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物語を物語る

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「コピーのコピーのコピー」も一つの文化だと思う。

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「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ、J-CASTニュース 11月22日(火) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111122-00000005-jct-entを読んだ。ここでは思ったことを少しだけ記します。 

「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ
世界中で大ヒットしたアニメ映画「攻殻機動隊」などの監督、押井守さん(60)が現在のアニメ作品について「オタクの消費財と化し表現の体をなしていない」と批判した。
 ネットではこの発言に納得する人もいるのだが、自分達の好きなアニメを批判していると感じたアニメファンは「押井こそオワコン(終わったコンテンツ)」などと押井さんに対する盛大な批判を展開している。
■ほとんどのアニメはオタクの消費財と化した
 朝日新聞は2011年11月21日付けの電子版コラム「アニマゲ丼」で、押井さんの東京芸術大学大学院映像研究科での講演(11月12日開催)を紹介した。講演で押井さんは 「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」と語ったという。つまり、制作者には新たな創造性や、作品を通じて訴える思想的なものが欠如し、過去にヒットした作品の焼き直しばかり。例えば「萌え」が流行すればそうした作品ばかりになっている。また、今のアニメはオタクと呼ばれるファン層に媚びたものが多く、こうしたことから「表現」が制作者から無くなった、という批判だ。

「ほとんどのアニメはオタクの消費財と化した」とあって、確かにその手のモノの数は増えただろうし、言いたいことは分かる。まさしく正論だとは思う。しかし何か釈然としなのは「コピーのコピーのコピー」も一つの表現、文化じゃないか、と思うからだ。
文学や美術に限らず、古参が新参に苦言を呈し、先達者が後進者を模倣だ亜流だといって、批難することはよくあることである。それは芸術の進歩という面でみればある意味、健全な道であるともいえるだろう。
ただ、消費文化としてすでにアニメやマンガがその中に組み込まれている以上、売れるものを追い、流行に媚びるというのは仕方ないことである。なにしろ資金がなければ産業として成り立たないし、その土台なくして発展もない。だが、その一方で「創造性」や「芸術性」をも発展させなければならないという矛盾をはらんでいる。これは映画・ドラマ・音楽・出版すべての芸術産業が負う宿命だろう。(こういうのを二律背反というのだろうか。)
だがこれを押井氏のように否定的に捉え過ぎるのはどうなのだろう。
「流行に媚びたもの」も「売れ筋を追ったもの」も、実質的にはその時代の大衆が欲したものであり、引いてはそれはその時代を象徴する「文化」であるといえるのではないか。
日本文化の歴史を眺めてみれば時として「大衆文化」が主流となることがある。「大衆文化」とは、サブカルチャー、大衆の活力が生み出した文化だといえる。このあたりは過去記事「アニメは日本文化を救えるか  第4回 文化はガラパゴス化することにその存在価値がある。そして、その象徴となるのが「アニメ」である。」でまとめてあります。参照してください。
少し引いてみれば、「メインカルチャー」(正統的・支配的な文化)の対義語として、「ある社会内で、その社会全般よりは価値基準を異にする一部の集団を担い手とする文化。これが下位文化=サブカルチャーである」とある。
これを江戸時代の大衆文化に当てはめてみる。
正統的文化「能」に対する下位文化が「歌舞伎」であり、正統的文化が大名お抱え絵師であれば「浮世絵」師は下位文化となる。芭蕉らの俳諧が上位文化であれば、「川柳」は下位文化となり、漢文・漢詩といった武家の上位文化に対するものが大衆が好んだ娯楽「戯作」となる。これら下位文化は上位文化を基にしたコピーのコピーのコピーだったはずだ。だがそのコピーの中から日本文化を代表する「芸術」が生まれたことになる。
当時のサブカルチャーの担い手である歌麿や馬琴らは「表現」しようという意識は強くもっていたが、そこに芸術家が持つ自己本位で身勝手な「思想性」や「芸術性」などといった高尚なものを持って制作し続けたのであろうか。彼らは自らを表現しながらも、「売る」「売れる」ことを考えて(それは大衆側・消費者側に立って)、「もっと面白いものを」「もっと奇抜なものを」と制作に励んでいたはずだ。
今でこそ浮世絵は芸術品と言われるが、当時は美人画が流行ればこぞって美女を描き、風景画が好まれると聞けば争うように風景を画材にし、そして(現代のアイドル商法のように)人気の歌舞伎役者を図柄にし売りまくった。 そして時には、猥雑な春画を描けば、滑稽な風刺画も描いたのだ。(まるで現代のマンガ・アニメじゃないか) だがその絵も必要がなくなれば捨てられ、最後には陶器の包装紙に使われるようなモノであって、まさしく「消費財」としての扱いでしかない。
だが「コピーのコピーのコピーのような消費財」どうなったか。それは欧州に渡り「ジャポニスム」という日本趣味を生み、ゴッホやセザンヌなど印象派の画家たちに大きな影響を与えることになる。そして、いまや浮世絵は「芸術品」となり、その担い手は「芸術家」となった。
では、現代のアニメはどうか。アニメ上位文化の宮崎駿アニメや押井守のアニメ(?)は海外に影響を与え、賞を獲り、多くのファンを獲得している。それでは上位文化アニメのコピーのコピーのコピーである「萌え」や「流行作の亜流」の下位文化アニメは海外で影響を与えていないのだろうか? ファンが全くいないのか? 日本国内で支持されていないのか?
そんなことはないだろう。多くの支持を獲得し、ファンの裾野を広げる結果になった。
何が言いたいのかと言えば、コピーのような低俗な文化も大衆を動かすような活力があれば一つの「文化」になるということだ。
重要なのは、大衆文化としてこれを失わせないような活力を維持させること。それには「消費財」であっても、大衆から支持される続けることは、結果その文化の継続につながる。現代の市場主義においてはこれは「売れる」「流行を追う」という意味にもなろう。
ゴッホが絵画活動を続けられたもの兄のテオの生活援助があったからだし、ルネッサンス期の偉大な芸術家が活躍できたのも富豪のパトロンの資金提供があったからだ。
芸術や文化を産み出すには何よりもカネがかかるのだ。
そして、突出した芸術は、多くの「まがい物」の中から突如として出現する。優れた表現者は亜流や胡散臭い模倣者の中から突然登場するものなのだ。
オタクの消費財となったものから下位文化の中にもそういった素材(人材)がきっとあるはずである。(かつての日活ロマンポルノ映画の中から、今や日本を代表するような映画監督を多数輩出したこと忘れてはならない)
そこから後世に残るような「文化」が生まれるかもしれない。
必要なのはその土壌を失わないようにすることではないのかと、思う。


以下、蛇足です。
和辻哲郎「風土」の「第四章 芸術の風土的性格」の冒頭にディルタイの「詩人の想像力」を引いている。その部分を載せてみた。

「あらゆる時代や民族からさまざまの芸術の形式がわれらにせまってくる。文芸の種類の区別とか規則とかというものはみなことごとく消え失せてゆくように見える。のみならず東洋からは、原始的な、無形式な文芸や音楽や絵画が押し寄せてくる。それらは半ば野蛮であるが、しかし今でも長いロマーンや20フィート幅の絵画においてその絵画においてその精神の戦いを戦いきるというような、そういう民族の心たくましき活力に充たされたものである。--こういう無支配の情勢において芸術家は規則から離れ、批評家は価値を高めるためにただ、一つ残された標準として彼自身の個人的感情に頼ることになる。そこで、公衆が支配者になる。巨大な展覧会場や、さまざまな劇場や、また貸し本屋などに押し寄せてくる群衆が、芸術家の名声を作ったり壊したりする。ーーこのような趣味の無支配状態は、いつまでも、現実の新しい感じ方がこれまでの形式や規則を破り去って芸術の新しい形式が生まれ出ようとしている時代を示すものである。しかしそれは決して長続きするはずのものではない。芸術と美的思索との間の健全な関係を再び打ち立てることは、今日の哲学や美術史、文芸史の生ける任務の一つである。」

この引用から和辻は持論の「風土論」を展開し、芸術を解説する。そして章の結びで日本の芸術についての言葉で締めている。

我々はかかる風土に生まれたという宿命の意義を悟り、それを愛さねばならぬ。かかる運命を持つということはそれ自身「優れたこと」でもなければ「万国に冠」たることでもないが、しかしそれを止揚しつつ生かせることによって他国民のなし得ざる特殊なものを人類の文化に貢献することはできるであろう。そうしてまたそれによって地球上の諸地方がさまざまに特徴を異にするということも初めて意義あることとなるであろう。

昭和四年に書かれたものなので、アニメなどといったものとは全く関係がない。ないが、これをアニメに置き換えてみると面白い。
日本の文化は「ガラパゴス的」な独自発展をし、それを基にアニメは一つの文化となった。「経済」と「芸術」といった矛盾をアウフヘーベンし、世界の文化に貢献できるのは日本の文化である、と私は勝手に脳内変換している。
まあ、あまり関連性のないものを付けてみました。
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[353] 押井守は誰に向かって発言したのか
私も押井守の逆ギレ(?)に少なからぬ反発を持ったクチだが、当記事を読んでみて、逆に納得がいった。というか、どういった意図で誰に向かって発言したのか、と考えるようになった。

「表現ではない」という批判に相当するものは、もう少し周囲を見渡してみればいくらもある。たとえば、AKB48の歌とか。ああいったものが「表現」だなんて、売り手の方も考えていなかろうし、買い手だって思っていなかろう。ただ消費するためだけの偶像であり、ゆえに押井守のような批判も起こらない。

「コピーのコピーのコピー」を許容するガラパゴスな土壌は、文化を育む。だが、表現者がそれに甘えしまっては表現者とはいえない。

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