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ブルーノ・タウト「日本文化私観」その1。始める前の予備知識

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このところブルーノ・タウト「日本文化私観」(講談社学術文庫)を何度か読み返している。
読む度に感心させられ、その度に日本文化の奥深さを感じる。
日本文化私観
タウトに関する過去記事
ブルーノ・タウトの言葉を信じれば、東日本大震災からの復興は成し遂げられる。
「銀魂」考 第2回 なぜ「銀の魂」なのか?

というわけで、しばらくの間、「日本文化私観」から文章を引いていこうと思う。
その前に、前段階としてブルーノ・タウトの経歴を。(ヤフー百科事典からそのままコピペ)

Bruno Taut(1880―1938)
ドイツの建築家。ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。同地の土木建築学校を卒業後、テオドール・フィッシャーに師事。1909年にF・ホフマンと共同事務所を開いて以来、ライプツィヒ博覧会の「鉄の記念塔」(1913)やドイツ工作連盟展の「ガラスの家」(1914)の独創性によって名を馳(は)せた。第一次世界大戦後は表現主義建築運動を推進、18年にグロピウスらと「芸術労働評議会」を結成し、また『アルプス建築』『都市の冠』『宇宙建築師』『都市の解体』を著して壮大なロマンと理想社会をうたい上げる。21年にはマクデブルク市の建築土木課長として果敢な色彩建築を実践し、24年からはベルリンで総計1万2000戸の住宅団地を建設した。
タウトは1932年に大モスクワ計画のため同地を訪れたのち、ナチス政権を逃れて日本へ亡命、33年(昭和8)5月から36年1月まで滞在した。日本では建築そのものの仕事に恵まれなかったものの、桂(かつら)離宮をはじめとする日本建築や日本の文化のあり方に多大の関心を示し、多くの著書を残した。また仙台と高崎で工芸の指導にあたり、日本の工芸界の方向を刷新させることになった。36年イスタンブール芸術大学教授に赴任、トルコ政府建築顧問として建築活動を再開したが、38年12月アンカラで客死した。

また、群馬県高崎市にある少林山達磨寺の洗心亭に暮らしていたこともあり、ここに彼の足跡を偲ぶものが数々の遺されている。
「少林寺とブルーノ・タウト」のページに詳しい。

ドイツの世界的建築学者ブルーノ・タウトが昭和初期にこの洗心亭に居住されていました。タウトは、ここで日本文化をあらゆる面から研究し日本国内外に広めた功績は実に偉大です。庭には、タウトの「私は日本の文化を愛する」とドイツ語で書かれた記念碑があり、群馬県の史跡になっています。

「日本文化私観」にも日本文化を愛する文章は数限りなく出てきます。一文を引けば、

「私はヨーロッパ人として本書を著述したのである。ヨーロッパ人として私は日本の文化を愛し、それ故にまたヨーロッパ人として、それが永久に愛される価値を有するものたらんことを希望して止まない。
しかしこのところは、日本文化が絶えず発展を続けて、かつて全世界の知識人を悦ばしたところの文化と同様に、燦然と明朗純粋に、世界の文化創造の工作に資するに到るときにのみ、ただ可能なのである。
日本! この語は今日もなお、その昔ながらの純潔の光輝を放っているのだ。

とある。
当時のヨーロッパ人(特に知識人や文化人)にとって「日本文化」は特別なモノだった。
それには「ジャポニスム」を理解しなければなりません。ここでは簡単にヤフー百科事典からコピペしておきます。(ジャポニスムについては改めて後日まとめてみます)

ジャポニスム  japonisme [フランス語]
幕末に日本が開国して以後さまざまな日本美術が欧米に紹介されたが、これに影響されて生じた日本趣味をジャポニスムという。このころに運ばれた美術品、またこれに触発されて欧米でつくられた作品を総称するジャポネズリーということばも生まれたが、定着しなかった。日本美術を欧米に運んだ人々としてはシーボルトらオランダ商館関係者に続いてオールコック、オリファント、サトー、シャシロンらがあり、1860年代に日本美術に接したのは主としてイギリスのラファエル前派とフランスの印象派およびその周辺の人々であった。ジャポネズリーには単なる模倣や消極的な受容から創意あふれる摂取に至るまで無数の段階があり、最後の例を総括してジャポニスムとよぶことが多いが、両者の区別はいまなお明瞭(めいりょう)でない。だが近世ヨーロッパでのシノワズリーやトルコ趣味などより、ジャポニスムのほうが持続的でもあり内容が充実してもいることは確かで、ことばの意味を広くとれば、建築や造園、文学や音楽、モードの分野にまでジャポニスムを認めることができる。

またWikipediaの「ジャポニスム」もよくまとまっています。
では、タウトの「日本文化私観」という本がどういうものかは、本書巻末の解説・佐渡谷重信(西南学院大学教授)氏よればこうあります。

「日本文化私観」は、1933年から36年のわずか3年しか滞在しなかったタウトの日本文化論としては出色の内容である。出色であることの意味はいたずらに西欧化を目指す日本人が忘却している日本の伝統的「精神」の美の復活をうながしたことである。それが文学、絵画、工芸、建設などの緒作品に如何に如実に表現されているかを実証してくれる。例えば、西本願寺に移された豊臣秀吉の桃山御殿の謁見の間は建築上から拙劣なものであるが、そこには狩野永徳の襖画があり、秀吉の華美で退屈な座所を救っている。日本人はルーベンスを知って永徳を知らず、しかし「永徳がルーベンスを断然凌ぐ」とタウトは指摘する。ドイツやイタリアではユーゲント派として大流行したが、それは日本の影響であり、その源泉は尾形光琳である。富岡鉄斎は日本のセザンヌである。ゴッホを知って浦上玉堂に無知な日本人が多い。しかし、玉堂こそ「考えようによっては、ヨーロッパの印象主義の先駆」である。そしてC・D・フリードリヒに匹敵する者は田能村竹田である。あるいはアンリ・ルッソーを思わせる素朴な掛軸への言及もある。日本絵画史とヨーロッパ絵画史との比較論を蘊蓄を傾けて熱っぽく語る……。

日本文化が西欧の文化人に多大な影響を与えた経緯、その日本文化の特色(特に中国文化との違い)を書いている。
で、次回から書き起こしていくのは、この本の中の「神道」の章の部分とそれを前後する章です。
タウトが愛した日本文化の源流がどこにあるのかについて、彼は日本人が持っている「神道」的精神にあると言っています。
これがすこぶる面白い。
「神道」というと、すぐにサヨクや進歩的文化人などが、「国家神道」と結びつけ、「戦争だ、軍靴の足音が聞こえる」と叫び、あたかも日本の元凶のように唱えます。戦後はこういうサヨク的なことを言うのがカッコよかった時代であり、それが文化人・知識人の証だと思われていた。
だから戦後の日本人は、「神道」的精神を語ること意識的に避けてきた。だが、戦前の外国人のタウトにはそんな束縛が全くないのだ。その彼が、「神道」(その精神)の素晴らしさと、日本人の中に染み付いているこの精神が、日本文化の「美」につながっている断言しているのだ。
日本人はいまこの精神に立ち返る時にきていると思う。(そうすると右翼だ、ネトウヨだと連呼する奴がいるが、そんな風潮からも脱却する時だ。時代は変わったのだ!)

ということで、次回から載せていきますよ。
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