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物語を物語る

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歴史ミステリー小説「東毛奇談」 第2章 4

物語を物語る

「それが太平記も、所詮は足利方の手が入った物語りであるということです。こうゆう話があります。実は、太平記の巻二十二は存在していないんです。前後の記事を作り直して一巻分を増やしているんですよ。では巻二十二はどうしたというと足利尊氏・直義の一代悪逆が記されていたので、焼却させたという説があるんです。このことは足利家が太平記に深く関わっていた証拠といえる。しかも太平記が成立したのは三代将軍足利義満の時代で、管領の細川頼之が太平記成立に関与していたことは事実である。つまり太平記も勝者側の歴史に都合の良いように書かれているのだ。そうでなければ足利時代に残れるはずもない。足利方の真の敵は後醍醐天皇や新田であって、正成ではないんだ。足利家による武家政権を成立させるためには、南朝を排除せねばならない。だからその存在を物語りによって評価を貶めようとしたんだ」
「なるほど、だからね……」
「そして、義貞の評価を決定づける最大の要因が太平記に記述されているんだけど、それは後でやるとして、そのあと歴史がどうなったか見てみましょう。
京を制圧した足利軍と宮方の軍で小競り合いは続いていたが、後醍醐天皇は足利軍が有勢とみるや、義貞には内密で、尊氏と和睦してしまった。和睦の内容は、光厳天皇に三種の神器を渡すこと、皇位は両統から交互に出すという条件でね。
新田一族がこの和睦を知ったのは、天皇が都へ行こうとした当日の朝だった。まさにその直前に、新田一門の堀口貞満は天皇の乗った輿に取りすがって訴えた。『義貞にいかなる罪があって多年粉骨砕身の忠功をお見捨てになり、尊氏にお心をお移しになられたのでしょうか。義を重んじて命を落とす一族も多く、新田家積年の忠義を捨てられ、京に帰るならば、義貞以下一族の首を刎ねてからにして頂きたい』と涙ながらに訴えた。後醍醐天皇は過ちに気づいたのか、それともその場しのぎだったのか、恒良親王に皇位を譲る儀式を行い、義貞に託して、北陸に落ち延び再起を計るように命じたんだ」
「まったく公家というのは信じられないほど変わるのね」
「まあ、だからこそ生き延びていけたんだよ。そしてさっきも言ったけど、後醍醐天皇は京へ還幸したが和睦の条件は全く履行されずに幽閉された」
「そのくらいのこと予想できなかったのかしら。成り行きで行動したとしか思えない。やっぱり護良親王がいたらもっと状況は変わっていたでしょうね」
「親王の足利嫌いは半端ではなかったし、尊氏らの野望も分かっていたから、生きていたら和睦などさせなかったと思います。その点でも足利方は親王がいなくて幸運だった。宮方を実際にまとめていたのは親王だったんですから……。そして後醍醐天皇を幽閉したあと、尊氏は着々と足利政権の基盤固めを進めた。建武式目を定め、武家の棟梁となり、幕府を開くことを内外に示そうとした。この後、後醍醐天皇は京を脱出して、吉野に逃れた。ここから南北朝時代の始まりとなる。一方、義貞一行は雪の中を行進して、敦賀の気比神社を頼り金ヶ崎城に入った。北陸の武将に援軍を募るが、集まらず、そうこうしているうちに、足利方の斯波高経に城を囲まれ兵糧攻めにあう。義貞と弟の義助らが救援を求めるべく杣山城に向かっているときに金ヶ崎城は総攻撃を受けて落城し、尊良親王や義貞の長男義顕らは自刃し恒良親王はとらえられた。このあいだにも南朝の諸将は、反足利を掲げて各地で兵を挙げた。逃げ延びた義貞も瓜生兄弟や平泉寺を味方に付け陸奥から東上してくる北畠顕家の軍と合流して京に攻め入る計画であったが北畠顕家が阿倍野で討たれると南朝方の反撃も尻つぼみに終わる。
その後も義貞は、北国の地盤固めに努め、越前を足がかりに反撃の糸口を掴みかけたとき、灯明寺畷で討たれてしまう。一三三八年七月二日、義貞三十七歳、鎌倉攻めから五年後のことだった。一方尊氏はその一ヶ月後の八月十一日に正二位征夷大将軍に就任して、正式に室町幕府を開くこととなる。だいたいこういう流れです」
「うーん五年か、義貞の人生は随分と短かったのね。尊氏はこのあとどれくらい生きたの?」
「二十年です。だから尊氏のライバルとして義貞を比べるのは少し酷なんです。長い目で見て、足利と新田の戦いと見たほうがいい。このあとも戦いは続いたんだから。だいぶ話が長くなりましたね。それじゃー次の目的地である反町薬師に移動してから、義貞は凡将であったかをもう一度検証します」



次の目的地へ向かう途中、生品中学校を通った。信号待ちをしているあいだ、校庭のグランドから威勢のいい掛け声が聞えてきた。琴音は思わず「中学校の部活なんてなつかしいわ」とつぶやき、声のする方を見ると、そこでは野球部が練習していた。何気なく見ていた琴音だったが、そこで一人の少年に見入ってしまった。一球投げると後のポケットからハンカチを取り出し、しきりに顔を拭くのである。その一連の行動は、なぜか、爽やかな感じを受けた。。
真船は琴音の視線の先を見つけて「あ、あの投手は球が速くて有名なんですよ。将来、甲子園に行けるでしょうね」というと、信号が青の変るのと同時に、アクセルを踏んだ。琴音は遠ざかるグランドをサイドミラーで見ながら、しばらくの間、あの少年の清々しさはどこから来るのか考えた。
それから5分ほどで第3目的地である反町薬師に着いた。
反町薬師の正式名称は照明寺であるが、本尊の薬師が厄除けに効験ありということで、地名をとってそう呼ばれた。ここが新田氏の居住跡といわれる。由良の円福寺からこの地に移転し屋敷を構えたのが義貞である。当時は二重の濠をめぐらした平城であった。現在も幅10m余りの濠を三方で囲み、その寺域は結構広い。
今にも泣き出しそうな空の下、ふたりはじゃりじゃりと砂利を踏みながら本堂に向かって歩いていく。小ぶりながら風格のあるお堂で手を合わせ、再び境内を歩くと、屋台があるのを発見した。屋台には簡素なテーブルとイスが備えられていて、そこに腰を掛けた。上州名物というのが目について、焼きまんじゅうと飲み物をたのんだ。
「やはり幕府を開いた尊氏とどうしても比較してしまうわ。現代では、尊氏の評価は高いんでしょう?」
「そうですね。尊氏が乱世を制したという手腕は認めなければならない。でも尊氏の一生は戦いの連続で天下を治めたという実感は本人にはなかったでしょう。実際に足利政権が定まるのは、孫にあたる三代将軍義満の時代になってからですから。一方義貞はというと大将の器ではなかったという見方が大方で、色香に迷った愚かな武将という評価もあるくらいです。まあ、敗軍の将だから何を言われても仕方ないが、でも一つだけ弁明させてもらえば、義貞の最大の不運は、南朝方の大将になってしまったことです。つまり後醍醐天皇側につくということは、指揮官であることを意味しない。尊氏は軍事面でも、行政面でも指揮官である。義貞の場合、軍事面でも公家の意見を聞き入れなければならず、まして行政面は後醍醐天皇の領域である。義貞と尊氏、どちらが大将の器であるかなど比較するのが間違いであるかもしれない」
「それじゃー弁明にならないわ」
「そうですね、でもやはり義貞は乱世を制して、将軍になることは性格上できなかったと思う。尊氏は足利政権を磐石とするために、弟の直義を毒殺しなければならなかったし、自分の子である直冬とも戦わねばならなかった。こんなこと義貞にはできないと思います」
「でも尊氏も仕方なかったんじゃないですか。武家政権を成立させるには情に流されては駄目だと思うんです。それだけに苦渋の選択をした尊氏は、武家の棟梁になれたんだと思います」
「うーん、確かにそうかもしれないが……。義貞は愚直で、武名を尊ぶような面があった。しかも非情なことはできない性格であったから、やはり大将の器という観点で見れば尊氏の方に軍配が上がるかな」
「そうでしょう。でも武将としてはどちらが魅力的なの?」
「義貞は東国坂東武者としての武名は高いです。現代ではどうかわかりませんが、当時は武骨なところが持てはやされましたから、そうゆう逸話はかなり多いです。例えば、京を占領していた尊氏軍に対して、義貞は五十騎ばかりで敵中突破を計り、義貞は鎧を脱ぎ捨てると、ただ一騎で敵陣に突入して、尊氏を探し出し一騎討ちしょうとしました。だが見つからず、義貞はかすり傷一つ追わずに、味方陣営に帰ったというんです。また討ち死にとなった灯明寺畷でも、味方の戦況不利の報を聞くと、すぐさま状況を見に五十騎ばかりを従えて出陣してしまう。これが最期となった。これらをみると、義貞の行動は軽率であり、大将の器ではないと思われるが、戦国時代の織田信長もこのような性格であったんです。例えば三好三人衆が足利義昭の宿所を取り囲む事件があった。この知らせを聞くと信長は大雪の最中であるにもかかわらず、一騎駆けで京を目指した。その後ろを家来が追ったという。信長の場合が勇猛で、義貞の場合が軽率なのか。こうゆう点を取り上げて大将の器ではないというのは違うと思うんだけどなあ─」
「ただ義貞は家臣の前で武勇を示したかったのよ」
「そうかもしれません。でもそれって武士にとってはとっても大事なことなんじゃないでしょうか。義貞の場合そうゆう逸話が多く残っています。橋を渡って退却するときは、自分の兵全員を対岸に渡してから、最後に橋を渡ったという話があります。この手の話は尊氏よりも多い。武骨、愚直そうゆう心根に惚れた家臣も多く、劣勢でありながら義貞についていった武士も数知れない。そこを評価する人もいるし、大将のすることではないという人もいる。歴史的評価なんて人によって違うものだから……。
それじゃーここで義貞の評価を決定づけたといわれる、勾当内侍との恋に溺れていた、という説を見ていきましょう。尊氏を九州に追いやった義貞は、恩賞のほかに後醍醐天皇に仕えていた勾当内侍を賜った。この勾当内侍の話は太平記にしか登場しないし、しかも義貞の評価を下げている一因にもなっているために、事実ではないという人もいる。しかし、勾当内侍にまつわる伝承が各地にあることからも事実だったのではないでしょうか。しかも勾当内侍の登場する太平記巻二十で、これがとても面白いんです。この巻は大半が義貞と新田一族の話で構成されていて、義貞が討たれ、義貞の首が京の都に晒される場面や、二人の出会いのあらましから別れまで長文によって書かれている。まあまず読んで見てください」

手渡された太平記現代語訳版に栞がはさまれていた。開くと巻二十であった。早速、琴音は読み始めた。

※太平記巻二十

読み終わった琴音に真船が語りかけた。
「ここは重要です。物語りのドラマチックな手法を用いて、束の間の愛と、悲劇的な死を対比させて、一層の悲運を演出しようとしています。ここで問題提起をしたい。太平記はなぜ『たいへい』記なのか?」
「面白い質問ね。そうね、こうゆうのは逆の意味があるのよ。世の中が戦乱であるから、その願いを込めてとか……」
「いい線ですね。題名の謎は以前から疑問となっていて、これに対しても数々の説がある。問題なのは、題名と内容があっていない点でしょう。つまり太平記が題名に相応しくなく、血なまぐさい戦いや陰謀、裏切りなどが全編にわたり繰り広げられるからです。でも、この巻二十の義貞と勾当内侍の出会いの場面を読んだでしょう。太平記の中で唯一といってもいいほどの恋愛場面。暴論だけどこの場面のみが『太平』だと思えてならないんだ」
「ちょっと待って、太平記の主人公は義貞ではないわ。そこから題名を取ったというんじゃないでしょうね」
「もちろん違います。でも新田氏という視点で太平記を読んでいくと、義貞と勾当内侍の悲恋が一区切りになるんだ。つまりね、このあとすぐに、後醍醐天皇が崩御して太平記の第二部が終わっているといわれる。そして第三部からは怨霊などが頻繁に登場して、異界が開けれてきて明らかに世界が違うんだ。だからその直前の悲恋のクライマックスは重要な転機になっているような気がする」
「ここが物語りの節目になっているからそれだけに義貞と勾当内侍の話は意味が深いというのね」
「そうです。では勾当内侍の話を続けてみましょう。義貞を失って悲しみに暮れる内侍は、嵯峨の奥にある往生院(祇王寺)に入ったと太平記は伝えているが、他にも、義貞の本国である上野国新田荘へ密かに行きひっそりと義貞の菩提を弔ったという説もある。また滋賀県の今堅田の野神神社には義貞と内侍の墓があり、義貞の死を聞いて内侍は気が狂い、琵琶湖に入水したという伝説があって、今でも十月八日に祭りを開いているそうです。というわけで、いろいろ多くの伝承を残しているんです」
「わたしは義貞と内侍のロマンスが義貞の評価を下げるとは思わないわ。むしろこんな人間味溢れる人の方が魅力的だと思う」
「義貞は顔に矢傷があったといわれる東夷の坂東武者であり、方や月夜に琴を弾く麗しい京女。こんな二人が戦乱の中で、狂い死にするほど愛し合うなんて面白いよですね。第二次大戦のころならともかく、現代人の方が理解されるんじゃないかな」
「そうね。安直な恋愛ドラマよりドラマチックかもね」
「そして尊氏は、将軍となり先祖からの大望を果たした。これは新田が武家の棟梁になり、東国の主となる夢が破れたことを意味する。それにより新田一族の宿望として引き継がれていき、結果、一族は一層の悲劇を生んでいくことになってしまった」



「ここで義貞の死後、新田一族の行方を駆け足で見ていきます。義貞の子は次男・新田義興、三男・義宗、そして弟・脇屋義助も健在で、越前に残り奮戦していた。一三三九年八月に後醍醐天皇が崩御、南朝の皇位は後村上天皇に移る。そして脇屋義助は北国総大将として斯波高経らと戦うが足利軍の総攻撃を受けて退却し、吉野に入ったあとに、西国総大将となり、四国の伊予・今治にいったが、その地で病死した。
この時期、南朝拠点は全国各地にあったが、次第に足利方の攻撃にあい衰微していく。一三四八年に河内で楠木正行が敗死、吉野が侵攻され、南朝・後村上天皇は紀伊の賀名生へ移る。その間にも京で義助の子である脇屋義治や児島高徳が尊氏暗殺計画を画策するが失敗する。南朝の反乱が小規模化すると、今度は足利幕府内で内紛が起こる。いわゆる観応の擾乱である。尊氏と直義が高師直を巡って争いを始めた。そして尊氏と直義が交互に南朝に対して和睦を申し込んできた。この混乱に乗じて鎌倉を新田兄弟が、京を楠木正行がそれぞれ占領。しかし一ヶ月あまりで幕府軍に奪回されてしまった。足利家の内紛も高師直が殺され、直義も尊氏に毒殺されたことで、収まった。一三五八年に尊氏が没して、室町幕府も二代目の足利義詮の時代に移る。
再起を計る新田義興は、竹沢右京亮や畠山国清らの姦計にはまり多摩川の矢口の渡しで騙し討ちにあって殺された。義興の霊を祀る新田大明神は今も東京都大田区にある。これは覚えといて下さい。
そして義貞の三男義宗は、脇屋義治とともに上越国境付近で挙兵。義宗は上杉憲顕軍に右目を射抜かれうつ伏せに落馬して戦死、この地は『うつぶしの森』と呼ばれるようになる。義治は山伏姿となり、出羽や四国の伊予まで逃げたという。そして新田本流は義宗からその子、貞方に移る。脇屋家も義治から義則となり、鎌倉挙兵の義貞や義助の孫の代に移っていく。彼ら新田残党は各地で兵を挙げるがその都度鎮圧され、南朝方は日々凋落し、足利方・北朝方に帰順していく者も多く出た。一三九二年に室町幕府三代将軍の足利義満は南北朝合一に成功する。しかし南朝の長慶天皇はこの降伏に反対して吉野に残った、これを後南朝とする。また反足利を貫く新田一族は、信濃・陸奥霊山で反抗するが、すでに力なくゲリラ戦を展開するのみであった。義則は箱根で討たれ、貞方は捕らえられ鎌倉の七里ヶ浜で処刑され、新田一族は表舞台から消えた」
「でも完全に消滅したわけではないんでしょう」
「そうなんです。南朝は反体制の勢力として陰に隠れながら継続していた。例えば一四六七年、応仁の乱の時、細川勝元が北朝天皇を奉じた対抗上、山名宗全は吉野後南朝の三代目尊秀天皇の弟忠義王を担ぎ上げた。この乱は長期に及び室町幕府が衰微するもととなったわけだが、南朝は反対勢力の旗頭として必要であった。そこでここでは、南朝方の行動を列挙してみます。
①南朝方は衰微していったが、南朝方は常に、反足利を掲げる側に役立つ。つまり現政権の反体制側に常に位置していた。
②南朝方は幕府の追撃を受けると、地下に潜り、全国各地に散っていった。幕府の新田の追捕令は幕府が倒れるまで残っていたという。
③南朝の協力者が修験者や山伏・山師など陰の部分勢力で構成されていた。これにより南朝方が地下へ潜ることができ、かつ各地に分散した。
④新田一族の執拗までの抵抗は、代を重ねるほどに深くなっていく。また新田党の忠義心もまた深いものとなる。
⑤南北朝は、足利義満の時代に合一して争いが終わったようにみえるが、実際その後の南朝もかなりの抵抗を見せている。
⑥新田と脇屋の残党が隠れ住んだという伝承が各地にかなりある。なぜか新田を祀る神社が四国に70以上あるという。義貞は四国に行ったことはない。つまり全国に新田の残党が散っていったということを示しているのではないか。
これらの結論から、南朝方は反足利から反体制と結びつき継続していった。後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕時から、山伏・悪党・修験者との結びつきがあり、南朝には、これらと結び付く下地があった。また室町幕府は、京を中心に勢威を示していたが、地方各地で戦が続いていて、これらの混乱も幸いして、地下に潜ることも出来たんだ」
「それでは地下に潜行していた勢力はどこへ行ったの?」
「それが自説の核心に迫ることになる。今日は遅いから、この続きは明日にしましょう」と言って真船は腰を上げた。
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消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


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