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物語を物語る

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歴史ミステリー小説「東毛奇談」第6章 16

物語を物語る



「幕末に尊皇攘夷を掲げて、京を目指し進軍した水戸浪士・天狗党の話はさっき言いましたよね。上野国入ると、挙兵して行動をともにしようと誘われた人物が岩松満次郎で、後に新田姓を名乗る人物です。岩松家は新田義兼の娘と足利義純の間に生まれた時兼を始祖としています。当初は新田方であったが、義貞死後に足利方に付いて勢力を伸ばした。南北朝以降は新田荘を支配する北関東の有力な豪族となった。新田義宗の子つまり義貞の孫に当たる満純は、岩松家の養子となり家系を継いでいく。実際に義貞の血統が繋がっているか疑わしいというが、これにより岩松家が新田氏を受け継いだということを表明したことになった。
その後、家純のときに分散されていて岩松家を統合して、金山に城を築く。昌純の時代に内紛が起こり、家老職の横瀬氏の下克上により、実権は横瀬氏に移る。この横瀬氏も後に義貞の子孫を称して由良氏を名乗ることになる。そして天正14年に北条氏の攻撃により、金山城を開城して、由良氏は桐生城に退去した。由良氏は徳川家康が関東に入部すると、北条氏に抵抗した功があったとして、常陸牛久に五千石で移封された。一方、岩松家は家康と拝謁すると、新田郡の一部20石が与えられた」
「えっ20石」
「そうだ。その後世良田に移され、寛永18年に新田姓から岩松姓となり、新田を名乗ることは出来なくなった。この年代に注目すれば、徳川家の新田子孫継承が完成するころであり、この2年後に寛永諸家家系図が成る。寛永21年には日光にあった東照宮を世良田に移築するなど、新田政策が進んだんだ。そして寛文3年に百石が加増され百二十石となり、そのまま明治に至った」
「細々と新田継承者は明治まで生き残ったのね」
「そうです。そして幕末に突如としてこの岩松満次郎が注目されたのである。この満次郎は後に新田俊純と名乗るのだが、龍舞さん知りませんよね」
「もちろん知りません」
「俺だってこのことを調べるまで全く知らなかったな」
「それはそうでしょう。少し解説します。幕末に起った尊王攘夷運動の波が、上野国にも押し寄せた。そんな時期に水戸の天狗党が現れます。これに触発されて東毛出身の金井之恭・高木七平・大館謙三郎らが岩松満次郎を説得して討幕運動の盟主に据えようとしました。しかし満次郎はこれを拒否して、天狗党は京を目指して去っていきます。ここまでがさっき話したことです。その後討幕運動は更に盛り上がり、1867年・慶応3年に満次郎は新田一族や同志ら460名を集め新田勤王党を結成する。そしてその翌年、東下してきた東山道総督府に従軍することになる。満次郎は、勤王党の中から精鋭40名程を選び出し新田官軍を組織する。この新田官軍について『群馬県史』によると『その頃、満次郎の軍の中に群馬郡権田村の農民が2人いた。そこで金井五郎(之恭)や大館謙三郎らは、彼らに、東善寺に引きこもっている小栗忠順の行動を探索させ、それを総督府に通報することにした』と書いています」
「本当なの、またつながってきたわ」
「そして4月2日に行田に入った総督府に、新田官軍は従軍すると、小栗に反逆の意思があると、報告した。この報を受けた総督府は、小栗を捕らえて、3日後に処刑する。そして4月8日、この功によって満次郎は、総督府から銃35丁と弾薬、食料などをもらうとともに、菊の章旗を授けられ正式に官軍として認められたんだ」
「ということは、小栗が捕まり斬首された切っ掛けを作ったのは、新田の末裔ということになるわ」
「そうなります。この後に総督府は、会津藩が上越国境に拠点を築き上州に侵攻するとの情報を得ると、早速新田官軍に出撃命令を出した。満次郎はその命を受けて、沼田城に入った。この日満次郎は『朝臣』に任ぜられる。三国戦争で官軍側の勝利した後に、新田官軍は東京市中取締りの任に当たった。明治2年1月14日に役目解除命令が出て、新田官軍は解散した。満次郎は中大夫・従四位下の位に任ぜられるが、明治政府に登用されることはなかった。満次郎は新田俊純と名乗り、明治17年に男爵となった。明治27年、満次郎は66歳で亡くなり、墓は東京都台東区谷中の天王寺にあって、遺髪塚は長楽寺にある。といったところが岩松満次郎こと新田俊純の大まかな経歴です」
「徳川埋蔵金伝説と新田伝承を持つ者がつながった。俺は、徳川御用金は一時的に東毛の地に隠したと推理したが、そこに新田氏の末裔が登場することが一つの理由になっている。まあこれは千ちゃんの調査のお陰だけどな。しかし満次郎の行動は面白いな。まるで狂言回しのような役回りだぜ。小栗が徳川御用金を隠し持っていると満次郎が官軍に報告してから、小栗の悲劇に拍車が掛かる。反逆の意思あるとみなされて、捕らえられると結局は処刑されちまった。その一方で満次郎は功績を認められ、官軍側として正式に参加するわけだからな」
「でも小栗には反逆する意思など少しもなかった。後のことですが、明治政府も小栗は無実だったと認めているんです。そこでこのあたりを年表で見ると見事に勝海舟の行動と満次郎の行動がシンクロしているかが分かるんです」
「確かに、小栗は急いで殺された感じね」
「あともう一つ、勝海舟の行動で奇妙なことを示す証言があるんです。小板橋良平著『小栗上野介一族の悲劇』から抜粋します。『小栗上野介が金井荘介、鬼金、鬼定等の率いる暴徒に襲撃を受ける前後、東山道官軍の本隊は、下諏訪に滞在中であった。不可解なことに、この前後、徳川家陸軍総裁の勝海舟が熊谷付近まで、お忍びで出張って来ているのである。このことは東山道幹部だった薩摩藩士有馬藤太の回顧談にもあり、期日は三月三日前後とはっきりしている。『……その時のことだが、勝安房守が大岡郁太郎を従え、東山道総督に拝謁を願い出て、何事か言上したいという書面を差し出した。そこでその趣を尋問するようにとの命令があった。私は足軽一人を連れて熊谷駅の一つ手前の駅(本庄)の海舟の宿舎まで行き『何か言上の次第があるとのことで私がまかり越した』(中略) ところが彼の手になる『慶応四戊辰日記』には、勝が熊谷や本庄駅に出かけた形跡は見当たらない。日記は三月三日四日が空白になっている。~幕末研究家栗原隆一著「政敵小栗上野介を殺した男」より……』と孫引きだが引用してみました。何しろこんな重大な証言はないですからね。まず勝が官軍と密談を行っていたとされる三月三日から四日は、小栗が権田村で暴徒と戦っていた日時と重なります。そして問題としたのが、勝が訪ねた熊谷から本庄の地域を地図で確認して見ましょう。そこは、利根川を境にして群馬県東毛地区と接する所なんです。深谷市と尾島町が橋を介して結ばれているように、太田市と妻沼町・熊谷市が利根川を挟んで結ばれている」
「確かに近いわね」
「この証言が正しければ、勝は江戸無血開城一ヶ月前の忙しい時期に、何の目的があってこんなところまで来たのか。そして何故、ここに来たことを隠したのか」
「一つには、東山道総督府側の官軍と話しをするため。だがあまり隠す必要はないと思うが……。饒舌な勝のことだから、後年の回想録でその辺りのことを語ってもいいはずだ。でも言わなかった。他の理由だとすれば、小栗の様子を見に来たとも言える。だが、既に政治的影響力を失っている者の行く末を案じるほど暇でもあるめい。ただ、徳川埋蔵金伝説流布させそれに乗じて御用金を隠す計画となると、小栗は重要な役回りだ。勿論小栗本人は知らないが……」
「案外うすうす知っていて、その役を演じたのかも」
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消えた二十二巻

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