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木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その2

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木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その2
前回の続きで、今回は資料編の24回目

村松剛の「醒めた炎」から引いていきます。

1、木戸孝允と福沢諭吉。

木戸が病床につく少しまえに福沢諭吉が九段坂上の邸を訪れ、これ以上職にとどまっておられても衆人の恨みを買うだけですといった。(当時、征韓論で木戸は急進派と保守派の板挟みとなっていた。)福沢は木戸と文部大輔田中不二麿の紹介で知り合い、三月いらいくどか会っている。
木戸の漸進主義が、この啓蒙家には理解できた。それだけに木戸が非難の集中砲火を浴びながらなお大久保を協力している姿が見るにしのびなかったのである。
福沢の厚情に、木戸は感謝した。
「余、実にその心切(親切)に感ずるといえども、」いまはやめるわけには行かないと、その日記のなかでいう。

なるほど、木戸と福沢の考え方は似ていると思う。それが良く表れているのが両者の「天皇観」であろう。

(トルコの革命など)これらの一連のことがらが、皇室の問題を木戸に改めて考えさせた。明治政府は天皇という歴史的な権威をいただいて反対勢力を封じ込め、矢次早の改革を断行して来た。
その肝心の皇室がヨーロッパのどこの国の王室とくらべても貧しく、皇室の子弟教育さえろくに行われていない。焼失した宮城再建のめどさえ立たないのは日本自体が貧乏だから仕方ないとしても、史上最初の東北巡幸のために用意された御手許金もわずかなものだった。
各地の開発功労者や病院などの下賜された金額は、水害にあった二百十八箇村への撫恤金四千五十円を含めて、総額八千円にみたない。御下賜金の件数は、約二十件だった。(「明治天皇紀」による)
八千円は参議一人の年俸を、多少上回る程度の金額である。宮廷費が宮内省予算の枠内にあるかぎり、御手許金を多くはつかえないだろう。
政府は人民のための政府であるという木戸の日ごろの信条からいえば、皇室も人民とともにあらねばならなかった。しかも民心は、急速に変化して行く。
明治四、五年のころは幕藩体制への復帰を求める一揆が各地で起こっていたのに、いまは小学生の子どもが天皇の権限を口にしている。皇室の威信をたかめ、皇室と国民とのつながりをつよくするためには、皇室自体の財産をつくって御手許金をふやし、適宜国民の福祉にまわせるようにしておかなければならない。
木戸はそのことを岩倉に、書面をもって上申した。
「帝位の貴重を保ちなされ候己上は、おそれながら皇室相当の富有は占隨せられて、王子貴族も実にその御品位ござなくては何をもってその貴重なるものを保ちなされ候や」(七月二十四日付)
学校や貧民院、病院等を時機に応じて援助できるだけの内帑金は、つねに準備しておく必要があると彼はいう。

これと同じようなことを福沢諭吉は「帝室論」で書いている。
その部分は過去記事で引用しているので、そちらを参照してください。「勝間和代の「皇室はコスト問題」発言にモノ申す。
また、「学問之独立」「帝室論」には、皇室が文化・学問・芸術の保護者となるべきといった主張があり、これも木戸と同意見であった。過去記事・「園遊会」と「福沢諭吉」

これらは、現在の皇室(サヨク用語的には天皇制)を考える上で大切なことだと思う。
日本の歴史・伝統の象徴として、文化概念としての天皇……、日本の偉人たちはみなこれを考えた、福沢諭吉然り、三島由紀夫然り、新井白石然り、戦前の偉大な哲学者、西田幾太郎や和辻哲郎たちもだ。(これらの人々の主張はあとでまとめてみたい)
上山春平「日本の思想 土着と欧化の系譜」(岩波書店)にこんな一文がある。「明治のリベラリストは、透明な近代主義者でもコスモポリタンでもなく、江戸時代の文化と習慣をたっぷりと身に付けた強烈な愛国者である場合がむしろ多かったのである。そういった人物が、祖国を愛するがゆえに政治や学問の近代化を主張したのである。」
これに代表される人物が福沢諭吉だが、木戸はこれにかなり近い思想であった、と思う。

さて、次は、2、木戸の政治スタイル

①木戸がやかましく抗議したせいか留守政府は元帥の階級を一年足らずで廃止し、明治六年五月に西郷を改めて参議兼陸軍大将に任じた。つまり元帥が大将に、降格された。
しかし木戸としては元帥だろうと大将だろうと、そもそも政治家が現役の軍人を兼ねることが気に入らない。政治家と軍人の職分を分けるのが文明国の「政体の美」であり、日本もこれを見習うべきであると、木戸は海外に出るまえから山縣に説いていた。
軍の采配は欧米諸国では「帝王の隊は帝王、共和の国はその統領」が握っていると彼はいう。それを考えれば日本の統帥権は、元首である天皇に直属しなければならない。明治憲法によってのちに明文化される統帥権構想を、彼は主張したのである。
統帥権は昭和に入ってからは、逆に軍人による国政専断の道具に使われる。明治憲法をつくった人々には、想像もできなかった事態であろう。
政治家が兵権を握れば、軍は一政治家の私兵になる。木戸はそれを恐れて、西郷が近衛都督、陸軍元帥(後に大将)に任命されたとき猛然と反対したのである。

文化の象徴である天皇に軍の統帥権を持たせるべき、という考え方は福沢諭吉や三島由紀夫にも通じる考え方なのだ。これは福沢も何度も主張しているところだ。ただ三島がこれを言うと「天皇に軍隊なのか」とサヨクに非難され、世間では曲解されている。いまこういうことを考え直す時期にきていると思う。
これを説明するのは容易ではないから省略するが、木戸の理想としたことも、福沢諭吉の考えていたことに近いということだ。

では、岩倉使節団や征韓論のころの木戸の政治スタイルを拾ってみましょう。


②彼は青木周蔵を助手に、ヨーロッパ各国の政治制度をしらべてから帰るつもりでいたのである。諸省間のいがみあいの調整などよりは、日本の将来のためにその方がはるかに大切だとこの男は思っている。

③セント・ペテルスブルグに滞在中に、青木周蔵が一夜眠れないままに地方行政についての本を読んでいると、木戸が突然部屋に入って来て、「何を読んでいる」
青木が大要を説明すると、「ちょっと待ってくれ」
自室に引き返して筆と硯を持参し、青木の訳読する文章を筆記しはじめた。使節団は欧米諸国の諸施設を、国会、裁判所、学校、兵器工場から孤児院、動物園にいたるまで、驚くほど精力的に見てまわっているが、とくに渡欧後の木戸の勉強ぶりは全権副使というよりは留学生に近い。
「木戸翁回歴中すこぶる勉強にて、各国の形勢にも熟通につき、……」と伊藤博文は大久保利道宛の手紙でいう。

③木戸は萩で山田顕義からの書状を受け取り、薩摩系の対清強硬論が堂上を支配していることを知った。木戸は憤激してその日記に「天下蒼生のため慷慨にたえざるなり、数百年の進歩を妨害することこの一挙にあり」
帰郷後木戸は、貧窮した士族や脱隊騒動の救済に奔走していたのである。物価の高騰と減封とによって武士の生活は逼迫していたが、ことに諸隊騒動に加わった兵たちはわずかな賞典禄を召し上げられ、毎日の食事にこと欠く状態だった。
木戸の帰国をきいて脱隊兵の残党があい継いで彼を訪れ、その窮状を訴えた。木戸は同情して、旧知のものには当座の生活費を与えている。伊藤博文宛の彼の手紙によると、
「僕一身にとり候ても旧知縁者のために散財せしこと数百金、世間の事情は少しも相変わらず飢餓日に迫り候ものも少なからず、」(八月二十四日付)
土民を貧窮に泣かせておいて、いったい何のために戦争かと彼は思っていた。

④(征韓、台湾出兵に大反対した木戸)
人民を保護するのが自分の管轄する内務省の任務であるのに、内務省には予算がなくて巡査の数が不足し、「兇賊暴徒出没するものいまだ止まず」と彼は意見書でいう。文部省に関して政府は「国内不学の戸なく不学の民なく」と宣言しながら、旧幕時代の教育費が年間三百両を越えたのにして現在の文教予算は三十万円にすぎない。
幕藩体制下では幕末に藩校数二百六十をこえ、寺子屋、私塾は二万ないし三万に達し、識字率という点からいえば(教育全般の質を問わなければ)、日本は同時代のアメリカはもちろん、ヨーロッパのたいていの国よりは上だった。教育費三百万両という木戸のことばは、幕府と諸藩との学校経営費の推定総額だったのではないかと思われる。
台湾まで出ていくくらいなら、そのまえに樺太でロシア人の暴行にあっている同胞をなぜ救おうとしないのかと木戸はいう。樺太南部は、日本の属領である。
征台作戦発動の上奏文に木戸はだたひとり、署名を拒否した。
(中略)……。
出兵の戦費に関しても、大隈、西郷は呆れるほど楽観的だった。三月末の閣議で木戸が戦費の捻出方法をたずねると、大隈は「五十万の用意があります」と答える。五十万で足りるという保証がどこにあるのかという木戸の質問にたいしては、戦費がそれ以上にかさんだら西郷は腹を切るといっていますと彼は答えた。これでは、予算の説明にはならない。木戸は怒って、「かかる国家の大事を、死をもってうけあうと申すは野蛮である。」
国民の生活に責任のある政府の幹部が、口にしてよいことばではないと木戸はいった。
(中略)……。
木戸にしてみれば、馬鹿馬鹿しいかぎりだった。佐賀の乱鎮圧のためにぜひ内務卿をひきうけてほしいと大久保に懇願され、病いをおして内務文部の両相兼務という劇務についたら、いつのまにか薩人たちが起こした台湾征討論の潮のなかにおかれていた。
四月二日に上奏文への署名を拒否してからは、彼は参議としての登院をやめ、江藤新平の処刑の報がはいるのを待って長文の辞表を三条に提出した。国内三千万の人民の保護が政府当面の急務であるという持論を、ここでも彼は繰り返す。
「深く思う、国は人民によりて立つ名、政府は人民を安んずるの称なり」これはほとんど、「主権在民」の論に近い。この時代の閣僚中でここまで考えていた男は、木戸だけだった。

⑤青木周蔵が岩倉の言葉を伝えに木戸の家に帰ってきた。(青木周蔵は帰国後、木戸の家に寄宿していた。)
木戸は二階の自室で彼を待っていた。青木は岩倉のことばを逐一報告し、辞任には自分も反対でありますといった。
「一身をいさぎよくするだけが、宰相のみちではありません」青木のはなしを聞き終わると、木戸は突然目の前の桐の長火鉢をもち上げて放り出した。青木の回想によれば、「熱灰は室内一面に飛散して、燈火もそのためにその明を没し、灰火は散乱して畳を焦がすにいたり、」物音に驚いて松子と居候の桂太郎とが、階段を上がって来た。木戸は二人に、「お前たちの知ったことではない。さがっておれ」
青木にはきみに投げつけたのではないと、涙を浮かべていった。火鉢を彼が投げつけたかった相手は、たぶん岩倉だったであろう。

ランダムに引いているので何のことだか分かりづらいとは思います。ただ、ここで言いたいのは、明治維新を推し進めてきた木戸が、このころから焦燥感や違和感を抱いていたということだ。これは自分の体力・寿命が尽きかかっていることも関係していた。(明治10年に死去している。)そして何よりも、自分の思い描いていたものと、政府の進む道が違うものになっていることへの悔恨の情さえ滲ませている。
また同時に、幕末維新のとき失った友や師への「申し訳ない」といった感情を抱いたに違いない。
木戸がそういった心情を常に持っていたことは前回の例でも分かるだろう。


木戸がもう少し長生きしていたら、日本の政治は変わっていただろう。
それは、半島・朝鮮や大陸・清に対する政策に大きな変化があったであろうからだ。この後に続く「日清戦争」「日韓併合」……「在日問題」にも違う形で影響を与えたに違いないのだ。
そう考えていくと、「歴史」はやはり面白い。

続く……。
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