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「ぐんま広報」で古墳や埴輪特集

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平成23年12月号の「ぐんま広報」が古墳や埴輪特集だったので、テンション上がってしまいました。
ぐんま広報 はにわ1
以下、少し引いてみました。


古代ぐんまの東国文化
最新の文化や技術を積極的に取り入れ、東国中心地として大きく発展した古代ぐんま。各地に残る遺跡や古墳などから、当時いかに繁栄していたかが分かります。先人から受け継いだ東国文化の魅力を見つめ直します。

東国の重要拠点
3世紀後半から7世紀までは古墳時代と呼ばれています。当時は、近畿地方を中心に勢力を広げていたヤマト王権が、政治を主導していました。
現在の関東地方周辺は東国と呼ばれ、群馬は、ヤマト王権が関東から東北までの一帯を治めるための拠点として、重視されていたのです。県内では特に4世紀から6世紀にかけて、規模の大きな古墳が数多く作られました。

古代ぐんまの姿
5世紀から8世紀ごろの群馬では、主に朝鮮半島からの渡来人が伝えた新しい技術により、最先端の文化が栄えていました。古墳時代には、かんがい技術や金属製の道具などが発達したため、水田の大規模開発が可能になりました。馬の飼育や織物の生産などが行われたことも分かっています。また奈良時代にかけては、多胡碑などの石碑が建てられました。
今に残る古代の痕跡
県内には、1万5千近くの古墳があったと推測されています。中でも大型の前方後円墳は、近畿地方に次いで多いことが分かっています。埴輪の製作も盛んで、他の地域に比べ、人物や動物をかたどった埴輪が数多く出土しています。緻密な表現で、丁寧に作られているのものが多いのも特徴です。国宝の挂甲武人埴輪の他、県内からは貴重な埴輪がたくさん見つかっています。大型の前方後円墳や、出土した埴輪などから、大きな勢力を持った豪族が群馬を統治していたことがうかがえます。また3世紀から6世紀にかけて度々起こった浅間山や榛名山の噴火によって、水田や畑、集落などがそのまま埋没した遺跡も多く、当時の様子を具体的に知る手掛かりとなっているのです。

などと他にも結構細かく載ってました。
そして太田の天神山古墳も写真付きで紹介されていました。
ぐんま広報 歴史
過去記事 
1、国宝・武人埴輪の故郷はそこではありません。 歴史・文化遺産の放置は本当に許せない!
2、武人埴輪は「大魔神」の原型。東京国立博物館に展示中。国宝埴輪は群馬県太田市から出土
3、大発見。国宝・挂甲の武人埴輪は誰かと戦っていた!
4、 「新説!?日本ミステリー・関東・謎の日本王国」のまとめ、そして太田市
あたりにも書きましたが、東日本最大の古墳と国宝の埴輪が出土した土地なのに、それを生かさず放置状態って……。

あと古代の東山駅路が紹介されていました。

古代の高速道路? 東山道駅路
古代の日本は、畿内、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の行政区分に分けられ、それぞれに幹線道路が整備されていました。群馬は東山道に属していました。
7世紀ごろには、都を中心に駅路と呼ばれる広い道路が整備され、約30里(約16キロ)ごとに、乗用馬や宿泊・休憩できる施設が備えられた駅家(うまや)が設置されていました。役人・軍隊の往来、租税の運搬などに利用され、一般の人は使用できませんでした。また12メートル以上の幅を持つ道路であったことが分かっています。
群馬には東山道駅路が通過していました。現在の長野県から、安中市、高崎市、前橋市、太田市を通過し、栃木県へ抜けていたと考えられています。太田市にあった新田駅家は埼玉県へ向かう駅路との分岐点にもなっていました。
また遺跡や文献などから、時代によって道が変更されたり、新しく造成されたりしていたことが分かっています。
北関東自動車道の工事中に、東山道駅路と推定される遺跡も発見され、現在の高速道路と重なる部分もありました。


ぐんま広報 東山道

で、こちらは太田市役所発行「おおた広報」にあったもの。

「上野国新田郡庁跡」が国指定史跡に指定された。
「群馬県太田市天良町で発掘された貴重な遺跡。
上野国新田郡庁跡は、7世紀後半から9世紀前半にかけて存在した古代上野国新田郡の役所(郡衙(ぐんが))の中心施設でした。この郡庁の規模や配置は、上野国内の郡衙の具体的な施設を記した希少な文献である「上野国交替実録帳」(1030年)に記載されている内容と一致するため、新田郡庁であると確認されました。
また、通常の郡庁は一辺が50m四方の規模ですが、新田郡庁は約90mもあり、全国で最大であることや郡庁自体もほぼ全体が保存されていること、さらには周辺にも寺井廃寺や入谷遺跡などの郡衙に関連する遺跡と郡へ連なる東山道駅路などが発掘され、古代の役所の在り方を考える上で貴重な遺跡であることから、国指定の史跡として答申されました。」

また読売新聞・群馬版「上州探見」の記事には太田市教委文化課のコメントが載っている。

「やっと(全体の)位置がわかった程度。建て替えられたりしている建物の年代の特定や、郡庁の性格や機能を明確にするには、5年以上、調査する必要がある。周辺の開発が進んでいなかったため、他の郡衙遺跡より、中身が痛められていない。もっとデータが集まれば、機能面などで従来と違った角度が見いだせるのでは」とある。
鈴木史生記者からも「国史跡を受け、市は遺跡の保存整備に前向きだ。歴史の宝庫である太田市に、また一つ貴重な文化遺産が加わるのは、とても喜ばしい。(中略) これら関連史跡を含めた一帯の研究が進めば、かつての古代新田郡の中心地の全容も明らかになるだろう。史跡指定に伴う手続きなどの関係で、発掘調査の再開は秋以降になりそうだが、研究の進展が待ち遠しい。」と古代官庁の解明を期待するコメントを寄せている。

これは、新田義貞挙兵した生品神社のすぐ近くだ。ほんと結構、歴史遺産があるんですよね。でもね、何度も言うけど、貴重な文化遺産を生かさないですよね、太田市って……。(名物が焼きソバって)
そして、やっぱり「新田市」に改名した方がいいと思う。
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消えた二十二巻

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