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新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第27回目 家康が名乗ったのは、なぜ新田源氏だったのか編 その1

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新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ第27回目
家康が名乗ったのは、なぜ新田源氏だったのか編 その1
このシリーズ、前回の「中島知久平と新田義貞」から約2年半ぶりですね。

早速ですが、今回はこんな話から入ります。(いわゆる落語でいうところの「まくら」)
「群馬伝説集成5 伊勢崎・佐波の伝説」(あかぎ出版)から。

栗観音と浄蓮寺
境町の上矢島字西浦に、浄蓮寺という新義真言宗の寺があります。
栗観音の話は、この寺にまつわる伝説、または史話として伝えられています。
今から六百年余り前の、延元三年(1338)のこと。新田義貞は、足利尊氏方の軍勢と、越前国藤島(福井県藤島市)地方で戦っていました。このとき、義貞とともに戦っていた武将の中に今井惟義(これよし)とその子の清義がいました。惟義父子は新田氏の一族で、矢島郷(上矢島)の東隣りの今井郷(西今井)の領主でした。
しかし、戦いは新田方の苦戦となり、ついに総大将の義貞は、藤島の燈明寺畷で討死してしまったのです。だが、その後も新田方は戦いをつづけていましたが、すでに勝利は足利方のものとなっていたのです。
ある日、今井惟義はその子の清義を呼び、「お前は、わが領地の今井郷に帰れ。そして、討死した義貞公をはじめ、新田一族の菩提を弔うのだ」と命じました。清義は足利勢と最後の戦いを挑み、潔く討死したかったのです。しかし、父の命令とあらば、仕方ありません。(父はその後、討死したという)
そこで清義は旅僧の姿となり、名も浄蓮と名乗って、越前国を後にしました。ここから、上野国(群馬県)の今井郷までは、はるか、いく百里と離れた遠い道のりです。しかも、あたりに目を光らせている足利勢の将兵に見つからないよう、身を隠しての忍びの旅です。もし見つかり、新田方の今井清義と分かれば、殺されてしまいます。清義は用心して、苦難の旅を続けました。時には深い山中に迷いこみ、栗の実を採って食べ、命をつないだこともありました。でも浄蓮(清義)は道中、かつて合戦したあとを訪ね、戦死者の霊を弔うことを忘れませんでした。
こうして浄蓮は、やっとの思いで故郷の今井郷にたどり着いたのです。だが、ここもすでに足利氏の勢力下に入っていて、浄蓮は何もすることもできず、ただ身を潜めているよりほかはありませんでした。だが、幸いにも、その姿を今井の村人たちがみつけたのです。「あの方は、今井様の若棟梁、清義様ではないか」「なんと、おいたわしい姿で。でも、よくご無事で」「だがこのままでは、足利方の落武者狩りに捕らえられてしまう」駆け寄った村人たちは、急いで浄蓮を矢島郷西浦の山中に隠しました。当時はまだこの辺りは深い山林で、人目の届かない所でした。
やがて、時は過ぎ、村人は山中の中(現浄蓮寺境内地)に小さなお堂を建て、浄蓮を住まわせてやりました。
浄蓮はこのお堂の中に、観音様を祀り、日夜拝んで戦死した新田一族の菩提を弔う、生活を続けました。藤島で別れた、父の志を浄蓮は固く守ったのです。
また、浄蓮は世話になった村人たちに、恩返しをしたいと考えました。そこで栗の木を育てることを思いたったのです。浄蓮は藤島からの苦しい旅の道中で、栗の実を食べ、命をつないだことを忘れなかったのです。浄蓮の育てたいく本もの栗の木には、毎年秋になると、たくさんの実がなりました。その実を浄蓮は村人たちに分けてやったのです。村人たちは大喜びです。当時の人たちにとって、栗の実は米や麦とともに、大事な食糧だったのです。それに保存ができるので、食糧難の時には貴重な食べ物となったのです。村人たちは、浄蓮への感謝の気持ちでいっぱいでした。「浄蓮様は、栗の実をならせる不思議な力をお持ちだ」「きっと、浄蓮様には観音様がのり移っているに違いない」
こうして、いつしか村人たちは、浄蓮の信仰している観音様を「栗観音」と呼ぶようになったとのことです。
やがて時は移り、室町時代の応永年間(1394~1428)のこと。新田氏にゆかりのある総持寺(旧新田郡尾島町世良田)から、秀範上人がきて、この地に立派なお寺を開山しました。寺の名は、今井清義の法名「浄蓮」をとって、浄蓮寺と名付けました。これが、今の浄蓮寺の起こりと伝えています。(後略)

その浄蓮寺に行ってみました。
場所はここ

大きな地図で見る

浄蓮寺 1

浄蓮寺 4
寺は建て替えられたばかりで真新しい。だが本堂のみで無住寺のようだ。
石碑を読んでみると、上記と同じようなことが刻銘されている。
浄蓮寺 2
「新田一族 今井清義隠遁の地」とあり、「清義は新田頭領家の第四代政氏の六男にあたる今井惟氏から三代目の人である惟義といって代々新田庄上今居郷(現 西今井)を領していた」という説明もあった。
浄蓮寺 3
新田一族であるので家紋を大中黒にしたということも書かれているので、あちこちに新田の紋を見ることができる。
浄蓮寺 5

浄蓮寺がある境町(いまは伊勢崎市と合併)は、かつて利根川を利用した川運で栄えた地域だった。「島村渡船」がいまでもあるというし、ネット上でもその手の話は多く上がっている。(ここが良記事、新田一族の話もあり)
鉄道も自動車もない時代、河川を利用した水運は重要な交通手段だった。大きな河川沿いに船着場ができ、人や物が集まりひとつの町として栄えた。河岸と呼ばれ、大きな問屋や蔵ができ商業集落を成した場所もある。それが、利根川沿いにも連なっている。
それは、現代でいえば、幹線道路沿いに同一のコンビニが作られる「ドミナント戦略」にどこか似てているかもしれない。

さてさて、ここで登場する浄蓮寺や総持寺も利根川は遠くなく、近くに河川もある。ほかに新田伝承を持つ神社・寺は利根川沿いに密集しているのだ。
「新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ」のキーワードは「「川(利根川)」です。
つまり、言いたいことは、この川に沿って新田伝承が点在しているということだ。
これまで見てきたように、大泉町の児島高徳、深谷市の渋沢栄一、尾島町の中島知久平、勾当内侍(そして高山彦九郎)、太田市の新井白石、館林市の正田氏(美智子皇后陛下)、世良田町の天海……などなど。

重要なので繰り返す。この河川に沿っていくと、新田伝承をたどっていくとが出来るということだ。(詳しくは、過去記事「新田義貞伝承を追う! 実は「東毛奇談」の続編 シリーズ」で。説明するは面倒なので、確認してください)

実はそんなことを感知した人物がいたのだ。
これをネタに次回以降「家康が名乗ったのは、なぜ新田源氏だったのか編」を開始します。

では、最後にもう一度地図を確認。
この境町は、利根川と広瀬川の合流地点となっている。広瀬川の説明では、「群馬県渋川市(旧北橘村)で利根川から分かれ前橋市街を南へ流れる。概ねJR両毛線に沿った形で流れ、伊勢崎市(旧境町)で利根川に合流する。」とある。
そしてこの広瀬川をたどっていくと、次のお題である場所へ行く。
それが「退魔寺」!
えっ、そこに新田伝承や家康と何の関係があるって……、
それは次回の話。

次へ続く……。

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