スポンサーサイト

物語を物語る

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「蘇民祭ポスター」に感じる「恐怖心」。

物語を物語る

前回の「なまはげ」の記事ついでに、裸祭りのポスター騒動についても書いておきます。

まずは、妙見山黒石寺 蘇民祭の説明から
『蘇民祭信仰  「備後風土記」の中に蘇民信仰の逸文が残されている。  北海の武塔神が南海の神の娘をめとろうと旅に出、途中で日が暮れた。そこに将来兄弟2人が住んでいた。兄の蘇民将来は大変貧しく、弟の巨旦将来は裕福で家や倉を百余りも持っていた。武塔神は弟に一夜の宿を借りようとしたが断られ、やむなく兄の家に泊めてもらった。兄は粟の飯でもてなした。後に武塔神は八人の王子と帰る途中将来の所によって「かつての報いをしょう。おまえの子孫がその家にいるか」と問うと、「妻と娘がいる」と答えた。すると「茅の輪」を腰に着けることを命じた。その夜、神は蘇民の妻、娘を除いてすべてを滅ぼしてしまった。そして「私は須佐之男命なり、後の世に疫病あらば蘇民将来の子孫といい、腰に茅の輪をつける者は疫を免れるであろう」と申された。
武塔神・須佐之男命・牛頭天・薬師如来は同一神仏であるという。』

こうして見るとここにも「マレビト」がある。武塔神はまさしく「災いをもたらす来訪神」のマレビトである。

また蘇民将来の話としては「(ほ)(き)内伝」というのもある  
『南北朝~室町時代の初期、陰陽道の天文歴数の書。5巻。「金烏玉兎集」ともいう。安倍晴明に仮託されるが祇園社(八坂神社)に関連する者の偽作らしい。中天竺の吉祥天源王舎城の牛頭天王が巨旦大王の妨害に苦しみながらも、蘇民将来の助力を得て、后をもとめるという筋を源流に、天文暦数の百科辞書的な項目をそれに関連づけている。「続群書類従」第31輯上所収。江戸時代に版を重ねた。』
武塔神は牛頭天王とも同一である。この牛頭天王は、もともとインドの祇園精舎の守護神で、薬師如来の垂迹といわれる。疫病神として、京都祇園社・八坂神社などに祀られる。頭上に牛の頭を持つ忿怒相で表される。

まあ、そりゃ恐ろしい神様です。
その神様とも関連があるとなると相当荒っぽい祭りであることが分ります。

というわけで本題。

裸祭りポスター:JR東が「待った」…女性が不快感  「露出が不快感を与えると掲示を断られた黒石寺の蘇民祭ポスター」
 岩手県奥州市の黒石(こくせき)寺で繰り広げられる伝統行事、蘇民祭(そみんさい)の観光ポスターを市が駅構内に掲示しようとしたところ、JR東日本から待ったがかかった。「男性の裸に不快感を覚える客が多い」というのが理由だ。数十年作製しているポスターの掲示拒否は初めてで、市は枚数を200枚減らして1400枚とし、駅で張れない分は市内や首都圏で張るという。
 祭りは、市内水沢区黒石の寺で裸の男衆が蘇民袋の争奪戦を繰り広げる。疫病よけや五穀豊穣(ほうじょう)などを願い1000年以上続くとされる。今年は2月13日夜~14日未明を予定している。
 ポスターは写真3枚を組み合わせ、ひげ面で胸毛の男性がアップに、奥に下帯姿の男性たちを配している。
 昨年11月30日に市がJR東日本盛岡支社に許可を求めた。JR側は本社の判断を仰ぎ、12月3日に図柄を変えない限り掲示できないと通知した。市は下帯など一部修正をしたものの、版下がほぼ完成しJRが求める図柄の全面変更は困難だった。
 JR東日本盛岡支社の佐藤英喜・販売促進課副課長は「セクハラが問題になる中、公共の場でのポスター掲示の基準は厳しくなっている」と説明する。そのうえで「単純に裸がダメというわけではないが、胸毛などに特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」と判断したという。
 奥州市水沢総合支所の佐々木禅(ゆずる)商工観光課長は「市と業者とで図柄を決めた後(の掲示拒否)で、日程的にも変更はできなかった」としたうえで「観光客が減るかもしれないが、市内に集中的に張ったり、首都圏の観光施設に掲示をお願いしたりして祭りを盛り上げたい」と話している。【石川宏】毎日新聞 2008年1月8日より

20080108k0000m040155000p_size5.jpg


さて、今回のこの問題のポスター、みなさんはどう思われますか。
「セクハラだ」「気持ち悪い」「不快感を覚える」という否定的意見が大半を占めるなかで、「裸のどこが悪い」「伝統行事のポスターを断るJRが悪い」といった意見もあった。
「裸だからセクハラ」っていうのが、どうも争点になっているようです。だが去年まで同じような裸が写ったポスターは許可されているし、似たような裸祭のポスターが許可されないということはないだろう。
また裸がダメなら「小島よしお」や「たむら けんじ」らの裸芸人はテレビに出られないことになるし、相撲のポスターもダメだということになる。だからこのポスターが拒否されたのは、どうも「裸だから不快感だ」というのが問題点ではないような気がする。

では、私がこの絵を見たときの第一印象はといえば、単純に「恐怖」を感じたのです。
なぜそう思ったのか。
このポスターは三枚の写真を合わさったものであるという。その三枚の組み合わせが「異様」だと感じるのです。
①まず一枚目は、ポスターの一番上にある「後ろ姿の裸の男たち」である。
彼らは一様に無表情であり、顔を見せない格好で背を向けている。
「祭り」においては顔を見せないというのは死者を意味する。
盆踊りの祭りでは、編み笠を被るのは顔を隠すことによって死者の霊を宿す存在となる。また顔を隠すことは、死者の霊が生者の身体を借りている、ということを示している。それは面を付けたり、布で顔を隠すことによって、表現される。
だから、顔を見せるとか、お面を被るとかは「祭り」にとってとても重要なことなのである。
この写真の男たちが「顔を見せない姿」で写っていることが、私には「死者を意味している」と、感じ取ってしまうのである。実際には顔を隠すことなど必要のない祭りなのに、写真では顔を見せていないものを使っていることに何らかのメタファーを感じるということなのだ。
しかも、彼らが外に向かっていくように進んでいるように写っていることが「怖い」。
構図的に読み込めば、中から外へ、これは「生から死へ」を意味しているからです。かつて読んだ本にそんなことが書いてあった。(いまその本の名が思いだせない)
つまり「生的」なものを表現するなら、内側へ人物が向いていなければならない。しかしこの人々は外、彼方へ向いている。しかも、彼らに「顔」「表情」はない。これらを合わせて「死」を感じたというわけ。
また、この行列が、私には「死へ行列」「葬列」のように見えて仕方がない。イメージとしては第二次世界大戦のナチスのアウシュビッツ強制収容所ユダヤ人たちや、ガス室へ向かうユダヤ人の行列を連想するのです。それほど、生気のないものをこの写真から感じる。

②また「恐怖心」を覚えるのは、二列目にある人物の無表情だ。不気味な印象さえ覚える。
人は無意識の内に相手の表情を読み取り、そこから感情を受け取る。しかし、相手が死者の場合、感情を受け取ることができないので、そこに恐怖を感じるというのだ。これは解剖学者の養老猛司氏が言っていたこと。この人物の無表情は何を意味しているのか。私が見て咄嗟に思ったのは、これは「晒し首」だということ。もちろん肩もあるし、首をついている。だが目を伏せ方、無表情な点は、どこか晒し首のように連想してしまうのだ。
また、絵の中心に配置されている「この人たち」は何を行っているのでしょうか?
もちろん、祭りで行なわれている何かを表しているには違いないだろうが、見ている人にはそれが何だか全く分らない。伝えようという意志が感じられないところもとても「怖い」んですよ。
これが中央に配置された意図も全く分らない。
「意味不明」「理解できない」ものは、人にとって恐怖なのである。UFOでも幽霊でも何だか分らないという点が怖い。そこで、人はそれら恐怖の対象物に何らかの理由を付けて自分を納得させようとする。(UFOが出れば何かの見間違いだろうと思うとか、幽霊が出るのは、そこで殺人事件があった人の怨念があるからだとか、否定でも肯定でもいいから、とにかく何でも理由を付けて納得することなど)
でも、このポスターの中心にあるものは、本当に何をしているのか分らない。「あー意味不明」は怖いよ。
しかも、もっと問題なのは、その意味不明なものが、ポスターのど真ん中に配置されていることでしょう。
絵でもポスターでも中心点は重要である。そこにみな注視するからだ。
意味不明→恐怖の連想が中央にあることが、このポスターをより異様なものにしているのです。

③そして、下段の問題の毛むくじゃらの人物。
確かに手前の人物の形相は恐ろしい。なにを持ってしてこれを採用したのだろうか。(報道によれば、祭りの重要な人物らしいが)
この人個人に対してどうのこうのと言うのではない。
でも私はこの写真はとても「怖い」のです。
なぜか。
それは全体を写さないという構図に恐怖を感じるのです。
見えない部分、つまり手が見えていないということが、恐ろしさを倍増させているのです。
「見えない部分で何が行われているのだろう」「咆哮するほど感情が高まるものが、行われているのだ。この男は何をしているのか。この下に何があるのか」という想像力を喚起しているのだ。
しかも、この野卑な表情は尋常ではない。
しかも猥雑である。そう感じるのは、すべてこの構図にある。上半身裸で、下半身と手を見せないという配置がいけないのである。しかも裸、胸毛があるという「性的」な要素を強調している点が、より、猥雑さを倍加させている。
祭りを理解している人や関係者から見れば、この男が護符を見つけたことは分かっている。
しかしそのことを知らない人が見ると、その下で行われている行為が、卑猥なものや野蛮なものしていると連想させるのです。これはある意味「狂気の構図」となっているのだ。
そこに上の二枚の写真が重なるのである。
背を向けて「死」をイメージさせる男たち。
感情の分らない無表情な男と意味の分らない行為をする男たち。
そして、雄叫びを上げる野獣と化した男。しかも何が行われているのか分らない。
これらの対比が余りにも怖い。この一枚にそれが凝縮された図となっているのだ。
これはまさしく「恐怖の図」なのである。

島田雅彦氏は本の中で、フランシス・ベーコンの絵(20世紀の英国画家、グロテスクな人物像を描く)を最初に見たときに衝撃を受けてこう書いた。「得体のないものを見せつけられると、最初に恐怖が来て、防衛本能が働く。せめてもの救いは「恐怖」という言葉があることです。」
まさにこんな感じです。

また「白黒写真」であることも怖い。「白黒写真は非日常だ。」という話を聞いたことがある。つまり日常はカラーであり、白黒やセピア色などは特別な世界だというのだ。
つまり白黒写真は、非日常を意味する「祭り」を伝えるには有効となるはずだが、この写真においては、奇妙なモノが組み合わさって、変な想像力をかき立て、別の思考(恐怖心)へ導く役割をしている。

だが、祭り関係者には、何が、どこが、おかしいことなのかが全く分かっていないのだろう。「どうしていけないのか?裸がいけないのか?」ということになる。ワイドショーのコメンテーターも「いいじゃないか」「伝統行事だから批判するな」といって、一様にこのポスターを擁護し、JR側を批判している。
でも、この写真を単独で見たら、別の想像力をかき立てられ、きっと恐怖心を感じるでしょう。そういった写真なのです。
このポスターを擁護する人は、このポスターが伝統のある祭りを伝えるものであることを、既に知っている。それを知った上でこれを見れば、理解できるだろう。だが、この図柄を、何の予備知識なしに見たら、本当にこれがいい写真だと思うことが出来るだろうか。


しかし、よくよく考えてみれば、「死」をもたらす牛頭天王のからんだ祭りなのだから、「恐怖心」や「死」をイメージさせるものがあっていいということになる。
となると、私がこのポスターから感じた「恐怖心」は案外妥当なものなのかもしれない。
 
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

蘇民祭 に関するブログのYahoo、Google、Goo、Livedoor検索による最新の口コミ情報をお届けします!…

«  | HOME |  »

カスタム検索




FC2ブログランキング


すみません…、只今コメ返しをしておりません。しかし、しっかりと読んでおります。こんなわがままなサイトですが、気が向いた方は、どうぞ書き込んでください。

FC2ブックマークに追加

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

Wikipedia
developed by 遊ぶブログ
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ --年--月 --日 (--)
  ├ カテゴリー
  |  └ スポンサー広告
  └ スポンサーサイト
物語を物語る
 トップページ
  ├ 月別アーカイブ
  |  └ 2008年01月 17日 (木)
  ├ カテゴリー
  |  └ 歴史ネタ
  └ 「蘇民祭ポスター」に感じる「恐怖心」。
by AlphaWolfy

消えた二十二巻

Author:消えた二十二巻


全ての記事を表示する




このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。