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二十歳の三島由紀夫 その3 戦時下の最後の青春

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11月25日なので「二十歳の三島由紀夫 その3」を書きます。

過去記事 
1、二十歳の三島由紀夫 その1 三島は二十歳のとき群馬県太田市(新田)にいた!
2、二十歳の三島由紀夫 その2
の続きとなっています。
ということで、今回は三島由紀夫こと平岡公威が群馬県太田市にいた1カ月間に的を絞って資料を列挙していきますが、その前に画像をいくつか載せておきましょう。
西小泉駅2
昭和20年の1月、平岡公威はこの駅を降りた。それから66年経った現在の「西小泉駅」はこんな感じ。
三洋電機 正面
そして、「中島飛行機小泉製作所」の跡地は、現在の「三洋電機 東京製作所」となっている。
三洋電機 看板
だがこの「サンヨー」の名称も「パナソニック」に吸収合併して消えることになる。そして、あろうことか家電販売事業を中国企業の「ハイアール」へ売却してしまった。となるとここはどうなるのか?
それにしても歴史とは分からないものだ。日本の主要軍事産業拠点から、戦後は世界有数の家電メーカーとなり、それが今では中国企業に買収されてしまうとは……。それにしても「中国」って、三島由紀夫もあの世で嘆いているに違いない。
道路標識これは道路標識。「大泉町」の位置が分かるでしょうか。
館林には、この時期、正田美智子さま(現皇后陛下)が疎開されていた。北を目指せば大泉から足利、佐野へと続く、その佐野には学徒出陣して駐屯していた司馬遼太郎が昭和20年6月から9月半ばまでの4ヶ月間いた。狭い地域に、後に有名となる人物が集中していたことの奇妙さ、前に少しふれましたね。

さて、では三島由紀夫全集から、年表を抜き出すと、 

昭和20年1月10日 学徒動員として中島飛行機小泉製作所に行く。原稿用紙に書かれたメモには「○交通 浅草雷門より東武電車、伊勢崎行又ハ大間々行、普通二時間、急行なら一時間半にして館林着。ここで西小泉線に乗り換え(この乗り換え頗る面倒)約廿分にして終点西小泉着。この間最短三時間、最長五時間 切符の入手頗る困難」とある。勤労動員の正式名称は「東京帝国大学勤労報国隊」。群馬県新田郡太田町小泉製作所東矢島寮11寮35号室が住所。
1月11日 両親宛葉書・第2信(工場での郵便物の扱いについて、明日から工場で組み立て教育があり、その後で部署が決まること)
1月12日 14日まで工場で教育を受ける。
2月4日 夜8時に動員先から東京の帰宅

とある。まさに一ヶ月間だった。
約一カ月の間に出した手紙は、
平岡梓 倭文重 宛は21通 (父・母)
平岡美津子 千之 宛 1通 (妹・弟)
三谷信 宛 3通 (学習院の同級生・前橋予備士官学校)
中河与一 宛 1通 (小説家・「中世」を〈文芸世紀〉に掲載するときの恩人)
清水文雄 宛1通 (学習院の教師・「三島由紀夫」のペンネームを決める)
となっている。

いくつか引いてみましょう。

1月12日 中河宛 「中世」の原稿を工場から帰寮してから書いているといった内容である。
「…尤も工場の中へ入ると、「工場」というよりIndustryという輝かしい言葉の誘惑を思うことがあります。あの轟音にはどこか哀切なものが溢れ、強い悲劇的効果があると存じました。……」


1月13日、1月20日、1月27日 三谷宛
「君も吹かるる赤城颪(おろし)に、僕も朝夕吹かれ居り候。これなん、常套句にて、実際は朝と夕は嘘のように凪ぎ申候。昼すぎから紅塵を巻き上げ目もあてられず候。さても聞きしにまさるものに有之候。」「朝は霜白き野道を工員の群にまじりて曙の横雲にほふ東を指して歩み候。耳もちぎれむ寒さなれども……」

このころは中世に関心があったようで「世阿弥の生涯」「能楽全書」室町の御伽草子などが出てくる。また午後は空襲警報で待機などといったものも見られる。

1月22日 清水宛 
「…総務部調査課文書係という机を与えられ、さて馴れぬ身にてこれという仕事もなく、朝は七時半より、夕べは五時範まで、消閑に心をいたす情無さ。……」
「やや、暇あれば書きかけて未だ果さぬ小説「中世」の構想に幻を追ひ、顔美き巫子綾織が面影、容貌魁偉なる東山殿義政公の姿、禅師霊海、能楽師菊阿弥など、つれなき作者に捨ておかれて影はおぼろにうすれてゆく絵姿をば偲び候。六十五枚を重ねて、完成なほ行末の緒覚束なく、書きては消し、消しては書きつつ、ただすぎし世の金光まばゆき幻影に我を忘れ居り候。あるいは仏臭き中世のお伽草子を弄び、物語の晦渋、構想の破調、とらえがたき話の筋、辿りがたき作意の韜晦、文章の錯綜。模糊として織糸もほころび果てし曼荼羅を目のあたりみる心地して、「面白し」といふにあらず、「巧みなり」といふにあらず、ただ「ありがたき」心地のするにぞ、これぞ文学の忘るべからざる源流なりと感銘仕候。……」

三島が工場の机で小説「中世」を書いていたというのが友人の手紙でも分かります。

昭和20年1月30日 三谷信宛
土曜通信の番外として今、鹿島の部屋で書いています。鹿島から今八度の熱で遠い法科の寮から体温器と薬とそれに「つけたり」としてこれら体温器並びに薬の所有者にして漫才の相棒たる僕とを取り寄せし我儘三昧。
やれ流行性脳炎じゃないか、やれ急性肺炎じゃないか、やれ東京へかえりたい、やれ例の人が東京で待っている、やれ君から借りた本はつまらない、やれ二、三日内に又出張する。などとしきりに御託をならべているところです。僕はその枕許で、五分間の体温計を十分間とらせ、二粒服用の薬を三粒のませ、早く寝ないと流行性腹炎になると脅かし、まるで女学生みたいだとからかい、おのろけを言わないように口止めをし、大童の最中です。この男始末に負えません。
さてこの男が何を喋り出しそうですから傾聴傾聴。因果なのはこの子であります。口から先に生まれまして、喋りはじめると口をひねっても、くすぐっても、とまりません。おのろけ病という奇病にかかっており、帝都の人々を悩まし、今また小泉の地元にまみれまして土地の御面々を悩ましまァす。東西、とうざーい。
(全集 補巻から)

面白い文章ですね。これが戦時中とは思えないほど朗らかした内容だ。
そして、東京都渋谷区大山町一五の自宅の 平岡御父上 御母上宛にはほぼ毎日出していることになる。
その内容は「荷物が届いた。髭剃道具を忘れた。戦況の話。「演劇界」の雑誌を送ってくれ。新聞を送ってくれ」といった日常生活に関する内容のものが多い。
長期間、親元を離れて暮らすという経験は彼にとって初めてのことであったようだ。戦時下ではあったが、どこか実家を離れるという解放感もあるせいか、文面は妙にウキウキしている。
その中でもいくつか引いてみれば以下の通り。

昭和20年1月17日
……思いがけなく帰京でき、時ならぬ正月を致し候。後で思えば、十四日はわが誕生日、――寮へかへりて、速達及び御手紙拝見、殊に御母上様の御文章、感銘深く、ゆかりも深き廿一歳の一月十四日、御母上様の御廿一にて、小生を生ませ玉ひし記念の日に、わが家へかへれしも何かの縁。思えば思ふほど、御心づくしのホット・ケーキの美味しさ、忘れがたく候。――豆、乾パンなどハ同室の諸君とわけ合ひ、けふすでに一缶、消費致候。

昭和20年1月19日 
……そう毎々わが家へかへりては、次第に歓迎されざるに至るべし、そのたびたびにホット・ケーキ二切れというわけにはゆくまじ、……


昭和20年1月24日
相不変御便り申上げ候、相不変の毎日に有之、きのうは机上にシンチンガア氏が著書「文化の省察」を繙き、百頁がほど読み進み候。こちらの事務室は仕事がなく困り居るていに有之、のべつ火に当たって馬鹿話をし居り候。その一つを紹介せんに、「それどこで買ったんべえ、ハアずいぶん高いだべなア、……ホウ一円五十銭で買ったか。おしいことしたなア」(おいしいトハ「ウマイコトヲシタ」ナドノ意ナリ)
手紙を書いたり、本を読んだりしていると、すぐ「平岡さん、火に当たりませんか」といふ声があり、ふと顔をあげれば、どこの机も、勤務時間中といふにガラ空きにて、みな火に当たってタバコを吹かし候。かかる処世法を「中島式」という由、聞きて候。
こちらへ来ても帝大の学生は不可思議なる尊敬の目を以って見られ、小学生などはゾロゾロついてまゐり候。
「ハア帝国大学だんべえ」と人の顔をのぞくにぞ、黙阿弥全集抱えあるくは恥ずかしく候。

昭和20年1月31日
……事務所というところは面白い。人臭い所です。戦争がすんでから書く風俗小説の材料ができます。課長が席を外すと、皆火に当つたり、おしゃべりをしたりしてゐます。僕が本をよんでゐると、急に眩しくなった。オヤと思うと、遠くの机から女の子が鏡でいたづらをしてゐるのです。この女の子には、今年兵隊にゆく事務員山崎君が悩んでゐて、僕はしきりに聞かされ、同情させられ、「世話好の親友」の役どころをふられそうになって閉口してゐます。田舎の人たちは精神年齢が低いのでしょうか。好い年をしてゐてまるで子供ですねえ。


また、昭和20年2月2日付けには「友人と部屋でスルメを焼いて火事になりそうになったこと」といった内容のものも送られている。
群馬から1カ月で23通も出していた手紙ですが、5月に神奈川県高座海軍工蔽寄宿舎へ入ると、そこからは3通しか出していない。しかも短文である。これは検閲が入り滅多なことは書けないという理由があるが、今までの量を見るとかなり少ない。
戦況が悪化したのはこのときからだろうか。三島が出した手紙の内容をたどっていくと、東京大空襲があってそこから状況ががらりと変わっているのがわかる。
つまりその前の平岡公威くんにとって、太田市で過ごした一カ月間が最後の青春の1ページのような経験だったのかもしれない。
そして、この後に「終戦」「妹の死」「失恋」と立て続けに彼に衝撃を与える事件が起こる。これが人生の転機(「精神的な死」と本人は言っている)となったのだ。
そう考えると、太田にいた期間が、平岡公威の最後の青年期だったといえるのではないか。
三島由紀夫 十代書簡集画像は「三島由紀夫 十代書簡集」の表紙。15歳ころの平岡公威。
だれかに似ていると思ったら、エヴァの「碇シンジ」だった。
シンジ
そういえば、戦時下における青春、思春期の不安定さ、繊細なハート、そういうのも似ている。

次回に続く。

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消えた二十二巻

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