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物語を物語る

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歴史ミステリー小説「東毛奇談」 第2章 3

物語を物語る



再び車に乗り、第三の目的地である生品神社に向かった。車で10分ほど走ると、色の落ちた朱色の鳥居が見えた。道が混んでいなければもっと早く着いたのに、と真船は言った。だが琴音にとってはそれほど急ぎの仕事でないし、今となっては、ちょっとした旅気分を味わっている感じであった。
5台も停めれば満杯になるような狭い場所に車を駐車させると、真船に促されるように琴音は車を降りた。
「静かだわ」琴音はまず感じたことを言った。人っ子ひとりいない神社は余りにも荒涼としていた。
二人は、神社の由来が書かれている案内板を一通り読み、そのまま奥へと進む。社務所を抜けて、境内に入ると、琴音は辺りを見渡した。林が鬱蒼と茂り、風が吹くたびに激しく枝を揺らした。境内は侘しいというより怖いという印象を与えている。また小さな社がなお一層寂しさを誘った。
琴音はこの神社の殺伐とした姿に正直いって驚いた。車中、真船が持ってきた新田関連の本を数冊パラパラとめくって予備知識を頭に入れ、次に行く場所をチェックした。そこには、太平記の里として必ず生品神社の名前は登場するだけに、勝手に荘厳な社殿を想像してしまったのだ。写真と今ある姿とのギャップに戸惑いさえ覚えた。しかも参拝客どころか、人影は全くない。国指定史跡などといっても、地元に関心がなければ時代とともに忘れ去られてしまうのかとも感じた。だが琴音の心中では違う感情も湧き出てきた。
新田義貞。
日本史に詳しくない琴音といえども、この人物の名前ぐらいは知っている。とはいえ、義貞がしたことといえば鎌倉幕府を倒したということぐらいの認識しか今まではなかった。しかも太平記の時代といえば、やはり後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成を思い浮かべて、義貞はどうしても脇役というイメージでしかない。だが、こうして新田氏の事跡を訪ね歩き、知識を与えられると自然に興趣が湧いてくる。これは琴音の職業病と言うべきか、それとも性格なのか、もっと知りたい病(自分で付けた病名、もっといい名称はないかと思っているが、これが一番しっくり来る)が発症する。知的好奇心旺盛な琴音にとって、こうゆう刺激を受ける瞬間がたまらない。しかも新田側からこの時代を見るのは、琴音に知識が無い分、とても新鮮に感じられた。
そこに真船が口を開いて説明を始めた。「作家の新田次郎氏は、現在でいう気象庁に勤務していて、昭和14年の夏に雷雨観測のために、1ヶ月の間、この生品神社の社務所に滞在したといいます。その40年後に新田義貞の小説を書いたわけですから不思議なめぐり合わせですね」
「そうなると、わたしがこうして新田史跡を巡るのも何かの縁なのかしら」
「きっとそうですよ」
二人は社殿を見た後、社務所の横にあるかなり古いベンチに、並んでちょこんと座り、新田について再び語りあった。
「1301年に義貞は生まれました。場所は台源氏館、通称由良館でこれはさっきみた円福寺のことです。しかし生年・出生地ともに諸説あり、里見家から養子に入ったという説もあります。そして義貞の幼名は、小太郎といいましたが、青年時代のエピソードもあまりありません。これは新田宗家が鎌倉時代末期に衰微していたため、正確な資料も無かった証拠であるといわれています」
「それほど没落していたのね」
「一方、足利高氏は時の得宗・北条高時から『高』の一字賜り高氏としていた。また現執権・赤坂流北条守時の妹、登子を妻としていて、幕府内でも重きを成していて、足利家は第一の御家人といえるでしょう。このとき新田家は地方の豪族ぐらいにしかみられなかった。源氏の嫡流が途絶えていた当時、義国の長男である義重が本流であったと考えれば、この義貞こそが嫡流であると新田一族は思っていた。しかし現実には、足利一族の力は強大であり、自他ともに源氏の嫡流は足利家であると認識されていたのです。この差が後々に響いてくることになります」
「問題は源氏嫡流を名乗る系統が2つあるということね。互いに主張して譲らない。でも世間的には足利が源氏の嫡流と見られていたのね。でもそれだけ差の開いていた新田と足利だけど、尊氏のライバルと言われるまでに一族を盛り返した義貞は英雄なんでしょう。でもその割には評価が低いようにみえますけど」
「それに義貞に対して凡将であると評価されることが多々ある。戦前は楠木正成が忠臣の鑑として持ち上げられ、義貞はその陰に隠れた。戦後は尊氏が賊軍という枷から解き放たれたことにより、義貞はここでも比較され、凡将であると片付けられた。義貞はいつの時代も正当に評価されないんです。その後の新田一族の運命も併せて、義貞は悲運の武将といえるでしょう。それでは義貞がなぜ凡将と片付けられ、正当に評価されないのか、ひとつひとつ検証して行きたいと思います」
「まあ判官贔屓というか、地元贔屓というか。でも正当に評価されない人物を弁護しようという姿勢はいいことだと思います」
「まあ何と言われようが、誹謗中傷に対して反論したいと思っています。今でも義貞を弁護しようなんて動きは戦後ではあまりないでしょうから」
「えっ、というと戦前はあったわけね」
「そうです。天皇に忠誠を尽くしたということで、一族もろとも大いに持ち上げられた。でもやはりいま読むと歪んでます。粉骨砕身、命まで帝に捧げたなんて具合でね。だから戦前戦中のときに、変に持てはやされた分、反動で戦後一気に貶められた」
「後々の第二次世界大戦で国威発揚のために利用されるとは、新田一族も思ってもいなかったでしょうに──。それもまた悲運ね」
「だから現代では新田一族を褒めたりすると変な風に誤解されてたり、別な意味にとられてしまう。だから妙に触れないようにしているのかもしれない。それが新田の関連遺跡をみれば分かるような気がします。無関心が荒廃を呼んでいるといえます。まあそれは別のこととして、義貞について検証していきましょう。これがずーと後のことにまで影響しているので、すこし長くなりますがいいでしょうか?」
「もちろん、いいですよ」と琴音は軽くうなずいた。
「ではまず第一点目。義貞が鎌倉攻めで兵を挙げる前、1333年2月ごろのことです。この時期に護良親王から反北条氏側に加わるように綸旨(令旨)を受けたんですが、義貞が挙兵したのが5月。この間の3ヶ月、何をしていたのか、なぜすぐに兵を挙げなかったのかという批判です。天皇に忠誠を示す意味でもすぐに行動を起こすべきであったというんですが……」
「つまりは3ヶ月の間、事の成り行きを見ていた。つまり北条氏が不利になってから兵を挙げたのではという、疑惑をかけられたということね」
「その通りです。まず当時の状況はこうです。
1324年、義貞挙兵の9年前。後醍醐天皇の倒幕計画が発覚、鎌倉幕府は、土岐親兼、多治見国長らを処刑して、日野資朝、俊基らを捕らえた、いわゆる正中の変が起こる。そして1331年に、再び後醍醐天皇が倒幕を企てる。しかしまた事が発覚して、天皇は笠置山に逃れた。幕府は大軍をもって、笠置城を落城させ、天皇を捕らえると隠岐に流した。だがここで、楠木正成は宮方に味方して赤坂城に籠城すると北条軍に抵抗し、落城後も千早城に籠もり戦いを続けた。
この戦いに、幕府軍の一軍として義貞は一族とともに参戦していました。その義貞に後醍醐天皇の子である大塔宮護良親王から倒幕計画に参加するようにという綸旨(令旨)を受けたといいます。それを受けて義貞は千早城攻めをやめて、病気を理由に本国新田荘に帰りました。
この時期、鎌倉幕府は度重なる反乱に対して、大軍を一気に差し向けて京都を鎮圧することにした。それには軍資金を大量に調達しなければならない。早速、東国一円に軍資金を課し、兵糧、軍夫の徴発を始めたんです。さて新田荘ですが、ほかの土地よりも多くの税金が課せられた。それは新田荘には世良田郷があって東山道の宿駅として大いに栄えていたんです。そこで裕福な者が多いという理由で、六万貫文を五日で納めよと通達してきました」
「六万貫って多いんですか?」
「一万貫が米換算で一万石ともいわれます。それに当時は米の値が高騰していて三倍にもなったともいわれていますから、どっちにしても巨額であったことには間違いない」
「幕府も急を要したというけど、でもかなり無理があるわ」
「京付近では、悪党などの反幕府行動が盛んとなってきたから、幕府方としては一刻を争う事態だった。ついに、新田荘には幕府から出雲介親連が派遣され、得宗代官の黒沼彦四郎らとともに、勝手に徴発を始めた。今までも黒沼らは幕府の権威を笠に着た所行が多く、しかもこの税の徴収で株を上げようと躍起になっていた。一方的な税の徴収に新田荘の人々は苦しみ、しかも納めない者を無理やり庄屋に閉じ込めて無体に責めたりした。新田荘の人々は幕府の小役人にやりたい放題されたんです。耐えに耐えていた義貞であったが、ついに暴発した。『わが館の近辺を木ッ端役人の馬蹄に踏みにじらせたのは返す返す残念だ。どうしてこれを見逃しておかれようか』というと両名を生け捕り、黒沼彦四郎を晒し首にした」
「拍手喝采というところだけど、そう簡単にはいかなそうね」
「この突然の暴発は幕府の知れるところとなり、義貞と弟・脇屋義助の首を差し出せといってきました。それはそうでしょう、幕府にしてみればこれこそ反逆行為に違いない。そこでこの火急の事態に新田一族は寄り合い評定を開くが、そう簡単に話はまとまらない。何しろ相手は幕府ですから、敵とするには強大過ぎる。といって一族の長である義貞の首を差し出すわけにもいかない。とりあえずは兵を挙げて利根川付近で幕府軍を向かえ討つといった意見や一族のいる越後まで逃げ延びようという意見まで出た。だがここで一番大胆なことを言った脇屋義助が一族の運命を変えてしまった。それは『武士の面目を保つため討って出て、鎌倉を枕にして討ち死にしょうではないか、運を天にまかせよう』と。この意見に新田一族は決意を固めて挙兵することにした」
「ちょっと待って、そんな簡単に挙兵してしまったの。それが歴史を変えることになるなんて……」
「そうなんです。鎌倉幕府滅亡の真相は感情の暴発だったともいえる。1333年5月8日午前6時ころ、ここ生品神社の社前で、義貞は綸旨を三度は拝礼したうえで、一族の旗上げを行った。一族百五十騎はまず、上野国守護所のある笠懸野に出陣し、そこを攻め落とした。そして一気に鎌倉へ向けて南下を始めた。この義貞が挙兵した日に、京都では足利高氏(当時)・千草忠顕・赤松円心らが幕府の京の要所・六波羅探題を攻め滅ぼした日であった」
「疑われた点は、京都で反北条側が優勢であったことを見越して挙兵したのではということね。でも義貞が挙兵したのはやむを得ずにしたことといいたいのかしら」
「それもある。その前にはっきりしておきたいことがあります。幕府倒幕の指揮を執っていたのはだれかということです」
「うーん、まあ義貞ではないことは確かで、楠木正成でもない。尊氏でもなさそうね。倒幕を一番望んでいたのは後醍醐天皇だから、天皇かしら」
「半分当たりだね。幕府を倒すというのは一種の反乱です。全国各地で一斉に蜂起するのは反乱・革命の基本であり、それを指示できるとなると天皇しかいない。だけど、天皇は京にほど遠い隠岐に配流中の身であった。そこで代役となり、実際に指揮を執ったのは護良親王しかいない」
「確かにそうなる」
「そこで義貞の挙兵ですが、感情の爆発としても、あまりにもタイミングが良過ぎると思いませんか。京都での高氏らの反乱と符合を合わせたようにでしょう。しかも義貞が挙兵すると各地にいた一族らが直ちに駆けつけ参陣している。そんなところをみると、下準備はしていたのではないでしょうか。やはりここは、新田一族挙兵も護良親王が計画した中に、含まれていたのではないかと思うんです」
「でも親王は義貞ら新田一族にそれほど期待していかのかなあ。鎌倉攻めを指示していたとしても、足利一族と違い力が無かったでしょう。百五十騎で幕府の本拠を攻めるようになんて指示したとしたら、少し酷じゃない」
「確かに新田家は東国の一豪族ぐらいにしか見られていない。ただ親王の意図は違う所にあったと思うんです。ちょっとその前に、義貞の挙兵は足利高氏の指示であったという説もあるんですが、これはどう思います?」
「それはありうるかも」
「いや、自分の考えではこれはありえないんですよ。この時期は幕府に反抗する者もいれば、逆に密告する者もいて、だれが信用できる人間が分からずに、みんな疑心暗鬼となっていた。だれが幕府側か宮方かは一見して分からない。それでも自分の家、一族を守るにはどちらかにつかなければと、みんな腹の探り会いの状態だ。そこで足利家ですが、北条氏有力御家人の一つで、北条氏とは婚姻関係にあった。そんな足利家だ、よほど高氏を信用していなければ、同調して挙兵なんて大事を犯すはずがない。第一義貞と高氏の間にそれほどの信頼関係があったと思えない。高氏にしても、源氏の本流として義貞を担ぎ上げれば、新田と足利の祖先からの確執があったのに、わざわざ新田を旗頭にして持ち上げることをするはずがない。新田一族がいかに凋落していようと、義国の長男は新田始祖の義重であるかぎり、源氏の嫡流というブランドを足利が守るためにも新田は表に出て活躍してもらいたくないはずだ。それに新田の戦力を頼むほど、足利方に兵力もないわけではない。それにもし、挙兵の指示が高氏から、義貞にあったとしても、新田は足利に対して先祖代々恨みがあるから、逆に利用するかもしれない。つまり足利方は幕府に叛意があると訴えてでたとしたら、高氏の行動は事前に露見してしまい、ついには足利一族の没落を意味する。聡明な高氏がそんな危険なことをするかな。同じ源氏だといっても源氏の嫡流の問題を考えれば高氏と義貞に協調体制が取れるはずが無い。だから義貞の挙兵はだれか強力な指導者の手で指示されたと思うほうが自然だと思います」
「となると、その指導者が護良親王となるわけね」
「そうです。では新田一門になにを期待したかというと、考えられるとすれば、上野国など東国で挙兵し、楠木正成のように城に籠城して北条軍を引きつける役目ではなかったかと思います。幸いにして新田荘には難攻不落の金山城があります。だから最初に、義貞は綸旨を受けてなぜすぐに挙兵しなかったかという批判にはこう反論できます。本国上野に引きこもって、金山に籠もるための準備をし、親王からの挙兵の指示を待っていた。そんなときに幕府から税の徴発がきてやむ得ず挙兵したというのが真相ではないか、というのが私の考えです」
「でも結局は鎌倉を攻めて、北条氏を滅ぼしたのよね」
「そうなります。10年20年かかっても攻め落とすことが難しいといわれた鎌倉を挙兵してから13日で落としたのですから」
「なるほどね。それが第一の弁護ね。じゃー第二点目は?」
「第二点目は鎌倉幕府倒幕後に、武家の諸将が足利側に付いたのは、義貞に人気がなかったからだ、という説です」
「確かに、義貞に味方するものが多ければ、足利方に負けることもないから」
「いや、これは義貞個人の問題ではないと思うんです。新田家と足利家の実力差がそのまま出ているに過ぎないんです。足利家は全国区の知名度があり、新田家には公家にも清和源氏であったことさえ知る人は少なかった。この差は、この後も縮むことはなかった。全国の諸将が足利家こそ北条家滅亡後の武家政権を担う家柄であると考えたのも無理のないことでしょう。新田一族が公家側につかねばならない理由は、繰り返えしますけど、新田が反足利である以上、後醍醐天皇側につかねばならない。それは反武家政権を意味するからです。これは各武将が足利側へ傾くことの原因となりました。これをもってして義貞が武将たちに人気がないとするのは、まったくおかしな事ですよ」
「大変なジレンマに立たされたことになったのね」
「それでは、鎌倉攻めのときの経緯を振り替えてみましょう。5月9日に足利高氏の嫡男千寿王が足利勢二百騎を連れ参陣する。しかしこの千寿王っていうのがまだ3歳の幼児であった。新田軍には近隣の新田一族が駆けつけてくるばかりか、東国の反鎌倉の武将も参加してその数二十万騎になったといいます。昔の軍記物は数が大げさに書かれているが、かなりの数に上ったことは間違いないでしょう。その軍勢が二十里約80kmを押し進み、小手差ヶ原いまの埼玉県所沢あたりで幕府軍の金沢貞将五万騎と遭遇しました。これが入間 久米川の戦いです。ここで新田軍と幕府軍は一進一退を続けたが、新田軍が奇襲をかけて幕府軍を破った。分倍河原の戦いのときに、京の六波羅探題が落ちたとの報が入ると、幕府軍は散り散りとなってしまった。新田軍には勝ち馬に乗ろうとする武将がぞくぞくと集まり、その数六十万に上った。数はもちろん誇張です。そして、義貞が引き連れる大軍は一気に鎌倉まで攻め寄った。
義貞は鎌倉総攻撃をすべく、隊を三つに分けて、極楽寺の切通し・巨福呂坂・化粧坂の三ヵ所より進軍を始めた。5月18日に鎌倉西方より、火の手が上がり巨福呂坂の州崎口を突破したが、それ以上鎌倉に進入することができなかった。激戦は続きまったく活路を見出せないままであったが、ここで新田一族の大館宗氏らが稲村ガ崎より突入を強引に試みた。しかし幕府方に悟られて討たれてしまう。だが、作戦としては良いし、攻め口のない以上、稲村ガ崎を渡り鎌倉に進入するしかないと義貞は決断した。そこで、21日の夜半、義貞は海の竜神に祈願して、黄金作りの太刀を抜くと海中に投げた。すると潮が引き、数千の軍船は沖に遠のいて、一気に六万の大軍が鎌倉に突入することに成功した。
鎌倉に進入した新田軍は、各所で幕府軍を破り北条軍を追い詰める。味方の減った得宗の北条高時ら二百八十三名は東勝寺に入ると自刃して果てた。百五十年続いた鎌倉幕府は遂に滅んだことになる」と一気に説明すると、ふーと長い吐息をした。ここで義貞の太刀投げの真相を話そうとしたがやめた。この段階で雨月、いや天狗から聞いた話をしても、信じてもらえないだろうから……。真船の心の内を知らずに琴音は真摯に話を聞いている。真船はそのまなざしに少し照れながらも話を続けた。
「鎌倉幕府滅亡の報が後醍醐天皇のもとに届いたのは、帝が配流地から京へ向かう途中の福厳寺(兵庫県神戸)の辺りである。鎌倉が落ちたことなど俄かに信じられない様子であり、帝は関東の北条氏を攻めるのは大変であろうと思案に暮れているところで、義貞が挙兵して13日で鎌倉を倒すとは思いもよらぬことであった。全国六十州の武将が立ち上がっても鎌倉幕府を征伐するのは難しいと考えていたからだ。しかも北条氏を倒した武将が義貞と知った帝は『それはだれであるか』と尋ねた。新田氏が何者か分からなかった。そこで隣にいた側近が『足利の末でございます』と答えたという。つまり公家は新田氏を足利氏の末流というぐらいにしか認識してなかったのだ」
「新田はまったくの無名だったわけね」
「倒幕を指揮した公家でさえそれだから、事情をしらない武将が身の保証を求めるために足利方を頼るのがよくわかるというものでしょう」
「うん、うん」と琴音が頷く。
「そして倒幕後の義貞は、鎌倉に本陣を置いて北条残党狩りや治安維持に努めた。新田軍とともに参戦した各諸将に軍忠状や着到状に証判を書くなど多忙を極めていたんだ。しかしここで鎌倉攻めに参陣していた足利高氏の嫡男千寿王こそ総大将であると足利方が言い出したために、鎌倉は新田派と足利派に分裂してしまう。最初の諍いは、奉納されていた旗を渡せ、渡せないという些細なことで、これが火種となった。根本には武将たちの日和見があり、この混乱期を治めて土地を安堵してくれるリーダーを求めていたのに過ぎない。そこに足利方の細川兄弟がタイミング良く鎌倉入りすると足利派が優勢となり、諸将が一気に足利方へ靡いた。ここで新田家と足利家との知名度の差が影響してくる。足利一門は各地に領地があり、高氏は治部大輔という官位があった。一方新田家は同じ清和源氏でありながら、新田宗家の義貞は無位無官の一豪族ぐらいの勢力に過ぎなかった。いくら義貞に功があろうとも諸将が足利方に靡くのは致しかないのである。新田一族は軍功も奪われ、鎌倉を追い出される形で、京へ向かったんだ」
「まさか3歳の子供に功を奪われるとは思ってなかったでしょうね」
「まあ仕方ないことです。尊氏の政治力と義貞の政治力を比べて、義貞の評価を下げる人もいるが、今まで言ったように少しは弁明できるんじゃないかな。ただ尊氏の政治的評価が高いのは九州落ちしたとき、後醍醐天皇と対立していた持明院統の光厳上皇を担ぎ上げて、院宣を取り付けたことによる。これにより尊氏も官軍になったからね。その後、持明院統を支援するという形で味方に引き入れただけで、それほどの評価があるだろうか。自らが推戴した北朝天皇から将軍職を叙位任官して後に幕府を開いたのだから、お手盛りというしかない」
「でも対立していた持明院統を味方に引き入れたというのは評価していいと思います」
「そうかもしれないけど。では一方の義貞は後醍醐天皇を支持するわけです。しかし、この天皇は、持明院統に帝の位を渡したくばかりに、鎌倉幕府の倒幕の戦いが始まったのだ。その下につく義貞に政策など打てるとも思えない。また東国の田舎武将が天皇の前で奏上などしても、後醍醐天皇が聞き入れるだろうか。つまり尊氏と義貞の立場の違いと、足利家と新田家の出発点の差から出たことであり、これをもって義貞の評価を下げるのはおかしいという点だけは分かって欲しいんです」
「でもあまり言うと負け犬の遠吠えに聞こえますけど」
「うーん。でもこの点は理解してもらわないと、評価は全くかわってしまうからね。その討論は後にするとして、先に歴史の経過を追って見ましょう。鎌倉を出た新田一族が京に向かったところまでだったですね。京では後醍醐天皇より論功賞が行われていた。今回の功労の一番は足利高氏で従三位武蔵守、相模守、伊豆守となり、天皇より一字戴き『尊氏』とした。義貞は従四位上野介、播磨介となった。でも全体的に公家側の恩賞を厚くして、武家側を軽ろんじる傾向にあった。特に、公家の千種忠顕や文観僧正らに破格の恩賞を与えたのに、楠木正成とともに挙兵した赤松則村や九州の菊池一族など武功のあった者への恩賞は少なかった。しかも公家の下女にまで恩賞が出たのに、生死を賭けて戦った下級武士には何の沙汰もなかった。また地方では北条氏時代の地頭や代官は土地を取り上げられ、その土地はなんの武功もない公家に与えられた。全国の武士たちの目論見は外れ、深い失望感に襲われる結果になった。この不満は高まるばかりで、今一度反乱を望む声まで出てきた。つまり、後醍醐天皇の始めた建武の新政は最初から破綻の兆しを見せていたことになる」
「武士も世の中を変えようして鎌倉幕府へ反逆したのに……。恩賞に預かれるどころか、土地も取り上げられたりしたんじゃ、いままでより状況がわるくなって、不平不満もでるわね」
「そうだね。そして京では、新しい対立が生まれた。護良親王と足利尊氏の対立である。護良親王が目指すのは、公家を中心とした政治。片や、足利尊氏は、鎌倉に弟の直義を居すわせて東国の基盤を固め、第二の北条氏になろうとしていた。また武家政権を望む武士たちが、次期の武家の棟梁になるのは足利家だと目したことから、護良親王対足利尊氏の対立が自然と公家対武家と構図化していく。
この時期、義貞は京で武者所頭人の役職にあり治安維持に努めていた。しかし足利方も奉行所を作っていたので、新田方と足利方との間で役目争いが起こっていた。しかも鎌倉での遺恨も重なり新田と足利という対立も生まれたんだ。そうなると自然に護良親王と新田は、足利という共通の敵をもち、対足利で結びつく。このことで新田は武家でありながら公家を支援するという難しい立場に立ったことになる」
「やはりこのジレンマから抜け出せないのね」
「うん、やはり武家方につくとなると、足利の下につかなければならない。かといって宮方につくとなると、武家の支持は受けづらいからね」
「やっぱり、どうしても足利の下には付きたくないのね」
「やはりここが新田一族の重要なところ。源氏の嫡流は一つでいいということだ。そして続けると護良親王は、尊氏暗殺を何度も試みるが、その度に失敗する。まもなく尊氏は、護良親王を計略にはめて、宮中内で逮捕すると鎌倉に送ってしまう。このとき後醍醐天皇も、義貞も事の重大さに気づいていなかったんです。そのことに気づいたのは、この後の南北朝の戦いだね。南朝方には大将となるべき人物がいなかった。南朝方をまとめることができたのは、護良親王しかいなかった。親王は公家、武家、寺社にも顔が利くからね。鎌倉幕府倒幕のとき各地にいる反北条の武将、悪党、山伏、兵僧まで動員させて、全国規模で同時期に一斉蜂起を計画し、指揮した。親王以外に尊氏や義貞、正成にできるはずがない」
「ということはこの時点で護良親王を逮捕したというのは、尊氏に先見の明があったということにはならないですか?」
「うっ、龍舞さんは尊氏擁護派ですか?」
「いえ、公平に見ているだけです。職業柄というか、なるべく中立に立とうとしているだけですから。だから良いところは良いと言いたいだけなんです」
「いや、それならいいんです。自分はどうしても義貞に味方してしまうから、そういう指摘はありがたい。では続きを、護良親王が鎌倉へ流された後、宮方の首領の座が空席となり、義貞がこの後任に当たることになった。護良親王対尊氏が、義貞対尊氏という構図にすり替わってしまったのだ。後醍醐天皇は源氏同士を争わせて、武家の力を削ごうとしたのかもしれない。公家はこの手が得意で過去にたくさんの例があるからね。
さて後醍醐天皇の始めた建武の新政は、公家を中心とした政権にしようと、武家を軽ろんじたためにあらゆる所から綻びを見せ始めた。こんなときに、中先代の乱が起こった。1334年に北条高時の次男時行が諏訪氏・滋野氏とともに兵を挙げた。信濃・上野と攻め進むと鎌倉まで進軍する。鎌倉を統治していた足利直義は北条軍との戦いに敗れ、鎌倉から逃げ出した。このときです、直義は鎌倉に幽閉されていた護良親王をどさくさに紛れて殺害したんです」
「えっ、逮捕しただけではなくて……」
「甚大な損失とはこのことです。そのときの様子がこう伝わっています。直義は家臣の淵辺伊賀守に、土牢に幽閉されていた親王を殺すように命じた。事態は急を要する、淵辺はすぐに親王のところに向かった。親王は足利方が自分を殺しにきたことを、そのとき悟ったんだ。そこで親王は淵辺に飛びかかり、腰の太刀を奪おうとしたが、半年の拘禁生活で足腰が弱っていた。そこに淵辺は馬乗りになり、首を刎ねようとしたが、親王はその太刀の切先に噛み付き、渾身の力で太刀を折ったという。淵辺は脇差で親王の胸を刺して命を奪うと、直ちに首をかき切る。そして牢から出て明るい場所でその首を見て、初めて驚いた。口にはしっかりと折れた刀をくわえていて、その目はかっと見開いてらんらんとしている。まさに憤怒の表情を見せていた。こんな恐ろしい形相の首は、主である直義に見せることができないと思い、藪の中に捨ててしまったんだ。これでは怨霊になっても仕方ない」
「怨霊」
「それはあとの話ですが……。まあ首がなかったから殺したという証拠がない。そこで淵辺は親王を哀れに思い、密かに逃がしたという伝承もあるんだ。まーあ、これは伝説として先を続けます。北条軍は難無く鎌倉を奪還すると、直義軍を駿河国まで後退させた。京にいた尊氏は直義の敗退を知ると、天皇に北条氏討伐の勅許を申請するが許可されなかった。が、尊氏は勅許を得ずに、直義軍を救援すべく出陣し京都を出ていった。そして尊氏が参戦すると足利軍は次々と北条軍を打ち破り、鎌倉において北条軍を壊滅させた。尊氏は鎌倉にそのまま残り、東国支配を再開した。天皇の帰洛命令も聞かずに、勝手に今回の恩賞沙汰を始めた。しかも新田方の所領を取り上げ、足利家臣に分け与えることまでしたんです。これにより新田と足利の争いは実力行使となっていった」
「ここまでくると新田と足利のどちらか滅びるまで戦うしかないわね。でも同じ源氏だったのに」
「同じ源氏だから余計に争うんです。新田という名前はそれほど重要なんです。足利に取って替われるほどの名門はほかにはないから。新田に実力がなくても、存在そのものが足利には脅威なんだよ」
「名前ね……」
「それから鎌倉に居残った尊氏は、天皇の帰洛命令に対して奏状を送った。内容は義貞を中傷したもので、新田方を京から追放するように求めたものであった。その一方で各地の武将に檄文を送り足利方への味方を募り始める。しかし京にいた義貞は尊氏が天皇に送った奏上文の内容をいち早く知ると、その二倍にも及ぶ長文を上進した。この中傷合戦は義貞に軍配があがる。それは中先代の乱のときに直義が護良親王を殺害したことを天皇に上奏したのが決定打となった。かくして足利一門は賊軍となり、朝敵征伐をすることになった。この総大将に義貞が任命された。しかし官軍は天皇の皇子である成良・尊良・義良親王が参陣して、指揮権を執り、戦を知らない公家たちが軍議に口を出すまとまりのないものであった。義貞が総大将とはいえ、従四位の身分では高位の公家たちに指示や下知など出来るものではない。
それでも錦の御旗の下に十万の兵が集まり矢作・手越川原と足利軍を退けていく。鎌倉を目前に迫られた足利軍と進軍してきた官軍は箱根山でぶつかった。箱根山の合戦は、両軍が山の隘路で総力をぶつけ合う激戦となる。この戦いは一進一退を続けていたんだが、賊軍となって謹慎していた尊氏が、足利方の苦戦を知って、戦いに復帰してきた。すると、にわかに足利軍の士気があがり、形勢は一気に足利軍の優勢となった。そこに官軍側の大友貞載や佐々木道誉らが、足利方に寝返ると、官軍は総崩れ状態となり、直ちに退却を始めた。この戦は官軍の大敗となった。そのころ京では、足利側の攻撃にさらされて、天皇は鎌倉討征軍に帰洛命令を出す。この命を受け京へ帰る官軍と、勢いをつけて一気に京へ攻め入る足利軍。戦いの舞台は京へ移っていく」
「攻守の交代が激しいわね」
「まったくです。それで義貞ら官軍が京に戻ったのが1335年の大晦日。あとを追うように尊氏ら足利軍が八幡荘の男山に入り陣を構える。そして翌年1月10日から京に総攻撃を開始し、翌日には足利軍が京を占領する。敢え無く天皇は三種の神器を持って比叡山延暦寺に遷幸する。その間に陸奥から北畠顕家が五万の軍兵を引き連れ新田軍と合流し、足利軍を排除して京を奪回した。しかし足利軍も京への攻撃を緩めずに京を再奪取。京は官軍と足利軍の争奪戦が繰り広げられた。1月30日に官軍は奇略を用いて足利軍を壊滅的に追い込み、尊氏らは兵庫まで逃げ、船に乗り九州まで落ちていった。この官軍の大勝利により京は一時的に平和になった。この功により、義貞は従四位下・左近衛中将となる。ここまでいいですか」
「はい」
「問題はこの後になります。九州落ちした尊氏をなぜ追撃しなかったのか、ということです。これは結果として、尊氏が九州で兵力を大補強して東上、湊川の戦いで義貞軍が大敗すると、京を奪われ、後醍醐天皇が尊氏と和睦したために、新田一門は北国落ちしていった。つまり九州に逃げ込んだ尊氏を追撃していれば、このような事態を向かえずに済んだという、結果論です。九州に逃げていく尊氏は命からがらという状態であったし、まさか九州で兵力を回復するとは思わないでしょう」
「でも見通しの悪さは責められるでしょう。義貞は宮方の総大将なんだから」
「鋭いですね。では、義貞は尊氏を攻めずになにをしていたかです。いろいろな説があります。①勾当内侍との恋におぼれていた②病気であった③当時、闘茶が流行していて、それに耽っていた。
①と②は太平記にも出ている。あとひとつ説がある。それが④後醍醐天皇が義貞を放さなかったという説である。実は自分はこれを推したい。尊氏が九州に落ちた今、義貞が武家の勢力を集めてしまうのではと、後醍醐天皇は危惧したのだ。それは尊氏が、中先代の乱で京を離れ鎌倉にいってから、天皇に反抗を始め、武家からの仰望を集めてしまったからだ。武家政権成立を恐れる後醍醐天皇が義貞を手元から離してしまうのに抵抗を感じていたのではないでしょうか」
「尊氏の前例があるから、義貞を手元に置きたがるのは分かるわ。でもそれなら、尊氏追討に他の武将を差し向ければいいじゃない」
「なかなか良い質問ですね。この尊氏追討に関していえば、宮方のだれもが甘く見ていた。尊氏があれほど早く、しかも多くの兵を味方につけるとはだれも思っていなかった。それは楠木正成でさえ予測できなかった。正成が状況を知ったのは、尊氏が京に向かって進軍してくるという話を聞いてからだ。そして尊氏本人でさえ、ここまで勢力を回復できるとは思っていなかった。九州では数百の味方に対して数万の敵兵に囲まれてしまい、遂には尊氏自らの腹を切ろうとまでして、弟の直義に止められたほどだからね。……でもここで神風が起こったんですよ」
「神風が吹いたんじゃなくて、起こったんですか?」
「竜神が……、いややめておきましょう。とにかく尊氏は力を取り返したことになる」
「詳しくは語れないのね。まあいいわ。それで義貞はどうしたの?」
「三月三十日にようやく播磨の赤松円心を攻めるために出立した。2ヶ月のあいだが空いたことになる。播磨・美作などは制圧したが、白旗城・三石城は落ちずに攻め倦んでいた。その間に九州では尊氏が勢力を回復させ、四月二十六日に大宰府を出立した。このとき持明院統の光厳上皇を推戴して、その院宣を取り付けたんだ。尊氏が進軍を開始すると、後醍醐天皇は楠木正成を新田軍に合流させる。海路をとる尊氏軍と陸路の直義軍は総勢十万の大軍、対する新田軍六万と楠木軍の七百騎。宮方は今の兵庫県神戸にある湊川に陣を取った。五月二十五日ついに大合戦が始まる。正成はこの戦いで死を覚悟して、嫡男の正行と桜井の駅で涙の決別をした。そのとき正成は『足利の治世になろうとも、帝に忠義を尽くし、一族一人残らず戦え』と正行に言い聞かせたという。湊川の合戦は足利軍の猛攻で楠木軍を壊滅させ、正成は七生報国を誓い自刃した。新田軍も大将の義貞が、足利軍に取り囲まれるほどに追い込まれ官軍の大敗となる。新田軍は退却をして琵琶湖に面した東坂本に陣を敷き、後醍醐天皇はまたも比叡山延暦寺に逃げた。足利軍は一気に京になだれ込むと、そのまま勢力下においた」
「正成は相当の覚悟だったみたいね。やっぱり正成がこの時代の一番人気なのかしら?」
「戦中までは正成は忠臣の鑑として持ち上げられたけど、その反動で戦後は皇国史観として植えつけられていた悪いイメージが残っていた。でも、その印象も薄れて、悪党とかアウトローの感じもあって小説の題材にも多く取り上げられて、今でも正成信奉者は多い。やはり、この年代で一番、英雄視されていることは間違いない。ただ……、ここで義貞に関して問題にしたいことがあります。それは正成が湊川の合戦の前に天皇に上奏したといわれる『義貞を誅伐して、尊氏と和睦するべし、北条家を滅ぼした功はすべて尊氏にある』ということが梅松論に記述されています。だけど本当に正成はこんなことを言ったのだろうか」
「どういうことですか。正成も義貞も宮方の武将ですよね」
「そうです。でも義貞の評価を下げる意味で必ず取り上げられます。知将、正成が義貞をどう見ていたかという点でね。正成は、建武の新政以後の戦いは、新田と足利の源氏同士の私闘と見ていた。これは正しい。しかし義貞ら新田方を排除して、足利ら尊氏を改めて召して、君臣和睦をするようにと進言したという、この点に自分は納得できない。まずこの件が書かれていたのが梅松論だということ。この史書は足利方・北朝側の視点で書かれているのです。一般的に南朝寄りに書かれたのが太平記、北朝寄りに書かれたのが梅松論ということをまず認識して下さい。太平記にはこの記述はなく、梅松論にあること。そして尊氏と後醍醐天皇が和睦したとしても、二人の目指している事が違い過ぎるし、ともに主張を変えるはずがない。基本的対立構図、武家対公家という図式があるからです。それでも湊川の合戦、京都攻防戦で敗れた後醍醐天皇は、結局和睦した。しかし足利方は和睦内容を完全に無視して、あげく天皇を幽閉した。足利方には後醍醐天皇の意向など最初から聞く意思がなかった。では正成がいうように、湊川の合戦前に両者が和睦したらどうなるか。やはり結果は同じで、武力に勝る尊氏が天皇を押さえつけて足利政権が強固になるだけでしょう。では戦が不利なので、一旦和睦して様子を見ようという策であったとしても、互いに相容れないのであれば、やはり宮方の不利には変わりがない」
「つまり和睦した時点で宮方は負けということね。それが戦いの前であろうと後であろうと。ということは、正成は『負けを認めよ』と勧めたことになるわ」
「となると正成のスタンスが問われることになる。もし足利との和睦を勧めたとすると宮方を否定することになる。これは大問題だ。それに新田を誅殺して云々を本当にしたら、それは足利に対抗できる勢力、足利と同格の武家の名前を失うことになる。これこそ足利にとっては都合のいいことはない。だからこの正成上奏の件は足利にとって良いことずくめなんだ。それに足利方には公家を軽ろんじていると思われる節が多々ある。まず後醍醐天皇を幽閉したこと」
「護良親王を殺したこと」琴音がすぐに答えた。
「それにまだまだある。足利方の重臣高師直は帝の替わりに木像でも置いておけといったり、足利家臣の土岐頼遠は光厳上皇の牛車に火を掛けるといった不敬事件を起こしている。つまり足利方の公家に対する態度はわかるでしょう。これをみても、正成は、後醍醐天皇に尊氏と和睦せよなんていわなかったんじゃないかな。正成は知将といわれた人物だからね」
「でも不思議ね。そうなると本当になかったことを、何故わざわざ梅松論は書いたの?それに正成を出してきたわけは?」
「この正成の上奏の件は、梅松論にしかないというのはさっき言いましたね。それに梅松論が足利方寄りで、太平記が南朝寄りであるというのも。でも太平記にも後醍醐天皇や義貞に対して手厳しい部分がある。義貞の討ち死にの場面では、犬死に、と表現されているし、後醍醐天皇には徳がないとはっきりと言っている。ただ正成はどちらの書にも知将、忠臣といった部分がかなり強調されている。つまり物語を作るテクニックが使われているんだ。足利側からみて正成という英雄を作る。それと後醍醐天皇や義貞をわざと比較させているんです。正成のような叡智のある人物が、いろいろ述べたり、行動したりする。そして後醍醐天皇や義貞らが、正成の言葉に従わないから滅びたんだと、読者を導いているんだ。それにより、後醍醐天皇や義貞らを愚かに見せて、評価を下げさせる方法を取っている。正成は物語り上、神に近い存在であるからね。なにしろ『未来記』を見たんだから」
「それって聖徳太子の書いたといわれる『未来記』のことですか。番組で取り上げたことがあります。日本にもあった予言の書ということでね」
「そう未来記は、大阪市の四天王寺にあるといわれる秘書で、持統天皇以後から末世にいたる代々の帝の治世及び天下の大乱を聖徳太子が予言した書である。これは滅多に見ることのできないといわれるが、正成はこれを見た。だから正成はどこか特別で、その活躍は神懸かり的だ。というより天狗だけど……。まあ正成像は作られた部分も多いと思う。知略に富み、冷静で、判断力があり、ひたすらカッコいい人物として描かれている。物語り上、死んで欲しくない好人物として造形されているんだ」
「でも結局は無念の死を迎えているわ。こんな好人物が死んでしまったのは、足利方が悪いのではない。その原因は後醍醐天皇や義貞の無能にあると、矛先を変えようとしているわけね」
「そうなんですよ。だから正成にさっきの言葉を語らせると、もっともらしく聞こえるんだ。まあ勘違いしないで欲しいのは、梅松論や太平記などを書いた人の人物造形やその隠された意図を探ることであって、正成の実際の活躍とは別であることを断っておかねばならない」
「まあ実際の活躍もあるけど、脚色もあるということね。でもさっきから竜神だの、天狗だの言葉を濁してますけど、なにかあるの……」
「……」なにも答えず首を振る。
「そのことは後回しなのね。えーとじゃー質問しますけど、さっきの話だと太平記も南朝に批判的な部分があると言ったけど、確か太平記って南朝寄りではなかったの」
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