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物語を物語る

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「亀田騒動」を考える。 違う切り口で5記事。

物語を物語る

一連の亀田騒動について考えて、書き始めてたら、次から次へと書きたいことが湧き出てしまい、記事がまとまらない状態になった。これはいつものことで「新田次郎氏と斎藤佑樹くん」の記事のときみたいになってしまった……。
だが、箇条書き状態でも載せてしまうことにした。亀田騒動も一過性のことであり、期間限定の際物商品と同じで鮮度が大事。いま載せないと時期外れになってしまう可能性大なので、とりあえず載せてみます。
記事は5つ。
1 気軽な世間話として見たとき
2 「亀田批判」という標語として見たとき
3 正義を貫くための「悪」としてみたとき
4 ネットを自浄装置としてみたとき
5 運命論者の見解。彼らは「亀田」という役回りを演じた。
の5つ。

1、「亀田騒動」を気軽な世間話として見たとき 
ここ1週間、テレビのワイドショーは「亀田一家」の情報をどんなニュースよりも優先的に放送している。
テロ特措法よりもイラン日本人誘拐事件よりも重要視しているようだ。
私も「内藤大助×亀田大毅の試合」での反則の場面や記者会見の模様を何度見たことか。
でもこれも視聴者である大衆が欲していることなのである。
マスコミは世間が望まなければ取り上げることはない。視聴率、部数が上がるからこそ、取り上げるのである。その辺はシビアだ。
ある知識人は「マスコミが持ちあげたから、国民がのせられた」といった。それもある、確かにマスコミは煽った。しかし、これは、民衆が求めたものなのだ。求めなければ、マスコミが与えることはない。需要がなければ、供給はない。経済の原理である。要は、民衆が「亀田」という話の素材を欲したのである。

「亀田一家」に怒っていても、今や皆が心の奥底では、楽しんでいる状態なのである。特定の人物や事柄に、義憤を感じて、批難を浴びせる。人によっては怒りをぶつけて「溜飲を下げているだけ」という意見もある。それも確かなこと。まあ自分もその中の一人であることは間違いない。
この「非難の嵐」は、今年に入って、社会保険庁、松岡農相、阿倍総理、朝青龍、沢尻エリカ、亀田一家と切れ目なく続いている。この「集中攻撃」の傾向は近年顕著になっていると思う。
話題を求めているようだ。これらは、仕事先や近所の世間話としては格好のネタとなっているのだ。なんたって「言い放し」ができるから使いやすい。我々に実害はないし。だれも怪我を負わない。べつに悪口、陰口というわけでもないし、回りの人が傷つくわけではない。(当事者は大変だろうが)
「亀田は汚い」とか「沢尻エリカは無愛想でダメだ」とか「朝青龍は巡業しろ」「阿倍首相辞めろ」とかね。これは「いいお天気ですね」とか「ワールドカップで日本が勝ましたね」とかと同じことなのだ。挨拶替わりのお天気の話と同じで、まず否定することが少ない話題が世間話として求められているのだ。
大概、天気は見れば分かるし、日本中が応援するサッカーやオリンピックでは否定意見などはまず出ない。
これが、「亀田騒動」では、亀田一家を弁護する人は今のところあまりいない。(そのうち同情論が出てくるだろう。何にでも反動はある)
稀に、いたとしても、変な人、変わった人と思われるだけだろう。「いいお天気ですね」と話しをして「いえ、そうでもないです」と答えたら、変な人と思うでしょう。それと同じである。反対意見の少ない話題こそ世間話に求められる。
それに、専門家でもないので深い意見なんて必要としない。必要となれば、専門家の意見を拝借して、知ったかぶりをすればいいのだ。
まさに「渦中の人」の話題は格好の話のタネなのだ。しかも自分の「正当性」「正義」を主張するには、何か、世の中のルールからはみ出た者・事柄がいいのだ。
これが女子幼児殺害や宗教法人のリンチ暴行殺人、両親の幼児虐待というのでは話が重すぎる。生死に関わるような事件では、世間話の会話としては重すぎてしまう。
世間話と書いているが、これはネットの書き込みでも同じことである。

2、「亀田批判」という標語として見たとき
まず「古風堂々数学者」藤原正彦著の「標語人間」から
『……最も驚かされるのは、自分の頭で考えない、ということである。テレビでこう言っているから、新聞や雑誌にこう書いてあるから、先生、友達がこう言っているから正しいだろうと、ぼんやり思い込んでいる。情報量が多過ぎて、自分では処理できないから他人に依る、ということもあろうが、何より、大勢から外れ、大勢から浮くことを恐れているようなのである。ほとんどの人が似たようなことを言うのはそのためであろう。‹中略›標語のように流行の発想を受け入れているだけで、自分の頭で考えていない……』
これは、「自由」「平和」など美辞麗句に踊らされる人々を危惧した文章である。
この場合は「亀田を批判しよう」という標語である。
つまり「亀田を批判すること」がまず最初にありきなのである。
同情論もその変形でしかない。亀田を批判した人を批判しょうというだけである。切り口を他の人と少し変えただけなのである。
さてその問題も、やがて変質していく。問題の追及は、やがて本人から親へ、親からジムへ、協会へ、それを支持したマスコミへ。
どんどん事は大きくなり、事の本質を失っていき、どこに問題があるのかを見失っていく。
これは、どんな騒動のときでも起こる。協会が悪い、事務所が悪い、報道陣が悪い、親方、理事長の監督不行き届きなどなど。「イジメ」問題だって、いじめた人は非難されず、親が悪い、先生が悪い、学校、校長が悪い、教育委員会が悪い、県が悪いとなっていく。やがて、それが国が悪い、世の中が悪い、となる。世の中すなわち民衆なのであるが。
で、結局、時間が経つと、問題はうやむやになり何の解決手段はなくなる。
そして問題を起こした張本人の責任はどこかに消えてしまうのだ。
結局は「押し付け」、「逃げ」なのである。


3、正義を貫くための「悪」としてみたとき

大衆はなぜ「バッシング」する人を求めるのか。
人はどこかに「正義」をもっている。正義は「秩序」を保ち、それが「平和」をもたらす。
無秩序は、混乱を招き、平和を乱し、殺伐とした世界となる。
だから秩序を乱す者を悪人と見なし、鉄槌を加えなけらばならないと思っている。
それに宗教では神の存在を示すために、悪魔が必要となる。
それはなぜか「正義を貫くには悪が必要だ」からだ。著しく規範を乱した者に攻撃を加えるのはこのためではないのか。

では世間は何故これほどまでに「騒動」を取り上げるのか。
なぜネットで人はこれほどまでに「正義」「正論」を主張するのか。しかも感情的である。
「ブログ」「教えてgoo」「ヤフー知恵袋」など見ると、思った以上に各々が「正論」を論じ、「正義」を貫こうとした意見を述べている。まあたまには捻った意見や反対意見もあるが、それも当人の真情、信条を伝えようとしたものであって、その本人にとっての「正義」「正論」である。
「正義」は言っているうちに気持ちが良くなってくる。その言葉に自分自身も酔ってしまう。人は言葉に酔うことができる。しかも「正義」という名の美酒に酔いやすいのだ。
この「正義」という酒は旨くってよく酔うことができる。それに主張する手段、ネットを得たことも大きい。
これによって、同意見の仲間を見つけ一緒に美酒を味わうことができるからである。

だが、それにしては、「亀田一家」「朝青龍」「沢尻エリカ」なんて小さな「悪」ではないか、と思われるだろう。女性週刊誌を見たって、バッシングを浴びるのはどうでもいい芸能人だったり、スポーツ選手だったりする。
なぜか。
世間の人々は叩きやすい「悪」を求めているのだ。
いまの日本では陰惨な事件をニュースで流がし続けている。
だが盛り上がるニュースは、朝青龍がサッカーしただの、沢尻エリカが不機嫌だっただの、亀田大毅が反則しただのといったこと。
悪どいことを犯した人、卑劣極まりない極悪人、人を切り刻んで喜ぶような異常者など、糾弾すべき人間は多くいるのに。
最近でも、滝川高校で自殺にする追い込むまでイジメた張本人や神戸の高三自殺事件では「バイト」をさせ得た金を恐喝した同級生が何人もいた。光母子殺人事件の犯人は訳の分からないことをいって「精神障害」を主張している。米兵による婦女暴行事件は広島で起こった。これらなど、例を挙げれば切がない。
では、これらの悪人は、糾弾されているのか。
現実はそうではない。彼らの名前さえ報道されない。
非難されるべき人間は何かで守られている。少年法だったり、国際法だったり、加害者の人権だったりする。たとえ捕まっても塀の中で守られ、三度の食事が与えられ、十分な睡眠があり、生きることが保証されている。
神戸池田小学校で30人以上を殺傷した宅間守は、遺族が手出しできないことを塀の中で嘲笑していた。
女子高生コンクリート殺人事件を起こした主犯格の男は、別の戸籍をすでに手に入れて、来年には出所するという。あんな悲惨な事件をおこしたのに、まるで何もなかったようにだ。
それに見解決事件も多い。兵庫小2女児殺傷事件、世田谷一家殺人事件、などなど捕まらない犯人に、世の人々は苛立ちを感じているのだ。
みんな感じている。今の世では、正義が貫かれないことを。
義憤を晴らす場所がなく、歯がゆい思いを味わい続け、正義が果たされることがない、と嘆くしかなくなっている。どこかにこの怒りをぶつけたいと思い続けって、納得がいかない事ばかりで不満がたまりながらもニュースを見る。
そのとき格好のはけ口が見つかる。これらの「騒動」が起こったときに、このストレスが突如として噴き出していく。「騒動バッシング」とは民衆の怒りが変質した形なのだ。
そう、分かり切ったこと(亀田、朝青龍なんて分かりやすいルール違反者)に鉄鎚を加えようとしているのではないか。大衆は何らかの分かり易い「贖罪の羊」を求め、そこに欲求を満たし、怒りをぶつけているだけではないか。(あくまでも私見)

4、 ネットを自浄装置としてみたとき
昔、日本では「ムラ」「集落」が人々の行動を相互に抑制し、これが世の中の規律を守っていた。武士では「家」「氏」がその規範となっていた。厳しい「決り事」である。それを守らなければ、そのコミュニティーから追放される。
近年までは、「隣組」「学校」「地域」などが社会集団の機能を守る役割を果たしていた。
しかし社会意識の変化や社会構造の変革が、社会集団の規範を守るものを崩壊しつつある。
いま現在、世の中の規律を守るべき機能が働かなくなってきている。「学校」「家庭」の秩序は崩れ、犯罪や事件は凶悪化している。世の中はまさに、法にはずれ道理の通らない「無法地帯」と化しているのではないか。犯罪を裁く法律はあっても、犯罪者には軽微な罰しか与えらず、結局は野放しとなっている。「悪」がはびこり、正当な罰が与えられない世界こそは「無法地帯」である。それに大衆は、それを取り締まるべき司法や警察にどこか「生ぬるい」ものを感じていて、いまや信頼を寄せていない。また、それを追及しないマスコミにも世間は歯がゆい思いを感じているのだ。
多くの人々は「正しい世界」が行われていることを期待している。そして世の中に秩序を求めているのだ。
ではだれが悪を正し、なにが世の中の規範を守るのか。

あらゆる機能が崩壊しつつある現代では、ネットがこの機能の一役を担うとしているのではないか、と思う。
新聞、テレビなどのマスコミではないだろう。これらはすでに情報を仕分けし峻別して、そこにコメントを付けて伝える手段だけとなっている。
悪に制裁を加えようとしているのは、ネットである。
凶悪な犯罪を犯した未成年の実名はネットに流れる。卑劣な性犯罪を繰り返す犯罪者の顔がネットで流れ、全国の人々が瞬時にそれを知る。
ネットでは、卑劣な犯罪者を糾弾するように叫んでいる。もはやこの声に押されるようして、実社会を動かす原動力になっている。(「ネット上では」、とか「ホームページによります」と、といったマスコミ報道が多いことがその証拠)
政治も世間の声をネットで得ている。行政機関がネットの声に押されるような形で話が進んでいる事柄もある。
もはや法や人権を恐れてマスコミがしないことがネット上で行われているのだ。
このネットの力はますます強くなっていくだろう。
ネット上では、「騒動を起こした人」への非難の声は大きい。「亀田騒動」やその他の事が近年にないほどを大きくしているのは、このネット情報が発達したからだ。
では「正義」を訴えるネット上の民衆の声は「悪」を糾弾し排除していくことがでるだろうか。
ネット上で起こった「悪」への非難の声は世の中の浄化となっていくのか。
そして、ネットは社会の新しい自浄装置となっていくのだろうか。
ただしこれが正しい世の中であるのかは、問題となるが……。

5 運命論者の見解。彼らは「亀田」という役回りを演じた。

さて、観点を変えて、「亀田騒動」は一つの物語であると前回書いた。
運命論者の私には、この騒動の一連の流れも「予定調和」のようでならない。
すべての出来事は神があらかじめ定めたものである、というのが予定調和の趣旨である。http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%BD%C4%EA%C4%B4%CF%C2
人は誰もが生まれながらに、何か世の中での役割を持っていると思っている。
だれもが相互に影響しながら生きている。そこで、運命論である。
運命論……宿命論ともいう。この世の人事や現象の進行は、すべてあらかじめ、定められた運命によって支配されているとする人生観。人間はこの運命を変えることに対しては無力なので、厭世観に通じる一方、その乗り越えを目指すロマンテックな英雄主義にも通じる。運命の支配という前提で一切の偶然性を排除する場合は決定論に近くなる。

歴史的にも新田義貞が無念のうちに死んだのにも意味があるし、足利尊氏が戦いに明け暮れた人生も、運命、宿命である。
明智光秀が本能寺の変を起こしたのにも意味がある。あの役回りを演じる人がいなければ、豊臣秀吉も徳川家康も違う運命になっていたはずだ。
坂本竜馬があの時点で暗殺されていなければ、明治維新は違うものになったはずだ。
これらの例え話は唐突だが、あえて歴史ものにした。だが、身の回りに起こることだって、相互に関係しあっているはずで、それも何らかの「運命」に導かれていることなのだ。
そういう意味でいけば、「亀田騒動」もひとつの「運命」となる。栄誉も没落も非難もすべて「運命」「宿命」であって、それらひっくるめてワンセットの「物語」を我々は見ていることになるのだ。

というわけで、少しずつ観点を変えて「亀田騒動」を書いてみました。
どの記事がよかったでしょうか?
どれも変? 西野氏くらい的外してますか?
でも10月22日「読売新聞」文化面の荻野アンナの記事よりも、少しは深く掘り下げれらたかと思う。
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