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週刊「歴史のミステリー」第3号

物語を物語る

デアゴスティーニのビジュアルマガジン「週刊・歴史のミステリー」の第3号目が発売された。
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目次
歴史検証ファイル「豊臣家は大坂夏の陣で滅亡したのか?」
         「アメリカ大陸を初めて発見したのはコロンブスだった」
疑惑の真相「川中島の戦いはフィクションだった!?」
芸術の裏側「東海道五十三次・歌川広重」
他は「アトランティス大陸の謎」「地下都市・カッパドキア」など。


まず、「豊臣家は大坂の陣で滅亡したか?」から。
この本では、「大坂夏の陣で自害したはずの豊臣秀頼が薩摩に逃げ延びた」という伝説を追っています。

①秀頼・淀殿の遺体が発見されたのか?
秀頼・淀殿母子は自刃する前に、矢倉に火を放ったために発見されたときは遺体が焼け焦げていて、どれが秀頼らの遺体か特定することができなかったという。秀吉秘蔵の名刀「吉光」と一緒に出てきた黒焦げ死体を秀頼の遺体であると断定したにすぎないことから、秀頼生存説が出ている。

②真田幸村は討ち死にしたのか?
秀頼自刃説に決め手がないのは、秀頼の死体が確認されなかったという点にある。そのとき付き添ったのが真田幸村であるという。真田幸村には7人もの影武者がいたこと、幸村であるとされる首検分をした叔父の真田信尹は、その首が幸村のものであるか確認することができなかった。これらのことが第三者である、英国・東インド会社平戸商館長リチャード・コックスの日記に書かれている。

③大坂城からの脱出は可能だったのか?
大坂城の抜け穴を紹介し、秀頼脱出には織田有楽斎、加藤清正の子・忠広、福島正則らが関わったのではないか、という説を紹介しています。また上田秋成の書からの説も載せています。

④秀頼は九州に落ち延びたのか?
1925年に発表された高柳光寿の「豊臣秀頼薩摩落説」を中心に、秀頼は島津家に保護されていたという説を解説しています。

⑤淀殿は大坂城で自害したのか?
秀頼同様、遺体の確認ができなかった淀殿にも、逃げ延びたという伝説がある。その中から、上州の生存説を紹介している。
大坂城を囲んでいた秋元長朝は、そこで半狂乱となっていた女を助け、自分の居城である総社城(現・前橋市)に連れ帰った。その女こそ、淀殿であるという。そこで秋元は淀殿を我がものにしょうとしたが、それが出来なかった。そこで秋元は淀殿を殺したといわれる。または淀殿自らが、川に身を投げたて死んだというのだ。どちらにしても利根川で死んだことになっている。

「歴史のミステリー」の本では、秀頼生存説はこのあたりまででした。

私も「秀頼生存説」は本で読んだことがありましたが、かなり昔であり、今となっては記憶があやふやでした。小林久三の本で読んだことがあったと思ったのは、どうも「織田信長生存説」でこれも薩摩へ落ちて行った説だった。どうもこの説と混同してしまう。
そこで早速、図書館に行って関係本を借りてきました。

借りてきた本は「秀頼脱出」前川和彦著・国会刊行会。

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この本「秀頼生存説」に関する逸話が多く載っている。
いくつか逸話を拾ってみました。
「片桐且元が、大坂の陣のあと淀君と秀頼の骨を拾い出してきて、鴫野弁天の境内に埋葬したといわれている。明治になって、そこに軍事施設が建てられることになり、2人を祀ってある神社を大融寺に移転しようとして掘り起こしたところ、淀君の墓の下からは骨壺が出たが、秀頼の方には何も埋まっていなかった。」
「天王寺の合戦で、幸村の首級がいくつもあったことや、戦功一番と思われた西尾仁左衛門に恩賞が与えられなかった」
「徳川方に加わっていた真田家でさえも「佐衛門佐君伝記」の中で幸村の薩摩落ちを書いている。そして、二百年経った文政十一年(1828年)に、松代藩主・真田幸貫が平戸藩主・松浦静山にその秘密を語ったと、静山は「甲子夜話」の中に記している。それによれば、秀頼は5人の護衛とともに熊本まで辿りついたが、加藤家では後難を恐れて薩摩に送り出し、島津家では仕方なく引き受けたものの、密かに幕府に届け出て、幕府では「いまさら秀頼が生きていても、世間では死んだことになっている人物だから、天下に大勢はない。だから薩摩から外へ出してはならない」ということで、そのままにしたのだ、という」

また、秀頼の遺児である「国松の行方」がカギになりそうだ、と指摘している。
国松は大坂城から脱出したが、伏見の商家に隠れているところを発見され、京を市中引き回しの上斬首されている。しかし、斬首されたのは国松の身代わりで、付き添った者(大野治房、治胤)とともに逃げたという説が載っている。この国松生き残り説も根強くあって、各地伝説が多く残っているという。また豊臣遺金・多田銀山の埋蔵金の行方などにも触れており、この本の最後には島原の乱に秀頼(または息子)が参戦していたという説も書いてあります。

川中島の戦いはフィクションだった
これは、「甲陽軍鑑」に書かれた話は、作り物だった、という話。「甲陽軍鑑」が史料的価値の低い書であることから、川中島の戦いに出てくる「啄木鳥の戦法」や「武田信玄、上杉謙信の一騎撃ち」は創作ではないのか、ということが書いてある。また、武田信玄の軍師・山本勘助は実在せず、創作されたものだという内容。

山本勘助が実在したのかどうかは、江戸時代から昭和に到るまで多くの史家が疑ってきたことである。ただ、現在はこの人物が実在していたことは確認されている。信玄直筆の古文書「市川文書」の中に山本勘助の名が記された手紙が昭和44年に発見された。そして手紙の内容からいって山本勘助が重要な役目を担っていた人物であったということは分かっている。
ただ、「山本勘助」なる人物は、実在はしていたが、実際にあれほどの活躍をしたかどうかの確証はない、というのが実情であろう。
まあ、軍記物の物語としては面白いので、ある程度の創作はいいんじゃないかな。信玄と謙信の一騎討ちがないと盛り上がらないし。

歌川広重の東海道五十三次・描き込まれた六本指の人々
紹介されたのは図は、12番目の宿場図「三島 朝霧」。この中に描かれたの人物の足の指が6本ある。これを発見したのは人文地理学者の西岡秀雄氏。その後の調査で、7枚の絵の中に6本指の人物を持つ人物があり、かなりの割合で書かれているのだという。単なるミスではなく、作為的に描かれたものであるというのだ。
この謎に対して、いくつかの説を載せている。道教・神仙思想説、かくし落款説、写楽オマージュ説などがあり、どれも興味深い。記事としては短いものだが、今号で一番面白かったのはこの記事だった。

で、6本指といって思い出したのが「豊臣秀吉」
こちらは手の指が6本あったという伝説だ。
それは、井沢元彦の「逆説の日本史・11・戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎」に詳しく書かれている。これもかなり興味深い説です。興味のある方は読んで見てください。

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消えた二十二巻

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