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物語を物語る

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歴史ミステリー小説「東毛奇談」第2章 2

物語を物語る

車は第二の目的地である円福寺に20分ほどで着いた。
円福寺は太田市由良にある寺で、新田宗家の住居跡ともいわれ、新田宗家代々の墓がある。
駐車場に車を停めて、山門から寺内に入る。境内には時代物のブランコや滑り台があって、近所の子だろうか4、5歳の子供が数人で遊んでいた。またそれとは別の子供の声がした。そちらを向くと、寺に隣接して幼稚園があるのがわかる。その反対側には墓地が広がる。現在ここは町内にある寺のひとつという性格が強い。そして境内の北側に真新しいお堂が建っている。
「この寺もしばらくは住職がいない状態で荒れていたらしいんですが……。歴代新田氏の墓があるというので整備されはしましたけど、どこかさびしい感じがしますね。整備されたというのもNHKの大河ドラマ『太平記』が放映されることが決まってからですから、それ以前は想像もつかないほど荒れていたという話です。その証拠に整備前にここを訪れた新田次郎氏は自作『新田義貞』の中でこの場所をこう表現しました。『円福寺は、無住職の寺で、荒れ果てた境内の裏手を廻ったところに五輪の塔が数基並んでいた。新田氏代々の墓だといわれても、にわかに信じがたいような佇まいであった。新田氏代々の墓という感じはなく、どこかそのあたりにころがっていた五輪の塔をそこに集めて置いたようにさえ見えた。訪れる人は無いらしくなにもかも忘れさられた過去を見るように悲しい気持ちで五輪の塔に手を合わせると、頭上で小鳥の声がした。それが救いだった』と書いています」
「まあ寂しいわね。でも『新田義貞』を書いた新田次郎ってどこかで聞いたことあるわ」
「昭和30年に『強力伝』で直木賞をとって以来、『孤高の人』や『武田信玄』など山岳小説、歴史小説で一時代を作った大作家ですよ。『八甲田山』という映画を見たことありませんか?」少し語気を強めて聞いた。
「あっ、テレビで見たような気がしますが……。すいません無知で……」真船の勢いに押されて、琴音は思わず謝った。
「別に謝ることはありません」と真船も初対面の人に噛み付くことはないと少し反省した。新田次郎に関してならこのままあと1時間でも話してしまいそうだ。
「それでですね。義貞を書いた経緯が面白いんです。実は新田次郎というのはペンネームで、本名は藤原だという。長野県諏訪市角間新田で生まれたのでそこから新田を取った。次男坊であったので次郎にしたという。『しんでん じろう』では響きが悪いから『にった じろう』にしたという。そして同じ『にった』ということでどこか奇縁を感じて義貞を主人公にした小説を書いたというんですよ。なんか良い話でしょう」
「確かに。自分で付けた名前がたまたま同じでね。なにか縁というか、運命だったのね、きっと。興味がわいてきたわ。それで新田一族ってどういう系統だったんですか?」
「長くなりますけど、基本項目なのでじっくり説明します」といって真船と琴音は少し急な石階段を上った。そこには古ぼけた小さな馬頭観音を祀るお堂がある。そして真船は話を続けた。
「新田氏というのは清和源氏の流れで、八幡太郎義家といわれた源義家から義国と続き、その長兄が新田義重と名乗り、次兄は足利義康と名乗った。新田と足利はもともと同系であったのです。
そして源氏直系は、義家━義親━為義━義朝━頼朝と続き、鎌倉幕府を開くことになる。つまり義家からの系統が、これ以上ない武家の名門であることは間違いないでしょう」と言って系図を見せた。
「源義家の子義国は、1091年の生まれと言われているが、異説もあって確証はされていない。まあこの年代ということでいいでしょう。このころの中央政治は白河上皇が院政を始めて摂関政治の時代を向かえていた」
琴音は日本史の教科書を思い浮かべた。
「白河上皇の政治姿勢は、源氏と平氏の武士同士を対立させることにより、その権力を維持しょうとしていた。それに権謀術数を謀り、源氏を内訌状態にして武家の勢力を削ごうとまでしていました。その煽りをうけたのが源義国で、結局は都を去ることになるんです。そして東国の下毛国足利荘に領地があったから、そこに移り住んだ。そこで義国はめげずに領地開拓に励んでいくことになる。後に足利荘から新田荘に移り、今度は新田荘の開発に取り組む。義国は新田荘で没すると、長兄の義重が新田荘の開発を受け継ぎ、足利荘に残った次兄義康が足利荘を引き継ぐ。ここで新田家と足利家に分かれたことはさっき言いましたよね」
「ポイントは足利と新田はもともと同じ義家の子孫というところね。ということは、本家は新田というわけ?」
「そこが難しい。当時は長男といっても嫡男というわけではない。生母の出自にもよりますから。それが新田と足利どちらが嫡流かははっきりとしていない。後の知名度などから、足利の方が本流と思われているが、これは新田が認めないところ。だからこそ、新田と足利は戦うことになる。互いに譲れないからね……。
さて新田始祖の義重だけど荘園の開発を進めていって、最終的には東群馬から北埼玉の深谷や妻沼まで荘園を広げ、かなりの広範囲に及んだ。また義重の子らが、新田諸家となり、後に名を残す子孫となった。滝沢馬琴の『里見八犬伝』というのを知ってるでしょう」
「ええ、南房総の番組取材でいきました。館山にお城の復元があって、その中の展示品も見ましたから」
「そうですか。その里見家は新田義重の長男義俊が里見家の始祖となっているんです。後年、戦国時代には安房里見家が房総方面を本拠として発展していった。馬琴の里見八犬伝はこれをモデルにしている。そして義重の次男である義兼が宗家を継いで、後の新田義貞、脇屋義助を出した。三男義範は山名家を起こして独立していく。これは南北朝時代に十一ヶ国の守護職を領して六分の一殿といわれるほどに勢力を伸ばした山名氏です。応仁の乱のとき、細川勝元と戦う山名宗全もこの系統である。そして、四男義季が後に徳川家康が系統を結びつけことになる世良田家を起こしました。得川郷にも領地があったから得川氏とも呼ばれたんだ。五男の経義は額田氏と名乗った。これら義重の子孫は新田荘以外にも上野・越後・信濃へと勢力を広げ、新田一門は発展していったんです」
「新田一族って、それほど勢力を伸ばしたのに、結局は足利一族と差がつくわけでしょう。どうして?」
「まあ、それにはいろいろな訳があるんだけど。新田家と足利家が明暗を分けた一大事件があった。それが1180年に起きた、源頼朝の挙兵です。源氏再興のために頼朝は東国武士らに挙兵を呼びかけた。このとき多くの武将が立ち上がったんだけど、新田義重はこれに応じなかった。しかも最初は平氏側に付き、その後も、自立の志を掲げて平氏・源氏のどちらにも同調しないという態度を示した。新田義重には豊かな土地を基盤とした資金力があり、武家の棟梁になるのは自分だという密かな野心があったといわれる」
「しかし歴史通りに、現実は厳しかったというのね」
「そうですね。そうこしているうちに、源頼朝は東国を制覇して武家の主であることを宣言する。ここまで来ると義重の野心も失せてしまい、急遽鎌倉にむかって、頼朝に面会を望んだ。しかし4ヶ月も遅れての参陣はあまりにも具合が悪い。しかも野心があったのではないかと勘ぐられたのだ。兄弟でさえ信頼していない頼朝のことだから、同族といってもかなり責められことは想像に難くない。それでもなんとか、許されて、鎌倉御家人の列には加えられたが、新田家の信用はなくなり重要な地位に就くことはなかった」
「それで足利一族の方はどうなったの?」
琴音は食いついてきた。真船は教員採用試験で教壇に立ったことがあったが、そのときは散々な結果であった。生徒たちは彼の話を熱心に聴こうとしなかった。このとき教師に向かないと悟ったのである。今、真船の話を、目を輝かせて聞く琴音の顔を見て、真船の弁舌にも力が入る。
「一方の足利家始祖義康は、頼朝が挙兵したときいち早く馳せ参じた。この功あって頼朝の信頼を勝ち得た。しかも義康の子である足利二代目義兼の生母と頼朝の生母が姉妹であり、義兼は鎌倉幕府初代執権・北条時政の娘を妻としていたから幕府との血縁関係も深い。そのこともあって、足利家は幕府内で重要な地位を幕府創成期から確保したんだ。新田家と足利家は鎌倉時代において勢力の差が歴然と開いてしまうのがこの一件からです」
「でも源氏の直系は三代で絶えてしまい、そのあと北条氏の時代で盛り返すことはできなかったの?」
「それがそううまくいかなかった。この後も新田家は低迷する。しかも新田一族が一枚岩といかなかった。まず新田宗家の惣領権を本家から庶流の世良田家、岩松家に奪われる。また新田政義の代には職務失態をして幕府から放逐される。世良田氏も親氏が北条氏の執権職争いに係わり、事件処断により、佐渡に配流されるなど災難続き。新田荘は足利家寄りの岩松家の支配となり、北条得宗・政所所司の役人が入荘してきて、新田宗家の影はますます薄くなってしまった」
「まったくの低迷期ね」
「そして鎌倉幕府も蒙古襲来、北条氏に対する豪族の反乱などが起きて、弱体化していく。一方足利家は、鎌倉幕府内で有力御家人として地位を保ってきたが、足利家時のときに北条氏へ挙兵を画策したが失敗して自刃して果てた。そのとき遺書を残した『わが命を縮めて、三代の後に天下を取らし給え』というものだった。その三代目というのが足利尊氏となるわけです」
「やっと尊氏や義貞の時代となるわけね」
「おっと、その前に、予備知識を説明しておかないと。新田始祖の義重は、赤城山東麓の大間々に新田の隠し館を建て、鍛冶場を作ったという伝承がある。義重は、そこで鉱石や鉄鉱などを採掘して、製鉄を行わせていたというんです。義重には当時の貴族支配を破って武家社会を築こうという野心があって、それに備えていたという伝承が伝わっています。鉄といえば、この近くに多々良という地名も残っていて、このあたりに製鉄技術が伝わっていたと考えられます。またさっき行った金山に山城を最初に築いたのも義重といわれ、金山に鉄が出ることを知った義重は、そこにたたら場を作って製鉄に力を入れたという説もあるんです」
「製鉄がひとつのキーポイントになるっていうことですか」
「そうですね。金山の山麓には古代五世紀中期に作られた天神山古墳がある。東日本最大の前方後円墳でね、そこから鉄剣や武人の埴輪が出土されている。よく教科書なんかで見るオーソドックスな武人の埴輪あるでしょう」と言って真船は琴音に埴輪の写真を見せた。
「あーあります。これって大魔神が変身する前ですよね」
「そんな古いことよーく知ってますね」
「まあその映画は見たことないけど、よくテレビで出てくるじゃない」
「そうですね。これは『挂甲武人像』という埴輪で国宝に指定されて、今は国立上野博物館に保管されています。さて、重要なのは、この武人の格好です。兜に刀剣、つまり鉄です。この周辺は今で言う工業団地のようなもので、最先端の技術を持った工人が多く集まっていたんです」
「ふーん、古代から鉄鋼に関心があったというわけね」
「そうです。そうなると、もともと製鉄技術が伝わっていた土地に新田一族が住み着いたともいえるんじゃないでしょうか。新田次郎氏の小説でもこの点が取り上げられていて、刀鍛冶やたたら師が登場して、物語の重要な役回りとなります」
「武将にとってそれほど製鉄は重要だったのかしら?」
「もちろん。土地を基盤とした武士団は、鉄鉱の技術が新たな財力を生み、武力的にも優位に立つと知っていたんです。そしてなによりも義重にも大望があった。新田一族が武家の棟梁になるという夢です。これは義重の時代には果たすことはできなかった。それが一族の宿望として残ることになる。一方この大望は足利一族も持っていた。源氏の嫡流は途絶え、平家北条氏の時代にあってこの大望は達しなければならない待望へと変わった。源氏一族は時代の変わるのをじっと待っていた。そして遂にその時はやってきた。新田一族の希望の星、義貞が生まれたのが1301年で、ライバルの足利尊氏が生まれたのがその5年後のことだった。だいぶ話しましたね。それでは次に生品神社へと移動しましょう」
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消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


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