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物語を物語る

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二十歳の三島由紀夫 その4 資料編

物語を物語る

二十歳の三島由紀夫 その4」 資料編
二十歳の三島由紀夫 その3 戦時下の最後の青春
からの続き。
今回は前回の「中島飛行機製作所」時代から広げて、二十歳の三島由紀夫が残したものを全集の中から拾っていきます。
まずは出した手紙から。

三谷信
昭和20年1月6日 「日本文化を馬鹿にするアメリカ人」のこと。
1月27日  「豊饒の海」の基となる「輪廻、記憶」といった内容がある。
2月4日 少しオトナになった気持ち 
4月21日 特攻隊 日本文化の記述 
8月22日 日本文化の世界化 

清水文雄
8月16日 伝統護持を誓う 

中河与一
6月27日 新しい世紀、輪廻、運命 

神崎陽
8月16日 戦後の戦い宣言

野田宇太郎
9月2日 日本文化の復興 

野津甫 
10月8日 文士の話 


昭和20年作の小説(数字は収録されている全集の巻数)

1月 空襲の記 26
2月 中世 16 、備忘録 26
6月 エスガイの狩 16、黒島の王の物語の一場面 16
   二千六百五年に於ける詩論 36
7月 別れ 26、後記 26
8月 昭和二十年八月の記念に 26
9月 戦後語録 26
10月 菖蒲前 16
その他は、長柄堤の春 26、米人鏖殺 36


以下、二十歳ころの自分を振り返って書いているところを抜き出してみました。

20年でプッツリ切れている――最長の元号「昭和」
私は大正十四年生まれですから、満年齢でいいますと昭和と同じ年なんです。だから自分のゼネレーションという感じは強いが、私の昭和は二十年でプッツリと切れている。
二十年以降はもう昭和と思っていないから何年続いても関係ありません。二十年で切れた理由?いわぬが花ではないでしょうか。ははは。よろしゅうござんすか。
(初出 朝日新聞 昭和四十五年七月二十九日 全集36巻)


学生の分際で小説を書いたの記
終戦まで私は一種の末世思想のうちに反現実的な豪奢と華麗をくりひろげようというエリット意識に酔っていた。
そこで私はたびたびの空襲に退避を余儀なくされる。中島飛行機小泉工場の事務所で公然と原稿をひろげて、小説「中世」を書いていた。
大学の勤労動員先のその工場では、私は病弱を口実に事務のほうへまわされていたので、そういう芸当ができたのである。
(全集28巻)


三島由紀夫 中世
「三島由紀夫 中世」(講談社文芸文庫)、アマゾンのレビューにいいのがありました。

私の十代
私の十代は戦争にはじまり、戦争におわった。一年一年、徴兵検査の年が近づく気味の悪さというのは、今の十代にはわかるまい。(全集28巻)

「盗賊」ノートについて
私の作品集のあとがきの中で、……その年の十月に妹は死ぬ。私は満二十歳、東大法学部の学生である。そのころの私の生活体験から、この小説の構想が生じた。しかし作品の書かれる動機は純粋なものだけはありえない。それまでせいぜい百八十枚程度の作品しか書けなかった私は、終戦を機会に人をおどろかすような一篇のかなり長い小説を書こうという野心を起こしたのである。


空襲の記
中島飛行機小泉工場
一九四五年一月十九日午後三時半
昭和二十年一月十九日の午後二時というところ、工場の警笛つとああしき音色に鳴りて警報を知らす。事務室は色めきて、所長室附女の子の言によれば、敵数編隊なりなどといいて挺身隊の女子どもは家や身支度にいそがしければ我も持物とりまとめ外套をなどす。防護団の勤怠簿を恰もつけおわりしなれば、其れを副分団長なり山崎義道君に渡すに、折よしとて同君は勇んで外へ走りゆく。――たちまち拡声器なりひびきて、女子学徒国民学校児童の待機を命ず。われらは未だ退避したくもしえざるなり。されど東部軍情報によれば敵わずか二機、中部軍管区より侵入して東進し、帝都に入ることなく、相模灘上空を旋回中とあり、数編隊など大嘘なりと、はや手袋を脱ぎなどして、火にあたりゐるに、事務員はなお書類の片付けなどに忙し。救護係の米丸氏、万一の場合にしらすべき場所、住所、氏名、本籍などをわれら四人に書かせ、また「止血 時 分」としるしたる赤刷の荷札の如きものを示す。血止まりし時これを胸に下ぐるなんめり。皆笑いて、今日は大したことなし、など語りゐるに、突如拡声器は鳴りひびきて、全員待避を告ぐ。挺身隊の女子たちは、重要書類の箱をあつめ、待避のまえにこれをしまうはざるべからずと急ぐありさま、われも共につきて戸外に出でしに、人の流れ、正門をめざして奔流す。
われもまじりて走る打ち、同じ帝大の学生を見出、共に走るに、われは工務課なり、共に来たまえという。
正門の外は漠々たる荒野にて、黄塵は、風あらばさぞ激しからんと偲ばざる。されど今日は風一つなき早春の佳日、日はうららかに空は青々たり。
門外に出づれば、ただ見る黄土の緩丘に群衆二筋にわかれてただ疾走す。ややゆけば走り疲れてしとみえ、群衆みな歩み、ただ気ぜはやしき人々のみなん走りける。七、八百米ほど隔たる丘上の松林に、無数の小穴を穿ちて待避壕とせり。ここまで来れば安心、まだ敵機も来らねば、調査課の壕を探さんと歩むに、知れず。人多くこの松林をすぎ、職員受託の近傍をめざしてゆくにぞ、彼処ならんと後につきて、三、四百米ほど歩みしか、同じく松繁るれる丘上に一団の人あり、図書係の人なりという、こおにゐたまえと親切にいはるるにぞ、落ち着くことしばし。人々手をかざして、あれは敵機にや、なんどと揣摩す。
ややありて米丸氏自転車を以ってここに来る。懐かしさに歩み寄れば、我を探して来れり、という。陳謝して、わが粗忽を恥づ。米丸氏云う、「外の壕ならば入れてくれぬもはかりがたし、探しに来れり、帝大の高橋君のみは課の壕へ来りしも、朝倉君、臼井君はゆくへしれず」と云う。自転車につきそいて、調査課の壕へ歩みつつ、米丸氏の話をきく。
「中島飛行場は、待避命令を出すが、早すぎるととて非難あり。よって慎重を期し、ラジオ以外の特別の情報によりて危険を判断し、待避命令を出すなり。(以下省略)(巻26)


終末感からの出発
また夏がやってきた。このヒリヒリする日光、この目くるような光の中を歩いてゆくと、妙に戦後の一時期がいきいきとした感銘を以てよみがえってくる。あの破壊のあとの頽廃、死ととなり合わせになったグロテスクな生、あれはまさに夏であった。かがやかしい腐敗と新生の季節、夏であった。昭和二十年から、二十二、三年にかけて私にはいつも真夏が続いていたような気がする。
あれは凶暴きわまる抒情の一時期だったのである。
しかし私の私生活は殆どあの季節の中を泳がなかった。私はようするに小説ばかり書いて暮らしていた。しかしあの時代の毒は私の皮膚の中から、十分に滲透していたと思われる。
昭和二十年の早春、大学の勤務動員で群馬県の中島飛行機小泉工場に行っており、やがて神奈川県の高座工廠へ移った。終戦を迎えたとき、私は後者の動員学徒であった。日本の敗戦は、私にとって、あんまり痛恨事ではなかった。
それよりも数ヵ月後、妹が急死した事件のほうがよほど痛恨事である。
私は妹を愛していた。ふしぎなくらい愛していた。当時妹は聖心女子学院にいて終戦後しばらくは学校の授業も勤労動員のつづきのようで疎開されていた図書館の本の運搬などを手伝わされたりしていたようである。ある日、妹は発熱し、医師は風邪だと言ったが、熱は去らず、最初から高熱が続き、食欲が失くなった。慶応病院に入院したが、すぐに人事不省に陥りやっとチフスと診断が確定すると、当時隔離病室が焼けていたので、そのまま避難病院へ移された。体の弱い母と私が交代で看病したが、妹は腸出血のあげく死んだ。死の数時間前、意識が全くないのに、「お兄ちゃま、どうもありがたう」とはっきり言ったのを聞いて、私は号泣した。
戦後にもう一つ、私の個人的事件があった。
戦争中交際していた一女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になった。妹の死とこの女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になったように思われる。
種々の事情からして、私の生活の荒涼たる空白感は、今に思い出してもゾッとせずにはおれない。年齢的に最も溌剌としている筈の昭和二十年から二、三年の間というもの、私は最も死の近くにいた。未来の希望もなく、過去の喚起はすべて醜かった。私は何とかして、自分及自分の人生をまるごと肯定していまわなければならぬと思った。しかし、敗戦後の否定と破滅の風潮の中で、こんな自己肯定は、一見、時代に逆行するものとしか思われなかった。それが今になってみると私の全く個性的事実だけを追いかけた生き方にも時代の影が色濃くさしていたのがわかる。そして十年後、私は堕落したか、いくらか向上したかは、私自身もわからない、おそらく堕落したであろう。ゲーテの「エグモント」の言葉ではないが「我々がどどこへ行くかを誰が知ろう。どこから来たかさえ、ほとんどわからないのだから」
しかし省みて後悔しないことが一つある。私はあらゆる場合に、私の「現在の」思考を最も大事にして来た。私は一度も錯覚に陥ることを怖れなかったのである。(昭和三十年八月 28巻)


実は、この時代の平岡公威である三島の手紙や小説などを研究することで、後年の三島の精神心理が、または自決の謎が解けるのではないかとにらんでいる。
昭和20年の終戦前まであった陽気さは、東京大空襲以来ガラリと変わり、「8月15日の終戦」と、この後に続く「妹の死」と「失恋」によって、三島の青年期は終わったと見ていいだろう。そしてこれがあの最後の自決につながっていった、と思う。(読めば読むほどあの死にダイレクトにつながっている。)
「二十歳の三島由紀夫にすべての謎がある。」そう思えてならない。(なんか安っぽいミステリー小説の惹句みたいになっていますが……)
そして、どこに三島の精神的ターニングポイントがあったのか、なぜ三島は「二十歳」というものにこだわったのか、その謎に迫りたいと思う。(と言いつつもかなり苦戦中)

続く。
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