スポンサーサイト

物語を物語る

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アンパンマン考 9 人はなぜ悪を成すのか

物語を物語る

アンパンマンについての9回目ですが、今回は善と悪について。

一連の記事を書いているときに、長崎佐世保で銃の乱射事件が起こった。

「散弾銃乱射事件の現場となったスポーツクラブ「ルネサンス佐世保」前の献花台には、16日も親子連れなどが相次いで訪れ、花を手向けて倉本舞衣さん(26)と藤本勇司さん(36)の死を悼んだ。
 「今までありがとうございました」「天国からスイミング見ててね」。献花台には、メッセージを添えた花束が次々に供えられた。
 佐世保市の早田佳代子さん(44)と圭志君(11)は親子そろって同クラブの会員。倉本さんの教え子だった圭志君は「(事件を知って)びっくりした。優しい先生だった」。佳代子さんは「事件の前日もあいさつしたばかりでした。あってはならない悲惨な事件で、今でも信じられません」と涙をぬぐった。  毎日新聞12月22日の記事

また、香川では祖母・孫姉妹の殺人事件も起こった。
 「香川県坂出市のパート従業員三浦啓子さん(58)と孫の姉妹計3人が遺体で見つかった事件で、三浦さんの義弟の川崎政則容疑者(61)=死体遺棄容疑で逮捕=が、闘病中の妻(今年4月に死亡)への見舞金を病室から無断で持ち帰ったり、「治療費がかかる」と妻に嫌みを言ったりしていたことが、関係者の話でわかった。県警の坂出署捜査本部は同容疑者が金銭に異常に執着する性格だったとみて、動機解明のため、近親者から事情聴取を進めている。」
残虐な犯罪は後を絶たない。しかも犯人は短絡的な思考で犯行に及んでいる。
なぜ人はこうも簡単に残忍な犯罪を起こすことができるのか、と考えさせられた。

そんなとき、一連の「アンパンマン」の記事で「善と悪」について書こうとした際に、『人はなぜ悪をなすのか』(ブライアン・マスターズ著、草思社)という本を見つけた。題名に惹かれて読んでみた。
001_20071222215758.jpg


なかなか読みごたえのある本だった。
古今の連続殺人鬼や猟奇事件をおこした犯罪者、それにナチスのユダヤ人虐殺を取り上げ、人間はなぜ悪を行うのかを考察している。その犯行が詳細かつ冷静に書かれているので、読んでいて辛いところもある。しかしこの本は、残虐趣味で書かれたものではなく、彼らの「人間性」や「心の中にある善悪」を言及しているのである。著者がもし日本人だったらきっと「神戸小学生殺傷事件」や「女子高生コンクリート殺人事件」などを取り上げているだろう。また悪人とは正反対の善人たちも取り上げていて、人間の悪と善について論考している。


では、すこし抜粋してみましょう。
『人間は本性的に善であり、学習によって悪をおこなうようになると主張する人もいれば、これと正反対のことで、悪とはわれわれ人間の生まれた宿命であり、たえずそれに対処することによってしか悪に打ち勝つことはできない、と固く主張する人もいる。」「悪とは、城壁の外から都市を包囲する軍隊ではない。悪とはもともとその町に住みついていたものである。悪は守備範囲内の反乱であり、飲み水の中の毒であり、パンの中の灰である」(英国作家チャールズ・モーガン)。悪は内部にあるものだと認めながらもモーガンは、悪とは、まさにこの認識という行為をもって立ち向かい、武装解除しうる相手だということをわれわれに納得させようとしている』
善と悪は同居している。善に関するものをアンパンマン、悪に関するものをバイキンマンと置き換えてみれば分かり易くなります。
また『人間には二面性あって、善人が悪鬼となる危険性が常にある』と言っています。『一人の人間がいい性格あるいは悪い性格のいずれか一方を独占的にもっている、などといいはる人はいないはずである。
妻殺しのクリッペン博士は、あらゆる人間関係においてつねに暖かい、思いやりのある、無私の心を持って行動していたという。その彼が情婦と駆け落ちするために、自分の妻を情け容赦なく殺して遺体をバラバラにした。人間の二面性を持ったクリッペンの公判記録の序文にはこう書かれていたという。「人間の道徳性という領域は平坦な平野ではない。そこには山もあれば谷もあり、低地もあれば高地もある。また、ある種の荒々しい岩もそびえ立ち、恐ろしいほど荒涼としている」人間性の複雑さ、すなわち、いかなる人間の中にも善の力と悪の力が共存しており、それが、しばしば、あい反する性格を引き起こす』
『万人の胸の中にはたえず二つの衝動が同時に存在する。一つは神に向かう衝動、いま一つは悪魔に向かう衝動だ』とボードレールを引用していました。やはり、人の心の中では善と悪とが戦っていることになる。

『哲学の専門家でもないかぎり、自分の影についてじっくりと考えるなどということはだれもしたがらないものだし、そのしたくないという気持ちの根底にあるのは恐怖心である。われわれは自分の中にある悪魔を恐れている。というのは、ひとたびこの悪魔の欲求に気付き、それに耳を傾けたとき、それを制する能力が自分にあるかどうかを疑っているからである。だからこそ、そうした悪魔的な力について、あたかもそれが自分の外にあって客観的に見ることができるかのように語る方が容易なのである。パブやクラブの夕食の席で、最近起こった恐ろしい殺人事件について延々と語り合ったりするのは、この悪魔の存在を認識するかわりの代替行為の一つである。実際われわれは、偽装された内省、自分自身にもわからないように偽装された内省への逃げ道として、また一つ新たに起こった殺人事件を歓迎しているのである。
意識下においてわれわれは、抑制と放縦、常態と変態、拘束と解放とのあいだの衝突がたえず自分の内部で起こっていることに完全に気付いている。(この「たえず」というのは日常的にという意味ではなく、人生におけるさまざまな危機に際してという意味である)極端な抑制は機能停止につながり、放縦は過剰につながる。また。このわれわれの二重性を構成しているあい反する要素間の緊張の度合いがあまりにもわずらわしいものとなり、そのため、われわれはそれを押し殺そうとし、また、たいていの場合、うまい具合に押し殺してしまう。新顔の大量殺人犯がマスコミに登場すると、そのおかげで、抑えつけられていたわれわれの内なる論争に比較的危険性の少ない、客観的公開討論の体裁が与えられるのである。』
と今のマスコミ報道に群がる大衆心理も書いてありました。

この本には、悪に屈伏した殺人鬼たちが次々登場します。欲望の暴走を抑えることが出来ずに、獣的行為を行った連続殺人鬼の悪行を読むと、背筋が寒くなります。その残虐者の多くの者たちに欠如しているのが、「欲望を抑える自我」です。この抑制を育てるのが「子供のころの教育」にある、というのです。この本に限らず、「アンパンマン考」を書くにあたり、読んでみた本には必ず「幼児期の教育」の重要性を説いています。やはり「幼児期の情操教育」は重要だということでしょうか。
では「人はなぜ悪をなすのか」からその辺りを抜粋してみましょう。
『人に優しくしたり、愛他的になろうとするには情緒的技術を身につける必要がある。他人との生産的かつ温かい関係を築く、情操の形成。人格を形成し思いやりのある気質を身に付けるうえで、友愛とこころの結びつきである「共感」が重要である。』
『自分が愛される存在だと自覚することによって、人は慈悲深い人間になる可能性を伸ばし、道徳的な人間に成長する自由を手にすることができるが、そうした自覚がもてなければ、慈悲深い人間にもなるチャンスはまずない。とはいえ、自分が愛される人間だと自覚するだけでは不十分である。その一つがものごとを達成しようという欲求で、たとえそれが親密な家族内においてであろうと、何かをうまくやりたい、人に認められる人間になりたいという欲求が満たされることによって、自尊心の種がまかれるのである。情愛や共感と同様に、こうした力の相互関係はほぼ循環的ものである。他人を尊重しようという情動的意欲を身につけるにはまず自分自身を尊重しなければならないし、また、他人にたいする配慮なしには、自分自身について十分に考えるということもまずありえない。しかし、それでもなお、道徳的に均衡のとれた性格に向けて成長するかどうかは親の責任だ。』
『子供は、愛されているかぎりにおいては安心感を抱いていられるものであるが、自分が評価されていないように思われるときには、あたかも受けるに値しない愛を受けているかのように失望することがある。自分のもっている能力と得られた結果とのあいだにこうした食い違いが生じた場合、それによっては、何年にもわたって憤懣がくすぶり続け、まったく予想もしていなかった状況において突発的にその報復が起こることがあるからである。過小評価されている子供は、一般に、自分は父親や教師や学校の友達から絶えず不当に扱われているが、それについて腹を立てたりしてはいけないと思っている。というのは、いずれにしても自分はある種の愛を与えられているのだし、それで満足すべきだ、と考えているからである。そうした欲求と満足感を明確に意識するようになるにつれて初期的な罪悪感を生じ、子供は、恩知らずと思われることを恐れ、その恨みをまったくの他人に向けるようになる。』

と、親として耳の痛い話もありますが、自分の子供が凶悪犯人にならないためには肝に銘じておかなければならない話ではないでしょうか。
人間には善と悪の二面性があって、どちらに転ぶかは、その精神力にかかっているからです。

今度は善に関するものを抜粋してみます。
『道徳的規定は、善行と悪行のあいだに優位を競う争いを解決してくれるものであり、したがって人間の幸福には必要なものである。これがなければ、われわれは、自分自身との戦いの中でたえず動揺する自我を解体しまうはずである」「よいおこないをするということは容易なことではない。それには、努力と戦いと熟練が必要である。聖パウロは「悪に屈してはならない、善をもって悪を打ち破るのだ」といった。」
『安らかな安定した心の持ち主、自己抑制がある。』
『人間の善に境界があるわけでもなく、また地位も関係ない。人間の善は、予想外の場所、意外な人に姿を見せるものである。』
『英知とは、人間の価値を認識し、人間の邪悪性をはねつけることである。それは、明晰な頭脳と勇気をもち、人間の特性につきものの危険性に気付きながらも、決然として、喜びをもたらす仕事に身を挺することである。英知とは、何ら英雄的なことを成しとげないこともありうるのである。英知とは、往々にしてもの静かで人目につかないものである。』
『明確な思考にもとずき、積極的に愛を与える行為の中に善があるというのであれば、人類の歴史を飾る真の聖人の数は、悪行を成す人々の数をはるかに上回るはずである。しかし、必ずしもそうは見えないかもしれない。というのは、悪人の行状のほうが、平凡な善行のともなう静かなつつましやかさにくらべて、意気盛んで人目につきやすいからであり、また、その及ぼす影響もより劇的なものになるからである。さらに、悪人のおこなう行為は人の心を不安にするものを生み出し、人間の特質を開花させる善は、気づかれることもなく、探られることもなく、われわれの身近にひっそりと流れているものなのである。』
いい言葉の数々が心に沁みます。善を成すことは難しい、しかし、心の中で善は悪に屈しないようにしたい、それが願いです。

ユングは「人間は、だれもが、罪深さと高潔さというあい反するものをもっており、この両者のあいだの緊張感から精神をはたらかせるエネルギーの全体が生まれる」と説いている。
欲望は人にとって生きていくための活力となっているのも事実です。
しかし暴走する欲望を抑えるものも必要なのです。
それが自我=アンパンマンなのです。
善と悪の戦いは常に心の中で行われています。人間の中には消すことのできない悪の側面もあるのです。重要なのは、善が悪を飼いならしている状態にしておくこと。

要はこういうことです。
007_20071222215820.jpg
画像はアンパンマンがバイキンマンを背負って飛んでいます。

一番最初に戻って「なぜアンパンマンとバイキンマンは戦い続けるのか」という娘への疑問には「(娘が)生きている限り戦い続けるんだよ。バイキンマンに負けないように、心の中のアンパンマンを応援しょう」と答えました。
娘は分かったような、分らないような顔をしていました。それでも、「アンパンマンのクリスマススペシャル」を見て喜んでましたね。
もうそんなことはどうでもいいことだったのかもしれません。
ただ、物語を楽しめばそれでいいということなんです。



さて、「アンパンマン考」も次でやっと最終回です。
次回は「将来の娘と自分に宛てたメッセージ」です。
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

«  | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ --年--月 --日 (--)
  ├ カテゴリー
  |  └ スポンサー広告
  └ スポンサーサイト
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ 2007年12月 22日 (土)
  ├ カテゴリー
  |  └ アンパンマン考
  └ アンパンマン考 9 人はなぜ悪を成すのか
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。