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物語を物語る

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新田義貞と儀源寺など

物語を物語る

7月2日は、新田義貞公の命日であります。(新暦では8月17日)
毎年、この時期に合わせて義貞についての記事を書いていました。
過去記事
「私本太平記」の新田義貞のカッコいい場面を書き起こしてみた。
「7月2日は新田義貞討ち死にした日。そして、世良田東照宮の向き。」
「7月2日は新田義貞の命日。」
ということで、今年も。(ちょっと過ぎちゃったけど)

群馬県発行「ガイドマップ 上毛かるた」の「れ」の項目に新田義貞が載っていたので引いてみた。
上毛かるた 新田義貞

歴史に名高い新田義貞
新田義貞は、武将の中でも正義を守り誠の心をつらぬいた人として、全国的にも人気の高い人物でした。
後醍醐天皇が、政権を取り戻そうとし武士たちに呼びかけると、それに味方した義貞は、1333(元弘3)年、わずか150騎をひきいて生品神社(太田市)で兵を挙げ鎌倉に攻め入りました。
そいの翌日には、この武将を慕って進軍の道すじの村々から兵が集まり、稲村ヶ崎海岸にたどりついた時には相当な数になっていたそうです。
次の足利尊氏との戦いで、故郷に帰ることなく越前国藤島(福井県)で亡くなってしまいましたが、正々堂々と戦った若き武将は、武士の手本として藤島神社(福井県)や故郷新田神社にまつられています。
当時、『上毛かるた』に武士をよむことはGHQ(連合国軍総指令部)に禁止されていました。日本の歴史に足跡を残した武士を一人でもよみこみたいという強い思いがあり、『上毛かるた』の題材公募でも多く寄せられたことから、交渉を重ねて説得し、よみこむことができた札です。

GHQのご意向を押し切ってまで、義貞公を推した当時の上州人の熱意には頭が下がります。
いまだったら、高山彦九郎や中島知久平も入ってもいいと思う。

つでに「儀源寺」のことを。
儀源寺は、勾当内侍関連の寺。義貞との間にできた山吹姫を連れ新田荘に隠れ住んだ内侍は、出家して「儀源尼」となったという。
儀源寺 石碑
場所は群馬県太田市亀岡町141。中島知久平の旧邸の近くといった方が分かりやすいだろう。

大きな地図で見る
儀源寺 扁額
「曹洞宗儀源寺造営記念碑」にその由来がある。

わが儀源寺は関東の名族新田氏と深い因縁の絆に繋がれている。元弘三年五月新田義貞公は綸旨を奉じて義兵を挙げ忽ちにして鎌倉幕府を討伐した。その勲功を嘉せられ第九十六代後醍醐天皇の側近に仕えた匂当内待を宿の妻として賜った。勤王の志極めて厚かった義貞公は朝敵を亡ぼさんと各地に奮戦したが、武運拙く延元三年七月越前国足羽郡藤島において壮烈な最期を遂げられた。
勾当内侍は義貞公の首級を携えて東国に下り上野国新田郡武蔵島の地にこれを埋葬した。利根川の辺りに庵を結び剃髪して尼となり儀源比丘尼と称し正観世音菩薩の尊像を孰され生涯義貞公の菩提を弔った。次いで義貞公第三子義宗公の末妹覚心比丘尼が庵の第二世となった。更にその遺志を継いだ歴代の各比丘尼は御庵様と敬慕されて孰れも衆生済度に献身したが戦国時代の末葉に遂に廃寺同然となった。元和元年に再興、大洪水にあったが再建された……(以下略)

儀源寺 本堂本堂
儀源寺 大中黒屋根の瓦には新田の家紋「中大黒」がある。
儀源寺 碑記念碑には「当山歴代住職並歿年月日」が刻まれている。
第一世 儀源比丘尼 新田義貞公夫人 勾当内侍吉野山柊堂創建 生涯弔義貞公菩提 正平二十年二月一日逝去 
第二世 覺心比丘尼 新田義宗公末妹 宗良親王内室国良親王生母 終生献身衆生済度之淨業 元中八年七月七日逝去
後継歴代御庵比丘尼 
第三世 秋今比丘尼岩松尚純公室 第四世以降郷人尊称御庵比丘尼 
と続いて、現在が第二十三世となっていた。
この近くに、新田義貞と勾当内侍を祀った「花見塚神社」がある。
詳しくは、「新田遷都」総まとめ  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 第11回
中島知久平と新田義貞  新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第26回あたりで。

儀源尼となった内侍は、後醍醐天皇の即位から長慶天皇即位までを記した「儀源秘記」を残し、これを引き継いで覚心尼(山吹姫)が、興国元年の国良親王の時代から永享十三年の将軍・足利義教が赤松満祐に殺されるまでを書き綴った「南北朝新田覚心秘記」を、この寺で書いたことになる。そして、「南北朝新田覚心秘記」の表紙には「此ノ書ハ正平九年ヨリ五百年間禁書也」の添え書きがあったという。南朝側の歴史が書かれているから秘書としたのだろう。500年後といえば江戸時代の幕末期。倒幕運動に新田義貞が注目され、明治維新には南朝研究が盛んとなるから、この500年というのが何らかの不思議な因縁を感じてしまう。
それに、まさか、武家の棟梁となり天下を治める人物(徳川家康)が新田氏の末裔を名乗り、次の時代の日本の政治の中心的人物である井上馨の夫人が新田氏の末裔であり、そして天皇陛下のお妃が新田一門の末裔となろうとは、勾当内侍もこのときは思いもしなかっただろう。

さて、本堂の裏手には墓所があり、ここにも石碑がある。
儀源寺 洪水利根川の近くにあったため何度も付近一帯が洪水被害となったため、治水工事が行われたという記念碑だ。
このあたりの地名は「押切」という。押切とは川の水が押し切ってここまで来たという意味だ。
そう、まさに利根川沿いに内侍はいたのだ。
この川沿いには、新田一族の関連寺社はもちろん、徳川氏と新田氏を結ぶ世良田東照宮や長楽寺や満徳寺が存在し、この川を下れば児島高徳の寺「高徳寺」へ通じ、館林へ移住した新田一門の正田家もこの川を利用している。そしてこの川は江戸に通じるのだ。
関連記事
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やはり「ここ」には何かあるんですよ。
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