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ブルーノ・タウトの「日本文化私観」その9 「味」と「まがいもの」

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ブルーノ・タウトの「日本文化私観」その9 「味」と「まがいもの」

「神道」の章に続くのが、「味」という章です。「味」といっても「美味しい」「まずい」の味覚の方ではなく、「あの役者、味があるね~」とか「渋い柄だね、味があるね~」とかいった感覚としての「味」で、味わい深いとかいった「滋味」という意味である。
日本文化の良さは、この「味」にあるということを、この章で説明している。
とても短い章ですが、「味」があります。


全世界に対して、かくまでに深い意義を持ってきた、そして現在もなお持ち続けているあの偉大な日本芸術と並んでその様式とその意義とを全く異にする、一つの圧倒的な創造が今日存立しているのである。近代の日本においてもあの偉大な芸術の数多い足跡は存在し、さらにこの文化を一個の生きた文化として代表する多くの人々が存在する。しかしながら過去の日本において、すでに価値も何もないものに発生したところのものが、今日では膨大な広がりを獲得し、日本古来の芸術を、今にも圧殺しかねまじき有様を呈している。この種の創造は、日本の教養人にとって恐るべき精神上の圧迫であるばかりではなく、日本以外のあらゆる国にとってもおよそ同様であると云えよう。
この創造を、すなわちこの種の「芸術」を検討することは、ここでは保留しておこうと思う。万一検討するとなれば、私がすでに日本の芸術について記した、あのことを全部反対の側に振り向けさえしたならば、恐らくごく簡単にできることであろうと思う。その意味とは全く反対に解釈すれば、この怪物に寸分違わぬものがあるはずである。
日本の言葉が今日もその生きた表現を失わず、これらの言い表し方によって、かの優秀性を描き出し、さらにこれによって他国の生産物を批判的に解決するということは、明らかに一つの福祉である。これらの言葉の中でも、まず筆頭に置かれるものは、趣味を意味する「味」という言葉である。ただしこの場合の趣味は、決して国際的な意味における趣味ではなく、文化的な伝統によって特に生じてきたものに他ならない。この言葉の場合は、決して国際的な意味における趣味ではなく、文化的な伝統によって特に生じてきたものに他ならない。この言葉には直感的な性質が含まれていて、ある対象に味があるか、ないかということで一同の意見が一致するために、長い議論など少しも要しない。さらにこの趣味、すなわち味の様々の段階に対して、つねにそこに日本的な表現が存在しているということ、さらにあらゆる日本人から、これらの言葉が一切の相関的な連想の下に理解され得るということも、まことに結構なことである。
さらに日本語には恐らく唯一、独自な言葉としてドイツ語のkitschnoの概念に相当する言葉、すなわち一切の卑俗な芸術に対する一個の総合概念としての「いかもの」という言葉がある。この言葉は上記の言葉と同様に、意思の疎通ないし風刺的な批判を容易ならしめるものと云えよう。また思惑的な「いかもの」に対しては、「いんちき」といった表示がある。
言葉は人を殺すことも出来よう。特にこれらの言葉の裏に、なお完全に生きた概念があるにおいて然りである。従ってまた生命を作り出すことも出来得る。では、私たちはこの味とそしてその武器であるいかものに、私たちの希望をかけることにしよう。

「味」の説明はよく分かるが、これだけでは「擬物・いかもの」というのが良く分からない。それは次の章「絵画」を読み進めると説明が出てくる。

これらの美術家達ないしこれら以外の多くの美術家によって、伝統はますます先方へ進められて行くのだ。彼らとても、数にしてみれば、極わずかであるし、従ってその影響も微弱のようではあるが、あの怖るべき擬物(いかもの)の大群も、一度日本の立派な伝統による思想、あの落ち着いた精神がこれに一息くれさえしたら、こんなものは鳥の羽ほどの目方もなくなってしまうことあろう。それはそれとして、あの渋い、澄んだ、己に安んじた、全く日本的の雅趣とも云える。あの「味」こそ、恐らく将来において何時か、日本の美術界に一勢力となる日がくるであろうと思っている。その日が来さえすれば、あの現在の夥しく繁茂している擬物(いかもの)、ほとんど圧倒的な「いかもの」、「いんちき」の類は、一つ残らず秋の枯れ葉のように吹き散らされてしまうであろう。
この素晴らしい国の大地に根を下ろしたものが、やがては新しい美術の春を迎えて、成長し、花咲く日も近いと思う。

要はこういうことだ。当時の日本人は、西洋かぶれ・欧米志向が高まり、自国の文化・日本文化を軽視する傾向にあった。日本には古来から続く素晴らしい文化があるのに、西洋風のまがいものが多くなったことを、ダウトは嘆いている。(しかも逆に西欧・米国では日本文化が好まれている。)
そしてその精神(神道的精神・大和魂)が失われることは、同時に、日本の文化、芸術、美、が失われることも意味することを説いているのだ。
この本を通じて彼が訴えているのは、日本人が日本文化を護らないでどうするといった警鐘を鳴らすことであった。
そういう意味では三島由紀夫の「文化防衛論」にも近いと思う。

さてさて、「芸術」「神道」「味」と3章引いてきましたが、これもこの本の導入部分でしかない。このあと、絵画や工芸、彫刻など細かい日本文化の解説がある。とても面白いので興味のある方は本書をあたってください。

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土瓶・南部鉄器は海外で人気だそうだが、19世紀中ごろ以降のジャポニスム運動で、日本の工芸品が西欧で人気が高かったことが、本書の説明でわかる。
現代のクールジャパンの下地は、このジャポニスムが作ったといえるだろう。南朝鮮文化などという底の浅いものではないことをもっと知らしめた方がよい。

ついでに、本書の序文を載せておきます。

原本序  黒田清
ブルーノ・タウト氏は幸福な人である。
その氏がいずれの国にあっても、その土地の魂に触れる事ができ、またその国の文化が深く蔵している美をはっきり見抜く事のできる人だからである。
滞日数ヶ月にしてすでに小堀遠州を日本最大の芸術家とし、また桂離宮を「日本の最終にして最高なる建築的発光点」と云い切ったのを見ても、氏がいかに鋭い直感と深い洞察力とをもっているかが解るであろう。
我々は、我々の祖先が残して行ってくれた輝かしい文化的足跡から、常に変わざる真理と美とを見いださねばならぬ義務を感じている。
ダウト氏は今、我々と共にそうした仕事に取りかかっているのである。タウト氏の我が国に対する態度は単なる理解ではない、熱愛しているのである。だから氏の前には我が国の文化は嘘がつけない。
本書は氏が日本に着いて以来、変わらず愛を我が国の文化に感じながらなした、深き研究の所産である。単なる印象記ではない。本書をひろく江湖(こうこ)にすすめたい。(昭和11年8月20日)

黒田清という方検索すると、(くろだ きよし1893年(明治26年)8月 - 1951年(昭和26年)1月22日))は、日本の華族。貴族院議員・財団法人国際文化振興会専務理事。爵位は伯爵、とあった。榎本武揚と黒田清隆の曾孫にあたる方なのか。こういう面白い発見もあった。

大まとめは次回にします。
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