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歴史ミステリー小説「東毛奇談」 第6章 11

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「確かに東毛は日光と江戸の中間地点ね。地理的に見ても最適ね」
「よし、これで東毛が御用金隠匿場所の候補の一つとしては、問題ないだろう」
「でもそれだけで、東毛が選ばれたわけではないんでしょう?」
「もちろんだ。それに、まず徳川家が新田源氏を名乗る以上、東毛の地が聖地であることは、千ちゃんの話から分かった。それに埋蔵金法則の②の『埋蔵金は神社仏閣に埋められる』という項目を思い出してみな。これにより徳川幕府にとって東毛のある神社仏閣は、御用金を隠すのに最適な地であるといえるんじゃねーか。幕府の命運を左右する御用金を隠すのだから、幕府に協力的でなくてはならない」と弦さんはまとめた。
「世良田東照宮・長楽寺・満徳寺は幕府の保護を受けているし、太田大光院や金竜寺など新田を祀る寺院は多くありますからね」
「でもそうなると、おかしいわ。だって明治政府の時代となれば、徳川は排除されてしまうから、これらの神社や寺は危険だわ」
「いやそれが事態は違ったんです。なんと官軍にとっても、新田は尊敬の目で見られていたんです」真船は琴音の疑問を否定した。
「でも徳川を日々ひたすらに祈願する満徳寺は明治以降没落したというし、世良田東照宮も酷く荒れ果てたというじゃない。尊敬していたのなら、明治政府は援助したっていいんじゃないの」
「そうじゃない。一時的隠蔽場所だから、明治時代になって没落しようとも明治政府には関係ない。徳川色が特に強いところは仕方ないだろう。これは後で説明するが、幕府と官軍にとって安全地帯が選ばれただけであって、その寺や神社を盛り立てようということで、金を運んだわけではないからな。あくまでも一時的保管場所だから、幕末明治維新になっていきなり寺が栄えたりしたら、それはそれで都合が悪いだろう」弦さんが付け足す。
「それもそうね。権力者に頼まれて協力したと考えればいいわけね。でも官軍・明治政府と新田の結び付きがないような気がしますけど……」
「それが大ありなんですよ。幕末に尊王攘夷を唱える水戸派は、南朝を正統派と見なし、その忠臣であった楠木正成や新田義貞を尊敬していたんです。1864年に水戸の武田耕雲斉や藤田小四郎は、尊王攘夷を大義として天狗党を旗上げした。そして京都に向かって進軍していた途中に、上野国太田に入った。豪商、豪農の家を回って、軍資金を調達すると同時に、太田にいた新田義貞の子孫にあたるとされた岩松(新田)満次郎に尊王攘夷の旗上げと天狗党参加を迫ったんです。しかし岩松満次郎はこれを拒否して態度を明らかにしなかった。天狗党にとっては新田の末裔を担ぎ上げて、広告塔にでもするつもりだったらしい」
「岩松って、家康改姓のときに正田家とともに新田の系図を渡して、領土を安堵された新田一族の末裔ね」
「そうだ。話を戻すと、南朝方である新田義貞は、ある意味、英雄であったんです。尊王攘夷派にとっては南朝こそ正統派であって、それに味方する武将は忠臣の鑑ですから。そして時勢は尊王攘夷から、幕府討幕へ変化するが、ここでも義貞は尊敬された。それには訳があるんです。実は、歴史上討幕を武力で果たした人物はひとりしかいないということです。鎌倉幕府を倒したのは義貞ひとりではないが、問題は武力で時の権力者を滅ぼした点にあります。足利尊氏も討幕に尽力したが、北朝を立てて後醍醐天皇に反抗するので、南朝指向の討幕派から見て忠臣とは言い難い。そして室町幕府の場合は、織田信長が室町将軍足利義昭を京から追放しただけで、室町幕府は自然消滅に近い。そこで実際に時の治世者である北条宗家の高時を討った新田義貞は、武力をもって討幕を成功させた、英傑として崇められたのだ。挙兵当時、義貞は無名に近い存在であり、その兵力は少数であった。だが、攻め落とすのに十年、二十年かかるといわれていた鎌倉をわずか十数日で攻め入り、結果幕府を滅ぼしたのだ。この快挙は江戸末期の討幕派に大きな影響を与え、ひとつの理想と考えるようになった。それに義貞が幸運だったのは、時勢に乗ったということでしょう。鎌倉幕府への不満が高まってきたときに、いいタイミングで登場した。江戸時代の幕末も似たような状況であり、討幕派たちも義貞のような英雄が現れて徳川幕府を倒すことを思い描いていたんです」
「こんなところで義貞が出てくるとは思わなかったわ」
「例えば、後に日本近代化の父といわれた渋沢栄一は、青年時代に桃井可堂に学んだ。桃井は水戸学に傾倒し、江戸で学問を修め、帰郷すると学問所を開き、多くの志士を育てた。その中に天狗党入りした金井国之丞や小田熊太郎がいた。桃井は、新田義貞の義挙を理想として、密かに水戸藩と結び、赤城山で挙兵しようと計画した。しかし密告する者が出て、幕府の知れるところとなり自首すると獄中で没した。このように、義貞の行った討幕をビジョンとして掲げ、挙兵する者、同志を集める者がこの時代多く出たんです」
「まあ義貞だけではなく、楠木正成も同様だがな。それに明治政府が樹立すると、南朝方の武将は忠臣の鑑だとして、神社に祀られることになる。特に新田一族の出身地である東毛は関連寺社が多いから、それだけ神聖な土地だということになる」
「で、徳川御用金の話に戻れば、徳川幕府、官軍・明治政府にも東毛の地は神聖で中立的な土地といえるわけね」
「そうです。でもそれだけじゃないんです。太田にはもう一人重要な人物を輩出しているんです。それが高山彦九郎です」真船はそう言うと、高山彦九郎について解説してあるコピー紙を二人に渡した。
高山彦九郎……寛政の三奇人の一人。(あと二人は、林子平と蒲生君平)1747年5月8日に新田郡細谷村(現太田)に生まれた。5月8日が新田義貞挙兵の日であるために彦九郎は義貞に傾倒する切っ掛けとなった。同郷の英雄である義貞の生涯に共鳴し、朝廷への忠誠心を深めた。15歳のころより、神道学の山崎闇斎派に学問を学び、18歳に置き手紙を残し、京へ向かう。皇居が余りにも荒れていたので、涙ながらに土下座して皇居を伏し拝み、「草莽の臣 高山正之」と連呼し、幕府の皇室に対する姿勢を嘆いたという。現在も三条大橋のたもとに皇居を伏し拝む高山彦九郎の銅像がある。そして京の等持院にある足利尊氏一族の墓碑を、朝敵として鞭打ったと伝わる。この在京の時代、河野恕斎に学び、3年後に帰国。1769年に父彦八が細谷村領主の回し者によって殺害された。彦九郎は父の仇討ちを決意するが、師匠の細井平州に諭される。その意志は小さな仇討ちよりも、同じ命をかけるなら、幕府と戦えと、大きな仇討ちをするように説得された。この後彦九郎は各地を巡歴して尊皇・反幕の実践を唱えた。これが幕府にとって危険人物と見なされるようになり、役人の追及を受けるようになる。1791年九州に入ると各地を訪れ、薩摩にも入国。体調を崩しながらも尊王攘夷を唱えながら旅を続けたが、その年に久留米の旧知の医師森嘉膳宅で没した。その最期が壮絶であったと伝わっている。最期を悟った彦九郎は、日記や詩文などを破り捨てて、正に狂気の有様であった。このとき彦九郎は「予狂気」と答えたという。その後、彦九郎は辞世の句を二首差し出し、京に向かって拍手を打って祈念すると腹を切って自刃をした。手当ての甲斐なく、1798年6月28日に47歳で生涯を終えた。彦九郎の足跡は全国に及び、各地の有志との交流は、この後本格化する尊皇討幕運動の先駆けとなった。この高山彦九郎を顕彰するために明治12年太田に高山神社を創建、彦九郎屋敷跡と遺髪塔が国指定史跡になっている。

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消えた二十二巻

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