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ブルーノ・タウトの「日本文化私観」その5  「神道」 2 日本人の血の中に浸み込んでいる精神性

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ブルーノ・タウトの「日本文化私観」その5  「神道」 2 日本人の血の中に浸み込んでいる精神性
「神道 <単純性の持つ豊富性>」の2回目です。

神道の「観念(イデー)」は、確かにはなはだ「原始的」である。人間および人間生活と自然および自然力との結合がそれである。ある神社を尋ねて行くと、必ず森とか山とか海辺とかに遭遇する。だがかかる自然との結合が、恒に極めて情緒豊かな、誰の眼にも疑いのない高い美しさを伴っているという事を考えなければならない。加えるに、そこにはなんら建築上の一定の型というものは見出されず、高山あるいは平野の鬱蒼たる古木の間に設けられた大規模な神社から、到る所の町村に見られる小神社、私邸の庭園やビルディングの屋上にある神殿、小料理屋の室内に飾られた祭壇ないしは一般家庭の台所にある、豊頬便腹(ほうきょうべんふく)の美味と健康の神を祭った神棚等に到るまで、その変化は実に無限である。供物用の皿や花立を有する墓碑も、またこの種のものの一つであるが、かかる墓地から受ける印象は、手入れの行き届いた墓標とは云えないものがある。むしろ自然の手に任せて、その自然の中に溶け込み、消滅し去って行くもののように見えるのである。ことに田舎の墓地は、特定の範囲に限られることはなく、樹の下とかその他任意の一隅散在し、全然自然の風景の中にその姿を消してしまい、いわば死者の身体も霊も、大自然の中に吸収融合せられてしまうようになっているのである。それゆえ汽車の窓から通りがかりに眺めただけでは、まるで目に付かないのであるが、農家の構造とか農民の習慣とかを見慣れて、田園生活に関する若干の知識が出来上がると、そこに初めて非常なる細心さと抑制とをもって取り扱われている日本の風景のこの細部の姿が、眼前に現れて来るのである。
上述のごとき、比較的明瞭に宗教的特色を有する事象の他に、なお路傍や庭園の中等に、種々な伝説的あるいは神話的意味を有する石造の小神社が見出される。これらの人目に付かないような神社の傍らには、幸運のマスコットたる狐の石像があり、その横には狐の住処を象徴的に現した石の洞が設けられている。また「狸」の奇怪至極な変化の話を聞いたり読んだりする。日本人は、狸が実際に人間に、特に坊主に化けるということを真面目に信じているのである。これは恐らく微妙な風刺なのかもしれない。狸が化けるのは臆病愚鈍な人間を弄んだり、あるいはかかる妖術によって不当に苦しめられている者の守護をしたり、または自分を助けてくれた人に報恩の意を表したりするためである。この現象はドイツのリーゼンゲビルゲ地方に行われている山霊リューベツァールの物語を想起させられるものがある。この地方の勧善懲悪の意を含む民俗的諧謔説話は総てこの山霊を中心として語られているのである。リューベツァールと狸、この両者は民間の諧謔心理を具体化したものであって、最初の農夫の中の道化者が面白半分に同時にまた別な新しい怪談を呼び起こすために、これらの姿とそれに関連する迷信を利用したものであろうが、やがてそれは滑稽なおとぎ話として口から口に伝えられ、その内には信ぜられるようにさえもなってくる。そしてまた新しい道化者が現れて、新しく付け加えられて来た様々の変化を使って、新しい滑稽談を仕上げるというような具合なのである。これは日独いずれの場合にも同様である。だがここに、狐の信仰が中国から渡来したものでありながら、神道に結合されるのに対し、狸説話が純日本のものでありながら仏教に結合せられたということは、大衆というものがあらゆる教義的な拘束から完全に離れた自由な立場にあるということを証するものであると云えよう。思うに、結局はこれも一つの風刺なのかもしれない。
神社に祭られた諸々の神々に関連して伝えられている神話、伝説、譚の類は、あたかも熱帯に繁茂するテンジョウ植物のように錯綜を極めているので、ほんの半ばだけでもこれに通暁することは容易ではない。ここに、あの評論家達の主張する神道の単純原始性とは全然反対の現象ーー詩味と連想の豊富さが現れているように思われるのである。ヨーロッパ人としては、恐らくとうてい通暁出来ないような無数の譚や伝説は、あたかも我々ヨーロッパ人が子供のころに聞かされる童話の場合と同様に、日本人の血の中に浸み込んでしまっているのである。
加えるに日本人は即興を愛することの強い国民で、この即興を愛する心こそは、一般にみられる厳格な形式尊重と正反対をなすところの、日本の諸芸術の、殊に斯道の達人の社交的娯楽として現れている絵画と抒情詩(和歌)の特質なのである。もちろんこの際建築だけは例外である。とはいえ、この建築の場合にも、その構造上から云えば、柱を組み合わせただけにすぎない日本家屋には、無限な変化を与える余地が残されているのであって、要するに、あの優雅な茶室のごときは、趣味の洗練された茶の湯宗匠のものせる抒情詩に他ならない。今日においても、大工が拙劣な建築家の精密な設計図などは無視して、全然独創的にそれよりも良いものを造ることがあるが、これも結局今述べたことと変わりがないのである。
だがこの国民の即興を愛好する心は、その最上の捌け口を、あの前述のごとき譚に見出したのであった。それは神道の根本思想が極めて単純素朴であるからに他ならない。この根本思想を最も良く表しているのは、大懸かりでいてしかも簡素な神社の境内の施設である。

ここに「たぬき」をめぐる伝説や物語が出てきますね。
ジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」を思い出していまいました。
ポンポコ
たしかにあそこに日本の原風景や日本人の精神性があったように思います。

ここで狛犬のことを「幸運のマスコットたる狐の石像」と云っているのが面白いですね。
神社とは面白い空間で、こういう
武田神社 キティちゃんキティちゃんが神社の境内にあったりする。
「単純性の持つ豊富性」とは何でも受け入れてしまう包容力が神社にはある。
だから、アニオタや歴女といったものまで幅広く受容する寛容性がある。

過去記事
日本人はなぜ「神社」に行くのか!
神社が「日本文化」の集まる場所とみるならば、現代の日本文化の象徴である「アニメキャラ」がそこで隆盛を築いていても何ら不思議なことではない!
ほんとに、神社は不思議な空間だ。

まだまだ続きますよ。
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