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物語を物語る

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谷崎潤一郎の「活動写真の現在と将来」が面白かったので書き起こしてみました。前篇

物語を物語る

谷崎潤一郎の全集第二十巻にあった「活動写真の現在と将来」が面白かったので書き起こしてみました。
これが書かれたのは大正6年。この頃の映画はサイレントであり、もちろん白黒、しかもスクリーンの横で活動弁士が熱弁をふるっていた時代であった。まだまだ映画は珍奇なものと見られていて、演劇や歌舞伎といったものより一段も二段も下に見られていた。そんな時代にあって、谷崎は映画がこれから大衆文化として大いに発達し、演劇や絵画などと並び称せられる芸術となるとここで予言している。
まあそれだけなら驚くに当たらないが、よく読むと、三流の俗小説も映画にしたら面白いのではないかとか、怪奇・ミステリィー(ここではエドガー・アラン・ポーや泉鏡花を挙げている)は映画に合う題材だとか、日本の物語を映画化して海外に売り込めといった今風でいうコンテンツ論を展開している。これを大正時代に言ってるのだからスゴイ。一流の芸術家というのは見る目が違う、というのが分かる。
そして、何よりも読みやすく分かり易い。谷崎潤一郎が文章が上手いなんて、もうしごく当たり前なことなんですが、こんな何気ないエッセーのようなものでも、達意の文章をつづられてしまうと、思わず感心していまう。

まあ、ウダウダ私見を書くより、本文を載せた方がいいですよね。
(旧仮名づかい、旧漢字は今風に改めてあります。また分かりにくい表現は文意を変えない程度に言い換えてあります)

活動写真の現在と将来
予は別段、活動写真について深い研究をしたこともなければ、広い知識をもっているわけではない。しかし久しい以前から、熱心なる活動の愛好者であって、機会があればフォトプレイを書いてみたいとさえ思っていた。その為に二、三冊の参考書を読んだこともあり、日活の撮影所などを見せてもらった事もあった。したがって、門外漢ではあるが、一般に活動写真というものの将来に対する考えや、特に日本の興行者に対する不平や不満足や、思いのままに述べてみたいことが沢山ある。
活動写真は真の芸術として、たとえば演劇、絵画などと並び称せられる芸術として、将来発達する望みがあるかといえば、予は勿論あると答えたい。そして、演劇や絵画が永久に滅びざるが如く、活動写真もまた、不朽に伝わるであろうと信ずる。有り体に云うと、予は今日の東京のどの劇団、どの劇場の芝居よりも、遙かに活動写真を愛し、かつそれらの中の或る物は、歌舞伎劇や新派劇でも太刀打ちできないほどの芸術性を発見する。少し極端になるかも知れないが、西洋のフイルムでさえあれば、どんな短い、どんな下らない写真でも、現在の日本の芝居に比べれば、ずっと面白いと云いたいくらいである。
芸術の甲乙はないとしても、その形式が時勢に適応するものは益々発達し、時勢に背反するものは自然と進歩しないようになる。能狂言が、歌舞伎に劣らない内容を有していながら、後者ほど流行しないのはその為であろう。今日はデモクラシーの時代であるから、貴族趣味の芸術はだんだん範囲を狭められていくに違いない。この点において、演劇よりも更に一層平民的な活動写真は、最も時勢に適合した芸術として、まだ大いに発達改良の余地があると思う。あるいは将来、演劇が能狂言を圧倒した如く、活動写真が立派な高級芸術となった暁に、演劇を圧倒する時代が来るかも知れないと思う。
ちょいと考えてみただけでも、活動写真が演劇に勝っている点は非常に多いが、その最も顕著なる特徴は、実演劇の生命が一時的なのに反して、写真劇の生命の無限に長い事であろう。(今日ではまだフィルムの寿命が永久不変ではないけれど、将来必ず、その辺は発達するに違いない。) 実演劇とフィルム劇との関係は、あたかも言語と文字、若しくは原稿と印刷物との関係に匹敵する。実演劇は、限られた観客を相手にして、その場限りで消えていくのに、活動写真の方では一本のフィルムを何回も繰り返して、至る所に無数の観客を呼ぶことができる。この特長は、観客の側からいうと、居ながらにして各国の俳優の演技を、極めて廉価にしかも甚だ簡便に見物し得る利益がある。そして俳優の側からいえば、ほとんど世界中の見物を相手にして、絵画や文学のように複製だの翻訳だのという間接の手段を持たず、自己の芸術を直接に発表し、しかも後世永遠に伝えることができるのである。古来の偉大なる詩人や書家や彫刻家が、自己の芸術によって永遠に生きているかが如く、活動写真もまたフィルムによって不朽の生命を保つことができる。俳優にこれだけの覚悟がつくという事は、その芸術をどれほど高尚にさせ、真剣にさせるか分からないと思う。現在の俳優が、他の芸術家に比較して、品性においても見識においても多く堕落しているのは、主としてその使命の一時的であるという事が頭に沁み込んでいる結果に相違ない。もしくは自分の演技がゲーテの詩の如く、ミケランジェロの彫刻の如く、永く後世に認められ、千載の後までもクラッシックとして尊重させられる所以が明らかになったら、彼らも必ずそれ相応の抱負を持つようになるだろう。
以上に述べた所だけでも、活動写真が将来芸術として発達する要素は十分であると予は信じる。しかしその他の特長を数えて見れば、第二に、取材の範囲がすこぶる広範であって、しかもいかなる場面においても、(写実的なものでも、夢幻的なものでも)芝居ほど嘘らしくないという事実を挙げたい。いうまでもなく、演劇が所期の効果を奏するためには、いかなる際にも写実らしくなければならない。段々世の中が進んできて、見物の神経が昔よりも鋭敏になっている今日、演劇はややもすると嘘らしいという感じを免れない。この点においても、活動写真はより多く時勢に適合してはいないだろうか。今日の人が、象徴的の演出として賛美している能狂言も、足利時代の人々には写実的として見えていた。そして、能狂言の後に一層写実的な歌舞伎劇が起こったごとく、これからの世の中は、更に一層写実的な活動写真によって風靡されはしないだろうか。予にはどうも、そうなるらしく感ぜられる。
写実劇が、いかなる場合にも写実らしいという事は、同時にそれが芝居よりもっと写実的な戯曲にも、もっと夢幻的な戯曲にも適していることを証拠立てる。写実劇に適する事の出来ないダンテの「神曲」とか、西遊記とか、ポオの短編小説の或る物とか、或いは泉鏡花氏の「高野聖」「風流線」の類(この二つはかつて新派で演じたけれど、むしろ原作を傷つけるものであった)は、きっと面白い活動写真になると思う。なかでもポオの物語のごときは、活動写真の方がかえって効果が現れるのではないかと感ぜられる。(たとえば「黒猫」「キリヤム、キルソン」「赤き死の仮面」など)
それから第三の長所としては、場面の取り方が自由自在で、多種多様の変化に富んでいる。それは脚本作家にとっても、実演用の戯曲を作る場合と違って、面倒な約束に縛られる煩いがなく、どれほど便利であるか分からない。限られた面積の舞台の上で組み立てる物と異なり、いかなる雄大な背景でも、いかなる大規模な建築でも、欲するままに使用し得るのみならず、長年月の間に、遠隔の土地に起こった事件をも、わずか数時間の物語に短縮することが出来る。しかしてそれがまた、取材の範囲を広範にする所以である。
ある場面のうち一部分を切り抜いて、大きく映すということ、すなわちディテールを示し得ること、これがどのくらい演劇の効果を強め、変化を助けているか分からない。この意味において、写実的の場面は実演劇のそれよりも一層絵画に近づいている。実演の舞台では、絵画と同じ構図を取ることは不可能であるが、活動写真では立派にそれが行われる。かつ、俳優と観客との位置に、絶えず一定の距離をもっている芝居とは違って、ある時は咫尺の間に迫り、ある時は十町も二十町も離れ得る(意味:アップになったり、俯瞰になったりすることができる) 活動劇の俳優は、動作においても表情においても、充分に自己の技能を発揮することが出来る。観客の側からいっても、立ち見のお客には顔が分からないというような不公平が全くない。
殊に、俳優が実物より拡大される結果として、実演の舞台ではそれほど目立たない、容貌や肉体の微細なる特長までが、極めて明瞭に映し出される。俳優はもはや実演の際のごとくけばけばしい粉飾をもってその年齢や肉体や輪郭をごまかすことは出来ない。美人の役はぜひとも美人の俳優が扮しなければならず、老人の役はぜひとも老人がつとめなければならない。(西洋の活動写真では大概そうなっている)これは、一方において虚偽の技巧を駆逐する効能があると同時に、他方においては、俳優に固有な持ち味、柄というものを尊重する傾向を生み、したがって技芸の領域を複雑にし、深甚にする利益があろうと思う。人間の容貌というものは、たとえどんなに醜い顔でも、それをじっと見つめていると、何となくその所に神秘な、荘厳な、ある永遠な美しさが潜んでいるように感じられるのである。予は活動写真の「大写し」の顔を眺める際に、特にその感を深くする。普通気が付かないで見過ごしていた人間の容貌や肉体の各部分が、名状し難い魅力をもって、今更のように迫って来るのを覚える。それは単に、映画が実物よりも拡大されている為ばかりではなく、おそらく実物のような音響や色彩がないためであろう。活動写真に色彩と音響とがない事は、その欠点なるがごとくにして、むしろ長所となっているであろう。ちょうど絵画に音響がなく、詩に形象がないように、活動写真もまた、たまたまその欠点によって、かえって芸術に必要なる自然の浄化ーーcrystallizationーーを行っている形である。予はこの一事によっても、活動写真が芝居よりは高級な芸術として発達し得る可能性を認めるものである。(キネマカラーという物があるが、現在のところでは、予はあまりあれを好まない)そして、前者は後者よりも、一層絵画や彫刻や音楽の精神に近くはないかと思っている。
以上に列挙した活動写真の長所の多くは、予が新しく説明するまでもなく、すでに誰にでも分かり切った事実である。ただ、この分かり切った事柄を、改めて書き連ねた所以のものは、主として日本の現在の、活動写真の当事者に読んでもらいたいからである。少なくとも彼らは、これだけの長所を充分に認めていない。認めているまでも、利用していないと信じるからである。

後篇に続く。
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