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木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その3。 木戸孝允・桂小五郎は本物の「憂国の士」であり、紛う方なき真の「サムライ」なのだ。

物語を物語る

木戸孝允のいいところをどんどん書いていく その3
前回の続きで、今回は資料編の25回目

またまた、村松剛の「醒めた炎」から引いていきます。
今回は、岩倉使節団の場面です。
岩倉使節団(左端が木戸孝允)
木戸らが進めてきた洋化政策だったが、ここにきて彼は日本の将来を案じ始める。
和魂洋才という名のもとに西洋から様々なものを積極的に取り入れてきた日本だが、それと同時にその根本となるべき和魂は捨て去られてしまっているのはないか、滅びゆく「サムライ」とともにその「魂」が失われていくのではないかと、木戸は危惧し始めるのだ。
また、師や同志や友を次々と失っていった彼が、残された者としての責務を果たしているのか、大切なものを捨て去っているのはないのか、そう、自ら問いかけているようであった。
以下、引用した箇所にはそれがよく表れている。
この数年後には木戸は「憂国の情」を持ったまま亡くなってしまうから、余計にその寂寥感が重なって、何度読んでも感動してしまう。
そして、木戸孝允は本物の「憂国の士」だ!と読み返す度にその思いを強くする。

以下、「遣外使節団」の章から。

(アメリカとの条約交渉の場面)
木戸は伊藤博文や森有礼に動かされて条約改正の交渉をはじめたことを後悔しはじめた。
伊藤にたいする不信の念が、木戸の心にきざしたのはこのときからだった。安政の末いらい信頼しきって引き立てて来た伊藤が、アメリカに心酔している森のような若者(当時26歳)と組んで軽々しく走り回っている。
森は外交官でありながら、日本の風俗を外国人のまえで平気で罵倒していた。(彼が日本語を廃して英語を国語にしようと本気で考えたことは、ひろく知られているだろう)
こういう「洋化派」の言動を、木戸はサン・フランシスコに着いたときからにがにかしい思いで見ていた。彼は海外生活のわずかばかりの経験をもとに欧米の文明を賞賛し、日本の「百端そなはらざるを」批判する。
「その心多くは(日本を)罵るにありて、歎ずるにあらず」(杉山孝敏宛書簡十二月十七日付)
西洋と日本とのあいだの目もくらむような工業力の差に驚き、彼らは自国の文明そのものを否定するまでにいたる。のちに鹿鳴館の茶番劇を生む浅薄な拝外主義の台頭を、木戸は憂慮しはじめていたのである。
在外経験のない理事官たちを、西洋を少し知っているというだけの理由で書記官が愚弄する。同胞にたいしてさえそうだから、将来アジアの後進諸国から留学生が来日したときに、日本人はどういう態度をとるか。
「米国のわれを待つと同じからざる。必せり。」
洋化派官僚群の総帥だった木戸が、渡米以後は開化の将来に深刻な危惧を抱いた。逆にそれまでは洋化政策に慎重だった大久保の方が、佐々木高行の表現によると「飛切の(洋化の)風に化せられたる光景」だった。
(中略)
森有礼の独断専行の行為に岩倉具視が激怒し、満座の中で叱りつけることまでした。
木戸の日記には「大使、大いに森の平常愛国の情の薄きを責む。」
(中略)……
森有礼に対する木戸の怒りは、当然ながら激しかった。彼は後に森を、「森無礼」と呼ぶにいたる。
「森少弁務使のごとき、名利のためにわが政府を誹謗し内恥を外に売る。彼の米に心酔する、もとより米人もまた及ばず。」(井上馨宛書簡)
アメリカ人よりもアメリカびいきのこういう軽薄な開化派が国家にもたらす害悪は、単に外交問題にかぎらないだろうということを、木戸はこの時期いくどか書いている。

軽薄な開化派に国を誤らせないためにも、国家の基本(木戸が構想した三権分立)をととのえなければならないと彼は思っていた。渡米前の木戸なら、こういうことはまず伊藤博文に相談しただろう。
ところが伊藤は森の口車に乗って不用意に条約改正の交渉を推進し、委任状がいるといわれて日本に帰ってしまった。再度アメリカにわたってからも、彼は日本をキリスト教国にすることを、木戸に進言しているのである。
キリスト教国以外に野蛮、未開の国と、欧米人は盲信していた。日本人全体が切支丹に入信すれば、先方は満足するにちがいない。

現代にもこういう軽はずみな人が多くいる。自国・日本をバカにして、欧米あるいは中国・韓国といった他国をやたらと礼賛する人たちが……。「グローバル化だ」「日本はムラ社会だ、内向きだ」「他国を褒めないのはレイシストだ」と騒ぎ立てて、国を愛でることを言うとたちまち右翼だ・ネトウヨだといってバカにする人たちだ。
こういう軽薄な輩が国を誤らせるのだろう。明治時代にあって、木戸はこの危うさに気付いていたのだ。

そして、青木周蔵を呼んで、話を聞く場面がある、これが実にいいのだ。
青木周蔵(青木周蔵、目力スゴイ。)

欧米人はどうしてこうもキリスト教に熱心なのかと木戸はたずね、青木はキリスト教がヨーロッパで演じて来た歴史的役割について簡単に説明した。(説明している最中に、部屋に伊藤が入ってきた)
青木はのちにカトリックに(さらにのちにプロテスタントに)入信した男であって、キリスト教にはこの時期から好意的だった。彼はキリスト教の長所を挙げ、人間社会にとって宗教は大切だろうと答えた。
しかし木戸が使節団の一行中にはキリスト教国化をとなえ、天皇以下政府高官の全員がキリスト教徒になってしまえば条約の改正も容易になると説くものがいるといい、この意見についてどう考えるかときいたときには色をなして反対した。彼はヨーロッパ中世いらいの血で血を洗う宗教戦争の歴史を説明し、日本でいま政治的打算から国民にキリスト教を強制したら、国内いたるところ、擾乱の発生を見るにいたりましょう。
青木の留学先であるドイツは、宗教戦争によってヨーロッパ諸国中最大の犠牲を払わされた国だった。三十年戦争はドイツ各地に地獄絵巻をくりひろげ、国土は荒廃してゲルマン帝国は事実上解体される。
帝国を再建するには、二百年後のビスマルクの登場を待たなければならなかったのである。そのような悲惨を日本が経験するのを坐して見ることは、日本人として到底忍び得ないと彼はいった。――もし強いて本件を実施せらるるのであれば、まず私の首を刎ねてからにしていただきたく存じます。
木戸はしばらく感に打たれたようにだまっていたが、突然伊藤をはげしく叱りつけた。
日本のキリスト教化を伊藤はかなり執拗に説いていたらしい。
「米国の宣教師や浮薄な政治家の言をきいてこれに動かされ、軽挙妄動に走るとは何ごとであるか。
国家を乱すようなことになっては陛下にたいしても恐懼に絶えぬと、木戸は伊藤を睨みすえていった。手付利助のむかしいらい、彼が親分の木戸からこれほど怒られたことはなかったであろう。
(中略)
伊藤がアメリカ到着後まもなく日本耶蘇化論を口にしはじめたことは、佐々木高行もその日記に書いている。
「耶蘇教国にならずては、とても条約改正も望みなく、かつ日本の独立もむつかしくと伊藤などは信じたるなり。」攘夷は論外であるにせよ宗教、風俗等万事白人国に追従して、「独立国の特殊精神まで犠牲にし」たのではいったい何が独立かと、佐々木は憂憤をこめていう。
「いよいよその精神なれば、苦心は無用、はやく(日本を)欧米州に熨斗をつけ渡す方安心ならん」
キリスト教への警戒心が幕末攘夷思想の中核を形成していたことは、この稿のはじめで詳述した。キリシタンの再侵入は、鎖国いらい幕の脳裏を去らない悪夢だった。
ペリーが黒船をひきいて航海に出ようとしたとき、日本との交渉を円滑にすすめるためには宗教問題には一切触れるなとフォン・シーボルトが彼に忠告している。忠告されるまでもなくペリーの方は、キリスト教への言及がこの国ではタブーであることを百も承知していた。しかし彼の恫喝外交は日本中を震撼させ、攘夷論の波が澎湃として起こる。
キリシタンの排撃と国体認識の徹底の要とを説いた会沢正志齋の「新論」が攘夷家必携の書となり、会沢の国体論に共鳴した吉田松陰はみずから水戸学の信奉者と公言した。
攘夷の実行が不可能であることがその後明らかになるとともに、討幕派の尊皇攘夷論は尊皇開国論への急旋回をとげる。開化を急がなければ日本は生きのびられないという認識も、次第に新政府首脳部のあいだに浸透していた。だが皇室以下日本全体のキリスト教化となると、問題の性質は技術革新や諸制度の洋式化とは根本的にことなる。
条約改正の交渉上多少の利益があるかも知れないということを理由に、伊藤は日本の文化伝統そのものを犠牲に供することをあえて主張したのである。(伊藤はこのころ、共和制の採用を考えていたという説もある「維新伝疑史話」)
大嘗祭をはじめとする宮中祭儀が一神教と両立するはずがなく、キリスト教徒の天皇とは語義矛盾といってよい。
伊藤のいいぶんにしたがえば、伊勢の皇大神宮のかわりに大教会堂を建てねばならない。それでも松陰の門下かと、木戸はいいたかっただろう。

この本にはこういったキリスト教や諸外国の思惑が良く書かれている。実にいい本だ。
そして、「それでも松陰の門下か」と木戸は言いたかったとあるように、木戸は吉田松陰の思想を良く理解していたのだ。(開明派であったが、その精神を受け継いでいた。)

伊藤を寄せつけなくなってからの木戸は、ロンドンでも次の訪問さきのパリでも青木を相談相手にした。青木は木戸に、プロイセン型の憲法の採用をすすめた。
アメリカもフランスも共和制でイギリスには成文憲法がない以上、大国ではプロイセンの憲法がこの時代の日本人にはもっとも親しみやすい。ただしコンスティテューションの訳語として憲法の語が用いられるのはまださきのことであって、青木は単にコンスティテューションというか、あるいは政規ということばをつかった。
「フランスのコンスティテューションは、誤謬の主義をもって構成されたものであります。フランス人のとなえる自由主義は結構だが、権利同等を主張して貴族、騎士の伝統的特権を奪い、その結果社会の秩序を破壊するにいたったと、青木は木戸に説いた。イギリスにもプロイセンにも貴族院があり、貴族、士族は当時なお相当規模の保有を許されていたのである。
プロイセンでは貴族は軍人や役人として働いたのちに多くが故郷に帰って無給の村長となり、地方行政につくしていることを青木が説明して、日本でも華士族をそのように処遇するべきであるというと、
「木戸翁は、聞きをはつて落涙数行」(「青木周蔵自伝」)
涙を流して、彼の主張に賛成した。青木が自伝で翁と呼んでいる木戸は、数え歳で三十九歳だった。
武士は道徳上の鑑として生きよと、江戸の武士道は教えてきた。農工商三民の上に武士は徒食しているのだから、貧しさに耐え廉恥を重んじ、社会の手本となるように行動しなければならない。
山鹿流、北条流等の各種の兵法書がもっともつよく強調したことがらがそれであり、山鹿流軍学の家を継いだ吉田松陰は武士のもつ社会的責任をくりかえし弟子に説いた。
「『士は、農工商の業なくして三民の長たり』と(山鹿素行の)云ふ所へ、深く工夫を凝らしたまへ。」(「武教全書講録」)
廃藩置県によって武士の大部分が仕事を失ったあと、木戸は士族が賤業につくことを禁じようとして、何が賤業とするかの類別ができにくいために結局諦めた。士道が失われることを、彼はおそれたのだろう。
ところが留守政府が内定した秩禄処分案では、すでに削られている華士族の家禄をさらに三分の二に削減し、その六年分を債権で買い上げることになっている。これでは七、八年後に、路頭に迷う旧武士が続出するはずである。
青木からプロイセンやイギリスの貴族、騎士の地位を開き、日本の士族の将来を考えて、木戸は涙を見せたのだろうと思われる。彼はそのあと西郷以下留守政治の要路に手紙を書き、家禄召し上げ方式の緩和を切々と訴えた。
「七八年の後(士族は)なすところを知らず飢餓路頭、しからずんば小賊窃盗おのれの心を破り風俗を乱れるもの必して少なからず」すでに内定した政策に口をはさむのは恐縮ながら黙視することもできないので、「この段御容赦下さるべく候」


勝海舟は金銭面で旧幕臣たちを救おうとした。西郷隆盛は武士の魂を守ろうとして最後は自ら兵を挙げた。木戸は政府内部にあって政策面で武士たちを救おうとした。
幕末維新を推し進めた偉人たちは、みなサムライを守ろうとしたのだ。(封建主義を守ろうとしたわけではない)
サムライが滅びれば、サムライの魂までが滅びる。日本の大和魂が失なわれ、欧米の精神に侵されれば、国は滅びる。
そう、木戸は信じていた。
これは、自国のアイデンティティを失った清や朝鮮を見れば明らかなことだった。己の国の根幹を成す精神を無くせば、国など簡単に崩れる。(魂を文化と置き換えてもいい。だから自国の文化を守ることは大切なのだ)
開国派の自由主義的立場であった彼だが、その精神や魂は大和魂そのものだった。
その精神はどこから受け継いだのか。
やはり、吉田松陰の影響を多分に受けていたからに相違ないのだ。

ここで、資料編の最初に戻ってきましたね。
過去記事「吉田松陰の魂はどこへ。
前回、前々回見てきたように、彼は「おくりびと」であり「魂の継承者」であるのだ。
そして、木戸孝允・桂小五郎は紛う方なき真の「サムライ」なのだ。

これで、「木戸孝允のいいところをどんどん書いていく編」は一応終わり。

だいぶ資料がたまってきました。
さあ、始めましょうか!

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