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物語を物語る

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資料編を追加します。 第28回 新渡戸稲造「武士道」の後半部分から。

物語を物語る

資料編を追加します。
第28回 新渡戸稲造「武士道」の後半部分
必要な部分をそのまま引用します。(「銀魂」考・第5回の参考資料となります)

使ったのは、齋藤孝編集・イーストプレス社版。
これは、現代語訳で読みやすかった。
武士道 イーストプレス

第15章 「大和魂」―いかにして日本人の心となったか

(前略)……すべての社会階級に武士道の魂がどれほど浸透していたかは、男だてと呼ばれる一種の階級が登場したことを見ても分かる。
彼らは、生まれながらにして民衆のリーダーであった。身体中男らしさの塊のような力に満ち溢れた頼りがいのある男たちだ。一般大衆を代表し、その権利を守る者として、彼らは、何百、何千という数の子分を従えていた。
子分たちは、自分の「五体と命、財産、この世における名誉」を喜んで親分に捧げた。それはちょうどさむらいと大名の関係と同じだった。気性の激しい向こう見ずな子分たちを多数従え、彼らは生まれながらの「ボス」たちは、二本差しの連中が増長しすぎるのを厳しく食い止めていた。
武士道は、さまざまな形で、それが生まれた階級以外にも広がっていく。そして、大衆の中でパン種の役割を果たし、日本人全体のための道徳規準を生み出したのである。初めはエリートだけが武士道を誇っていたが、やがて、国民全体が武士道を熱心に追求し、そこから刺激を受けるようになった。さすがに一般大衆は、武士の道徳のように高遠な倫理レベルを達成することはできなかったが、「大和魂」はついにこの島国の民族精神(フォルクスガイスト)を表すに至った。マシュー・アーノルドが定義したように、宗教が「感情に彩られた倫理性」にすぎないとすれば、武士道ほど宗教と呼ぶにふさわしい倫理体系はほとんどない。

しきしまのやまと心を人とはば
朝日ににほふ山ざくらばな

本居宣長は、国民の声にならない声をこのような歌にしている。
そう、桜は昔から日本人に一番好まれる花だった。そして、桜は日本人の国民性を表す象徴であった。本居宣長のことばの使い方に注目してほしい。「朝日ににほふ山ざくらばな」だった。
大和魂は、やわな栽培種の植物ではない。自然に成長したという意味で、野生種である。その土地の固有種である。
偶然、他の土地の他の花と共通する性質もあるだろう。だが、日本人がそれに愛情を抱くのは、それが日本生まれだからというだけではない。その洗練された美しさ、優雅さが、他のどんな花よりも日本人の美的感覚に訴えるのだ。
ヨーロッパの人々はバラを好む。日本人はそれほどでもない。なぜなら、バラには、桜のような簡素さがないからである。また、バラはその美しい姿の陰にトゲを隠している。そして、生命に対する執着のようなものを持っている。早々と散ってしまうことなく、花柄についたまましぼんでいく。まるで枯れるのを嫌っているか、あるいは恐れているかのようだ。華やかな色、強い香り、みな、日本の桜とはまったく違っている。
桜の美しさの陰にはトゲも毒もない。自然の呼び声に応じて潔く散る。色も派手ではない。かすかな香りは決して飽きがこない。色や形の美しさは、外から見えるものに限られている。その花の美しさは花によって決まってしまう。だが、香りは、命の息吹のようにうつろいやすく触知できない。だから、どんな宗教的儀式においても、乳香と没薬(もつやく)が非常に重要な役割を果たすのである。香りはどこか霊的なものがある。桜のかぐわしい香りが朝の空気を輝かせる。太陽が昇り、その最初の光が極東の島国を照らすとき、この朝の空気を吸い込むほど、穏やかで晴れやかな気分になるものはない。その空気は、いわば、その美しい一日の息吹そのものだ。

創造主自身、かぐわしい香りをかいで新たな決意を固めたという(「創世記」第八章二一)。桜の花が甘く香る季節、日本人はこぞってその小さな家を出て野に遊ぶのも不思議ではない。その期間、人々があくせく働くのをやめ、心の憂さや悲しみを忘れたとしても、彼らを責めないでほしいほしい。短いあいだの楽しみが終われば、人々は、新たな力と決意を抱いて、再び日々の仕事に戻っていく。かように、桜はいろいろな意味で国民の花なのである。
このように美しくはかない花が、風の思うがままに吹き散らされ、一時芳しい香りを放ちながら、今にも永遠に姿を消そうとしている。大和魂もこの花のようになるのだろうか。日本人の魂とは、それほどか弱く消えてしまう運命にあるのだろうか。

ここで重要なのは、大和魂を桜に例えていること。
それが消えてしまうのではないか、ということを危惧し、読者に問いかけていること。
世良田東照宮の桜 2画像は世良田東照宮の桜

第16章 永遠の命「武士道」

急速にわが国に広まった西洋文明によって、日本古来の教えはすっかり消え去ってしまったのだろうか。
もし、一つの国の魂がそれほど簡単に死んでしまうとしたら、それは悲しむべきことだ。外からの影響に易々と屈服するような魂は、貧弱な魂である。
国民性とは、数々の心理的要素の集合体である。「魚のひれ、鳥のくちばし、肉食動物の牙は、それがなければその動物ではなくなってしまう要素」である。国民性も、それと同じで、その国民になくてはならない要素なのだ。
ル・ボン氏の最近の著作には、「知性に起因する種々の発見は、人類共通の世襲財産である。性格の長所や短所は、それぞれの国民独自の世襲財産である。それらは、何世紀ものあいだ毎日水に洗われなければ表面のざらつきもなめらかにならない硬い岩のようなものだ」とある。
(中略)
意識に上らず、それゆえ抵抗できない力を持った武士道は、これまで国全体と個人を動かしてきた。近代日本の建設にめざましい役割を果たした吉田松陰は、処刑の前夜、次のような歌を読んでいる。

かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂

日本人の正直な気持ちを告白しているのではないだろうか。
きちんとした体系を持っていたわけではないが、武士道は日本人の魂に生命を吹き込んできた。わが国を動かす原動力であった。それは現在でも変わりがない。

ランサム氏は、「今日、まったく違った日本が三つ併存している。一つは、いまだ滅びずに残っている古き日本、一つは、魂のみが生まれてきただけの新しい日本、そしてその産みの苦しみのさなかにある移行期の日本である」と言った。
この見解は、ほとんどの点において非常に正しい。特に形のある、具体的な制度についてはよく当てはまる。しかし、基本的な道徳概念にこれを当てはめるには、多少の修正が必要だ。古き日本を作り出した武士道、同時に古き日本の産物でもある武士道は、移行期の日本においてもいまだに指針となる原則であり、さらに、新しい時代を創る力を持っているからである。
明治維新の荒波をくぐり抜け、新しな国の誕生という大過の中、日本という船の舵を取ってきた偉大な政治家たちは、武士道以外の道徳教養を知らなかった。キリスト教の宣教師が新生日本の誕生に功があった人々に敬意を表すのはやぶさかではないが、今のところ善良な宣教師たちにその名誉を与えることはほとんどできない。裏付けとなる証拠が何もない主張をするよりも、互いに名誉を譲り合うべしという神の命令に従うことのほうが、彼らの職業にはふさわしいだろう。
私としては、キリスト教の宣教師たちが日本のために、教育、特に道徳教育の面で貢献している部分は大きいと思っている。ただ、確かだけれども神秘的な聖霊の働きは、いまだに神聖な謎の中に秘されたままである。宣教師たちが行っていることは、まだ間接的な効果しか生んでいない。いや、現段階では、キリスト教の布教が、新しい日本の性格を形成するのに果たした役割はほとんど目に見えない。
いや、私たちを良くも悪くも駆り立てたものは、単純明快、武士道そのものである。新生日本をつくった人々の伝記を開いてみよう。佐久間象山、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允。伊藤博文や、大隈重信、板垣退助、といった今も生きている人たちの回想録は言うまでもない。彼らの思想や働きに影響を及ぼしたものは武士道であったことがわかるはずだ。
極東について観察し研究を重ねてきたヘンリー・ノーマン氏は、日本が、他の東洋の専制国家と唯一異なる点は「人類が創り出されたなかでも最も厳格で、最も高遠で、最も細部まで行き届いた名誉の基準が、国民全体に支配的な影響を与えている」ところだと述べている。氏は、新生日本が今のようになった主因、新生日本を将来なるべく運命づけられている姿に形づくっていくであろう主因に触れている。
日本が変貌を遂げたことは、全世界に知れ渡った事実である。これほど大規模な活動には、当然のことながら、さまざまな動機が関係してくる。だが、最も主要な動機を挙げるとすれば、人は躊躇なく武士道を挙げるだろう。全国に貿易港を開いたとき、生活のいろんな分野で最も進んだ進歩を導入したとき、西洋の政治や科学を学び始めたとき、私たちを導いてきたのは、物質的な資源を開発して富を増やしたいという動機ではなかった。ましてや、闇雲に西洋の習慣をまねしようというものでもなかった。
東洋の社会制度や民族を間近で観察してきたタウンゼンド氏がこのようなことを書いている。
「毎日のように、ヨーロッパがいかに日本に影響を与えてきたかということが話題になる。この島国で起こった変化が完全に自然発生したものだということを私たちは忘れている。ヨーロッパ人が日本に教えたのではない。社会や軍事的な組織をどのようにするかをヨーロッパから学ぶことを日本自身が選択したのだ。そして、今のところその選択は成功している。トルコ人がかつてヨーロッパから大砲を輸入したように、日本はヨーロッパの機械工学を輸入した。それは厳密に言うと影響ではない」
タウンゼンド氏は続ける。「中国から茶を輸入したイギリスが中国から影響を受けたというのではない限り。日本を改造したヨーロッパの使徒は、哲学者は、政治家は、扇動者はどこにいるのか」と。
日本の変化を引き起こした原因は完全に日本国内にあるというタウンゼンド氏の考えは正しい。そして、氏が日本人の心理について探っていれば、その鋭い観察眼によって、この主因が他ならぬ武士道であったことをすぐに確信したはずだ。
劣等国として見下されることに耐えられない名誉心。それが最も強力な動機だった。金銭的に豊かになることや産業を発展させようという考えは、変貌の過程で後から目覚めたものである。
武士道の影響は今でも、明白であり、誰でもそれを感じることができる。日本人の生活を少し覗いてみればそれは一目瞭然である。
日本人の心の働きは、武士道の働きの一例であることがわかるだろう。人々に行き渡った礼儀の心が今新たに繰り返し話題にされるが、これは武士の生き方を受け継いだものだ。「ちびのジャップ」がどれほど身体的に強い耐久力を持ち、どれほど忍耐強く、勇敢だったかは、日清戦争の際に十分に証明された。「これほど忠実で愛国心あふれる国民がいるだろうか」という疑問は多くの人々が抱いている。これに対して「他にはいない」と誇りを持って答えるられるのも武士道のおかげである。

一方で、日本人の欠点、短所の多くも、武士道が根本にあることは認めねばならない。深遠な哲学が存在しないのはーーわが国にはすでに若手の科学者として国際的な名声を得た者がいる一方で、哲学ではそのような学者は一人もいないーー武士道の教育体制では形而上学的な思考訓練が軽視されてきたことが影響している。日本人が過剰に傷つきやすく、怒りっぽいのは名誉心のせいだ。また、外国人が見て私たちがうぬぼれていると思うとすれば、それも名誉心が曲がった形でおもてに表れているのである。
(中略)
武士道の影響力はいまだに深く強く根付いている。だが、前にも述べた通り、それは人の知識に上らない、無言の影響である。
日本人の心は、理由がわからないまま、過去から受け継いだものに訴えるものには何にでも反応する。したがって、同じ道徳観念でも、新たに翻訳されたことばで表現された場合と古くからある武士道のことばで表現された場合では、その効力に大きな差が生まれてくる。(以下略)

日本人の精神「武士道」がいかに受け継がれてきたかを述べています。
画像は吉田松陰。
松陰


第17章 武士道の遺産から何を学ぶか
(前略)
……言い古されたことばを繰り返すまでもなく、士気を鼓舞するものは魂である。
それがなければ最高の道具もほとんど役に立たない。最新型の銃や大砲も、ひとりでに弾が出るわけではない。近代的な教育制度で臆病者が英雄に変身するわけでもない。いや鴨緑江で、あるいは朝鮮半島や満州で、戦いに勝ったのは、私たちの父祖の英霊である。それが私たちの手を動かし、心を導いてくれたのだ。
私たちの父祖は、英霊は、私たちの勇ましい祖先の魂は、死んではいない。見るべき目を持っている者にははっきりと見える。どんなに進歩的な考えを持っていても、日本人は一皮むけばさむらいである。名誉、勇気、あらゆる武徳はすばらしい遺産である。だがそれは「一時的に私たちに預けられているだけで、本来は過去に生きた人々、そして来るべき世代の人々の財産である」とグラム教授は言っている。まことに言い得て妙だ。
今の私たちに下された命令は、この遺産を守ること。そして、ほんのわずかでも往古の精神を失わないこと。未来の人々に課された使命は、その精神が及ぶ領域を広げ、生活のあらゆる活動領域や人間関係にまで応用していくことである。
封建日本の道徳体系は、城や兵器類とともにぼろぼろにくずれて塵となり、そこから新たな道徳が不死鳥のように現れて、新生日本の発展の道へと導くだろうと言われてきた。
この五十年の出来事を見る限り、この予言の正しさは証明されているようだ。このような予言が実現することは望ましいことであるし、またその可能性も高いと思われるが、不死鳥は自分自身の灰からよみがえるのだということ、また、不死鳥は渡り鳥ではなく、自分の翼で思うがままに飛ぶことができるということを忘れてはならない。
「神の国はあなたの内にある」。神の国は、どこか高い山から転がり落ちてくるのもではないし、広い海原の向こうから漂ってくるものではない。コーランには「神は、あらゆる民族に、その民族のことばで話す預言者を与えもうた」とある。
日本人の精神によって立証され、理解された国の種子は、武士道の中で花開いた。だが、今やその時代は終わりつつある。悲しいことに、実を結ぶところまでいかなかった。私たちは、武士道に代わる優美と明知の源、力と安らぎの源を探してあらゆる方角を見回すが、まだそれは見つからない。不本意ながらも、詭弁家たちは、功利主義や唯物論者が考える損得勘定による哲学を支持している。功利主義や唯物論に対抗できるだけの力を持っている道徳体系は、唯一キリスト教だけである。キリスト教に比べると、実のところ、武士道は、「かすかに燃えている灯火」のようなものだ。
救世主は、その灯心の炎を、消すことなく、あおいで燃え上がらせると宣言した。救世主であるヘブライの預言者たち、特に、イザヤ、エレミヤ、アモス、ハバククなどと同様、武士道でも、支配者や公人、国民の道徳的行為に重点を置いてきた。
一方キリスト教の倫理で扱われるのはほとんど個人、キリストに個人的に帰依している人々である。個人主義が道徳的要素として力を持つようになるにつれ、キリスト教道徳は実用的に応用されるようになるだろう。
専横で自己主張の強い、ニーチェのいわば主人道徳には武士道に似た点がある。一方ニーチェは、ナザレの人「キリスト」の道徳を、卑しい、自己否定的な奴隷道徳と呼んでいる。これはニーチェらしい病的で歪んだ表現だ。私の理解が間違っていなければ、主人道徳とは、奴隷道徳へ向かう一時的な局面であり、反動である。
キリスト教と唯物論(功利主義をふくめて)はやがて世界を二分するだろう。
あるは、この二つも、将来、昔からあったヘブライ主義とギリシャ主義という対立の形に変形していくのだろうか。マイナーな道徳体系が生き残るためには、どちらかの陣営につくことになる。
武士道はどちら側につくのだろうか。はっきりした教義や守るべき定式をもたない武士道は、一つの存在として姿を消すことも可能である。桜の花のように、一陣の朝風にいさぎよく散ることもいとわない。
だが、完全に消滅してしまうことはないであろう。ストア主義は死んだか? 確かに、体系としては死んでいる。だが、一つの徳として生き残っているではないか。西洋諸国の哲学や、文明世界のあらゆる法体系など、そのエネルギーや生気は、いろんなところからいまだに感じ取ることができる。いや、人が自己を高めようと苦心するとき、自身の努力によって精神が肉体を制するとき、そこに、ゼノンの教えがいまだに生きて働いていることを私たちは知るのである。
独立した道徳規範としての武士道は消滅するかもしれない。だが、その力が地上から消えてなくなることはない。
武士道で武勇や道義心を学ぶシステムは解体されるかもしれない。だが、解体された残骸が消えてなくなってもなお、その光明と栄誉は残っていくだろう。
武士道を象徴する花と同じく、四方に吹き散らされてしまってからも、その香りは残り、人々の生活を豊かにする。はるかに時が流れて、そのしきたりは失われ、名前すら忘れ去られてしまったついても「路傍より彼方を見やれば」、遠くどこか見えない丘からその香りが漂ってくることだろう。
あるクエーカーの詩人は美しいことばで語っている。

いづこか知らねど、近くよりかかぐわしき香り、
快きその香気に旅人は
立ち止り、その額に、大気の祝福を受ける。

「はっきりした教義や守るべき定式をもたない武士道は、一つの存在として姿を消すことも可能である。桜の花のように、一陣の朝風にいさぎよく散ることもいとわない。
だが、完全に消滅してしまうことはないであろう。」
大和魂=武士道は消えていく運命にあるだろうが、解体された残骸が消えてなくなってもなお、その光明と栄誉は残っていくだろう」と新渡戸稲造は言う。そして、これを「さくら」に例えてこう付け加えた。
「武士道を象徴する花と同じく、四方に吹き散らされてしまってからも、その香りは残り、人々の生活を豊かにする。はるかに時が流れて、そのしきたりは失われ、名前すら忘れ去られてしまったついても「路傍より彼方を見やれば」、遠くどこか見えない丘からその香りが漂ってくることだろう。」と。

となれば、アニメ銀魂で散々描かれる「桜」に大きな意味があるということになるのです。
銀魂 鎮魂と再生の桜アニメ・銀魂から。

これを踏まえて、「銀魂」考 第5回 滅びゆくサムライの物語に入ります。

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