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物語を物語る

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歴史ミステリー小説「東毛奇談」 第3章 1

物語を物語る

「敵は尊氏のみ」
次第に宮方の衰微が明らかになり、足利方が勢力を伸ばすと、尊氏家臣の中に、横柄な言動をする者が出始めた。特に尊氏の家宰高師直の所業は甚だ専横を極めた。
旧来の権力を軽んじて帝の代わりに木像でも置いておけと言い放つ。また神仏の威光を旧弊と見なして、恐れ多い寺社に火を掛けることなど全く気にかけず、源氏の氏神を祀る岩清水八幡宮、河内の聖徳太子廟、後には南朝皇居である吉野の焼き討ちなど、手にかけた寺社は数知れない。また恩賞に不満な家臣がいれば、勝手に他人の所領を奪えばいいではないかと唆す。人の妻に懸想をかけ、叶わなければ、一族もろとも討ち滅ぼした。
そして土岐頼遠などは、光厳上皇を犬だと罵りその牛車に矢を放った。佐々木道誉は天台宗寺院を焼き討ちし、公家や寺社の所領を押領した。彼らはその財力で毎日のように盛大な酒宴を催し、田楽や遊女など遊興三昧に耽ったのである。
これら婆娑羅大名らの諸行悪行には枚挙の暇がない。これほどまでに狼藉を行う者たちが世に時めき栄えたことは日の本の国開闢以来なかったことである。
そんな彼ら婆娑羅大名たちであるが、何故か一様に、足利方へと雲集したのである。日和見的に宮方へ付くことがあっても、結局のところは尊氏の下に集まるのである。何故であろうか。優柔不断と評され、名門育ちの茫洋さがある尊氏だが、一体どこに人を引き付ける魅力があるというのか。
それを一言で表現すれば、尊氏の持っている度量の広さに武将たちは魅了されたのではないだろうか。
戦乱を勝ち抜くには正義も悪も必要である。これらを束ねるには仏のような情け深かさと、広い心で何事も許し咎めずに捨て置くことのできる寛恕の心が求められる。この心根を尊氏は十分過ぎるほど持っていた。しかも彼ら婆娑羅大名たちを引き寄せる強い求心力と犯し難い不思議な魅力をも持ち合わせていた。この魅力は、同じ父母から生まれた弟直義にはないものであった。直義は頭は切れ、政務を執る能力は優れていたが、かれらの婆娑羅を許す程の柔軟性はなかった。

「尊氏さえいなくなれば、足利方は瓦解する」義貞はここに直感していた。
義貞は、無雑なほどの愚直さゆえ、彼ら婆娑羅大名を寄せ付けず、また生来の神仏への尊敬と畏怖から、彼らを許す心の広さを持ち合わせていなかった。そしてこのことを自身も十分に認識していたのだ。ゆえに、宮方の為にも、一族の為にも、狼藉の限りを尽くす婆娑羅どもを消し去らねばならない。また、彼らが棟梁と仰ぐ尊氏は倒さねばならない。たとえその願いが叶わなくとも、尊氏の顔に太刀傷のひとつも負わすことができれば、足利方が辛うじて保っている威信を揺るがすことができる。自らの命に替えても、その価値は十分にあると義貞は考えていた。
そしてこの決意のもとに、尊氏と一騎討ちを試みて敵中深く侵入すること、一度ならず、二度に及ぶことになる。
一度目は、建武三年、京都争奪戦が宮方と足利方とのあいだで繰り広げられた時期にあった。義貞は、京を占領していた足利方に、二万の兵を率いて奪回を試みた。足利方は予想外の大軍を目の前にすると、都を捨て四方八方に逃げ去ったのである。この乱れた足利方の状態を見た義貞は、この好機を逃すまいと、鎧を脱ぎ捨て、ただ一騎で足利軍に突進した。駿馬を飛ばし、抜刀して敵方を駆け抜ける。足利方には何事があったのか分からない。宮方の武将であるとも、まして大将義貞であるとは思いも寄らない。義貞は、尊氏を見つけ出し、その命を奪おうとした。尊氏ただ一人を斬れば足利方は霧散し、この戦も終わる。そう考えていた。目ぼしい所を駆け回り、必死で探したが、結局尊氏は見つからかった。すでに尊氏は事態を把握して前線から遠のいていたのである。義貞は尊氏がすでにここにいないと悟ると、やむなく本陣に帰った。このとき敵中深く侵入しながら、傷一つ負うことはなかった。
この後に、楠木正成、北畠顕家らとともに京を奪回して、尊氏らを九州にまで追いやることに成功し、束の間の平穏を過ごした。
二度目は、義貞北国落ち直前のこと。京を足利方の兵士二十万の軍(太平記の数は誇張されている)で固めていたが、ここに宮方の兵二万の軍勢で攻め入った。この合戦は、宮方の悲壮なまでの決意を秘めたもので、皆討ち死に覚悟の死闘となった。この決意が足利軍を押しまくり、そして後退させた。義貞の軍は中央突破を計り、足利軍を分断させることに成功すると、尊氏が本陣としていた東寺にまで迫った。それにこのあたりを守備していた足利方の兵までが引いたため、尊氏はわずかな士卒とともに寺に取り残されてしまったのである。ここに尊氏の命を狙っていた義貞にとっては、千載一遇の機会が到来した。出陣の際、帝に、東寺へ矢の一本でも射ち込まずには帰参いたさんと誓っていたから、願ってもないことであった。
あの尊氏が目の前にいる、そう考えただけでも自然と高笑いししまう。さっと馬から飛び降ると、弓を杖にして、引きこもる尊氏に対して高らかに呼びかけた。
「天下の争乱は打ち続き、人々は平穏な日々を送れずになって久しい。これは天皇御両統のお争いであるとはいえ、ただ今となってはこの義貞と尊氏との争いに他ならない。一身の功名によって、多くの人々を苦しめるより、この身一つで戦いを決しようと思い、義貞自らこの軍門にまかり越した。嘘かまことか、この矢を一本受けるがよい」
こういうと、二人張りの弓に十三束二伏の矢をきっとねらいを定めて引きしぼり、弦音も高くさっと放った。矢は二重に築いた高櫓の上を越えて、尊氏が本陣とした幕の中に入り、本堂の柱に付け根深くまで刺さり、ゆらゆらと揺れていた。
「さー、尊氏出て来い」
義貞は心底から叫んだ。これはひとつの賭けであった。それに尊氏は必ず乗ってくる、そう確信していた。尊氏も我と一騎討ちがしたいはずだ。尊氏の心の内は分かっていた。同じ源氏の名門に生まれ、大将として軍を率いる孤独を知るのはこの二人しかいない。互いにどちらか倒さねば先祖からの宿望を果たされない。そしていつかは直接果たし合わなければならない宿命なのだ。
今、まさにこの時が来た。

固く閉ざされた寺を義貞の兵が固めていたが、これから開かれるであろう門をじっと見つめ誰一人声を発することなく沈黙を守っていた。だが皆の心の中では、これから起るであろう決戦に興奮していたのである。
そのとき城砦と化した寺の中では、尊氏と彼を守る家臣らが楽観的にこの様子を窺っていた。この本陣まではそう易々と攻め入ってはこないだろうと家臣らは思っていたのだった。
だが義貞が放った矢が本陣まで届いたときに、さすがに足利方に動揺が走り、兵士たちが慌て始めたのであった。義貞の言を泰然と聞いていた尊氏だが、ここまでされては黙っていられない。
「帝を倒そうなど思ってもいない。ただ義貞と会ってから怒りを晴らさんがために戦ってきたのだ。義貞と自分が一騎討ちして決するならば願ってないこと。さあ門を開けよ、討って出るぞ」と言うときりっと立ち上がり、素早く名刀の太刀を手にした。義貞の誘いに尊氏も明らかに高揚したのである。ここまで挑発されては大将としての面目も立たない。
この様子を見た家臣上杉伊豆守が尊氏ににじり寄ると「義貞の言うことに惑わされてはなりません。殿の命は殿だけのものではありませぬぞ」と諫めた。
尊氏は思わずカッとなって家臣を睨むと「なにっ、太刀打ちで義貞に負けるとでも言うのか」声を荒げた。そして憤怒の顔つきになって出て行こうとした。
そこを上杉伊豆守は両手で尊氏の腰に抱きつき「殿は大将ですぞ。軽はずみなことはなりません。これしきのことで取り乱すようでは足利家代々の宿望を果たし、天下を治めることなどできませんぞ」と訴えた。
重みのある言葉であった。
尊氏は思わず、足を止め、そのまま腰を落とすと、目を閉じてじっと動かなくなった。上杉伊豆守もその横に座り、静かに大将見据える。周りに侍っていた家臣らも事の成り行きを案じるように固唾を呑んで様子を窺った。
尊氏は熟考した。いつものように心を落ち着けようとした。焦るな、考えろ、そう自分に言い聞かせた。(待て待て、義貞の行動は追い込まれてのことだ。奴にはそれしか策はないのだ。そうそれだけこちらの方が優位なのだ。敵に囲まれて、のこのこ出て行けば、これこそ義貞の思うつぼだ。焦るな。一騎討ちなどという甘い言葉に乗るな)
尊氏も武士である以上、一騎打ちというものに対して深い憧れがある。一族の長が雌雄を決するために家臣の前で剣を交える、思う浮かべただけでも身震いするほど厳然かつ甘美な情景だろう。だがそんなものに命を掛けるほど、己の命が今となっては軽くないことに尊氏は気付いた。義貞は今この状況に陶酔している。ならば、我はそれを無視しよう、捨て置くことで、優位になるはずだ。そう思い至るといつもの尊氏らしい鷹揚さを持った表情で微かに笑みを湛えながら、静かに目を開けた。そして、もう大丈夫だといった表情を上杉伊豆守に向けた。

そうこうしている内に、足利方の土岐・石堂・吉良の軍が引き戻り、義貞軍を取り囲むと、逆に攻撃を開始した。
尊氏の籠もっている寺に変化がないのを見て、義貞は悟った。尊氏は出てこないと。ここに留まっている時はもう残されていなかった。今日限りの命と覚悟を決めての戦いであったが、この賭けに尊氏は乗ってこなかったのだ。このような好機は永遠にやって来まい、と思うと一人でも討ち入ろうとしたが、既に数万の敵が、ここに義貞がいると知って攻め寄ってきていた。やむなく義貞は退却の命を出した。
ただ宮方の軍は敵陣深く侵入したため、包囲殲滅に会って名和長年ら名だたる武将が討ち取られてしまった。それでもどうにか義貞軍は坂本の本陣までたどり着いたのであった。こうして宮方は完全な大敗をした。
「すべて水泡に帰したか」義貞の落胆は大きかった。京都攻防戦の最後の賭けに出て、無残に敗れた。戦の勝ち負けは時の運なれど、この敗戦の意味は大きかった。
この攻撃に全てを賭けていた。尊氏を同じ舞台に引きずり出し、あわよくばその首をかき切ってやろうと思い描いていた。ことならずとも、大将に一太刀でも浴びせられれば、足利の威信に傷がつく。それは尊氏の命と自らの命と引き換えにしてもいいさえ思っていた。現状足利方は尊氏一人でどうにかまとまっている。尊氏さえいなくなれば、足利方は分裂し、宮方は一気に巻き返しを図れるだろう。大将同士の一騎討ちはそこを狙っていたのである。だが尊氏を目前にしながら結果は無残であった。
ただ尊氏も今一歩で出てこようとして、踏みとどまったという事実を義貞は知らない。尊氏の思慮深さに義貞は遂には勝てなかった。
こうして宮方は壊滅的打撃を受け、大将である義貞も追い詰められることになった。
そこに追い打ちをかけるように、あの事件は起こったのである。
後醍醐天皇と尊氏の和睦の件であった。
後醍醐天皇はこの情勢から脱却すべく、今まで頼ってきた義貞ら一族を裏切った。尊氏と密かに和議を結び、秘密裏に都へ帰ろうとしたのである、あっさりとその態度を変える変節感は、真に公家らしい行為といえるかもしれない。
後醍醐天皇は新田と足利の源氏を互いに争わせて、武家の勢力を殺ごうとしているのではないか。それとも優位な方へ擦り寄り、利用しようとしているのか、義貞のみならず、一族の者も感知していることであった。そう疑えば一々思い当たる。天皇のみではない。周りに巣食う公家どもの東戎と見下すあの言動。宮方として戦いながらも、公家衆に翻弄されていると感じると、なんともやり切れない思いになった。
天皇は、尊氏との密約が新田方に露見すると、新田一族の激高を収めるためか、皇位を恒良親王に授けて、義貞らに北国に落ち延びて再起を図るように命じたのである。新帝を付けられたとはいえ、義貞らは見捨てられたに等しかった。しかも厳冬の中を敵に追われながら進軍するのである、味方の戦力は減るであろう。それに、例え彼の地に着いたとしても、足利方の斯波高経が大軍を持ち威を張っていた。そんな中で味方となる勢力があるだろうか。考えただけでも、絶望という言葉のみが限りなく心の中を覆いつくす。

その夜、義貞は漆黒の闇を馬で駆け、比叡山にある日吉大社に行くと、一族の命運を祈願した。

寒々とした空は、いつしか白々と明けた。
その日の早暁、天皇は京へ去って行った。取り残された義貞らは、それを見送ると、数日後の内に、兵七千を引き連れ北国に落ちて行った。その行軍中に、寒雪は容赦なく責め、寒さと疲労で軍が徐々に弱体化したのであった。そこに足利軍が攻めてくる。多くの兵を失い、精神的にも肉体的にも衰弱しながらも辛うじて越前にたどり着いたときには味方の兵は半分に減っていた。



琴音は会社の手配してくれたビジネスホテルに入った。夕食を済ませて部屋に入ると、すでに夜の8時近かった。
明日の朝10時には、真船が迎えに来てくれることになっていた。今日の続きで新田伝承の神社仏閣を巡る予定である。すべては真船に任してある。
琴音は、シャワーを浴びてすっきりしたあと、持参したモバイルノートパソコンを立ち上げ、一日を振り返ってみた。その日のできごとを思い起こしてPCに記録しておくのは、いつもの習慣である。普段なら仕事のことばかりが浮かぶが、今日は違う。なぜか真船の顔ばかりが現れる。琴音にとって不思議な感覚であった。初対面の人にこれほど打ち解けたことは今までにない。恋愛感情とは別に、真船にはどこか安心感を抱かせるものがあった。
別れ際に、真船から雑誌の切り抜きらしきものを数枚渡されたことを、ふと思い出した。それを手にしてみる。真船の自説が掲載された歴史雑誌をコピーしたものだった。
題は、「徳川家康改姓問題」
まずはじっくりと読むことにした。

『一五六六年十二月二十九日、松平家康は朝廷の勅許を得て、徳川家康と改姓した。
この改姓申請は、最初朝廷から拒否された。その理由は、この改姓が実は復姓申請という過去に前例がなかったことと、系図自体があやふやであったことからであった。
そこで家康は、三河国誓願寺の慶深が関白の近衛前久と交友があったことを知ると、誼みを通じて多額の献金をしたのである。それを受けた前久は仲介役となって神祗官吉田兼右を動かした。そこで吉田兼右は計略を用いた。偶然にも万里小路家から先例となる記事を見つけるという形をとったのである。それを前久が、正親町天皇に申し上げたところ、家康の改姓を許可する勅許が下りたのである。
この時期家康は、三河一向一揆を平定し、三河国の統一を果たしていた。そこで家康は三河一国の支配者として朝廷より認定された「三河守」という官職が何としても必要となった。しかし松平家という低い家格ではまず任命されることはない。三河守の官職は位階が従五位下に相当し、この官位を得るためには、源氏・平氏・藤原氏・橘氏のいずれかでなければならない。そこで家康は、近衛前久や吉田兼右に多額の献金をして家格を上げることに成功し、翌年に従五位下三河守に任官したのである。しかしここで認められたのは藤原氏を名乗ることであった。徳川家は本来、源氏であり、これが二流に分かれて藤原氏になった、という部分が認められたに過ぎなかった。家康が本来求めていたのは清和源氏新田流である。
当時の書状は藤原家康で書かれていたが、私的な書状には源家康と署名している。一五八六年に里見氏に宛てた手紙には「徳川家と里見家は同家の新田(源氏)の出である」と家康自身が新田源氏だと公言している。つまり従来いわれているように家康が征夷大将軍になるために源氏を名乗ったというものではなく、かなり早い段階から源氏を名乗っているという事実がある。これは重要な点で、しかも家康が新田源氏に執着している節があるという点も無視できない。
このあと家康は、吉良家から源義国以来の系図を入手して、神龍院梵瞬が系図を調えて徳川家は系図上、新田源氏になることができた。「御湯殿上日記」には、征夷大将軍就任の返礼として上洛した家康が、朝廷から「新田殿」と呼ばれていたという。このことで家康は上機嫌であったと伝わる。数ある源氏の中から、なぜ新田にこだわったのか。その理由は、実は、家康の祖父・松平清康にあったといえる。
松平清康は、松平家七代目で武勇が高く、慈悲深い人物であったと伝わっている。清康の功績は譜代家臣の構成、城下町の形成を行い、西三河をほぼ平定した。しかし清康が二十五歳のとき、松平宗家の内紛が起こり家臣に刺殺されてしまった。世にいう「守山崩れ」という事件である。
そして清康が名乗っていたのが新田源氏の一支族・世良田氏である。世良田氏は、後に家康が名乗ることになる徳川(得河)氏と同系である。つまり家康が新田源氏を名乗る以前に、清康が新田源氏を自称していたことになる。
また松平家の菩提寺の大樹寺では、清康は世良田次郎三郎清康と記されている。これらが示すことは、松平家は新田源氏についての情報をなんらかの形で知っていたということを示しているのではないか。大樹寺は松平家の本拠地とした岡崎にある。一四七五年松平四代目親忠が創建したもので、松平家八代が眠る寺である。ここで問題なのが『大樹』という寺名だ。大樹とは将軍を意味する言葉であり、寺名としては珍しい。この寺が建てられたのは、家康が将軍になる百三十年も前のことであった。将軍という名を持つ寺を開基したのは親忠の代で、松平家が将軍になるというにはほど遠い一土豪に過ぎなかった。そう考えればなぜこんな大層な名前を付けたのかという疑問が残る。
ただ分かるのは、松平家は将軍になりたいという大望があり、新田一族にも将軍=武家の棟梁になりたいという宿望があった。その大きな希望が新田源氏という名前で結びついたということだ。
ではここで新田源氏を名乗り、将軍になった家康について考察する。徳川改姓問題は、家康が朝廷に清和源氏新田流であることを認めさせて、松平家の家格を上げるという単純なことではない。家康は「とくがわ いえやす」という氏名になるまで改名、改姓を何度か行った。戦国武将がこうゆうことを行うのは別段おかしいことではない。しかし家康の場合は事情がだいぶ異なるのだ。それは、家康が自分自身で名前を一文字、一文字変えていった点にある。
通常、武士が氏名を変えるのは、本家から分家に移る、朝廷・将軍・主君から姓・氏を戴く、または一字賜う、養子に行くなど様々ある。だが家康の場合は、どれにも当てはまらない。徳・川・家・康、と自ら一字ずつ変えているのだ。それではどのような経緯で変えていったのか見てみよう。
まず、「徳川」からであるが、松平宗家の家康が朝廷に願い出て変えた姓氏は、「新田」でも「世良田」でもない「徳川」であった。この徳川は上野国新田荘の得河(川)郷からきている。では三河にいた家康はどのようにして得河(川)郷のことを知り得たのだろうか。そして、それを新田源氏と結びつけるという発想はどこから得たのだろうか。すべてが疑問であり、だれもこの点について明確に説明をする人はいない。
では家康が自分自身で氏名を付けたなら、その文字、漢字に意味があるはずである。そこから考えてみよう。
「徳」……関白近衛前久がその子信尹に与えた書状に「徳川は得川、根本此字で候、徳之字は子細候ての事候」と(得)の字を(徳)の字にわざわざ変えているのが分かる。(徳)の字に深い意味があるとみて間違いない。中国では戦乱を終わらすには「徳」が必要であるといわれ、また太平記の序文には「国の安泰と危殆の由来を考えるに、すべてを覆ってあますところのない天の徳というものであり、明君は、この徳を身に備えて国を治める」とある。つまり家康は戦国時代を治め、天下統一の意志を表明しているのではないか。
「川」……川の意味は、穿つと同系で低いところからうがつように通る川のこと。「河」という字は大きなかわを意味する。(例 黄河、運河) 徳川郷は、得川とも得河とも表記されどの字を当てるかはとくに決まっていなかった。しかし家康は「川」の字も指定していたのである。徳川が徳河と表記されることは絶対にないからだ。そこで、川という漢字が意味するところは、松平家が低い家格から草創していることを示しているのではないかと推測したい。
「家」……住居という意味以外に代々伝えてきた家または、そう見立てられるもの。先祖から受け継がれる血族集団。家名、家業、芸術、武術の流儀、または代々仕えてきた主君の家筋。といった意味がある。
一五六三年(徳川への改姓三年前)に松平元康から家康へと改名している。元康の「元」の字は、今川義元から一字与えられたもので、今川義元が織田信長に討たれ、今川家より独立するためにも改名が必要であった。では「家」の文字はどこから持ってきたのか。通説では松平家直系では「家」のつく人物は少ないが、形原松平家や桜井松平家などに「家」の名をもつ人物が多いのでそこから取ったという説である。しかしこれはおかしい。なぜならば松平宗家の家康がわざわざ庶流の名前を自分で付けなければならない意味が分からないからだ。
そこで注目したいのが、源義家にあやかって付けたという説だ。源義家は東国武士において武門の誉れが高く、武家の棟梁である。八幡太郎義家とも呼ばれ、その系列から源氏宗家、新田家、足利家を出す清和源氏の名門である。家康が新田源氏を名乗ることを考えると、元康から家康へと替えたのは、これからの布石と考えても良い。
「康」……危なげない、丈夫、太い道、または筋が通っているなどの意味がある。
家康の幼名は竹千代であったが、十四歳のときに元服、そのときに松平次郎三郎元信とした。この時期家康は、今川義元の人質状態となっていた。一五五七年初陣の際に祖父の清康の武名にあやかりたいと、今川義元に申し出て、元信から元康に改名した。そして家康はこの清康を大変尊敬していた。その清康こそが新田源氏である「世良田」氏を名乗っていたのだ。
家康は自ら氏名を付け、系図を買い、家格を清和源氏と結びつけた。この行為がかなり早い時期から行われていたことが重要である。家康が徳川へと改姓したのが、将軍になる37年も前に行われていたことでも分かる。このことが、家康にとってどれほど役立ったか計りしれないからだ。
この点を、他の天下を狙った武将と比べると分かりやすい。まず織田信長は、平氏を名乗り、前例のない平氏の将軍職を認めさせようとして、朝廷と数年にわたり争ったこと。豊臣秀吉は天下統一後から出自対策をして、結局は武家の棟梁である将軍職につけずに方向転換したこと。また秀吉は、室町一五代将軍足利義昭の養子にしてもらうことにより、源氏になろうとした。しかし落ちぶれた義昭にさえ拒否されてしまったことなど、家格を上げるために行った朝廷対策にいかに苦慮したかが分かる。
こう考えれば、家康の出自対策が非常に早い段階で行われたことになる。将軍職を得る37年前から、源氏であると広言し、行動して、世の中に浸透させたことも重要である。源氏→将軍職→幕府開府という一連の流れをスムースに行えたのも、すべては家康が源氏の名を手に入れたことに因る。
それでは、家康はこの発想をいつ、どこから入手したのだろうか。それとも家康の祖先から持っていたものなのかと、疑問がわいてくる。松平清康はいつどこで、埋もれていた新田源氏に関する情報を入手したのか、それになぜ新田源氏にこだわったのか疑問は尽きない』

琴音は一気に読み終わると、ふうーと息をついた。
(なるほど新田と家康がどこかでつながっているのが、良く分かったわ。それに真船さんはどこまで家康の謎に近づいたのだろうか……) 歴史の闇の部分にたまらなく引き付けられてしまうのを感じた。
そのコピーに続いて、手書きの用紙が二枚つけられていた。一枚は南朝方の行方についての問題点を列挙したものらしい。これは昼間に真船から聞いたものであった。
(そうか衰微した南朝方がどこかで松平家と結びついたわけか。そのキーワードが新田というわけね。それを言いたいのか) 琴音はひとり納得するともう一枚の用紙を見た。
滋賀・愛知県の地図とともに説明文がつけられていた。
『信濃伊那谷の飯田から、木曽山脈を抜けると三河に入る飯田街道がある。 (現在の153号)これは南朝の本拠吉野から信濃を抜け東国、東北を結ぶ南朝方にとって重要な街道であった。実際に、宗良親王が信濃から吉野へ、長慶天皇の東北への東下の時などに使われていた。そして国境の伊勢神峠を越えると三河の足助という宿場町に抜ける。ここは中馬街道とも交わる町で、塩の継ぎ立てで賑あう所であった。
この辺りはその名の通り足助氏の領地であった。彼らは終始南朝方であり、義貞の鎌倉攻めにも参陣していた。足助氏は清和源氏の流れを汲み、太平記に何度もその名前は登場する。また足助氏は猿投神社神官で本山派修験道場の統率者・鈴木氏やこの地方の有力者・中条氏をまとめて奥三河に南朝拠点を作った。三河は吉良、一色、細川、仁木などの足利方の拠点であり、足利軍の発進基地でもあった。そのためにも矢作川上流の奥三河にその動静を監視する南朝の防衛拠点を作る意味があった。
そこに参加してきたのが児島高徳である。児島高徳は太平記の作者ではないかと目される人物の一人である。と同時に太平記以外にその名が出てこないために実在の人物ではないという説もあり、不思議な人物である。その児島高徳が、三河に一時期土着していたという。梅坪館という住居を建てて、高徳の一族・三宅氏を呼び寄せて住んだ。三宅家の菩提寺である広済寺、広瀬神社には高徳を祀っているという。また三宅家は、徳川時代は挙母・田原藩主となり明治維新まで続いた。
この児島氏はもともと五流尊瀧院という修験道の本山を伝える家であった。平安、鎌倉時代には天皇や法皇の熊野や大峰詣の際には必ず児島の五流山伏が先達を勤めた。児島高徳はこの家を継いだ。高徳は修験者や山伏の棟梁であることを意味する。その高徳が奥三河に南朝拠点を作り、一族を呼び寄せた。
そして言うまでもなく、奥三河は徳川、松平氏の発祥の地である』

山伏、修験道、塩の道、産鉄、漂白民、山の民……、奥三河、松平徳川、家康、新田源氏……、そして天狗、雨月常太郎!。と末尾に書かれていた。
(すべてがつながっていくのね。でも最後の雨月常太郎ってなに?)
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