵の基礎であると論じている。……版籍奉還には消極的だった広沢も、この時期には日本の自立自衛のみちは封建制を根絶するほかにないと、考えるにいたっていたのである。大蔵、民部両省の分割問題では彼は大久保のがわについたとはいえ、その件を除いては木戸にとってつねに貴重な政治的伴侶だった。
木戸が長州出張のために数ヶ月東京を留守にしたときは、広沢はいくども留守宅を見舞い、松子(幾松)の相談相手になっている。木戸が明治二年の夏いらい閣外にいられたのも、広沢が長州藩の代表として参議の席に座っていたおかげだった。……広沢が第一の標的とされたのは、脱藩兵騒動の処分にあたったことのほかに、参議兼民部省御用係、東京府御用係として、政府内での権勢が巨大化していたからだろう。木戸の身代わりをつとめて殺された、といえなくもない。それだけにいっそう、木戸の気持ちはつらかった。
木戸は犯人検挙のため臨時裁判所を開かせたり、密偵を雇い事件捜査を続け、その努力は死ぬまで放棄することはなかった。

⑤山口で毛利敬親が死去した。木戸は悲嘆にくれ「痛歎のいたり悲泣言語に絶し候」(日記)

そして靖国神社建立の件もいい。

⑥招魂場の発案者は大村益次郎だった。長州には殉難者、戦死者の招魂場が元治元年いらい約二十箇所につくられていて、そのいわば中央版が東京の招魂場になる。
大村はこのころすでに、徴兵制度による国民軍の樹立を考えていた。諸藩の藩兵を廃止して国家の軍隊に改編する以上、戦没者への慰霊の祭儀も諸藩によってではなく、当然国民的規模において行われなければならないだろう。
木戸は大村の提案にただちに賛同し、議定、参与たちを説いた。維新以後の木戸は死んだ友人知己の上に思いをはせることが多く、「夜坐して亡友を思ふ」と題する詩を書いたりもしている。
「一穂の寒燈眼明を照らす  黙坐沈思無限の情  首をめぐらせば知己人を見ず ……  世難多年萬骨枯る」
吉田松陰、周布政之助以下、長州藩の古くからの志士は殆どことごとくが難に倒れているのだから、「萬骨枯れる」の感慨は彼の場合ひとしおだったであろう。
招魂場の設立は驚くほどのはやさですすめられた。大村が木戸に会って計画を説明したのが六月四日であり、十日には政府がこれを承認して二十九日に九段坂上で開場の式典が挙行される。
最初に合祀されたのは、戊辰の役の戦死者三千五百八十八人の霊である。祭主は仁和寺宮嘉彰親王が務め、勅使の差遣があったあと相撲の奉納仕合も境内で行われた。
正式の名称は招魂社で、のちに靖国神社と改められるのだが、当初の長州人のいい方にならって招魂場とも呼ばれた。七月四日には花火が打ち上げられ、木戸の日記によれば、「昼夜群衆、人聲暁にいたりてやまず」
深川の色町が明治三年に火事で焼けたとき、岡場所をほかに移すという噂が広まり、心配した妓楼の主人や関係者数百人が毎晩提灯をさげて招魂場を日参した。

「維新以後の木戸は死んだ友人知己の上に思いをはせることが多く……」といった彼の心情を思うとこちらまで胸が痛くなる。木戸の心の中には常に「生き残ってしまった」という意識が常にあったのではないのか。
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし  生きて大業のみこみあらばいつでも生くべし」として生きて大業を成した木戸だが、生き残ったことで、先に逝ってしまった人たちのいろんな思いや願いや大望までも、すべて背負ってしまったことになる。
1877年・明治10年に大病を患って木戸は没するが、そのとき45歳だった。
若い。若過ぎる。
木戸孝允の人生とは、まさに気苦労の多い一生だったのだ。
そして、靖国神社といえば桜が有名ですが、ここに桜の木を植えたのは木戸孝允だった。
靖国神社 木戸
「靖国神社と桜の縁は古く、明治三年、木戸孝允公によって神苑に染井吉野が植えられたのが始まりと伝えられています。
現在、靖国神社の境内には、染井吉野をはじめ、山桜・寒桜・富士桜・緋寒桜・枝垂桜・ウコン桜など約六百本の桜があります。 その中には、東京の桜の開花を観測している標本木が含まれており、標本木に五、六輪の花が咲くと気象台から東京の桜の開花が発表されます。」とある。

鎮魂に桜……、サムライに神社……。
靖国神社 木戸孝允画像はここから。「http://www.tachikawaonline.jp/local/sakura/tyo_17_chiyoda_yasukuni.htm
木戸孝允さんはいい人です。

続く……。
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消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


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